フランス・ソーヌ川沿いに建つカフェ
川を一望するテラス席は観光客や太陽光を読書灯代わりにする老紳士が座っている
店内は休日のランチタイムと相まって満席の状態だ
リヨン市民はボトルワインを開け、優雅な一時を過ごす
ここに一組の親子がいる
幼いながらジャケットとシャツが似合う少年はそれなりの身分だと窺える
白いワンピースに身を包む女性は、息子の口に付いたクリームをナプキンで丁寧に拭き取る

「ありがとうお母様」
「お腹は充分かしら」
「ええお腹いっぱいです」

少年は本当は満腹ではなかった
しかし、お店の雰囲気だけに、とても言いづらいのだ
母親は何かを察したのか、近くを通ったウェイトレスを呼び止める

「きのこのキッシュを1つ下さい」
「かしこまりました」

少年は慌てて注文を出す

「取り分ける小皿が欲しいな」
「かしこまりました」
「それはいらないわ
 遠慮しないで全部食べて」
「しかしお母様」

少年は視線を落とす。母親の前には口の付けられてないカプチーノが置かれている

「大人は品があるものなのですよ」

少年はむくれる

「子ども扱いしないでください」

実際、少年は9つである
ウェイトレスは一礼し去る
母親は机の上に腕を置き、身を乗り出す

「ねぇジャックには自由になって欲しいの」
「お父様には人を導く素質がある
 だから、会社を継げと言われました」
「あなたは自由よ
 サッカー選手でも画家でもオペラ歌手でもいい」

老紳士は新聞を畳み、腕時計を見る。眼鏡をくいっと持ち上げ、席を立つ

「ねぇ私の言葉を覚えて」

少年は母親の青い瞳を見る。まるで魔女の呪いにかけられたように吸い寄せられる

「アノニマス」

それはフランス語の発音ではなく聞き慣れない東洋の言葉であった

「アノニマス」

刹那、軽自動車が轟音を立ててカフェに突っ込む

「伏せろ」

通行人が発した時にはすでに遅く
車は生い茂る草を払うように人々を巻き込む
母親の体が宙に浮く
少年は咄嗟に手を掴もうとする
が、しかし、手は虚空を掴み、体は地面を受け止めた
少年は痛みに耐えながら立ち上がる
目の前に肉塊が、ワインを浴び転がっている
少年はゆっくりと顔を横に向ける
母親の上半身は車とカウンター・テーブルに挟まっている
少年は怯えながらも母親に近付き、頬にキスをする
そして、母親の首からロケットペンダントをむしり取ると、喧騒と混沌に満ちた世界にへ駆け出した