「ああ、うん。いいよな、俺も好き」

 成沢(なりさわ) 律希(りつき)は、愛想よく返事をした。同級生である田中が、流行りのアーティストの新曲の感想を律希に語ったところだった。

 チャイムとほぼ同時に二時間目を担当する教師が教室に入り、クラス中に散っていた生徒たちがきちんと自分の席につく。田中も例外ではなかったが、律希の席からは田中がこっそりと片耳にワイヤレスイヤホンをつけるのがよく見えた。

 一瞬見えた田中のスマホ画面には、先ほど彼がどれほど優れているかを散々熱弁していた曲のタイトルが表示されていた。教師の目をかいくぐって授業中にまで聞こうとするあたり、よほど気に入っているのだろう。

 律希は安堵する。実のところ、ついさっき自らが放った言葉には言いかけてやめたフレーズがあった。

『俺も普通に(・・・)好き』

 言わなくてよかった。咄嗟(とっさ)の判断は正しかった。

 ──普通に好き。そのセリフは一見ポジティブな同調に思えるが、まあまあ、といったニュアンスを含んでいる。少なくとも律希はそういうつもりで、そのフレーズを言いかけた。


 高校二年生、五月。クラスの顔ぶれが新しくなって、ひと月が経った。

 特に問題のあるような生徒はいない。みんなそれなりに仲良くしている。とはいえ、まだ互いに距離感や価値観を見定めている時期だ。

 そんな中で律希は人一倍、不和が生じないように気遣いができているという自負があった。

 人間関係は些細なことの積み重ね。そして十七才である自分にとって、同級生間での立ち位置は重要だ。律希はそう胸に刻んで、学校という狭い社会を生き延びている。

『律希のこと、うらやましいよ。見た目もいい、性格もいい、それを素でやってる感じがさ』

 以前、さして仲良くもない同級生からのそんな言葉に腹を立てたことがある。素でやっているなんて心外だ。こっちはちゃんと考えて、努力しているというのに。

 けれど律希はその怒りをすぐに飲み込んで、受け流した。

 ──ああはなりたくない(・・・・・・・・・)

 心の中にこびりついているそんな気持ちのおかげだった。気を遣うこと、理解されないこと、そんなの全部我慢できる。

 律希の中に存在している反面教師の偶像。お守りのように握りしめているうちに、その黒い感情と共存するのは当たり前になっていた。

 それによく考えてみれば、同級生が見ている律希が取り繕った姿だとバレていないのは、喜ぶべきことですらあった。

 自分の立ち振舞いは間違っていない。自然に見せることができている。だから大丈夫だ。そんな律希の安心感を、例の同級生の言葉は裏付けてくれているに等しかった。

 うまくやれているという自信があった。今だって『普通に』なんてたった一言の本音を言いとどまったことで、田中の気を悪くせずに済んだのだ。

 律希は田中と同じようにイヤホンを片耳に押し込んだ。音楽アプリの履歴から、田中が熱愛する例の曲を再生する。

 この曲を好きだと言ったのは嘘じゃない。この世に嫌いな曲なんてない。どんなに好みとかけ離れた音楽だって、何かしらの学びはあるからだ。



 家の玄関に飛び込むと、必死に抑えていた(はや)る気持ちを解き放つ。帰宅後のルーティンをこなすこともせずに、律希は自室のノートパソコンの画面に釘付けになる。律希の両耳を、数年前に父親から譲り受けた高級ヘッドフォンが覆う。

 ツミ(・・)の新曲が動画サイトにアップロードされた。学校でその通知を見た瞬間から早く見たくて聴きたくて、待ち遠しくてたまらなかった。

 スマホという小さな箱の中の再生ボタンさえ押せば、ツミの創造した世界を一瞬のうちに共有してもらえる。けれど、休み時間や帰り道なんかでそれをするのは我慢した。

 だって、ツミは神様(・・)だから。

 ツミというクリエイターは、律希の憧れで、尊敬の対象だった。そんな神様(・・)の作品を片手間に安物のイヤホンで聴くなんて、(おそ)れ多いし、勿体ない。

 ──今回の新曲も、最高だった。

 律希がツミの世界を分けてもらうとき、はじめは、再生ボタンを押してから目をつぶる。繊細な音の粒をひとつだって逃さないように、聴覚を研ぎ澄ませる。

 二度目は、画面から目を離さない。ツミの曲のMVといえば白無地の背景に歌詞が踊るようなテロップが流れるのがお決まりだ。

 ひとつの音も聞き逃さずに、画面を穴が空くほど見つめて、メロディの構成や歌詞の意味を考えるところまでが、律希の考える『聴く』ということだった。

 ツミの曲は人気がある。ポップでキャッチーなメロディにたまに毒気が混ざるようなところが若者たちを中心に注目を集めていた。けれど律希が特に好きなのは、ツミが(つづ)る歌詞だった。

 一見テンポを重視したような言葉選びには、深いところにツミの本音が隠されている──ように思える。それは毒であることも、恥ずかしいくらいの賛美であることもある。

 何にせよそれをすぐには気づかせないように、親しみやすく明るい歌へと昇華させているのがすごいところだ。

 性別や年齢などの素性をまったく明かしていない正体不明のクリエイターであるツミだが、その本心を自分はちゃんとわかっている──律希は、そう自覚していた。

 繰り返し聴いて、余韻に浸って、夕飯や入浴のときは頭の中で再生させる。そうしていると──心にふつふつと湧いてくるものがある。


 すっかり夜が更けた頃、律希は再びノートパソコンを開く。自室を照らすのを常夜灯のささやかな光だけにしたのは、自分による自分のための、一種の演出でもあった。

 目的のソフトを立ち上げると、マイクを持つ少女のキャラクターイラストがタイトルと共に表示される。キャラクター名と兼ねたこのソフトのタイトルは『TOMORI』という。合成音声によって楽曲のボーカルパートを制作するためのものだ。

 律希が作曲を始めてから一年は経っている。今までに作り上げた曲の中には投稿サイトで再生回数5000を達成したものもあるし、大して稼働させていないSNSのフォロワーは1500を超えた。

 律希はその結果に満足していた。

 リスナーから送られるコメントには、曲の雰囲気がツミに似ているという旨の内容も多い。好意的なものがほとんどだったし、ツミに似ていると思われるのは律希にとっては嬉しいことだった。

 ノートパソコンのキーボードを叩き、TOMORIに歌詞を入力していく。いまいちだと思っていた部分の改善案が、ふいに思い浮かんだ。

 素晴らしいと思えるものに触れたときは打ちのめされてしまうことだってあるけれど、律希はどちらかというと意欲が湧くことの方が多かった。

 自分もやりたい。こんなふうになりたい。なにかを作りたい。表現したい。そんな感情が、律希のことを突き動かす。

 夢中で作曲に打ち込んでいると、背後でドアノブが下がる音がした。律希は素早くTOMORIのウインドウを縮小し、事前に準備しておいたPDFファイルを開く。

 そんなに興味もない、それどころかほとんど読めもしない英語の論文だった。だが、いかにもそれっぽい(・・・・・)

 律希の目論見(もくろみ)通り、勝手に部屋を覗いてきた母親はノートパソコンの画面を見て満足そうに微笑んでいる。

「遅くまでがんばってるのね。あんまり無理しないのよ」

 適当な返事をして、母親が去ったのを確認してからPDFファイルを閉じる。律希は思わず、小さなため息をついた。

 理想の環境を手に入れるには、まだまだ先が長そうだ。

 律希は以前からずっと、MIDIキーボードが欲しいと思っていた。パソコンに繋げば、ピアノを弾く要領で音階の打ち込みができるという優れものだ。

 それがあれば、マウスでいちいち譜面を入力していく(わずら)わしさから解放されるのだ。それに何より、せっかく作曲をするならばという憧れが大きかった。

 しかしMIDIキーボードはその大きさ故に、パソコンのウインドウほど咄嗟(とっさ)に隠すことに向いていない。だから律希は少なくとも家を出るまでは憧れを手にすることを諦めていた。

 自らの学歴にコンプレックスを持つ母親は、自分の思う理想の人生を息子を通してやり直そうとしている。そこに趣味のジャンルである音楽制作が入る余地はない。


 一瞬TOMORIから離れたことで、集中が途切れてしまった。律希はスマホを手にし、だらしなく背もたれに寄りかかりながらSNSを開く。

 数時間前から停滞させていたタイムラインを駆け抜ける。そこで律希はふと画面をスクロールさせる指を止めた。

『【閃火(せんか)コン開催決定!】』

 そのポストを発信したのは、TOMORIのソフト制作にも関わっている大手音楽レーベルだった。

 TOMORIを使って楽曲制作を行うクリエイターのことをマッチと呼ぶ風潮がある(マッチで火を(とも)す=TOMORI(ともり)が語源らしい)。閃火コンというのはそれに掛けたネーミングなのだろうと律希は推測する。

 下に続く概要には、コンテストを通して次世代を担うマッチと出会いたいというような文言が書いてあった。添付されていたイメージポスターの画像は、マイクを空にかざすTOMORIと『くすぶりで、セカイをともせ』というキャッチコピーが目を引く。プロアマ不問らしいが、おそらく新人発掘が目的のコンテストだろう。

 興味深く応募要項を眺めたが、どうやらタイトなスケジュールで曲作りをするのが必要になりそうだ。大まかに、半年で三曲の提出が必須になる計算だった。

 それを知った途端に、先ほどまで温度を上げ続けていた律希の中の熱意はゆっくりと冷めていく。

 律希にとって作曲はあくまで趣味だった。肉体的にも精神的にも、必死になってまで頑張るつもりはない。

 胸の高ぶりはすっかり収まってしまい、またタイムラインをゆるゆるとスワイプしていく。そのとき、誤ってなにかをタップしてしまったようだった。

 律希の指先が触れたのは、誰かのポスト上のハッシュタグだった。スマホの画面が、そのハッシュタグを使用したポストで埋まる。

 律希が思いがけずに検索する羽目になったのは、『#炎上神判』というワードだった。

『バイト先の店長キモすぎ。なんかいつもわざと肩とか触ってくる。本名載せていい?』
『注意!この絵師、詐欺です!依頼絵を全然仕上げてくれません!』
『うわーこいつまた差別かよ。すぐ事実をねじ曲げて都合よく話すよな』

 そこには、人々の憎悪(ぞうお)怨恨(えんこん)、たまに正義感までもが渦巻いている。このハッシュタグがここまで大勢の人たちに使われる理由は、律希も知っていた。

 『#炎上神判』をつけたポストに書かれた人物は、自称・炎上屋である『天ノ啓示(あまのけいじ)』というアカウントが炎上させてくれるらしい。

 ただし炎上させる人物の選定は天ノ啓示の独断と偏見によるそうだ。しかし、実際、天ノ啓示の手によってSNSを通じて追い詰められた人物は今までに何人もいた。

 こんなことをして、何が楽しいのだろう。律希自身はそう思うが、そういったパフォーマンスを面白がる人がいるということは知っている。そういう人たちはきっと、他人のことが気になって仕方がないのだろう。

 そういう感覚に心当たりがないわけではない。律希だって作品を世に向けて発信している以上、他人からの評価を求めていないといえば嘘になる。

 とはいえやはり、他人の事情を暴いて晒して、娯楽として消費するのは悪趣味だ。関わりたくもない。

 律希はスマホ画面を冷めた目で見つめる。そのハッシュタグを使うことも使われることもないだろうという気持ちから、興味本意で『#炎上神判』の検索結果をスクロールする。

 そこでふいに目についたのは、『憂-yu-はツミのパクリ野郎』というポストだった。

 背筋に冷たいものが走る。どうしてここに、その名前が書かれている。それは──憂-yu-は、律希がマッチとして活動するときの名前だ。

 そのポストを投稿したアカウントのホーム画面へ飛ぶと、ヘッダーもアイコンも、おそらくはIDも初期のままいじっていない、いわゆる捨てアカウントのようだった。唯一かろうじて設定されているユーザー名『KING』には、何の心当たりもない。

 そのKINGが投稿しているポストの内容は、どれもこれも憂-yu-の悪口ばかりだった。

『つまらない曲を作るな』
『何を言っているかわからない』
『マッチなんかやめてしまえ』

 それらを目にする度に、胸の中がざわめいて、鼓動が大きくなるのがわかる。味わったことのない感覚は、受け入れがたいものだった。

 ──たった一人だ。広い世界のたった一人に嫌われたところで、何も変わらない。それに、よく言うじゃないか。アンチがいるのは人気がある証。つまり、憂-yu-にとってこれは喜ぶべきことですらあるはずだ。

 そう自分自身に言い聞かせることで心に防波堤を作り、律希はスマホの画面を消した。

 天井を見上げると、椅子が軋んでギィ、と音をたてる。暗い部屋にぼんやりと光る暖色の常夜灯が、闇を照らす灯台のようだった。



 ──あんなの、気にしないのが一番だ。そう心に決めたはずなのに、何をしていてもずっと頭の片隅でKINGが悪口を吐いてくる。

 律希の人生で初めてのアンチとの邂逅(かいこう)からひと月が経とうとしていた。時が傷を癒すとはよく言ったものだ。しかしKINGは存在感を薄めるどころか、むしろその影をより濃くしていた。

 どういうわけか数人ではあるがKINGのフォロワーも増えている。賛同する意見を持つ人が他にもいるということなのだろうか。

 見れば見るほど、考えれば考えるほどに、黒い感情が自分の中に湧き出てくるのを律希は感じていた。それならばもうKINGのアカウントなど見なければいいのだが、その存在を知ってしまった以上、どうしても気になってしまう。


 昼休み、律希が教室で弁当を食べていると、遠くの席でどちらかというと派手な方に属するグループの女子たちが騒いでいた。どうやら人気のある男性アーティストの話題で、彼女たちは音楽よりも顔の造形に興味があるようだった。

 別に聞きたい話でもないし盗み聞きなんて趣味はないが、勝手に聞こえてくるものは仕方がない。

 そんな時、あるタイミングで一人の女子が話しだしたのはTOMORIに対する悪口だった。あれを好む人はオタクっぽいだとか、声に感情がこもってなくて不気味だとか。

 ──ちゃんと聴いたこともないくせに。律希は心の中で毒づいた。

 その後で、わざわざあんな話をBGMにしなくても、はじめからイヤホンをしておけばよかったのだと気がついた。若干心が荒れたのを自覚しながらも何の気なしにスマホでSNSを見ると、目に飛び込んできたのはKINGのポストだった。

『憂-yu-はツミの下位互換』

 今の律希には、それがトドメとなった。


「目も耳も腐ってんなら! 生で脳みそにぶちこんでやる!」

 律希は絶叫した。

 カラオケルームに、生々しく刺のある歌詞がこだまする。イライラしたときのとっておきのストレス発散方法が、ヒトカラだった。

 最初に歌ったのは、ザ・パルスという四人組のロックバンドの曲だ。特別流行ってもいなければ、万人受けするような要素もない。泥臭くて正直でたまに下品な、一年前まで活動していたバンドだ。

 曲のアウトロが終わり、律希は勢いよく喉にコーラを流し込む。心身共に、少しスッキリしたのを感じる。さっきまでは頭に血が上っていたのだ。

 冷静に考えてみると、KINGのポスト──憂-yu-はツミの下位互換というのは、都合よく受け取ればクリエイターとしての方向性が同じということではないだろうか。それをアンチとはいえ第三者に認められるなんて、光栄ではないか。

 カラオケ機器の画面の中のランキングには、TOMORIで制作されたタイトルも多く並んでいる。それだけ世間に認められているということだ。

 とはいえもちろん、中には昼休みの女子たちのような考えだってある。律希はそのことを理解しているつもりだった。それでも、いざ目の前で口にされると平常心のままではいられなかった。

 律希は、カラオケに行くのは絶対に一人でと決めている。自分の宝物を本当に大切にできるのは自分だけ。たとえばザ・パルスのように大好きなアーティストの曲を、自分の声とカラオケの音源で、その曲に初めて出会う人に聞かせたくなかった。

 それから、律希が人前で歌わないのにはもう一つ理由がある。それは律希の隠したい秘密でもあって、誰にも話したことはない。

 一人は楽だ。人に合わせるのも本心を隠すのも必要ない。

 ツミの曲をいくつか、機器に送信する。予約リストが律希の大好きなタイトルで埋まっていく。

 次の曲のイントロが始まってマイクを持ったとき、部屋のドアが勢いよく開いた。

「成沢! ぼっちで何してんだよー!」

 田中だった。同級生二人を引き連れて堂々と乱入してきたのだ。遠慮という言葉は知らないらしい。

 当然のように席に座って、田中は馴れ馴れしく律希に肩を組む。律希は慌ててカラオケ演奏を中止させるボタンを押した。

「そっちこそ、なんだよ急に」

 あくまで冷静を装いながら、曲の予約リストを一括消去する。脳みそ直結型の喋り魔である田中がTOMORIの話をしているところなんて見たことがないからだ。

「カラオケ行くなら誘えよ、なぁ?」

 同意を求める田中に、山井は軽い返事をし、稲葉は少し困ったように笑った。

 田中は賑やかな奴だ。山井も同じく。しかし稲葉は二人とは少しタイプが違う。

 どちらかというと大人しくて、カラオケという場はあまり似合わないと感じる。おそらく田中がその場のノリで誘ったのだろうと律希は推察した。

 手持ち無沙汰をごまかすように稲葉が触っていたもう一台のカラオケ機器を、田中が横から奪う。入力しているのはやはり今朝話していた例のアーティストの新曲だ。

 一緒にこの部屋にいることも歌うことも、律希は許した覚えがない。とはいえストレス発散という目的はすでに達成したし、田中たちの歌を聞くだけなら構わないと思っていた。

 けれどそれだけで済むはずがないのだ。だからなんとかしてこの場を切り抜けないといけなかった。それも、感じが悪くならずに、不自然ではないように。

 考えている間に田中が歌い終わり、それから山井。時の流れがひどく早い。焦りのせいで、脳がうまく働かない。その間に稲葉がマイクを置いて、それじゃあ次は。

「成沢、なに歌うの?」

 それだけは、避けたかったのに。律希は涼しい顔で悩むフリをしていたが、服の中では冷や汗をにじませ、内心ではほぼパニックに(おちい)っていた。

「まだ決まんねーの? んじゃ、これ歌ってよ」

 律希の返事も待たずに、田中が勝手に人気ランキングから曲を選ぶ。イントロが始まる。律希も知っている曲だ。

 渡されたマイクを、律希は微かに震える手で握る。それを止めようと稲葉が軽く手を伸ばしたような気がしたが、律希はもう、曲の最初のフレーズを声に出していた。

 ……どうしようもなかった。仕方ないだろう。ここで歌わないのは一番ダメだ。

 そう自分に言い聞かせることで、律希は耳を塞ぎたくなるほどに音を外した自分の声から気をそらす。

 はじめは律希の歌声に驚いた様子の田中だったが、すぐに笑って、もう一つのマイクを握りしめた。そんなに下手なら俺が歌ってやると言わんばかりの態度だったが、田中はわかりやすく律希の声をかき消すような大声で歌い始める。

 律希はそれが罪滅ぼしのためなのか自分のことを庇うためなのかまではわからなかったが、とにかく気を遣われたということだけはすぐに察した。

 曲のアウトロが終わり、恐る恐るみんなの反応をうかがう。山井は肩を震わせて笑いをこらえている。稲葉は小さく拍手をしていたが、その笑顔が若干引きつっている。

「ギャップ男子はモテるからな!」

 田中が背中を叩きながらなんの慰めにもならないフォローをしてきて、それからの記憶はあまりない。どこか申し訳なさそうなおかしな態度の田中を見ていられなくて、適当な理由をつけて帰ったのは覚えている。


 最悪だ。何のためのヒトカラだったんだ。

 仕方ない、こういうこともある。いや、どうしてこんなことになったんだ。相反するふたつの気持ちの中でひたすらに募るのは、苛立ちだった。

 律希が人前で歌わなくなったのはいつからだったか。自分が相当な音痴だということは、作曲を始めてから本格的に理解した。

 元々自覚はあったが、本当にひどかった。作曲をしている身だからもちろん音程は理解しているが、声域がどうしようもなく狭いのだ。特定の音を出そうとしても、それに届かない。入力と出力で勝手に結果が変わってしまう。

 チューニングが狂った楽器で正しい音なんて出せるわけがない。それは仕方がないことだし、音痴であること自体はまだいい。それよりも重要なのはイメージだ。

 恥ずかしい存在になりたくない。絶対にああはなりたくない(・・・・・・・・・)。ずっと目指してきたのは、なんとなくいい感じの、ちょうどいい立ち位置。律希がクラス内でそれを確立した頃に、田中は本当にひどいことをしてくれたと思う。

 人前で歌わないことは、本当の自分を隠すことだ。けれど本当は、好きな曲を好きなように歌いたい。

 作曲をしたいと考え始めた頃、迷いがあった。本音では、自分の声で歌いたかった。そうしたほうが音楽に対して誠実だと思ったから。

 けれど音痴な自分の歌声では、せっかく曲を作っても誰にも聴いてもらえないだろう。律希はそう考えて、誰のものでもないTOMORIの声を借りることに決めたのだった。


 帰宅してすぐ、自室のベッドに倒れ込む。どうしようもない苛立ちが、頭の中でぐるぐると回る。何が悪かった。誰が悪かったんだ。

 田中に悪意はなかった。むしろカラオケ乱入は善意であった可能性すらある。昼休みにTOMORIの悪口を話していた女子たちに悪意がなかったといえば嘘になるだろうが、それは律希に向けられていたわけではない。

 唯一、明確に律希に向けて悪意を表明していた存在が頭をよぎる。そうだ、あいつがそもそもの元凶だ。

 KING。あんな悪口だらけのアカウント、通報してやればいい。そう思ってKINGのユーザープロフィールを開くと、また新しいポストが投稿されていた。

『憂-yu-は、リアルでもどうせ人とまともに向き合えないような奴なんだろう。ひとりよがりな歌ばかりだ』

 なんなんだ。なんなんだよこいつは。何も知らないくせに。

『このアカウントの投稿、もしかしたら見てるかな。お前みたいな奴の曲、誰も聴かない。憂-yu-なんてやめてしまえ』

 ──ふざけんな。気がつくと律希は、スマホを枕に向かって投げつけていた。

 みんなに聴いてもらうために、どれほど悩んだことか。音楽のことだけではない。いつだって、みんなに受け入れてもらえるように努力しているというのに。

 KINGはそんな事実など存在しないかのように、すべてを簡単に踏みにじる。

 一体どんな奴か少しでも知ろうと、KINGのいいね欄、つまりKINGがいいねを押したポストを覗く。そこにはたった一件の投稿、閃火コンの告知があった。律希はそれを見て、決意した。

 ──優勝してやる。

 いいねを押しているのなら、KINGは多少なりとも閃火コンに興味関心があるはずだ。そこで優勝すれば、少なくとも憂-yu-の曲を誰も聴かないなんて言えなくなるだろう。

 憂-yu-の歌は、ちゃんとみんなに届いている。どこの誰かも知らない、自らを王だなんて呼称するクソ野郎にそれを証明してやるんだ。

 律希はすぐにノートを開き、歌詞のアイデアを書きなぐる。怒りから火がついた衝動だったが、かつてないくらいに気持ちが(たかぶ)っていた。時計の針が夜中の二時を回っても、律希の手が止まることはなかった。

 ──絶対にやってやる。今、やらなきゃいけないんだ。確かにそんな気がする。

 始めた理由なんて忘れるほどに、没頭する。律希の心から全身に燃え広がっていくものは、いつの間にか怒りという感情だけではなくなっていた。




「成沢、ごめん」

 教室で席についた途端、稲葉が目の前に来て謝罪した。どういうことかすぐに理解できないのは、律希が昨晩ほとんど眠れなかったからだろうか。

「え、なんのこと?」
「いや、昨日……ほら、その、カラオケ」

 稲葉にそう言われて、律希はやっと察しがついた。ああ、と相づちを打つ間に心がざわつく。

 下手な歌を聞いてしまってごめん──そんな意味での謝罪だとしたら、余計に気持ちの整理がつかなくなる。しかしそんな推察は杞憂(きゆう)に終わることとなる。

「無理に押しかけて、ごめん。僕、悪いって思ってたのに、田中たちのこと止められなくて……」

 謝る理由がそっちでよかった。律希は心の中で安堵(あんど)する。

「別にいいよ。全然気にしてない」

 律希が言った瞬間、稲葉の表情が目に見えて明るくなる。話してみれば元の印象よりもわかりやすくて素直な奴だと律希は思った。

「そっか、ありがとう! でさ、聞きたかったんだけど!」

 稲葉の勢いに、律希は思わず身構える。夢中で周りが見えなくなるようなその感じは知っている。きっと彼はこれから、好きなものの話をするはずだ。そんな律希の予感は当たる。

「成沢、TOMORIの曲好きなの? カラオケでツミの曲入れてたよね」

 予感は当たったが、そこからの質問は想定外だった。どうしてそのことを知っているのだろう。

 おぼろげな記憶を辿ると、律希は田中たちが乱入した際に予約リストの消去はしたが入力履歴を残したままだったということに思い当たった。

 TOMORIが好きだということは公言していないが、訊かれているのにわざわざ隠そうとまでは思っていない。ここは素直に答えることに決めた。

「ああ……うん、好きだよ」
「僕も、TOMORI好きなんだ。好きなマッチは誰? やっぱりツミ?」

もちろんここで憂-yu-の名前を挙げるほど、自信も(おご)りも(したた)かさも持ち合わせてはいない。

「うん、ツミが一番好きかな」
「いいよね、ツミ。僕は『蜂喪(はちも)とぶ』が好きなんだけど、知ってる?」

 もちろん知っている。蜂喪とぶといえば静かな曲調とほの暗い歌詞が特徴だ。

 稲葉は大人しいが根は明るい奴という印象がある。そんな稲葉が蜂喪の曲を好むのは少し意外に感じたが、すぐに思い直す。

 見えているものがすべてじゃないし、それすらも本当だとは限らない。それは律希自身も同じはずだ。

「知ってる。静かな感じでなんか落ち着くよね」
「そうそう! 僕、『冬宙夏葬』の最後のサビがすごい好きでさ!」

 熱く語る稲葉は、今までに見たことのない表情をしていた。きらきらしていて、心から蜂喪のことが好きだということが伝わってくる。

 律希は少しだけうらやましくて、それと、嬉しかった。こんなに近くにTOMORIのファンがいて、どれだけ好きかを自分に話してくれることが。

 授業開始を告げるチャイムが鳴り、稲葉は名残惜しそうに自分の席へ戻っていく。語り足りないようで、後でメッセージを送ると言い残していった。

 そのおかげで、スマホを見る際の苦痛が減った。スマホを手にすると、どうしてもKINGのことが頭をよぎってしまう。しかし稲葉からTOMORIに関するメッセージが来るかもしれないと思えば、ネガティブ思考も相殺されそうだ。

 思えば、好きなものを好きだと明かすのは久しぶりかもしれない。それもTOMORIの話をできるなんて。律希は自分が思っているよりも少し、浮かれていた。



 閃火コンへのエントリーを決めた日から、毎晩のように律希は曲作りに没頭していた。時に母親の目をかい潜り、時には父親に相談したこともあった。

 父親は今でこそ無趣味で退屈そうにしているが、昔はバンドを組んでいたらしい。律希の覚えている限りでは、小学生の頃にギターを弾いて見せてくれたこともあった。

 当時、痺れる音色を次々に放つ青と黒のツートンカラーのストラトキャスターに心から憧れた。しかし今となってはそのギターがどこに仕舞われているかもわからない。

 なんにせよ父親は音楽に多少理解があるし、作曲に関する知識もある。もっとも、律希が憂-yu-という名義で活動していることは秘密にしているし、今ではそこまで音楽に興味がない父親から有意義な話が聞けることはなかったのだが。

 ただ、人に話すだけで頭が整理されることもある。その点では、夜はいつもリビングで飲んだくれている父親の存在が助けになってくれた。


 そういえば最近、KINGが大人しい。律希は少し前までは日課のようにKINGのアカウントをチェックしていたが、最近は暇さえあれば作曲のことを考えていたせいで野放しになっていた。

 SNSを開き、久しぶりにKINGのユーザープロフィールへと飛ぶ。熱が冷めたのか投稿頻度は下がっていたが、相変わらず憂-yu-を目の(かたき)にしているようだ。

 けれど律希は今さら何を言われたってそこまで心を乱されるようなことはないだろうと強気な姿勢だった。それほど今は作曲に心酔(しんすい)している。

 一通りKINGのポストに目を通し、律希は半ば呆れにも似た感情を抱く。自分の不毛な行動に嫌気が差してSNSを閉じようとしたとき、ふとDMの通知が届いた。タップして表示された差出人の欄には、予想だにしないユーザーネームがあった。

『天ノ啓示』

「マジか、本物……?」

 思わず呟いた困惑が、無音の自室に溶けていく。あの『#炎上神判』の天ノ啓示が、自分に一体何の用があるのだろう。

 おのずと思い起こされるのは、KINGの投稿の数々だ。憂-yu-をこき下ろすポストの文末には、欠かさず『#炎上神判』のハッシュタグが付けられていた。

 もしかすると、天ノ啓示はそれを見て裁き(・・)に来たのかもしれない。

 自然と冷や汗が滲む。しかし、自分に裁かれるような罪なんてないはずだ。KINGが勝手に(わめ)いているだけで、そこに律希が恐れることなんて何一つない。

 律希は姿勢を正して、天ノ啓示からのメッセージを開く。

『閃火コンで優勝したいですか』

 伸ばした背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。

 憂-yu-が閃火コンにエントリーすることは、それを決めた日にポストを投稿しているからSNSを見れば誰でもわかる。エントリーするのであれば、優勝を目指すのは当然のことだ。

 おかしいのは、わざわざそれをDMで訊ねてくることだ。天ノ啓示と憂-yu-の間に、直接的な接点は何一つない。故にどうしたって、KINGの存在が脳裏をよぎる。

 心がじわじわと不安に侵食されていくのを感じて、それを遮断させるかのように律希はSNSを閉じた。

 ──(わずら)わしい。作曲以外のすべてのことが。

 閃火コンへのエントリーを決意したあの瞬間から、曲のことを考えれば考えるほど、他のことがどうでもいいと思えた。KINGのことだってその内の一つだ。

 ようやく怒りを忘れかけていたのに、また思い出してしまうところだった。こうなるとKINGの存在そのものを頭の中から消したくなる。

 もはや律希の目的は、KINGを見返すことよりも閃火コンで優勝することになっていた。そうであるべきで、それが健全だ。そんな考えが根底にはあったものの、今では心から優勝を目指している。音楽に本気で向き合ってみるいい機会だと思っていた。

 だから、心に余計なノイズを走らせている暇なんてない。天ノ啓示のこともKINGのことも頭のどこかへ追いやって、律希はもうすぐ提出を控えている一曲目の制作に取りかかる。

 閃火コンでは、全部で三曲の提出が必要になる。一曲目の提出の後は、リスナー投票による一次審査が行われるそうだ。そこで落ちれば夢はおしまいだ。出だしから(つまず)くわけにはいかない。

 リスナーたちに聴いてもらうのは、憂-yu-の最高傑作でないといけない。律希は今までにないほどの情熱を、新曲へと注いでいた。



 蝉の鳴き声が、やけにうるさい。律希は、スマホの画面を食い入るように見つめていた。

 七月下旬、夏休みに入って少しが経った頃、閃火コンの一次審査終了が迫っていた。

 七月中は新規エントリーとリスナー投票を同時に受け付けているが、月末が近づくにつれて新規エントリーは減っていく。当然、なるべく早くエントリーした方が聴いてもらえる機会も多く、リスナーからの票も入りやすいため有利だからだ。

 憂-yu-が曲の提出を済ませたのは、七月一日だ。つまり、提出日だけ考えればトップクラスに有利な立場だった。

 そして今、有利であるはずのリスナー投票ランキングを上から順にスクロールしている。しかし憂-yu-の名前はなかなか見つからず、やっとそれに出会えたのは一次審査の合格ラインよりギリギリ上のところだった。

 ランキングは毎日更新される。一安心というわけにはいかないが、今の順位をキープできれば合格だ。

 とはいえ、今自分にできることといえばSNSでの宣伝くらいだった。稲葉にも憂-yu-のことを打ち明けて手伝ってもらおうかという考えが脳裏をよぎったが、それだけはありえないとすぐに一蹴(いっしゅう)した。

 憂-yu-は律希ではない。二人が結びついてしまった瞬間、きっと二人とも今まで通りではいられない。憂-yu-には憂-yu-の音楽があるし、律希には律希の生き方がある。だから、現実世界に憂-yu-を連れてくるわけにはいかないのだ。


 夕飯の時間、母親と父親と共に三人で食卓を囲む。まったく興味のないテレビのバラエティ番組に惰性(だせい)で目を向けていると、不意に父親の口からとんでもない話が飛び出した。

「律希、作曲は進んでいるのか?」

 律希は、思わずむせる。よりによって白米を頬張った瞬間に言わなくたっていいだろう。そもそも母親の前でなんて話題を始めるつもりだ。自分が一番母親の性格を理解しているくせに。

「作曲? まだそんなことしてたの? 勉強は?」

 案の定、母親は怪訝(けげん)そうに眉をひそめながら呆れたように言う。母親には、夜な夜な勉強していると思わせることにしていたのに。無神経な父親のせいで、今までの偽装工作が台無しだ。

「いや、作曲なんてやってないって。父さん、あれは俺じゃなくて友だちの話だよ」

 律希が(つくろ)ったその場しのぎの嘘を、父親はそうだったかなと受け流す。話を合わせてくれたのかもしれないが、おそらくは律希の言葉の真偽にそれほど興味がないだけだろう。

 母親が疑うような視線を律希に向けたとき、タイミングよくココが吠える。

 ココは三年前から成沢家に仲間入りした、マルチーズとトイプードルのミックス犬だ。マルプーという通称を聞いたときは冗談かと思った。クリーム色の少しカールした毛並みが愛らしく、そんなココのことを母親は溺愛している。

 今だって母親は猫なで声を出しながらすぐに席を立ち、ココの要求を叶えにいった。律希がココの方を見ると黒いビー玉のような目と目が合ったので、心の中で礼を言う。

 ふと、ココのいるサークルの近くのラックに見慣れないものが置かれていることに気がついた。父親に訊ねると、ペットカメラなるものを導入したそうだ。

 もっとも、ペットカメラは数ヶ月前からそこに置いてあったらしいが、今の今まで律希は気がつかなかった。口うるさい母親を避けてなるべくリビングに寄りつかなかったからかもしれない。

 どうやら外出時にココの様子を確認したり、こちらから声かけをしたりというようなことができるらしい。確かにこれがあればココの留守番は安全性が増すだろうと思うと同時に、ココのことが少し気の毒になった。

「心配な時とかね、いつでも見られるのよ。安心よね」

 母親は得意気に言いながらキッチンに立って、鍋に残した一人ぶんのスープを皿に移しラップをかける。

 律希は、安心するのは見ている側だけだろうと言いかけてやめた。余計な火種はまかないに限る。

 今でこそ口を開けば学力や進路の話ばかりの母親だが、昔はよく絵本を読んでくれたのを律希は覚えている。律希が歌詞を重視し言葉の意味を深く考えたりできるのは、そのおかげかもしれない。

 しかし、いつだかの大掃除の時に母親の部屋で見つけた、理想の子育てを(うた)う育児本の『絵本を読むと賢くなる』という一文に、思い出を汚されたような気分になったことがある。

 母親の思惑(おもわく)が何であっても律希が受け取ったものに変わりはないはずなのに、それまでは宝物だと思っていたものが突然輝きを失うのだから不思議だ。

 とはいえ、もちろん母親に感謝の気持ちだってある。

 いいことも悪いことも、楽しいことも嫌なことも、今までのすべての上に今の感性は成り立っている、そんな自覚が律希にはあった。それらが今では憂-yu-が曲を作るための糧となり、その曲たちはそれなりに評価されて、さらには閃火コンという夢にまで出会えた。

 だからきっと、無駄なものなんて何もない。律希のそれは本心というよりも、逃避に近かった。そう思うことで、律希は無理やりに前を向くことができていたのだ。



「嘘だろ……」

 一次審査の終了三日前、律希は打ちひしがれた。

 視線の先のスマホ画面には、閃火コンのランキングが表示されている。憂-yu-の名前は、合格ラインよりも下にあった。ここ数日、順位は変わっていなかったのに。

 一体どんな理由があってこんなことになっているのか探るべく、ランキングを(さかのぼ)っていく。

 すると、あろうことか、人気マッチが三人も新しくエントリーしてきていたのだ。こんなギリギリにエントリーして、すぐにランキング上位に食い込むなんて。元からの人気の差を思い知らされた気分だ。

 その内の一人は、ツミだった。確かに閃火コンの応募要項にはプロアマ問わないとの記載があったが、何もツミほど人気のあるマッチが参加しなくたっていいだろう。初めて、ツミに対して少しの憎しみが湧いた瞬間だった。

 作曲に集中するべくすべての通知を切っていたから、あれだけいつも楽しみにしていたツミの新曲が出たことすら知らなかった。複雑な気持ちを抱えながら再生すると、さっきまでの黒い感情が綺麗さっぱり浄化されてゆく。

 ──やっぱり、最高だった。自分が目指すマッチはツミしかいないと、いつものように噛みしめる。

 しかし、再び瞳にランキングを映した途端(とたん)、すぐに心にもやがかかりはじめる。それから律希は不安な気持ちを再確認するかのように、ついSNSを開きKINGのアカウントを覗いてしまった。

『あーあ、ご苦労様。ツミの劣化なんだから当然だ』

 もしかすると自分は安心したかったのかもしれない。ダメな奴だとKINGに言ってもらうことで、それを免罪符にしたかったのかもしれない。

 他人が認めるほどに自分はダメなのだから、仕方がない。優勝どころか一次審査すら通れなくても当然のことだ。自分は悪くない。元から無理な夢だったのだから。きっと、そう思いたくてKINGにすがった──はずだった。

 しかし、律希の心の奥底から湧き上がったのは、陳腐な言い訳なんかではなかった。

 憂-yu-が作ったのは、誰かの劣化なんかではない、自分で考えた自分だけの音楽だ。絶対に、KINGにそれをわからせてやる。

 前にも感じた怒りのエネルギーが、心の中でくすぶり始める。

 けれど、現実はそう甘くない。気持ちだけが先走るが、人気マッチを差し置いて合格ラインに食い込む方法なんて簡単には思い浮かばない。それでも絶対に、こんなところで負けたくなかった。

 宣伝の仕方を変えてみようか。他のマッチはどうしている。思案しながらSNSのタイムラインをスクロールしていると、誤ってDMのアイコンをタップしてしまった。

 そこで目に飛び込んできたのは、以前に天ノ啓示から送られてきたメッセージ。あのとき既読にしたはいいが、それからはずっと無視したままになっていた。

『閃火コンで優勝したいですか』

 天ノ啓示はこのメッセージをエサに、憂-yu-を罠に()めるつもりなのかもしれない。何を考えているかわからない以上、無視するのが一番いい。

 いい、はずなのに。頭ではわかっているのに、焦る気持ちが衝動を抑えてくれない。律希の指先は微かに震えながら、返信欄をタップしていた。

 天ノ啓示は別に、憂-yu-に何かの契約を迫っているわけではない。ただ質問をしてきただけ。そして憂-yu-は、訊かれたことに答えるだけだ。

 悪魔に魂を売るわけではない。だから悪いことなんて何ひとつないはずだ。

 誰に責められたわけでもないのに心の中で必死に理論武装をしながら、律希はスマホの画面をスワイプして、たった二文字のメッセージを送信した。

『はい』

 たった二文字。ただの肯定。それもエントリーしているコンテストで優勝したいという、ごく当たり前の意思。それを伝えただけ。たったそれだけのことだ。

 しかしそれだけのこと(・・・・・・・)が引き起こしたのは、それだけなんて言葉で表せる事態ではなかった。



 夏休みの登校日、数日ぶりに学校で顔を合わせた稲葉はどこか憔悴(しょうすい)した様子であった。あんな稲葉は見たことがない。

 気にはなるが、何があったか、なんて安易に触れられない。しかし、友人として放っておくのもどうかと思う。律希は迷った末、決心して席を立つ。

「おはよ。なんか元気ない?」
「あ……成沢。おはよう。実はちょっと……あって」
「よかったら聞くよ。迷惑じゃなければ」

 はじめは言いよどんだ稲葉だったが、やがてもごもごと少しずつ言葉を紡ぎ始める。

「あの……成沢はまだ、知らない? 蜂喪とぶがなんか……」

 その先は話したくなさそうに口をつぐんでしまった。律希がスマホで蜂喪を検索すると、すぐにまとめサイトの記事が出てくる。

『【悲報】蜂喪とぶ、犯罪者だった』

 そんなタイトルが付けられたその記事にざっと目を通すと、どうやら蜂喪には前科があるということが告発されたらしい。告発したのは、自らを被害者Fと名乗る人物だ。蜂喪が犯したのは過失傷害罪だと書かれているが、それ以上の詳細はわからない。

 しかし仮にそれが真実であっても、ぽっと出の一般人が騒ぎ立てたところでそこそこマッチとしての人気がある蜂喪に大した影響はなかったはずだ。

 それなのにこんな騒ぎになっているのは、もしかすると。

 律希の悪い予感の通りに、蜂喪の告発は天ノ啓示を通して行われたと記事に書かれていた。『#炎上神判』のハッシュタグが付いたポストが発端だったらしい。

 自分の鼓動が大きくなるのを、律希は感じていた。

 天ノ啓示。炎上神判。まさか自分のせいではないだろうか。

 そんな思考に至るのは、蜂喪が閃火コンのランキングに名を連ねていたからだ。蜂喪は憂-yu-よりも上の順位だった。しかし蜂喪が今回の炎上騒動により人気を下げれば、ランキングは変動するだろう。それは憂-yu-にとって有利なはずだ。

 閃火コンのランキングを確認する。憂-yu-の名前は、合格ラインのひとつ下にあった。リスナー投票の締め切りまで残り一日だ。この騒動のおかげで、ギリギリ一次審査を通過できるかもしれない。

 思わず、口角が上がる。そんな自分に気がついたとき、ゾッとした。

 目の前で、大好きなTOMORIの話ができる唯一の友人が悲しんで、傷ついているというのに。自分は今、真っ先に何を考えた?

 ──怖い。恥ずかしい。それから自分が稲葉にどんな声をかけてやれたのか、覚えていない。



 閃火コン一次審査期間の最終日、祈るようにスマホ画面の中でランキングを開く。

 ──憂-yu-は、合格していた。その事実を噛みしめると、自然と顔がほころんだ。しかし喜びも束の間、蜂喪の名がどこにもないことに気づく。

 蜂喪のSNSを覗くと、炎上騒動の際に閃火コンを辞退していたようだ。それに伴って、ランキングが変動したのだろう。

 憂-yu-の合格は、蜂喪のおかげ。告発した被害者の、ひいては天ノ啓示のおかげ──そう考える自分に、寒気がする。

 憂-yu-が優勝したいという意志を伝えたことで、天ノ啓示はそれを叶えようとしたのかもしれない。

 天ノ啓示がそうすることで彼に何のメリットがあるのかなんて察しもつかないが、やり取りがあった以上、彼は憂-yu-に対して何らかの思うことがあるはずだ。蜂喪が炎上したのは、律希の指先が紡いだたった二文字のせいかもしれない。

 そうでないとしても、天ノ啓示と憂-yu-がメッセージを交わしたという事実をなかったことにはできない。その証拠は両者のアカウントからいつでも見ることができてしまう。

 つまり、憂-yu-はあの返信によって天ノ啓示に弱みを握られてしまったのだ。当然のことに今さら気づく自分に心から嫌気がさす。

 せっかく合格できたのに。嬉しいはずなのに。心の中に生まれたものは、黒くてじっとりとした重りだった。

 どうしてこんなことになった。どうしてこんな思いをしなければいけないんだ。こういう風になりたくないから、うまくやってきたはずなのに。

 それは、久しぶりに訪れた。光が奪われて闇の中に一人で立たされるような、周りも先も何一つ見えなくなるような、正体のよくわからない不安に押し潰されてしまいそうな、そんな感覚だ。

 こんなときは、どうしたらいい。今よりもっとうまく生きられていなかったとき、自分はどうしていたのだろう。律希は、過去の自分に思いを馳せた。




 律希にとっての神様は、ツミだけではない。

 律希は、海を見に来ていた。日陰のベンチに腰かけて、空を仰ぐ。どこまでも澄みわたる青空に、無垢な白雲が気ままに浮かんでいる。

 こんな風に空を見上げたのはいつぶりだろう。イヤホンを通した律希の頭の中で、ザ・パルスの新曲が鳴り響いていた。

 落ち込んだときは、こうして音楽を聴くのが一番いい。そんなことも、もうずっと忘れていた。

 はじめの神様、なんて言い方は罰当たりかもしれないが、とにかく律希にとって救いになった初めての存在は、ザ・パルスだった。


 出会いは中学生の頃。部活や進路や親のこと、つきない悩みに加えて律希は思春期真っ只中で、とにかくいつだってすべてを投げ出してやりたい気持ちだった。

 そんなときに偶然音楽配信サイトのランダム再生で出会ったのが、ザ・パルスの曲だった。

 まず衝撃を受けたのは、すぐそばで歌われているかのような臨場感のある力強いボーカル。それから、耳から頭までつんざくような勢いのあるギター、波のようにうねるベース、すべてに負けないくらい激しいのにそれらをうまく調和させるドラムの演奏。綺麗に整えた言葉なんかではない、思うがままに書きなぐったようなありのままの歌詞。

 本物だ、と思った。この人たちは本当のことだけで表現をしている。そこからはもう、ザ・パルスの(とりこ)だった。

 初めてCDを買って、初めてバンドスコアを買って、初めてライブに行った。

 けれどいつしか律希は様々な音楽を聴くようになって、ザ・パルスという神様への信仰は薄れていった。


 最近はもうずっと、ザ・パルスの活動を追っていなかった。そもそも一年前から活動を休止していたし、律希自身はツミやTOMORIに傾倒(けいとう)していたということもある。

 だから、つい三日前にザ・パルスが復帰して新曲まで出していたことを昨晩まで知らなかったのだ。

 なんというタイミングだろう。運命的にすら感じるし、やはりザ・パルスは今でも自分にとって神様のような存在だと思った。

 嫌なことを消し去りたい。体から毒を抜くように、すべてを忘れてしまいたい。そのためには、今だけ『憂-yu-』じゃなくなりたかった。

 今の律希が完全に憂-yu-から離れるには、TOMORIのことを忘れるしかないだろう。ザ・パルスのことを考えると、昔の自分を思い出す。

 たくさんの悩みがあって、どこか自暴自棄で、今より子どもだったと思う。実は今もそんなに変わっていないのかもしれないけれど。


 目の前の堤防の先で海辺に(たたず)む古い灯台を、スマホのフレームに収めた。シャッター音の後、写真をSNSで共有させる。

『実は大好きなバンド。MVの聖地巡礼中 #ザ・パルス』

 ザ・パルスの新曲のMV撮影は、まさに今視線の先にある海辺で行われていたのだ。特徴的な灯台のおかげですぐに気がついた。

 律希の家の最寄り駅から一駅のところにある、美しいがあまり知られていない穴場のビーチ。MVの中でザ・パルスのメンバーが演奏しているのがここだと気づいた瞬間は、驚いたと同時に気分が高揚(こうよう)した。

 こんな身近に彼らの存在を感じられるのは、数年前にライブに足を運んだとき以来だ。ザ・パルスは神様のような存在なのに近くにいて嬉しいなんて、矛盾めいた感覚かもしれない。


 閃火コンが始まってから、律希は意識的に憂-yu-のSNSの投稿頻度を上げることにしていた。少しでも名を広めたかったからだ。そのおかげかフォロワーの数も増えたし、少しは宣伝効果が出ただろうと思う。

 投稿を終えてスマホを伏せた律希は、自嘲(じちょう)気味にわずかに口角を上げた。憂-yu-であることを忘れたくて来たはずなのに、結局また憂-yu-としてポストをしている自分に呆れてしまう。

 思わずため息が漏れる。晴れ渡る空ときらめく海の青色が爽やかすぎて、憎たらしくさえ思えてくる。

 憂-yu-がSNSの投稿を増やすと、KINGはまるでそれと連動しているかのように饒舌(じょうぜつ)になっていった。次々と出てくる悪口には、もはや感心してしまいそうになる。

 そんなに憂-yu-のことが嫌いなら見なければいいのに。そう思ったところで、それがブーメランのように自分にも刺さることに気づいて笑ってしまう。

 憂-yu-が閃火コンの一次選考を通過しても、KINGの態度は変わらなかった。それどころかむしろKINGのSNSでは、調子に乗るなという旨の投稿が増えた。

 もしかすると自分がどんなすごいことを成したとしてもKINGは憂-yu-のことを嫌いなままなのではないかとすら思う。アンチとはそういうものなのだろうか。


 たとえそうだとしても、今さらそんなことを理由に閃火コンを辞退しようなんて考えはない。律希が最近悩んでいるのは、提出する二曲目の構想だ。

 どれだけ忘れようとしても脳裏には天ノ啓示や蜂喪のことがちらつくが、それらに(とら)われていては進めない。無理やりにでも頭の中から消し去って、優勝だけを目指さなければいけないと思っていた。

 イヤホンの中でザ・パルスが、自分の代わりに色々な感情を吐き出してくれる。かつては彼らがすべてありのままでいるかのように思っていたが、今ではきっとそんなわけはないのだろうと思う。

 バンド演奏時以外では穏やかな振る舞いをする彼らは、普段はしっかりと社会に溶け込んで生活しているのだろう。

 たくさんのことをのみ込んで、時には思ってもいないことを言ったりして、誰かの考えた理想の『普通の人』でいるのだろう。だからこそ、音楽だけは本音でやっている──のかもしれない。

 律希はそんなふうに思ったところで、また思考の渦に飲み込まれる。

 ──次の曲を、どうするべきだろう。

 一曲目は、怒りの感情をこめた。もちろんそれはKINGに対してだが、そのことがわかるような曲にはしていない。

 婉曲(えんきょく)した表現でごまかしながら、頭に残るフレーズを入れて、最終的には楽しげな曲に仕上げたつもりだ。

 二曲目は、同じ路線ではいきたくない。ツミほど個性が確立しているマッチならばむしろ自分らしさという意味で似た曲を提出しても問題ないだろう。

 しかし自分程度のマッチではそうはいかない。これしか能がないと呆れられて、リスナーからの票の獲得が難しくなってしまうと律希は思っていた。


 画期的なアイデアなんて何一つ浮かばないまま、イヤホンの中で曲が終わった。次の曲を選ぶためスマホ画面に視線を落とす。

 ちょうどそのとき、目の前を誰かが走り抜けて、同時に律希の足元に何かが転がった。

 今通った人の落とし物だろうか。急いで拾い上げると、それは見覚えのあるラバーバンドだった。ザ・パルスが活動休止前に行ったツアーのグッズで、律希は入手こそしていないもののデザインは知っていた。

 あの人はもしかして、ザ・パルスのファンなのだろうか。高揚感に似た気持ちが、心の中にふつふつと湧く。

「あのぅ……」

 ラバーバンドを手に取ったまま立ち尽くしていた律希は、いつの間にか引き返して来ていた落とし主に声をかけられたことで我に返る。

「えっ、あっ、これ」

 思わず、情けない返事をしてしまった。律希が慌ててラバーバンドを差し出した先にいたのは、見知らぬ女性だった。

 見た目は律希と同じくらいの歳という印象で、どこかあどけなさが残る端正な顔立ちだ。綺麗な(つや)の黒髪が肩の辺りで跳ねていて、服装はよれたシャツに体操着のようなハーフパンツという、端的に表せば部屋着といえるような格好をしていた。

 そんな彼女はラバーバンドごと律希の手を握りしめて、どこか恥ずかしそうに、しかし(あふ)れる期待を隠しきれないかのように口を開く。

「あの、もしかして、ユウさんですか?」

 目の前の(うるわ)しい顔に見とれていた律希は、彼女の言葉で一気に青ざめた。彼女は現実(リアル)では誰も知りえないはずの名前を確かに呼んだ。聞き間違いなどではない。

「えっ、と……人違いだと思います」

 どうして自分が憂-yu-だとバレたのだろう。律希はSNSの投稿を思い返すが、個人が特定できるような内容はなかったはずだ。

「あれ、そうですか……ごめんなさい。あっ、これ、拾ってくれてありがとうございました」

 彼女は律希の手からそっとラバーバンドを受け取ると、しゅんと小さくなって落ち込んだ様子を見せる。いたたまれなくなった律希は、慌ててフォローを始めた。

「あの、どうして俺のこと、その──ユウさんだと思ったんですか」
「……聞いてくれるなら話しますけど、私、好きなバンドがいて」

 そこまで言いかけたところで、彼女は目を丸くして言葉を止めた。

 不思議に思いながら彼女の視線を追った律希は、その先に自分が下げたままにしていた左手があって、そこに握られたスマホの画面にザ・パルスの新曲のジャケット画像が表示されていることに気がついた。

「あっ、これは──」
「ザ・パルス! 知ってるんですか?」

 彼女の声量にも、ころころ変わる表情にも、律希は驚かされっぱなしだった。

「あの、ユウさんじゃないんですよね? それなのに、こんな──こんなふうにザ・パルスのファンの方に会えるなんて運命みたいです!」
「ああ、いや──えっと……」

 律希の頭はパンクしそうになっていた。まず憂-yu-のこと、それからザ・パルスのこと、そして何より彼女の行動や表情にいちいち()かれずにはいられなくて、それが思考の邪魔をする。

「あっ、ごめんなさい。もしかしてザ・パルスのファンとかじゃなかったですか……?」
「いや、ファンです。めちゃくちゃ好きで」

 唐突に我に返ったような彼女の不安げな質問に、律希は一息つく間もなく返す。それは本音でもあり、彼女を悲しませたくない気持ちの表れでもあり、下心がないと言えば嘘にもなる言葉だった。

 ザ・パルスを好きだと言ってくれる人は今まで身近にいなかったから、この出会いは本当に嬉しい。それは(まぎ)れもない本心だ。ただそれに付け加えて、彼女はすごく律希の好みのタイプでもあった。

 彼女は律希の言葉に安心したように笑った。それから、律希がさっきまで座っていたベンチの端の方に腰かけた。

「私、心海(ここみ)です」
「えっと、律希です」

 それから心海は律希と同学年の高校二年生で、ここからすぐ近くのアパートに住んでいることを教えてくれた。先ほど憂-yu-が投稿した『#ザ・パルス』のハッシュタグが付いたポストをSNSで見かけて、部屋を飛び出してきたそうだ。

「ザ・パルスを好きな人が近くに来てるって思うと、会ってみたくなっちゃって」
「え、怖くなかったんですか? ネットで見ただけって……その、ユウって人、どんな奴かもわからないんですよね」

 ここにいるのが律希だけだったから憂-yu-だと決めつけただけで、正体を見抜かれたわけではなかったらしい。本当は心海の読み通りではあるのだが、それを打ち明けるわけにはいかない。

 どんな奴かもわからないなんて、自分で言っておいてその白々しさに笑ってしまいそうになる。

 それにしても、SNSで投稿を見かけただけの男に衝動的に会いに行くなんて、危機管理能力が足りないのではないだろうか。それも心海は女性だし、容姿も優れているのに──なんて思いはしたが、律希はそれを口には出さなかった。

 性別も容姿も、人を勝手にラベリングするなんてよくないことなのはわかっている。そもそも初対面で外見について口を出すなんて、好意的に思われるわけがない。

 余計なことを言わずに済むのは、常日頃から鍛えている危機回避能力のおかげだと、律希は少しだけ自画自賛した。

「んー……まぁ、怖い人でも、別によかったかな」

 彼女の答えが何を意味しているのか、律希にはわからなかった。どうなってもいいという自暴自棄な感情なのか、はたまたどんな人だとしてもザ・パルスのファンとして同志と会ってみたかったのか。後者ならば、律希も共感できる。

 中学生のあの頃、どれほどザ・パルスのことを誰かと語り合いたかったことか。諦めてからもう数年が経ったけれど、いざ目の前に良さをわかってくれる相手がいると、心が(うず)いて仕方ない。

 とはいえ、真意のわからない彼女の言葉への返事をどうするものか律希は悩んでいた。そうしているうちに、心海が遠くを指さして口を開く。

「ね、暑くない? あそこ、入りません?」



 ドアを開けると、カランと小気味のよいベルの音が鳴った。窓際の席では、太陽の光を透かして自身の淡い水色をカウンターに落とす風鈴が爽やかな音色を奏でている。

「ラズベリーソーダ、ひとつ」
「じゃあ、俺も──」
「本当に? これ、結構甘いですよ」
「……やっぱり、アイスティーでお願いします」

 海辺の小さな喫茶店で、二人は窓際のカウンター席に並んで座った。注文を受けた店員が去ると、律希は心海にわざとらしく疑惑の目を向ける。

「エスパー?」
「ふふ、そんなところ」

 まさか、注文を心海に合わせたことがバレたのだろうか。小手先のコミュニケーション術が見透かされたのだとしたらなんとなく恥ずかしい。

 もしくは、律希は甘い飲み物が苦手だということをそれこそエスパーのように本当に見抜いたのだろうか。そうだとすれば少し悔しいような気もするが、なんとなく嬉しく思う自分が不思議だ。

「そういえば、敬語はナシにしよ。同い年だし。ね、律希」
「ああ、うん、賛成」

 律希は平常心を気取っているが、照れやら期待やらで口元が微かに(ゆる)んでいる。対する心海はラバーバンドを指先でもてあそびながら、いたずらっ子のような表情を浮かべた。

「気づいてた? 実はこれ、わざと落としたの」
「え、なんで?」
「ユウさんかと思ったから。ザ・パルスに反応してくれるかなって」
「すごいね、賭けじゃん」

 律希が言うと、心海は笑って頬の横でピースした。

「賭けは私の勝ち。ユウさんじゃなかったけど、律希には会えたから」

 律希の心臓は、ばくばくと騒がしい音を立てる。しかし、頭は極めて冷静だった。

 心海が言っているのは、ザ・パルスを好きな人に会えたという意味に違いない。きっとそれ以上の意味はない。勘違いするな、と律希は心の中で自分に言い聞かせる。

 それにしても、心海が同志を求める気持ちは律希にも理解できるが、彼女の警戒心のなさにはさすがに心配になってくる。

「知らない人のことが怖くないなら、オフ会とかもするの?」
「しない。それはなんか、運命っぽくないでしょ」
「好きだね、『運命』」
「好きだよ。全部の言い訳に使えるからね」

 心海はなんだか、掴みどころがない。そして、ありのままという感じがする。

 律希は、彼女は自分とは違うと思った。嫌われないように、否定されないように、なるべく『普通』でいられるように──そんなふうに無理に取り繕っていたりはしないのだろう。

 だからこそなのか、心海とは初対面なのに、話すときに息苦しさを感じなかった。誰かと接するときに必ず少しだけ張り詰める律希の心の糸が、不思議と今は緩んでいるままだ。

「ねえ、心海(ここみ)って名前、どう思う? かわいい?」

 不意に心海から飛んできた質問は突拍子もない内容で、さらにどう答えるべきかも瞬時に判断することが難しかった。

 ──かわいいと思うよ。それが律希の本心であり言うべき答えでもあるとは思うが、恥や照れという感情が正解を声に出すまいと引き留める。

「……うちの犬の名前、ココっていうんだ」
「なにそれ、ふふっ……お揃いだね」

 焦った律希の口から飛び出たのは、絶対に正解ではないだろうという答えだったが、心海が笑ったところを見ると、あながち間違いでもなかったようだ。

 律希が安心したところで店員がドリンクを運んできて、丁寧に二人の前に置く。

 心海の頼んだ看板メニューは、透き通る鮮やかな赤色の液体に炭酸の泡とラズベリーが浮かんでいる。心海はそれをひとくち味わうと、ストローでラズベリーを回し始めた。

「私、英語苦手なんだけどさ。ラズベリーのスペルって、びっくりするんだよね。読めなすぎて。Pってどこから来たんだろ」

 律希が心海の視線を追うと、Raspberry Cafe(ラズベリーカフェ)という店名とロゴが描かれたメニュー表がある。

「まあ確かに、わかるかも。そういえば昔、この店って看板に名前書かれてなかったよね」
「そうそう。子どもの頃、何の店だろうって思ってた。しかもこのロゴもなんだかよくわからなかったなぁ。私はダイヤと王冠に見えてたんだけど」

 店のロゴは、ホームベースのような五角形の右上の角に、三つの山があるバランに似た図形の長辺が斜めに接しているものだ。店名を知った今となればラズベリーを表していると理解できるが、当時は律希も別の形に見えていた。

「俺も小学生の頃、流れ星に見えてたな」
「流れ星? うーん……見えるかなぁ?」
「この店を初めて見た前の日、近くのキャンプ場に泊まったんだ。それで夜に流れ星を見たんだよ。だから連想したんだと思う」

 この店からさほど離れていない崖上にあるキャンプ場は、今はもう廃業してさびれているが、律希にとって思い出の場所のひとつだった。

 小学生の頃に家族で来たキャンプの晩に見たのは、まるで海に落ちていくような星の群れだった。律希は、その光景にひどく感激したのを覚えている。

 翌日の帰路で見かけたラズベリーカフェの外壁に、例のロゴが描かれていた。その下には淡い水色の布製の庇があって、それらが流星と海に重なって見えたのだ。

 その時家族と交わした言葉を、律希はふと思い出した。

「……そういえば、俺の家族も王冠に見えるって言ってたな。王冠がズレた王様の顔みたいだとか」
「私と気が合いそうだね」
「……合ってたまるか、あんなやつと」

 ついこぼれてしまった本音を隠すかのように、律希は軽く口を押さえる。

 心海は気を悪くしなかっただろうか。横目で心海の様子を(うかが)うと、彼女は律希の心配をよそに微笑んでいた。

「私、そういうの好きだよ。人の本音。……ね、律希はザ・パルスの何が好き?」

 ころころと変わる話題に、律希は心と頭が追いつかない。そのせいでまた考える間もなく、心海の言葉を借りて本心をこぼすことになる。

「本音、って感じのところ」
「おんなじ! 全部ぶちまけてくれるところがいいよね」

 その言い方から察するに、心海もなにか抱えているものがあるのだろう。ありのままでいるかのように思っていたが、そうではないのかもしれないと律希は少し反省した。

「悩みとかなさそうって思ってたでしょ。私、これでも悩んでるんだよ」

 たった今反省したところで心海がそう言うから、律希はまた心を読まれでもしたのかと思った。

 それにしても、会って一時間も経っていないのに悩み相談を聞くことになるなんて。律希は普段、他人に必要以上に踏み込むようなことはしない。

 けれど心海に限ってはいかにも聞いてほしそうに律希のことを見つめてくるから、律希はやむなく彼女の悩みの原因を訊ねることにした。もっとも、律希自身だって心海のことをもっと知りたいと思っていたのだから役得ではある。

「どんなことで悩んでるの?」
「かわいいこと。名前が」

 もっと深刻な話かと思ったらここでまた名前の話に戻るなんて。律希は(もてあそ)ばれたような気分だった。

 しかしまだ詳しい内容も聞いていないのに深刻かどうかを判断するのは失礼かもしれない。律希は背筋を正して心海の言葉を待つ。

「ここみちゃん、なんて感じじゃないの、私は。本当はね? ザ・パルスみたいに、たまにはよろしくない言葉遣いで話してみたいし、女の子らしくとか、かわいくなんてしたくない……って思ったり思わなかったり──あ、これは悩み相談じゃないからね? 共感を求めた愚痴であって、アドバイスは不要だから」

 バッサリと言い切る心海に、律希は前にネットの記事で見かけた男女の考え方の違いを思い出した。共感を求めることが多い女性に対して、男性は要不要に関わらずアドバイスをすることが多いという内容だった。

 律希にも心当たりがあって、確かに誰かから悩みがあると言われたらその解決法を考えてしまいがちだ。だから、事前に求めている答えをリクエストしてくれる心海をありがたく思う。

「わかるよ、俺も」

 それは、心海が求める答えのためについた嘘なんかじゃなかった。いつものように他人のために探した正解とは違う、律希の本音だ。

 嫌なら、取り繕うのなんてやめればいい。誰かの望む通りになんてならなければいい。それでも、自分が選んでやっていることだから。自分がそうしたくてやっているのだから。律希がうまく生きていきたいのは、自分自身のためだから。いくら嫌になっても疲れても、悪いのは自分だ。

 そんな気持ちでがんじがらめで言い訳すらもうまくできなくて、だから代わりに叫んでくれるザ・パルスに救われる。

「優しいね、律希」
「いや、今のは本気で、本音だから」
「……なんか、本当はさ、こうやって愚痴とか言ってもいいと思うんだけど。ていうか、いいに決まってるけどさ。たまにはね。けどやっぱり、言いづらいんだよね。近くの友だちとか、親とか、後は何も知らないネットの人とかには」

 心海は一瞬表情を曇らせたが、それはすぐに晴れる。

「だからさ、今日、律希に会えてよかった。私たちは当然、全然違う他人同士だけど、二人ともザ・パルスが好きってことは、ちょっとおんなじってことだよね」

 心海はそう言った後で、少し恥ずかしそうに俯いた。つられて律希も、自分の頬に赤みが差すのを感じる。

「……なんか、ごめんね。勝手に熱くなって。私、変だったね」
「全然そんなことない。俺も、その……心海に会えてよかったと思うし」

 律希が普段なら絶対に言わないようなセリフを恥を忍んで言ったのは、どうしても伝えたくなったからだった。

 似ていないようで似ている、不思議と本音で話せる相手に。今言わなければ、大切な本当のことが消えてしまうような気がした。


 店を出た別れ際、律希は心海に連絡先を聞こうか迷ったが、彼女がポケットの小銭以外なにも手にしていないことに気がつき、やめた。

 それでも、また会えるかもしれない。この縁が彼女の好きな言葉を借りて、運命だとするならば。

 律希は、自分のアパートへ帰るという心海を見送る。すると彼女は遠くで手を振って、道の角を曲がる寸前に言った。

「またね! 成沢律希くん!」



 心海と一緒にいたときの清々しい気分が嘘だったかのように、律希の心には暗雲が立ち込めていた。

 息抜きはできたものの、結局のところスマホを見れば天ノ啓示やKINGのことを思い起こしてしまうし、新曲の案だってまだ何一つ浮かんでいない。

 新曲について真剣に考えようと目を閉じると、現実逃避のように心海のことを思い出してしまう。また会えるだろうか──なんて淡い期待が勝手に頭の中を支配しようとするのを、必死に振り払う。

 閃火コン優勝を目指すなら他のことにうつつを抜かしている場合ではない。それを頭ではわかっているはずなのに、本気で音楽に向き合えていない自分に嫌気がさす。

 しかし、律希はふと思いついた。心海のことを考えてしまうのなら、それをそのまま曲にしてしまえばいいのではないだろうか。

 とはいえ心海が憂-yu-のアカウントを知っている以上、もちろん単純でわかりやすいラブソングにするわけにはいかないだろう。

 元々、憂-yu-はまっすぐな歌は得意じゃない。ツミみたいに、本音を深く隠すような巧みな表現を多用している。そこはいつも通りやればうまくいくはずだ。

 今回は海を感じられるような爽やかな曲調にして、出会いを予感させるような前向きな歌詞を書いてみよう。そこまで考えが至ると、急にアイデアが溢れ出てきた。

 ノートにペンを走らせて、頭の中に広がっていく世界を取りこぼさないように出力していく。

 こうなればもう、曲の完成までは時間の問題だ。律希は心海に一方的な感謝の気持ちを募らせながら、新曲の制作に取りかかった。


 作業を始めて二時間ほどが経ち、一息つく。そんな隙間の時間にすら、心海と過ごしたときのことを自然と回想してしまう。出会ったときの驚きから、二人で喫茶店に行って色々な話をした喜び、別れたときの名残惜しさまで。

 ──その時、律希の脳裏にふと小さな疑問が浮かび上がった。

「……俺、苗字教えたっけ……」

 別れ際に心海は、律希のフルネームを確かに呼んでいた。最初に律希が名乗ったのは下の名前だけのはずだし、その後で苗字を教えたような記憶はない。

 もしかしたらなにかで知る機会があったのかもしれない。例えばスマホや財布を出したときとかに。

 心海に聞けない以上、疑問は疑問のままではあるが、フルネームなんて知られていて困ることでもないだろう。もしまた会えたらそのときに聞けばいいだけだ。

 律希は自分自身をそう納得させて、また作曲に熱中するのだった。




 九月の教室は、どこか気の抜けたような雰囲気が漂っている。

 夏休みが終わっても夏はまだ終わっていない。前にも増して騒がしい田中が、まだまだ下がりそうにない気温に不満をこぼしているのが聞こえてくる。

 自分の席で次の授業の準備を始める稲葉は、相変わらず元気がなさそうだった。律希はいつだってうまくやろうと思って生きているくせに、こんなときにすぐ気の利いた言葉をかけられない自分が嫌になる。

 だからといって諦めるようなことはしたくない。律希は話を切り出すことにすら緊張しながらも、稲葉の元へ歩み寄った。

「久しぶり、稲葉。なあ、このマッチ知ってる? 最近いいと思ってるんだ」

 共通の話題といえば、これしかないだろう。律希は蜂喪以外のマッチの曲で稲葉が好みそうなものを事前にいくつかプレイリストに登録しておいたのだ。

「知らないなぁ、どんなの?」

 思ったよりも稲葉の反応は明るかった。律希は安堵しながら曲を再生して、スマホの画面にマッチの名前や歌詞を表示させた。

 そのままスマホを稲葉に手渡して、一緒に歌詞に目を通す。

「どうだった?」
「うん、いいね。僕も結構好き」
「他の曲も聞いてみてよ、どれもかっこいいから」

 その時ふと律希は、開きっぱなしの教室のドアの向こうで廊下を通っていった人物が目に留まった。見えたのは一瞬だし横顔だけだったけれど、見覚えがあるような気がした。

 しかしそれをはっきりと確認する前に、その人物は視界の外へ行ってしまう。

「成沢、このプレイリストのスクショ、僕のスマホに送ってもらっていい?」
「あ、ああ、いいよ。──ちょっとごめん! あ、送っといていいから」

 律希はスマホを稲葉に渡したままドアの近くまで行って廊下を覗く。しかし目当ての人影はすでにそこにはなかった。

 確信はないし、もしかしたら気のせいだったのかもしれない。首を(かし)げながら律希が戻ると稲葉は満足げに微笑んだ。

「ありがとう、成沢。最近なんか、聞きたい曲とか思い浮かばくてさ。自分ではこんなにいろんなマッチ探せなかったから助かったよ」
「いや、別にそんな……」

 律希は複雑な気持ちだった。そもそも稲葉がそうなっている原因は蜂喪の炎上騒動のせいで、その火種をまいたのは自分かもしれない。

 律希がやったことは稲葉のためというよりはひとりよがりな罪滅ぼしだった。けれどそんなことを打ち明けられるはずもない。

 律希は気まずい気持ちを押し殺して、それを稲葉に悟られないように曖昧に笑うことしかできなかった。



『蜂喪とぶの活動を無期限休止とさせていただきます』

 律希がSNSでそのポストを見たのは学校からの帰り道だった。投稿日の欄には昨日の日付が書かれている。

 これでは夏休みが過ぎても稲葉の元気が戻っていなかったのも当然のことだ。稲葉は律希が薦めた曲を喜んでくれたように思えたが、本当はまだ蜂喪のことで落ち込んでいたのに無理をしたのかもしれない。

 後悔の気持ちが湧きあがると、それと共に出てくるのは言い訳だった。

 ランキングのせいで焦っていたから。どうしても優勝したいから。KINGを見返したいから。だから、天ノ啓示からのメッセージに返事をしてしまったのは仕方のないことだったんだ。そもそも優勝したいという意思を伝えただけなのだから、何も悪いことなんてないじゃないか。

 指先は無意識にスマホの画面をスクロールする。保身に必死な自分に嫌気がさした頃、気づけば天ノ啓示とのDM画面を開いていた。

『蜂喪とぶを炎上させたのは、俺のためですか』

 入力したあと、送信ボタンの上で指先が泳ぐ。自分の心臓の鼓動がいつもよりも大きく聞こえる。

 天ノ啓示にそんなことを訊いてどうするつもりなんだ。そうではないという答えをもらって安心したいのか。そうだという答えをもらったら、それからどうしようというのか。

 律希は決意したようにSNSを閉じて、スマホをポケットに差し込む。頭の中からもやを振り払うように早足で自宅に向かう。

 そうして送れなかったメッセージと共に、自分の弱さを飲み込んだ。



 ──自分のやり方は、間違っていないだろうか。

 律希がよく考えることだ。そしてまさに今も、自室のベッドに転がりながら頭の中で自問自答を繰り返していた。

 閃火コンで優勝してやる。はじめにそう思ったのは、KINGのせいだった。けれど作曲をしているうちにKINGなんかどうでもよくなって、純粋に頑張ってみようと思った。

 しかし今はまたKINGや天ノ啓示のことを考えて、自分が本当は何のために優勝を目指しているのかわからなくなってくる。

 自分が本当はどうしたいのか、その答えを探すことが一番難しい。けれど唯一わかっているのは、自分はああはなりなくない(・・・・・・・・・)ということだ。

 どうせKINGも天ノ啓示も、正体はあいつ(・・・)みたいな奴なのだろう。律希は、自分の兄のことを思い浮かべる。


 律希の兄──正臣(まさおみ)は、律希の四つ上の二十一歳だ。今もこの家に住んでいる。それどころか、ずっと自分の部屋にいる。

 学校にも行かず、仕事にも行かない。正臣はいわゆる引きこもりだった。実家の自室という小さな城から出てこないのだ。律希が最後に正臣の顔を見たのは、二年近く前になる。

 正臣はおとなしく真面目な性格だった。それでも昔は明るく優しかったのだ。それがいつからか段々と人との関わりを拒むようになり、今ではこの有り様だ。

 本格的におかしくなったのは、大学受験がうまくいかずに浪人を決めてからだ。その頃から引きこもりがちになり、気がつけば部屋から出てこなくなった。

 その頃から母親は正臣に向けていた分の期待やプレッシャーを律希に背負わせるようになり、父親は見切りをつけたかのように色々なことに無関心になった。二人とも元からそういう性質はあったが、より顕著(けんちょ)になったように感じる。

 最初は律希だって正臣のことを気にかけていたが、そのうちすっかり諦めた。聞く気のない人間に、何かを響かせるなんて不可能だと思ったからだ。

 今となっては、律希は正臣のことが嫌いだった。

 他人を受け入れる器もなく、他人に受け入れてもらう努力もせず、家族とすら関わりを断ち、ただ自分の殻にこもって出てこない。

 自分はああはなりたくない。絶対に、正臣のように下手な生き方をしたくない。

 何も成さずに引きこもっているだけの正臣の自室が防音室であることも気にくわない理由の一つだ。父が趣味で作ったというその部屋は、子どもの頃からの律希の憧れだったのに。

 律希は、正臣に対して醜い感情を抱いているという自覚は持っていた。だから正臣のことは誰にも話したりしないし、正臣に対して何かをしたりはしない。

 ただ、自分の行く先が同じ道でないように願いながら、正臣に背を向けて進んで行こうと決めているだけだ。

 けれどその先がどんな道なのかも、自分がどんな道を目指すべきなのかも、律希にはまだわからない。

 もし閃火コンで優勝できたら、もちろん嬉しいだろう。けれどそれから自分はどうするのだろうか。

 KINGが手のひらを返せば本望だろうか。優勝したという喜びを一人で噛みしめて、いい思い出にして満足するのだろうか。

 今の律希にそれらの答えはわからない。けれど今さらやめようだなんて一ミリたりとも思わなかった。

 蜂喪の件は、もしかしたら自分のせいかもしれない。しかしそうであれば、なおさら辞退なんて考えられない。もう、戻ることはできないのだから。

 そうであれば余計なことなんて頭の中から切り捨てて、とにかく今は優勝を目指さないといけない。何をしてでも勝ち取りたかったからこそ、あの日、律希は天ノ啓示にメッセージを送ってしまったのではないか。

 逃げることは簡単だ。答えが出ないから突き進むなんていうのは、もしかすると逃げることと変わらないのかもしれない。

 しかし、逃避が楽だと言うのなら、律希の歩みはそれとは違う。逃げるのも進むのも向き合うのも、楽な道なんかもうどこにも残されていないのだから。



 憂-yu-が閃火コンに提出した二曲目は、ランキングで以前の曲よりいい順位を保っていた。

 それでも律希が素直に喜べないのは、実力ではない可能性が脳裏にちらつくからだ。

 天ノ啓示が、なにか裏工作をしたのかもしれない。自分の知らないところで別のマッチが何かによって引きずり下ろされたのかもしれない。

 いくらでも浮かぶ悪い可能性を頭から排除させようと、優勝という二文字をひたすらに唱えながら、律希はノートパソコンに向かう。

 提出期限までまだ余裕はあるが、今のうちから三曲目のことを考えておかなくてはいけない。自分が注げる最大の熱量で、最終審査へ(のぞ)めるように。

 それなのに作りたい音楽も書きたい歌詞も、理想も夢も浮かばない。はじめは楽しかった音楽制作だが、いつからかもう楽しむための手段ではなくなってしまったようだ。

 こんなことは望んでいなかったはずなのに。音楽というものが自分にとってどういう存在だったのか。ハッキリとした答えが出せない自分に、律希は心が揺らぐのを感じていた。


 律希はおもむろに閃火コンのランキングのてっぺんに居座るツミの名前をクリックする。表示されるのはツミが閃火コンに提出した二曲目のタイトルだ。

 あんなに熱心に追いかけていたツミの新曲だというのに、律希はまだ聴いていないどころかそのタイトルすらたった今初めて知った。

 律希はツミの新曲を、上の空のまま聞いた。以前までの律希が今の自分を見たら信じられないと思うだろう。

 今の律希には、ツミとはいえ他人の音楽を深く味わう余裕がなかった。それでも、いくらいいかげんに聞いたって、ツミの曲がいいということだけはわかる。

 やっぱりツミは律希にとって、どうしようもなく神様たる存在なのだ。


 そもそも律希がTOMORIで曲を作り始めたのは、ツミに出会ったのがきっかけだった。

 音楽の趣味が合う仲間がいない。音痴な自分の声で歌うわけにもいかない。自分が音楽で表現をすることは、環境が許してくれないかもしれない。

 八方塞がりだと落ち込んでいた時にツミの曲を聴いて、世界が変わった。

 TOMORIというツールがあれば作詞も作曲も入力も出力も、ぜんぶ自分一人の手でできる。ツミみたいになりたい。ツミみたいに本音を上手に繕って、キャッチーに仕上げて、そんなふうにうまくやりたいと思った。自分が目指す生き方と同じように。

 きっと今はそれなりにできているはずだ。律希はうまく生きられているし、憂-yu-だって結果を出せている。ほんの少しだけかもしれないが、自分はツミに近づけていると思っていた。


 今回の曲で、憂-yu-が閃火コンのランキングでいい順位を取れていることは事実だ。裏で何かが起こっているとしても、事実だけは揺らがない。だから心配することなんて何もないじゃないか。

 しかし自分にいくら言い聞かせたって、すぐに頭の中が不安に侵食されてしまう。

 ──こんなんじゃダメだ。まだ足りない。

 蜂喪の時のように、また何かがあればすぐにランキングは変動するだろう。次は自分が下がる番かもしれない。

 だから、もっと上を目指さなければいけない。しかし自分でできる宣伝なんてたかが知れている。

 SNSを開けば、KINGが(あざけ)る声が聞こえる。宣伝方法を工夫したところで劇的な変化が訪れるような気はしない。変えるなら、もっと根本的な部分だ。


 律希は自分が投稿した二曲目の曲を聴き直す。心海のことを想いながら作ったこの曲は、爽やかさを意識したコード進行は王道だが悪くいえばありきたりで、メロディラインもどこかで聞いたことがあるような気さえしてくる。

 曲を完成させた瞬間は達成感に満ちていたせいで自覚できなかったが、歌詞にはそこはかとなく気色悪さを感じる。陳腐(ちんぷ)な響きの、大衆向けのインスタントなフレーズの羅列にしか思えなかった。

 ──ダメだ。もっと、もっともっともっと、いい曲を作らないといけない。

 このままで優勝なんかできるわけがない。そもそもランキングがいいからって安心していたのが間違っていた。

 目指すのは優勝だ。望むのは頂点だけだ。そのためにはツミさえも超えて一番に上がらなければいけない。

 ありきたりや王道では、自分程度のマッチは注目なんかしてもらえない。もっと、みんなが聞いたことのないような、しかしみんなが望んでいるようなものを作らないといけない。

 律希はそれから、狂ったようにTOMORIの曲を聴き込んだ。

 こういうのではない。こうしてはいけない。似てはいけない。ツミみたいなんて言われても喜ぶべきではない。誰らしくもないオリジナルで且つ、みんなに響かなくてはいけない。

 律希はひたすらに、研究して、作って、確かめて、『一番いい曲』を作ろうとしていた。



「最近、顔色が悪いんじゃないか」

 父親はテレビ画面から視線を移さないまま、律希に言った。さして興味もないくせに、そういうところに気づきはするのだ。

「そう? ちょっと遅くまで勉強してるからかな」
「ほどほどにした方がいいぞ。誰にだって、限界はある」

 きっとそれは、律希を心配しての言葉なのだろう。頭では理解できたものの、今の律希には違う意味に聞こえてならない。

『だからお前には無理だ。諦めろ』

 頭の中で勝手に父親のセリフの続きを読み上げるのは、想像上のKINGの声だ。

 うるさい、やってやるから今に見てろ。律希はKINGのイメージ像を頭の中で切り裂いた。


 そうして律希が自分でもわけがわからないほどに熱意を注いでできた新たな曲は、今までに作った作品とはまったく違った雰囲気に仕上がった。

 それも当然だ。どこにもないような曲を目指したのだから、過去の自分なんて一番超えるべきところに似ていたら困る。

 律希は、すでに閃火コンへ投稿済みだった二曲目を差し替える。今までに得たリスナーからの票はリセットされてしまうが、それでも以前の曲を超えられるという自信はあった。

 それから数日が経ち、新たな曲へリスナーからの反応が寄せられる。肝心の内容は、賛否両論といったところだった。

『なんか憂-yu-っぽくないね』
『こういうのも作れるなんてすごい』
『前の方がよかった』

 とはいえ、こうなることは予想の範囲内だ。

 律希自身も、以前にザ・パルスが今までの作風を(くつがえ)すようなバラードの新曲を発表したときは、なかなか受け入れ難かった。しかしそれも今は大好きな曲のひとつになっている。

 きっと少しの時間が経てばみんな受け入れてくれるし、この曲のよさに気づくだろう。現に今だって、MVの投稿サイト上でリスナーたちが好評価を選ぶ頻度は上がっている。

 律希はどこかで聞いたことのある曲にならないよう意識したし、今のところ何かに似ているというようなコメントは来ていない。

 しかし実のところ、律希にはある狙いがあった。表面的に似せようとしたつもりはないが、一滴だけ他人の曲のエッセンスを淹れたことを認めるのならば、それは蜂喪だと答えるだろう。

 蜂喪のファンたちの中には、稲葉のように応援するマッチを失って宙ぶらりんな気持ちを抱えている人も多いだろう。

 律希にとってのツミのように、誰かにとっての蜂喪は『神様』だったかもしれない。それがいなくなってしまう悲しみは耐え難いものに違いない。そして、新しい神様を探しているかもしれない。

 だから律希は、そこを狙った。

 本当に少しだけ、ほんのわずかに、蜂喪っぽさを感じられるように。けれど少し聞いたくらいで似ているとまでは思われないよう、慎重に、狡猾に、蜂喪のファンたちの票を集められそうな曲にしたのだ。


 うまくやるというのはこういうことだ。大丈夫、自分はできている。票が入るペースは前よりも早い。律希はわずかに肩の力が抜けるのを感じた。

 久々に休息をとることにした律希は、ツミの最新曲を改めて聴こうと思った。前は余裕がなかったとはいえ、ツミの曲をちゃんと聴こうとしなかったのが自分でも信じられない。

 『メサイア』というタイトルのその曲はツミにしては遅めのテンポで、穏やかな雰囲気が漂っていた。しかし絶え間なく鳴る不規則な電子音がバラードらしさを薄め、ポップな音楽に仕上げている。

 音はツミらしさを感じるが、歌詞はそうではなかった。いつものようなリズムを重視した言葉選びではなく、詩的な表現を意識しているように思える。

 ツミもまた、自分らしさを削って新しい音楽を生み出そうと思ったのだろうか。

 律希はメサイアを何度も聴いた後で、特に印象に残った歌詞をメロディに合わせて口ずさむ。

『一番星を目指した 海底に落ちてゆく星よ』
『ヒトデの傍で眠り 太陽が昇れば風に乗れ』
『行き先なんて どこへでも』
『姿かたちが変わっても 灯るかがやきは消えないから』

 歌詞の情景を思い浮かべて、律希は自分の記憶と重ね合わせる。キャンプの晩に見た流れ星。ラズベリーカフェのロゴの勘違い。こんな偶然があるだろうか。

 ツミっぽさ(・・・・・)で喜ぶのは卒業したはずだったのに。感性が似ているのかもしれないと思うと、くすぐったい気持ちが湧いてくる。やはり律希はどうしようもなく、ツミのことが好きだった。



 稲葉はいつからか、元気を取り戻していたようだ。教室に入った律希に気がつくと、明るい表情を浮かべて近づいてきた。

 律希は内心ほっとしながら、稲葉に軽く手を挙げて挨拶をする。それから稲葉が口を開いて、とんでもないことを言い出した。

「成沢、閃火コンって知ってる?」
「えっ、ああ、うん、知ってるけど……」

 稲葉は律希がツミを好きだと知っている。ツミがエントリーしている閃火コンのことを隠すのは不自然だと判断して、律希は正直に告げた。

「じゃあこの曲も知ってるかな? 僕、ユウってマッチの『空中分解ノスタルジア』がすごい好きなんだよね」

 稲葉が、律希の目の前で憂-yu-の曲を再生する。まさか学校で、目の前で、他人から自分の曲を聞かされる日が来るなんて思いもしなかった。

 なんとか平静を装いながら、律希は口を開く。

「……あー、うん、聞いたことはあるよ」
「これよくない? なんとなく蜂喪とぶっぽいところもあってさ、まあ蜂喪とぶと比べればちょっと爽やかというか、なんかこう同じモチーフを違う画材で描いたみたいな……あ、ごめん、話しすぎた。なんか嬉しくて」

 照れ臭そうにはにかむ稲葉の前で、内心もっと照れているのが律希だった。

 自分の曲の感想を他人の口から聞くのは初めてだ。話しすぎなんて言わずにもっと聞かせてほしいとは思ったが、憂-yu-であることを隠している以上そう言うわけにもいかない。

「そんなに好きなんだ? よかったじゃん、いいの見つけて」
「うん、よかったよ。もう蜂喪の新曲ってのは少なくともしばらくは聞けないと思うし」

 稲葉の嬉しそうな顔に、律希の胸がちくりと痛む。

 蜂喪のファンであった稲葉がこの曲を好んでくれたのは、まさに律希の狙いどおりだ。それなのに今さら良心が痛むのは何故だろう。

 けれどそこに目を向けちゃいけない。その直感は、律希がこのまま突き進むために必要なものだった。

 律希はわざと考えることを放棄して、何事もなかったかのように稲葉と話を合わせ続けた。



「ただいま」
「おかえりなさい」

 帰宅した際の義務的なやり取りをすると、母親は満足そうに微笑んだ。ここまではいつも通りなのだが、今日はなんだか何かが少し違う気がする。

 キッチンに立つ母親は上機嫌で鼻歌混じりに料理をしている。その様子を少し観察してみると、普段より華やかな化粧をしていることに気がついた。

「どっか行くの?」
「大学時代の友だちと会うのよ。それで、そのまま実家に泊まってくるの。夕飯は作っておくから──よろしくね」

 よろしくね、という一言にどんな意味があるのかを察した律希は、わずかではあるが顔を歪ませる。母親が作った夕飯が三人分であることはわかっている。

 母親はそんな律希を見ると、お父さんにも言っておいたから、と付け足した。これで責任の所在は父親に移るだろう。律希は内心ほっとした。


 自室に行って、椅子を引く。腰を下ろしながらノートパソコンに手をかけたところで、律希は違和感を覚えた。

 昨晩、ノートパソコンの上にメモ帳を置きっぱなしにしたような記憶があるが、今はメモ帳がデスク横の棚の上に置かれている。律希は普段そんなところにメモ帳を置いたりはしない。もしかすると誰かが動かしたのかもしれない。

 やったとすれば、母親だろうか。とはいえ母親は機械に(うと)く、自らノートパソコンに触るとは思えない。

 しかし、律希が音楽にかまけていないかをチェックしようとしたと思えば疑う余地はある。もしくは勝手に部屋を掃除しようとした、というのもあり得る話だ。

 とにかくパソコン周りを勝手に触らないでほしいと後で母親に伝えておこう──律希はそんなことを考えながら、ようやくノートパソコンを開く。

 余裕のあるうちに閃火コン最終提出作品となる三曲目のことを考えておかなくてはいけない。

 TOMORIのソフトを立ち上げ、学校でメモした歌詞のアイデアを見ようとスマホを見る。するとSNSの通知が今までに見たことのない数になっていた。

 憂-yu-のなにかがバズったのだろうか。しかし特に話題になるような投稿をした心当たりはない。期待半分、疑問半分でSNSを開いて律希は思う。

 ──どうして自分は、そのこと(・・・・)を忘れていたのだろう。

『最低。見損なった』
『これ本当? コラ画像?』
『待って、蜂喪とぶの炎上ってこの人のせいじゃないの』
『どういうことですか。説明してください』
『まぁ、そういうことやる奴、出てくると思った』
『このスクショっておかしいですよね?』
『卑怯すぎ。こいつの曲聞いて同類と思われたくない』

 憂-yu-に届く投稿の数々は、批判的な内容ばかりだった。

 考えなくてもわかる。──炎上している。

 律希が震える指先で人々のポストをたどっていくと、火元はすぐに見つかった。

『憂-yu-は閃火コン参加者を(おとしい)れようとしている』

 投稿者はKINGだった。早く通報でも何でもして対処しておくべきだった。後悔の念が頭の中にそのかたちを作り上げる前に、KINGのポストに添付された画像が目に飛び込んでくる。

「は……?」

 思わず、目を疑った。その画像は、DMのスクリーンショットだった。憂-yu-と天ノ啓示がたった一度だけ交わしたやり取りだ。

『閃火コンで優勝したいですか』
『はい』

 天ノ啓示とKINGが結託していたのか。思い浮かんだ瞬間、すぐにその仮説は間違いだと気がついた。スクリーンショットは、憂-yu-のアカウント側の画面だった(・・・・・・・・・・・・・・・・)からだ。

 どうして律希自身が撮ってもいないスクリーンショットをKINGが持っているのだろうか。そんなのありえない。

 あまりの衝撃に思考停止しそうな脳を必死に働かせると、もしかしたら不正アクセスされたのかもしれないという答えに行き着いた。しかし憂-yu-のアカウントのログイン履歴を慌てて確認しても、自分以外がログインしたような形跡はない。

 律希が撮ったスクリーンショットでもない。不正アクセスもされていない。頭の中が疑問符で埋めつくされる。

 できることといえばKINGを通報することくらいだが、そうしたところでこの炎上騒動が収まるはずもない。

 憂-yu-に届くポストの数々に片っ端から説明をするとしても、そうしている間にまた新しい批判が飛んできてキリがない。

『誤解です』
『信じないでください』
『理由があるんです』

 書いては消し、書いては消し、それでも憂-yu-が投稿すべき弁解の正解は見つからない。

 正解なんて存在しないことはわかっていた。スクリーンショットは嘘でも誤解でもなくて、ただひたすらに真実なのだから。いくら理由を述べたって、それは言い訳としか思われないだろう。 

 ──なす術なく、律希は項垂れることしかできなかった。




 スマホでSNSを開けば、そこは未だに燃え盛っている。昨晩よりは勢いが衰えたものの、相変わらず次から次へと憂-yu-に対するネガティブな意見が飛び交っている。

 律希は暗い気持ちを引きずったまま、校舎裏のベンチで昼休みを過ごしていた。

 胃に何かを入れる気が起きない。とはいえ低血糖なんかで倒れるわけにもいかない。念のために買っておいた栄養補助食品のゼリーをかろうじて流し込む。

 深いため息と共に背中を丸め、地面に目を伏せる。これからどうしよう。憂-yu-としてのクリエイター人生はもう終わった……かもしれない。

 そもそもは天ノ啓示にメッセージを返したりした自分が悪かったのだから、炎上したことは甘んじて受け入れるべきなのだろうか。あんな些細なことがきっかけで、あれだけ熱を注いだ目標を諦めなければいけないのだろうか。

 KINGのせいで始めた夢を、KINGのせいで諦めるのか。──なんて滑稽(こっけい)なんだろう。

 律希は、強く握りしめた右手を自分の膝に勢いよく振り下ろす。

「くっそ……」
「おやおや、どうしたのかな」

 不意に律希の頭上から降ってきた軽やかな声は、どこか聞き覚えがある響きだった。律希が顔を上げると、ベンチの後ろに立っていた人物が瞳を覗き込んできた。

「久しぶり、成沢律希くん」

 ……運命か、これは。色々な感情で頭の中がごちゃ混ぜになって、律希はうまく言葉が出ない。

「ね、運命かも、って思った?」

 律希の通う高校の制服を身にまとった心海が、無邪気に笑う。いつだかに廊下で見た人影は、律希の気のせいなんかではなかったようだ。

「え、同じ学校だったの──っていうか、もしかして初めから知ってた?」
「もちろん」

 律希の質問にうなずく心海を見て、彼女に成沢という苗字を知られていた理由に納得がいく。ちょっとしたドッキリに引っかかったような気分だ。

「なんでそれ、最初に教えてくれなかったの」
「自力で気づいてほしかったんだもん。それなのにさぁ、律希ったら隣のクラスだっていうのに全然気づいてくれなかったね?」

 律希の学年は全部で八クラス。三百人近くの同級生をみんな把握しようだなんて考えたこともない。

 とはいえ隣のクラスだったのには驚いた。自分はそんなに周りが見えていなかったのだろうかと、律希は少し落ち込んだ。

「実は意外とドライでしょ、律希って。他人にあんまり興味がない。どう? 当たってる?」
「……エスパーなんだな、やっぱり」
「ふふふ。それで、そんなドライな君がそんなにへこんでるなんて、余程のことがあったのかな?」

 律希は答えない。話してしまおうかなんて迷いは一ミリたりとも湧かないが、関係ないからと心海を突き放すような真似はしたくない。

 それに、彼女に対してうまく嘘をつける気もしなかった。ここまで言葉選びを悩むのは、心海を前にしたときと歌詞を考えるときくらいだ。

「……秘密なの? それなら私、当てちゃおうかな。エスパーだし」
「いいよ、当ててみて」

 律希の中で、当てられるわけはないだろうという気持ちと、いっそ当ててくれれば楽になれるかもしれないという気持ちがせめぎ合う。

「炎上したから、でしょ」

 ──まさかそんなことがあるだろうか。いよいよ本当にエスパーじみてきた。

 律希が目を見開いて心海を見ると、彼女は得意気に微笑んでいた。答えに(きゅう)する律希に向けて、心海が続けて口を開く。

「ね、ユウさん」

 疑問が溢れる頭で律希が絞り出したのは「なんで」のたった一言だった。

「だってバレバレだったもん。ザ・パルスを好きな人に、あんなふうに偶然会えるわけない。ユウさんが隣のクラスの成沢律希くんだったのにはびっくりしたけどね。それにユウさんは甘い飲み物が苦手だってSNSで投稿してたし、実際律希もそうだったでしょ」

 言われてみれば確かに、憂-yu-は以前にSNSでそんな内容のポストを投稿したかもしれない。ラズベリーカフェで律希が心海に注文を合わせようとして、心海の頼んだメニューは甘いと教えてくれたのは、実はかまをかけられていたのか。

 運命みたいだったけれど、運命なんかじゃなかった。いや、これはこれで運命的ではあるのかもしれない。

 律希は観念して肩を落としながら、呟くように言った。

「……呆れた?」
「へ、何に?」
「ユウじゃないとか嘘ついて、それもバレてるし。ネットでは炎上してるし。なんか、ダサいじゃん。俺」
「ふはっ」
「……笑っちゃうよな、そりゃ」

 『俺のこと、嫌いになった?』──そう訊ねてしまいそうになるのをこらえて、自嘲する。なんかもう、何もかもダメかもしれない。

 そんな律希の横に当然のように座る心海は、これまた当然のように言い放った。

「別に呆れたりしないよ」
「なんで……」

 律希はつい疑問をこぼしたが、すぐにそれを後悔する。ここで理由を訊ねるなんて一番格好がつかないと思ったからだ。まるで慰められるのを待っているようではないか。

 しかしすでに心海は、無邪気に微笑んで口を開いていた。

「な、ん、で、も! それよりいいこと教えてあげよっか?」
「え……なに?」

 心海から提供されそうな情報でいいことといえば、ザ・パルスの話題くらいだろうか。しかし今の律希は、どんなことがあっても喜んだりする余裕なんてないと思っていた。

 それでも自分のためを思ってくれている心海にどんな反応をすればいいだろう。律希がそう思案し始めた頃、もったいぶっていた心海がスマホの画面を見せつけてきた。

 そこにはKINGの、憂-yu-をけなしているいつも通りのポストが表示されている。しかしよく見るとそれはポストをタップした先の詳細画面で、そこには位置情報が記載されていた。

「これって──」
「このキングって人、ご近所さんみたいだね」

 SNSで表示される位置情報は、市町村までだ。KINGのポストに載っているのは、確かに律希の住む市の名称だった。

「……近所で投稿してるって、まさかストーカーじゃないよな……?」
「それか、リアルの知り合いとかじゃない? 律希、心当たりないの? こんなにいちゃもんばっかりつけて叩くなんて、もしかしたらなにか恨みがあるのかもしれないよ」

 恨まれるようなことをした覚えはない──と言いたいところだが、律希の頭には蜂喪のことが浮かんでいた。

 とはいえ、憂-yu-か律希に恨みを持った人間がいたとしても、二人が同一人物だと知っているはずがない。誰にも話したことはないし、ネットの人間にもリアルの人間にもバレるはずがないのだ。

 それはまさに今律希の真横に座っているたった一人を除いて、の話になるが。

「心当たりは──ないといえばないけど、あるといえばあるかも」
「なにそれ、結局わかんないってこと?」

 心海が小さく笑ったところで、昼休み終了を知らせるチャイムの音が鳴り響く。彼女は立ち上がって、励ますように律希の肩を軽く叩いた。

「ま、あんまり気にしない方がいいんじゃない? やっぱりこういうときはさ、ザ・パルスの歌を聴いたり歌ったり弾いたりすれば、ちょっとは元気出るかもよ!」



 恨まれているとしたら、誰からだろう。もしかすると自分の知らない間になにかしてしまったのだろうか。逆恨みなんかもあり得るかもしれない。

 律希は帰り道でずっと考えていたが、やはりその答えは出なかった。

 玄関に入ると、家の中がやけに静かに感じた。比喩ではなく、リビングからいつもの母親の声もテレビの音も聞こえてこないのだ。ふと律希は、母親から今晩も実家へ泊まると連絡があったことを思い出す。

 母親がいないということは、いつもより自由ということだ。昨晩は炎上のことで頭がいっぱいだったが、今は慣れと心海のおかげでほんの少しだけ余裕がある。

 心海が提案してくれた気晴らしの方法のうち、聴くのはもうやった。歌うのは気分じゃない。弾くのは──最近はめっきりやっていない。そもそも自分の楽器すら持っていない。

 けれど律希は知っていた。幼い頃に憧れた父のギターは、きっと捨てられてはいないはずだということを。


 夜の七時過ぎ、仕事から帰った父親が靴を脱ぐのも待たずに、律希は声を弾ませながら訊ねる。

「おかえり! あのさ、父さんのギターって今どこにあるの?」

 父親は、疲れが滲む低い声で軽い相づちを打ちながら革靴を脱ぐ。

 ずいぶんと遅い返事は、おそらく質問の答えを考えているからだ。父親の性格からして思い出すのに時間がかかっているのだろうという予測をするのは簡単だが、律希は待ち遠しくて仕方がなかった。

 ずっとあのギターを弾いてみたかった。父親の宝物は、律希にとっても特別だった。

 ザ・パルスを知った頃に、ギターを貸してくれと父親に頼んだことがある。そうしたら断られて、代わりにくれたものはある約束だった。

『俺より音楽が好きになったら、このギターはあげるよ』

 今の父親よりも自分の方が音楽が好きに決まっている。あの頃の父親よりも音楽が好きだという自信すらある。

 とはいえ、何がどのくらい好きかなんて本来比べるものではない。そのことは律希も理解していたし、父親だってきっとそうだ。

 それでも父親があんな約束をしたのは、きっと律希にも自分と同じように音楽を好きになってほしかったからなのだろう。だから、律希はそれに応えたかった。音楽が本当に好きなんだと、そう伝えるつもりだった。

 ようやく思い出したのであろう父親が、ギターの在りかを口にするまでは。

「ああ、あれなぁ、ずっと前に、あげたよ」
「──はぁ? だ、誰に」

 律希の心には怒りと戸惑いに似た気持ちが、一瞬にして渦巻いた。そんなことをよそに父親は、まったく悪びれる様子もなく、あっけらかんとした調子で言う。

「正臣に」

 律希の心の中では戸惑いが多くを占めていたのに、それらを怒りが覆っていく。

 どうしてあんな奴に。なんでいつも先に奪っていくんだ。憧れだった防音室に、宝物だったギターまで。

「律希、あのギターが欲しかったのか?」

 父親はまるで初耳だとでも言わんばかりの表情で、それが余計に律希の神経を逆撫でる。そうだ、と答えるのが馬鹿らしくて、かといって父親のことを(ののし)るような気も起きない。

 唇を噛んで黙ったままの律希に、父親はまたなんの悪意もこもっていないような口ぶりで言う。

「でもお前、別に音楽とか好きじゃないだろ」



 怒り、戸惑い、悲しみ、呆れ、それらのどれにも形容しがたいやり場のない感情を抱えて、律希はしばらく玄関で立ち尽くしていた。それで気が晴れるわけもなく、律希はついに歩き出す。

 破れそうなくらいの、ノックというよりは殴るといった強さで叩いたドアの向こうに、声をかける。胸に詰まった感情や、うるさい鼓動の心臓や、理由のわからない涙が、震える声と一緒に溢れてしまいそうだった。

「おい、開けろよ」

 ドアの向こうから返事はない。律希はドアノブに手をかける。

 どうせ鍵がかかっているだろう。そう思ったのに、意外にも、ドアはすんなりと開いた。開いてしまった。

 その部屋は──かつて父親が趣味で使っていた防音室には、律希がこの世で一番嫌いな相手がいた。

 そいつは部屋に引きこもって、関わりを拒んで、そのくせに親の哀れみだけは受け入れて、ただただ落ちぶれているはずだった。窓もない部屋で、不健康な生活をして、自堕落(じだらく)で、きっとKINGや天ノ啓示みたいな奴の人物像のイメージ通りのはずだった。

 二年近くの時を経て顔を合わせた正臣は、きちんと整えた髪型をしていて、シワのないシャツを着ていて、洒落たフレームのメガネをかけていて、どうしようもなく、ちゃんと(・・・・)していた。

「……律希」

 正臣は以前よりも落ち着きのある声で、弟の名を呼ぶ。その瞳には名伏しがたい感情が揺らいでいた。

 律希は、戸惑い、躊躇(ためら)っていた。あんなに嫌っていた兄が、想像とまったく違っていたのだ。だったら自分は何を嫌って、何を心の支えにしていたのだろう。

 ──ああはなりたくないと、そう思って生きてきたのに、そんなものは存在していなかった。

 逃避するように正臣から視線を外し、部屋の中を見回す。きちんと整理整頓された部屋は、やはり律希の想像とはかけ離れていて、見れば見るほど心が乱される。

 父親のギターはしっかりとスタンドに置かれていて、大切に扱われている様子だった。ギターがあるのは正臣の座っているデスクチェアのすぐそばで、それはいつでも手に取って弾けるように選ばれた場所だということを感じさせた。

 背の高い棚にはびっしりと音楽関係の本が並び、壁面にはコレクションのようにCDが飾られている。机にはデスクトップのパソコンが置かれ、さらにはモニターも二台並んでいる。

 モニターの中で開きっぱなしのブラウザには閃火コンのランキングが表示されていて、別のタブはSNSの投稿画面のようだった。

 そこに書かれているユーザーネームを見て、律希は目を疑った。受け入れがたい現実が次々と立ちはだかるせいで、実はぜんぶ夢なのではないかとすら思ってしまう。

「お前……お前が、そうだったのか」

 その言葉に正臣はハッとして、律希の視線を追った先のモニターを見つめる。それからなにかを考えるように視線を伏せて、数秒経ってからおもむろに口を開いた。  

「ああ……そうだよ。『KING』は俺なんだ」

 どうしてそんなことを。なんでお前が。律希はこみ上げてくる感情を抑えて、なんとか言葉を紡ぎ出す。

「や、やっぱりな。そうだと思った。どうせお前みたいな奴だと思ってたよ!」

 元から、KINGはきっと現実でもどうしようもない奴なのだろうと想像していた。王の名の通りに自分の城に引きこもっているのだろうと。まるで正臣のような奴なのだろうと。

 その正体が、本当に正臣本人だったなんて。やっぱりそうだった。思った通りじゃないか。

 けれど綺麗に腑に落ちたわけではない。正臣の方は律希の想像と何もかもが違っていたのだから。

「……そう。俺みたいな奴か。律希がイメージしていた俺は、一体どんな姿だった?」

 皮肉めいた正臣の物言いに律希は口をつぐみかけて、しかしここでそうしたらなんだか負けたみたいではないかと悔しさに肩を震わせる。それから律希は整理できないままの頭の中をそのまま出力し始めた。

「かっ、関係ないだろ、俺がお前をどう思ってたかとか──大体、お前は引きこもりでどうしようもない奴で、しかもキングとか名乗って実の弟のアンチをしてて……それは全部事実だろ!」

 律希は言い切ったところで、ふと気づく。そうだ、そもそもおかしいじゃないか。そのことは、誰も知らないはずなのに。

「お前、ユウのこと……俺がユウって、知ってたの?」

 正臣はパソコンの画面を見つめたまま、答えない。律希は返事を待ちながら視線を泳がせた先で、モニターに映るもうひとつのタブを見つける。

 そこにはココが映っている。リビングのペットカメラの映像だ。ココはおもちゃのぬいぐるみを口にくわえたまま振り回して、それがサークルに当たったことで音が鳴る。

 その瞬間、律希の中で結び付いた。無関心な父親や機械に疎い母親が、ペットカメラの導入なんてできるわけがない。やったのは正臣だったんだ。

 それで、部屋から出ないまま一方的に会話を聞いて家族みんなのことを把握して──そんなのまるで監視ではないか。やっていることはストーカーと変わらない。

 そこで律希が思い出したのは、昨晩の自室で炎上のことを知る前に、デスクの物の配置に違和感があったことだ。

 KINGはどうやって憂-yu-のDM画面のスクショを入手したのか。今となっては、その答えは明白だった。

「俺のパソコン……見てたんだろ」

 律希は何も言わない正臣に近づき、胸ぐらを掴む。

「お前、何がしたいんだよ。何のためにこんな──」

 そうしたことで、正臣の後ろで何かを隠すように覆っていた布が床に落ちる。それであらわになったのは、MIDIキーボードだった。

 まただ。また理解不能なことが起きた。どうしてこいつがそんなものを持っている。律希が幼い頃から憧れていた防音室とギターを父親から譲り受けて、さらには律希がずっと欲しかったMIDIキーボードまで手に入れているなんて。

 譲ってもらったものはまだ理解できる。けれど、MIDIキーボードは父親のものではない。パソコンすら持っていない父親が使うわけがない。それは譜面の打ち込みをするものだ。

 それをどうして正臣が持っている。

 律希は正臣から手を放して、MIDIキーボードに近づく。すると、その下に数枚のメモ用紙が挟まっていることに気がついた。

 メモ用紙を引き抜くと、見覚えのある言葉が羅列している。連なる言葉たちには丸やバツが重ねてあって、それらが採用か不採用かを示しているのだとすぐにわかった。

 ──ツミの曲の、歌詞だ。

 防音室にギター、音楽関係の本、閃火コンの画面、MIDIキーボードと、明らかに歌詞を練っていたと思われるメモ。律希の脳内では、すでに最悪の答えが弾き出されていた。

 けれど口に出したくない。言えば、正臣に答えを確かめれば、それが真実であることを信じざるを得なくなってしまう。

 メモ用紙を握りしめたまま立ち尽くす律希に、正臣はぼそりと呟くように言った。

「全部、俺だよ」

 律希はゆっくりと正臣を見る。律希の頭の中には絶望が満ちていて、今にも耳を塞いで部屋を飛び出してしまいそうな衝動に抗っていた。

 正臣はそんな律希のことを、観念したような、悟ったような、冷静な瞳で見つめ返す。

「キングは俺。天ノ啓示にユウとの接触を頼んだのも俺。それから……ツミも、俺」

 わけがわからなかった。あんな最低なKINGと神様であるツミが同一人物で、さらにその正体が正臣だなんて。

 何が起きればそんなことになるのかわからない。正臣が何の目的でそんなことをしたのかも、まったく見当がつかなかった。

「な」

 律希はなにか言ってやろうと口を開いたが、言葉に詰まる。ひゅう、と喉が鳴る。まるで息の仕方を忘れてしまったかのように苦しくて、言うべき言葉が見つからない。

「なん、なんなんだよ、お前、本当に……」

 絞り出した声はしんとした部屋に消えていって、正臣がそれを拾い上げたのは数秒の沈黙の後だった。

「律希。……お前が悪いんだ」
「は、はぁ?」

 こちらが正臣を責めることはあっても、責められる覚えはない。確かに律希は正臣のことを嫌っていたし、反面教師にして生きてはきたが、それらを悟られるようなことはしていないはずだ。

「お前がいつまでも、しょうもないことしてるからだ」
「しょうもないって……なんだよ。そんなこと、お前に言われる筋合いないだろ。お前なんか──」

 お前なんか、ただ引きこもって何もしてないくせに。頭に浮かんだ反論は、もうすでに正臣には通らない。

 ツミは、素晴らしい音楽たちを生み出してくれている。たとえその正体が正臣であっても、それを無意味なことであるかのような言い方はできなかった。

「俺に言われる筋合いがない? 違う、俺が言うべきなんだよ。お前の、ユウの作る音楽は全部俺の──ツミの下位互換ばっかりなんだから」

 KINGの投稿が、頭の中でよみがえる。確かに今正臣が言ったような内容のポストも多かった。あれはひたすらに憂-yu-をけなしたかったわけじゃなくて、本当に心の底からそう思っていたのか。

 だからといって納得なんてできない。ツミのようになりたかったのは確かだけれど、真似ばかりしていたわけではない。

 何も知らないくせに。どんなふうにツミに憧れて、どんなふうに悩んで、どんなふうに音楽を作ってきたか。それなのにどうして、すべてを踏みにじるようなことを言えるのだろう。

「ふざけんな、俺のこと何も知らないくせに──勝手なこと言って決めつけんなよ……!」

 律希が憧れたものは、全部正臣のところにあった。受け入れたくない。信じたくない。

 それなのに、それらはぜんぶ真実で、それを知らしめるかのようにギターの青は鮮やかなままでMIDIキーボードは輝いて見える。

 律希はもう立っているのも嫌になって、だからといって正臣の前で弱みなんて見せたくなくて、部屋を飛び出した。そのまま玄関の外へ出て、あてもなく走る。


 ──神様なんかいない。きっとそうなんだ。

 努力は報われなくて、努力していないと思っていた奴がすべてを持っていて、ツミという神様は、神様なんかじゃなかった。

 ほとんどが夜に染まった空の遠くが赤く燃えていて、律希に炎上騒動のことを連想させた。

 いっそこのままぜんぶ焼き尽くされてしまえばいい。憂-yu-も、律希も、もう、これからどうすればいいかわからないから。

 ツミという神様は、もう神様じゃなくなった。正臣という道しるべは、もう間違った道を示してくれない。

 だったらもう、信じるべきものも進むべき道もわからない。律希はひたすらに走った。この先に何があるかも、行くべき方向もわからないまま──ただ、なにかから逃げるように。




 気がつけば、隣町まで来てしまっていた。すっかり暗くなった道を、まばらな街灯だけが頼りなく照らしている。

 ──これからどうしよう。

 冷静さを取り戻した律希は、とりあえずスマホを取り出してみる。一晩も経てば、SNSの通知の増え方はすっかり衰えてきていた。

 炎上したとは言っても、憂-yu-は所詮有名人でもなんでもない。どうせすぐに飽きられて、忘れられるだろう。少なくとも、便乗して騒いでいるだけの外野はそうなるはずだ。

 けれど、そこにある事実は変わらない。憂-yu-は天ノ啓示とメッセージを交わした。天ノ啓示のせいで蜂喪とぶが炎上した。それらが誰の策略であっても、起きたことはただただ真実として残り続ける。

 KING──正臣のことを思えば思うほど、理解ができない。結局は、憂-yu-の作る音楽が気に入らなくて、炎上させることが目的だったのだろうか。

 あんなやつの気持ちなんか、わかってたまるか。

 ぐつぐつと煮えたぎる怒りをなんとか抑えながら、律希はSNSの通知画面を素早くスクロールする。この動作に意味なんてない。むしろ誹謗中傷が目に入るのだからやらなければいいとすら思うが、時折届くファンからの言葉をどうしても期待してしまっている。

『心配してる』
『父さん』

 通知欄から飛んだDM画面には、そんなメッセージが表示されていた。送信元はKINGだ。

 どんな心境でこんなことを言えるのだろう。律希は思わずこぼれた舌打ちと同時に、KINGのアカウントをブロックした。

 本気で心配していれば父親が自分で直接連絡してくるはずだ。けれどスマホを見る限りその様子はない。

 基本無関心で変に楽観的なあの父親のことだ。どうせ思春期にはよくあることだとでも思っているのだろう。そうだとしてそれに反論するつもりはないが、律希は今まで家出なんかしたことがなかった。

 このまま一晩帰らないつもりなら、ネカフェやカラオケという選択肢もあるのかもしれない。けれど高校生だとバレてしまったら補導されておしまいだ。

 家出ってどうやってすればいいのだろう。今まで真面目に生きてきたのに、それで困ることになるなんて。


 律希が大きなため息をつくと、ちょうどスマホから通知音が鳴った。いい加減に父親が本気で心配しだしたのかと思いながらメッセージアプリを立ち上げたが、予想は外れる。

 今まで稼働する様子のなかったグループチャットが、動き出したようだった。メンバーは、小学生時代の同級生たち。卒業する頃にクラスのリーダー的存在が作ったものだった。

 卒業してすぐの頃は他愛のないやり取りが交わされていたが、中学、高校とみんなの道が別れていくほど、グループの影は薄くなっていった。高校二年生になった今では誰ひとりとしてメッセージを送ったりしなかったのだが、リーダーの宮野がなにかを思い立ったらしい。

『同窓会のお知らせ』

 そんな文言から始まるメッセージの下には、ずらりと詳細が並んでいる。適当に目を通しながら歩いているうちに、いつの間にか公園の前にたどり着いていた。

 とりあえずベンチにでも座ろうかと公園に足を踏み入れた瞬間、奥の方からから下品な笑い声が聞こえてきた。

 遠目に窺うと、いわゆる不良といった感じの、歳は律希と同じくらいに見える少年たちが集まって騒いでいる。彼らを見た瞬間、律希はすぐに(きびす)を返した。

 関わらない方がいい。KINGや正臣のことを除けば、律希の日常は平穏でうまくいっている。それらに影響を及ぼすかもしれない因子は避けられるのなら避けるべきだ。

 その一心で公園から遠ざかろうとしたとき、歩道の先から一人の少年が歩いてくるのが見えた。

 あの集団の仲間だろうか。律希は目をそらしながら少年とすれ違おうとしたが、その瞬間、少年に肩を掴まれた。

 どっと冷や汗が出るのがわかる。しかし振りほどいて逃げる勇気もなく、律希は恐る恐る少年の方へ振り返った。

「律希。やっぱり、律希だよな?」
「……紘斗(ひろと)?」

 律希が怯えていた相手は、かつての同級生だった。紘斗は一度ブリーチをしただけのような黄味の強い金髪で、黒地に金の糸で刺繍されたジャージを身にまとっていた。

 律希が紘斗に最後に会ったのは小学生の時だ。あの頃はいかにも快活そうでサッカー少年といった感じの見た目をしていた。それから実際にサッカーが上手かったことも覚えている。

 少なくとも見た目は、昔と今とでは相当変わってしまったようだ。律希は目の前の不良少年が紘斗だと気づけた自分を褒めたいくらいだった。

「そうだよ、紘斗だよ。よくわかったな。律希、一人で何してんの。こんなとこで」

 何をしているのか、はこっちのセリフだと思った。世の不良たちは夜な夜な公園なんかで集って一体何をしているのだろう。そう思いはしたものの律希はすぐに、今の自分と同じかもしれない、ということに気がついた。

 居場所がない。だから仕方なく、時間や年齢に縛られず誰に止められるわけでもない公園に来る。もしかしたら、そんなのも彼らにとってこんなところに集まる理由のひとつかもしれない。

「あぁ、いや、ちょっと……」

 家出、と言うのはどこか気恥ずかしくて、律希は言いよどむ。視線を泳がせたとき、紘斗の手元にあるコンビニの袋に目が留まった。

「……それ、って」

 律希はつい疑問を溢しそうになって、慌てて口をつぐむ。しかし紘斗には律希の疑問が伝わってしまったようで、紘斗はばつが悪そうに口を開いた。

「あぁ、先輩のバイト先でさ」

 それを聞いた律希は、入手経路ではなく使用用途の方がどちらかというと問題だと思った。とはいえこの件に深掘りする気もないため、曖昧に笑うことで話題を終わらせる。

 紘斗は袋からタバコの箱を取り出して、ジャージのズボンのポケットに押し込む。それから、袋に残った炭酸の缶ジュースを一本、律希に差し出した。

「はい、口止め料」
「いや、そんなの、いいって」
「冗談だよ。やるよ、普通に。せっかくだし、ちょっと話そうぜ」
「あー……」

 公園の方へ促すような視線を送る紘斗に、律希は不良の集団を見つめることで返した。それで何かを察したのか、紘斗は律希の肩に手を置いた。

「あれ、俺の知り合いだから。別に変に絡んできたりしないから大丈夫。行こ」

 律希が尻込みしている一番の原因を排除されると、誘いを断る理由が見つからなくなってしまう。

 半ば強引な誘いに、やむなく律希は紘斗の後ろを歩いていく。やがて紘斗は公園の入口近くのブランコに座って、律希も(なら)うように隣のそれに腰を下ろした。

「いやー、久々だよな、ほんと」

 紘斗がそう言ったとき、遠くの集団から野次が飛んだ。

「紘斗、誰それ?」
「おとなしそうなお友達じゃん!」

 無駄に大声で笑う集団に、律希は一体何がそんなに可笑しいのかと疑問に思う。しかし群れというのは気が大きくなるものだということを学校生活でよく学んだのを思い出した。

 それにしても、あれは紘斗のいう変な絡み(・・・・)には該当しないのだろうか。

「昔の同級生だよ、ほっとけ! あいつらいちいちうるせぇなぁ……ごめん律希。で、何してるんだっけ。家出?」

 唐突に図星を突かれて、うまい言い訳や隠す理由も思いつかない律希は、うなずきながら口を開く。

「まぁ、そんなとこかな」
「へー、なんか意外。律希って結構適当そうに見えて、でも実は真面目で、けど本当はそんな感じなんだ? ……まぁ何でもいいけどさ」

 律希は紘斗からそんなふうに思われていたことを初めて知った。どうやらはっきりしない印象を持たれているらしい。

 流れるようにポケットからタバコの箱を取り出す紘斗の手つきを、律希は思わず凝視してしまった。紘斗はそれに気づいたのか、すぐにタバコをポケットに引っ込める。

「わり。今はやめとく」
「あ、あぁ、ごめん、気遣わせちゃって」
「いや、俺から誘ったし」

 律希はどことなく、息苦しさを感じていた。

 小学生の頃は、休み時間や放課後に、一緒に遊ぶことも多かったのに。けれど今はきっとお互い全然違う日常を送っていて、価値観や何もかもがあの頃とは違うのだろうということが嫌でもわかる。

 それでも、今、偶然とはいえ二人の道が交わった。心海のように運命なんてたいそうなものを信じているわけではないが、律希はなんとなく、こういう機会は大切にするべきかもしれないと思った。

「……紘斗、グループチャット見た? 宮野が送った、同窓会のやつ」
「あぁ、さっき来たやつな。見たよ」
「紘斗は行くの?」

 律希が言うと、紘斗は何ともいえない苦い顔をする。

「……やめとく、かも」
「あー、そうなんだ」

 深入りはしない。したってきっといいことよりも、何かに巻き込まれたりして後悔する方が多いだろう。律希はそう思ったはずなのに、どういうわけか頭に浮かんだ疑問を口から溢そうとしていた。

 きっと心海のせいだ。運命の話なんかするからだ。それにエスパーって実はうつるのかもしれない。

 律希には、ある予感があった。いま訊かなければ、きっと紘斗はその胸中に抱えたものを教えてくれないだろう。そして、たまたま交わっただけの二人は、また離れて二度と会うこともないだろう。そんな予感だ。

 たとえそうだとしても、別に構わないはずなのに。紘斗はただの昔の友だちで、どうしても繋ぎ止めたい関係性なんかではないはずだ。それなのに何故か、再びの別れの予感が、とてもいやなもののように思えた。

「なんか、あるの?」

 律希が訊ねたことに驚いたように、紘斗は言葉を詰まらせる。見かねた律希は、再び口を開いた。

「紘斗って、こういうの行きそうなイメージだったから。だから、どうしたのかなって……ごめん。言いたくないこと訊いたかな」
「あ、いや、律希がそういうの訊いてくるの、珍しいと思ったんだよ」
「え、そう?」
「だってお前、なんか他人に興味なさそうだったじゃん。流されるまま、なんでも受け入れます、みたいな。あ、けなしてるわけじゃないからな。俺はむしろ、お前のことかっこいいって思ってたよ」

 他人に興味がなさそう。確か心海にも同じことを言われた。実際、そうであるという自覚はあるが、それがこんなにも周りにバレているとは思わなかった。

 うまくやっているつもりでも、立ち回りがまだ甘いのかもしれない。そんな反省をしつつ、律希にはどこか嬉しいような気持ちもあった。

 本当の自分のことをわかってくれている人がいる。そこまで言うと勘違いになるかもしれないが、それでも、それと似た気持ちがあるのは確かだった。

「律希はなんか芯はあるっていうか、決めるところは決めるっていうか、そういう時はハッキリしてたからさ。昔、なんか女子──木村だっけ。あいつが上級生とモメた時に味方してやったりしてたよな」

 言われてみれば、そんなこともあったかもしれない。律希からすると、多分その頃はその頃でうまい立ち回りを考えていただけのような気もするけれど。

「だから、いい奴って思ってたよ、俺。他人に興味なくても、優しい奴なんだなって。そしたらさっき、俺のこと訊いてくるからさ、あー律希も昔より他人に興味持つようになったのかって。って言っても、会うの何年ぶりって感じだよな。そりゃ変わりもするか」

 正直なところ、律希は紘斗にそこまでの興味があるわけではない。ただ、この縁をすぐには切らないでおこうという気まぐれで、会話を繋いでみただけだ。
 
「……まあ、興味がなければ訊いたりしないよ」
「だから、律希も変わったんだなって」
「そうかな。紘斗も自分が変わったと思うの?」
「そりゃあ、まぁ。見ての通り。……律希、俺みたいな奴の話きいてくれる気あんの」
「あるよ、もちろん」
「そう。……そうか。ま、大したことじゃないんだけど」

 それから一呼吸置いて、紘斗は話し始めた。

「兄貴が死のうとしたんだよね」

 予想外の重みがあった紘斗の台詞にどう反応するべきかわからず、律希は言葉に詰まる。

 頭の片隅で、紘斗の兄は確か正臣の同級生で、不良のリーダーのような存在であったということを思い出していた。

「結局生きてるんだけどさ。まぁそれはどうでもよくて……いや、どうでもはよくねぇけど──とにかくその原因が、宮野の姉貴となんかあったらしいんだ。それも同窓会で」

 つまり紘斗は、宮野と顔を合わせづらいということなのだろうか。

 それにしても、律希の方からは深掘りしにくい話題だ。兄が死のうとしたという言い方は、そのまま受けとれば自殺未遂という捉え方になる。

「宮野に、会いたくないってこと?」
「いや、そういうわけじゃねぇけど……むしろ会うべきではあると思ってる。俺、宮野に言いたいことあるから。でも合わせる顔がねえっていうか……」
「……言いたいことって?」
「まぁ、なんかその、謝罪、みたいな。兄貴が死のうとしたって言ったけど……あいつ、被害者ぶってるだけなんだ。そんなんじゃねぇのに。兄貴が悪いんだよ、本当は」

 紘斗が言葉に詰まりながら話す様子は、打ち明けるべきかどうかを躊躇っているように思えた。

「……俺、紘斗の兄ちゃんたちに何があったのかはわからないけどさ、紘斗が宮野に言いたいことがあるなら、ちょうどいい機会だったんじゃないの? わざわざ呼び出して二人で会うより、同窓会って理由があるなら気が楽じゃん」
「まぁ、そりゃあそうだけど……てか、律希は? 行くの?」

 律希は一瞬、沈黙した。本当は同窓会なんて気分じゃない。けれど、ここで言うべきなのは本音ではないと思った。

「行くよ。だから紘斗も一緒に行こうよ」
「……じゃあ、行く」

 きっと、これでよかったんだ。同窓会に行くのは本望ではないけれど、これが運命というものなのかもしれない。

 心海の言う通り、運命という言葉は便利だと思った。すべてをそのせいにするのは、気が楽だ。

「あとさ、律希──」

 紘斗が言いかけたとき、誰かが自転車に乗って公園に入ってきた。それに気づくと同時に紘斗が「やべ」と小声で言って、律希の腕を掴んで遠くの出入口に走る。

「な、なに、急にどうしたの?」
「あれ、補導。俺、まだあいつら中にいるし様子見に行くから、律希はこのまま行けよ。また同窓会でな。捕まるなよ、家出少年」

 律希を公園の外へ連れ出すと、紘斗は仲間たちのためなのか来た道を戻っていってしまった。補導ということは、自転車に乗っていたのは警察官だったのだろう。

 補導されて家に帰されました──なんてことになったら、初めての家出は大失敗にも程がある。律希は紘斗の言葉に甘えて、公園を後にした。


 律希はまた、あてもなく彷徨(さまよ)い歩く。ふいに頭によぎったのは、母親のことだった。ここの最寄り駅からなら、母親の実家近くの駅への終電はまだあるだろう。

 口うるさい母親だが、鬼ではない。勉強の息抜きとでも言えば許してくれるはずだ。

 律希は母親の実家に身を寄せることを決めた。すると、頭の中でKINGが律希に臆病者と吐き捨てた。

 結局自分は、何者にもなりきれないのかもしれない。ありのままでは普通でいられないくせに、わざと道を踏み外すのは恐ろしくて、自分の行き先をちゃんと見据えることもできない。

 あんなに嫌っていた正臣は、ツミであり、KINGだった。どちらにしてもきっと彼らは、やるべきことを理解して、やりたいようにやっていたのだ。律希とは違う。

 律希は正臣がうらやましくなって、けれどすぐに、そんな感情を覚えた自分に嫌気がさした。一体、自分は今まで何を見ていたのだろう。正臣の、ツミの、KINGの何を知っているのだろう。

 答えの出ない問いを抱えたまま、人もまばらな電車の椅子に座り、不規則な揺れにからだを預ける。窓から見える小さな灯りは、ひとつひとつが人々の営みの証だった。