「……るくん。ちょっと、なるくんってばぁ」

「えっ、あ、すみません」

 鹿目さんが俺の顔の前で手をひらひらさせてくれたことで我に返った。

「謝ることじゃないけど、でもなーに? いきなりぼけっとしちゃってさ」

 下から覗き込むようにして俺の顔を見てくる鹿目さん。

 俺はそんな彼女から目を逸らしつつ。

「いや、なんていうかさっきの、君の自信になるとかってやつ、もう忘れてくれていいですから」

「えっ、どうして?」

「その……鹿目さんがいつまでもその言葉に縛られてるんじゃないかって。俺なんかを気にするのもそうだし、この言葉を言ってしまったから、いろんなもの犠牲にして勉強してるんじゃないかって」

 これは、本心であり建前でもある。

 鹿目さんがいつまでも俺のことを気にかけてくれて嬉しい。

 だけど、いつまでも俺なんかを気にかけてくれなくていいとも思っている。

 鹿目さんが頑張っているのは自分の夢のためだと理解しているが、そこにわずかでも俺の自信になるためという理由が入っていることが、嬉しくて、苦しくて。

 もしかして、鹿目さんはもう医者になりたいなんて思っていないけど、俺にあんなことを言ってしまったから努力をやめられないんだ、なんてとびきり傲慢な考えもよぎってしまう。

「なーに? それはちょっと私を舐め過ぎじゃない? ひどいなぁ」

 このこのぉ、と鹿目さんから頭をわしゃわしゃされる。

 その手がふっと離れても、彼女の手の感触はずっと頭皮に残っていた。

 彼女が浮かべているあっけらかんとした笑顔は、脳細胞のひとつとしていつまでも頭の中に残りつづけるだろう。

「気にしないで。あれは私が勉強をサボらないための強引な理由づけ。いわば、ただなるくんを利用してるってだけだから」

「そう言われるとなんか嫌ですね」

 俺のプレッシャーにならないように、そう茶化してくれているだけだということくらいわかっている。

 鹿目さんは、俺が本当の意味で医者になることを諦めきれていないのを見抜いているのかもしれない。

 だって俺は、彼女が本当に医学部に入ったなら、彼女と同じ医学部に入るために、俺もまた頑張れるかもしれないと思っているから。

 心のどこかに置き去りにしている医者になるという夢を、俺が失ってしまった自信を、鹿目さんに見つけてほしいと願っている。

「おお、ツンデレかぁ? このこのぉ」

 鹿目さんにまた頭をガシガシとされる。

 俺の方がすでに背も高くなっているのに、鹿目さんといると小さな子供に戻ったような気分になるのはどうしてだろう。

 そんな気分になっている間は弟みたいな関係が永遠につづくだけだと理解もしているが、今はまだそれでもいい。

 だって、鹿目さんは俺になんでも話してくれる、信頼してくれている、気にかけつづけてくれている。

 そういう特別な存在になれているのだから。

 でも、その幸せすら俺の手から離れていった。

 鹿目さんは、医者になる夢をかなえることなく死んでしまった。

 学校で突然倒れて救急車で病院へ。

 余命三か月と言われたのに、それから二週間でこの世を去ってしまった。

 俺は鹿目さんが死んでから、毎日鹿目さんのことを考えた。

 鹿目さんのいない世界でどう生きていけばいいのかは考えられなかった。

 もし仮に俺が鹿目さんの夢を引き継いで医師になれたとしても、今さらというか、たぶん虚しいだけ。

 救いたい人はもういない。

 あれほどまでに執着していた医師になる夢がいつの間にか終わりを告げていたのに気づいたとき、俺の中で、この世のすべてがどうでもよくなった。

 大度出たちに目をつけられていじめられて引きこもりになってからは、鹿目さんのことを思い出すことすらしなくなった。