「ああ、うん。いいよな、俺も好き」

 成沢(なりさわ) 律希(りつき)は、愛想よく返事をした。同級生である田中が、流行りのアーティストの新曲の感想を律希に語ったところだった。

 チャイムとほぼ同時に二時間目を担当する教師が教室に入り、クラス中に散っていた生徒たちがきちんと自分の席につく。田中も例外ではなかったが、律希の席からは田中がこっそりと片耳にワイヤレスイヤホンをつけるのがよく見えた。

 一瞬見えた田中のスマホ画面には、先ほど彼がどれほど優れているかを散々熱弁していた曲のタイトルが表示されていた。教師の目をかいくぐって授業中にまで聞こうとするあたり、よほど気に入っているのだろう。

 律希は安堵する。実のところ、ついさっき自らが放った言葉には言いかけてやめたフレーズがあった。

『俺も普通に(・・・)好き』

 言わなくてよかった。咄嗟(とっさ)の判断は正しかった。

 ──普通に好き。そのセリフは一見ポジティブな同調に思えるが、まあまあ、といったニュアンスを含んでいる。少なくとも律希はそういうつもりで、そのフレーズを言いかけた。


 高校二年生、五月。クラスの顔ぶれが新しくなって、ひと月が経った。

 特に問題のあるような生徒はいない。みんなそれなりに仲良くしている。とはいえ、まだ互いに距離感や価値観を見定めている時期だ。

 そんな中で律希は人一倍、不和が生じないように気遣いができているという自負があった。

 人間関係は些細なことの積み重ね。そして十七才である自分にとって、同級生間での立ち位置は重要だ。律希はそう胸に刻んで、学校という狭い社会を生き延びている。

『律希のこと、うらやましいよ。見た目もいい、性格もいい、それを素でやってる感じがさ』

 以前、さして仲良くもない同級生からのそんな言葉に腹を立てたことがある。素でやっているなんて心外だ。こっちはちゃんと考えて、努力しているというのに。

 けれど律希はその怒りをすぐに飲み込んで、受け流した。

 ──ああはなりたくない(・・・・・・・・・)

 心の中にこびりついているそんな気持ちのおかげだった。気を遣うこと、理解されないこと、そんなの全部我慢できる。

 律希の中に存在している反面教師の偶像。お守りのように握りしめているうちに、その黒い感情と共存するのは当たり前になっていた。

 それによく考えてみれば、同級生が見ている律希が取り繕った姿だとバレていないのは、喜ぶべきことですらあった。

 自分の立ち振舞いは間違っていない。自然に見せることができている。だから大丈夫だ。そんな律希の安心感を、例の同級生の言葉は裏付けてくれているに等しかった。

 うまくやれているという自信があった。今だって『普通に』なんてたった一言の本音を言いとどまったことで、田中の気を悪くせずに済んだのだ。

 律希は田中と同じようにイヤホンを片耳に押し込んだ。音楽アプリの履歴から、田中が熱愛する例の曲を再生する。

 この曲を好きだと言ったのは嘘じゃない。この世に嫌いな曲なんてない。どんなに好みとかけ離れた音楽だって、何かしらの学びはあるからだ。



 家の玄関に飛び込むと、必死に抑えていた(はや)る気持ちを解き放つ。帰宅後のルーティンをこなすこともせずに、律希は自室のノートパソコンの画面に釘付けになる。律希の両耳を、数年前に父親から譲り受けた高級ヘッドフォンが覆う。

 ツミ(・・)の新曲が動画サイトにアップロードされた。学校でその通知を見た瞬間から早く見たくて聴きたくて、待ち遠しくてたまらなかった。

 スマホという小さな箱の中の再生ボタンさえ押せば、ツミの創造した世界を一瞬のうちに共有してもらえる。けれど、休み時間や帰り道なんかでそれをするのは我慢した。

 だって、ツミは神様(・・)だから。

 ツミというクリエイターは、律希の憧れで、尊敬の対象だった。そんな神様(・・)の作品を片手間に安物のイヤホンで聴くなんて、(おそ)れ多いし、勿体ない。

 ──今回の新曲も、最高だった。

 律希がツミの世界を分けてもらうとき、はじめは、再生ボタンを押してから目をつぶる。繊細な音の粒をひとつだって逃さないように、聴覚を研ぎ澄ませる。

 二度目は、画面から目を離さない。ツミの曲のMVといえば白無地の背景に歌詞が踊るようなテロップが流れるのがお決まりだ。

 ひとつの音も聞き逃さずに、画面を穴が空くほど見つめて、メロディの構成や歌詞の意味を考えるところまでが、律希の考える『聴く』ということだった。

 ツミの曲は人気がある。ポップでキャッチーなメロディにたまに毒気が混ざるようなところが若者たちを中心に注目を集めていた。けれど律希が特に好きなのは、ツミが(つづ)る歌詞だった。

 一見テンポを重視したような言葉選びには、深いところにツミの本音が隠されている──ように思える。それは毒であることも、恥ずかしいくらいの賛美であることもある。

 何にせよそれをすぐには気づかせないように、親しみやすく明るい歌へと昇華させているのがすごいところだ。

 性別や年齢などの素性をまったく明かしていない正体不明のクリエイターであるツミだが、その本心を自分はちゃんとわかっている──律希は、そう自覚していた。

 繰り返し聴いて、余韻に浸って、夕飯や入浴のときは頭の中で再生させる。そうしていると──心にふつふつと湧いてくるものがある。


 すっかり夜が更けた頃、律希は再びノートパソコンを開く。自室を照らすのを常夜灯のささやかな光だけにしたのは、自分による自分のための、一種の演出でもあった。

 目的のソフトを立ち上げると、マイクを持つ少女のキャラクターイラストがタイトルと共に表示される。キャラクター名と兼ねたこのソフトのタイトルは『TOMORI』という。合成音声によって楽曲のボーカルパートを制作するためのものだ。

 律希が作曲を始めてから一年は経っている。今までに作り上げた曲の中には投稿サイトで再生回数5000を達成したものもあるし、大して稼働させていないSNSのフォロワーは1500を超えた。

 律希はその結果に満足していた。

 リスナーから送られるコメントには、曲の雰囲気がツミに似ているという旨の内容も多い。好意的なものがほとんどだったし、ツミに似ていると思われるのは律希にとっては嬉しいことだった。

 ノートパソコンのキーボードを叩き、TOMORIに歌詞を入力していく。いまいちだと思っていた部分の改善案が、ふいに思い浮かんだ。

 素晴らしいと思えるものに触れたときは打ちのめされてしまうことだってあるけれど、律希はどちらかというと意欲が湧くことの方が多かった。

 自分もやりたい。こんなふうになりたい。なにかを作りたい。表現したい。そんな感情が、律希のことを突き動かす。

 夢中で作曲に打ち込んでいると、背後でドアノブが下がる音がした。律希は素早くTOMORIのウインドウを縮小し、事前に準備しておいたPDFファイルを開く。

 そんなに興味もない、それどころかほとんど読めもしない英語の論文だった。だが、いかにもそれっぽい(・・・・・)

 律希の目論見(もくろみ)通り、勝手に部屋を覗いてきた母親はノートパソコンの画面を見て満足そうに微笑んでいる。

「遅くまでがんばってるのね。あんまり無理しないのよ」

 適当な返事をして、母親が去ったのを確認してからPDFファイルを閉じる。律希は思わず、小さなため息をついた。

 理想の環境を手に入れるには、まだまだ先が長そうだ。

 律希は以前からずっと、MIDIキーボードが欲しいと思っていた。パソコンに繋げば、ピアノを弾く要領で音階の打ち込みができるという優れものだ。

 それがあれば、マウスでいちいち譜面を入力していく(わずら)わしさから解放されるのだ。それに何より、せっかく作曲をするならばという憧れが大きかった。

 しかしMIDIキーボードはその大きさ故に、パソコンのウインドウほど咄嗟(とっさ)に隠すことに向いていない。だから律希は少なくとも家を出るまでは憧れを手にすることを諦めていた。

 自らの学歴にコンプレックスを持つ母親は、自分の思う理想の人生を息子を通してやり直そうとしている。そこに趣味のジャンルである音楽制作が入る余地はない。


 一瞬TOMORIから離れたことで、集中が途切れてしまった。律希はスマホを手にし、だらしなく背もたれに寄りかかりながらSNSを開く。

 数時間前から停滞させていたタイムラインを駆け抜ける。そこで律希はふと画面をスクロールさせる指を止めた。

『【閃火(せんか)コン開催決定!】』

 そのポストを発信したのは、TOMORIのソフト制作にも関わっている大手音楽レーベルだった。

 TOMORIを使って楽曲制作を行うクリエイターのことをマッチと呼ぶ風潮がある(マッチで火を(とも)す=TOMORI(ともり)が語源らしい)。閃火コンというのはそれに掛けたネーミングなのだろうと律希は推測する。

 下に続く概要には、コンテストを通して次世代を担うマッチと出会いたいというような文言が書いてあった。添付されていたイメージポスターの画像は、マイクを空にかざすTOMORIと『くすぶりで、セカイをともせ』というキャッチコピーが目を引く。プロアマ不問らしいが、おそらく新人発掘が目的のコンテストだろう。

 興味深く応募要項を眺めたが、どうやらタイトなスケジュールで曲作りをするのが必要になりそうだ。大まかに、半年で三曲の提出が必須になる計算だった。

 それを知った途端に、先ほどまで温度を上げ続けていた律希の中の熱意はゆっくりと冷めていく。

 律希にとって作曲はあくまで趣味だった。肉体的にも精神的にも、必死になってまで頑張るつもりはない。

 胸の高ぶりはすっかり収まってしまい、またタイムラインをゆるゆるとスワイプしていく。そのとき、誤ってなにかをタップしてしまったようだった。

 律希の指先が触れたのは、誰かのポスト上のハッシュタグだった。スマホの画面が、そのハッシュタグを使用したポストで埋まる。

 律希が思いがけずに検索する羽目になったのは、『#炎上神判』というワードだった。

『バイト先の店長キモすぎ。なんかいつもわざと肩とか触ってくる。本名載せていい?』
『注意!この絵師、詐欺です!依頼絵を全然仕上げてくれません!』
『うわーこいつまた差別かよ。すぐ事実をねじ曲げて都合よく話すよな』

 そこには、人々の憎悪(ぞうお)怨恨(えんこん)、たまに正義感までもが渦巻いている。このハッシュタグがここまで大勢の人たちに使われる理由は、律希も知っていた。

 『#炎上神判』をつけたポストに書かれた人物は、自称・炎上屋である『天ノ啓示(あまのけいじ)』というアカウントが炎上させてくれるらしい。

 ただし炎上させる人物の選定は天ノ啓示の独断と偏見によるそうだ。しかし、実際、天ノ啓示の手によってSNSを通じて追い詰められた人物は今までに何人もいた。

 こんなことをして、何が楽しいのだろう。律希自身はそう思うが、そういったパフォーマンスを面白がる人がいるということは知っている。そういう人たちはきっと、他人のことが気になって仕方がないのだろう。

 そういう感覚に心当たりがないわけではない。律希だって作品を世に向けて発信している以上、他人からの評価を求めていないといえば嘘になる。

 とはいえやはり、他人の事情を暴いて晒して、娯楽として消費するのは悪趣味だ。関わりたくもない。

 律希はスマホ画面を冷めた目で見つめる。そのハッシュタグを使うことも使われることもないだろうという気持ちから、興味本意で『#炎上神判』の検索結果をスクロールする。

 そこでふいに目についたのは、『憂-yu-はツミのパクリ野郎』というポストだった。

 背筋に冷たいものが走る。どうしてここに、その名前が書かれている。それは──憂-yu-は、律希がマッチとして活動するときの名前だ。

 そのポストを投稿したアカウントのホーム画面へ飛ぶと、ヘッダーもアイコンも、おそらくはIDも初期のままいじっていない、いわゆる捨てアカウントのようだった。唯一かろうじて設定されているユーザー名『KING』には、何の心当たりもない。

 そのKINGが投稿しているポストの内容は、どれもこれも憂-yu-の悪口ばかりだった。

『つまらない曲を作るな』
『何を言っているかわからない』
『マッチなんかやめてしまえ』

 それらを目にする度に、胸の中がざわめいて、鼓動が大きくなるのがわかる。味わったことのない感覚は、受け入れがたいものだった。

 ──たった一人だ。広い世界のたった一人に嫌われたところで、何も変わらない。それに、よく言うじゃないか。アンチがいるのは人気がある証。つまり、憂-yu-にとってこれは喜ぶべきことですらあるはずだ。

 そう自分自身に言い聞かせることで心に防波堤を作り、律希はスマホの画面を消した。

 天井を見上げると、椅子が軋んでギィ、と音をたてる。暗い部屋にぼんやりと光る暖色の常夜灯が、闇を照らす灯台のようだった。



 ──あんなの、気にしないのが一番だ。そう心に決めたはずなのに、何をしていてもずっと頭の片隅でKINGが悪口を吐いてくる。

 律希の人生で初めてのアンチとの邂逅(かいこう)からひと月が経とうとしていた。時が傷を癒すとはよく言ったものだ。しかしKINGは存在感を薄めるどころか、むしろその影をより濃くしていた。

 どういうわけか数人ではあるがKINGのフォロワーも増えている。賛同する意見を持つ人が他にもいるということなのだろうか。

 見れば見るほど、考えれば考えるほどに、黒い感情が自分の中に湧き出てくるのを律希は感じていた。それならばもうKINGのアカウントなど見なければいいのだが、その存在を知ってしまった以上、どうしても気になってしまう。


 昼休み、律希が教室で弁当を食べていると、遠くの席でどちらかというと派手な方に属するグループの女子たちが騒いでいた。どうやら人気のある男性アーティストの話題で、彼女たちは音楽よりも顔の造形に興味があるようだった。

 別に聞きたい話でもないし盗み聞きなんて趣味はないが、勝手に聞こえてくるものは仕方がない。

 そんな時、あるタイミングで一人の女子が話しだしたのはTOMORIに対する悪口だった。あれを好む人はオタクっぽいだとか、声に感情がこもってなくて不気味だとか。

 ──ちゃんと聴いたこともないくせに。律希は心の中で毒づいた。

 その後で、わざわざあんな話をBGMにしなくても、はじめからイヤホンをしておけばよかったのだと気がついた。若干心が荒れたのを自覚しながらも何の気なしにスマホでSNSを見ると、目に飛び込んできたのはKINGのポストだった。

『憂-yu-はツミの下位互換』

 今の律希には、それがトドメとなった。


「目も耳も腐ってんなら! 生で脳みそにぶちこんでやる!」

 律希は絶叫した。

 カラオケルームに、生々しく刺のある歌詞がこだまする。イライラしたときのとっておきのストレス発散方法が、ヒトカラだった。

 最初に歌ったのは、ザ・パルスという四人組のロックバンドの曲だ。特別流行ってもいなければ、万人受けするような要素もない。泥臭くて正直でたまに下品な、一年前まで活動していたバンドだ。

 曲のアウトロが終わり、律希は勢いよく喉にコーラを流し込む。心身共に、少しスッキリしたのを感じる。さっきまでは頭に血が上っていたのだ。

 冷静に考えてみると、KINGのポスト──憂-yu-はツミの下位互換というのは、都合よく受け取ればクリエイターとしての方向性が同じということではないだろうか。それをアンチとはいえ第三者に認められるなんて、光栄ではないか。

 カラオケ機器の画面の中のランキングには、TOMORIで制作されたタイトルも多く並んでいる。それだけ世間に認められているということだ。

 とはいえもちろん、中には昼休みの女子たちのような考えだってある。律希はそのことを理解しているつもりだった。それでも、いざ目の前で口にされると平常心のままではいられなかった。

 律希は、カラオケに行くのは絶対に一人でと決めている。自分の宝物を本当に大切にできるのは自分だけ。たとえばザ・パルスのように大好きなアーティストの曲を、自分の声とカラオケの音源で、その曲に初めて出会う人に聞かせたくなかった。

 それから、律希が人前で歌わないのにはもう一つ理由がある。それは律希の隠したい秘密でもあって、誰にも話したことはない。

 一人は楽だ。人に合わせるのも本心を隠すのも必要ない。

 ツミの曲をいくつか、機器に送信する。予約リストが律希の大好きなタイトルで埋まっていく。

 次の曲のイントロが始まってマイクを持ったとき、部屋のドアが勢いよく開いた。

「成沢! ぼっちで何してんだよー!」

 田中だった。同級生二人を引き連れて堂々と乱入してきたのだ。遠慮という言葉は知らないらしい。

 当然のように席に座って、田中は馴れ馴れしく律希に肩を組む。律希は慌ててカラオケ演奏を中止させるボタンを押した。

「そっちこそ、なんだよ急に」

 あくまで冷静を装いながら、曲の予約リストを一括消去する。脳みそ直結型の喋り魔である田中がTOMORIの話をしているところなんて見たことがないからだ。

「カラオケ行くなら誘えよ、なぁ?」

 同意を求める田中に、山井は軽い返事をし、稲葉は少し困ったように笑った。

 田中は賑やかな奴だ。山井も同じく。しかし稲葉は二人とは少しタイプが違う。

 どちらかというと大人しくて、カラオケという場はあまり似合わないと感じる。おそらく田中がその場のノリで誘ったのだろうと律希は推察した。

 手持ち無沙汰をごまかすように稲葉が触っていたもう一台のカラオケ機器を、田中が横から奪う。入力しているのはやはり今朝話していた例のアーティストの新曲だ。

 一緒にこの部屋にいることも歌うことも、律希は許した覚えがない。とはいえストレス発散という目的はすでに達成したし、田中たちの歌を聞くだけなら構わないと思っていた。

 けれどそれだけで済むはずがないのだ。だからなんとかしてこの場を切り抜けないといけなかった。それも、感じが悪くならずに、不自然ではないように。

 考えている間に田中が歌い終わり、それから山井。時の流れがひどく早い。焦りのせいで、脳がうまく働かない。その間に稲葉がマイクを置いて、それじゃあ次は。

「成沢、なに歌うの?」

 それだけは、避けたかったのに。律希は涼しい顔で悩むフリをしていたが、服の中では冷や汗をにじませ、内心ではほぼパニックに(おちい)っていた。

「まだ決まんねーの? んじゃ、これ歌ってよ」

 律希の返事も待たずに、田中が勝手に人気ランキングから曲を選ぶ。イントロが始まる。律希も知っている曲だ。

 渡されたマイクを、律希は微かに震える手で握る。それを止めようと稲葉が軽く手を伸ばしたような気がしたが、律希はもう、曲の最初のフレーズを声に出していた。

 ……どうしようもなかった。仕方ないだろう。ここで歌わないのは一番ダメだ。

 そう自分に言い聞かせることで、律希は耳を塞ぎたくなるほどに音を外した自分の声から気をそらす。

 はじめは律希の歌声に驚いた様子の田中だったが、すぐに笑って、もう一つのマイクを握りしめた。そんなに下手なら俺が歌ってやると言わんばかりの態度だったが、田中はわかりやすく律希の声をかき消すような大声で歌い始める。

 律希はそれが罪滅ぼしのためなのか自分のことを庇うためなのかまではわからなかったが、とにかく気を遣われたということだけはすぐに察した。

 曲のアウトロが終わり、恐る恐るみんなの反応をうかがう。山井は肩を震わせて笑いをこらえている。稲葉は小さく拍手をしていたが、その笑顔が若干引きつっている。

「ギャップ男子はモテるからな!」

 田中が背中を叩きながらなんの慰めにもならないフォローをしてきて、それからの記憶はあまりない。どこか申し訳なさそうなおかしな態度の田中を見ていられなくて、適当な理由をつけて帰ったのは覚えている。


 最悪だ。何のためのヒトカラだったんだ。

 仕方ない、こういうこともある。いや、どうしてこんなことになったんだ。相反するふたつの気持ちの中でひたすらに募るのは、苛立ちだった。

 律希が人前で歌わなくなったのはいつからだったか。自分が相当な音痴だということは、作曲を始めてから本格的に理解した。

 元々自覚はあったが、本当にひどかった。作曲をしている身だからもちろん音程は理解しているが、声域がどうしようもなく狭いのだ。特定の音を出そうとしても、それに届かない。入力と出力で勝手に結果が変わってしまう。

 チューニングが狂った楽器で正しい音なんて出せるわけがない。それは仕方がないことだし、音痴であること自体はまだいい。それよりも重要なのはイメージだ。

 恥ずかしい存在になりたくない。絶対にああはなりたくない(・・・・・・・・・)。ずっと目指してきたのは、なんとなくいい感じの、ちょうどいい立ち位置。律希がクラス内でそれを確立した頃に、田中は本当にひどいことをしてくれたと思う。

 人前で歌わないことは、本当の自分を隠すことだ。けれど本当は、好きな曲を好きなように歌いたい。

 作曲をしたいと考え始めた頃、迷いがあった。本音では、自分の声で歌いたかった。そうしたほうが音楽に対して誠実だと思ったから。

 けれど音痴な自分の歌声では、せっかく曲を作っても誰にも聴いてもらえないだろう。律希はそう考えて、誰のものでもないTOMORIの声を借りることに決めたのだった。


 帰宅してすぐ、自室のベッドに倒れ込む。どうしようもない苛立ちが、頭の中でぐるぐると回る。何が悪かった。誰が悪かったんだ。

 田中に悪意はなかった。むしろカラオケ乱入は善意であった可能性すらある。昼休みにTOMORIの悪口を話していた女子たちに悪意がなかったといえば嘘になるだろうが、それは律希に向けられていたわけではない。

 唯一、明確に律希に向けて悪意を表明していた存在が頭をよぎる。そうだ、あいつがそもそもの元凶だ。

 KING。あんな悪口だらけのアカウント、通報してやればいい。そう思ってKINGのユーザープロフィールを開くと、また新しいポストが投稿されていた。

『憂-yu-は、リアルでもどうせ人とまともに向き合えないような奴なんだろう。ひとりよがりな歌ばかりだ』

 なんなんだ。なんなんだよこいつは。何も知らないくせに。

『このアカウントの投稿、もしかしたら見てるかな。お前みたいな奴の曲、誰も聴かない。憂-yu-なんてやめてしまえ』

 ──ふざけんな。気がつくと律希は、スマホを枕に向かって投げつけていた。

 みんなに聴いてもらうために、どれほど悩んだことか。音楽のことだけではない。いつだって、みんなに受け入れてもらえるように努力しているというのに。

 KINGはそんな事実など存在しないかのように、すべてを簡単に踏みにじる。

 一体どんな奴か少しでも知ろうと、KINGのいいね欄、つまりKINGがいいねを押したポストを覗く。そこにはたった一件の投稿、閃火コンの告知があった。律希はそれを見て、決意した。

 ──優勝してやる。

 いいねを押しているのなら、KINGは多少なりとも閃火コンに興味関心があるはずだ。そこで優勝すれば、少なくとも憂-yu-の曲を誰も聴かないなんて言えなくなるだろう。

 憂-yu-の歌は、ちゃんとみんなに届いている。どこの誰かも知らない、自らを王だなんて呼称するクソ野郎にそれを証明してやるんだ。

 律希はすぐにノートを開き、歌詞のアイデアを書きなぐる。怒りから火がついた衝動だったが、かつてないくらいに気持ちが(たかぶ)っていた。時計の針が夜中の二時を回っても、律希の手が止まることはなかった。

 ──絶対にやってやる。今、やらなきゃいけないんだ。確かにそんな気がする。

 始めた理由なんて忘れるほどに、没頭する。律希の心から全身に燃え広がっていくものは、いつの間にか怒りという感情だけではなくなっていた。