夏休みが半分流れていった8月。一日中続くうだるような暑さに身体が溶けている。朔斗は腕を伸ばして自分の勉強机に突っ伏したまま、携帯の通知を意味もなく確認する。
 ちょうど、新しいチャットが入った。

 『なぁ、今日花火見に行かない? ついでに夏祭りやってるらしいから、行こうぜ!』

 奏太からだ。一気に背筋が伸びる。画面に並ぶだけの無機質な文字列に心が踊った気がした。

 『うん、行こう 何時に待ち合わせ?』
 『花火が6時からだから、5時半とかでどう?』
 『了解 じゃあ正門前で待ち合わせで』
 『OK! またあとでな』

 待ち合わせの時間まで時間はまだあるが、どこか落ち着かなくてクローゼットを開ける。
(何を着ていこう?)
 とはいえ、持っている服はTシャツにズボンくらいしかない。着ていく服は早々に決まり、朔斗はベッドに寝転んだ。
 携帯の画面の時計と、部屋にある時計を交互に見る。自分がそわそわしている分、時間の進みがいつもより遅くなったように感じられた。


 夏祭りが開催されているだけあって、高校の正門前にも、浴衣を着てきゃあきゃあ笑い合っている小学生や、待ち合わせるカップルや友達など、人が溢れかえっていた。
 待ち合わせより少し早く着いてしまった朔斗は、通り過ぎる人々を眺めながら時間をつぶしていた。

「あれ! 朔斗じゃん!」
 呼ばれた方を向くと、清水とバスケ部のメンバーたちが連れ立って歩いていた。揃いも揃ってかき氷を手にしている。かかっているシロップが1色ではなく虹色だ。
「どうした、朔斗。1人?」
「いや、奏太と待ち合わせ」
「へぇ、2人で祭り来るなんてお前ら仲良いな!」
(言われてみれば確かにそうだ。清水も中村も誘うの忘れてた)
 申し訳なさの後から、なぜか恥ずかしさがやってきて、朔斗を焦らせる。
「そ、そうかな。ていうかお前ら、そのかき氷何味だよ?」
 虹色かき氷を持った連中は、お互いに顔を見合わせる。
「え? シロップ全部かけてっておっちゃんに言ったらほんとに全種類かけられたんだよ」
「イチゴとメロンとブルーハワイと……あと何かけられたっけ?」
「この黄色、レモンかパイナップルだっけ? もう味混ざってわかんねぇや」
「はははっ、なにやってんだよ」
 間抜けないきさつについ吹き出す。
「お前何笑ってんだよ! こっちは微妙な味のかき氷食べてんだぞっ!」
 肩を小突かれるが、清水も自分で笑ってしまっている。

 ひとしきり笑った後、こちらに向けられた視線に気づく。Tシャツ短パンという夏らしい格好の奏太が、声もかけずに突っ立っていた。
「奏太! 待ってたよ」
 手を軽くあげると、奏太は手に持っていたたこ焼きを見せてきた。
「……あ、悪ぃ、たこ焼き買ってたら遅れた」
 真顔に近かった顔は笑顔に変わっていたが、眉は下がったままだった。
(いつもの笑顔じゃない)
 何かが違うことを感じたものの、それが何か聞くことができなかった。
「たこ焼きいいな! 俺も買いに行こうかな」
「俺も食べたくなってきた」
 バスケ部の友人たちは、まだかき氷を食べきっていないのに、次に買うものを決めている。食べながら移動するようだ。
「じゃあな、朔斗! 奏太もまたな!」
「うん、またな!」
「……」
 奏太は手を振るだけで、何も言わなかった。まだ困り顔のような顔をしている。
(どうしたんだ?)
 覗き込む朔斗に気づき、奏太は一瞬気まずそうな顔をし、たこ焼きの容器を朔斗に突き出した。
「……ん」
 突然目の前に現れたたこ焼きに戸惑う。鰹節がマヨネーズの上でまだ踊っている。
「え?」
「いや、一緒に食べないかと思って……」
「食べていいの?」
「うん」
「ありがとう」
 持ち上げるとゆるゆると楊枝から落ちそうになるたこ焼きを口に放り込む。
「はふ、あっつ!」
 見た目以上に中身が熱く、口の中にソース味のマグマが広がった。
「あっつ!」
 奏太も同じことをしたようだ。熱さに涙をにじませた目と目が合う。
「ふふっ」
「ふふふっ。あっち」
 お互いに笑い合う。奏太はもういつも通りの笑顔になっていた。
 少しほっとしていると、奏太がおもむろに口を開いた。
「さっきさ、清水たちがいたじゃん?」
「うん」
「なんか、楽しそうに話してるの見て、ちょっと、つまんないなぁとか、思ってた」
 奏太は頭の後ろをぽりぽりかく。
「声かけてくれればよかったのに」
「そうなんだけど、なんか、話しかけられなかったんだよね。俺が、朔斗の一番の親友なのに、とか思っちゃった。ははっ」
「そっか」
(奏太も、俺のこと親友って思ってくれてたんだな)
 嬉しさに口角が上がる。
「奏太は、俺の一番の親友だよ」
「そっか。ふふっ。うん、ありがと」
「うん。……たこ焼き、もっと食べていい?」
「いいけど、まだ熱いんじゃない?」
「じゃあ、もうちょい待つわ」
「うん」

 たこ焼きが冷めるまで待っていると、大型犬を連れた人が近くを通りかかった。
「あ、わんこだ! ちょっとこれ持ってて!」
「えっ……あ」
 まだ温かい容器を朔斗に預け、奏太は犬に駆け寄る。
「すみません、わんこ撫でてもいいですか!」
 飼い主が承諾すると、わしわしと撫で始める。
「君、かっわいいなぁ~!」
 犬を真正面から見つめ、奏太はくしゃりとした笑顔を見せる。
「この子、なんて名前なんですか? さぶろー? さぶろー、いい名前もらったな!」
 最初は微笑ましく見ていた朔斗だったが、だんだんと鈍く重いものが身体の中に居座り始めた。
(俺と遊びに来たんじゃないの?)
 奏太の笑顔が輝くほど、うまく笑えなくなっていくのを感じる。
(ねぇ、こっち向いてよ)
 なぜそんなことを思ったのか自分でもよく分からなかった。ただ、奏太に撫でられてしっぽを振っている犬が憎たらしかった。
「奏太!」
 思わず声が出た。振り向いた奏太はびっくりした様子で立ち上がり、犬と飼い主に挨拶して朔斗の元に戻ってくる。
 奏太の視線が自分に向くと、渦巻きかけた黒いものがスッと消え去るのを感じた。
「朔斗、どうした?」
(まずい、用もなく呼んじゃっただけなんだけど)
 周りを見回し、たまたま目についた店を指差す。
「え、っと……ラムネでも、買わない?」
「おう、いいね。祭りっぽい!」
「じゃあ、行こ」
 朔斗はようやく、奏太に素直に笑い返すことができた。


 購入したラムネ瓶の側面には水滴が流れ、空気の蒸し暑さを示していた。奏太は歩きながら封を切っている。
「俺、ラムネ開けるの得意。今までふき出したことないんだ」
「へぇ、そうなんだ」
「見てろよ」
 奏太はラムネの蓋を思い切り押した。
「うわぁっ!」
 手の隙間から白い泡が勢いよくこぼれ出した。
「おい、ふき出してるぞ! ははっ」
 奏太は急いで瓶に口をつけた。
 ふと、その唇に目が行った。
(唇って柔らかいのかな。もし、キスしたら──)
「やっべ、今日に限って失敗した!」
 笑ってごまかす奏太と目が合いそうになり、思わず目を逸らす。
 自分の考えたことに自分でも戸惑い、朔斗は慌てて自分のラムネを開封した。

 ドドン ドン

 地面にまで鳴り響く音に、2人は揃って顔を上げる。花火が始まったようだ。
 初めは小さめの花火が打ち上げられている。

 ドン ドンドン

「おぉー!」
 奏太は、空から目を離さないままラムネを飲んでいる。汗ばむ首元が、ラムネを飲み込むたびに動く。
 ビー玉は瓶の動きに合わせてカラリカラリと揺れていた。
 瓶からつたう滴が、手首から腕へと流れ、肘から地面に落ちる。ぽたっという音が聞こえた気がした。
 空を見上げる奏太の横顔を見る。
 花火に集中しているその唇は、無防備に少し開いていて──

 ドーンッ!

 身体がびくっと反応して我に返る。空を見上げると、大きな華が夜空に咲いていた。鮮やかなピンクで辺りが染まる。
 奏太がこちらを向いた。
「すっげーな! これがたまやってやつ?」

 満面の笑顔に、心臓をギュッと掴まれた。

 どんな花火もこの笑顔には敵わない。

(あぁ、俺、好きなんだな、奏太のこと)
 今までよく分からなかったことが腑に落ちた。
(笑顔がやたら眩しいのも、犬にさえ視線向けてほしくないのも、全部、好きだからだったんだ)
 気付いた途端、心臓は音が聞こえそうなほど鼓動し、空気を震わす花火の音と共鳴した。

 花火に見とれる奏太から目が離せない。
(今日のこと、きっと一生忘れられない)
 やたらと喉が渇いて、ラムネを一口飲んだ。
 甘く刺激の強い炭酸は、チリチリと胸の奥に落ちていった。