<まえがき>

 ベリュゥタチャ・フォッイッズ!(オッスオッス、オイッス!)
 この言葉は、私が異世界ムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラにやってきて、最初に掛けられた挨拶です。
 一日二十四時間――異世界ムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラにおいても、一日は二十四時間なのです――いつでも使える、とても便利な挨拶ですから、皆様もムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラへいらしたら、ぜひ使ってみてください。
 え、えええ! ムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラへの行き方が分からないのですか?
 そもそもムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラが、どこにあるのかも分からないのですか!
 それは……困りましたね。
 分かりました! 基本的なところ、基礎的な事柄からお教えしますね。
 ムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラは異世界業界に残された最後の楽園です。
 ここは主人公が敵に立ち向かったり、スローライフを満喫したり、仲間とともに運命を切り開いてゆく、まだ見ぬ異世界ストーリーの舞台にふさわしい土地なのですよ!
 そう……まさに、まさに! まさにムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラは第5回グラスト大賞のために存在するような異世界です。
 そんな素敵な空間を皆様にご紹介したくて私は、この文章を書いています。
 本作品は、私と同じように考える人たちによる共著です。
 誰にでも分かるような書き方にしていますから、転移してきたのがカニクイザルでも大丈夫!
 この<まえがき>に続いて、いろいろな著者が異世界ムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラを魅力をご紹介いたしますので、続けて読んでくださいね。
 異世界ムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラへの旅が今、始まりますよ。
 それでは、私は、ここでいったん、お別れします。
 え、案内するんじゃないのか、ですって?
 実は、別の用事がありまして。この作品の原稿を集めて回らないといけないのです。多くの著者にご協力を依頼し、快諾いただいたわけですが……そこまでは良かったのですけど、肝心の原稿が締め切りまでに届いていないのです。
 郵便事情が良いとは言えないムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラですので、これから原稿の入った郵便が配達されてくるのかもしれませんけど、それを待ってはいられません。残念ながら、承諾したけれど書くのは面倒で後回し、あるいは、そのまますっかり忘れてしまっていた、なんて輩がいないとも限りませんから、この広大な異世界ムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラを――本作品を読んでいらっしゃる皆様がお住いの地球と同程度の地表面積を持つとされる――駆け回ってきます。
 それでは皆様、良い旅を!

<ムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラの生活(その一)>
共著者の一人、ダスドモキン・ヴァーリズ・ドックズからの寄稿

 本稿を私の義理の両親であり、宇宙竜牧場主にしてホテル・タードア・カリフォルニアの前所有者であったグルナイゼウナ・フォン・ドキャバレリー、ローゼンズール・フォン・ドキャバレリー夫妻に捧げる。

【謝辞】

 私は何十年もの間、異世界ムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラで暮らしてきたが、その間、多くのムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラ人から友情と支援とを得た。なかでも、役人たちに深い謝意を述べたい。緩く暖かなファンタジーな空気の支配する異世界でありながら強固な警察制度が厳として存在するムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラにおいて身分証明や戸籍を持たない異邦人として現れた私は、彼らの秘密の援助がなければ教条主義者の官憲に逮捕され収容所送りとなっていたことだろう。そうなっていたら私は今頃、別の異世界へと転生していたはずだ。その世界での私がスライムや蜘蛛に姿を変えていたとしても、まったくもって不思議ではない。人生に不思議なことなど、一つとしてないのだから。
 失礼、脱線した。
 とにかく私にとって、彼らの心配りは本当にありがたいものだったのだ。
 しかし無料のサービスではないのには困った。困り果てたと言っていい。役所へ届け出るときは何をするにも賄賂、賄賂、賄賂だ!
 そうしないとビジネスが全く進まないのである。
 こういうことがあった。
 義理の両親の仕事を手伝うようになり、関係省庁に出向くことが増えた頃、グルナイゼウナ・フォン・ドキャバレリーとローゼンズールご夫妻から役人へ渡すリベートの一覧表を見せてもらった。下っ端役人の一人から政治の中枢に近い高級官僚まで、名前がずらりと並んでいるものだった。驚く私に夫妻は言った。
「これが基本的なところ。政治家は別にリストがある。だが、政治家への賄賂は注意しないといけない。対立する陣営にリークされて、こちらのダメージになりかねないからだ」
 ファンタジー世界なのに、なんて世知辛いところなんだムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラ! と嘆いたことを、今も鮮明に覚えている。
 役人と政治家の汚職天国なんて、どんな異世界ファンタジーなんだよ! とお嘆きになる方がいると思う。だが、それもまたリアルな異世界なのだ。それに、不思議に思えるかもしれないが、横行する賄賂に誰も不満を抱いていない感じがする。我々は安い税金しか納めていないのは事実だ。そして役人が薄給に甘んじているのも事実なのである。
 いうなれば公務員が安月給でこき使われているので賄賂で家計を維持しているわけだが、そんな不正がありつつも、ファンタジー異世界ムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラの経済成長率は地球全体を上回っている。社会全体が活気に溢れているのだ。
 それは私も実感している。そんなとき、私は「ムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラっていいなあ」と呑気に考えるのだ。
 いかん、本編を書く前に【謝辞】の項目だけで時間切れになってしまった。そろそろ郵便集荷の時刻だ。続きは日を改めて書く。

<ムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラでの生活>
プーマリンスノー・ブルーマンデー・ハンビーからの投稿

「ヤン・ハノチス・コッチャンズツッ」
 これはムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラの言葉で「そんなに気にしなさんな」「大丈夫だって」「いいんじゃないの、それで」「何とかなるなる」といった意味を持ちます。ムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラ語の代表的フレーズと言ってもいいでしょう。上記のように、いろいろな訳し方があることからも、ムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラ人の大陸的でおおらかな気質が分かるかと思います。細かいことに気にしてイライラするようなムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラ人はいません。物事を深刻に考えすぎず、自分のミスは当然、相手のミスも広い心で許す。そんな境地に達したら、あなたも生粋のムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラ人です。
 あ、申し遅れました。わたくし、プーマリンスノー・ブルーマンデー・ハンビーと申します。もともとは、みなさんのいる世界で迷惑系動画配信者をやっていたのですが、迷惑星太陽系の時空変異に遭遇し、このムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラへ重層遷移してきたのです。
 ここへ最初に来たときは絶望しました。テクノロジーのレベルが低すぎて動画配信ができないのですから。どうしよう……と思い悩み、絶望のあまり動画配信なしの無差別風残虐系迷惑行為に及ぼうとまで思い詰めていたのですが、そんなときにムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラの人たちから言われたのです。
「ヤン・ハノチス・コッチャンズツッ」
 最初は意味が分かりませんでした。でも、彼ら彼女らがわたくしを慰め、元気づけようとしていることは分かりました。うれしくて、涙が出ました。そして、思いました。このムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラで生きていこうと。
 豊かな大自然に囲まれた長い歴史を持つ悠久幽玄の名所・旧跡は、静かな朝に散策すると心が落ち着いてきます。花香る街並みには、いつも優しい笑顔の花が咲き、それが見知らぬ人であっても親しげに語りかけてくる人懐っこい人情が、疲れた心を癒します。食事もおいしいですよ。香辛料を程よく利かせたマイルドな風味は、刺激に弱い方にもお勧めできます。あ、生水は飲めません。
 わたくしからのムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラ紹介は、このへんで終わらせていただきます。紹介文の依頼は来なかったのですが、新聞の記事でムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラの日本人向けガイドブックを作ることを知り、勝手に寄稿させていただきました。よろしくお願いします。

<ムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラの歴史>
共著者の一人、遍歴の女騎士ムーンドックズ・ライトヒッタイトメイカーからの寄稿

・序章

 自分の母国でもない国の歴史を紹介する資格が自分にあるのか、と問いただしてみる。
 どう考えてもあるとは思えない。
 私が、このムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラへ来たのは、約一週間前だ。西も東も、北も南も、わかっていないのが現状なのだ。
 それでも、ムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラの歴史について、概略だけでも綴ってみたい。
 何も知らない私を助けてくれるのは、同じ冒険者パーティーの剣闘士ローブリオン・シーパファンテーン君。彼はムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラの最高学府クラッグオースティン大学卒の哲学博士だ。それから蟲使いのパールート・リリン嬢。彼女は正史には表れてこない少数民族の歴史に詳しい。
 それでは始めよう。
 その前にモンスター退治だった。今、凶悪なモンスターの大群に囲まれているので、それを始末してから書く。それじゃ。

<ムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラを舞台にした物語>
匿名の人物からの投稿(後にバアンタヤーン在住の霊媒師でアマチュア小説家のバガルーラオ・ウォンシーンと判明)

 ムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラを舞台にした幾つかの物語をお贈りする。
 最初は異世界転生小説だ。

・転生時に神様の不興を買い、スキルも何もない状態で異世界転生させられてしまった!?
 神様の不興を買ってしまった事実は否定できない。自分の何がいけなかったのか? それがどうしても分からない。分かったところで取り返しがつく事柄ではない。あるがままの現実を受け入れるだけだ。しかし、それでも嘆かずにはいられない。転生時に神様の不興を買い、スキルも何もない状態で異世界転生させられてしまったとなれば、それは元の現実世界に再び転生したのと実質的には変わりない。それでも元の状態が高スペックだったら構わないが、異世界転生人間の例に洩れず社会の底辺を蠢くスキルも資格も学歴も職歴も何もない無能力者だったから救いがなかった。ご都合主義の罷り通る小説みたいな異世界ファンタジー空間ではなく、過酷なサバイバルが日夜繰り広げられている某リアリティー番組みたいな弱肉強食の地表を彷徨い歩いているのと何ら変わりがないわけで当然、残虐非道な運命の女神に突然グワッと噛みつかれることになる。
 現時点で直面している運命の顎門(あぎと)の主は鋭く長い角と牙と爪と凶暴な顔を持つ紫色の怪物だった。性別は雌である。その紫色をした二つの乳房は大きく膨らんでおり雄の物とは思われない。人によっては、その形状を美乳と褒め称えるかもしれなかった。だが、それはこの際どうでもいい。ああ、実にまったくどうでもいいことだ。
 転生時に神様の不興を買い、スキルも何もない状態で異世界転生させられてしまった無能な若者は、唯一の装備品である首に掛けたヘッドホンを耳に当てた。そうすれば自分に向かって吠える怪物の咆哮が聞こえなくなると思ったのだ。その効果は、あまりなかった。
 次に周囲を見回した。逃げ道を探したのだ。岩床が所々で露わになった草原に隠れ場所は見当たらない。だが、自分を助けてくれるかもしれない人間は見つかった。水色っぽい色の鎧を着た赤紫色っぽい髪色の女の子が、大きな輪のような刃が二つ付いた刀あるいは槍みたいな武器を持って構えている。
 転生時に神様の不興を買い、スキルも何もない状態で異世界転生させられてしまった能無しの青年は、その女の子に助けを求めようとした。彼女の方へ駆け寄ろうと、そちらへ体を向けるのとほぼ同時に、女の子が叫んだ。
「シャイニングフォース・エターナル・ブリザーブドフラワー!」
 女の子が大きく振りかぶった武器が振り下ろされる。その先に着いた丸い輪のような刃から光の輪が飛び出した。その光の輪は物凄いスピードで飛んできて、転生時に神様の不興を買い、スキルも何もない状態で異世界転生させられてしまった役立たずの体を切断し、そこで若干速度を緩めたが真っすぐに進み紫色の怪物に突き刺さって消滅した。
・正真正銘のはずれスキル一つで異世界転生。けどなんとか工夫して成り上がりたい!
 どの業界にも身の程知らずはいる。それはファンタジーの法則が支配する異世界においても変わりない。その青年は正真正銘のはずれスキル一つで異世界に転生した。けれど、何とか工夫して成り上がりたい! という野望を抱いていた。そのためには、どうしたらいいのか?
 そんなことを考えながら岩石が所々に露出した草原を歩いていると、紫色っぽい肌をした怪物に出くわした。鋭く長い角と牙と爪と凶悪な顔をした見るからに凶暴な化け物だった。性別は雌のようだった。その紫色をした二つの乳房はぷっくりと大きく膨らんでおり雄の物とは思われない。人によっては、その形状を美乳と褒め称えるかもしれなかった。それぐらい見事な形をしていたのだ。実際、正真正銘のはずれスキル一つで異世界に転生したけど何とか工夫して成り上がりたいと夢見る青年は、怪物の乳房を凝視して逃げるのを忘れたくらいである。それは怪物が凄まじい咆哮を上げながら青年に突進してくるまで続いた。恐ろしい吠え声で夢から醒めた青年は、恐怖に全身を震わせながら首に掛けたヘッドホンを両手で持った。それで両耳を塞ぐ。怪物の叫び声の音量は少し低下した。だが、その間に距離が狭まっていたので、その分だけ効果は相殺された。
 慌てて逃げようとした彼の前に水色っぽい色の鎧を着た赤紫色っぽい髪色の女の子が立っていた。大きな輪のような刃が二つ付いた刀あるいは槍みたいな武器を持って構えている。
 正真正銘のはずれスキル一つで異世界に転生したけど何とか工夫して成り上がりたいと夢見る青年は彼女に助けを求めようとした。
 その直前に、女の子が叫んだ。
「シャイニングフォース・エターナル・ブリザーブドフラワー!」
 女の子は構えた武器を大きく振りかぶり、振り下ろした。武器の先に着いた丸い輪のような刃から光の輪が飛び出す。その光の輪は物凄いスピードで飛んできて、正真正銘のはずれスキル一つで異世界に転生したけど何とか工夫して成り上がりたいと切望する青年の体を切断し、そこで若干速度を緩めたが真っすぐに突き進み紫色の怪物を両断して消えた。
・悪役令嬢の母に転生。没落回避のため娘を良い子に育てたいけど、子育てなんてしたことない!
 水色っぽい色の鎧を着た赤紫色っぽい髪色の女の子は庭先の芝生の上に、鋭く長い角と牙と爪と凶悪な顔をした紫色の肌の怪物の生首二つをポイっと放り投げた。
「これが依頼された怪物二匹の首。どうぞ、お改め下さいませ」
 悪役令嬢の母グンダニイル・ド・スタールは、怪物の血の滴る生首一つを取り上げ、その面相をじっと見た。続いて、もう一つの生首を手に取り、横から見たり引っ繰り返したりして、何度も確認した。頷く。
「間違いないわ。どうもありがとう」
 そして悪役令嬢の母グンダニイル・ド・スタールは傍らに控える侍女二名が両手で持っていた魔法のホワイトボードを指差した。
「書記の精霊ホアウスグスライムヒに命じる! 怪物となった十六人の乙女の名を書き上げよ!」
 魔法のホワイトボードの中に封印され年中無休かつ無給で働かされる哀れな書記の精霊ホアウスグスライムヒは悲鳴に近い響きを出しながら字を書き始めた。
 聡明な恋人ル・レクチェ・ルアンパバーン
 情熱の佳人ニキリッチェロ・アムジピン
 青き冥花スダーパ・チェンシャイ
 黒の舟歌ゴッチェリ・イマームオ
 忘れじの叢クラムラマムラ・チャイダル
 狼殺しズキム・リュブスグクス
 葬送の魔女フェニリーグルアラ・ゴニン
 春は曙キョイン・ローコホウ
 夏草の少女イリアス・イラン
 秋の黙示録ワルキューレ・バルキリー
 ソナタの冬ヨンジューン・ナペナ
 彗星の妖精ラハジア・デューク
 金の鈎針アールゴルチエ・ドルグ
 結婚指南盤マブタイル・タイココ
 原人美惹姫プベノドン・シャクイマネールレ
 淫売聖女サンマーメン・ビビアンシャドバ
 そこに名の上がった十六名のうち、上位の十三名までには自動的に斜線が引かれた。それは既に始末された乙女たちだった。悪役令嬢の母グンダニイル・ド・スタールは、自ら魔法のペンを握ると、魔法のホワイトボードに線を引いて二人の名を消した。
「結婚指南盤マブタイル・タイココと、原人美惹姫プベノドン・シャクイマネールレは、これで死んだから良しっと。残りは一人か」
 悪役令嬢の母グンダニイル・ド・スタールの美しい顔に暗い影が差す。残る一人、淫売聖女サンマーメン・ビビアンシャドバは強敵だった。だが、この娘を片付けないことには、ド・スタール家の没落は避けられない。
 強い不安と焦燥感が悪役令嬢の母グンダニイル・ド・スタールを襲う。ドレスの下の豊かな乳房が深い溜め息で波打つ。鋭い痛みを感じ、彼女は手を胸に当てた。脂肪の塊を強く揉む。大きく膨らんだ乳腺の中に巣食う呪いの魔物カッタードワッドグッダムを抑えるためだ。この魔物は機嫌が悪くなると乳腺を癌化させる。それを防ぐため、適度な刺激を与えないといけないのである。
 しかし、それがいつまで通用するか、分かったものではない。
 早く呪いの魔物カッタードワッドグッダムを解き放たねばなるまい。
 だが、そのためには淫売聖女サンマーメン・ビビアンシャドバを始末しないといけないのだ。
 悪役令嬢の母グンダニイル・ド・スタールは強く苦悩しつつ、己の膨らんだ乳房を激しく荒々しく揉み続けた。
 そんな事態に、どうしてなってしまったのかというと、それしか手立てがなかったからだ。
 悪役令嬢クラーレメントール・クリスタルカーサ・ド・スタールの母グンダニイルに転生した彼女は、没落回避のため娘を良い子に育てたいと思った。だけれども彼女は、子育てなんてしたことない! 観葉植物は絶対に枯らす。ペットも悲惨な最期を迎える。そんな具合だったから、そもそも生き物全般を育てる能力が欠如している観がある。本人にも、その自覚があった。それじゃ、どうすりゃいいのかって話になる。彼女は娘の悪役令嬢クラーレメントール・クリスタルカーサ・ド・スタールに、正直に事情を語り、自分はどうしたらいいのかと問うた。
 チートなし異世界転生ファンタジー空間に生を享け、その殺伐とした空気を吸って成長してきたクラーレメントール・クリスタルカーサは、呑気な異世界から転生してきた世間知らずの母グンダニイルに修羅の国のルールを教えてやった。
「心優しいお母様、没落を防ぐには、ライバルたちを蹴落とさないといけないの」
 その頃このチートなし異世界では、美人と評判の娘が十七人いた。
 聡明な恋人ル・レクチェ・ルアンパバーン
 情熱の佳人ニキリッチェロ・アムジピン
 青き冥花スダーパ・チェンシャイ
 黒の舟歌ゴッチェリ・イマームオ
 忘れじの叢クラムラマムラ・チャイダル
 狼殺しズキム・リュブスグクス
 葬送の魔女フェニリーグルアラ・ゴニン
 春は曙キョイン・ローコホウ
 夏草の少女イリアス・イラン
 秋の黙示録ワルキューレ・バルキリー
 ソナタの冬ヨンジューン・ナペナ
 彗星の妖精ラハジア・デューク
 金の鈎針アールゴルチエ・ドルグ
 結婚指南盤マブタイル・タイココ
 原人美惹姫プベノドン・シャクイマネールレ
 淫売聖女サンマーメン・ビビアンシャドバ
 悪役令嬢クラーレメントール・クリスタルカーサ・ド・スタールである。
 彼女たちは皆プライドが異常に高く、自分こそ最高の美女だと思い込んで互いに足を引っ張り合っていた。その暗闘は凄まじく、姦計を巡らせ自分以外の全員を罠に陥れようとしたり、毒殺その他の手段で殺そうとしたり、なんてことが日常茶飯事だった。並の手段では、それらの邪悪な女ども――悪役令嬢クラーレメントール・クリスタルカーサ・ド・スタールも、その一人なのだが――を地獄に叩き込むことはできない。
「お母様、呪いを掛けるのです」
 ライバルたちに強力な呪いを掛けて、抹殺する。ただし、呪いが強力であればあるほど、その代償は大きなものとなる。
「ねえ、お母様、お願いですわ。私のために、呪いの代償を支払って下さいませ。没落を防ぐため、強力な呪いをあいつらにかけて頂戴よ。お願い」
 強力な呪いの対価とは一体、何なのか? 悪役令嬢の母グンダニイル・ド・スタールは怯えた表情で美しき我が娘、悪役令嬢クラーレメントール・クリスタルカーサに尋ねた。
「等価交換ですわ、お母様。それなりの代償を、お母様には払ってもらいます」
 できる限り安い代償で済む呪いがないかと調べ、検討に検討を重ね検討を最大限に加速させ、選んだのが呪いの魔物カッタードワッドグッダムだった。この魔物の掛ける呪いは、呪いを掛ける相手を醜悪な怪物――鋭く長い角と牙と爪と凶悪な顔をした見るからに凶暴な紫色っぽい肌の化け物――に変化させるというものだった。その代償が乳房の中に魔物を住まわせることである。それが癌化のリスクになるのだ。乳癌で死にたくなければ、さっさと乳房の中の居候を追い払うしかない。
 悪役令嬢の母グンダニイルは我が子の悪役令嬢クラーレメントール・クリスタルカーサ以外の十六人に呪いを掛けた。その効き目は確かにあった。十三名の乙女は、その邪悪な本性を剥き出しにして罪深きチートなし異世界の住人どもを数多く殺傷してから殺された。結婚指南盤マブタイル・タイココと原人美惹姫プベノドン・シャクイマネールレはハンターたちを返り討ちにして荒野へ逃れた。だが、悪役令嬢の母グンダニイルが送り込んだ刺客によって殺された。残りは一人。淫売聖女サンマーメン・ビビアンシャドバだけだ。
 しかし淫売聖女サンマーメン・ビビアンシャドバは行方をくらました。何処に身を潜めているのか、誰にも分からない。
 目の前にいる依頼人が、どうしてその乳房を揉みしだいているのか?
 女性モンスターハンター、水赤紫のライブラリブラは、理由を訊いてみたくて仕方がなかった。だが、余計な質問をしてはならない空気を察し、黙っていた。直視するのも何なので、ド・スタール家の立派な屋敷を眺める。窓に人影が映った。優れたハンターの本能が、自動的に魔法を作動させた。観察対象のデータをスキャンする魔法だ。視界の端に依頼人であるグンダニイル・ド・スタールの姿が入った。両方の乳房に呪いの魔物カッタードワッドグッダムが巣食っている。進行した癌も見つかった。もう手遅れだ。依頼人は、間もなく死ぬ。それから窓辺の人物をスキャンした。その正体は淫売聖女サンマーメン・ビビアンシャドバだった。いつのまにか中身がすり替わっていたのだ。本当の悪役令嬢クラーレメントール・クリスタルカーサは何処にいるのか? それは女性モンスターハンター水赤紫のライブラリブラの知ったことではなかった。成功報酬のボーナスが、いつ支払われるのか? 知りたいのは、それだけだ。

 この話は、これで終わりだ。続いて、別の話を投稿する。

『異世界ムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラに引っ越しなさる方へ朗報! 生まれて初めて親元を離れる娘が心配でならないイクチオステガさんご夫婦のお勧め! 水没物件ならアトランティス不動産へ!』と書かれたネット広告にエヌ氏は心惹かれた。
「ほら、見て! この不動産屋がいいんじゃないかな?」
 エヌ氏のご子息シルドライジンは父が指差したインターネット広告をチラッと見た。首を傾げる。
「そんなに良いかなあ。なんか、だめっぽくね? それに、生まれて初めて親元を離れるとか、大げさだよ。あおり広告だよ」
 息子の反応が否定的なことに、エヌ氏は失望を感じた。
「でもね、生まれて初めて親元を離れるって、お前と同じだと思うよ」
「そうだけど僕、娘じゃないし」
「親が心配でならないのは同じだよ」
「まあ、それもそうだろうけど、君たちご夫婦はイクチオステガじゃないし」
 イクチオステガは最古の両生類とされる動物でエヌ氏夫婦は最古の水鳥とされるアステリオルニス・マーストリヒテンシスだ。その子供シルドライジンは、この春、人生修行の旅に出る。旅と言っても一週間かそこらで帰ってくる旅行ではない。一年以上続く長旅だ。それで逗留先の新居を探そうと、こうしてインターネットで調べているのである。
 色々と探しているのだが、良さそうな不動産屋が見つからず、エヌ氏がやっと見つけたのがアトランティス不動産だった。そこに固執する。
「だって、水没物件に強いみたいだよ」
「そうは書いてあるけどさ、僕が行く先は水没した都市だよ。強いも弱いも関係なくない?」
 そう言われるとエヌ氏も強く勧める気持ちが弱まる。
「大学へ進学するのだったら、学生課が斡旋してくれたかもなあ」
 思わず口に出して、エヌ氏は後悔した。息子を横目で見る。シルドライジンは聞こえない振りをしていた。大学進学ではなく、人間世界で修行して、立派な魔法使いになる。そう決意した息子と散々言い争い、結局エヌ氏夫婦は折れたのだった。
 今度はシルドライジンが折れた。
「分かったよ、父さんがお勧めした不動産屋へ連絡しよう」
 インターネット広告に書いてある連絡先に電話を掛ける。相手は、すぐ出てきた。水没都市○○で、若い男性の一人住まいの住居を探していると用を伝えると、幾つかの質問をしてきた。就職か、学生か、予算は幾らかなどの質問に答えると、適当な物件のデータを送ってきた。ヴァーチャルで内見する。外の様子もチェックする。
「騒音は……まあ、水音や波の音は、しょうがないよね。あとは、音だけじゃなく、臭いも知りたいなあ。隣近所の人間とかも」
 シルドライジンは注文が多かった。家にいるときは雑なのに……と、エヌ氏は意外に感じた。
「潮の臭いはします。それと生活音は気になるかもしれません。何しろ水没都市○○は、可住空間が少ないため、人口が密集していますから」
 アトランティス不動産の担当者は、そう言った。エヌ氏が口を挟む。
「水没都市○○から、どんどん人が出て行っていると聞いたけど」
「そうですね、それは事実ですね。家賃も下落傾向にあります」
 それでも住む人はゼロにならないようで、不動産業は成立しているらしい。幾つかの物件をチェックしていたシルドライジンは、お気に入りのビルを見つけた。
「ここ、良さそう」
 エヌ氏はパソコンの画面を見た。水が流れ落ちる滝の一部に建つ建造物で、流れをせき止めるような位置に建っている。デザインの異なる雑居ビルが幾つか積み重なったような構造をしていた。
 率直な感想を口にする。
「これが海水なら、塩を含んだ風で鉄がすぐに錆びる。建物は地震に弱そう。大雨で流れそう。水圧と滝の浸食による後退を考えたら、いずれ建物全体が崩壊するのは間違いない。それと、湿気が凄そう。壁とかカビが生えてそう。押し入れは絶対にやばい。風呂場は常時換気扇を回していないとカビで真っ黒になるよ」
「僕、きれい好きだから平気」
「そんなの初めて聞いた。お前、自分の部屋の掃除も風呂掃除もトイレ掃除も、何一つやってないだろ」
 それでも、そこにシルドライジンは決めた。家賃はエヌ氏親子が想定していた金額より安かった――エヌ氏は内心、ホッとした。
「それじゃ、行くね」
「よし、そんじゃあ別れの儀式だ」
 他の知的生命体の居住領域に行く場合、その知的生命体の外見に合わせた変身をするのが大切だ。別れの儀式を終えると、魔法使いであるエヌ氏夫婦の力を借りてシルドライジンは人間の姿に変身した。それから彼は両親に挨拶した。
「行ってきます」
 息子が魔法の力で異次元の向こうへ旅立った夜、エヌ氏夫婦は久しぶりに二人だけの時間を過ごした。翌朝は、夫婦で息子の引っ越し荷物を作った。大変な手間がかかった。水鳥に比べ、道具の多い人間は生活が面倒臭いと夫婦は愚痴り合った。息子がいるうちにやっておけば良かった、高くついても向こうで買い集めれば良かったと二人で後悔した。
「さて、引っ越したはいいけど、家具が何もない。しまった、ホテルにでも泊まっておけば良かった」
 エヌ氏夫婦の息子シルドライジンも転居先の水没都市○○で後悔していた。本当の姿である水鳥アステリオルニス・マーストリヒテンシスに戻れば、そこら辺で寝られたのに……と悔やまずにはいられない。だが、一度元の姿に戻ると、魔法使いとしては未熟なシルドライジンの腕前では人間の姿に変身できるか怪しいので、今の外見のままで我慢するしかなかった。
 床に寝転がる。板敷なので、背中が痛くなってきた。
「クッションか座布団か、毛布を買ってくるかな」
 幸い、夜までには時間がある。腹も空いてきたことだし、外出しよう。
 そう考えたシルドライジンが出入り口のシャッターを開け外の廊下に出たら、黄色いカッパを着て赤い長靴を履いた少女がいた。背中に大きなリュックサックを背負った彼女は言った。
「あなた、ここに引っ越してきたのね」
 可愛らしい女の子だった。見惚れたシルドライジンは一瞬、言葉を失った。そのまま彼女をボケっと見つめていたら、向こうがとんでもないことを言いだした。
「この部屋ね、出るよ」
「……え」
「お化け。それでね、次々と人が引っ越すの」
「え」
「それじゃ」
「ちょ、ちょま、ねえ、ちょっと待ってよ!」
 お化けや幽霊や妖怪変化そして心霊現象それから怪談話が大の苦手なシルドライジンは真っ青な顔で少女に尋ねた。
「ねえ、それって本当の話なの? 何かの間違いじゃないの?」
 少女は首を傾げた。
「う~ん、私も正直、よく分からない。私が見たわけじゃないから。ただ、隣の人が私のところへ相談に来るの。夜中に変なモノが出てきたけど、何だか知らないかって。何も知らないから知らないって、いつも答えてる。そのうち、そう訊いてきた人が言うの。お化けが出るみたいだけど、あなたの部屋には出ないのかって。出ないって言うと、すごく羨ましそうな顔で、良かったねって言って。そのうちにいなくなる。引っ越しちゃうの」
 シルドライジンはお化けが出ないうちに引っ越したいと思った。しかし金が無い。
「でもね、出るかどうかなんて、わかんないよ」
 少女は真っ青になったシルドライジンの顔をじっと見つめて、そう言った。力なく頷く青年の肩をポンと叩く。
「元気出して。そうだ、水没都市○○を案内するよ。近所にある美味しいお店とか、教えてあげる」
 すぐに引っ越すんで案内してくれなくてもいいです……とは、シルドライジンはこれっぽっちも考えなかった。少女の軽いボディータッチが、彼に勇気を与えたのだった。
 少女は自分の船を持っていた。大きなものではない。小型ボートだ。シルドライジンは、それに乗せてもらった。器用に操船しながら彼女は説明した。
「長距離の移動はボートを使うの。近場は建物を使って移動できるよ」
 忍者かよ、とシルドライジンは思った。いや、違うな。
「えっと、君は、くのいち?」
「えっ」
「だから、ほら、あれだよ。手を組んで、何か呪文を唱えて、それでドロロンって煙が出る」
「なにそれ」
「……何でもない」
 ここで変わり者だと思われたら困る。変なことは言わない方が良い、とシルドライジンは思った。少女は彼に質問した。
「ここには、何しに来たの?」
 シルドライジンは答えに窮した。魔法使いになるための学問を修めるのだから留学だが、留学と言っても学校へ通うわけではない。自分が本来暮らしている生活環境とは異なる世界に身を置くことで心身を鍛えることが魔法使いとしてもレベルアップにつながるのである。
 だが、この話を少女にして、理解してもらえるだろうか? ただ単に「凄い変わり者が隣に引っ越してきた」と思われるだけではないだろうか?
「えっと、仕事を探しに」
「仕事?」
「そう、職探し」
「希望の職種は、何かあるの?」
 魔法使い、と言いかけて止める。
「そうねえ、特にないな。ここだと、どんな職業があるかなあ」
 少女は形の良い口唇に人差し指を当てて考えた。
「ん~、一番求人が多いのは、水産業かなあ。あ、製造業もかな。運送業も。正しくは水運業だけどね」
 水面上に点在する緑地や数少ない建造物を見渡しながらシルドライジンは言った。
「見たところ、大きな工場は見えないね。水平線の向こうにあるのかな」
「水の底」
 シルドライジンは船縁から水の中を見た。透明度は低く、視界は遮られて水の底は見通せなかった。
「耐圧ドームがあって、そこで色々な物を生産しているの」
 建物は水面上に建つ物ばかりでなく、水面下にもあったのだ。そう言えば、そんなことが水没都市○○を紹介するインターネットの記事に書いていたな……とシルドライジンは今さらだが思い出していた。
「私たちの住んでいるマンションの電源は屋上の太陽光パネルから引いているんだけど、水面下にある耐圧ドームの電気は滝から流れ落ちる水を利用した水力発電なんだ」
 豊富な水資源を有効活用しているわけである。
「さあ、着いたよ」
 そこは船上マーケットだった。水上マーケット、と言ってもいい。売り物を載せた小型の船が何十隻も停泊している。そこを少女の船が縫うように進む。
「欲しい物、何かある?」
 寝具その他の日常品が何一つないとシルドライジンが言うと、少女は笑った。
「それじゃ、買う物だらけじゃない」
 引っ越し荷物が来るまでの辛抱だから、とシルドライジンは話した。少女は頷いた。
「それ、いつ来るの?」
「近日中だと思う」
 そう言うシルドライジンだったが、だんだん心配になってきた。自分の荷物は、本当に近日中に届くのだろうか? 彼は少女に聞いてみた。
「運送業というか、水運業の話なんだけど、ここって荷物、すぐに届くかな?」
「すぐではないかな」
「そっか」
 それなら、ということで毛布と枕がわりにクッションを買うことにした。少女に頼んで、寝具類を売っている船に着けてもらう。毛布やクッションを、どんな柄にしようかと考えたが、そういった買い物はすべて母親に任せていたシルドライジンは、なかなか決められなかった。業を煮やした少女が代わりに決めた。
 買った商品を船底に置いて、シルドライジンは少女に礼を言った。
「助かったよ」
「どういたしまして」
「お礼に、何かご馳走したい……できれば、高くない店で」
「そうね、無職だもんね」
 少女は水上マーケットの船の中から謎めいた肉を串焼きにして売っている手漕ぎ船を見つけ出し、そこから二人分の串焼きを買った。支払ったのは勿論、シルドライジンである。その横に座った少女が串焼きを食べながら言った。
「美味しいでしょ」
「うん、美味しい……あの、夕食と、明日の朝食の分のご飯も買っておきたいんだけど、何かないかな? あ、何だったら君の分を買っても良いよ」
「本当! 嬉しい!」
 少女の喜ぶ顔を見てシルドライジンは嬉しくなった。金はさらになくなったが、彼女の笑顔にはそれだけの価値があった。彼は、とても良い気分だった。二人の住む建物へ戻る途中で、その弾む気持ちは沈んだ。何の気なしの質問が原因だった。
「ねえ、君のご両親は何をなさっているの? 引っ越しのご挨拶をする前に、事前情報を集めとくよ」
 少女は船の前方を見ながら言った。
「両親は、今、いない」
「どこかに旅行中なの?」
「行方知れずなの」
 ほんのしばらく、シルドライジンは黙り込んだ。
「……他のご家族は? 親戚とか?」
「いない。皆、街が水没したときに行方不明になっちゃった」
 それから少女はシルドライジンに顔を向けた。
「私、肉親の手がかりを探しているの」
 鋭い視線を浴びせられ、射すくめられたかのようにシルドライジンは呼吸を止めた。何とか声を絞り出す。
「それじゃ、君は一人で生活しているの、あの部屋に一人暮らしなの?」
「ええ」
 そう言って少女は前を向いた。シルドライジンは別の疑問を口にした。
「生活費は、どうしているの? 公的な支援とか、受けているの?」
「そんなの、ない」
「じゃ、親の貯金を崩すとか」
「両親のお金には手を付けないって決めてる。二人が帰ってくるまで、そのままにするって決めてる」
「じゃ、何しているの? 君の仕事は、何」
「メイド喫茶でバイトしたり……それから」
 小さく息を吐いてから少女は言った。
「体を売ってる。いつもじゃないよ。家族を探して働く時間が足りなくて、お金がないときね。でも、そういうの、今の時代、普通だから。恥ずかしいことじゃないから。皆、やってるから」
 シルドライジンは硬直した。今までの人生で、そういった人に接したことがなかったからだ。彼が何も言えずにいると、少女は勝手に話し始めた。
「私ね、水没都市にロマンを抱く人って、大嫌いなの。ここは人が暮らすには辛すぎる場所よ。それなのに、そんなことも想像できないでいる人って、変だよ。ロマンチックでも何でもないよ。変な夢とか幻想を抱かないでって、いつも思う」
 それから少女はシルドライジンに尋ねた。
「あなたは、違うよね?」
 シルドライジンは頷いた。だが、それは嘘だった。水没都市○○を人生修行の場に選んだのは、そこが水没した都市だったからだ。彼もまた、水没都市にロマンを抱く者の一人だったのだ。
 それに気付かず、少女は微笑んだ。
「良かった。君が想像力の欠片もない無神経な人間の仲間じゃなくて、ほんとに良かった」
 それから少女は遠くに見える橋に視線を送った。
「あの橋は、残された陸地を結ぶ橋なんだけど、通るのにはパスポートがいるの。でも、そのパスポートを買うには、大金がいるんだ。両親が見つかったら、三人分のパスポートを買うの。そのために、貯金を崩すわけにいかないの」
 その夜、シルドライジンは魔法陣を床に書いて、お化けの出現を待った。お化けが怖いとは、もう思わない。自分にできることをやる。その決意だけがあった。部屋に出てきたお化けは、予想より低級な悪霊だった。さほどの苦労をせずに捕らえる。彼は捕らえた悪霊を魔法陣に封じ込め、命じた。
「悪霊よ、これから僕はお前の主人だ。お前は僕に使役される。逆らうことは許さない。僕は魔法使いシルドライジン。お前は、僕の金儲けの道具となれ」
 翌朝、シルドライジンは隣室の少女の元を訪れ、自分が修行中の魔法使いだと名乗った。少女は大笑いしたが、シルドライジンが変な化け物を目の前に出したので笑うのを止めた。彼女が悲鳴を上げる前に、魔法使いは魔物の姿を消した。
「今のなに? なんなの、あれ? こわい、こわい……」
「怖がらないで。隣の部屋にいた悪霊を封じ込めたんだ。もう大丈夫だから。それより、大事な話があるんだ」
 魔法使いの修行の一環として、水没都市○○で悪霊退治の仕事を開業する、とシルドライジンは言った。
「それで、お願いがある。君に僕の助手をやって欲しいんだ。僕は、この街のことを何も知らない。助けがいるんだよ。お願いだから、僕に力を貸して欲しい」
 サラリーの相談が済むと、少女は申し出を受け入れた。悪霊退治の専門家、魔法使いシルドライジンの助手となった少女の最初の仕事は、届いた引っ越し荷物の整理だった。

<あとがき>

 ニィムロ・ナム(すまんすまん)。
 これはムルル・ムルシエラゴウ・ムルティプラの言葉で「ごめんなさい」という謝罪を意味します。
 申し遅れました。<まえがき>を書いた人間です。
 予定されていた原稿が集まりませんでした。ここまでの内容で投稿させていただきます。
 それでは借金取りから逃げないといけませんので、これにて失礼