「時雨さま。少々よろしいでしょうか」    

 「うん。どうぞ」

 ひとりの男が襖の外から声をかけ、中にいた相手からの返事を確認すると、ゆっくりと開けた。

 「……また婚約者候補についての書類を持ってきたのかい?」

 時雨と呼ばれた男──七条時雨は部屋に入ってきた従者、六木律と彼が手にしている書類の束を交互に見つめ、訝しげに目を細めた。

 「また、とは何です。せっかく用意した縁談を次々と破棄にしているのは、紛れもなく時雨さま、貴方ですよ?」

 律は淡々と答えながら、不服そうな表情の時雨に書類を手渡す。

 それを受け取ると、仕方なさそうに目を通し、適当にめくっていく。

 きちんと火熨斗(アイロン)の当てられた三つ揃いのスーツに身を包んでいる律は時雨からふたり分ほどの距離をとって座った。

 一通り見終え、嘆息をする。

 そして文机にバサリと書類の束を置くと、頬杖をついた。

 「僕はしばらく結婚などしないと言っているだろう」

 「時雨さま、ご自身が現在おいくつかお解りになられていますか?」

 「馬鹿にしないで。僕は二十五歳だよ」

 「先代が二十五歳の頃にはすでに奥さまは身籠もっておられましたよ」

 「父上と母上は仲の良い幼なじみだったんだ。事が進むのが早くて当然だよ」

 「ですが、そろそろ時雨さまも結婚をして子を成しませんと。のんびりし過ぎはいけません。七条家の当主として自覚を──」

 「はい、はい。分かったよ。婚約者候補に会えば良いんだろう?」

 「投げやりになっていませんか?」

 「なってない」

 即答すると再度、書類の束を手にする。

 律は時雨が縁談の話に耳を傾けてくれそうな雰囲気に安堵する。

 「次はどこの一族の令嬢?」

 やや気怠げだが、完全に関心をもたないよりはマシだ。

 今は彼の態度については目を瞑る。

 「五(ページ)に載っています、空狐の一族の水園一華嬢はいかがでしょうか」

 「水園家、ねぇ」

 「天狐の令嬢たちに問題はなかったのですが、すべて時雨さまが断ってしまったので、空狐から選出しました」

 「あの娘たちの欠点が分からないなんて律はまだまだだね」

 「え?事前にこちらで調査しましたが、申し分ない令嬢ばかりだったはず……」

 「そうだね、表面は」

 「表面、ですか?」

 ああ、と言うと目を伏せながら余裕のある笑みを浮かべた。

 「美しく輝く表面だけ見ても駄目だよ。そのさらに奥まで見ないと」

 「……肝に銘じておきます」

 きっと時雨の言葉の真意を理解したわけではない。

 しかし、生真面目な性格の彼らしい返事に、これ以上、諭すのはやめた。

 何気なく、六頁目をめくると再び、水園という苗字が目に入ってきた。

 婚約者候補関連の書類で同じ苗字が続いていることは過去になかったので、見間違いかと五頁と比べてみる。

 「あれ、六頁目に載っている娘って水園一華の妹?」

 「はい、妹です。……ですが時雨さま。彼女だけは遠慮なされた方がよろしいかと」

 「どうしてだい?」

 律は時雨の問いかけに視線を逸らして逡巡した後、言葉を選ぶようにして答えた。

 「水園小夜は生まれつき、妖力をほとんど有しておりません。すぐに術が解けてしまう、落ちこぼれであると有名です。一応、形式として書類を準備しましたが……。そのような娘と時雨さまがつり合うわけがございません」

 「やけに断定的だね。能力がすべてではないと思うけれど」

 「私の親戚が彼女と同じ鈴風女学院に通っていますが、あろうことか毎日のように狐の姿に戻っていると聞きました。時雨さまもご存知でしょう。我々、狐は人間に化けられてこそ一人前。空狐でありながら、その様では花嫁として認められません」

 律は昔から真面目で、あまり融通の利く性格ではないが、ここまで意見するのは珍しい。

 嘘やいい加減を良しとしない彼が言っているのだ、確かな情報なのだろう。

 時雨は黙りながら、じっと小夜について書かれている書類を見つめる。

 そこには、他の令嬢と比べると圧倒的に情報が少ない。

 名前、年齢、住所、在籍している学校名、そして妖力が僅かであるということのみ。

 特筆すべき点がないことに何故か興味を惹かれた。

 (この娘に会ったら何が変わるだろうか)

 先ほど「結婚はしばらくしない」と言ったが、本心は違う。

 七条家に足を運ぶ令嬢は皆、偽りの仮面を被っている。

 部屋に来た律を見て、きっと、また破棄になる縁談をよこしてきたのだと嫌気が差したのだ。

 時雨はずっと待ち望んでいた。

 容姿も財力も地位も目的ではない、心か自分を愛して安らぎとなってくれる花嫁を。

 「では、次の縁談の相手は水園一華嬢でよろしいですか?」

 まるで決定事項のように同意を求める律に首を横に振った。

 「いや、妹の方だ」

 「え?」

 「水園家の次女──水園小夜を呼んでくれ」

 「時雨さま、御冗談はやめてください」

 「冗談なんかじゃない。僕は本気だよ」

 時雨の態度はどこまでも真摯で、その瞳から偽りは感じられなかった。

 あらゆる決定権を握っている彼の判断が過去に間違っていたことはない。

 それでも、無能に近い娘を天狐の妻にさせるなど、あってはならないと本能が律に告げていた。

 「悪いことは言いません。彼女だけは、やめてください」

 普段から柔らかいとは言い難い律の口調は、このときはさらに頑として、ひどく堅かった。

 「やめないよ。もちろん、会ってみて違うと思えば縁談は白紙に戻す。見合いくらい良いだろう?」

 「ですが、もしも──」

 時雨が彼女を正式な婚約者に選んでしまったら。

 その不安が過り、律はすぐには頷くことは出来ない。

 天狐の当主の一言が、判断が、この國の未来を左右するといっても過言ではない。

 「心配はありがたく受け取っておく。それでも、どうか私の願いも聞いてはくれないだろうか」

 「……やはり賛成出来ません。大切な主だから、私もここまで言うのです。考え直してくださいませ」

 「私もこの七条家に生まれたときから、この國を安寧へと導く責務を背負っている。それは何があろうとも死を迎えるまで貫き通す。その人生を共に歩む大切な花嫁は自分で決めたい」

 「それなら、尚更。落ちこぼれと縁談する時間など無駄です。結婚相手にふさわしい好条件は一華嬢の方です。彼女と会ってください」

 「そこまで言うなら君が結婚したらいい」

 「そういう話ではなくて──」

 「律、私も君に怒りたくはないんだよ」

 「……っ」

 時雨は普段、しっかりとしつつも、どこかのんびりとしている一面があって、めったに怒らない。

 しかし、一瞬だけいつもの穏やかで温かさに満ちた瞳の色が、鬼気迫るような赤色へと変わった。

 「これが一回目だ。これでも抑えているつもりだったのだけれど……。いやはや私もまだまだ未熟だ」

 はっ、はっと笑うが、その声も乾いている。

 目もどこか憂いを帯びていて、その様子に律は口を噤んだ。

 先ほどまで白熱していた言い合いも一気に萎み、部屋はしんと静まり返る。

 少しの沈黙の後、先に口を開いたのは律だった。

 「……かしこまりました。水園小夜との縁談を進めます」

 仕方ないとでもいうような口調だが、それを気にしないほど嬉しかったのか、時雨の表情に笑みが戻る。

 「ありがとう。よろしく頼んだよ」

 「はい」

 「ああ、それと」

 失礼致しますと言い、お辞儀をして、部屋を出て行こうとする律を時雨は引き止める。

 「念のため、今日一日は私の部屋には誰も近づけさせないで」

 「しかし、お食事などは……」

 「一日くらい大丈夫。天狐はやわじゃないって同じ一族の律も十分知っているだろう。それに三回目を迎えたら、もっと大変だから」

 「承知しました。ですが決してご無理はなさらないでください」

 「うん。分かったよ」

 律はもう一度、丁寧に腰を曲げると今度こそ部屋を出て行った。

 襖がぱたりと閉まると、時雨はふっと息を吐き出す。

 そして、手にしている書類に印字されている、次の婚約者候補の名前を見つめた。

 (水園小夜……一体どんな娘だろう。私の秘密を知ったら逃げ出すだろうか。それとも……)

 心に募るのは好奇心と微かな恐怖心。

 まだ見ぬ娘に思いを馳せながら、そっと目を閉じるのだった。

          ◆

 女学院での騒ぎから数日後。

 小春日和の休日、朝食を済ませた小夜は、中庭の掃き掃除をしていた。

 (今日は残り物があって良かったわ。昨夜は何も食べられなかったから)

 めったに食事が残ることはないが、先日、新しく料理人に雇われたひとりが誤って作りすぎたらしい。

 ひとり分もなかったが、白米とほうれん草の胡麻和えを口にすることが出来た。

 起床してから、抜けない疲労と空腹で、ふらついていたので、多少でも力になる。

 そのまま部屋で休めば、さらに体力も回復したはずだが、家族はそれを良しとしない。

 居間で使用済みの食器を片づけていると、母から中庭の掃除を命じられたのだ。

 朝から働くことは日常茶飯事なので、別に嫌だとか逃げたいとか思わない。

 仮に反抗心が生まれても、もちろん拒否権などないので、命じられたことを粛々とこなすだけだ。

 季節は春といっても、雲一つない青空から降り注ぐ陽射しは容赦なく小夜の体力を奪っていく。

 額に浮かんだ汗をお仕着せ服の袖で拭いながら、顔を上げて澄み渡る空を憎らしげに見つめる。

 ふと、ひらりと数枚の桜の花びらが舞って、地面に落ちた。

 爽やかな風のせいで、見頃の満開の桜の木から一枚、また一枚と花びらが離れていく。

 掃除しきれていない箇所はそれらが重なっていて、ふわりと山になっている。

 (いけない。手を動かさないと)

 今日は買い物好きな母も姉も珍しく屋敷にいるのだ。

 ぼうっとしていたら叱られるし、中庭の掃除が済んでも、きっとまた他の仕事を与えるはずである。

 隅から掃いて、花びらや諸々の落葉を中心に集めていく。

 「小夜さま」

 集めたものを風で吹き飛ばされないうちに、ちり取りで回収しようとした矢先、声がかかる。

 顔を上げて視線を向けると声の主は使用人頭の秋江だった。

 彼女は中庭に面した廊下に凛とした佇まいで立っている。

 一切、ほつれのないお仕着せ服にきっちりとまとめた白髪の髪、感情が読めないような目。

 小夜は昔から秋江が苦手だ。

 虐げられているわけではないけれど、母や姉とはまた違った怖さを感じるから。

 冷たく厳しい眼差しはいつまで経っても慣れることなく、自然と背筋が伸びる。

 「は、はい。何でしょう」

 震え、上擦る声で、小夜はやっとそれだけ呟く。

 秋江は一切、表情を変えずに、薄い唇を開いた。

 「旦那さまがお呼びです。今すぐ居間へ来るようにと」

 「お父さまが……?」

 もしかして、先日の騒ぎが教師の耳に届いて、女学院から連絡が来たのだろうか。

 父がこうして使用人を通じて呼び出すことは稀にあった。

 そんなときは決まって叱られているので、今回もおそらく同じはずである。

 様々な憶測が過り、恐怖と緊張で胸がどきりと鳴った。

 「奥さまと一華さまもお待ちです。急いでください」

 「え……」

 何故、ふたりもいるのだろう。

 叱られるのであれば、本人だけで十分なはずだ。

 偶然、近くにいたり、通りがかったりすれば嘲笑われることはあっても、わざわざ待ち構えていることは一度もない。

 考えを巡らせて理由を探るが、納得する答えまで辿り着かない。

 「小夜さま」

 青白い顔で立ち尽くす小夜に秋江は苛立ちを募らせたように、声を張って屋敷の中へ来るように促す。

 「あ、はい……!今行きます」

 我に返った小夜は、手にしていた箒を外壁に立て掛け、ちり取りをその場に置くと、下足を脱いで廊下へと上がる。

 こちらを待たずに、先を行く秋江を急いで追う。

 小夜は彼女に続いて板張りの廊下を足早に歩く。

 居間の前に着くと、秋江は他の使用人に呼ばれ、何も言わずに去って行った。

 返事は期待していなかったが、ありがとうございます、とだけ去りゆく背中に伝える。

 聞こえるように、はっきりと言ったが、当然のごとく、無視をされる。

 秋江も父に命じられて、仕方なく小夜を呼びに来たのだろうと大体は予想がつく。

 無視をされることなど、日常茶飯事なので特につらくはない。

 慣れてしまっているのが異常なのだけれど。

 秋江が廊下の角を曲がって姿が消えたのを確認すると、襖へと向き直る。

 「お父さま、小夜です」

 「入れ」

 「……失礼いたします」

 襖を開けると両親、姉の鋭い視線が一斉に突き刺さる。

 「ひとをこれだけ待たせておいて、貴方はいつから、そんなに偉くなったの?」

 「せっかくの休日なんだから。早くそのとろい性格を直しなさいよ」

 「申し訳ありません」

 一瞬でも呼び出しの理由など考えず、すぐさま駆けつければ、彼らを待たせなかった?

 いや、秋江からの言伝を聞いて、走って向かったとしても、おそらく今のような態度だろう。

 「小夜、そこに座れ」

 「はい」

 父は座卓の前ではなく、襖のすぐ近く、隅に座るよう、視線だけで指示した。

 そこは、普段、使用人が座る位置。

 元々、座布団も小夜の分を抜いた、三枚しか置いていなかったので、ある程度は予想していた。

 私たちとお前は違うんだ。

 家族の輪から外されている、娘として認められていない、そんな疎外感をひしひしと感じながらも従順な返事をする。

 小夜が座ると、一華が痺れを切らしたように口を開いた。

 「お父さま、大事な話ってなんですの?」

 (大事な話?わたしのことを叱るんじゃないの?)

 てっきり、叱責されるのだと思っていた小夜は、呆気にとられる。

 とはいえ、まだ油断は出来ないが。

 でも確かに、わざわざ姉や母を呼んでまで小夜に時間を割かないだろう。

 (……お父さま?)

 小夜はふと違和感を覚える。

 普段から威厳を放つ父が、一華の問いかけにすぐには答えず、困惑したように眉を下げ、顎に片手を添えているのだ。

 こんな姿を見せるのは珍しい、いや初めてかもしれない。

 普段は三人の笑い声で賑やかな居間も、沈黙と不穏な空気が流れている。

 「貴方?」

 呼びかける母の声もどこか不安げである。

 そこでようやく、逡巡するように目を閉じていた父は、開くと一華と母を見つめながら話し始めた。

 「……ああ。実は七条家からうちに縁談の申し入れがあった」

 「まあ!わたくしに縁談が?夢みたい!」

 「おめでとう、一華!娘が天狐さまの花嫁になるなんて、わたくし鼻が高いわ」

 覚悟はしていた。

 七条家から一華宛に話が舞い込むのは時間の問題だと。

 けれど、これほど急とは思わず、心臓がずきりと鳴った。

 元々、この家に居場所などなかったけれど、一華が嫁いだとしたら。

 小夜を妹として認識していない兄が当主の座を引き継いだら。

 この状況になってわかる。

 水園家の名前のおかげでいかに自分が守られてきたか。

 (わたしは、どうしたらいいの)

 目の前が真っ暗で到底、先のことを考える余裕すらない。

 膝の上に置いている手のひらをぎゅっと固く握る。

 視線の先には、幸せと喜びを噛みしめているひとたちがいるというのに、部屋の隅で小さくなっている自分は惨めにも思えた。

 祝福しようにも、彼女らはきっと望んではいないだろうし、おめでとう、とたった一言を言う勇気すらない。

 父からの報告に、一華は頬を赤く染め、満面の笑みを浮かべながら、母と抱き合っている。

 時雨との縁談を喜ばないはずがない。

 きっと、いや絶対に一華は本当の自分を隠して、立派な淑女を演じるだろう。

 時雨は舞台役者も真っ青な美男子だという噂を耳にする。

 すべてがうまくいけば、手に入る。

 美貌を兼ね備えた麗しい旦那さまも、狐たちの頂点に立つ地位も余るほどの財の山も。

 それをみすみす逃すわけがない。

 そう思っていた。

 次の言葉を聞くまでは。

 「一華ではない」

 父の一言に冷めやらぬ興奮に包まれていた居間は一気に凪いだ。

 一華と母は甲高い話し声を徐々に萎める。

 「貴方。今、何とおっしゃいました?」

 母が上座へ座る父へとおそるおそるといった様子で視線を向ける。

 もしかしたら聞き間違いかもしれない、そう願っているようにも見えた。

 ただ、どう見ても先ほどから父の表情は苦虫をかみつぶしたように見えて、一華を祝っているようには思えない。

 「時雨さまの縁談の相手は──小夜、お前だ」

 「……え」

 唖然としたままの驚愕したふたりの双眸が小夜へと向けられる。

 どういうことなのか、いったい何が起きているのか。

 これだけの情報では理解に苦しむ。

 「お父さま、何かの間違いでは……!?」

 「なぜ一華ではなく、小夜なのです!」

 座卓に両手をついて身を乗り出しながら、声を荒げるふたり。

 「私も七条家に長女の一華の間違いではないかと何度も尋ねた。しかし七条さまが小夜を望んでいると……」

 (望んでいる? わたしを?)

 誰かに必要とされるような価値などない。

 落ちこぼれだということは、天下の七条家も周知のはず。

 彼らの貴重な時間を割いてまで、縁談を行う意味は何なのだろう。

 小夜は驚きと困惑で何度も目を瞬かせた。

 「どうして会ったこともない娘を七条さまは求めるの!?」

 唇をわななかせ、一華は必死の形相で小夜を睨んでくる。

 結婚相手に好条件である男性との縁談をすべて断り、一途に待ち続けていた彼女の想いを一瞬で砕けさせてしまった。

 「私にもそこまでの理由はわからん。ただ、落ちこぼれ宛とはいえ、七条家からの縁談を断るわけにはいかん」

 「でも……!」

 「安心しなさい、一華。七条さまもこいつと会えば一目でわかる。花嫁にふさわしくないと」

 父は低く、渋い声で激怒する一華を宥めつつ、一方で動揺する小夜を一瞥した。

 それに、はっと微かに息を吐き出すと、何かを考えこむようにして、目を閉じる。

 数秒後、開いた目からは、怒りや嫉妬といった感情は読み取れない。

 冷静さを取り戻したのがわかった。

 「……そ、そうよね。落ちこぼれなんか選ばれるはずがないもの」

 ゆっくりと深呼吸をすると、完全に落ち着きを取り戻して、座り直る。

 母はそんな彼女の肩に手を置くと、優しく励ますように声をかけた。

 「きっと、その次は一華よ。大丈夫、すぐに貴方宛に話がくるわ」

 「ええ、お母さま」

 「小夜」

 「縁談は二日後だ。必ず赴くこと、いいな?まあ、お前には拒否権など、最初から無いのだから聞くまででもないが」

 「は、はい」

 「破談前提とはいえ、七条さまとお会いするのだ。水園家の顔に泥を塗るような真似は絶対にするなよ」

 顔に泥を塗るような真似──つまり、術が解けること。

 父が念を押すのも無理はない。

 何せ、ここ最近は毎日のように人間の姿から、狐へと戻ってしまっているから。

 ただ破談になるだけならまだ良い。

 もし、時雨の前でへまをすれば、水園家の評判もガタ落ちだ。

 天狐の前で狐になるなんて前代未聞。

 それだけは何とかして避けなければ。

 「お前は器量もないのだし、相手が七条家でなければ、こちら側から断っていた。見合いだけでもできることに感謝しろ。いいか、くれぐれも無礼な振る舞いはするなよ」

 「かしこまりました」

 畳の上に両手をつき、頭を下げる。

 きっと、数分だけだ。

 孤高の天狐である縁談の相手と会う想像をするだけで酷く震えるけれど挨拶だけ、済ませればすべてが終わる。

 そう呑気に考えることが今の小夜の限界だった。

 破談になったそれから先のことはわからない。

 幸せな未来が訪れることはないと確定して、ただ愕然とするしかできなかった。

 「話は以上だ。お前は仕事に戻れ」

 「はい」

 あまり頭が働かない中、返事をして立ち上がると、居間から出た。

 早く掃除を再開しなければならないのに、足に鉛を付けたかのような感覚に陥り、前へと進めない。

 (まさか、わたしに縁談がくるなんて)

 あの水園家の令嬢ということで一華には、以前からいくつもの縁談が舞い込んでいた。

 しかし、落ちこぼれで名前を知られていた小夜に、結婚の話などきたこともない。

 人生で初めての縁談が七条時雨である。

 彼の役職は知っているが、どのような性格の男までは、ほとんど知らない。

 数多くの縁談を破談にしているというぐらいしか。

 (そんなに冷酷無慈悲な方なのかしら。お父さまは七条さまに会ってもわたしには何も話してくれないから、わからないわ)

 小夜の父で、空狐の一族の長である水園家の当主、高志郎。

 彼は定期的に開かれている狐たちの会合に参加している。

 そこには、もちろん天狐の一族の長、七条時雨も参加していて、父とは面識があった。

 いつも父が会合から帰宅すると、一華は、時雨の話を聞きたいと強請る。

 一華に甘い父は仕方ないと言いながら、彼女と母には様子を話していた。

 家族との団欒にさえ、加わることを許されていない小夜は、和やかな光景を横目に仕事をするのが常である。

 (噂程度くらいしか知らないけど、類い稀なる美貌の持ち主なのよね)

 舞台役者も真っ青の美貌ということもあって、一華と同様、時雨との縁談を望んでいる令嬢も多いと聞く。

 そこで、ふと女学院、令嬢という単語で、ある不安が押し寄せる。

 見合いの前に懸念すべき点が一つあった。

 (寺石さまたちは、どう思われるのかしら)

 頭に思い浮かんだのは、日頃から小夜を嘲笑う同級生らの顔。

 たださえ、色恋沙汰は瞬く間に女学院内に広がるというのに、落ちこぼれだと馬鹿にしていた娘が七条家の当主と縁談すると知ったら、どのような反応をするのだろう。

 一華だって、両親の宥めがあってようやく落ち着いたというのに、最低でも同じくらいは嫉妬するはず。

 縁談まではあと二日。

 今日は女学院側の都合で休校だったが、明日からは通常授業だ。

 宥める者が不在での登校は考えるだけでも恐ろしい。

 (でも、わたしもどうにもできないの)

 これは、父のいや、七条家からの申し出だ。

 小夜の気持ちなど関係ない。

 ただ頷いて、命令に従うだけ。

 時雨を想う令嬢たちを差し置いて、こんな考えのまま七条家へ赴くのは心苦しい。

 どれだけ、嫌味を言われようとも、嫌がらせを受けようとも、判断を覆すことはない。

 (覚悟して数日は過ごさないと。破談になれば多少は平気になるはずよ)

 手のひらをぎゅっと握り、廊下の角を曲がろうとしたとき、母の高い話し声が聞こえた。

 「ねえ、一華。頂き物の和菓子があるの。帝都にある老舗の朝霧屋の塩大福よ」

 「あの朝霧屋……!?女学院で、どの和菓子も美味しいって話題になっていたから、一度食べてみたいと思っていたの!」

 「では、使用人に茶を用意させよう」

 父が居間から出てくる気配を感じて、慌てて廊下の角に隠れる。

 隠れる必要などないのに、身体が勝手に動いてしまう。

 「おい。三人分の茶を用意しろ」
                         
 「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」
                        
 どうやら、居間を出てすぐの場所に使用人が歩いていたようで、声をかけると、父は再び妻と娘の元へ戻っていく。
                          
 (どうして、わたしは)
                        
 父から逃れ、胸を撫で下ろす自分に違和感を感じる。
                         
 家族から見放され、こちらからも距離をとっている娘が本当に水園家の名を名乗って良いのだろうか。
                        
 そう疑念を抱いても、何も変えられないし変わらない。
                         
 立ち止まって考えていると、カタカタと窓に風が吹きつける音で我に返る。
                                                  
 (いけない。早く掃除の続きをしないと)
                                                                                                    
 風が強くなっては寄せ集めた落葉も舞って、綺麗にした中庭が台無しだ。
                                                                                                    
 小夜は頭の中の靄を無理矢理、消すように両手で頬を軽く叩いた。
                                                                                                    
 中庭へ歩き出す足は相変わらず重かった。
                                                                                                                                                                                                        
 けれど仕事を放棄するわけにはいかないと、小夜は懸命に動かしたのだった。