「さて、ご説明していただけますか。時雨さま」

 木製の低いテーブルを挟んだ向かいに、律が静かな双眸でこちらを見ている。

 高志郎が七条家の屋敷から出て行ったあと、彼に呼ばれ、ふたりは客間に通された。

 どうやら、この男は六木律というらしい。

 天狐の一族、六木家の長男で時雨の従者を勤めているという情報は、客間に入ってすぐに時雨に教えてもらった。

 彼の反応を見る限り、律はすぐに小夜を受け入れてくれた玲子と違って、彼女を正式な婚約者に選出したことに納得していないようだった。

 「……と、その前に水園小夜。そこから降りなさい」

 今、小夜は座布団の上ではなく、なぜか時雨のももの上に座っている。

 テーブルの前に並んだ二つの座布団のうちの一つに座ろうとしたところ、時雨にひょいっと身体を持ち上げられ、ももの上に座らせられた。

 驚いてすぐに、そこから降りようとしたが、ここにいてほしいなと頼まれてしまい、現在に至る。

 「は、はい」

 おそらく、律は小夜に好感は抱いていない。

 それどころか、隠せていない嫌悪感が、肌にひしひしと感じる。

 再び、降りようと試みるが、優しく手で制された。

 「これくらい、いいでしょ。それより、僕たちに話があるのだろう?」

 のんびりと微笑みながら諭す時雨に、律は半ば呆れたようにため息を吐き出したあと、口を開いた。

 「時雨さま、本当にその娘を婚約者にするおつもりですか」

 「ああ。お互いの意思もきちんと確認したよ。ゆくゆくは僕の妻になってもらうつもりだ」

 ある程度、想定はしていたのだろう。

 やはり、と小さく呟くと頭を悩ませるように、額を右手で抑えた。

 「どうかもう一度、再考してくださいませ」

 「どうして?」

 「縁談の話があった時点で、申したでしょう。言わなければご理解いただけませんか」

 「実際に会ってみて気持ちが変わった。律には小夜の良さがわからないの?」

 「ええ。まったく」

 ぴしゃりと言い切られる。

 躊躇なく己の意見を述べている姿は、何となく高志郎と似ているが、またどこか違うし、時雨も慣れているのか、まったく気にしていないようだった。

 (従者というより、仲の良い友人のよう)

 日頃から暴言を浴びせられている小夜にとっては、これくらい別に何とも思わない。

 話を聞いていれば、大体わかる。

 小夜と見合いをしたい時雨を律は何とか阻止をしたかったのだろう。

 しかし、相手は七条家当主。

 当主の意見は絶対だ。

 それは、どこの一族も同じで、律も六木家の血を引くとはいえ、止められるほどの権力はない。

 「君も、時雨さまの婚約者になるということの重大さに気がついているのか」

 ぎろりと睨まれ、背筋がぴんと伸びる。

 玲子のように落ちこぼれである小夜を認めてくれる方が珍しい。

 普通ならば律のような意見が、当然である。

 時雨の婚約者になると決めたからには、ひとりでも多く、七条家の人間に認めてもらい、受け入れてほしい。

 こくりとうなづいて、負けじと律を見つめる。

 「はい。七条さまの隣に並んでも恥じないように、これから精進します。どんな厳しい花嫁修業にも逃げ出したりしません。六木さま。どうか、お願いいたします」

 「僕からも。頼む、律」

 願いを乞う小夜に倣って、時雨も頭を下げる。

 影が落ちて、寄り添ってくれる、その優しさに救われる。

 「し、時雨さま!顔をお上げください!貴方さまが頭を下げる必要などないのですよ」

 ぎょっと目を見開く律。

 ひゅっと息を吸い込んだあと、慌てたように止めに入るが、時雨はそのままだった。

 「いや。婚約者になってほしいとお願いしたのは僕だ。それに、大切な従者である律に反対されたままは嫌だから」

 「時雨さま……」

 ただの従者ならば、ここまで説得させないだろう。

 彼らには彼らの過去があって、小夜には到底入り込めない絆がある。

 そんな大事なひとに祝福されてこそ、一歩前へと進めるのかもしれない。

 律を納得させなければ、おそらく他の七条家に仕える者も首を縦に振らないだろう。

 三人とも黙り込んで、客間は静寂に包まれている。

 僅かな逡巡ののち、先に口を開いたのは律だった。

 「時雨さま、水園小夜。顔を上げてください」

 時雨が落としていた影が消えて、視界が僅かに明るくなる。

 顔を上げたのだとわかって、小夜もそれに続いた。

 相変わらず律は気難しい表情をしていたが、若干、寄せられていた眉間の皺が減ったような気がする。

 「わかりました。彼女を婚約者として七条家で暮らすことを許可します」

 「本当かい? ありがとう、律」

 「ありがとうございます……!」

 良かったね、とふたりは顔を見合わせる。

 きっと小夜だけでは、絶対に無理だった。

 律が誠心誠意、仕えている時雨の願いだからこそ。

 「ただし」

 喜びを分かち合っているふたりの空気にすかさず、冷厳さを帯びた声が届く。

 「こちらが与える課題に弱音を吐いたり、達成できたりしなかった場合は即座にこの屋敷から追い出します。それが条件です」

 「少し厳しすぎない? 小夜は天狐じゃない、空狐だ。母上だって苦労したのに、それじゃあ、まるで無理難題をこの時点で押しつけているようなものだよ」

 「だからこそです。彼女がたとえ落ちこぼれでなかったとしても私どもとは位が違います。ほとんどの天狐の一族が異論を申し立てするでしょう」

 (六木さまの仰るとおりね)

 基本的に狐たちの結婚は同じ種族同士。

 天狐は天狐と。

 空狐は空狐と。

 そして今回のように、政略結婚の場合が多い。

 中には稀に、恋愛結婚をする者もいる。

 同じ種族ならば、特に問題はないのだが、位が違うと苦労することが多いようだ。

 どちらかが空狐で、どちらかが気狐だと必ずと言っていいほど反対される。

 恋愛や結婚に目がない女性が集う女学院でも、自然とそういった話が耳に届く。

 妖力が高い者たちから生まれた子供は代々、家を繁栄させてきた。

 違う種族だと、どうしても弱まってしまう。

 反対する者たちはそれを懸念しているのだ。

 圧力に負けて、別れを選ぶ者。

 駆け落ちしてでも、愛を選ぶ者。

 比べれば前者が圧倒的に多いのが現実だ。

 小夜と時雨は恋愛結婚ではないものの、似たようなもの。

 過去に天狐の一族に天狐以外の女性が嫁いだ、なんて話は聞いたことがない。

 前代未聞である。

 (婚約者として、妻として、この場所に居続けるには、大丈夫だってことを皆さまに証明しないといけないわ)

 一番は必要だと言ってくれた時雨の気持ちに応えられるように。

 地獄の中で蹲っていた小夜に、手を差し伸べてくれた優しさを無駄にはしたくない。
 
 「構いません。わたし、頑張ります」

 はっきりとお腹から声を出して決意を伝える。

 律はこちらの真意を探るかのように、無言でこちらを見ていた。

 「小夜、本当に大丈夫? 体調があまり優れていないのだろう」

 おそらく彼は小夜の皮膚に微かに浮き出ている骨の感触に気がついた。

 名家の令嬢でありながらも痩せ細った身体は、まともに食事を与えられていないのだと、頭の良い時雨は想像がついているようだ。

 心配そうに顔を覗き込む時雨を安心させるように微笑む。

 「はい。堂々と七条さまのお隣に立てるようになりたいのです」

 「……わかった。僕もできることは協力するから。何でも言ってね」

 「ありがとうございます」

 頼れる存在がいることは心強く、安堵からか笑みがこぼれた。

 しかし、気合いでどうにかなるほど、甘くはない。

 ここまで話を進めるだけでも多大な迷惑をかけているのに、順調に事は進まないだろう。

 頑張ると強がっているものの、内心は不安もかなりの割合で占めていた。

 「まあ、まずは人間の姿になるところからですけどね」

 「は、はい」

 小夜は見合いが始まる直前に変化の術が解けてから、一度も人間の姿になれていない。

 遅いときは、できるようになるまで一日かかるので、日常茶飯事だったが、天狐の彼らからしたら大問題だ。

 「実の父にあんなことをされたんだ。恐怖で術が解けてもおかしくないよ。今日だけは多目に見てあげて」

 「……はぁ。今日だけですよ。明日の朝には術を行使できるまで回復してくださいね」

 「はい」

 厳しい彼のことだ。

 朝を迎えて、この姿だったら追い出すに違いない。

 何とかしなければと焦りが募る。

 時雨は何も喋らなかった。

 けれど、静かに背中を撫でてくれていて、それがとても心地良かった。

 「では、わたしは書類などの準備を進めていきます。書いていただくのは明日に。その状態では筆を持つことさえ、ままならないでしょうから」

 律は小夜の前足を一瞥しながら、立ち上がる。

 彼は優しさとか思いやりで言ったわけではないだろうが、それが純粋に嬉しく感じた。

 「お気遣いありがとうございます」

 礼を言うと、ふんと小さく鼻を鳴らして襖へと歩き出す。

 そこで、何か思い出したかのようにそうだ、と言って引き止めたのは時雨だった。

 「ねえ、律。玲子さんを呼んできてくれないかい? 小夜の身の回りの世話を頼みたいんだ。男の僕だと色々と限界があるから」

 「そんな、お世話だなんて。わたしはひとりでも平気ですよ?」

 「いいの、いいの。甘えられるときに、存分に身を委ねたらいい。その方が物事が上手くいったりするんだ」

 朗らかに笑う時雨には説得力がある。

 新たな環境で生活が始まるのだ。

 ひとりで抱えて失敗し、誰かに迷惑をかけるよりは、力を借りた方が玲子だってありがたいだろう。

 「……では、お願いします」

 「うん。そういうわけだから、律もよろしくね」

 「かしこまりました。──時雨さまも今日はごゆっくりお休みください。可能ならば誰も近づけず、おひとりで」

 (え? 今、近づけるなって……。どういう意味かしら)

 まるで念を押すような言い方に疑問を抱く。

 一瞬、小夜自身と遅くまで一緒にいるなと言っているのかと思ったが、何やら違うようだ。

 使用人でさえも、今夜は関わるなとも聞こえる。

 首を傾げる小夜をよそに、時雨はうなづいた。

 「わかったよ」

 返答を聞くと失礼いたします、と丁寧にお辞儀をして客間から出て行った。

 当然のごとく、お辞儀の相手は時雨のみ。

 しかし、小夜はそんなことなど微塵も気にならなかった。

 それよりも、先ほどの律の発言だ。

 そして、高志郎と揉めていたときの、時雨の目の色と、彼の『もうすぐ二回目』の言葉。

 小夜の中では起こった出来事と噛み合っていなくて、靄が心を埋め尽くす。

 (もしかして、七条さまはどこか体調がよろしくないのかしら。それに六木さまは気がついていらっしゃる?)

 目が血のように赤く染まったことも関係しているのだろうか。

 もしそうだとしたら、なるべく早く部屋で休んでもらった方がいい。

 天狐の頂点に君臨する時雨に一大事が発生すれば、外に影響を及ぼす。

 余計なお世話かもしれないが、聞かずにはいられなかった。

 「あの、七条さま。体調が優れないのではありませんか?」

 「え? 僕はいたって元気だけれど」

 きょとんとして、目を丸くさせている表情からして、とても嘘をついているようには見えない。

 血色も良いし、風邪をひいているわけではなさそうだ。

 あまり深い探りは入れてはいけないとわかっていながらも抑えることはできなかった。

 「でも、わたしの見間違いでなければ、先ほどから様子が……。目の色だって変わったように見えました。ご無理はなさらない方がよろしいのではないですか」

 「……!」

 小夜の『目の色が変わった』の一言に、時雨は涼やかな顔から明らかに動揺したように、肩を揺らす。

 瞠目したあと、気まずそうに視線を逸らした。

 何か聞いてはいけないようなまずい質問をしてしまっただろうか。

 余計な一言で傷つけてしまっただろうか。

 あの時雨が視線を逸らすなんて、ずっとやらなかった。

 胸がざわつき、後悔が押し寄せる。

 (今日が初対面なのに、無神経だったわよね、わたし)

 花嫁修業の試練が始まる前に、時雨を悲しませては元も子もない。

 婚約者として失格だ。

 「あ、あの。わたし、無礼でしたよね。申し訳ありません」

 婚約者だからといって、知られたくないことも、深く捜索されるのも嫌うひとだっているはずだ。

 頭を下げると、慌てたような声が降ってくる。

 「ち、違う!違うから!君は謝るようなことは何も言っていないよ。ただ、見られていたんだって驚いただけ」

 「見られていた……? 目の色が、ですか」

 「ああ。──話そうかな。飾らずにありのままの姿でいてくれた君には」

 時雨は小さく笑っていた。

 でもそれが、喜びや嬉しさから生まれたものではない。

 悲しさやつらさから成り立ったものだとわかって胸が切なく締めつけられる。

 時雨は長い睫毛を伏せたあと、ぱっと輝くような笑みを浮かべていた。

 たった今の、憂いは完全に消えている。

 「でも、その前に夕食と風呂だ。小夜、お腹は減っていないかい?」

 「い、いえ。食欲はあまり……」

 突然の変わりように、驚いて声がうわずる。

 目をぱちくりと瞬かせている小夜に時雨はくすりと笑った。

 「そうか。でも何か口にしないと駄目だよ。汁物くらいなら大丈夫かな」

 「はい。大丈夫だと思います」

 「わかった。玲子さんがこちらに来たら伝えよう。──小夜」

 さらりと垂れる髪がやけに色っぽく、かしこまった声色にどきりと胸が鳴る。

 何か大きくて衝撃的な出来事が起こる、そんな予感がした。

 「すべて済ませたら、話すよ。君が不思議に感じていること全部。僕の秘密を、ね」

 (秘密……?)

 内緒話をしているかのような仕草の彼はどこかミステリアスだ。

 夕食も風呂も済ませてからだと、秘密を明かされるのは、だいぶ先だ。

 天狐の、時雨の知られざる秘密とは一体何なのだろう。

 早く知りたいというはやる気持ちと、もし悲しい内容だったらと複雑な感情になる。

 でも、どんな秘密だとしても受け入れなければいけない。

 いや、受け入れたいと思う。

 それは相手が他の誰でもなく時雨だから。

 どちらともなく、静かに見つめ合ってそのときを待った。

          ◆

 「お待たせしました。遅くなってしまい、申し訳ありません。七条さま」

 「大丈夫だよ。ゆっくり温まれたかい?」

 「はい。玲子さんに手伝っていただいたおかげです。この姿でひとりだったら、大変でした」

 「それは良かった。これからも困ったことがあれば、玲子にも頼るといい。彼女は君のことを、とても気に入っているようだから」

 小夜のお世話係に就任したのは、天狐の一族、五月家の女主人、五月玲子だ。

 五月家も大昔から代々、七条家に仕える家。

 玲子は多忙をきわめていた七条家の先代当主──時雨の両親の代わりに彼の面倒を見ていたらしい。

 時雨からすれば、ふたり目の母親的存在だ。

 その手腕から周囲にも一目置かれていて、若くして使用人頭に就いた。

 この屋敷にやって来て、突然暮らすことになった落ちこぼれの小夜に対しても嫌な顔などせず、むしろ快く迎えてくれた。

 そんな彼女が狐姿の小夜を風呂に入れてくれたのだ。

 身体を洗うとなると、そもそも前足では手拭いさえも掴めないので、どうしたものかと頭を悩ませたが、玲子が手伝うと申し出てくれた。

 そのおかげで無事に洗い終え、たらいに溜めてくれたお湯で浸かれることもできたことに、ただ感謝しかない。

 湯浴みを終えたあとも、西洋手拭いで丁寧に拭いてくれたので、まさにいたせり尽くせりの状態だった。

 「ここへどうぞ。夜風が涼しくて気持ちが良いよ」

 ふわりとした毛並みで、歩いてくる小夜を隣へと招く。

 縁側に座る時雨の髪が通り抜ける風で、さらりと広がって、美しい。

 空には無数の星が散らばっていて、一段と明るい光を放つ月が浮かんでいる。

 まるで、月の都からやって来た天女のよう。

 「失礼いたします。……本当、夜風が心地良いです」

 火照った身体をひやりとした風が柔く撫でる。

 少しの間、目を瞑り、この静かなときに身を任せる。

 そして、目を開けると隣に座り、夜空を見上げる時雨へと視線を向けた。

 「七条さま、本当にありがとうございます。たくさん尽くしていただいて。それに、こんなに立派なお部屋まで……」

 ちらりと後方を見ると障子が僅かに開いた畳敷きの和室がある。

 庭師が剪定している松の木や鯉が棲む池がある中庭。

 そこに面しているのが、与えられた小夜の部屋である。

 水園家とはまるで違う、広く整えられた部屋。

 室内には、たくさんの着物が入りそうな箪笥、異国情緒漂う洋燈に綺麗に木目が入った文机。

 押し入れの中には、綿がしっかり詰まった布団や分厚い敷き布団が入っている。

 障子には穴など一つもなく、完璧に風を防いでくれる。

 もちろん、これは急に用意したわけではない。

 時雨の婚約者がいつ住み始めても良いように、あらかじめ準備していたようだ。

 愛されていた姉の一華でさえも、こんなに上等な部屋ではなかった。

 さすがは七条家の財力といったところか。

 「喜んでもらえて安心した。必要なものがあれば遠慮なく言ってね」

 「はい、ありがとうございます」

 部屋に案内された時点で一通り見たけれど、必要な物はすべて揃っていた。

 日用品に加え、美しく細工が施された箱には化粧品やその道具がぎっしりと詰められていた。

 水園家でも女学院には見目を整えて行けと言われ、最低限の安い物は貰っていた。

 しかし、ここにあるのはすべて一級品。

 人気で中々手に入らないと噂の物から、手が届かないような高価な物まで多種多様だ。

 流行りが載った雑誌まで取り揃えられており、例えるならば女性が憧れる部屋。

 昨日まで殺風景だった部屋が翌日には、充実した部屋に変わるだなんて夢にも思わなかった。

 (きっと、欲しい物なんて思いつかないだろうけれど。本当にわたしにはもったいない素敵な部屋ね)

 時雨に倣って夜空を見上げる。

 (綺麗……)

 目の前に広がる光景にくぎ付けになる。

 降りそそぐ月光も、きらきらと宝石のように輝く星も、何故だか特別なものに見えて心が弾んだ。

 今までは空を見る余裕なんてなかった、ずっと下ばかり見ていたから。

 吹き続けていた風がやんだとき、時雨はおそるおそるといった様子で口を開いた。

 「小夜、さっき話した僕の秘密のことなんだけど」

 ずっと気になっていた本題を切り出されて、どきりと心臓がなる。

 孤高の天狐である時雨の隠された秘密。

 数字と赤い目は何を意味しているのか。

 夕食も風呂の時間も気になって、そわそわしていた。

 「……はい」

 覚悟を決めてしっかりとうなづく。

 「どんな秘密でも君は受け入れてくれる? 僕から離れていかない?」

 不安そうに尋ねる時雨は子どものように幼くも見えて、このひとの傍にいなければと本能が訴えかけてくるように感じた。

 「七条さまのお側にいると約束します」

 その言葉に安堵したのか、ほっと小さな息を漏らした。

 そして、柔らかなまなざしから、真剣なまなざしへと変わると、小夜を射抜く。

 よそ見などせずに、ただただ、目の前の婚約者だけを。

 「ありがとう。──僕は実は」

 一呼吸置くと、意を決したように話し始めた。

 「三回、怒ると誰も手がつけられないくらい凶暴になるんだ」

 「凶暴、ですか?」

 それだけでは、要領の悪い小夜にはとても理解できず、首を傾げる。

 時雨はそんな彼女を見かねてああ、と言うと続ける。

 「天狐は狐たちの中で一番、妖力が高いのは知っているだろう?」

 「はい。天帝に最も近い、愛し子だからだと女学院で習いました」

 「そう。他の天狐たちを従える七条家はなおさら巨大だった。そして僕は父のように制御が上手くなかった」

 時雨は右手のひらを、じっと見つめる。

 どこか、遠くを見つめるようなまなざしに胸が苦しくなった。

 勝手に時雨は七条家の当主なのだから、非の打ち所がない完璧な人物なのだと思っていた。

 しかし本当は、過酷な運命を背負っている。

 「そして怒るような状況が三回続くと、妖力が暴走して凶暴になってしまうんだ。目が完全に赤くなって狐の姿になると三回目を迎えた証拠。……他人を襲う、なんてこともある」

 「だから六木さまにも二回目と仰ったり、目も一瞬だけ赤くなったのですね」

 あのとき、もし律の到着が遅れれば、凶暴化していたに違いない。

 高志郎だって、この秘密は知らない。

 だから、あそこまで煽るような真似をしたのだ。

 「怒らないように気をつけていても、生きていれば当然、感情に支配されるときもある。だから、そういうときはひとりで過ごすんだ。無関係のひとを傷つけたくないからね」

 (だから六木さまはひとりで過ごすよう、念を押したのね)

 律は時雨をこわがったからではない。

 罪のないひとを襲って、我に返ったときに悲しませないようにするためだ。

 七条家の屋敷には大勢の使用人たちが働いているのに、広い部屋で孤独に過ごすのは何て寂しいのだろう。

 呪いに苦しんでいるようで、そんな姿を想像するだけで、悲しくなる。

 妖力が少なく、悩む小夜と多いがゆえに悩む時雨。

 どこか重なり合って、もう彼を遠い存在だと思えなくなった。

 他人事ではない。

 自分自身を見ているようだった。

 気がつけば、視界が歪み、涙の雫が一筋、頬を伝っていた。

 泣き出した小夜に目を見開いて、すぐに頬へと手を伸ばす。

 細く長い人差し指が落ちかけた雫を拾う。

 「そんな顔をさせるつもりじゃなかった。ごめんね」

 今の感情を上手く整理できなくて、ただ首を横に振ることしかできない。

 嗚咽しながら泣く小夜を時雨はそっと抱きしめた。

 耳がちょうど彼の胸に当たっているせいで、心臓の音が聞こえる。

 音の間隔が短くて、飄々としている時雨も緊張しているのが伝わった。

 もしかしたら、自分のせいかもと考えてしまうのは勝手すぎるだろうか。

 この状況に小夜の方が動揺を隠せなかった。

 「あ、の。七条さま……」

 急に密着した身体と分厚い胸板に男らしさを感じて、ぱっと飛び退く。

 しかし、頭の後ろに手を回されて再び、ふたりはくっついた。

 「君が良ければ、もう少しこのままで」

 「でも、お着物も濡らしてしまいますし……」

 恥ずかしさを誤魔化すように、慌てて理由を考える。

 時雨が身に纏っているのは、正絹の着物。

 かなりの上等な品だと、情報に疎い小夜でもわかる。

 そんな小夜に気がついたように、くすりと時雨は笑みをこぼした。

 「いいよ、そんなこと。僕のために泣いてくれる君が愛おしくて、こうしていたいんだ」

 穏やかで慈愛に満ちた声が耳朶を撫でる。

 (それを貴方が望んでいるのなら)

 胸に温かい感情が広がる。

 これが愛、そして幸せなのだろうか。

 戸惑うけれど小夜も離れがたくなって、それ以上何も言わずに身を委ねて、涙を流した。

          ◆

 どれくらいの時間が経過したのだろう。

 永遠にも感じた愛おしい時間。

 ふたりはしばらくの間、月明かりの下で抱き合っていた。

 小夜の嗚咽と涙が止まって、自然と身体が離れた。

 月光に冴える絹のような髪がはらりと小夜の頬に当たった。

 少しだけ擽ったくて、身をよじる。

 僅かな明かりが儚げな雰囲気をもつ時雨の魅力を倍増させている。

 (とてもそんな風には見えないのに)

 彼の怒りに三回触れれば、凶暴化し、襲いかかってくる。

 それが時雨の隠された秘密。

 おそらく、限られた者しか知らないのだろう。

 時雨が狐の民から敬愛されているからといって、真実が広まれば騒ぎになる。

 もしも、凶暴化した彼が狐の町だけでなく、人間が住む帝都にまで足を踏み入れれば、騒ぎどころではない。

 我を忘れるのが一番、懸念すべき点で、話から察するに信頼を置ける律でさえも止められない。

 でも、誰よりもそれを恐れているのは紛れもなく時雨本人である。

 「僕が怖い?」

 彼の特徴的な美しい笑みが消えて、悲しげにまつげを伏せられる。

 前髪が顔に影をつくり、より一層、沈痛な面持ちにうかがえた。

 (少し驚きはしたけれど)

 孤独といつ起こるかわかりえない恐怖に耐え続けている時雨の心情が痛いほど、よくわかる。

 それは、小夜も似たような体験をしてきたから。

 彼をひとりにはしたくない。

 律も玲子も傍にはいるけれど、きっと時雨はそれ以上の存在を求めている。

 容姿や財力、権力でもなく秘密を受け入れてくれて、そして心から愛してくれる花嫁を。

 きっと、そんな女性になれたら、どれだけの幸せを彼に与えられて救えるだろう。

 小夜は時雨の問いかけに首を横振った。

 「いいえ、怖いだなんて思いません。大切な秘密を教えてくださりありがとうございます」

 秘密も知っても逃げ出したり怯えたりせずに凛と佇む姿に時雨は僅かに目を見開いたあと、すっと細めた。

 陶器のような白い肌に赤みがかかる。

 「小夜……。ありがとう。本当にありがとう」

 嫌われるかと思った、と呟いて胸を撫で下ろす姿を見て、かなり彼が不安で押し潰されそうだったのだと垣間見る。

 そして腕を伸ばし、この夜のように静かに微笑む小夜の頬を細く長い指が撫でる。

 まるで宝物を見つけ、喜びを噛みしめるようだった。

 異性にこうして愛をもって触れられることが初めてなので、全身に流れる血が沸き立つように熱くなるが不思議と嫌ではなかった。

 (わたしを救ってくれたように、今度は七条さまを助けたい。そのために、どんな花嫁修業も乗り越えていかないと)

 天狐である時雨の母も花嫁修業には苦労したのだ。

 落ちこぼれの小夜には苦労の言葉だけで済むか未知数だ。

 それでも。

 胸を張って時雨の隣に立てるように、時雨の支えになれるように、時雨と同じ未来を見られるように……。

 望みが、かけがえのない夢が、溢れ出してくる。

 決意がより強固なものへと変わっていく。

 「本当なら、この時間はひとりで過ごさなくてはいけないのだけれど、もう少しだけ一緒にいたい。いいかな?」

 小夜は僕を怒らせることはしないだろうからね、と言って提案をしてきた時雨にすぐにこくりとうなづく。

 律には申し訳ないけれど、言いつけを破るなんて生まれてはじめてで、どうしてか胸が弾んでしまう。

 水園家では絶対に考えられなかったことだ。

 「はい。もちろんです」

 「何か悪いことをしている気分だ。律に見つかったら怒られるな」

 「ふふっ。そのときはわたしも謝りますね」

 まるで、いたずらを企む子どものようだ。

 思わず顔を見合わせて、吹き出すふたりを月は照らし続けていた。

          ◆

 それから、ふたりは夜の時間を埋め尽くすほど、たくさん話した。

 「小夜は好きな食べ物はある?」

 「最近は食べられていないですけれど、甘いものが好きなんです。今、気になっているのは帝都にある老舗のお店の塩大福です。美味しいって女学院でも話題で」

 「へえ、そうなんだ。僕も甘いものには目がないのだけれど、それは知らなかったな。今度、用意させよう」

 「えっ、よろしいのですか」

 「ああ。そこまで人気なら僕も一度、食べてみたいし。特別なお茶と一緒に食べたら、きっと、とても美味しいよ」

 「わあ、楽しみです」


 「七条さまは普段、どのようなお仕事をされているのですか?」

 「基本的には他の一族と同じような仕事だけれど、大きく違うのは月に一度の天啓の儀、かな」

 「天啓の儀、ですか」

 「うん。小夜も知っている通り、僕たち天狐は天帝に最も近い存在。天帝からのお言葉を受け取れる力がある。天狐の代表である僕が儀式を執り行っているんだ」

 「そうなんですね。その儀式って天狐である御方しか見られないのでしょうか」

 「基本的にはそうだけど、僕の婚約者なら大丈夫だよ。将来、結婚して夫婦になれば必然的に小夜も関わるようになるし。今から見ておけば勉強にもなる」

 「ありがとうございます。しっかりお勉強させていただきますね」

 「僕の舞を君に見られると思うと少し照れるな」

 「舞も披露されるのですか」

 「代々、七条家に伝わる羽衣を身に纏って舞うんだ。儀式をする何日も前に練習をして、一族皆に披露するのが習わしなんだよ」

 「羽衣を纏って……。きっと、とてもお綺麗なんでしょうね」

 「そんなことないよ。でも、観覧席に君がいると思うと一段と気合いが入るな。頑張らないと」

 「あの、お手伝いすることがあれば、わたし、何でもやります」

 「ありがとう。そのときはよろしくね」


 「小夜は好きな花はある?」

 「そうですね……。わたしはスイセンが好きです」

 「スイセンか。それはどうして?」

 「わたしの家──水園家の花壇にスイセンが咲いてて。厳しい冬の寒さに耐えて美しく咲き誇る様に何だか勇気をもらえる気がするんです」

 「素敵な理由だね。君にぴったりの花だ」

 「そう、でしょうか」

 「うん。つらくても一生懸命に生きてて、そして可憐で美しい」

 「そ、そんなこと……。し、七条さまは何か好きなお花はありますか」

 「顔を赤らめて可愛いね。僕はそうだな、秋生まれだから自然とその季節に咲く花に目がいく。例えばコスモスとか」

 「コスモス、綺麗なお花ですよね。わたしも好きです。秋になると女学院の花壇にも咲きますよ」

 「君も気に入っているのなら、今度、ふたりで花壇を作らないか」

 「ふたりの花壇……」

 「そう。普段は庭の管理は屋敷専任の庭師に任せているのだけれど、ふたりの好きな花を種から育ててみたらいいんじゃないかと思って。まだ庭にも十分、作れるほど余裕があるし」

 「素敵です……!是非、やりたいです」

 「それじゃあ、ふたりの都合がついたら庭師に道具を借りてやってみようか。きっと楽しくて大切な思い出になるよ」

 「はい。作るのが待ち遠しいです」

 時間を忘れて、ひたすらに語り合う。

 つらい出来事が全部嘘だったのではないかと疑ってしまうほど、充実した時が流れる。

 時雨と話していると、自分はちゃんと地に足をつけて生きているのだと実感させてくれる。

 ずっとこの穏やかで幸せが続きますようにと願わずにはいられなかった。             


          ◆             
                        

 (許さない、許さない、許さない。──絶対に許さない)

 小夜の姉、一華は屋敷の板張りの廊下を大股で歩く。

 ギシギシと床が鳴る音と気品さなど微塵も感じさせない足音に、使用人たちも何事かと廊下の角から様子をうかがっている。

 「落ち着きなさい、一華」

 「怒る気持ちはよくわかるけれど、もう一度ゆっくり話し合いましょう」

 「落ち着いてなどいられませんわ!どうして、なんで、よりによって小夜が……!」

 足を止めて振り向くと、怒り狂う自分を止めようとしている両親の姿。

 高志郎から聞いた見合いの結果──小夜が時雨の婚約者になったと聞いてからというものの、一華はずっとこの調子である。

 見合いそのものがなくなれば、すぐに帰宅するだろうと思っていたのに、水園家が所有する自動車が屋敷に戻ってきたのは、遅い時刻。

 そして、そこには小夜の姿はなかった。

 「お父さまもお父さまよ!どうして小夜を強引にでも連れて帰ってこなかったの!? 七条家にあんな落ちこぼれを置いてくるなんて信じられないわ!」

 本当は一華だって知っている。

 水園家が歯向かっても、七条家当主が決めたことを覆すことなど不可能なことは。

 それでも受け入れたくなかった。

 欠陥品だと蔑んでいた妹が、時雨に見初められただなんて。

 悔しさをぶつけるように、父の胸元を何度も叩く。

 上等な着物の襟元がぐしゃりと乱れるが、そんなことを気にするほど一華には余裕などない。

 「一華……。本当にすまない。私もできることはやったんだ。それでも力が及ばなかった」

 「ねえ、貴方。どうにもならないの?一応、あの娘も戸籍上はわたくしたちの家族。連れ戻せる可能性だって残っているんじゃないかしら」

 高志郎の肩に右手が置かれる。

 しかし、問いかける妻──華織の問いかけに首を振った。

 「いや、無理だ。私も出来ることはすべて尽くした。しかしこれ以上、こちらが七条さまの反感を買えば、ただでは済まない。没落する可能性だってある」

 「そんな……」

 もう何も手段は残されていない、その事実が悔しさを倍増させる。

 力なくうなだれる母に、やるせなさで自身の振袖を両手で握りしめる一華、そして黙り込む高志郎。

 父にいくら諭されようとも、一華の中では諦めがつかなかった。

 見目も名前の通り華やかで、他者を魅了するような愛嬌のある性格。

 器量だって妹と比べれば秀でているし、何事もそつなくこなせるほどの要領も兼ね備えている。

 それなのに、選ばれないなんて絶対におかしい。

 (まだ、まだよ。きっと何かあるはず。小夜を婚約者の座から引きずりおろす方法が)

 もう両親に頼んだって無駄だろう。

 だから、もう自分で何とかするしかない。

 「私は部屋に戻る。もう遅い時間だ、ふたりも休みなさい」

 「あ、貴方……!ちょっと待って」

 自室へ戻る高志郎を華織は小走りで追いかける。

 一華は父の話など耳に届いていない。

 ただ、その場に立ったまま、考えを巡らせていた。

 (何か、あの子の弱みは……。あ、そういえば)

 頭に浮かんだのは、女学院での小夜の姿。

 そして、よくその隣にいるのは──。

 ひとりの女学生の顔と名前を思い出し、次々と作戦が脳内で組み立てられていく。

 臆病で優しい小夜だからこそ、この方法が上手くいく気がした。

 (ふふっ。いいことを思いついたわ)

 ぷるりとした唇の端をにやりと持ち上げてほくそ笑む。

 そして、先ほどとはうって変わって、足取り軽く自室へ歩き出す。

 まるで気分が良いような、幸運に感じることがあったかのような雰囲気。

 ふん、ふん、と鼻歌を歌う一華はどこか恐ろしかった──。                  

                        
          ◆             
                           
 「良かった……。人間の姿になれたわ」       

 ぺたりと顔を手で触って感触を確かめる。     

 ふわりとした毛並みではない、ちゃんと柔らかい弾力のある肌だ。               
                        
 姿見に映る自分自身を見て、はぁっと安堵の吐息を漏らした。                 

 (もし、朝になっても狐のままだったら六木さまに叱られて、ここから追い出されていたかもしれないもの)                   
                         
 『必ず、人間の姿になっていること』

 これが律との約束だ。

 変化に失敗したら、どうしようかと不安だったが無事に身体も精神もだいぶ回復したようだ。

 これもすべて時雨のおかげである。

 (感謝してもしきれないわ。あとでお礼を言わないと)

 小夜は早速、教えてもらった水場で顔を洗い終えると、再び部屋に戻り、箪笥から用意してもらっていた着物を一着取り出す。

 淡い緑色の振袖は赤と白の牡丹がよく映えて、気品さを感じられる。

 それを身に纏い終えると、文机の上に置かれた箱の蓋を開ける。

 所狭しと詰められた化粧品と道具を簡単に見繕って取り出した。

 今日は登校日なので、昨日よりは薄く化粧を施す。

 おしろいと頬紅を塗って、紅を塗って完成だ。

 雪色の髪は後ろに一つに結ってガバレットで止める。

 「これでよし……」

 姿見の前に立ち、身だしなみを確認をすると、障子を開けて、台所を目指す。

 (七条さまに、ゆっくり寝てていいと言われたけれど、目が覚めてしまったわ。それに、ここでお世話になるのに何もしないわけにはいかないもの)

 小夜は花嫁修業以外にも、できることは何でも手伝うつもりだ。

 それは律や七条家で働く使用人たちに評価されたいわけではない。

 たださえ、落ちこぼれである自分を屋敷に置いてくれているのだ。

 中には律のように時雨の命令で仕方なく、と不快に思っている者もいるだろう。

 何か役に立って恩返しがしたい、それで朝食作りの手伝いをしようと思い立ったのだ。

 昨夜、玲子に屋敷の案内をしてもらったので、台所の場所はわかる。

 (あの御方は……)

 もうすぐ、台所に到着するところで、廊下の奥から歩いてくる人物が見えた。

 朝日に照らされて輝く絹のように長い髪の持ち主はただひとり。

 今日は組紐で結っていないようで、また昨日とは違った印象を受ける。

 時雨は足を止めると目を丸くさせて数回、瞬かせた。

 「あれ、もしかして小夜?」

 「七条さま……!おはようございます」

 ぱたぱたと軽い足音を立てながら時雨に駆け寄り、挨拶をする。

 彼は人間姿の小夜をまじまじと見つめて、嬉しそうに微笑んだ。

 「おはよう。そうか、変化が上手くいったんだね」

 「はい。七条さまのおかげです。ありがとうございます」

 「ううん。僕は何もしていないよ。全部、小夜の力だ。よく頑張ったね」

 「……っ」

 よしよしと褒めながら頭を撫でられて、思考が止まりそうになる。

 昨日だって撫でられているのに、それとはまったく違うように感じる。

 狐の姿だったからだろうか。

 目線もより近くに感じて、吸い込まれそうになる。

 「この姿では、はじめましてだね。改めてよろしく、小夜」

 「こ、こちらこそよろしくお願いいたします」

 涼しすぎず、適度に柔い朝日をふたりが包む。

 新たな生活が始まるにふさわしいような気候だ。

 「ああ、それと」

 微笑みあっていると、時雨が口を開いた。

 「僕のことは七条さまではなく、時雨と呼んでくれないか」

 「えっ、でも……」

 時雨と出逢ってから一日も経過していないし、それに彼は天狐だ。

 こうして会話を交わすだけでも奇跡に近いのに、名前呼びなど畏れ多すぎる。

 真意に気づいているのか、いないのか時雨は戸惑っている小夜にずいっと近づく。

 昨日から思っていたのだが、彼はだいぶ距離が近い。

 「僕たちは婚約しているんだ。僕が君のことを名前で呼んでいるのに片方が名字呼びなんておかしいだろう? 嫌かな」

 「嫌というわけでは……。ただ少しだけ恥ずかしくて。殿方のことをそのようにお呼びしたことはありませんから」

 「無理強いはしないよ。ただ、お互いに名前で呼んだ方がより距離が近づける気がして」

 「そ、そうですよね。では……し、しぐ」

 口をぱくぱくさせながら、必死に喋ろうとする姿はまるで小動物のようだ。

 呼ぶ決意を固めた小夜を時雨は目をきらきらと輝かせて見ている。

 「……や、やっぱり言えません!」

 「えっ!?」

 顔を真っ赤にさせて、視線を逸らした小夜を時雨は呆然と見つめる。

 がくっと肩を落とす様を見て、よほど期待を膨らませていたのがわかる。

 「ま、まあ、急かしすぎても駄目だよね。ゆっくり育めばいい。うん、そうだ」

 自分に言い聞かせている姿に小夜は罪悪感が募る。

 本当は小夜だって、『時雨さま』と呼びたい。

 けれど、それよりも恥ずかしさが上回ってしまう。

 元々、人見知りなので、名前を呼べるようになるには時間がかかりそうだ。

 「申し訳ありません。あの、名前はまだ難しいですが、旦那さまとお呼びするのはどうでしょうか」

 「ほ、本当……!?うん、もちろんだよ」

 時雨の表情にぱっと明るさが戻る。

 嬉しさのあまりに小夜の手をぎゅっと握った。

 旦那さま、と呼ぶだけでも彼女にとって大きな一歩だ。

 伝わる体温に鼓動が早鐘を打つ。

 大きな音がばれてしまわないかとひやひやしてしまう。

 にっこりと笑い、喜びを噛みしめる時雨をそっと見つめる。

 (喜んでもらえて良かった)

 「そういえば、小夜はこんな朝早くからどうしたの?」

 「朝食作りをお手伝いしようと思って」

 「まだ身体だって本調子ではないだろう? 無理はしないでいいよ」

 「ですが、何もしないわけには……」

 「小夜のそういう真面目なところ好きだよ。だけど今日は登校日だ。過労で倒れたりしたら大変だ。今日くらい家事は休みなさい」

 「旦那さま……。では、お言葉に甘えてそうさせていただきます」

 「うん。そうだ、朝食の準備が整うまで屋敷の周りを散歩しに行かないか? 近くに綺麗な花畑もあるだ」

 「はい。是非行きたいです」

 それじゃあ、行こうかと手を差し出され、小夜はそっと掴むのだった。

          ◆

 「それでは、婚約者さま。下校時刻にはお迎えにあがりますので」

 「はい。ありがとうございます」

 小夜は七条家が所有する自動車から降りて、ドアを締める前に運転手に向けて礼をする。

 運転手も軽く会釈をするとドアを締めて、運転席に戻り、自動車を発進させた。

 それをしばらくの間、見送ると昇降口に向けて歩き出す。

 「ねえ、聞きました? あの子、七条さまの婚約者になったんですって」

 「ええっ!? だって落ちこぼれで有名じゃない。一華さまの間違いでは?」

 「間違いないわ。 確かな情報筋ですもの」

 自動車から降りたとたん、何人もの女学生の陰口が耳に届く。

 やはり予想していた通り、話は広まっていた。

 別に何も隠すようなやましいことはないので堂々としていてよいのだが、どうも突き刺すような視線は耐えがたい。

 足早に昇降口に向かっていると、少し先に同級生の寺石舞子の姿を捉えた。

 (あ……。どうしよう、きっとまた言われるわ)

 どく、と心臓が嫌な音を立てて思わず足を止めた。

 悪く言われるに違いない。

 見合いが決まったというだけで、あんなに激怒していたのに、話が進んで正式に婚約者になったのだから。

 今は普段から連れている取り巻きはおらず、舞子ひとりだ。

 彼女もこちらに気がついて視線がぶつかる。

 怖さのあまり、視線を逸らすが、いつまで経っても舞子がこちらへやって来る気配を感じない。

 おそるおそる目を開くと、舞子はただ睨みつけるだけで、昇降口の中へと行ってしまった。

 悪口や嫌味を言われると覚悟していたのに、何も起きず、逆に呆然としてしまう。

 (え?)

 睨みつけられるだけで済むなんて久しぶりだ。

 立ち尽くす間にも、続々と他の女学生たちが通り過ぎていく。

 (い、いけない。今は気にしないようにしなくちゃ)

 始業に遅れれば、内申点が下がってしまう。

 時雨の婚約者たるもの、それだけは避けなくては。

 小夜は余計な考えを頭から振り払って、小走りで昇降口へと向かうのだった。

 鐘が鳴り、教室内にいる女学生たちは荷物をまとめ始める。

 普段ならば、家に帰るのが憂鬱だったが、今日は違う。

 まあ、屋敷に帰れば律から与えられる厳しい花嫁修業もあるので気は抜けないが。

 登下校は時雨が手配をしてくれた送迎の自動車がある。

 もう正門近くに到着しているはずなので、急いで帰る支度をする。

 机の中から教科書や雑記帳を取り出していると、カサリと軽い音がした。

 「これは……?」

 不思議に思って、それを手に取ると一枚の紙切れが入っていた。

 『小夜ちゃん。放課後に校舎裏まで来て。凛』

 送り主は隣の学級の生徒、緒方凛だった。

 凛には普段から親切にしてもらっているが、手紙を送られるのははじめてだ。

 今日一日、お互いに移動教室が多くて一度も会っていない。

 そのせいだろうか。

 首を傾げるが、ここで考えているより指定されている校舎裏に向かった方が早い。

 座っていた椅子から立ち上がると、鞄を持って教室をあとにした。

 (校舎裏ってここよね?)

 校舎裏に行くことは特に禁止されているわけではない。

 影のせいでやけに暗く、雑草が生えていて物寂しい雰囲気が漂う。

 裏門とごみ捨て場があるくらいなので生徒や教師もいない。

 二日ほど前の雨のせいで地面はまだ乾いておらず、泥濘んでいる箇所も多い。

 それを避けて、日が当たるところに立つ。

 (まだ、緒方さんは来ていないのね)

 辺りを見渡すが、呼び出した張本人の姿はない。

 凛の教室の前を通ってここまで来たが、室内には人の気配はなかった。

 自分が早く到着しただけだろうか、そう思いながら凛を待つ。

 日が当たる場所に立っているとはいえ、校舎裏はより風が冷たく感じる。

 両手を擦り合わせていると、後方から足音が聞こえた。

 凛が来たのだと、そうわかって彼女の名前を呼びながら振り向く。

 「緒方さ──」

 しかし、その相手は凛ではなく、一華だった。

 どうして彼女がここにいるのか、そう考え始める前に一華は手にしていたハンケチを小夜の顔へと伸ばす。

 「ぐっ……」

 ハンケチが顔に押し当てられると、薬品特有のツンとするような香りがした。

 嫌な予感がして抵抗しようとするが、後ろから誰かに羽交い締めにされる。

 その間に香りも、どんどん吸い込んでしまい、強烈な眠気に襲われて視界が霞み始める。

 (一体、これは……)

 だんだんと遠のき、小夜の意識はそこで途切れた。