「ここで降ります。ありがとうございます」
小夜は、いつもより正門から遠く離れた場所で運転手に声をかけ、自動車から降りた。
春の午前中らしい、ひやりと爽やかな風が吹くが、気持ちよさを感じる余裕は生まれなかった。
代わりに眠気に襲われて、片目を二回ほど擦る。
(結局、縁談のことが気になって、あまり眠れなかったわ)
七条家からの縁談の知らせを聞いてから一晩が経過した。
日中だけでなく、日が暮れ、布団に入っても、疑問や動揺、恐怖心が消えることなく、脳内にこびりついていた。
覚悟は決めているつもりだが、どうやら完璧には拭えていないらしい。
不安も的中して、登校する女学生たちの刺すような視線が痛い。
どこからか情報が漏れ、約一日で噂が広まったのだろう。
自転車を漕いで傍を通り過ぎる者、送迎の自動車から降りる者、全員と言っていいほどの人がこちらを見ている。
(……ごめんなさい。わたしなんか七条さまにお目にかかる資格なんてないのはわかっているの)
本人でさえ、状況をろくに理解できず、困惑しているのだ。
たとえそれを口にしても自慢にしか聞こえないだろう。
普段よりもぐっと目線を下げて、足早に校舎を目指す。
(あと少しの辛抱よ、水園小夜)
休み時間は注目されるだろうけど、授業が始まってしまえば、多少は皆の意識も逸らされるはず。
白紙になる明日まで、嫉妬と妬みから耐える、それだけだ。
最終的には鞄を抱え、小走りで昇降口まで向かう。
息を切らしながら何とかして到着した小夜は下足から中履きの草履に履き替える。
体力がない自分に嫌気が差しながら、廊下を歩き始めたとき、階段近くから、ある人物が姿を現した。
「ごきげんよう、水園さん」
「……寺石さま」
同級生の寺石舞子がまるで小夜を待ち構えていたように、立っている。
いつもと変わらないつんと済ました顔と堂々とした立ち居振る舞いなのに、それが何故か怖ろしく感じた。
今朝はほぼ毎日、彼女の両隣に控え、慕っているふたりの生徒はどうやら不在のようだ。
怯えて、立ち尽くす小夜を、舞子はキッと鋭いまなざしで射抜いてくる。
「貴方宛てに七条家から縁談の申し出があったそうですね」
「は、はい……」
小夜が一番驚いたのは、姉の一華のように憤怒の感情を表に出していないことだ。
予想外の展開に立ち尽くすことしかできないでいる。
こくりと頷くと、舞子は小さく鼻を鳴らした。
「さぞかし嬉しいでしょう。何といってもお相手は天狐の当主さまですから」
「あ、の。わたしも縁談の話は昨日、聞いたばかりで。嬉しいというより、戸惑っている気持ちの方が──」
「何よ、それ」
「……っ」
突如として語気を強めた舞子に小夜はびくりと肩を振るわせた。
まずい。
きっと『嬉しいというより戸惑っている』という言葉が彼女の逆鱗に触れたのだ。
正直に気持ちを明かしてしまった自分がとてつもなく阿呆に思える。
曖昧のまま、流せばよかったと後悔するが、すでに遅い。
けれど。
誤魔化されるような相手でも、自分自身に特別な話術がないのは承知している。
人形のような美しい顔立ちが、くしゃりと悔しそうに歪められた。
「天狐さまとの縁談なんて、とても幸運なことなのよ!それも七条家からなんて、名家の娘でも一生に一度あるかどうかなんだから!それが貴方はなに? 嬉しいより戸惑い? どれだけわがままなのよ!」
(違う、違うの)
心の中で精いっぱいの否定をしても、当然彼女に届くことはない。
舞子は小夜が家族から公にできないほど、虐げられていることを知らない。
多少は蔑まれていると勘づいてはいるだろうが。
だからといって、間違って口にしてしまえば大問題になるだろう。
はたまた、小夜の言うことなど誰も信じず、聞く耳をもたないか、どちらかだ。
ただ命令通りに従い、息をするだけ。
想像を絶する苦しい生活。
理解してほしいとまでは言わない。
自分は、孤独に抱え続けなければいけない運命を背負っているのだから。
何の反論も意思表示もしない小夜にさらに苛立ちが増したように唇を噛んだ。
「だんまりだなんて、余計にたちが悪いわ。……まあ、でも夢を見られるのも今のうちね。貴方が七条さまに見初められるはずなんてないもの」
にやりと口角を上げて、目を細める姿は余裕を感じさせる。
そのとき、コツコツと靴音が廊下に反響して聞こえた。
誰かが降りてくるのだろう。
階段から足音が聞こえ、舞子はそちらを一瞥すると、視線をまた戻した。
「貴方の縁談が終われば、次は一華さまやわたくしの番なんだから」
そう言い残すと、舞子はその場を離れていった。
「水園さんが七条さまと縁談?何かの間違いでは?」
「いいえ。わたくしも先ほど聞きましたわ。明日、お見合いのようです」
声を潜めて会話する声が聞こえ、視線を向けると数名の生徒がこちらを影から見ていた。
野次馬が現れるのも、あんなに大きな声量を出せば当然だろう。
その視線たちから逃れるように、教室へ向かう。
(何を言われても動じないって決めたじゃない。明日のために少しでも、わたしにできることをしないと)
仮にも小夜は水園家の令嬢。
父の言いつけ通り、縁談が破棄になろうが、立ち居振る舞いは完璧でいなくてはならない。
尻込みする気持ちを鼓舞して、目線を僅かに上げたのだった。
◆
翌日、ついに見合いの日を迎えた。
外はあいにくの天気で曇天が広がっている。
風はやや強く、木々を揺らしていた。
『わたくしに感謝しなさい』
昨夜、そう言いながら箱に入った振袖を一華に手渡されたのを思い出す。
小夜は女学院に着ていく単衣と学校指定の行燈袴、そしてお下がりのお仕着せ服しか持っていない。
その為、見合いに着ていく振袖を一華に借りたのだ。
父に頼まれて最初は嫌がっていたが、新作の化粧品を買ってもらうという約束で、しぶしぶ許可した。
借りたのは、白の牡丹がよく映える朱色の振袖。
新品にも見えるこの振袖はどうやら、捨てる予定だったらしい。
数回着ただけなのに、次々に買ってもらうものばかり選んでいたら箪笥の奥に眠っていたようだ。
しかし、身に纏う本人が首許も手首を痩せ細っていて、華やかな着物は似合っていない。
血色のない顔色を隠すために、厚めにおしろいと紅を塗ったが、陰鬱さは消えなかった。
(どんなに美しい振袖や髪飾りで着飾っても、まったく駄目ね。まだ普段の格好の方がしっくりくるわ)
貧相な自分にはそれなりの格好が一番よく似合う。
当然、その姿で見合いに行けるわけがないので、脱ぎたい気持ちを抑えてしばらくの我慢だ。
父と自動車に乗り、七条家へ向かう。
基本的に見合いは狐の町にある料亭などで行うことが多いのだが、指定されたのは時雨が住む七条家だった。
時雨は当主であるがゆえ、かなりの多忙らしい。
それに加えて、天狐という存在は天啓を受けることが可能のため、あまり屋敷から離れられないようだ。
(天狐さまの力については知っていたけど、まさか七条家へ行くなんて)
父から見合いの場所を聞かされたのは、ついさっき。
確認せずに、きっと料亭で時雨と会うのだろうと思っていた小夜も小夜だが、まさかの場所に瞠目した。
運転手に行き先を伝えている父に慌てて尋ねると「それくらい考えればわかるだろう」と怒られてしまった。
どうせ破談になるから良いかと思ったのか、それともただ面倒だから伝えなかったのか。
緊張するのは変わらないが、前もって教えてくれればよいのに、と心の中で拗ねたのは秘密。
窓から後方へ流れていく景色を虚しく眺める。
七条家の屋敷は狐の町の最奥地にある。
空狐の一族が住む場所からみると、そこまで遠いわけではない。
自動車なら、あっという間に到着する距離である。
(あれが天狐の一族が住んでいる域……)
遠く先に数々の広大な屋敷を捉えた。
建物だけではない。
近づくにつれて空狐とは違う凄まじい妖力を感じる。
まだ、天狐の住居域に入ったわけではないのに、すでにこの位置でも感じ取れる。
額にじわりと汗が浮かぶ。
(お父さまは平気みたい)
ちらりと隣に座る父を見ると、特に顔色を変えることなく、厳しい目つきで前を見据えていた。
おそらく、定期的に会合で時雨と会っているから慣れているのだろう。
父の送迎を担当している運転手も表情こそ覗えないものの、特に異変は感じられなかった。
この時点で震え上がりそうなほどなのに、七条家に到着したら、どうなってしまうのだろう。
緊張から逃れるように、視線を窓から腿の上に移す。
置いてある両手が小刻みに揺れている。
(挨拶をするだけだもの。きっと大丈夫よ)
何度も言い聞かせて出来る限りの不安を取り除く。
そして自動車が天狐たちが住まう区域に入ると、より一層、妖力が肌にびりびりと伝わる。
小夜は妖力が少ない分、他者の影響を受けやすい体質。
七条家に到着するまで、余計なことは考えずに、目を瞑りながらただ呼吸だけをしていた。
「到着しました」
運転手の声に目をゆっくりと開け、自動車から降りる。
(ここが七条家……)
視界では捉えきれないほど広大な純和風の屋敷。
もちろん、立派だろうとは予想していたが、まさかここまでとは。
今見ただけでも水園家の倍以上はある。
青々しい松と石で縁取られた池など美しく整えられた庭園も目を引く。
「おい、神聖な場でみっともない顔をするな」
圧倒され、開いた口が塞がらなかった小夜を父がぎろりと睨む。
指摘されて、ようやくだらしない顔をしていたのだと気がついて我に返った。
「も、申し訳ありません」
「ったく、これだから欠陥品は。七条さまの前でそんな顔をしたらただではおかないからな」
「はい」
小夜は静かに返事をして歩き出す。
今日を迎えるまで、何度も『くれぐれも当日にへまをするなよ』と言い聞かされてきた。
緊張、不安、恐怖……。
普段ならば狐の姿に戻ってしまうような、すべての感情を抑え込み、前を見据える。
「水園さま、お待ちしておりました」
使用人のひとりなのだろう。
玄関の前に着物を身に纏った品の良い老女が立っていて、小夜たちを出迎えた。
「こちらこそ本日はよろしくお願いいたします」
「よ、よろしくお願いいたします」
先ほどの態度とは打って変わって、にこやかで明るい顔と口調になる父。
小夜も慌てて父に続いて挨拶をする。
「それではご案内いたしますね」
玄関で草履を脱ぎ、使用人の案内のもと、客間まで歩いていく。
七条家に仕えているということは彼女も天狐なのだろう。
一挙一動、無駄な動きはなく、上品で惚れ惚れしてしまう。
しかも、貧相な娘を見ても怪訝な顔をすることなく、柔らかな笑みを浮かべている。
廊下ですれ違う他の使用人たちも小夜たちに深々と頭を下げていた。
もちろん、水園家で雇われているひとたちも礼儀は正しいが、彼女らはそのひと段階、上だ。
(もし、この方たちがわたしの屋敷にいたら、少しは違ったのかしら……。なんて考えても意味はないのだけれど)
水園家の使用人頭、秋江の厳しい顔つきを思い出して、つい比較してしまう。
「こちらでございます。当主さまがいらっしゃるまで少々、お待ちくださいませ」
ありもしない想像をしているうちに、客間に到着し室内へと通される。
藺草の匂いが香る庭園に面した畳敷きの一間。
使用人が去り、ふたりが座布団に座ると父の上っ面が剥がれ落ちた。
「お前は挨拶だけをしろ。余計なことは一切喋るなよ」
「はい」
命令には自らの意思に関係なく、首を縦に振る。
それが、小夜の常である。
「まあ、どうせ、この縁談は破棄になる。こちらが口を開く前に見合いは開きになるだろう。お前のような落ちこぼれ──忌み子が選ばれるわけがない。お前は幸せになれない運命なのだから。これから先、死ぬまで地獄を味わい続けるのだ」
「……っ」
『幸せになれない運命』『地獄を味わい続ける』
わかりきっていたはずなのに改めて言葉にされると恐怖のあまり小さく声を漏らした。
父が当主の座を兄に譲れば、完全に居場所はなくなる。
小夜の存在を認識していない兄は、使用人としても彼女を雇わないだろう。
屋敷内はすべて当主の意思がすべて。
兄が小夜を無視すれば、両親も一華もきっと倣う。
そうすれば、小夜は行く当てをなくして途方を彷徨うはず。
運命に抗うことすら叶わない自分が情けなくて、視界が涙で歪んだ。
神さまはどこまでも不平等だと恨みそうになる。
(わたしだって、わたしだって……。本当はお姉さまのように愛された子になりたかった)
一筋の涙が頬を伝ったとき、ぽんっという軽い音が客間に響いた。
「貴様……!」
あろうことか、小夜は溢れ出る負の感情のせいで術が解け、狐の姿へと戻ってしまった。
父は血相を変えて、すぐさま彼女の首根っこを掴む。
「何をしているんだ!早く人間になれ!」
「……っ」
体内に巡る僅かな妖力に意識を集中させて、術を行使しようとするが、何度やっても狐のまま。
(どうして出来ないの? どうしていつもわたしは家族の役にすら立てないの?)
不甲斐ない自分に腹が立って、哀れな自分に悲しくなる。
それでも自らの背負いし役目は果たしたいという思いがある。
自負と言うにはおこがましいが、途中で務めを投げ出したくなかった。
(──斬りすてられる最後までは水園家の娘でいたい)
いつしか、身体に込めていた力を緩め、そして項垂れた。
しばらく経っても化けられない娘に痺れを切らせたのか、父は舌打ちをした。
「もういい。七条さまがいらっしゃる前に帰るぞ」
小夜の首から手を離さず、立ち上がる父を咄嗟に制止しようと口を開く。
「ま、待ってください」
「私に指図するのか? 良いご身分だな。屋敷に帰って躾直してやる」
ここで止めなければ、七条家の使用人に適当に言い訳をして帰ってしまう。
痛みと苦しみに耐えながら、父の鬼のような形相の顔を見上げた。
「お父さま……。わたしは見合いが終わったら、どうなっても構いません。ですが、せめて破棄になるその瞬間までここにいさせてくれませんか」
「たださえ、落ちこぼれのお前のせいで我が家は恥をかいているというのに、さらに汚名を背負わすのか」
「そんなこと生まれてから一度も思ったことはありません……!」
「小賢しい!黙れ、耳障りだ!」
必死の訴えも虚しく、父は歩みを止めなかった。
そして客間の襖を開けると廊下に出た。
(もう本当に終わりなの……?)
涙が次から次へと溢れ、一粒が廊下に零れ落ちたとき。
「何をしている」
突如、低く艶のある声が耳に届く。
おもむろに顔を上げると、廊下に神秘的な雰囲気を纏った美丈夫が立っていた。
胸の位置辺りまで伸びている長髪を組紐で結っていたため、一瞬、女性だと勘違いしてしまいそうになる。
絹のような白の髪に陶器のような肌、涼しげな目元に薄い唇。
雅、優美。
その褒め称える言葉が似合う、気品に満ち溢れる男性にくぎ付けになる。
こんなにも他者を魅了するひとに逢ったことはない。
きっとこれから先も。
(この御方がもしかして──)
「し、七条さま……」
そう、彼が小夜の見合い相手である七条家当主、時雨だった。
彼の隣には、先ほど小夜たちを客間に案内してくれた使用人が立っていた。
ふたりとも厳しいまなざしを父に向けている。
父は怯えたように声を震わせて一歩、後ずさりをした。
生まれて初めて見る威厳を失った父に驚いて小夜の涙は無意識に止まった。
「水園殿、彼女は貴方の娘だろう? なぜ、そのような手荒な真似をしている」
「い、いや。これは……」
父はぐったりとしている小夜を一瞥すると、掴んでいた手を首根っこから離した。
「……っ!」
急に離されるとは思っておらず、廊下に打ちつけられる衝撃に備える準備すら出来ていなかった。
ぎゅっと目を固く瞑る。
「……え」
しかし、感じたのは痛みではなくふわりとした感触。
おそるおそる目を開けると、そこは廊下の板張りではなく、正絹の着物だった。
「大丈夫かい?」
そして、ちらりと上を見るとすぐ近くに時雨の端正な顔があった。
心配そうに梔子色の瞳が小夜の顔を覗き込んでいる。
「も、申し訳ありません!」
時雨に助けられたのだと理解し、慌てて飛び退こうとしたが、身体に力が入らず、動けなかった。
(どうして動けないの)
いつまでも天狐の当主である彼の腕の中にいるのは、無礼だとわかっているのに、なぜか足がふらついてしまう。
愚図ついている娘に父は慌てたように腕を伸ばした。
「お、お前!いつまでそこにいる──」
また乱暴に抱えられると覚悟したが、父との距離が急に離れた。
(七条さま……?)
時雨は一歩下がり、腕の中にいる小夜を父から遠ざけた。
まるで、この娘は渡さないとでも言うように。
時雨の予想外の行動に父だけでなく、小夜も唖然とする。
「どうして彼女の体調が芳しくないというのに気づかない」
「そ、それは……。娘は朝から見合いで緊張しておりまして」
「では緊張だけで、こんな痩せ細った身体になるのか? これは明らかに普段の食生活に問題があるようにしか見受けられないが」
「昔から食が細いのです。身体も弱く、最近は余計に食べなくてわたくし共も困っております。なあ、小夜?」
一華や母に向けるものとはまったく違う。
軽く腰を曲げ、貼り付けたような笑みを浮かべる父はぞっとするほど、恐ろしい。
『はい、と言え』
きっと父はそう言っていると、すぐにわかる。
身体が弱いのは嘘ではないけれど、極度に悪化したのは小学校の卒業直後。
一般的には物心がつく頃には術が自由に行使出来る。
小学校に通っている間は父も、もしかしたらと待っていてくれていた。
しかし、それが一向に出来ない娘に絶望して、食事もろくに与えないような今のぞんざいな扱いになったのだ。
確かに彼の実の娘であるはずなのに、それを否定したくなってしまった。
目の奥が笑っておらず、同意を求めるような尋ね方を目の前にして。
それでも、家族の命令には従わなくてはならない。
本能が小夜に訴えかける。
つまっているように塞がる喉、小刻みに震える唇、それらに抗って、父の問いかけに答えようとした。
「は──」
「それは君の本心ではないはずだよ」
『はい』何百回、何千回も言ってきたその二文字を告げる前に時雨の声が頭上から降りそそぐ。
もっと愛されて、誰からも縛られることなく自由に生きたいという蓋をしてきた想いを見破られて心臓がどきりと鳴った。
そっと顔を上げると、時雨は真剣なまなざしでこちらを見ていた。
不思議と怖さはなくて、その宝石のような目から目が離せなくなった。
ずっと、見られるとまるで心の中をすべて余すことなく見透かされそうになる。
それでも視線を逸らすという選択肢は小夜になかった。
「君から感じる妖力は極端に少ない。そのせいで望まない扱いを受けていたのだろう。先ほどのように」
「……いいのです。あれくらい何でもありません」
「そ、そうです。あれは躾の一環で──」
「君に聞いてない。黙ってて」
「……っ」
自分の思い通りに強がった娘に良しと思ったのか、間に割って入ってくる父。
しかし、そんな彼に時雨は即座に鋭いまなざしと言葉で黙らせた。
『黙っていて』
ある意味これは命令だ。
天狐の命令に逆らえば、どうなるかぐらい愚かな父にだってわかる。
普段は威張っているのが嘘かのように、静かになった。
口を噤んだのを確認すると、時雨は再び小夜へと視線を向けた。
「妖力がないからといって蔑んでいいという理由にはならない。それに客間での君たちの会話が聞こえたけど、本当はこのまま帰りたくなかったのだろう?」
まさかあの酷い会話が聞かれていたかと思うと羞恥心でどうにかなってしまいそうになる。
しかし、あんなに声を荒げていては、聞きたくなくても耳に入る。
(どうして、七条さまはわたしなんかに寄り添ってくれるの)
初めてだ、こんなにも身を案じてくれるのは。
その優しさに甘えても良いのだろうか、弱音を吐いても良いのだろうか。
ここで首を横に振ってしまえば、またいつも通りの生活に戻ってしまいそうに思えて、小夜は間を開けてこくりと頷いた。
「はい。七条さまが縁談を破棄される、そのときまで、ここにいさせてほしかったのです」
時雨が多くの婚約者候補との縁談を白紙に戻しているのは有名な話。
水園家の令嬢として、この屋敷で見合いをする。
結果がどうあれ、その役目だけは最後まで務めたかった。
しかし小夜の言葉に時雨は以外な反応を見せた。
長い睫毛に縁取られた煌めく目を見開いて、数回瞬かせている。
「え、破棄? 私が縁談を?」
「え?」
なぜ彼が不思議そうな表情をしているのか、すぐには理解出来ず、とぼけたような声の返しをしてしまった。
再度、問いかける。
「七条さまはこの縁談を破棄なさるのですよね?」
「ううん、しないよ」
「えっ!?」
いつもの掻き消されそうな声をしている小夜から考えられないような大きな声量。
驚くのも無理はない。
挨拶を済ませたら帰るものだとばかり思っていたから。
「えっと、それはつまり──」
「君に僕の婚約者になってほしいということだよ」
「……」
あまりの展開の早さに思考が停止する。
この世で一番の高貴な存在と言っても過言ではない天狐の当主が、落ちこぼれ狐を見初めているのだ。
にっこりと笑いながら否定をした時雨の答えに、まるで時が止まってしまったかのような空気が辺りを包む。
しばらくの沈黙のあと、それを破ったのは父だった。
「またまた七条さまは御冗談がお上手で」
眉を八の字に下げ、ははっと笑いながら時雨を見やる姿は彼のご機嫌を伺っているようにも見えた。
(お、お父さま)
もう忘れてしまったのか。
黙れと命令を受けたばかりだというのに。
時雨は一度、はあ、と呆れたように息を吐くと小夜に向けていた笑みとは一変、冷酷非情な面持ちで父を見た。
「声を出して良いと、僕がいつ許可した?」
「ひっ……」
怯えた父は、大きな獲物の標的になったかのように弱々しい。
気を抜けば、腰を抜かして座り込んでしまいそうだ。
時雨の元から低い声がさらに低くなり、父を硬直させるのは簡単だった。
一番近くで彼の表情を見ていた小夜は一瞬、違和感を覚える。
(今、目の色が赤くなったような気がしたのだけれど……。気のせいかしら)
見間違いでなければ、時雨が父に怒りを現した瞬間、彼の梔子色の目が、血のように赤く変化した。
どこか、体調でも悪いのかと一抹の不安を感じたが、改めて見ても特に問題はなさそうだ。
しかし、相手は天帝に最も近い存在。
天狐である彼に秘められた力があってもおかしくない。
ただ、落ちこぼれの自分が踏み込んでも良い領域なのか躊躇してしまう。
胸騒ぎがして、じっと下から様子を伺った。
「どうかしたかい?」
小夜の視線に気がついて、時雨は目を細め、とびきり甘く優しげな笑みを浮かべた。
これまで家族と女学院の教師以外の異性とほとんど会話をしたことがない小夜にとって、それはとても刺激的だった。
頬が熱を帯びて、胸が高鳴る。
「えっ……。あの、その。ど、どうしてわたしなんかを婚約者に選ばれたのでしょうか?他に良い条件の女性は大勢いらっしゃるはずです」
今は照れている場合ではないのだと思い出し、必死に言葉を紡ぐ。
正直、わざわざ落ちこぼれを選ぶ理由がわからない。
きっと、いや絶対に彼につり合うのは姉の一華や同級生の舞子だ。
隠しきれない貧相な身体と陰鬱漂う顔のどこに惹かれるところがあったのだろう。
そもそも家柄で選ぶようならば、天狐の娘と政略結婚をするだろうし、空狐の水園家が七条家に多くの利益をもたらすとは考えにくい。
時雨は小夜のたどたどしい問いかけに一つも嫌な顔をせず、最後まで話を聞くと口を開いた。
「確かに過去に見合いに来た女性たちは皆、家柄も教養も申し分なかった。従者にも言われたよ、君との縁談は辞めておけと」
「それでは──」
「でも」
時雨はそこで初めて小夜の話を遮ると、ふわりと彼女の身体を高く持ち上げた。
見上げる位置から急に目線が等しくなり、どくんと心臓が鳴った。
「君は他の令嬢と違った。水園殿との会話を聞いてすぐにわかったよ。一所懸命で純粋な娘なんだって。七条家の地位や財力目当てではなく、きっと私のことを心から愛してくれる。そう思ったんだ」
よほど小夜と出逢えて嬉しいのか、シミ一つない白い肌にほんのりと赤みが差した。
喜ぶその姿は、まるでずっと待ち望んでいた贈り物を手にした子どものよう。
彼の婚約者に、妻になるには華やか見目でも、由緒正しい家柄でもなかった。
必要だったのは、清らかな心。
どうやらそれが判断材料だったらしい。
「小夜。私の婚約者になってくれる? 近い将来は花嫁として君を七条家に迎え入れたい」
(……どうして。わたしだって本当は望んでいたじゃない)
誰かに求められ、愛されることを。
「もしかして嫌、かな?」
俯いて黙り込む小夜を見て、時雨からにこやかな笑みが消える。
眉を下げ、おそるおそる問いかける様子から、動揺していることが覗える。
堂々とした一面から変わって、今の彼はどこか憂いを帯びている。
小夜はすぐに首を横に振って、抱えている胸の内をすべて伝えようと意を決した。
「嫌、なんかじゃないです。でもわたしを婚約者にしても何も七条家や時雨さまのお力になれません。ただの役立たずで邪魔な存在になります」
時雨の正式な婚約者となれば、厳しい花嫁修業が始まる。
普段から家族に無理難題を強いられているので、それにはある程度慣れている。
しかし、無事に結婚を迎えられるかどうかはわからない。
当主である時雨の決定は絶対だ。
それでも、器量がない小夜に与えられる課題を簡単にこなせる自信はなかった。
優しくしてくれた彼の足枷にはなりたくない。
こんな自分の身を案じてくれた、それだけで十分だ。
その思い出さえあれば、きっとつらいことが待ち受けていようとも、生きる力になってくれる。
(だから、わたしはここにいては駄目)
小夜は丁寧に頭を下げて、時雨の腕の中から出ようと身をよじった。
(え……?)
廊下へ降りようとしたが、まったく身体が動かない。
体調が悪いわけではない。
明らかに動ける程度には回復している。
しかし、離れるのを彼は許さなかった。
「僕は君が笑顔で隣にいてくれたら、それだけでいい。真面目な君は、きっと婚約者の務めを果たせるかどうか考えてくれているのだろう?」
「ど、どうしてそれを?」
読心術の力でもあるのだろうか。
図星を言い当てられて、どきりと心臓が鳴った。
彼の目は美しさを兼ね備えていると共に、ひとの心をすべて見透かしてしまうような雰囲気がある。
驚かせられたり、考えを言い当てられたり。
これでは心臓がいくらあっても足りない。
当の本人は、目を丸くしている小夜を微笑ましそうにくすりと笑った。
「やっぱり。僕はね、他者の本質を見抜ける力がある。異能と呼べるほどまでではないけれど、一種の特技かな。まあ、その体質を利用して次々に婚約者候補たちとの見合いを破棄にするから従者を困らせていたのだけれど」
ははっと困ったように笑う時雨はどこかお茶目で幼くも見えた。
噂だけで勝手に怖い男だと思っていたが、父に接する以外は穏やかな一面が垣間見られた。
「……小夜」
自然と聞き入ってしまいそうな不思議な魅力のある声が耳朶を撫でる。
時雨は自らのしなやかでありながら、逞しい腕の中にいる小さな狐に向けて、すっと目を細めた。
「君の想像している通り、僕の婚約者になれば、必然的に花嫁修業に取り組むことになる。天狐の一族に嫁ぐとなれば、なおのこと厳しいものに、ね」
「はい」
視線を逸らすことは許されないような、いや、小夜自身が逸らしたくなかった。
静かに返事をすると、時雨は続けた。
「泣きたくなるような、つらいと感じる日もあるだろう。僕の母上もそうだったと聞くから。──でも」
一旦、言葉を区切ると時雨は小夜の前足をそっと握った。
こわれものに触るような、繊細な手つきに鼓動が早鐘を打つ。
「必ず僕が君を支える。つらいことも悲しいことも気にならないくらい、笑顔に、幸せにさせる」
「……!」
涙で視界がくしゃりと歪む。
世界で一番、不幸だと思っていたのが、一気にひっくり返ったような気がする。
こんなにも誰かに必要とされて、明るい未来を約束されるなんて、世界で一番の幸せ者だ。
「本当に、わたしで良いのですか……?」
最後に一度だけ、震える声で尋ねた。
ぽろぽろと溢れ出す涙を時雨は人差し指でそっと拭いながら、花笑みを浮かべた。
「ああ。君となら良い夫婦になれると思うんだ」
向けてくれる笑顔も、かけてくれる言葉も、陽だまりのようで小夜の氷の心を溶かすには十分すぎるほどだった。
目の前に現れた希望の欠片を手放したくなくて、小夜はしっかりと頷き、嗚咽を必死に抑えると時雨を見つめた。
「──わたしも、良い妻でありたいと思います。七条さま、よろしくお願いいたします」
小夜の導き出した答えに、安堵したように微笑むと雪色の毛並みをゆっくりと一撫でした。
「ありがとう、小夜。こちらこそよろしくね」
改めて挨拶を交わして、和やかな空気が流れる。
「おめでとうございます、時雨さま。そして小夜さま」
そこで、今までふたりの様子を見守っていた、使用人が声をかける。
両手を胸の前で組み、興奮したように頬を染める姿は心の底から祝福しているようだった。
水園家の使用人に温かな対応をされたことがないので一瞬、戸惑ったがすぐに礼の意味を込めて頭を下げる。
「あ、ありがとうございます」
「色々と玲子さんにも迷惑をかけたね」
申し訳なさそうに眉を下げた時雨に対し、玲子と呼ばれた女性は首を横に振った。
「いいえ。一度もそのように感じたことはありませんわ。時雨さまが運命のお相手に出逢えた、それだけで、わたくしは自分のことのように喜ばしいですから」
「そう言ってもらえてよかった。第二の母でもある玲子さんに反対されたら、どうしようって不安だったから。これから小夜を七条家へ迎える準備で忙しくさせると思うけれど、よろしく頼んだよ」
「お任せくださいませ。改めまして小夜さま、わたくし使用人頭を勤めております、玲子と申します」
「水園小夜です……!よろしくお願いいたします」
「勝手に話を進めないでいただきたい」
深々と一礼したとき、今まで蚊帳の外だった父が、不快感が入り混じったような冷え切った声で和やかな会話を遮った。
その鋭いまなざしは小夜だけでなく、時雨にも向けられていた。
それには当然、当の本人も気がついていているようだったが、怯むことなく堂々とした佇まいで構えている。
「七条家の当主であろう方が、まさかそのような落ちこぼれを選ぶとは。天狐の一族が与える課題など、こいつに成せるはずがございません」
「お父さま、わたしは」
父は小夜の心配をしているのではない。
このまま、小夜が時雨の婚約者になれば、縁談の順番待ちをしていた女性は諦めなければならない。
それは姉の一華も同級生の舞子も。
もしかしたら一華に関しては、破棄を言い渡されてすぐに帰宅する予定のふたりが遅いと愚痴をこぼしているのかもしれない。
彼女が結果を知れば、不満をあらわすどころではない。
劣っていると見下してきた妹が七条家の女主人となり、自分より身分が高くなることに怒り狂うだろう。
それを父は阻止しようと思って、愛嬌があって優秀な一華を七条家へ嫁がせたがっている。
落ちこぼれを嫁がせるなんて、どういうつもりなのだと他の狐たちの世間体も気にしているのだと、焦りを見ればわかる。
結局、大切にしているのは彼女なのだ。
「お前は黙ってろ!これは当主同士の話だ!」
小夜は決意を示そうとしたが、彼はそれを拒絶した。
ここが神聖な場所だと自分が言ったのに、声を荒げて、ぴしゃりと言い放つ父は醜く見えてしまった。
血の繋がった親子なのに、そう思ってしまった自分が少し嫌になる。
荒ぶる父とは反対に時雨は静かに耳を傾けていた。
「万が一でも小夜が七条さまの妻になれば、この國の狐たちの未来は危ういでしょうな。どうでしょう、正式に婚約者関係を結ぶ前に長女の一華とお会いしてみませんか。貴女さまの隣に並ぶ者に相応しいと私が保証します」
額に汗をかき、愛想笑いを浮かべている父はまるで取引相手に商談を持ちかけているようだった。
言い方には刺があるが、確かにこの話に関しては小夜が入る隙はない。
時雨が小夜を婚約者にするという判断を覆せば、話は別だが、あの真剣な想いはそんな軽いものではないと伝わった。
ただ行く末を見守ることしかできない。
「……うん。今の提案を聞いて僕の考えが変わったよ。僕自身が甘かった」
「え?」
彼へ抱く信頼の気持ちが揺れ動きそうになる。
まさか。
考えが変わったということは、つまり──。
「で、では一華と見合いをしていただけるのですか!?」
目を丸くさせながら顔を綻ばせる父に、さらに不安が募る。
もしかしたら、と考えてしまって咄嗟に耳を塞ごうと前足を頭へ伸ばした。
時雨はふうっと軽く息を吐き出す。
「水園高志郎。今後一切、小夜と僕の前に姿を見せるな。これは当主命令だ」
「なっ……!それはどういうことですか!」
もう父は相手が天狐だからといって遠慮はしていない。
何がなんでも、己の望みを叶えようと必死だ。
憤慨している父とは反対に、小夜は胸を撫で下ろした。
(わ、わたしの早とちりだったのね)
てっきり、今の話はなかったことにして一華と見合いをするのかと思ってしまった。
耳へと伸ばしかけていた前足をゆっくりと降ろして、ふたりのやり取りを傍観する。
「そのままの意味だよ。接触もそして会合への参加も禁止する。洋行している息子にでも当主の座を譲るか、代理の者に任せればいい。欲望を満たすことしか考えていない君は愚かで滑稽だよ」
薄々、時雨は父をはじめとした水園家の人間が小夜を虐めてきたのだろうと勘づいている。
仮にここで、事実を隠し通しても、七条家の力で調査をすれば、すべて明らかになるだろう。
これまで、彼女にしてきたことは許せないけれど、当主を引退して、もうこちらに関わらなければ、許容するらしい。
普通ならば、没落という判断でもおかしくないのだが、優しく繊細な小夜に免じて寛大な決断を下したのだ。
反論できる余地はない。
論破されて、父は悔しそうに唇を噛んだ。
「いくら七条さまでも、血縁関係のある親子を引き裂くなんて非情ではありませんか? 娘の気持ちを聞かずに、何と勝手な。お前もそう思うだろう? 小夜」
まただ。
父は都合が悪くなると、小夜までも道連れにしようと、彼女に同意を求める。
でも、奴隷のようだった生活が、たった今、新しいものへと変わろうとしている。
言いなりだった弱い自分自身も。
(わたしは、もう貴方たちの操り人形じゃない)
腕から上半身を乗り出し、父と向き合う形になり小夜は決意に満ちたまなざしで見据えた。
それが普段から高飛車な態度をとっている彼にとって気に食わなかったようで、表情をぐしゃりと歪めた。
「な、なんだその目は!それが親に対する態度か!」
きっと、ここに時雨がいなければ絶対にぶたれていた。
でも今は違う。
彼の体温が小夜に確実に勇気を与えてくれていた。
人さし指をこちらに向ける父に臆することなく、静かに続ける。
吐き出したいほど不満はあるけれど、感情的になったら、それこそ彼らと同じだ。
「お父さま、わたしは感謝しています。たとえ世間体があったとしても女学院にまで通わせてくださって。水園家の力でわたしは守られていました」
「……何が言いたい」
「上手に術が行使できなくても、ずっと家族の役に立ちたいと、役目を果たしたいと思っていました。それを忘れた日は一度たりともありません。──でも」
どれだけ頑張ろうとも、誰も認めてはくれなかった。
いつか努力が報われる日がくると信じていた。
薄幸に生まれた自分は忌み嫌われて当然だと何度も言い聞かせて。
しかし、それは間違っていたのだと長い年月をかけて今日、知った。
まだ完全に時雨と愛と信頼感で結ばれたわけではない。
婚約者になったとしても、花嫁にはなれない可能性だってある。
婚約関係を破棄されるかもしれない。
捨てられて居場所をなくすかもしれない。
水園家を出たといって、必ず幸せになれる保証はない。
でも信じてみたかったのだ。
優しい時雨の言葉を。
「わたしの居場所は水園家ではないのだとわかりました。もし、こんなわたしでも必要になさってくださる方がいるのだとしたら、その御方の傍にいたいです」
自然と熱量が前足に力を入れていたのだろう。
その気持ちに答えるように、時雨が抱きしめる腕の力を強めてくれた。
(今度はわたしの番。頑張ろう、救ってくれた七条さまの恩返しができるように)
時雨からの接触禁止命令が言い渡されたので、しばらく、いや残りの人生ずっと父と会うことはないかもしれない。
こんな状況なのに、寂しさを微塵も感じないのはきっと異常だろう。
清々する、とまではいかないけれど、彼らと一緒に暮らしていても地獄のままだ。
両親や姉の一華は小夜をいいように使い、いざとなれば命も奪うに違いない。
「わたしは、これから先の未来を水園家ではなく、七条さまに捧げます」
高志郎は何を戯れ言をとでも言うかのように呆れながら肩を竦める。
「どうせお前なんかすぐに見放される。水園家の血が流れている娘が捨てられたとなれば醜聞になるな」
嘲笑する高志郎は、表向きの表情を作るのをあきらめていて、別人のようだった。
家族が変わってしまったのは、すべて異端である小夜のせい。
小夜が一華と同じくらい妖力があって、普通の娘として生きられていたら、暴力で現実を教えることなんてしなかった。
「小夜。今ここで先ほどの発言を撤回すれば許してやる。そして今後、お前に手は出さないと七条さまの前で誓おう」
一華や華織にも、よく言っといてやると一言付け足す高志郎は、口角を上げてこれでどうだと言わんばかりの満足げだ。
自分たちが小夜にしてきた行いが、どれだけ酷かったか。
彼の発言が嘘かまことかわからないが微塵も反省していないことは確かである。
仮に本当だとしても、水園家へ戻る選択肢などもうない。
もうあの、喉が痞えて痛くて息苦しい空間には少しもいたくない。
心と身体が拒絶している。
時雨の言葉に改めて、醜悪な環境に身を置いていたか気づいたからだろう。
「いいえ。撤回もしないし屋敷にも戻りません。仰ったではありませんか。以前お父さまたちは、お前を生まなければ良かったと。わたしはわたしの人生を歩んでいきます」
「そのようなことを言ったか? ふん、覚えていないな。それにお前をここまで育てたというのに恩を仇で返すつもりか。何と生意気な」
やはり娘はお返しくださいと、腕の中にいる小夜を無理矢理奪おうと手を伸ばされる。
これだけ時雨に叱られているのに、どこまでも懲りず、反省しない男だろう。
守ってくれるひとがいるとはいえ、手を出される瞬間はこわい。
小夜が怯んだ瞬間、時雨は先ほどのように引くのではなく、逆に前へと出た。
「いいかげんにしないか」
時雨は左手で小夜の身体を抱きかかえたまま、右手で高志郎の肩を掴み、壁へと叩き付けた。
「……っ」
低く、鈍い音と共に高志郎の顔が歪められた。
見目は白鳥のように繊細で麗しいのに、力強さから男らしさを感じる。
きっと打撲はしているだろうけど、小夜はそれ以上に数えきれないほどのつらい経験している。
さすがの高志郎も叩き付けられた瞬間は痛さを堪えるように左手で肩を抑えていた。
しかし、すぐに顔を上げるとにやりとほくそ笑んだ。
「……おやおや。七条家の当主ともあろう御方が暴力とは」
「これは正当防衛だよ。あくまで推測だけれど、君は彼女に対して、この比じゃないくらい非道なことをしてきたんじゃない?」
時雨はこの険悪な雰囲気に似合わない、花が咲いたような笑みを浮かべている。
相変わらずの余裕さを感じて、頼もしい。
しかし、高志郎は未だ挑発的な目つきを向けている。
「時雨さま!」
終わりが見えない争いに困惑し始めたとき、ひとりの男性が小走りで廊下の奥からやって来た。
どうやら状況を見かねた玲子がいつの間にか場を離れて、他の屋敷の者を呼んできたようだ。
艶やかな黒髪に、三つ揃いのスーツ姿の男は廊下に広がる光景にぎょっと瞠目させた。
そのような反応をするのも無理はない。
時雨は水園家の当主を壁へ追いつめていて、腕には一匹の狐がいるのだから。
スーツ姿の男に気がつくと、ぱっと顔を明るくさせた。
「ちょうど良かった。律、このひとをつまみ出して」
「はっ!?……この方は水園家の当主ですよね。見合いは、もうよろしいのですか」
「うん。彼女を正式な婚約者にすることに決めたから。ちなみに彼に接触禁止命令を言い渡したから、今後は監視も警備体制も強化しておいてくれる?」
時雨は律と呼ばれた男に紹介するように小夜を見せる。
目があった瞬間、律は顔面蒼白になり、唇を震わせた。
「はっ!? 時雨さま、見合いをするだけだと仰ったではありませんか!」
「そのつもりだったんだけどね、気が変わった」
「ちょっ、ちょっと待ってください。色々と状況が把握できません」
「すまないね。あとできちんと説明するから」
「とりあえず、落ち着きたい。彼女もだいぶ疲れているだろうし。……僕も二回目に達しそうなんだ」
「……!か、かしこまりました。それでは水園さま、こちらへ」
律は背を向き、ちらりと高志郎を見て玄関へ促す。
しかし、まだ見合いの結果に納得いっていないようで、不満をあらわにしている。
「私はまだ──」
「こちらへ。私共も手荒な真似はしたくないのですが、歯向かうようでしたら、容赦はしません」
「……くそっ」
鋭いまなざしに為す術をなくしたのか、悔しそうに拳を太ももへと叩いて、歩み出した。
小夜と時雨の隣を通り過ぎるとき、一度足を止める。
「この恨みは忘れない。覚えておけ、小夜」
憎しみに満ちた表情は、すぐに脳裏へとはりついた。
この選んだ道は間違っていなかったと信じたい。
でも、やはり恐怖というものは綺麗に拭いきれなくて、簡単に心を脅かす。
「水園さま」
律と玲子に催促され、再び足を動かすと高志郎は廊下の奥へと消えていった。
先ほどの喧騒が嘘のように、辺りが静まり返り、胸を撫で下ろした。
それは時雨も同じようで、ふうっと軽く息を吐き出した。
こんな事態を招いてしまったのは、自分のせいだ。
かなりの迷惑をかけてしまったと小夜は罪悪感に耐えきれなかった。
腕の中で深々と頭を下げる。
「七条さま、父が無礼な態度をとってしまい、まことに申し訳ありません。それもすべて、わたしのせいです。何と詫びたら良いか……」
苦しくて、痛くて、胸が張り裂けそうだった。
もっと高志郎の逆鱗に触れずに済む方法があったかもしれない。
優しい時雨まで不快な思いをさせて、とても彼を見られそうになかった。
じっと動かずにいると、ふわりと頭が撫でられる感触がした。
その手つきは柔くて、そして温かい。
まるで大丈夫だと慰めてくれているようだった。
「君が謝ることなんて何もないよ。僕の方こそ見苦しいところを見せてしまったね。怖い思いをさせただろう」
思いもしなかった時雨の謝罪に、顔を上げて首を横に振った。
「いえ!そんなことないです。わたしなんかを守ってくださって、とても嬉しかったです」
「自分のことを蔑まない方がいいよ。君は純粋で優しい、素敵な女性なんだから」
梔子色の目を細めて、こちらに向ける花笑みに心臓がどく、どく、と強くなっているのがわかる。
「あ、ありがとうございます……」
そこに偽りなどなかった。
こんなにまっすぐに褒められたのは初めてで、頬に熱が帯びる。
照れて恥ずかしさを隠すように俯く、小夜を時雨は微笑ましそうに見ていた。
小夜は、いつもより正門から遠く離れた場所で運転手に声をかけ、自動車から降りた。
春の午前中らしい、ひやりと爽やかな風が吹くが、気持ちよさを感じる余裕は生まれなかった。
代わりに眠気に襲われて、片目を二回ほど擦る。
(結局、縁談のことが気になって、あまり眠れなかったわ)
七条家からの縁談の知らせを聞いてから一晩が経過した。
日中だけでなく、日が暮れ、布団に入っても、疑問や動揺、恐怖心が消えることなく、脳内にこびりついていた。
覚悟は決めているつもりだが、どうやら完璧には拭えていないらしい。
不安も的中して、登校する女学生たちの刺すような視線が痛い。
どこからか情報が漏れ、約一日で噂が広まったのだろう。
自転車を漕いで傍を通り過ぎる者、送迎の自動車から降りる者、全員と言っていいほどの人がこちらを見ている。
(……ごめんなさい。わたしなんか七条さまにお目にかかる資格なんてないのはわかっているの)
本人でさえ、状況をろくに理解できず、困惑しているのだ。
たとえそれを口にしても自慢にしか聞こえないだろう。
普段よりもぐっと目線を下げて、足早に校舎を目指す。
(あと少しの辛抱よ、水園小夜)
休み時間は注目されるだろうけど、授業が始まってしまえば、多少は皆の意識も逸らされるはず。
白紙になる明日まで、嫉妬と妬みから耐える、それだけだ。
最終的には鞄を抱え、小走りで昇降口まで向かう。
息を切らしながら何とかして到着した小夜は下足から中履きの草履に履き替える。
体力がない自分に嫌気が差しながら、廊下を歩き始めたとき、階段近くから、ある人物が姿を現した。
「ごきげんよう、水園さん」
「……寺石さま」
同級生の寺石舞子がまるで小夜を待ち構えていたように、立っている。
いつもと変わらないつんと済ました顔と堂々とした立ち居振る舞いなのに、それが何故か怖ろしく感じた。
今朝はほぼ毎日、彼女の両隣に控え、慕っているふたりの生徒はどうやら不在のようだ。
怯えて、立ち尽くす小夜を、舞子はキッと鋭いまなざしで射抜いてくる。
「貴方宛てに七条家から縁談の申し出があったそうですね」
「は、はい……」
小夜が一番驚いたのは、姉の一華のように憤怒の感情を表に出していないことだ。
予想外の展開に立ち尽くすことしかできないでいる。
こくりと頷くと、舞子は小さく鼻を鳴らした。
「さぞかし嬉しいでしょう。何といってもお相手は天狐の当主さまですから」
「あ、の。わたしも縁談の話は昨日、聞いたばかりで。嬉しいというより、戸惑っている気持ちの方が──」
「何よ、それ」
「……っ」
突如として語気を強めた舞子に小夜はびくりと肩を振るわせた。
まずい。
きっと『嬉しいというより戸惑っている』という言葉が彼女の逆鱗に触れたのだ。
正直に気持ちを明かしてしまった自分がとてつもなく阿呆に思える。
曖昧のまま、流せばよかったと後悔するが、すでに遅い。
けれど。
誤魔化されるような相手でも、自分自身に特別な話術がないのは承知している。
人形のような美しい顔立ちが、くしゃりと悔しそうに歪められた。
「天狐さまとの縁談なんて、とても幸運なことなのよ!それも七条家からなんて、名家の娘でも一生に一度あるかどうかなんだから!それが貴方はなに? 嬉しいより戸惑い? どれだけわがままなのよ!」
(違う、違うの)
心の中で精いっぱいの否定をしても、当然彼女に届くことはない。
舞子は小夜が家族から公にできないほど、虐げられていることを知らない。
多少は蔑まれていると勘づいてはいるだろうが。
だからといって、間違って口にしてしまえば大問題になるだろう。
はたまた、小夜の言うことなど誰も信じず、聞く耳をもたないか、どちらかだ。
ただ命令通りに従い、息をするだけ。
想像を絶する苦しい生活。
理解してほしいとまでは言わない。
自分は、孤独に抱え続けなければいけない運命を背負っているのだから。
何の反論も意思表示もしない小夜にさらに苛立ちが増したように唇を噛んだ。
「だんまりだなんて、余計にたちが悪いわ。……まあ、でも夢を見られるのも今のうちね。貴方が七条さまに見初められるはずなんてないもの」
にやりと口角を上げて、目を細める姿は余裕を感じさせる。
そのとき、コツコツと靴音が廊下に反響して聞こえた。
誰かが降りてくるのだろう。
階段から足音が聞こえ、舞子はそちらを一瞥すると、視線をまた戻した。
「貴方の縁談が終われば、次は一華さまやわたくしの番なんだから」
そう言い残すと、舞子はその場を離れていった。
「水園さんが七条さまと縁談?何かの間違いでは?」
「いいえ。わたくしも先ほど聞きましたわ。明日、お見合いのようです」
声を潜めて会話する声が聞こえ、視線を向けると数名の生徒がこちらを影から見ていた。
野次馬が現れるのも、あんなに大きな声量を出せば当然だろう。
その視線たちから逃れるように、教室へ向かう。
(何を言われても動じないって決めたじゃない。明日のために少しでも、わたしにできることをしないと)
仮にも小夜は水園家の令嬢。
父の言いつけ通り、縁談が破棄になろうが、立ち居振る舞いは完璧でいなくてはならない。
尻込みする気持ちを鼓舞して、目線を僅かに上げたのだった。
◆
翌日、ついに見合いの日を迎えた。
外はあいにくの天気で曇天が広がっている。
風はやや強く、木々を揺らしていた。
『わたくしに感謝しなさい』
昨夜、そう言いながら箱に入った振袖を一華に手渡されたのを思い出す。
小夜は女学院に着ていく単衣と学校指定の行燈袴、そしてお下がりのお仕着せ服しか持っていない。
その為、見合いに着ていく振袖を一華に借りたのだ。
父に頼まれて最初は嫌がっていたが、新作の化粧品を買ってもらうという約束で、しぶしぶ許可した。
借りたのは、白の牡丹がよく映える朱色の振袖。
新品にも見えるこの振袖はどうやら、捨てる予定だったらしい。
数回着ただけなのに、次々に買ってもらうものばかり選んでいたら箪笥の奥に眠っていたようだ。
しかし、身に纏う本人が首許も手首を痩せ細っていて、華やかな着物は似合っていない。
血色のない顔色を隠すために、厚めにおしろいと紅を塗ったが、陰鬱さは消えなかった。
(どんなに美しい振袖や髪飾りで着飾っても、まったく駄目ね。まだ普段の格好の方がしっくりくるわ)
貧相な自分にはそれなりの格好が一番よく似合う。
当然、その姿で見合いに行けるわけがないので、脱ぎたい気持ちを抑えてしばらくの我慢だ。
父と自動車に乗り、七条家へ向かう。
基本的に見合いは狐の町にある料亭などで行うことが多いのだが、指定されたのは時雨が住む七条家だった。
時雨は当主であるがゆえ、かなりの多忙らしい。
それに加えて、天狐という存在は天啓を受けることが可能のため、あまり屋敷から離れられないようだ。
(天狐さまの力については知っていたけど、まさか七条家へ行くなんて)
父から見合いの場所を聞かされたのは、ついさっき。
確認せずに、きっと料亭で時雨と会うのだろうと思っていた小夜も小夜だが、まさかの場所に瞠目した。
運転手に行き先を伝えている父に慌てて尋ねると「それくらい考えればわかるだろう」と怒られてしまった。
どうせ破談になるから良いかと思ったのか、それともただ面倒だから伝えなかったのか。
緊張するのは変わらないが、前もって教えてくれればよいのに、と心の中で拗ねたのは秘密。
窓から後方へ流れていく景色を虚しく眺める。
七条家の屋敷は狐の町の最奥地にある。
空狐の一族が住む場所からみると、そこまで遠いわけではない。
自動車なら、あっという間に到着する距離である。
(あれが天狐の一族が住んでいる域……)
遠く先に数々の広大な屋敷を捉えた。
建物だけではない。
近づくにつれて空狐とは違う凄まじい妖力を感じる。
まだ、天狐の住居域に入ったわけではないのに、すでにこの位置でも感じ取れる。
額にじわりと汗が浮かぶ。
(お父さまは平気みたい)
ちらりと隣に座る父を見ると、特に顔色を変えることなく、厳しい目つきで前を見据えていた。
おそらく、定期的に会合で時雨と会っているから慣れているのだろう。
父の送迎を担当している運転手も表情こそ覗えないものの、特に異変は感じられなかった。
この時点で震え上がりそうなほどなのに、七条家に到着したら、どうなってしまうのだろう。
緊張から逃れるように、視線を窓から腿の上に移す。
置いてある両手が小刻みに揺れている。
(挨拶をするだけだもの。きっと大丈夫よ)
何度も言い聞かせて出来る限りの不安を取り除く。
そして自動車が天狐たちが住まう区域に入ると、より一層、妖力が肌にびりびりと伝わる。
小夜は妖力が少ない分、他者の影響を受けやすい体質。
七条家に到着するまで、余計なことは考えずに、目を瞑りながらただ呼吸だけをしていた。
「到着しました」
運転手の声に目をゆっくりと開け、自動車から降りる。
(ここが七条家……)
視界では捉えきれないほど広大な純和風の屋敷。
もちろん、立派だろうとは予想していたが、まさかここまでとは。
今見ただけでも水園家の倍以上はある。
青々しい松と石で縁取られた池など美しく整えられた庭園も目を引く。
「おい、神聖な場でみっともない顔をするな」
圧倒され、開いた口が塞がらなかった小夜を父がぎろりと睨む。
指摘されて、ようやくだらしない顔をしていたのだと気がついて我に返った。
「も、申し訳ありません」
「ったく、これだから欠陥品は。七条さまの前でそんな顔をしたらただではおかないからな」
「はい」
小夜は静かに返事をして歩き出す。
今日を迎えるまで、何度も『くれぐれも当日にへまをするなよ』と言い聞かされてきた。
緊張、不安、恐怖……。
普段ならば狐の姿に戻ってしまうような、すべての感情を抑え込み、前を見据える。
「水園さま、お待ちしておりました」
使用人のひとりなのだろう。
玄関の前に着物を身に纏った品の良い老女が立っていて、小夜たちを出迎えた。
「こちらこそ本日はよろしくお願いいたします」
「よ、よろしくお願いいたします」
先ほどの態度とは打って変わって、にこやかで明るい顔と口調になる父。
小夜も慌てて父に続いて挨拶をする。
「それではご案内いたしますね」
玄関で草履を脱ぎ、使用人の案内のもと、客間まで歩いていく。
七条家に仕えているということは彼女も天狐なのだろう。
一挙一動、無駄な動きはなく、上品で惚れ惚れしてしまう。
しかも、貧相な娘を見ても怪訝な顔をすることなく、柔らかな笑みを浮かべている。
廊下ですれ違う他の使用人たちも小夜たちに深々と頭を下げていた。
もちろん、水園家で雇われているひとたちも礼儀は正しいが、彼女らはそのひと段階、上だ。
(もし、この方たちがわたしの屋敷にいたら、少しは違ったのかしら……。なんて考えても意味はないのだけれど)
水園家の使用人頭、秋江の厳しい顔つきを思い出して、つい比較してしまう。
「こちらでございます。当主さまがいらっしゃるまで少々、お待ちくださいませ」
ありもしない想像をしているうちに、客間に到着し室内へと通される。
藺草の匂いが香る庭園に面した畳敷きの一間。
使用人が去り、ふたりが座布団に座ると父の上っ面が剥がれ落ちた。
「お前は挨拶だけをしろ。余計なことは一切喋るなよ」
「はい」
命令には自らの意思に関係なく、首を縦に振る。
それが、小夜の常である。
「まあ、どうせ、この縁談は破棄になる。こちらが口を開く前に見合いは開きになるだろう。お前のような落ちこぼれ──忌み子が選ばれるわけがない。お前は幸せになれない運命なのだから。これから先、死ぬまで地獄を味わい続けるのだ」
「……っ」
『幸せになれない運命』『地獄を味わい続ける』
わかりきっていたはずなのに改めて言葉にされると恐怖のあまり小さく声を漏らした。
父が当主の座を兄に譲れば、完全に居場所はなくなる。
小夜の存在を認識していない兄は、使用人としても彼女を雇わないだろう。
屋敷内はすべて当主の意思がすべて。
兄が小夜を無視すれば、両親も一華もきっと倣う。
そうすれば、小夜は行く当てをなくして途方を彷徨うはず。
運命に抗うことすら叶わない自分が情けなくて、視界が涙で歪んだ。
神さまはどこまでも不平等だと恨みそうになる。
(わたしだって、わたしだって……。本当はお姉さまのように愛された子になりたかった)
一筋の涙が頬を伝ったとき、ぽんっという軽い音が客間に響いた。
「貴様……!」
あろうことか、小夜は溢れ出る負の感情のせいで術が解け、狐の姿へと戻ってしまった。
父は血相を変えて、すぐさま彼女の首根っこを掴む。
「何をしているんだ!早く人間になれ!」
「……っ」
体内に巡る僅かな妖力に意識を集中させて、術を行使しようとするが、何度やっても狐のまま。
(どうして出来ないの? どうしていつもわたしは家族の役にすら立てないの?)
不甲斐ない自分に腹が立って、哀れな自分に悲しくなる。
それでも自らの背負いし役目は果たしたいという思いがある。
自負と言うにはおこがましいが、途中で務めを投げ出したくなかった。
(──斬りすてられる最後までは水園家の娘でいたい)
いつしか、身体に込めていた力を緩め、そして項垂れた。
しばらく経っても化けられない娘に痺れを切らせたのか、父は舌打ちをした。
「もういい。七条さまがいらっしゃる前に帰るぞ」
小夜の首から手を離さず、立ち上がる父を咄嗟に制止しようと口を開く。
「ま、待ってください」
「私に指図するのか? 良いご身分だな。屋敷に帰って躾直してやる」
ここで止めなければ、七条家の使用人に適当に言い訳をして帰ってしまう。
痛みと苦しみに耐えながら、父の鬼のような形相の顔を見上げた。
「お父さま……。わたしは見合いが終わったら、どうなっても構いません。ですが、せめて破棄になるその瞬間までここにいさせてくれませんか」
「たださえ、落ちこぼれのお前のせいで我が家は恥をかいているというのに、さらに汚名を背負わすのか」
「そんなこと生まれてから一度も思ったことはありません……!」
「小賢しい!黙れ、耳障りだ!」
必死の訴えも虚しく、父は歩みを止めなかった。
そして客間の襖を開けると廊下に出た。
(もう本当に終わりなの……?)
涙が次から次へと溢れ、一粒が廊下に零れ落ちたとき。
「何をしている」
突如、低く艶のある声が耳に届く。
おもむろに顔を上げると、廊下に神秘的な雰囲気を纏った美丈夫が立っていた。
胸の位置辺りまで伸びている長髪を組紐で結っていたため、一瞬、女性だと勘違いしてしまいそうになる。
絹のような白の髪に陶器のような肌、涼しげな目元に薄い唇。
雅、優美。
その褒め称える言葉が似合う、気品に満ち溢れる男性にくぎ付けになる。
こんなにも他者を魅了するひとに逢ったことはない。
きっとこれから先も。
(この御方がもしかして──)
「し、七条さま……」
そう、彼が小夜の見合い相手である七条家当主、時雨だった。
彼の隣には、先ほど小夜たちを客間に案内してくれた使用人が立っていた。
ふたりとも厳しいまなざしを父に向けている。
父は怯えたように声を震わせて一歩、後ずさりをした。
生まれて初めて見る威厳を失った父に驚いて小夜の涙は無意識に止まった。
「水園殿、彼女は貴方の娘だろう? なぜ、そのような手荒な真似をしている」
「い、いや。これは……」
父はぐったりとしている小夜を一瞥すると、掴んでいた手を首根っこから離した。
「……っ!」
急に離されるとは思っておらず、廊下に打ちつけられる衝撃に備える準備すら出来ていなかった。
ぎゅっと目を固く瞑る。
「……え」
しかし、感じたのは痛みではなくふわりとした感触。
おそるおそる目を開けると、そこは廊下の板張りではなく、正絹の着物だった。
「大丈夫かい?」
そして、ちらりと上を見るとすぐ近くに時雨の端正な顔があった。
心配そうに梔子色の瞳が小夜の顔を覗き込んでいる。
「も、申し訳ありません!」
時雨に助けられたのだと理解し、慌てて飛び退こうとしたが、身体に力が入らず、動けなかった。
(どうして動けないの)
いつまでも天狐の当主である彼の腕の中にいるのは、無礼だとわかっているのに、なぜか足がふらついてしまう。
愚図ついている娘に父は慌てたように腕を伸ばした。
「お、お前!いつまでそこにいる──」
また乱暴に抱えられると覚悟したが、父との距離が急に離れた。
(七条さま……?)
時雨は一歩下がり、腕の中にいる小夜を父から遠ざけた。
まるで、この娘は渡さないとでも言うように。
時雨の予想外の行動に父だけでなく、小夜も唖然とする。
「どうして彼女の体調が芳しくないというのに気づかない」
「そ、それは……。娘は朝から見合いで緊張しておりまして」
「では緊張だけで、こんな痩せ細った身体になるのか? これは明らかに普段の食生活に問題があるようにしか見受けられないが」
「昔から食が細いのです。身体も弱く、最近は余計に食べなくてわたくし共も困っております。なあ、小夜?」
一華や母に向けるものとはまったく違う。
軽く腰を曲げ、貼り付けたような笑みを浮かべる父はぞっとするほど、恐ろしい。
『はい、と言え』
きっと父はそう言っていると、すぐにわかる。
身体が弱いのは嘘ではないけれど、極度に悪化したのは小学校の卒業直後。
一般的には物心がつく頃には術が自由に行使出来る。
小学校に通っている間は父も、もしかしたらと待っていてくれていた。
しかし、それが一向に出来ない娘に絶望して、食事もろくに与えないような今のぞんざいな扱いになったのだ。
確かに彼の実の娘であるはずなのに、それを否定したくなってしまった。
目の奥が笑っておらず、同意を求めるような尋ね方を目の前にして。
それでも、家族の命令には従わなくてはならない。
本能が小夜に訴えかける。
つまっているように塞がる喉、小刻みに震える唇、それらに抗って、父の問いかけに答えようとした。
「は──」
「それは君の本心ではないはずだよ」
『はい』何百回、何千回も言ってきたその二文字を告げる前に時雨の声が頭上から降りそそぐ。
もっと愛されて、誰からも縛られることなく自由に生きたいという蓋をしてきた想いを見破られて心臓がどきりと鳴った。
そっと顔を上げると、時雨は真剣なまなざしでこちらを見ていた。
不思議と怖さはなくて、その宝石のような目から目が離せなくなった。
ずっと、見られるとまるで心の中をすべて余すことなく見透かされそうになる。
それでも視線を逸らすという選択肢は小夜になかった。
「君から感じる妖力は極端に少ない。そのせいで望まない扱いを受けていたのだろう。先ほどのように」
「……いいのです。あれくらい何でもありません」
「そ、そうです。あれは躾の一環で──」
「君に聞いてない。黙ってて」
「……っ」
自分の思い通りに強がった娘に良しと思ったのか、間に割って入ってくる父。
しかし、そんな彼に時雨は即座に鋭いまなざしと言葉で黙らせた。
『黙っていて』
ある意味これは命令だ。
天狐の命令に逆らえば、どうなるかぐらい愚かな父にだってわかる。
普段は威張っているのが嘘かのように、静かになった。
口を噤んだのを確認すると、時雨は再び小夜へと視線を向けた。
「妖力がないからといって蔑んでいいという理由にはならない。それに客間での君たちの会話が聞こえたけど、本当はこのまま帰りたくなかったのだろう?」
まさかあの酷い会話が聞かれていたかと思うと羞恥心でどうにかなってしまいそうになる。
しかし、あんなに声を荒げていては、聞きたくなくても耳に入る。
(どうして、七条さまはわたしなんかに寄り添ってくれるの)
初めてだ、こんなにも身を案じてくれるのは。
その優しさに甘えても良いのだろうか、弱音を吐いても良いのだろうか。
ここで首を横に振ってしまえば、またいつも通りの生活に戻ってしまいそうに思えて、小夜は間を開けてこくりと頷いた。
「はい。七条さまが縁談を破棄される、そのときまで、ここにいさせてほしかったのです」
時雨が多くの婚約者候補との縁談を白紙に戻しているのは有名な話。
水園家の令嬢として、この屋敷で見合いをする。
結果がどうあれ、その役目だけは最後まで務めたかった。
しかし小夜の言葉に時雨は以外な反応を見せた。
長い睫毛に縁取られた煌めく目を見開いて、数回瞬かせている。
「え、破棄? 私が縁談を?」
「え?」
なぜ彼が不思議そうな表情をしているのか、すぐには理解出来ず、とぼけたような声の返しをしてしまった。
再度、問いかける。
「七条さまはこの縁談を破棄なさるのですよね?」
「ううん、しないよ」
「えっ!?」
いつもの掻き消されそうな声をしている小夜から考えられないような大きな声量。
驚くのも無理はない。
挨拶を済ませたら帰るものだとばかり思っていたから。
「えっと、それはつまり──」
「君に僕の婚約者になってほしいということだよ」
「……」
あまりの展開の早さに思考が停止する。
この世で一番の高貴な存在と言っても過言ではない天狐の当主が、落ちこぼれ狐を見初めているのだ。
にっこりと笑いながら否定をした時雨の答えに、まるで時が止まってしまったかのような空気が辺りを包む。
しばらくの沈黙のあと、それを破ったのは父だった。
「またまた七条さまは御冗談がお上手で」
眉を八の字に下げ、ははっと笑いながら時雨を見やる姿は彼のご機嫌を伺っているようにも見えた。
(お、お父さま)
もう忘れてしまったのか。
黙れと命令を受けたばかりだというのに。
時雨は一度、はあ、と呆れたように息を吐くと小夜に向けていた笑みとは一変、冷酷非情な面持ちで父を見た。
「声を出して良いと、僕がいつ許可した?」
「ひっ……」
怯えた父は、大きな獲物の標的になったかのように弱々しい。
気を抜けば、腰を抜かして座り込んでしまいそうだ。
時雨の元から低い声がさらに低くなり、父を硬直させるのは簡単だった。
一番近くで彼の表情を見ていた小夜は一瞬、違和感を覚える。
(今、目の色が赤くなったような気がしたのだけれど……。気のせいかしら)
見間違いでなければ、時雨が父に怒りを現した瞬間、彼の梔子色の目が、血のように赤く変化した。
どこか、体調でも悪いのかと一抹の不安を感じたが、改めて見ても特に問題はなさそうだ。
しかし、相手は天帝に最も近い存在。
天狐である彼に秘められた力があってもおかしくない。
ただ、落ちこぼれの自分が踏み込んでも良い領域なのか躊躇してしまう。
胸騒ぎがして、じっと下から様子を伺った。
「どうかしたかい?」
小夜の視線に気がついて、時雨は目を細め、とびきり甘く優しげな笑みを浮かべた。
これまで家族と女学院の教師以外の異性とほとんど会話をしたことがない小夜にとって、それはとても刺激的だった。
頬が熱を帯びて、胸が高鳴る。
「えっ……。あの、その。ど、どうしてわたしなんかを婚約者に選ばれたのでしょうか?他に良い条件の女性は大勢いらっしゃるはずです」
今は照れている場合ではないのだと思い出し、必死に言葉を紡ぐ。
正直、わざわざ落ちこぼれを選ぶ理由がわからない。
きっと、いや絶対に彼につり合うのは姉の一華や同級生の舞子だ。
隠しきれない貧相な身体と陰鬱漂う顔のどこに惹かれるところがあったのだろう。
そもそも家柄で選ぶようならば、天狐の娘と政略結婚をするだろうし、空狐の水園家が七条家に多くの利益をもたらすとは考えにくい。
時雨は小夜のたどたどしい問いかけに一つも嫌な顔をせず、最後まで話を聞くと口を開いた。
「確かに過去に見合いに来た女性たちは皆、家柄も教養も申し分なかった。従者にも言われたよ、君との縁談は辞めておけと」
「それでは──」
「でも」
時雨はそこで初めて小夜の話を遮ると、ふわりと彼女の身体を高く持ち上げた。
見上げる位置から急に目線が等しくなり、どくんと心臓が鳴った。
「君は他の令嬢と違った。水園殿との会話を聞いてすぐにわかったよ。一所懸命で純粋な娘なんだって。七条家の地位や財力目当てではなく、きっと私のことを心から愛してくれる。そう思ったんだ」
よほど小夜と出逢えて嬉しいのか、シミ一つない白い肌にほんのりと赤みが差した。
喜ぶその姿は、まるでずっと待ち望んでいた贈り物を手にした子どものよう。
彼の婚約者に、妻になるには華やか見目でも、由緒正しい家柄でもなかった。
必要だったのは、清らかな心。
どうやらそれが判断材料だったらしい。
「小夜。私の婚約者になってくれる? 近い将来は花嫁として君を七条家に迎え入れたい」
(……どうして。わたしだって本当は望んでいたじゃない)
誰かに求められ、愛されることを。
「もしかして嫌、かな?」
俯いて黙り込む小夜を見て、時雨からにこやかな笑みが消える。
眉を下げ、おそるおそる問いかける様子から、動揺していることが覗える。
堂々とした一面から変わって、今の彼はどこか憂いを帯びている。
小夜はすぐに首を横に振って、抱えている胸の内をすべて伝えようと意を決した。
「嫌、なんかじゃないです。でもわたしを婚約者にしても何も七条家や時雨さまのお力になれません。ただの役立たずで邪魔な存在になります」
時雨の正式な婚約者となれば、厳しい花嫁修業が始まる。
普段から家族に無理難題を強いられているので、それにはある程度慣れている。
しかし、無事に結婚を迎えられるかどうかはわからない。
当主である時雨の決定は絶対だ。
それでも、器量がない小夜に与えられる課題を簡単にこなせる自信はなかった。
優しくしてくれた彼の足枷にはなりたくない。
こんな自分の身を案じてくれた、それだけで十分だ。
その思い出さえあれば、きっとつらいことが待ち受けていようとも、生きる力になってくれる。
(だから、わたしはここにいては駄目)
小夜は丁寧に頭を下げて、時雨の腕の中から出ようと身をよじった。
(え……?)
廊下へ降りようとしたが、まったく身体が動かない。
体調が悪いわけではない。
明らかに動ける程度には回復している。
しかし、離れるのを彼は許さなかった。
「僕は君が笑顔で隣にいてくれたら、それだけでいい。真面目な君は、きっと婚約者の務めを果たせるかどうか考えてくれているのだろう?」
「ど、どうしてそれを?」
読心術の力でもあるのだろうか。
図星を言い当てられて、どきりと心臓が鳴った。
彼の目は美しさを兼ね備えていると共に、ひとの心をすべて見透かしてしまうような雰囲気がある。
驚かせられたり、考えを言い当てられたり。
これでは心臓がいくらあっても足りない。
当の本人は、目を丸くしている小夜を微笑ましそうにくすりと笑った。
「やっぱり。僕はね、他者の本質を見抜ける力がある。異能と呼べるほどまでではないけれど、一種の特技かな。まあ、その体質を利用して次々に婚約者候補たちとの見合いを破棄にするから従者を困らせていたのだけれど」
ははっと困ったように笑う時雨はどこかお茶目で幼くも見えた。
噂だけで勝手に怖い男だと思っていたが、父に接する以外は穏やかな一面が垣間見られた。
「……小夜」
自然と聞き入ってしまいそうな不思議な魅力のある声が耳朶を撫でる。
時雨は自らのしなやかでありながら、逞しい腕の中にいる小さな狐に向けて、すっと目を細めた。
「君の想像している通り、僕の婚約者になれば、必然的に花嫁修業に取り組むことになる。天狐の一族に嫁ぐとなれば、なおのこと厳しいものに、ね」
「はい」
視線を逸らすことは許されないような、いや、小夜自身が逸らしたくなかった。
静かに返事をすると、時雨は続けた。
「泣きたくなるような、つらいと感じる日もあるだろう。僕の母上もそうだったと聞くから。──でも」
一旦、言葉を区切ると時雨は小夜の前足をそっと握った。
こわれものに触るような、繊細な手つきに鼓動が早鐘を打つ。
「必ず僕が君を支える。つらいことも悲しいことも気にならないくらい、笑顔に、幸せにさせる」
「……!」
涙で視界がくしゃりと歪む。
世界で一番、不幸だと思っていたのが、一気にひっくり返ったような気がする。
こんなにも誰かに必要とされて、明るい未来を約束されるなんて、世界で一番の幸せ者だ。
「本当に、わたしで良いのですか……?」
最後に一度だけ、震える声で尋ねた。
ぽろぽろと溢れ出す涙を時雨は人差し指でそっと拭いながら、花笑みを浮かべた。
「ああ。君となら良い夫婦になれると思うんだ」
向けてくれる笑顔も、かけてくれる言葉も、陽だまりのようで小夜の氷の心を溶かすには十分すぎるほどだった。
目の前に現れた希望の欠片を手放したくなくて、小夜はしっかりと頷き、嗚咽を必死に抑えると時雨を見つめた。
「──わたしも、良い妻でありたいと思います。七条さま、よろしくお願いいたします」
小夜の導き出した答えに、安堵したように微笑むと雪色の毛並みをゆっくりと一撫でした。
「ありがとう、小夜。こちらこそよろしくね」
改めて挨拶を交わして、和やかな空気が流れる。
「おめでとうございます、時雨さま。そして小夜さま」
そこで、今までふたりの様子を見守っていた、使用人が声をかける。
両手を胸の前で組み、興奮したように頬を染める姿は心の底から祝福しているようだった。
水園家の使用人に温かな対応をされたことがないので一瞬、戸惑ったがすぐに礼の意味を込めて頭を下げる。
「あ、ありがとうございます」
「色々と玲子さんにも迷惑をかけたね」
申し訳なさそうに眉を下げた時雨に対し、玲子と呼ばれた女性は首を横に振った。
「いいえ。一度もそのように感じたことはありませんわ。時雨さまが運命のお相手に出逢えた、それだけで、わたくしは自分のことのように喜ばしいですから」
「そう言ってもらえてよかった。第二の母でもある玲子さんに反対されたら、どうしようって不安だったから。これから小夜を七条家へ迎える準備で忙しくさせると思うけれど、よろしく頼んだよ」
「お任せくださいませ。改めまして小夜さま、わたくし使用人頭を勤めております、玲子と申します」
「水園小夜です……!よろしくお願いいたします」
「勝手に話を進めないでいただきたい」
深々と一礼したとき、今まで蚊帳の外だった父が、不快感が入り混じったような冷え切った声で和やかな会話を遮った。
その鋭いまなざしは小夜だけでなく、時雨にも向けられていた。
それには当然、当の本人も気がついていているようだったが、怯むことなく堂々とした佇まいで構えている。
「七条家の当主であろう方が、まさかそのような落ちこぼれを選ぶとは。天狐の一族が与える課題など、こいつに成せるはずがございません」
「お父さま、わたしは」
父は小夜の心配をしているのではない。
このまま、小夜が時雨の婚約者になれば、縁談の順番待ちをしていた女性は諦めなければならない。
それは姉の一華も同級生の舞子も。
もしかしたら一華に関しては、破棄を言い渡されてすぐに帰宅する予定のふたりが遅いと愚痴をこぼしているのかもしれない。
彼女が結果を知れば、不満をあらわすどころではない。
劣っていると見下してきた妹が七条家の女主人となり、自分より身分が高くなることに怒り狂うだろう。
それを父は阻止しようと思って、愛嬌があって優秀な一華を七条家へ嫁がせたがっている。
落ちこぼれを嫁がせるなんて、どういうつもりなのだと他の狐たちの世間体も気にしているのだと、焦りを見ればわかる。
結局、大切にしているのは彼女なのだ。
「お前は黙ってろ!これは当主同士の話だ!」
小夜は決意を示そうとしたが、彼はそれを拒絶した。
ここが神聖な場所だと自分が言ったのに、声を荒げて、ぴしゃりと言い放つ父は醜く見えてしまった。
血の繋がった親子なのに、そう思ってしまった自分が少し嫌になる。
荒ぶる父とは反対に時雨は静かに耳を傾けていた。
「万が一でも小夜が七条さまの妻になれば、この國の狐たちの未来は危ういでしょうな。どうでしょう、正式に婚約者関係を結ぶ前に長女の一華とお会いしてみませんか。貴女さまの隣に並ぶ者に相応しいと私が保証します」
額に汗をかき、愛想笑いを浮かべている父はまるで取引相手に商談を持ちかけているようだった。
言い方には刺があるが、確かにこの話に関しては小夜が入る隙はない。
時雨が小夜を婚約者にするという判断を覆せば、話は別だが、あの真剣な想いはそんな軽いものではないと伝わった。
ただ行く末を見守ることしかできない。
「……うん。今の提案を聞いて僕の考えが変わったよ。僕自身が甘かった」
「え?」
彼へ抱く信頼の気持ちが揺れ動きそうになる。
まさか。
考えが変わったということは、つまり──。
「で、では一華と見合いをしていただけるのですか!?」
目を丸くさせながら顔を綻ばせる父に、さらに不安が募る。
もしかしたら、と考えてしまって咄嗟に耳を塞ごうと前足を頭へ伸ばした。
時雨はふうっと軽く息を吐き出す。
「水園高志郎。今後一切、小夜と僕の前に姿を見せるな。これは当主命令だ」
「なっ……!それはどういうことですか!」
もう父は相手が天狐だからといって遠慮はしていない。
何がなんでも、己の望みを叶えようと必死だ。
憤慨している父とは反対に、小夜は胸を撫で下ろした。
(わ、わたしの早とちりだったのね)
てっきり、今の話はなかったことにして一華と見合いをするのかと思ってしまった。
耳へと伸ばしかけていた前足をゆっくりと降ろして、ふたりのやり取りを傍観する。
「そのままの意味だよ。接触もそして会合への参加も禁止する。洋行している息子にでも当主の座を譲るか、代理の者に任せればいい。欲望を満たすことしか考えていない君は愚かで滑稽だよ」
薄々、時雨は父をはじめとした水園家の人間が小夜を虐めてきたのだろうと勘づいている。
仮にここで、事実を隠し通しても、七条家の力で調査をすれば、すべて明らかになるだろう。
これまで、彼女にしてきたことは許せないけれど、当主を引退して、もうこちらに関わらなければ、許容するらしい。
普通ならば、没落という判断でもおかしくないのだが、優しく繊細な小夜に免じて寛大な決断を下したのだ。
反論できる余地はない。
論破されて、父は悔しそうに唇を噛んだ。
「いくら七条さまでも、血縁関係のある親子を引き裂くなんて非情ではありませんか? 娘の気持ちを聞かずに、何と勝手な。お前もそう思うだろう? 小夜」
まただ。
父は都合が悪くなると、小夜までも道連れにしようと、彼女に同意を求める。
でも、奴隷のようだった生活が、たった今、新しいものへと変わろうとしている。
言いなりだった弱い自分自身も。
(わたしは、もう貴方たちの操り人形じゃない)
腕から上半身を乗り出し、父と向き合う形になり小夜は決意に満ちたまなざしで見据えた。
それが普段から高飛車な態度をとっている彼にとって気に食わなかったようで、表情をぐしゃりと歪めた。
「な、なんだその目は!それが親に対する態度か!」
きっと、ここに時雨がいなければ絶対にぶたれていた。
でも今は違う。
彼の体温が小夜に確実に勇気を与えてくれていた。
人さし指をこちらに向ける父に臆することなく、静かに続ける。
吐き出したいほど不満はあるけれど、感情的になったら、それこそ彼らと同じだ。
「お父さま、わたしは感謝しています。たとえ世間体があったとしても女学院にまで通わせてくださって。水園家の力でわたしは守られていました」
「……何が言いたい」
「上手に術が行使できなくても、ずっと家族の役に立ちたいと、役目を果たしたいと思っていました。それを忘れた日は一度たりともありません。──でも」
どれだけ頑張ろうとも、誰も認めてはくれなかった。
いつか努力が報われる日がくると信じていた。
薄幸に生まれた自分は忌み嫌われて当然だと何度も言い聞かせて。
しかし、それは間違っていたのだと長い年月をかけて今日、知った。
まだ完全に時雨と愛と信頼感で結ばれたわけではない。
婚約者になったとしても、花嫁にはなれない可能性だってある。
婚約関係を破棄されるかもしれない。
捨てられて居場所をなくすかもしれない。
水園家を出たといって、必ず幸せになれる保証はない。
でも信じてみたかったのだ。
優しい時雨の言葉を。
「わたしの居場所は水園家ではないのだとわかりました。もし、こんなわたしでも必要になさってくださる方がいるのだとしたら、その御方の傍にいたいです」
自然と熱量が前足に力を入れていたのだろう。
その気持ちに答えるように、時雨が抱きしめる腕の力を強めてくれた。
(今度はわたしの番。頑張ろう、救ってくれた七条さまの恩返しができるように)
時雨からの接触禁止命令が言い渡されたので、しばらく、いや残りの人生ずっと父と会うことはないかもしれない。
こんな状況なのに、寂しさを微塵も感じないのはきっと異常だろう。
清々する、とまではいかないけれど、彼らと一緒に暮らしていても地獄のままだ。
両親や姉の一華は小夜をいいように使い、いざとなれば命も奪うに違いない。
「わたしは、これから先の未来を水園家ではなく、七条さまに捧げます」
高志郎は何を戯れ言をとでも言うかのように呆れながら肩を竦める。
「どうせお前なんかすぐに見放される。水園家の血が流れている娘が捨てられたとなれば醜聞になるな」
嘲笑する高志郎は、表向きの表情を作るのをあきらめていて、別人のようだった。
家族が変わってしまったのは、すべて異端である小夜のせい。
小夜が一華と同じくらい妖力があって、普通の娘として生きられていたら、暴力で現実を教えることなんてしなかった。
「小夜。今ここで先ほどの発言を撤回すれば許してやる。そして今後、お前に手は出さないと七条さまの前で誓おう」
一華や華織にも、よく言っといてやると一言付け足す高志郎は、口角を上げてこれでどうだと言わんばかりの満足げだ。
自分たちが小夜にしてきた行いが、どれだけ酷かったか。
彼の発言が嘘かまことかわからないが微塵も反省していないことは確かである。
仮に本当だとしても、水園家へ戻る選択肢などもうない。
もうあの、喉が痞えて痛くて息苦しい空間には少しもいたくない。
心と身体が拒絶している。
時雨の言葉に改めて、醜悪な環境に身を置いていたか気づいたからだろう。
「いいえ。撤回もしないし屋敷にも戻りません。仰ったではありませんか。以前お父さまたちは、お前を生まなければ良かったと。わたしはわたしの人生を歩んでいきます」
「そのようなことを言ったか? ふん、覚えていないな。それにお前をここまで育てたというのに恩を仇で返すつもりか。何と生意気な」
やはり娘はお返しくださいと、腕の中にいる小夜を無理矢理奪おうと手を伸ばされる。
これだけ時雨に叱られているのに、どこまでも懲りず、反省しない男だろう。
守ってくれるひとがいるとはいえ、手を出される瞬間はこわい。
小夜が怯んだ瞬間、時雨は先ほどのように引くのではなく、逆に前へと出た。
「いいかげんにしないか」
時雨は左手で小夜の身体を抱きかかえたまま、右手で高志郎の肩を掴み、壁へと叩き付けた。
「……っ」
低く、鈍い音と共に高志郎の顔が歪められた。
見目は白鳥のように繊細で麗しいのに、力強さから男らしさを感じる。
きっと打撲はしているだろうけど、小夜はそれ以上に数えきれないほどのつらい経験している。
さすがの高志郎も叩き付けられた瞬間は痛さを堪えるように左手で肩を抑えていた。
しかし、すぐに顔を上げるとにやりとほくそ笑んだ。
「……おやおや。七条家の当主ともあろう御方が暴力とは」
「これは正当防衛だよ。あくまで推測だけれど、君は彼女に対して、この比じゃないくらい非道なことをしてきたんじゃない?」
時雨はこの険悪な雰囲気に似合わない、花が咲いたような笑みを浮かべている。
相変わらずの余裕さを感じて、頼もしい。
しかし、高志郎は未だ挑発的な目つきを向けている。
「時雨さま!」
終わりが見えない争いに困惑し始めたとき、ひとりの男性が小走りで廊下の奥からやって来た。
どうやら状況を見かねた玲子がいつの間にか場を離れて、他の屋敷の者を呼んできたようだ。
艶やかな黒髪に、三つ揃いのスーツ姿の男は廊下に広がる光景にぎょっと瞠目させた。
そのような反応をするのも無理はない。
時雨は水園家の当主を壁へ追いつめていて、腕には一匹の狐がいるのだから。
スーツ姿の男に気がつくと、ぱっと顔を明るくさせた。
「ちょうど良かった。律、このひとをつまみ出して」
「はっ!?……この方は水園家の当主ですよね。見合いは、もうよろしいのですか」
「うん。彼女を正式な婚約者にすることに決めたから。ちなみに彼に接触禁止命令を言い渡したから、今後は監視も警備体制も強化しておいてくれる?」
時雨は律と呼ばれた男に紹介するように小夜を見せる。
目があった瞬間、律は顔面蒼白になり、唇を震わせた。
「はっ!? 時雨さま、見合いをするだけだと仰ったではありませんか!」
「そのつもりだったんだけどね、気が変わった」
「ちょっ、ちょっと待ってください。色々と状況が把握できません」
「すまないね。あとできちんと説明するから」
「とりあえず、落ち着きたい。彼女もだいぶ疲れているだろうし。……僕も二回目に達しそうなんだ」
「……!か、かしこまりました。それでは水園さま、こちらへ」
律は背を向き、ちらりと高志郎を見て玄関へ促す。
しかし、まだ見合いの結果に納得いっていないようで、不満をあらわにしている。
「私はまだ──」
「こちらへ。私共も手荒な真似はしたくないのですが、歯向かうようでしたら、容赦はしません」
「……くそっ」
鋭いまなざしに為す術をなくしたのか、悔しそうに拳を太ももへと叩いて、歩み出した。
小夜と時雨の隣を通り過ぎるとき、一度足を止める。
「この恨みは忘れない。覚えておけ、小夜」
憎しみに満ちた表情は、すぐに脳裏へとはりついた。
この選んだ道は間違っていなかったと信じたい。
でも、やはり恐怖というものは綺麗に拭いきれなくて、簡単に心を脅かす。
「水園さま」
律と玲子に催促され、再び足を動かすと高志郎は廊下の奥へと消えていった。
先ほどの喧騒が嘘のように、辺りが静まり返り、胸を撫で下ろした。
それは時雨も同じようで、ふうっと軽く息を吐き出した。
こんな事態を招いてしまったのは、自分のせいだ。
かなりの迷惑をかけてしまったと小夜は罪悪感に耐えきれなかった。
腕の中で深々と頭を下げる。
「七条さま、父が無礼な態度をとってしまい、まことに申し訳ありません。それもすべて、わたしのせいです。何と詫びたら良いか……」
苦しくて、痛くて、胸が張り裂けそうだった。
もっと高志郎の逆鱗に触れずに済む方法があったかもしれない。
優しい時雨まで不快な思いをさせて、とても彼を見られそうになかった。
じっと動かずにいると、ふわりと頭が撫でられる感触がした。
その手つきは柔くて、そして温かい。
まるで大丈夫だと慰めてくれているようだった。
「君が謝ることなんて何もないよ。僕の方こそ見苦しいところを見せてしまったね。怖い思いをさせただろう」
思いもしなかった時雨の謝罪に、顔を上げて首を横に振った。
「いえ!そんなことないです。わたしなんかを守ってくださって、とても嬉しかったです」
「自分のことを蔑まない方がいいよ。君は純粋で優しい、素敵な女性なんだから」
梔子色の目を細めて、こちらに向ける花笑みに心臓がどく、どく、と強くなっているのがわかる。
「あ、ありがとうございます……」
そこに偽りなどなかった。
こんなにまっすぐに褒められたのは初めてで、頬に熱が帯びる。
照れて恥ずかしさを隠すように俯く、小夜を時雨は微笑ましそうに見ていた。