「いつまで、そんな姿でいるつもりだ。早く人間へ変化せんか、この愚図が」            
                          
 「……申し訳ありません。お父様」         
                          
 額に青筋を立てながら睨みつけている男の視線の先には、一匹の狐が板張りの廊下に伏していた。     
                       
 許可なく、顔を上げてしまえば、父の怒りを買ってしまうと知っている狐──水園小夜は微動だにせずに次の言葉を待っていた。         
                        
 そう、彼女の本当の正体は空狐。         
                        
 文明開化が目覚ましい、この時代。        
                        
 より良い國づくりに尽力しているのは人間だけではない。                    
                                              
 人間には有さない特別な霊力で古来から陰から國を支えているのは狐である。          
                        
 全国各地に数多いた狐はいつしか帝都に移り住み、町を築き上げた。              
                         
 和洋入り混じる華やかな帝都から離れた山手に集うのは由緒正しい狐たちの名家。         
                         
 中でも、ひと際目を引くのは荘厳な門構えの、広大な木造平屋の屋敷。             
                        
 そこに小夜の住まう場所、水園家だ。       
                        
 狐たちには天帝より位が与えられている。     
                        
 下から野狐、気狐、空狐、そして天狐。      
                        
 他の追随を許さないほどの圧倒的な力を宿す天狐は生を受けた瞬間から最高位に君臨してきた。
                       
 天狐以外の狐も普通の人間から見れば神秘的な雰囲気を纏っているが、彼らはそれをはるかに上回る優美さを放っている。            
                        
 現在、父親に蔑まれている小夜も二番目に位の高い空狐の一族。                
                        
 本来ならば血の繋がった家族からこんな扱いを受けることはない。               
                        
 「まさか、外でもこの姿になっていないだろうな?」                     
                       
 「そ、れは」                  
                       
 「人前で変化を解いてはならないと何度言えば分かる!この恥さらしめ!」            
                        
 「ぐっ、うぅ……」               
                       
 首根っこを乱暴に掴まれ、強引に上を向かされる。                      
                       
 暴力を受けるのは今日が初めてではなく、小夜にとって日常茶飯事だ。             
                        
 (どうして、わたしだけ変化が出来ないの)     
                       
 彼女は空狐の一族に生まれながらも、ろくに人間へ化けることが出来ない、いわゆる落ちこぼれである。                    
                        
 この国に住む狐は学校を卒業したあと、当主やその秘書、側近など特別な職務に就く者以外、町を出て働くのがしきたり。            
                       
 人間に紛れながら暮らし、己に秘める霊力を行使してこの国を安寧へと導く、それが天帝より課せられた命令でもある。               
                         
 狐は人間に化けられてこそ一人前。        
                        
 位が高ければ高いほど、霊力も高く、才能の開花も早い。                    
                         
 天狐ならば、ほとんどの者が赤子の頃には可能らしい。                       
                         
 空狐でも物心がつく歳には大体が技を取得するのだが、小夜だけは違った。             
                         
 驚いたり恐怖心を感じたりすると、変化が解けて狐へと戻ってしまうのだ。           
                       
 徐々に首に伝わる強い力に耐えられなくなって、懇願するように父親を見た。           
                        
 「も、申し訳ありま、せん。も……」        
                        
 「ふん。謝罪など聞き飽きたわ。謝って上達すれば、どれだけ良いことか」             
                        
 そこで、ようやく首から手が離れる。       
                        
 ぼとりと音を立てながら、その場に倒れ込む。   
                        
 ごほ、ごほと吐きそうなほどむせ、目から一筋の涙がこぼれる。                       
                        
 (……何か役に立ちたいと思っても、結局は駄目になる。わたしは空っぽね)            
                        
 小夜よりも年下の子は皆、すでに力に目覚めているというのに十六歳にもなって、この調子ではもう希望など皆無だ。              
                        
 それでもこんな自分でも存在価値を見出したいと、休日は仕事を見つけて働くが、ほとんど今のような結果になる。                
                        
 「まったく、これから大事な客が来るというのに、手間をかけさせよって」           
                        
 呼吸が落ち着いても、憤怒を露わにしている父親の顔を見るに見られない。           
                         
 まるで殺されるのではないかと錯覚するほどの表情が呪いのように脳裏に焼きつくからだ。    
                       
 今日は朝から水園家へ来客の予定があった為、忙しくしている使用人たちの代わりに花瓶の水を取り替えようとしたのだが、誤って手を滑らせて廊下に落としたのだ。             
                       
 無惨にも美しく絵付けされた花瓶が割れ、辺りは水浸しになっている。             
                       
 破片で出血はしていないが、こうなるのであれば怪我をしてでも身体を張って受け止めれば良かったと後悔する。                
                       
 いつまで寝てる、起き上がらんかと罵声を浴びて、ようやくふらつきながら立つ。         
                        
 ぽたり、ぽたりと雫が滴り落ち、雪色の毛並みが水を吸って重たい。               
                       
 憂いを帯びた表情が水面に写るが、ギシギシと板張りの廊下を歩く音でハッと視線を上げる。   
                          
 奥から現れた二人は散らばる破片、水に濡れた狐、腕を組んでそれを睨みつける父の光景を見て、すぐに状況を理解したようだった。       
                          
 細く長い指を口の前に持ってきては、笑いを堪えるように声を押し殺している。         
                        
 「ねぇ、小夜。自分が見向きもされないからってどれだけ私たち家族に構って欲しいの?」     
                        
 「本当に。貴方が私の娘だなんて信じられない。水園家に生まれてくる子は一華だけで十分だったわ」                         
                           
 空虚に満ちた目に映るのは、二つ歳が離れた姉の一華、そして母の華織。             
                         
 姉は妹とは見目が正反対で実年齢より、ずっと大人びていて名前の通りに華やかなで存在感を放つ。                        
                         
 背中まで伸びた長い髪は真っ直ぐで艶やか、肌は透明感のある肌で、小さな唇はほんのりとほどよい紅色。                     
                        
 (ああ、確か昨晩に新しくできたパーラーの話題に興じていたわね)                 
                         
 これから母とその場所へ行くのだろう、女学院用ではない、白椿の柄に瑠璃色の振袖を纏っている。

 母もそこまで派手ではないが、何とも上品で落ち着いた小花柄の単衣を纏っていて、美しい彼女にたいそう似合っている。                
                           
 小夜はそんな高価な振袖など持っていない。   
                        
 人間の姿のときは使用人から譲り受けたお仕着せ服。                       
                        
 愛嬌もあり、器量良しの姉にのみ父から贈られたのだ。                     
                         
 まあ、羨ましいなどといった感情はとうの昔に忘れたが。                    
                        
 「一華は女学院で優秀な成績を修めているというのに、お前はいつまでも阿呆だ。水園家の唯一の汚点め」                      
                          
 (それは、わたしが一番よく分かっている)      
                        
 家でも女学院でも姉と比べられ、陰で過ごしてきた小夜に今さら説教なんて、意味がない。      
                         
 最初はまともに変化できない自分をここまで育て、学ばせてくれたことには感謝していた。    
                          
 けれどそれは、別に小夜を大切に思って、というわけではない。                    
                       
 娘を女学院にも行かせない男だと世間から思われたくなかっただけだ。              
                         
 だがもう比較されるのは慣れている。

 今さら、この程度で口ごたえをする気も起きない。                   

 しかし、黙り込む姿が逆に三人を苛立たせたようだった。                  
                       
 「貴方、本当に目障りなのよ!才能も無い、仕事もろくにできないなんて生きる価値などないわ!」
                       
 「お前は本来ならば即刻、捨てられるはずなのだぞ」                                  
                        
 「周囲の目もあるから、最大限生かせてあげているだけ。感謝しなさい」              
                        
 「は、い」
                         
 たった二文字を発するのが限界だった。      
                        
 三人の目を見ないで返事をしてしまえば、再び怒りを買うのは知っている。            

 ただ、心が疲弊していた彼女は、叩かれても暴言を浴びても、どれでも良かったのだ。        
                         
 「お前──」                  
                         
 小夜の態度を見て、予想通りに父が怒鳴ろうとした瞬間に「あ!」と、それを一華が遮る。      
                        
 「お母さま、もうそろそろ屋敷を出た方が良いのでは?開店時間に間に合わなくなっちゃう。食べたい物、数量が限られているんですって。売り切れたら大変よ」

 「あら、もうそんな時間?いけない、こんな娘に時間を割いている暇はないわね」

 「私がよく叱っておくから、二人は行ってきなさい」

 「はい、お父さま」

 一華と母は小夜と打って変わって物欲がかなり凄い。

 一華が話していた「食べたい物」というのは、おそらく雑誌に掲載していた品だろう。

 帝都のモガたちの流行をいち早く取り入れるのが、どうやら、欠かせないらしい。

 とにかく目立ち、その上、何をしても優秀。

 それもあって、一華は女学院のマドンナだ。

 大輪の牡丹が咲いたように笑みを浮かべ、返事をすると、二人は軽い足取りで玄関へと向かって行った。

 何やら楽しげに会話をしている彼女たちの後ろ姿は皆が憧れるような理想の親子の光景だ。

 小夜だって正真正銘、母、華織から生まれた娘だ。

 あんな風に横に並んで買い物へ行く権利もある。

 (……駄目よ、水園小夜。もう夢を見ない、何も望まないと決めたじゃない。思いを巡らせるだけ虚しいもの)

 遠くに玄関で草履に履き替えて、明るい外へと出て行く二人。

 光に満ちた外と暗く閉ざされた屋敷。
 
 まるで初めから住む世界が違うよう。

 ぴしゃりと戸が閉められて、辺りに静寂に包まれる。

 二人に向けられていた父の穏やかな視線が鋭いものに変わり、小夜へと移された。

 「私の知人の娘は天狐の一族の息子に見初められて、来年に結婚するんだぞ。お前のような落ちこぼれなど存在するだけで恥ずかしくてかなわんわ。少しは見習ったらどうだ」

 「はい」

 「空狐の娘が人間に殺されたとなれば、我が水園家の名に泥を塗ることになる。まあ、これ以上無様な姿を世間に見せるのであれば、私とて考えがある。この意味が分かるな?」

 「……っ」

 脅迫にも感じ取れる問いかけに、ひゅっと息を吸い込んだ。

 分かっている、誰からも愛されていないことなど。

 けれど、想像していたよりもずっと自分の命を軽く見られていたのだと改めて思い知らされる。

 (仮に女学院を卒業出来たとしても、この町の外で暮らしていける自信はないわ。嘘をつきながら毎日を過ごすだなんて、わたしなんかに務まるはずがない)

 狐が化けて人間たちに紛れながら生きているのは当然、秘匿である。

 小夜らが通う女学院があるように、町を離れる者は、しっかりと訓練を受ける義務がある。

 (もし、人間に正体がばれてしまったら)

 殺される。

 帝都で暮らす狐は年に一度、町に帰り、成果などを報告する義務がある。

 それに反すれば、罰が下るとあって、ほとんどが義務の果たしているのだ。

 そう、ほとんどということは全員ではない。

 身分を偽ったまま人間と恋に落ちて駆け落ちする者、自らに背負った重責から逃れようと仕事を放棄し、帝都からいなくなった者……。

 毎年、少なからず、そういった事案が確認される。

 たとえ逃亡したとしても、狐の妖力があれば居場所など特定出来るので無駄だというのに己の欲望にはどうやら勝てないらしい。

 違反者は、直ちに捕らえられ、罰として幽閉される。

 それだけ、狐の妖力がこの國にとって欠けてはならない大切なものなのだ。

 しかし、探し出せる力があったとしても稀に居場所を突き止められないこともある。

 すなわち、その者の死を示す。

 人間の姿のまま事件や事故に巻き込まれる場合、誤って狐の姿を見られ、殺される場合など多種多様だ。

 優秀な狐でも、怖ろしく悲しい結末を迎える。

 それなのに、狐の中で一番といっていいほどの落ちこぼれが仕事を全う出来るはずがない。

 「お前が死ぬか否かは卒業試験にかかっている。卒業も出来ない娘など、この家にいらんわ。それが嫌なら完璧な変化を習得するんだな」

 (きっとお父さまなら、わたしを殺して、あたかも自害したかのように見せることも可能。……ああ、でもいっそそれも良いかもしれない。生きていても幸せな未来など待っていないもの)

 俯いたまま、輝きを失った目でぼんやりと濡れた廊下の木目を見つめる。

 身体を濡らし、一方的に怒られても、水園家には誰も小夜を助ける者はいない。

 家族だけでなく、屋敷で働く使用人もそうだ。

 幼い頃は両親に理不尽に暴言を吐かれ、使用人たちに泣きついたこともあった。

 全員ではなくても一人だけでも味方になってほしかったのだ。

 しかし、使用人たちは小夜に優しくすれば両親の怒りを買い、解雇になることを怖れたため、無視をし始めた。

 最初は物音や怒号に一度はこちらの様子伺うように見ていた使用人たちも今は何事もなかったように仕事を再開していた。

 もう何年も、つらさや悲しさを他人に伝えたことはない。

 すべての感情は、外に流れることなく、心に溜まっていく。

 きっと他の家の娘は、友人と恋愛の話に花を咲かせて、休日にはパーラーや観劇に行き、夜には温かい布団で眠りにつく。

 世間にとっては普通なことでも、小夜には夢のよう。

 「旦那さま。間もなく、お客様がいらっしゃるお時間でございます」

 白髪を綺麗に結った使用人頭が廊下の奥から姿を現し、報告をしたところでハッと我に返る。
 
 色々なことが重なって、すっかり忘れてしまっていた。

 今日はこのあと、父の大事な客人が訪問する予定があるのだ。

 玄関に近い廊下は小夜が手を滑らせて割ってしまった花瓶の破片がまだ散らばっている。

 それに加え、水で廊下を濡らしているので早く片付けをしないと予定時刻になってしまう。

 小夜はまだ狐の姿のままである。

 この姿では時間までに片付けを済ますなど、限りなく不可能だ。

 しかし、この状況を招いてしまった責任がある。

 早く人間の姿に化けて、散乱した破片を集めないとと思えば思うほど焦りが募る。

 身体に妖力を集中させることを意識しながら、慌てて口を開く。


 「あっ。ではわたし、ここの片付けを──」

 「余計な手出しはするな!鈍いお前にやらせたら、間に合わん。片付けは使用人たちに任せる。お前は客人が来ている間は部屋から一歩も出るな」

 「……はい」

 ここで下がらなければ、また苛つかせるのは目に見えている。

 素直に従った方が良いとすぐに察して大人しく待つ。

 頷く小夜を見て、父はまだ何か言いたそうにしたいたが、フンッと鼻を鳴らして背を向けた。

 傍に控えていた使用人頭にちらりと視線をやり、ここはお前たちに任せた、と言い残すと廊下の奥へ消えて行った。

 「かしこまりました」

 「あの。わたしのせいで、ごめんな──」

 「貴方たち!手が空いている者は今すぐこちらへ!」

 小夜の謝罪の声も使用人頭の屋敷中に響き渡るような呼びかけの声に掻き消される。

 すると数名の使用人が箒や雑巾などを手にして足早にこちらへ来ると、片付けを始める。

 まるで、小夜がいないかのように辺りを動くので、これ以上邪魔をせず、迷惑をかけないよう、そっとその場を離れるのだった。

 自室へ戻ってきた小夜は前足で襖を開けて中へと入る。

 ここは水園家の屋敷の、奥まった場所にある。

 文机と箪笥、籠しか置いてない殺風景さは、他人から見れば令嬢の部屋とは思えないだろう。

 小夜は部屋の隅に置いてある籠から一枚の手ぬぐいを取り出す。                      
                          
 人の手のように綺麗には拭けないが、このままでは風邪をひいてしまう。              
                         
 (体調を崩して女学院を休んだら、またお父さまたちに叱られる)                   
                          
 ある程度拭いたところで、文机の前に敷いてある座布団の上に座る。                
                           
 (実技は苦手だけれど、筆記は頑張らないと。だけど、この姿だと勉強も出来ないわ)          
                          
 今はただの文机でも身体より大きく見えて、教科書さえも見られない。                
                             
 仮に届いたとしても、この手では雑記帳も開けず、筆記用具も握れない。               
                         
 (わたしは本当に情けないわ)
                          
 今は父は客人をもてなしていて、姉と母は買い物中。                       

 静かに勉強が出来る良い機会なのに、自分の不甲斐なさで時間を無駄にしていると自覚してしまう。

 小夜は町の一角に門を構える五年制高等女学校──鈴風女学院に通っている。

 狐のみが通えることができ、周辺には、妖力が込められている特別な結界が張られており、人間にはその目で確認することは不可能だ。

 まだ昼前だが、連日の寝不足のせいで、ドッと疲労感と眠気が小夜を襲う。

 (いけない、休んでいる暇はないわ。早く人間の姿に変化しないと。皆の用事が終わって尚このままだったら、次は何をされるか──)

 変化が苦手な分、筆記は頑張っているのだが、知識だけでは一人前になれない。

 小夜は妖力が少ないうえ、臆病だ。

 人間の姿のままで順調に過ごせていても、苦手な虫や雷が原因で変化が解けてしまう。

 しまいには、自分自身の影が幽霊に見えてしまい、驚いたはずみに狐に戻ったことも。

 このままではいけないとわかっている。

 空狐の一族の長の家である水園家に生まれたからには娘としての役目を果たしたい。

 女学院を卒業した者は、帝都に赴くという選択肢の他に、狐の一族の当主や側近の花嫁になれる場合もある。

 過去に抱いた「いつかは華やかな帝都で働いてみたい」「花嫁となって幸せな家庭を築きたい」といった夢は叶わなくても良いし、見てもいない。

 ふと、鳥のさえずりが聞こえ、外へ視線を向ける。

 空には青空が広がり、白い雲がゆったりと流れている。

 小夜の心情とは正反対のような輝きを放った光景。

 (今頃、お姉さまたちはお買い物を楽しんでいるかしら)

 小夜は女学院へ登校する以外は、自由な外出は認められていない。

 ほとんど、水園家という鳥籠に囚われているような状態だ。

 (将来、この家を継ぐのはお兄さま。お姉さまは花嫁になる。そうしたら、わたしの居場所が完全に無くなってしまうわ)

 小夜と一華には歳の離れた兄がいる。

 現在は、洋行していて仕事をしながら様々な勉強をしているらしい。

 伝統を重んじつつ、革新を取り入れ、この町をさらに発展させるのが狙いのようだ。

 数年前から洋行している兄は、多忙を極めているため、年に一度、帰国出来るかどうか否かというぐらいだ。

 兄も他の家族と同様に小夜を嫌っている。

 先ほどの三人のように、直接虐めるのではなく、完全に無視をするのだ。

 まるで、小夜が存在しないかのように。

 妖力に恵まれなかった妹を受け入れなかったのだ。

 逆に、優秀で愛嬌をたっぷり振りまく一華のことは溺愛している。

 愛するあまり将来、彼女が帝都で働くことに頑固として反対している。

 まあ、一華も嫁ぐことを望んでいるので問題はないのだが、兄は相手を慎重に選びたいようだ。

 妹を一生かけて守り抜き、幸せにすると誓える者ではなければ、絶対認めないと言うほど。

 前回、兄が帰国した際に屋敷で小夜を除いた四人が、広間でたいそう賑やかに話をしているのを耳にした。

 一華は過保護で溺愛してくる兄に少し困ったような素振りを見せていたが、それくらい大切に思ってくれているのだと嬉しそうにもしていた。

 実際、彼女は女学生の身でありながら、いくつか縁談の話は届いていた。

 しかし、時期当主である兄から慎重に選ぶよう頼まれている父は、定めた基準を越えなければ、すべて断っていた。

 女学院のマドンナでもある一華に、その魅力に惹きつけられるように男性は近づいてくるが、ある一族のみ、姿を現したことはなかった。

 狐たちの最高位に君臨する、気高き一族──。

 (天狐さま。あの御方はまだお姉さまに縁談を申し込んでいない)

 天狐の一族の当主、七条時雨。

 二十五歳という若さで当主の座に就いた彼は、絶世の美男。

 狐たちは全員が眉目秀麗だが、時雨は群を抜いており、代々受け継いだ神にも等しい妖力をその身体に宿している。

 限られた人間しか会うことは出来ず、情報も噂で聞くのがほとんど。

 「今にも消えてしまいそうな儚い雰囲気を纏った御方」だとか「背筋が震えるほどの冷酷無慈悲な御方」などと耳にするので、本当に実在するのかと疑ってしまう。

 落ちこぼれである小夜は当然、会ったことはない。

 (今までも、そしてこれからもお会いすることなんてないけれど。もし七条さまとお姉さまが結婚するとなっても、わたしはきっと屋敷で留守番ね)

 結婚式を欠席する理由なんて、父たちならいくらでも作ってしまう。

 家柄も妖力も問題がなく、魅力溢れる彼と女学院一のマドンナである姉なら、きっと誰もが羨む夫婦になれる。

 実際、姉の一華も七条家からの縁談を待って、他の男からの誘いを断っている様子。

 そこで、「縁談」という言葉に、小夜はふと同級生たちの会話を思い出す。

 (でも、名家の令嬢が七条家から縁談を申し込まれても即日、破談になっているみたい)

 一見、引く手あまたのように見える時雨でも、何故かなかなか順調に婚約者が決まらないらしい。

 欠点すら見当たらないような完璧な淑女でも、時雨の方から断っているという噂が女学院内で持ちきりだ。

 つい先日も、一人の令嬢との縁談が破談になったそうなので、時期に水園家に話が持ちかけられるだろう。

 もちろん、一華宛てに。

 (破談になるのはとても不思議だけれど、きっと七条さまにも理由やお考えがあるのよね)

 一切関係のない小夜がいくら考え、悩んでも意味はない。

 天地がひっくり返ったとしても、落ちこぼれ宛てに縁談なんてこないのだから。

 俯いていた視線を上げ、身体中に僅かな妖力を巡らせる。

 いつまでも、こんな姿のわけにはいかない。

 姉と母が帰ってくれば、仕事を押しつけられる可能性もある。

 二人はいつも「貴方はどんなに頑張っても、どうせ落ちこぼれのままなのだから、勉強なんてしても無駄よ」などと言って、掃除や洗濯をさせる。

 使用人もいるのだが、小夜にやらせるために、わざと仕事を残しているのだ。

 貴重な一人の時間をこれ以上失いたくはない。

 (人間の姿になって──)

 強く祈りながら、爪の先まで妖力を行き届かせる。

 身体を小刻みに震わせて、一筋の汗が流れたとき、ぽんっという軽い音が鳴る。

 ふわりとした煙が小夜を包んで、数秒でゆっくりと消えていく。

 「出来た、かしら……?」

 おそるおそる目を開けると近くに置いてある姿見へと視線を向ける。

 「……はぁ」

 姿見に写った自分を見て、心底残念がるため息が漏れた。

 長い雪色の髪に白い肌、細い指はどう見ても人間だが、落ち込む原因は二つある。

 「耳と尻尾が残ったままだわ……」

 頭にはぴくりと動く耳とお尻からはふわりと揺れる尻尾。

 つまり、変化には失敗したということだ。

 この状況を誰にも見られていないのが不幸中の幸いである。

 父たちに見られれば、こっぴどく叱られ、女学院の試験でこの姿ならば即、落第だ。 

 複雑な感情になりながら、人差し指と中指で耳を二回目ほど触る。

 (耳と尻尾が残っているのが気になるけれど、勉強が出来ないわけではないから)

 もう一度、変化に挑戦しようかと思ったが、妖力も少なく、身体も弱い小夜にとって、かなり気力も体力も消耗するので、断念する。

 生まれつき病弱な上、食事もろくに与えられていないので、変化の練習に励んでも長時間は保たないのが現状だ。

 首許や手首が痩せ細っているのを見て、これ以上周囲に怪しまれないように、調理場にある残り物を集めて食べている。

 一日に一食でも食べられれば良い方。

 何も口に出来ない日が圧倒的に多いのだ。

 もし、まともに食べられていれば、他の娘と大差ない身体になっただろう。

 (少しでも口にしないとお父さまに怒られるから)

 以前、帝都で働く父の友人が町に帰り、小夜を見かけた際、明らかに細すぎる彼女を心配して連絡をしてきたのだ。

 もちろん、父は「食事を与えていない」とは絶対に言わない。

 (筆記試験がどれだけ良い成績でもお父さまは認めてくださらない。でも今、わたしに出来ることを頑張らないと。区切りがついたら、また変化の練習をしなくちゃ)

 外は晴天に恵まれているというのに、日があまり当たらない部屋のせいで、室内は薄暗い。

 沈みそうな気持ちを振り払いながら、小夜は教科書と雑記帳を開くのだった。