大小、様々な大きさの穴が空いた障子から差し込む光を薄らと感じて、ゆっくりと瞼を開ける。

 中綿が減った布団は、軽く、そして薄い。

 掛けても掛けなくても同じようなものだ。

 本来ならば、起床には、かなり早い時刻。

 眠気と倦怠感を感じながらも、奮い立たせて上体を起こす。

 (早く起きないとお母さまに怒られるわ)

 水園家は使用人が朝食を準備してくれるが、母の命令で小夜も調理場に立たなくてはいけない。

 しかも、使用人たちが来る前に、ある程度、仕込みなど調理の準備をしなくてはならないので、まだ空は若干暗い。

 その決まりを破ってしまえば、罰が与えられるので、時間に遅れるわけにはいかないのだ。                        
                                
 夜遅くまで、変化の練習をしていたので、すこぶる体調が悪く、足元がおぼつかない。       
                          
 小夜のように名家生まれで妖力が少ないのは稀有だ。                        
                         
 (どうにかして妖力を高める方法を見つけないと)                         
                         
 女学院の図書室で様々な本を見ては試しているが、上手くいかない。
                         
 妖力が高い者でも、さらなる力を求めて、あらゆる手段を選んでいるらしい。           
                       
 (一番、有効的なのは妖力が高い狐の血を分け与えてもらうことらしいけれど、わたしは無理ね)
                        
 空狐の一族の長である水園家は定期的に会合に参加しているので、天狐たちとも繋がりはある。
                         
 もし、一華がもっと妖力が欲しいとねだれば、父は天狐へ願いを乞うかもしれない。
                         
 (お父さまたちがわたしに血を分けてくれるはずがないし、何か別の方法を探らないと)
                         
 何度目か分からないため息をついて、押し入れへ布団をしまうと、箪笥から着替えを取り出す。
                        
 お仕着せ服で作業をした方が汚れる心配がないのだが、今のうちに着替えておかないと登校に間に合わなくなってしまう。
                         
 片付けもやりなさいと母から言いつけられているので仕方ない。

 わざと遅刻寸前にさせるように仕組んでいることを小夜は知っていた。

 そうならないよう、てきぱきと手を動かし、身支度を始める。

 家の裏の流しで顔を洗い、薄く化粧を施す。

 菖蒲柄の単衣に学校指定な行燈袴を身に纏う。

 そして髪をまとめ、控えめな飾りが付いた留め具を付ければ完成だ。

 教科書と雑記帳、筆記用具を鞄に入れて文机に置くと割烹着を持って台所へ向かった。

 (良かった、何とか間に合いそう)

 学院から少し離れた場所で自動車を降り、小夜は歩き出す。

 周囲には、小夜と同じく歩いて登校したり、自転車を走らせたりする女学生が多くいた。

 その光景を見て、自分は遅刻をしていないのだと理解して胸を撫で下ろす。

 遅刻や欠席などしてしまえば、さらに評価が下がってしまう。

 たださえ、同級生や教師からも、良くは思われていないのだから。

 すると、小夜の後ろから横を小走りで追い越していく生徒がいた。

 前方に歩いていた一人の浅緑色の単衣を纏った女学生の元へ一直線に駆けていく。

 「ごきげんよう、瑠璃子さん」

 「あら、ごきげんよう。梢さん」

 あのふたりは確か隣の学級の生徒だ。

 時折、休み時間に小夜の学級へ来ては友人と会話に興じているのを見たことがある。

 梢さんと呼ばれた生徒が足を止めた瑠璃子の隣へ並ぶと早速仲睦まじそうに話し始める。

 「ねえ、瑠璃子さん。その単衣は新しく買ったの? 初めて見るわ。とても素敵ね」

 確かに浅緑色の単衣は爽やかで可愛らしく、近くを歩いている女学生たちも気になるのか、ちらりと視線を向けている。

 「ありがとう。定期試験で良い成績を修めたら買ってもらう、それがお父さまとの約束だったから」

 「羨ましいわ。わたしも今度、お願いしてみようかしら」

 きらきらと輝く眼差しに見つめられ、瑠璃子は照れたように頬をほんのりと染めた。

 そして二人は、ふふっと何やら楽しそうに会話をしながら、後方を足取り重く歩く小夜を置いて先へ行った。

 (今までで、お父さまから貰った物といえば、この単衣だけ)

 ふと視線を横に動かすと、近くの建物の硝子に自分の姿が映った。

 この単衣は父からの贈り物。

 落ちこぼれでも、身なりだけは水園家の名前に恥じないようにと、昔から贔屓にしている呉服屋に仕立ててもらったのだ。

 今も覚えている、父が珍しく自分の書斎に呼び出した日のことを。

「お前に、上等な単衣を贈るなんて金の無駄だ」と言って顔をしかめながら、しぶしぶといった様子で箱に入った単衣を小夜に渡したのだ。

 まだ女学院に入学する前の遠き記憶。

 その時はすでに、家族から落ちこぼれ扱いを受けていたが、それでも小夜は純粋に嬉しかった。

 蔑まれても見向きもされなくても、少しでも自分のことを考えてくれたのだと。

 正直、兄姉や母は小夜の物よりもさらに最上級な着物などを貰っている。

 安くてもいい、もう何も買ってもらわなくてもいい、そう思うほど幼いながらに舞い上がっていたのかもしれない。

 小走りで自室に戻り、箱を開けて目に飛び込んできた菖蒲柄の単衣。

 可愛らしく、気品溢れる美しさに魅了され、何度も鏡で確認をした。

 これから先、もっと酷い仕打ちをされることも知らずに。

 (結局、入学しても緊張したり怖い思いをすると変化が頻繁に解けて皆から笑われたわ)

 落ちこぼれ扱いは家だけでなく、女学院でも。

 妖力も少ない上、暗い性格はマドンナの姉とよく比較されている。

 周囲から浴びる冷ややかな視線と口元を抑えながら嘲笑う同級生。

 授業中はまだ良い。

 皆の意識は教師や黒板に向いているから。

 休み時間など、小夜にとって憩いの時間ではない。

 お弁当が準備出来た日は屋上の隅で食べている。

 元々、賑やかな場所は苦手なので、ひとりの方が気が楽なのも事実だ。

 落ちこぼれから脱却出来ると思って志し高く門をくぐった鈴風女学院も今となっては苦痛である。

 (今日は実技の授業もあるし、憂鬱だわ。遅くまで練習したけれど、あまり上手く出来なかったし)

 ぼんやりと見つめていた鏡から踵を返し、女学院まで歩を進めていく。

 「小夜ちゃん、おはよう」

 背後から快活な声で名前を呼ばれて、足を止めて振り返る。

 そこには、路肩に停車した自動車から降りてきた、ひとりの女学生、緒方凛がいた。

 肩まで伸びた琥珀色の髪と珊瑚色の単衣姿は華やかで人々の注目を集める。

 そんな彼女は片手を挙げて、何度も振りながらこちらへ小走りでやって来る。

 落ちこぼれに自ら声をかける者などいないので、彼女の通る声に気づいて、登校していた女学生たちが、ぎょっとした瞳で凛を見ている。

 「緒方さん……。おはようございます」

 「もう。同学年なんだから、そんなにかしこまらないでって言っているじゃない」

 眉を八の字にして苦笑する凛に小夜は出来る限り口角を上げようと励んだ。

 彼女は隣の学級の生徒で、入学式の日に校舎内で迷子になっていた小夜を助けてくれたのだ。

 周囲と馴染めず、何かとひとりでいるのを気にかけてくれている心優しい生徒。

 「ですが、父から礼儀作法は忘れないよう、きつく言われていますので……」

 「小夜ちゃんは本当に真面目ね」

 違う。

 凛との間に線を引いている一番の理由は、関係のない彼女を傷つけないようにするため。

 ただでさえ、挨拶をして軽く会話をするだけでも、「落ちこぼれの友人」と凛も悪く言われるのだ。

 一線を引くのは心苦しいが、これ以上彼女への風評被害も避けたい。

 「もしかして、話しかけるのって迷惑?」

 「い、いえ……!迷惑なんかじゃないです。いつも緒方さんに優しくしていただけで嬉しいです」

 「それなら良かった。私が話しかけると、肩をびくって震わせるから怖がらせてるのかなって」

 「違います。ただ、少し驚いただけで」

 「あら、そうなの?もっと早く気がつけば良かった。ごめんなさい」

 凛は口元に片手を添えて申し訳なさそうに眉を八の字にさせた。

 普段から明るい彼女の謝罪に小夜は慌てて首を横に振った。

 「そんな、謝らないでください。わたしが臆病すぎるんです」

 「でも、よく私、声が大きいって言われるの。今度から気をつけるわ」

 「緒方さんは、何も悪くないです。無理に治さなくてもいいと、わたしは思います」

 凛の眩しい太陽のような笑顔と声は彼女の宝物。

 それが人を傷つけているわけではないのに、無くしたり、変えたりするのは間違いだ。

 その想いを込めて、訴えかけるように、真っ直ぐに見つめた。

 小夜の真剣な眼差しに凛は僅かに目を見開いたあと、細めて微笑んだ。

 「小夜ちゃん……。ありがとう、実はずっと悩んでいたことだったの。背中を押してもらったようで気持ちが晴れたわ」

 「わたしなんかがお力になれるなんて、嬉しいです」

 今出来る精一杯の笑顔をはりつけて、言葉を返す。

 (……ああ。わたしにもっと妖力があれば、落ちこぼれではなければ、緒方さんともっと仲良くなれたのに)

 いつも顔に血の気がなく、周りと話を合わせることさえできずに、ただ勉学にのみ打ち込んでいる小夜など、凛と大違いだ。

 何かと気にかけてくれる同級生。

 何度か友人になりたいと言ってくれたこともあったが、今日まで曖昧にしたまま。

 友人になったとしても、自由な外出は禁止されているので、休日はパーラーも観劇も一緒に行けない。

 休み時間でさえ、自分なんかと関われば凛にも悪影響になってしまう。

 誘ってくれて、ありがたくはあったけれど、それも小夜には無理な相談だった。

 (本当に申し訳ないわ)

 ばつの悪い思いを抱え、小夜は荷物が入った鞄を持つ手に、力を加えた。

 誰にも水園家での内情を知られないように、隠し通すのも心が痛む。

 そんな暗い影を落とした表情を凛は見逃さなかった。

 「ねえ、小夜ちゃん。何か悩みがあるんじゃない?私で良ければ話、聞くわよ」

 「えっ、あの……」

 どきりと心臓が鳴った。

 図星をつかれ、慌てて視線を逸らす。

 これでは、悩みがあると言っているようなものだ。

 しかし、流石に「家で家族から虐げられている」などと言えるはずがない。

 その秘密を他人に明かしてしまえば、必ず相手も巻き込んでしまう。

 一度、静かに深呼吸をすると、くるりと凛へと向き直る。

 「ご心配ありがとうございます。でも、わたしは大丈夫です」

 「そんな風には見え──」

 「何かあったときは、すぐに緒方さんに相談させてください」

 普段の小夜なら、他人の話を遮るような真似はしない。

 しかしこれ以上、追及されては本当に口を滑らせてしまうような気がした。

 安心させるように、しっかりと笑みを浮かべる。

 (ごめんなさい、緒方さん)

 自分が落ちこぼれでいる限り、いや、たとえ最底辺から脱却しても、この秘密を明かすことはないだろう。

 寄り添ってくれるひとがすぐ近くにいるというのに、壁をつくる。

 こんなに悲しく、つらいことはない。

 これで、嫌われてしまうかもしれない。

 それでも、凛や緒方家にまで迷惑をかけるわけにはいかなかった。

 凛は気狐の一族、緒方家の娘。

 位で見ると空狐より下に値する。

 小夜はどちらが上で下かなんて考えないが、両親や兄姉は違う。

 水園家は何百年も前から権勢を振るう。

 立場をわきまえない者は、容赦なく制裁を下してきたのを、小夜は知っている。

 優しい凛のことだ。

 小夜が虐げられていると知れば、彼女の性格から考えて、屋敷に乗り込んできても、何ら可笑しくない。

 もし、それが現実となれば、凛は女学院に通えなくなり、緒方家は終わりだ。

 (駄目、絶対に駄目。そんなことになれば、わたしは後悔する)

 立ち止まり、黙り込む小夜に凛は一度、目を伏せて、そして微笑んだ。

 「分かったわ。私、待ってる」

 切れ長の瞳を細めて、笑いかけている表情は、たいそう美しく、眩しかった。

 (わたしが落ちこぼれでなければ)

 他者の目を気にせずに堂々とおしゃべり出来たらどれだけ良いだろう。

 一緒に買い物だってしてみたい。

 だが家族はそれを決して許さない。

 小夜は重たい気持ちを抱えながら、今出来る精一杯の笑みをつくった。

 「ありがとうございます」

 「いいのよ。もし、小夜ちゃんに何かあったら、わたしは笑って過ごせないと思うの」

 何故か、同級生というより、妹に見えるのよねと言いながら再び歩き出す。

 凛には三人の兄がいる。

 男子が多い環境で育ったからか、お嬢さま学校の鈴風女学院では珍しい、砕けた口調だ。

 校風を損なうから直すようにと教師や上級生から注意を受けているのを見たことがある。

 小夜はまったく嫌悪感を抱かない。

 出逢った当初は、多少驚いたけれど、不思議とすぐに馴染んだ。

 耳に届く、凛の声と、近くの木に止まる小鳥たちのさえずり、そして穏やかな風の音。

 (家のことは忘れて、ずっと聞いていたくなるわ)

 小夜は凛の他愛のない話を聞きながら、鈴風女学院の正門を通る。

 聞き手に徹しながらでも忘れない。

 周辺には数多くの生徒が校舎を目指しているので、凛に迷惑がかからないよう、距離をあけることを。

 女学院の敷地は広大で、規則的に敷かれている石畳、その両側にある色彩豊かな花壇などがあり、そして一番に存在感を放つのは、噴水。

 昼休みには、噴水近くの長椅子に座ってお弁当を食べる生徒も多い。

 以前、凛にもその場所で一緒にお弁当を、と誘われたが、丁寧に断った。

 色とりどりの鮮やかな花の乙女たちが、かしましくおしゃべりに興じている空間に、耐えられる自信はないから。

 「あら、誰かと思えば落ちこぼれ狐さんがいるわ」

 昇降口までの長い道を歩いていると、背後から和やかな雰囲気を壊すような声が聞こえ、思わず足を止めた。

 すでに、その声の主に気がついている小夜は、ひゅっと息を吸い込むと、ゆっくりと振り返る。

 マガレイトに結われている艶のある黒髪にぷるりとした紅色の唇、唐紅色の単衣と学校指定の行燈袴を身に纏っている少女を見た瞬間、小夜に緊張が走った。

 「……寺石さま」

 名前を呼ばれた娘──寺石舞子は、まるで獲物を狙うかのような鋭いまなざしを小夜に向ける。

 彼女は小夜と同じ、空狐の一族の娘。

 寺石家は水園家に次いで、権勢を振るっている家であり、舞子はその家の長女。

 姉の一華と比べても見劣りしないほどの美貌を兼ね備えており、成績も優秀。

 空狐の筆頭の家に生まれながらも、妖力をほとんど有さない小夜を昔から馬鹿にしているのだ。

 普通ならば、位が上であるはずの小夜を虐めているとなれば、舞子は周囲から咎められるはず。

 だが、よく一華が「あんな落ちこぼれが妹だなんて恥ずかしくてたまりませんわ」とか「皆さんも、あの子に対しては立場などわきまえなくて結構ですよ」などと言うので、堂々と行われている。

 それが、実の家族に対する言葉なのか、一令嬢として恥ずべきことではないかと誰も問わない。

 それだけ、水園家は敵に回したくない怖ろしい家なのだ。

 「よく、女学院に通い続けることが出来ますね。私だったら、惨めになって、堂々と登校なんて無理ですわ」

 「本当に一華さまと同じ血が流れているのかと疑ってしまいますね」

 舞子の両隣には彼女と一華を敬愛する生徒ふたり。
 
 品定めでもするかのように、馬鹿にするかのように、小夜を見ている。

 近くを歩く生徒たちも、ちらりとこちらの様子を伺っていて、今すぐに逃げたくなった。

 でも、彼女たちが言っていることは正論で反論も逃げ出す勇気もない。

 矢継ぎ早に発せられる凶器の言葉が胸を深々と抉る。

 「あの、ごめんなさ──」

 小夜は何も悪いことなどしていない。

 謝る必要も、陰で生きる必要もないけれど、そうしなければと頭が勝手に命令するのだ。

 今もこうして、攻められているのは、自分が未熟だから。

 謝罪することで、この瞬間だけでも許されるかもしれない。

 しかし、頭を下げた瞬間、目の前に誰かが立ったのが分かった。

 「貴方たちこそ、弱い者虐めをして、いつまでも幼稚じゃない。そんな性格、早く直した方が良いわよ」

 庇うように立ち、彼女たちに向かい合う凛に小夜は、ぱっと顔を上げる。

 (……緒方さんを巻き込むことだけは避けたかったのに)

 味方がいるという嬉しさの反面、彼女が傷つかないか、迷惑をかけないかと冷や汗が出た。

 相手は空狐、凛は気狐。

 舞子からしてみれば、位が下の凛が自分に逆らってくるなんて、腸が煮えくりかえるだろう。

 凛と小夜は学級が違うので、いつも守れるわけではない。

 しかし、こうして舞子たちと会うと、必ずといっていいほど、喧嘩を始めるのだ。

 しかし、力強くはっきりとした口調に対して、臆することなく負けじと舞子も言い返す。

 その表情は、背筋が凍るほど、品が良く優美だ。

 「あら、私は事実を申したまで。緒方さんは、もう少し令嬢らしく振る舞ったらいかが?」

 「舞子さま。それはきっと無理ですわ」

 「ええ。気狐には、これが精一杯ですから」

 「それも、そうね」

 「……何ですって?」

 彼女たちの間にバチバチと音が鳴るような火花が散っている。

 「あの方たち大丈夫かしら?」

 「先生を呼んできます?」

 こそこそと話す声に気づき、視線を向けると、事情をよく知らない下級生が不安げにこちらを見ていた。

 (先生たちが来てしまったら、まずいわ)

 女学院から家に連絡がきてしまえば、父は憤慨する。

 声を荒げて叱って、そして殴られる。

 凛だって、手は出されないだろうけれど、きっと、こっぴどく怒られるはずだ。

 凛と舞子が喧嘩して、舞子が両親に言いつければ寺石家から緒方家へ、抗議の知らせがゆく。

 小夜もそれを心配して、問いかけても彼女は首を横に振るだけだった。

 〈私は大丈夫よ。困っている友人を守ることがいけない、なんてあったら、たまらないわ〉

 自身の名前のように凜々しく、そして正義感に満ちる表情が脳裏に浮かぶ。

 凛も一華や舞子に劣らず、成績優秀だ。

 無事に卒業出来れば、帝都で辣腕を振るって働くことも、嫁いで幸せな花嫁にもなれる。

 数年後には輝かしい未来が待っている。

 そこに傷などつけたくはない。

 これ以上、騒ぎが大きくなる前に止めなければと、小夜は慌てて凛の腕を掴んだ。

 「緒方さん、わたしは大丈夫ですから……!」

 「駄目よ、小夜ちゃん。今日こそはぎゃふんと言わせないと」

 その瞳には炎のように熱い闘志が宿っていて、相変わらず、舞子を睨みつけたままだ。

 「ふふっ。冗談はよしてくださいな。貴方なんか到底、私たちに及びませんし」

 「なんかってなによ!」

 刺のある口調にさらに苛立ちが募ったのか、声を張り上げる。

 遠目からだが、こちらの様子を伺う人数も増えてきた。

 焦りが募り、腕を掴む力を少しだけ強めた。

 もちろん痛みは感じないように。

 「お願い、お願いします」

 「……っ!」

 か細く、震える声に凛は、はっと我に返って、斜め後ろにいる小夜へと視線を向けた。

 それと同時に周囲の人数に気づいたようだ。

 「ご、ごめんなさい!私、ついカッとなっちゃって……」

 申し訳なさそうに謝る凛に小夜は何度も首を横に振った。

 「いえ……!わたしのために怒ってくれた。それだけで十分嬉しかったですから」

 その言葉とは裏腹にいつもより笑みが弱々しい。

 そして若干、呼吸も乱れている。

 「小夜ちゃん、もしかして具合悪い?」

 舞子に向けられていた怒りの眼差しは、すっかり消えて、いつも通りの穏やかさに戻っている。

 「わたしは──」

 大丈夫、そう言おうとした矢先、ぽんっという軽い音と共に身体を煙が包んだ。

 その場にいる誰もが、理解した。

 変化の術が解けて、元の狐へと姿が戻ったのだと。

 案の定、煙が霧散すると、小夜は人間から狐になっていた。

 「ふ、ふふっ!」

 「あはは!」

 「本当に愉快だわ……!」

 舞子たちは雪色の狐を見るやいなや、可笑しそうに笑い始めた。

 登校中の生徒も、くすくすと笑う者、引いている者、反応は様々で、小夜に重くのしかかる。

 授業前で、術が解けるのは、かなりまずいことだった。

 妖力がそこそこある普通の者ならば、ある程度は自由に操れるので問題はないが、小夜の場合は違う。

 再度、人間に化けることに時間をかなり要するため、下校後ならまだしも、朝に起こってしまえば授業にも影響してしまうのだ。

 特に今日は一限目から筆記の授業なので、早く人間の姿にならなければ、受けられないし、教師にもたしなめられる。

 荷物が入った鞄も地面に落ちていて、この手では持つことすらままならない。

 羞恥心と悔しさと悲しさが心に一気に押し寄せる。
 
 もうこのまま消えてしまえたら、どれだけ良いか。

 泣いてしまいたくなる。

 (いや、わたしに泣く資格なんてない)

 どれだけ虐げられても笑われても、こんな身体に生まれてきてしまった運命を受け入れるしかないのだ。

 目を固く閉じて俯いていると、ふわりと浮遊感を感じた。

 一瞬、何が起きたのかと驚いて目を開くと、凛が真剣な面持ちで身体を抱き上げてくれていた。

 地面に落ちていた鞄も持っていてくれている。

 「もうこんな人たちと関わることはないわ。行きましょ、小夜ちゃん」

 「……あ」

 それだけ言うと凛は足早に校舎へ歩き出す。

 まだ後ろでは、「逃げたわ」「私たちに怖じ気づいたのよ」と何やら話し声が聞こえたが、勝ち気な凛も無視をしていた。

 昇降口に着いて、そっと降ろしてくれた彼女に小夜は丁寧に頭を下げる。

 「あの、緒方さん。連れてきてくれてありがとうございます」

 「いいのよ。元はといえば、私があの人たちの挑発にのってしまったのもあるし。荷物、教室まで運ぶわね」

 「そこまでしていただくわけには……」

 「いいわよ、これくらい。私たちの教室、隣なんだから一緒に行きましょうよ」

 にっこりと笑い、下足から上履きの草履に履き替えると歩き出した。

 きっと彼女なりに、強引になったくらいの方が控えめな小夜には良いのだと思ったのかもしれない。

 そんなことを考えているうちに凛はどんどん先を行く。

 教科書などが入った重い鞄を小夜の分に加え、自身の物も持っているのだ。

 本人が大丈夫といっても、こちらが気にしてしまう。

 普段から家で甘えることを許されていないので余計に申し訳なくなる。

 おろおろと立ち尽くしていると、少しずつ昇降口に生徒がやって来る。

 「ま、待ってください……!」

 小夜は慌てて階段を上がり始める彼女を追いかけた──。