***
アシュトン様と手を繋いで王宮内を歩く日が来るなんて……! いつもなら飛び上がるほど嬉しくて、浮かれていたと思う。けれど姉が戻ってきた今、私に向けられる眼差しは悪意と殺意ばかり。
両思いである二人を引き裂こうとしている悪女。今も手を繋いでいるのは、私が彼に無理を言ったからだと歪曲して噂として広がっていくのが容易に想像できる。噂を止めようと奔走していた頃もあったわね。
「…………無駄だったけど」
掴んでいる手はとても温かくて、何だか泣きそうだった。どうして婚約者の私が悪役にならないといけないの?
それもこれも美しい金の髪ではなかったから?
灰色と銀髪じゃ雲泥の差?
最初の王妃だったお母様の子供だったから?
「オレーリア様。ウォルト殿下とはよく一緒におられるのですか?」
唐突に声をかけられて、「はひ」と変な声が出てしまった。なんて淑女らしくない声。
「他国の王族との人脈を得ることは良いことだと思います。ですがあまり一緒に居ると変に勘ぐられますので、気をつけることを推奨します」
「……自分は、婚約者でもない異性と抱擁までするのに?」
ポツリと呟いたけれど、運良く強い風が吹き荒れたおかげでアシュトン様の耳には届いていないだろう。
届いたとしても彼はきっと困った顔をするだけだ。もう私の天秤は彼を諦めることに傾いていた。
でも、もしかしたら。
ほんのちょっとでも、なんて期待もしている。
一週間後に、私は十八歳になる。結婚もできるし、成人として私の制限も変わってくるのだ。その一つが魔法塔への移住権。
有能な魔法使いに与えられた特権であり、世界の中心である空中都市、地底世界樹都市の二つの都市いずれかに居住権と、魔法使いとして最高ランクの称号と仕事を得る。功績に見合った報酬を手にできるし、自分が考案した魔法技術や全ての権限が術者個人の財産となるのだ。
まさに私にとって夢のような場所。
婚約破棄あるいは解消になるのなら、私はその都市に行く。この国の王であっても魔法塔に移る権限は個々人が持っているので、許可なども必要ないことが心から嬉しい。
最大の難関はあっさりパスしたので残る問題、というよりも迷っているのはアシュトン様とのことだけ。
アシュトン様は私を侯爵夫人として、迎えるつもりは──あるのかもしれない。いつものように私を矢面に立たせて、本当に好きな人を守ろうと考えても可笑しくない。「好きになった人の役に立ちたい」なんて三年前の自分を殴ってでも婚約を止めれば良かった。
そうすれば積み重なる想いに、押し潰されなくてすんだのに。
***
アシュトン様が案内してくれたのは、宮廷の奧にあるバラ庭園のガゼボだった。私たちはよくこの場所でお茶をして会うことが多かった。
この場所だと姉の居住区域が見える位置だと気付いたのは、ずっと後だけれど。私はバラよりも藤の花のほうが好きで、アシュトン様に話したことがあった。淡い青紫色の花がカーテンのように垂れ下がっているのがとても美しくて、季節になるとよく一人で眺めていたわ。
アシュトン様も「一緒に見よう」と言ってくれたけれど、それを話したのが四年前。あれから一度だって一緒に見たことはないし、話題にも上がってこない。だからきっとその場凌ぎの言葉だったのに、馬鹿みたいに信じていた。本当にもっと早く気づけば、傷ついたけれど深々と傷つくことはなかったわ。
私とアシュトン様は向き合う形で座った。本来ならお茶を用意する侍女たちがいるのだけれど、私にはそんな気の利いた侍女たちはいない。本当にこの国にとって末姫なんて、名前しか価値のない存在なのでしょうね。
もうどうでもいいけれど。
どう話を切り出しましょう。明日話す予定だったから、気持ちの整理を終わらせて話したかったわ。でも早いほうがいいわよね。
「ア──」
「ここ最近は忙しくて、週に一度のお茶や面会が減って申し訳ない」
「いえ。……いろいろ、と忙しいのでしょう」
「…………」
いつもなら一緒にいて話をしているだけで幸せなのに、今日は棘のある言葉しか口をついて出てこない。アシュトン様は弁明も、誤魔化しもしない。ただ困った顔をするだけ。
その姿を見てまた瞳が潤んだ。
きっと自分で好かれようという気持ちが薄れてきてしまっているのだろう。期待しても裏切られることばかりだった。
一度だって私と交わした約束を守ってくださったことなんてないもの。それでもこの三年間だけは穏やかだった。普通の婚約者よりも距離は遠かったかもしれないけれど、それでも穏やかな時間で、救われたのも事実だ。
「来週はオレーリア様のお誕生日ですね。パーティーの準備などは進んでいるのですか?」
「──っ」
ああ。そういえば姉が戻ってくる前に、そんな話をしたのだった。姉が帰ってこなければささやかながらパーティーを開いたのかもしれない。アシュトン様からの贈物はなにかと、喜んだだろう。
でも──。
「その日は姉が帰還したお祝いをするらしいですよ。王妃様が嬉々として教えてくださいました」
「……あ」
ハッとしたアシュトン様に、私はにこやかに微笑んだ。悲しくても笑えるのは王女としての教育の賜物だわ。
「本当は明日の、お茶会で伝えようと思ったのだけれど……」
「そうでしたか。……けれどその日がオレーリア様の生まれた大事な日に変わりはありません。私から贈ってもよろしいでしょうか?」
去年だったら飛び上がるほど嬉しくて、口元がニヤけていたわ。去年もお祝いをすると言って、結局、魔物の討伐で遠征に出て当日祝われることも、贈物も届かなかった。でもあれはしょうがないと思っていた自分を思い出す。
優しい記憶、穏やかな三年間?
思い返せば、姉がいなくなって少しだけマシになっただけ。それをさも幸せだと、そう思おうとした。
我慢して、なんて──愚かだったのだろう。
「いいえ。その必要はありませんわ」
「え」
泣きそうなのをグッと堪えて、口を開く。喉がカラカラで上手く声が出るか不安だけれど、言わないと。
「十八歳の誕生日の日、私は魔法塔のある空中都市に移住するつもりなのです。だから……」
『私と一緒に逃げてくれませんか?』
なんて少し前までは考えていた。望みは薄いけれど、もし本当に愛してくれているのなら……そう一縷の望みを持っていた。でも姉との抱擁を見たら、そんな言葉は引っ込んでしまった。
「オレーリ──」
「アシュトン様、婚約解消しましょう。……面倒なことや悪役が必要でしたら、私の名前を出して構いません。どうせ何もしなくても、私が悪いことになっているのですから」
アシュトン様は固まったまま。困った顔も、驚いた顔もしていない。
ただ無表情で、瞬き一つしていなかった。
「これも明日お話しする予定でした。姉も戻って来た今、私がいると迷惑だという者たちも増えてきますし、また三年前の日々に戻るのは御免なのです」
「…………」
「私にとってアシュトン様が初恋でした。形だけの婚約者でしたが、淡い夢を見せてくださってありがとうございました。もう会うこともないと思いますが、姉とお幸せに」
言いたいことは、全部言えた。
言ってやったという満足感のまま、返事も待たずに席を立とうとした時、腕を掴まれ引き寄せられた。気付けばアシュトン様に抱きしめられている。ぎゅうぎゅうに、もみくしゃにされるような酷い抱擁だ。
「痛っ、ぷはっ、な」
「────だ。そんなの、それなら、私は──に」
酷く取り乱したアシュトン様の言葉は途切れ途切れで、私に向けて語っているというよりは、自分に言い聞かせているようだった。
悲痛で、震えた声。
泣きたいのに泣けないような、そんな思いが伝わってきた。
アシュトン様にも、何か事情が?
ふとそう思って、本当はダメだけれど分析魔法術式を発動した瞬間、《誓約》と《隷属契約》が浮かんだ。
「え」
その単語に目を疑った。詳しく契約内容を解析すると、一つは騎士としての誓いであり、こちらは健全というか騎士なら叙勲式で結ぶものだ。
問題は《隷属契約》で、なんと契約者は王妃及びクラリッサだった。
その内容はとてもシンプルで、優先すべきは現王妃とクラリッサであること。そして五年間、オレーリアと婚約を結ぶ──だった。
「──あっ」
自分の中の大事な何かが壊れた音がした。
アシュトン様が何故、苦悶の表情を見せたのか。私を思っていたからじゃない。五年間、私と婚約を続けることが《契約内容》だったからだ。一瞬でも好意を寄せられていたのだと思って、浮かれそうになった自分が馬鹿みたい。
だから婚約者として、最低限の接し方をしていたのね。
だから姉を優先していた。
だから──最初から愛されてなどいなかった。彼には選択肢がなかったのだから。
「……アシュトン様は《隷属契約》を結んでいたのですね」
「オレーリア」
彼の顔が酷く歪んで、今にも泣きそうだった。ああ、この方もまた私とは違うけれど、雁字搦めの中にいたのですね。この方も被害者だったのだ。
「事情は分かりました。今まで気付かずにいて申し訳ございません。……私がもっと早く気づいて婚約を結ばなければ、五年もの間、貴方様を縛り付けることはなかった」
「……っ、それは」
「今直ぐに婚約解消ではなく、五年目となる私の誕生日に婚約解消はいたしましょう。それならなんのペナルティもなく契約解除されますわ」
被害者は彼だったのだから、泣きそうになるな。なんでもない風に振る舞うの。王女の仮面を付けていれば笑顔を保てるわ。オレーリア、あと少しだから。
「オレーリア様、……っ、私は」
「いいのです。これで吹っ切れましたし、この国にも未練はなくなりました。私の今までの努力も、実績も、名誉も全部、取り戻してからいなくなります。その後この国がどうなろうと私には関係ありません。……アシュトン様も、《隷属契約》が解除されたら、自身の身の安全を第一に考えてくださいませ」
抱きしめられた温もりが温かくて、心地よくて離れがたかった。本当にこの人が好きだったのだと実感しつつも、失恋したのだと認めたくない自分がいた。
《隷属契約》のせいで私を大切にできなかったとか、契約が終わったら私を自由にするとか、そんな夢みたいな想像を一瞬だけして──頭を振った。そんな訳が無い。
彼は王妃と姉に気に入られて、《隷属契約》を結ばれて、都合のいい人形にさせられた被害者だ。もしかしたら私が彼を好きにならなければ、このような傀儡にならなかったかもしれない。五年間、望まぬことばかりをさせられたアシュトン様に申し訳ない。
「アシュトン様、巻き込んで申し訳ありませんでした」
「……っ、オレーリア、私は……っ」
苦悶の声に胸が痛くなる。これ以上、彼の口からどんな残酷な言葉が出てくるのか、考えたら体が震えた。
そうよね。知らなかったとはいえ、私が彼を見つけなければ……ここまではされなかったはずだわ。私の味方は引き離され、裏切られて離れていった。そうやって私の陣営を真綿で首を締める形に追い込んだのは、現王妃だ。
静かに王国を去るつもりだったが、遠慮はいらないようね。最後に復讐ができそうで良かった。
「私の功績の全てを、この国に支払ってもらいますわ」
国のためと思っていたけれど、もうどうでもいいわ。私の心はぐちゃぐちゃで、ひび割れて元には戻れない。歪んで、壊れてしまった。もともと前世の記憶を取り戻したのも、オレーリア自身の心が摩耗して、壊れてしまったからだ。前世の私が補填する形で保っていたようなもの。
ずっと前から私は壊れて、歪で、それでもいじらしくも信じてみようと手を伸ばした。この国の人たちには誰も届かなかったけれど。
でもウォルトや、空中都市の人たちはそんな私を凄い人だと認めてくれたから、いいのだわ。
結局最後までアシュトン様の笑顔を見ることはなかった。
翌日のお茶会はキャンセルして、部屋の荷物をまとめる。もちろん魔法塔への移住の書類も朝イチで提出済だ。あと一週間は自分の離宮から出ずに、魔導書の翻訳や研究に時間を当てて過ごした。
私に会いに来る奇特な人間は、ウォルト殿下ぐらいだ。けれど今回は断り、「一週間後に」と手紙を書いたら、それで全てを察したようだった。
アシュトン様と手を繋いで王宮内を歩く日が来るなんて……! いつもなら飛び上がるほど嬉しくて、浮かれていたと思う。けれど姉が戻ってきた今、私に向けられる眼差しは悪意と殺意ばかり。
両思いである二人を引き裂こうとしている悪女。今も手を繋いでいるのは、私が彼に無理を言ったからだと歪曲して噂として広がっていくのが容易に想像できる。噂を止めようと奔走していた頃もあったわね。
「…………無駄だったけど」
掴んでいる手はとても温かくて、何だか泣きそうだった。どうして婚約者の私が悪役にならないといけないの?
それもこれも美しい金の髪ではなかったから?
灰色と銀髪じゃ雲泥の差?
最初の王妃だったお母様の子供だったから?
「オレーリア様。ウォルト殿下とはよく一緒におられるのですか?」
唐突に声をかけられて、「はひ」と変な声が出てしまった。なんて淑女らしくない声。
「他国の王族との人脈を得ることは良いことだと思います。ですがあまり一緒に居ると変に勘ぐられますので、気をつけることを推奨します」
「……自分は、婚約者でもない異性と抱擁までするのに?」
ポツリと呟いたけれど、運良く強い風が吹き荒れたおかげでアシュトン様の耳には届いていないだろう。
届いたとしても彼はきっと困った顔をするだけだ。もう私の天秤は彼を諦めることに傾いていた。
でも、もしかしたら。
ほんのちょっとでも、なんて期待もしている。
一週間後に、私は十八歳になる。結婚もできるし、成人として私の制限も変わってくるのだ。その一つが魔法塔への移住権。
有能な魔法使いに与えられた特権であり、世界の中心である空中都市、地底世界樹都市の二つの都市いずれかに居住権と、魔法使いとして最高ランクの称号と仕事を得る。功績に見合った報酬を手にできるし、自分が考案した魔法技術や全ての権限が術者個人の財産となるのだ。
まさに私にとって夢のような場所。
婚約破棄あるいは解消になるのなら、私はその都市に行く。この国の王であっても魔法塔に移る権限は個々人が持っているので、許可なども必要ないことが心から嬉しい。
最大の難関はあっさりパスしたので残る問題、というよりも迷っているのはアシュトン様とのことだけ。
アシュトン様は私を侯爵夫人として、迎えるつもりは──あるのかもしれない。いつものように私を矢面に立たせて、本当に好きな人を守ろうと考えても可笑しくない。「好きになった人の役に立ちたい」なんて三年前の自分を殴ってでも婚約を止めれば良かった。
そうすれば積み重なる想いに、押し潰されなくてすんだのに。
***
アシュトン様が案内してくれたのは、宮廷の奧にあるバラ庭園のガゼボだった。私たちはよくこの場所でお茶をして会うことが多かった。
この場所だと姉の居住区域が見える位置だと気付いたのは、ずっと後だけれど。私はバラよりも藤の花のほうが好きで、アシュトン様に話したことがあった。淡い青紫色の花がカーテンのように垂れ下がっているのがとても美しくて、季節になるとよく一人で眺めていたわ。
アシュトン様も「一緒に見よう」と言ってくれたけれど、それを話したのが四年前。あれから一度だって一緒に見たことはないし、話題にも上がってこない。だからきっとその場凌ぎの言葉だったのに、馬鹿みたいに信じていた。本当にもっと早く気づけば、傷ついたけれど深々と傷つくことはなかったわ。
私とアシュトン様は向き合う形で座った。本来ならお茶を用意する侍女たちがいるのだけれど、私にはそんな気の利いた侍女たちはいない。本当にこの国にとって末姫なんて、名前しか価値のない存在なのでしょうね。
もうどうでもいいけれど。
どう話を切り出しましょう。明日話す予定だったから、気持ちの整理を終わらせて話したかったわ。でも早いほうがいいわよね。
「ア──」
「ここ最近は忙しくて、週に一度のお茶や面会が減って申し訳ない」
「いえ。……いろいろ、と忙しいのでしょう」
「…………」
いつもなら一緒にいて話をしているだけで幸せなのに、今日は棘のある言葉しか口をついて出てこない。アシュトン様は弁明も、誤魔化しもしない。ただ困った顔をするだけ。
その姿を見てまた瞳が潤んだ。
きっと自分で好かれようという気持ちが薄れてきてしまっているのだろう。期待しても裏切られることばかりだった。
一度だって私と交わした約束を守ってくださったことなんてないもの。それでもこの三年間だけは穏やかだった。普通の婚約者よりも距離は遠かったかもしれないけれど、それでも穏やかな時間で、救われたのも事実だ。
「来週はオレーリア様のお誕生日ですね。パーティーの準備などは進んでいるのですか?」
「──っ」
ああ。そういえば姉が戻ってくる前に、そんな話をしたのだった。姉が帰ってこなければささやかながらパーティーを開いたのかもしれない。アシュトン様からの贈物はなにかと、喜んだだろう。
でも──。
「その日は姉が帰還したお祝いをするらしいですよ。王妃様が嬉々として教えてくださいました」
「……あ」
ハッとしたアシュトン様に、私はにこやかに微笑んだ。悲しくても笑えるのは王女としての教育の賜物だわ。
「本当は明日の、お茶会で伝えようと思ったのだけれど……」
「そうでしたか。……けれどその日がオレーリア様の生まれた大事な日に変わりはありません。私から贈ってもよろしいでしょうか?」
去年だったら飛び上がるほど嬉しくて、口元がニヤけていたわ。去年もお祝いをすると言って、結局、魔物の討伐で遠征に出て当日祝われることも、贈物も届かなかった。でもあれはしょうがないと思っていた自分を思い出す。
優しい記憶、穏やかな三年間?
思い返せば、姉がいなくなって少しだけマシになっただけ。それをさも幸せだと、そう思おうとした。
我慢して、なんて──愚かだったのだろう。
「いいえ。その必要はありませんわ」
「え」
泣きそうなのをグッと堪えて、口を開く。喉がカラカラで上手く声が出るか不安だけれど、言わないと。
「十八歳の誕生日の日、私は魔法塔のある空中都市に移住するつもりなのです。だから……」
『私と一緒に逃げてくれませんか?』
なんて少し前までは考えていた。望みは薄いけれど、もし本当に愛してくれているのなら……そう一縷の望みを持っていた。でも姉との抱擁を見たら、そんな言葉は引っ込んでしまった。
「オレーリ──」
「アシュトン様、婚約解消しましょう。……面倒なことや悪役が必要でしたら、私の名前を出して構いません。どうせ何もしなくても、私が悪いことになっているのですから」
アシュトン様は固まったまま。困った顔も、驚いた顔もしていない。
ただ無表情で、瞬き一つしていなかった。
「これも明日お話しする予定でした。姉も戻って来た今、私がいると迷惑だという者たちも増えてきますし、また三年前の日々に戻るのは御免なのです」
「…………」
「私にとってアシュトン様が初恋でした。形だけの婚約者でしたが、淡い夢を見せてくださってありがとうございました。もう会うこともないと思いますが、姉とお幸せに」
言いたいことは、全部言えた。
言ってやったという満足感のまま、返事も待たずに席を立とうとした時、腕を掴まれ引き寄せられた。気付けばアシュトン様に抱きしめられている。ぎゅうぎゅうに、もみくしゃにされるような酷い抱擁だ。
「痛っ、ぷはっ、な」
「────だ。そんなの、それなら、私は──に」
酷く取り乱したアシュトン様の言葉は途切れ途切れで、私に向けて語っているというよりは、自分に言い聞かせているようだった。
悲痛で、震えた声。
泣きたいのに泣けないような、そんな思いが伝わってきた。
アシュトン様にも、何か事情が?
ふとそう思って、本当はダメだけれど分析魔法術式を発動した瞬間、《誓約》と《隷属契約》が浮かんだ。
「え」
その単語に目を疑った。詳しく契約内容を解析すると、一つは騎士としての誓いであり、こちらは健全というか騎士なら叙勲式で結ぶものだ。
問題は《隷属契約》で、なんと契約者は王妃及びクラリッサだった。
その内容はとてもシンプルで、優先すべきは現王妃とクラリッサであること。そして五年間、オレーリアと婚約を結ぶ──だった。
「──あっ」
自分の中の大事な何かが壊れた音がした。
アシュトン様が何故、苦悶の表情を見せたのか。私を思っていたからじゃない。五年間、私と婚約を続けることが《契約内容》だったからだ。一瞬でも好意を寄せられていたのだと思って、浮かれそうになった自分が馬鹿みたい。
だから婚約者として、最低限の接し方をしていたのね。
だから姉を優先していた。
だから──最初から愛されてなどいなかった。彼には選択肢がなかったのだから。
「……アシュトン様は《隷属契約》を結んでいたのですね」
「オレーリア」
彼の顔が酷く歪んで、今にも泣きそうだった。ああ、この方もまた私とは違うけれど、雁字搦めの中にいたのですね。この方も被害者だったのだ。
「事情は分かりました。今まで気付かずにいて申し訳ございません。……私がもっと早く気づいて婚約を結ばなければ、五年もの間、貴方様を縛り付けることはなかった」
「……っ、それは」
「今直ぐに婚約解消ではなく、五年目となる私の誕生日に婚約解消はいたしましょう。それならなんのペナルティもなく契約解除されますわ」
被害者は彼だったのだから、泣きそうになるな。なんでもない風に振る舞うの。王女の仮面を付けていれば笑顔を保てるわ。オレーリア、あと少しだから。
「オレーリア様、……っ、私は」
「いいのです。これで吹っ切れましたし、この国にも未練はなくなりました。私の今までの努力も、実績も、名誉も全部、取り戻してからいなくなります。その後この国がどうなろうと私には関係ありません。……アシュトン様も、《隷属契約》が解除されたら、自身の身の安全を第一に考えてくださいませ」
抱きしめられた温もりが温かくて、心地よくて離れがたかった。本当にこの人が好きだったのだと実感しつつも、失恋したのだと認めたくない自分がいた。
《隷属契約》のせいで私を大切にできなかったとか、契約が終わったら私を自由にするとか、そんな夢みたいな想像を一瞬だけして──頭を振った。そんな訳が無い。
彼は王妃と姉に気に入られて、《隷属契約》を結ばれて、都合のいい人形にさせられた被害者だ。もしかしたら私が彼を好きにならなければ、このような傀儡にならなかったかもしれない。五年間、望まぬことばかりをさせられたアシュトン様に申し訳ない。
「アシュトン様、巻き込んで申し訳ありませんでした」
「……っ、オレーリア、私は……っ」
苦悶の声に胸が痛くなる。これ以上、彼の口からどんな残酷な言葉が出てくるのか、考えたら体が震えた。
そうよね。知らなかったとはいえ、私が彼を見つけなければ……ここまではされなかったはずだわ。私の味方は引き離され、裏切られて離れていった。そうやって私の陣営を真綿で首を締める形に追い込んだのは、現王妃だ。
静かに王国を去るつもりだったが、遠慮はいらないようね。最後に復讐ができそうで良かった。
「私の功績の全てを、この国に支払ってもらいますわ」
国のためと思っていたけれど、もうどうでもいいわ。私の心はぐちゃぐちゃで、ひび割れて元には戻れない。歪んで、壊れてしまった。もともと前世の記憶を取り戻したのも、オレーリア自身の心が摩耗して、壊れてしまったからだ。前世の私が補填する形で保っていたようなもの。
ずっと前から私は壊れて、歪で、それでもいじらしくも信じてみようと手を伸ばした。この国の人たちには誰も届かなかったけれど。
でもウォルトや、空中都市の人たちはそんな私を凄い人だと認めてくれたから、いいのだわ。
結局最後までアシュトン様の笑顔を見ることはなかった。
翌日のお茶会はキャンセルして、部屋の荷物をまとめる。もちろん魔法塔への移住の書類も朝イチで提出済だ。あと一週間は自分の離宮から出ずに、魔導書の翻訳や研究に時間を当てて過ごした。
私に会いに来る奇特な人間は、ウォルト殿下ぐらいだ。けれど今回は断り、「一週間後に」と手紙を書いたら、それで全てを察したようだった。