「はぁ……はぁ……はぁ……」
気が付くと、母さんが海に飛び込んだ防波堤にいた。あの頃から見て見ぬふりをし、避けて来た防波堤だ。
海面に映る自分の姿が歪み、ひどく醜く見えた。
「か、母さん……!私を許して……!母さんは私達を捨てて逝ったとずっと思って……!でもそうじゃないんだよね!母さん!」
冷たいコンクリートにひざまずくとまた……涙が落ちた。
15年経ち、33歳となった私はいつの間にか亡くなった日の母さんと同じ年齢になっていた。
揺らぐ海面を見つめると、防波堤に当たる海が深く暗く、手招きしている様にも見える。
この目の前の海に……人を助けるためとは言え、飛び込めるだろうか。たぶん私には無理だ。だって私には夫も子供もいるのに……。
「え……?子供……?」
私は15年経ってようやく気が付いた。母親になって初めて、それは気付くことが出来たのかもしれない。
「その飛び込んだ女性って……もしかして妊婦さんだったの……?」
また涙が溢れる。それは自分なりに出した答えがより正解に近いという思いからだったかもしれない。自分の中でなぜか納得ができ、妙に腑に落ちた。
何も知らずに母さんをどこかで憎んでいた自分に言い聞かせる。
そう……海に飛び込んだのがお腹の大きな妊婦さんだった場合、女性は元より、お腹の子供の命を助けようとしたのかもしれない――
母さんは自殺だと思っていた……だけど、それは完全に間違っていた事に気付く――
母さん……
母さん……!!
「母さん!会いたいよっ!!」
ビュウゥゥゥゥゥゥゥ!!
そう願った瞬間、強い風が吹き、潮風の匂いが脳を抜け、海岸に咲く彼岸花が揺れる。
………
……
…
「あの……すみません。春子さん?ではないですか?」
ふいに、泣きじゃくる私の背後から声がする。
くしゃくしゃの顔を袖で拭きながら振り返ると高校生くらいの女性が花束を持って立っていた。
その女性は白いワンピースに黒髪の利発そうな女性だった。
「ぐす……は、はい……私、春子です。あなたは?」
私は涙をぬぐいながら途切れ途切れに答える。
「私は秋音。ようやくお会い出来ました……」
そう言うと秋音は花束をそっと海へ投げ入れた。花束は海面に着水すると、波に揺られ足元を行き来する。
「もう15年も前ですが……私の母はここで自殺をしました」
「自殺……?秋音さん……のお母さんが?」
「はい」
「そうなんですね……」
すぐにはピンと来なかった。最初は初対面で何を言っているんだろうと思っていた。しかし、頭の中で記憶と記憶が合致する。
「えっ……嘘……まさか……!」
「私は奇跡的に母が運ばれた病院で産まれたと聞きました……」
住職さんが言っていた言葉を思い出した。
遺体が上がったのは二人だったと……もし、妊婦さんでお腹に子供がいたのなら三人ではないのか……?住職さんもその話は知らなかったのかもしれない。
「あの時、母の発見が少しでも遅かったら私はこの世に産まれていなかったそうです……。あなたのお母さんが大声を出して飛び込む姿を偶然、釣り人が見て警察に通報した……そう、聞いています」
秋音は風になびく髪をかき上げながら、話を続ける。
「もちろん覚えてはいませんが、あなたのお母さんは私にとって命の恩人なのですよ」
そう言って、ニコッと笑う顔がなぜか母さんと重なって見えた。秋音は私の横に座り、話を続ける。
「私、一度だけでもいい『お母さん』て……呼んでみたかったんですよね……」
「秋音さんも、私と同じなのね……私はもう一度、母さんに会ってありがとうって――」
ふいに自分の口から出た言葉で、夢でみた母さんの言葉を思い出した。
『春子、母さんはね……あなたが私の子に産まれてきてくれて良かった。……ありがとう』
胸をわし掴みにされた気がし、目の前にあった見えないもやもやした霧が晴れていく。
「思い出した……母さんは産まれてきてくれてありがとう……て言ってたんだ……あぁ、そうか……夢で母さんはありがとう、て言ってたんだ。そっか……そうだったんだ……」
何度も同じ言葉を声に出し繰り返す。もう二度と忘れない様に。すると涙がまた自然と溢れてくる。だけどその涙は悲しい涙ではなく、嬉しい気持ちでいっぱいの涙だった。
私は海を眺めたまま干渉に浸り、しばらくしてから秋音さんに声をかける。
「ねぇ……秋音さん。時間があればこの後どこかで食事で……も……」
秋音さんからの返事はない。彼女も干渉に浸っているのかと思い、横に座っていた秋音ちゃんの方に目をやる。
するとなぜかさっきまでそこにいた秋音さんの姿が……どこにもなかった。
「え……?秋音さん……?」
慌てて立ち上がり辺りを見渡すが、それらしい姿は見当たらない。
海に投げ入れたはずの花束もいつの間にか見えなくなっている。
「どういう事……?」
私が干渉に浸り、秋音さんの方を振り向かなったのはたぶん数十秒程であった。その間に黙っていなくなるだろうか?それに花束も見当たらない。
「何なの……?」
気味が悪くなり、私は防波堤を後にお寺さんへと急ぎ足で引き返す。お寺さんを出る時に靴も履かずに飛び出した事を少し後悔する。
港町の道路を裸足で歩く姿など誰にも見られたくない。ようやく我に返り、住職さんに申し訳ない事をしたと反省した。
暑い舗装の上を急ぎ、間もなくお寺さんの参道の入口だ。
参道近くになぜか救急車が止まっていた。しかしそんな事より裸足で歩いているのが恥ずかしく、うつむきがちに参道へと入る。
ちょうどそこへがお寺さんの方から親子と見られる二人が歩いて来る。何だか気まずい……。
「こんにちは――」
軽く会釈をしさっさと素通りした。
私は境内にある手洗い場で水を汲み、軽く足を洗い流すと住職さんが待っているであろう本堂の隣の住まいへと戻って来た。
「あのぉ……すいません!春子です!誰かおられますか!」
「はいはい。帰って来ると思って待っちょったよ。靴もそのままだしね」
「すいませんでした。取り乱して、恥ずかしい所を見せてしまって……」
「はっはっは!そんな事、気にする事ないけん。おや?その顔は何だかスッキリした顔だね?少しは落ち着いたかい?」
「はい。色々ありがとうございました。それと住職さんに少しお聞きしたい事があって。実はさっき――」
――その後、住職さんに防波堤で会った女性の話をしたが、住職さんも知らないと言う。
あの女性はいったい誰だったのだろう?