「……っ」
ゆっくりと意識が覚醒して目を開くと、そこは先ほどいた校舎裏ではなく、見知らぬ場所だった。
埃を被っている椅子や割れた鏡、棚から垂れ下がる布の切れ端などからして物置小屋であることはわかった。
しかし、鈴風女学院の物置小屋はここまで古びていない。
身体も打ってしまっているようで、所々に痛みを感じる。
そして視線がやけに低く見えて違和感を覚える。
もしかして、と手を見るとそれは人間のものではなく、狐の前足だった。
(……術が解けているわ)
気絶している間に狐の姿へと戻ってしまったようだ。
不安が押し寄せて辺りを見渡すと、小屋の天井近くに小窓があるだけで、ほとんど光が差し込んでおらず薄暗い。
とりあえず外へ出て状況を確認しようと扉へと向かおうとしたとき、ドアノブが回されて誰かが入ってきた。
「あら、小夜。もう起きてしまったの? もっとゆっくり寝てて良かったのに。ねえ、舞子さん」
「お、お姉さま……」
くすりと笑みを浮かべ、頬に手を添えながら入ってきたのは姉の一華だった。
そして彼女の斜め後ろには舞子が立っていた。
「はい、一華さま。薬の量が少なかったでしょうか。申し訳ありません」
「いいのよ。ここまでは想定内。小夜をここまで連れてくるのが目的でしたから」
「お姉さま、ここは一体どこですか? それにどうしてこんなことを……」
意識を失う前の記憶がよみがえる。
おそらく一華が薬品を含ませたハンケチで小夜に襲いかかり、気絶させたのだ。
舞子が傍にいるということは、背中から羽交い締めをしたのは彼女。
困惑する小夜を一華と舞子は愉快そうに見下した。
「ここは寺石家が所有する敷地内にある小屋。それにしても、まんまと騙されるなんてね。優しい貴方ならきっと来てくれると思っていたわ」
「それじゃあ、あの手紙は……」
「ええ。わたくしたちが用意したものよ」
あれは一華たちが仕組んだ罠。
疑わずにやって来た小夜を待ち構えていたのだろう。
「お姉さまたちは何が目的なのですか」
「わたくしたちの目的はただ一つ。小夜、七条さまの婚約者の座を譲りなさい」
「え……」
一華はゆっくりと近づき、狐姿の小夜を無造作に掴んだ。
「きゃっ……!」
「貴方さえいなければ、わたしに縁談の話がくるはずだったのよ」
七条家からの縁談を待っていたのは一華だけではない。
扉付近に立つ舞子だって同じ。
舞子は小夜の視線に気がつくと淡々とした声色で答えた。
「一華さまはわたくしの憧れなの。だから幸せになってくだされば、それでいいの。何だって協力するわ」
「まあ、嬉しい。素敵な下級生ができて、わたくしは幸せ者ね。婚約者になったあかつきには、うんとご褒美をあげるわ」
一華は舞子にとびきり優美な笑みを向けると、次に空中でもがく小夜を睨みつけた。
どれだけ身体をひねり、動かしても首根っこを掴む手は解けない。
「この手を離してほしい? いいわよ、貴方が七条さまの婚約者を辞めればね」
「い、嫌です……!」
「あら、生意気な口を聞くのね。いいのかしら。断れば傷つくのは貴方だけじゃない。大切な友人の緒方凛も危険な目にあうのよ」
「そんな、緒方さんは関係ありません」
「そんなのどうだっていいの。七条さまの婚約者になれるのならどんな手も使う。──さあ、早く決めなさい」
自分だけならいい。
でもきっと断ればふたりは凛にも危害を加える。
それに、やっと手に入れた幸せを失いたくなかった。
悲しい秘密を抱える時雨のために花嫁修業も頑張りたい。
時雨とふたりで甘味を食べて、好きな花を育てたい。
叶えたい望みが、脳裏をよぎる。
小夜は息を吸い込むと、まっすぐに一華を見つめた。
「絶対に譲りません……!わたしは旦那さまと約束したんです。一緒に幸せになろうって!」
無我夢中で大声で叫ぶと、一華と舞子は僅かに瞠目した。
舞っている埃のせいで、咳をこんでいると、急に手を離されて落下する。
床には木材も置かれていて、背中にその角が当たり、痛みを感じた。
「……うぁ」
苦しんでいると、一華は背を向ける。
「そう。なら貴方にもう頼まないわ。ずっとここでいたらいいのよ」
ちゃらんと金属の音がして、見上げると彼女の左手には鍵があった。
施錠をして閉じ込めるつもりなのだと理解して、追いかけようとするが身体中に痛みが走り、動けない。
「行きましょう、舞子さん」
「もう、よろしいのですか」
「ええ。放っておけば、その内弱るわ。衰弱すれば花嫁なんてなれないもの」
ふんと鼻を鳴らして出て行こうとしたとき、地鳴りが聞こえた。
ガタガタと小屋が揺れて、棚から物が落ち始める。
「な、なんなの? 地震?」
「一華さま、とりあえず外に──」
舞子が先導して扉を開くと、そこには巨大な狐の姿があった。
血のように赤く染まった目。
鋭い歯は剥き出しにしていて、こちらを威嚇していた。
その存在感から狐というより、狼にも見える。
「ひっ……」
ふたりはあまりの恐怖に腰を抜かして座り込んでしまった。
ガルガルと喉を鳴らして、ゆっくりと近づいてくる。
まるで獲物を食らう直前のようだ。
(あれは……)
見覚えのある赤い目と、肌に感じる強い霊力。
小夜は重い足を必死に動かして、立ち上がると、狐の方へと向かう。
狐は呆然とするふたりにすぐにでも飛びかかる勢いだ。
鋭い爪が生える前足を地面から蹴り出した瞬間、小夜はそこに飛びついた。
「やめてください!──旦那さま!」
訴える声に狐の動きはぴたりと止まる。
巻き起こる風で吹き飛ばされそうになるが、必死にしがみついた。
やがて風が収まり、前足は静かに地面へと降ろされる。
「離せ、小夜」
(やっぱり旦那さまだったのね)
一華たちを襲おうとした狐は、凶暴化した時雨だった。
話では我を忘れてしまうと聞いていたが、小夜の声が届いて、僅かだが意識が奇跡的に戻ったようだ。
「離しません!」
「小夜を連れ去り、傷つけたのはあいつらなんだろう。同じ苦しみを与えてやる」
「ここでお姉さまたちに手を出せば、旦那さまも同罪です!わたしは大丈夫ですから、どうか、どうかやめてください」
「大切な婚約者を失う寸前だったんだ。罰を与えなければ僕の気が済まない」
「罰ならばきっと他にも選択肢はあります!わたしはこれからも優しい旦那さまが隣にいてくださるだけで幸せです。だから、お願い……」
「……っ」
時雨は泣きじゃくる小夜に気がつくと、ゆっくりと目を閉じた。
すうっと煙が巨大な身体を包み込む。
しばらくして、そこから現れたのは人間の姿の時雨だった。
「旦那さま……!」
時雨は怪我を負っている小夜を見つけて、ひゅっと息を吸い込んだあと、そっと抱きしめた。
「小夜、本当にごめん。……ありがとう」
涙ぐむ時雨を慰めるように、頬をそっと寄せる。
「時雨さま!水園小夜!」
少し離れた場所に自動車が止まり、中から律が出てきてこちらに駆け寄ってくる。
座り込む一華と舞子、そして物置小屋の破損。
律は見渡して状況を確認すると、傷だらけの小夜に視線を向けた。
「……もしかして君が時雨さまを止めたのか?」
息を切らしながら尋ねる彼に小夜は首を横に振った。
「いえ、わたしはただ想いを旦那さまに伝えただけです」
「……? それは一体どういうことだ」
眉間に皺を寄せて、詳細を尋ねる律に困っていると、時雨がこほんと咳払いをした。
「律、あとできちんと説明するから。ひとまず小夜の治療をしないと」
「え、ええ。それもそうですね。……彼女たちはいかがなさいますか」
時雨の腕の中からふたりの様子をうかがう。
どうやら凶暴化した狐の正体が時雨だと信じられないようで、唇をわなわなと震わせていた。
「警備隊を呼んで連行してもらう。彼女たちは小夜を誘拐して怪我を負わせた。立派な犯罪だよ」
「かしこまりました。手配いたします」
「僕は小夜と一緒に屋敷に戻る。ここは任せてもいい?」
「はい」
時雨はありがとう、と伝えると背を向けて歩き出す。
(良かった……。本当に良かった)
小夜は未だ身体に残る薬品の効能と疲労感のせいで、再び眠りについた。
◆
ゆっくりと目を開けると、見覚えのある木目の天井が視界に入る。
温かく包み込む布団は昨晩、小夜が使用したものだ。
(戻ってきたのね、七条家の屋敷に)
「小夜、具合はどう?」
視線だけを左側へ移すと、時雨が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「旦那さま……。はい、大丈夫です。ご心配をおかけして何と詫びたら良いか」
「君は何も悪くない。だから気にすることなんてないよ」
眠っている間に無意識で人間の姿になったようだ。
ゆっくり起き上がろうとすると、そっと背中に手を添えて支えてくれた。
「起きて大丈夫?」
「はい。あの、旦那さま。どうしてわたしが連れ去られたことをご存知だったのですか?」
人気のないあの場所で誘拐されるのを目撃した者はいなかったはず。
それなのに、どうして凶暴化して居場所を突き詰めたのか。
時雨は繃帯が巻かれた小夜の手にそっと触れながら口を開いた。
「運転手が小夜が来ないことを不審に思って周囲を捜索したんだ。そしたら、彼女たちに連れ去られるところを目撃したらしい。それで急いで連絡をくれたんだ」
「そうだったのですね……」
運転手がいなければ小夜は今頃、どうなっていたかわからない。
体調が回復したら礼をしなければ。
ふと、影が落ちたかと思えば小夜は時雨に抱き寄せられた。
「小夜が連れ去られたと知って、順番を通り越して怒りで凶暴化してしまった。君が呼びかけてくれなければ間違いなく彼女たちを傷つけていた。そうしたら僕は今、ここにいない」
小夜の肩に触れている彼の手は震えていて、心情を察すると胸が切なく締めつけられた。
そんなつらい顔は見たくない。
いつだって望むのは、花が咲き誇るような笑顔だ。
小夜は彼の代わりに、笑った。
「旦那さまがわたしを救ってくれたように、わたしもお支えしたいとずっと思っていました。またこうして一緒にいられるだけで幸せなんです。だから、そんな顔しないでください」
「……ありがとう。必ず君をもっと幸せに笑顔にすると誓うよ。だから傍にいてくれる?」
「はい、もちろんです。わたしも旦那さまをお慕いしていますから」
時雨は小夜の答えに嬉しそうにして笑みを浮かべた。
「好きだよ。僕の愛しの婚約者──」
大切なひとと共にいられる奇跡を噛みしめながら小夜は、目を閉じたのだった。
ゆっくりと意識が覚醒して目を開くと、そこは先ほどいた校舎裏ではなく、見知らぬ場所だった。
埃を被っている椅子や割れた鏡、棚から垂れ下がる布の切れ端などからして物置小屋であることはわかった。
しかし、鈴風女学院の物置小屋はここまで古びていない。
身体も打ってしまっているようで、所々に痛みを感じる。
そして視線がやけに低く見えて違和感を覚える。
もしかして、と手を見るとそれは人間のものではなく、狐の前足だった。
(……術が解けているわ)
気絶している間に狐の姿へと戻ってしまったようだ。
不安が押し寄せて辺りを見渡すと、小屋の天井近くに小窓があるだけで、ほとんど光が差し込んでおらず薄暗い。
とりあえず外へ出て状況を確認しようと扉へと向かおうとしたとき、ドアノブが回されて誰かが入ってきた。
「あら、小夜。もう起きてしまったの? もっとゆっくり寝てて良かったのに。ねえ、舞子さん」
「お、お姉さま……」
くすりと笑みを浮かべ、頬に手を添えながら入ってきたのは姉の一華だった。
そして彼女の斜め後ろには舞子が立っていた。
「はい、一華さま。薬の量が少なかったでしょうか。申し訳ありません」
「いいのよ。ここまでは想定内。小夜をここまで連れてくるのが目的でしたから」
「お姉さま、ここは一体どこですか? それにどうしてこんなことを……」
意識を失う前の記憶がよみがえる。
おそらく一華が薬品を含ませたハンケチで小夜に襲いかかり、気絶させたのだ。
舞子が傍にいるということは、背中から羽交い締めをしたのは彼女。
困惑する小夜を一華と舞子は愉快そうに見下した。
「ここは寺石家が所有する敷地内にある小屋。それにしても、まんまと騙されるなんてね。優しい貴方ならきっと来てくれると思っていたわ」
「それじゃあ、あの手紙は……」
「ええ。わたくしたちが用意したものよ」
あれは一華たちが仕組んだ罠。
疑わずにやって来た小夜を待ち構えていたのだろう。
「お姉さまたちは何が目的なのですか」
「わたくしたちの目的はただ一つ。小夜、七条さまの婚約者の座を譲りなさい」
「え……」
一華はゆっくりと近づき、狐姿の小夜を無造作に掴んだ。
「きゃっ……!」
「貴方さえいなければ、わたしに縁談の話がくるはずだったのよ」
七条家からの縁談を待っていたのは一華だけではない。
扉付近に立つ舞子だって同じ。
舞子は小夜の視線に気がつくと淡々とした声色で答えた。
「一華さまはわたくしの憧れなの。だから幸せになってくだされば、それでいいの。何だって協力するわ」
「まあ、嬉しい。素敵な下級生ができて、わたくしは幸せ者ね。婚約者になったあかつきには、うんとご褒美をあげるわ」
一華は舞子にとびきり優美な笑みを向けると、次に空中でもがく小夜を睨みつけた。
どれだけ身体をひねり、動かしても首根っこを掴む手は解けない。
「この手を離してほしい? いいわよ、貴方が七条さまの婚約者を辞めればね」
「い、嫌です……!」
「あら、生意気な口を聞くのね。いいのかしら。断れば傷つくのは貴方だけじゃない。大切な友人の緒方凛も危険な目にあうのよ」
「そんな、緒方さんは関係ありません」
「そんなのどうだっていいの。七条さまの婚約者になれるのならどんな手も使う。──さあ、早く決めなさい」
自分だけならいい。
でもきっと断ればふたりは凛にも危害を加える。
それに、やっと手に入れた幸せを失いたくなかった。
悲しい秘密を抱える時雨のために花嫁修業も頑張りたい。
時雨とふたりで甘味を食べて、好きな花を育てたい。
叶えたい望みが、脳裏をよぎる。
小夜は息を吸い込むと、まっすぐに一華を見つめた。
「絶対に譲りません……!わたしは旦那さまと約束したんです。一緒に幸せになろうって!」
無我夢中で大声で叫ぶと、一華と舞子は僅かに瞠目した。
舞っている埃のせいで、咳をこんでいると、急に手を離されて落下する。
床には木材も置かれていて、背中にその角が当たり、痛みを感じた。
「……うぁ」
苦しんでいると、一華は背を向ける。
「そう。なら貴方にもう頼まないわ。ずっとここでいたらいいのよ」
ちゃらんと金属の音がして、見上げると彼女の左手には鍵があった。
施錠をして閉じ込めるつもりなのだと理解して、追いかけようとするが身体中に痛みが走り、動けない。
「行きましょう、舞子さん」
「もう、よろしいのですか」
「ええ。放っておけば、その内弱るわ。衰弱すれば花嫁なんてなれないもの」
ふんと鼻を鳴らして出て行こうとしたとき、地鳴りが聞こえた。
ガタガタと小屋が揺れて、棚から物が落ち始める。
「な、なんなの? 地震?」
「一華さま、とりあえず外に──」
舞子が先導して扉を開くと、そこには巨大な狐の姿があった。
血のように赤く染まった目。
鋭い歯は剥き出しにしていて、こちらを威嚇していた。
その存在感から狐というより、狼にも見える。
「ひっ……」
ふたりはあまりの恐怖に腰を抜かして座り込んでしまった。
ガルガルと喉を鳴らして、ゆっくりと近づいてくる。
まるで獲物を食らう直前のようだ。
(あれは……)
見覚えのある赤い目と、肌に感じる強い霊力。
小夜は重い足を必死に動かして、立ち上がると、狐の方へと向かう。
狐は呆然とするふたりにすぐにでも飛びかかる勢いだ。
鋭い爪が生える前足を地面から蹴り出した瞬間、小夜はそこに飛びついた。
「やめてください!──旦那さま!」
訴える声に狐の動きはぴたりと止まる。
巻き起こる風で吹き飛ばされそうになるが、必死にしがみついた。
やがて風が収まり、前足は静かに地面へと降ろされる。
「離せ、小夜」
(やっぱり旦那さまだったのね)
一華たちを襲おうとした狐は、凶暴化した時雨だった。
話では我を忘れてしまうと聞いていたが、小夜の声が届いて、僅かだが意識が奇跡的に戻ったようだ。
「離しません!」
「小夜を連れ去り、傷つけたのはあいつらなんだろう。同じ苦しみを与えてやる」
「ここでお姉さまたちに手を出せば、旦那さまも同罪です!わたしは大丈夫ですから、どうか、どうかやめてください」
「大切な婚約者を失う寸前だったんだ。罰を与えなければ僕の気が済まない」
「罰ならばきっと他にも選択肢はあります!わたしはこれからも優しい旦那さまが隣にいてくださるだけで幸せです。だから、お願い……」
「……っ」
時雨は泣きじゃくる小夜に気がつくと、ゆっくりと目を閉じた。
すうっと煙が巨大な身体を包み込む。
しばらくして、そこから現れたのは人間の姿の時雨だった。
「旦那さま……!」
時雨は怪我を負っている小夜を見つけて、ひゅっと息を吸い込んだあと、そっと抱きしめた。
「小夜、本当にごめん。……ありがとう」
涙ぐむ時雨を慰めるように、頬をそっと寄せる。
「時雨さま!水園小夜!」
少し離れた場所に自動車が止まり、中から律が出てきてこちらに駆け寄ってくる。
座り込む一華と舞子、そして物置小屋の破損。
律は見渡して状況を確認すると、傷だらけの小夜に視線を向けた。
「……もしかして君が時雨さまを止めたのか?」
息を切らしながら尋ねる彼に小夜は首を横に振った。
「いえ、わたしはただ想いを旦那さまに伝えただけです」
「……? それは一体どういうことだ」
眉間に皺を寄せて、詳細を尋ねる律に困っていると、時雨がこほんと咳払いをした。
「律、あとできちんと説明するから。ひとまず小夜の治療をしないと」
「え、ええ。それもそうですね。……彼女たちはいかがなさいますか」
時雨の腕の中からふたりの様子をうかがう。
どうやら凶暴化した狐の正体が時雨だと信じられないようで、唇をわなわなと震わせていた。
「警備隊を呼んで連行してもらう。彼女たちは小夜を誘拐して怪我を負わせた。立派な犯罪だよ」
「かしこまりました。手配いたします」
「僕は小夜と一緒に屋敷に戻る。ここは任せてもいい?」
「はい」
時雨はありがとう、と伝えると背を向けて歩き出す。
(良かった……。本当に良かった)
小夜は未だ身体に残る薬品の効能と疲労感のせいで、再び眠りについた。
◆
ゆっくりと目を開けると、見覚えのある木目の天井が視界に入る。
温かく包み込む布団は昨晩、小夜が使用したものだ。
(戻ってきたのね、七条家の屋敷に)
「小夜、具合はどう?」
視線だけを左側へ移すと、時雨が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「旦那さま……。はい、大丈夫です。ご心配をおかけして何と詫びたら良いか」
「君は何も悪くない。だから気にすることなんてないよ」
眠っている間に無意識で人間の姿になったようだ。
ゆっくり起き上がろうとすると、そっと背中に手を添えて支えてくれた。
「起きて大丈夫?」
「はい。あの、旦那さま。どうしてわたしが連れ去られたことをご存知だったのですか?」
人気のないあの場所で誘拐されるのを目撃した者はいなかったはず。
それなのに、どうして凶暴化して居場所を突き詰めたのか。
時雨は繃帯が巻かれた小夜の手にそっと触れながら口を開いた。
「運転手が小夜が来ないことを不審に思って周囲を捜索したんだ。そしたら、彼女たちに連れ去られるところを目撃したらしい。それで急いで連絡をくれたんだ」
「そうだったのですね……」
運転手がいなければ小夜は今頃、どうなっていたかわからない。
体調が回復したら礼をしなければ。
ふと、影が落ちたかと思えば小夜は時雨に抱き寄せられた。
「小夜が連れ去られたと知って、順番を通り越して怒りで凶暴化してしまった。君が呼びかけてくれなければ間違いなく彼女たちを傷つけていた。そうしたら僕は今、ここにいない」
小夜の肩に触れている彼の手は震えていて、心情を察すると胸が切なく締めつけられた。
そんなつらい顔は見たくない。
いつだって望むのは、花が咲き誇るような笑顔だ。
小夜は彼の代わりに、笑った。
「旦那さまがわたしを救ってくれたように、わたしもお支えしたいとずっと思っていました。またこうして一緒にいられるだけで幸せなんです。だから、そんな顔しないでください」
「……ありがとう。必ず君をもっと幸せに笑顔にすると誓うよ。だから傍にいてくれる?」
「はい、もちろんです。わたしも旦那さまをお慕いしていますから」
時雨は小夜の答えに嬉しそうにして笑みを浮かべた。
「好きだよ。僕の愛しの婚約者──」
大切なひとと共にいられる奇跡を噛みしめながら小夜は、目を閉じたのだった。