掃除当番の奏太を待つ間、数学の問題集を広げてみる。分からないところを奏太に聞こうとしているのに、自分がどこに引っかかっているのか掴めていない。教師の説明は理解できても、いざ自分で解こうとすると、途端に公式はそっぽを向き始めるのだ。朔斗も問題を解くことを諦め、そっぽを向いて窓の外を眺める。じめじめとした湿気をもたらす雲は昼過ぎ頃から切れていて、空には太陽が少しのぞいていた。


 扉を開ける音に振り向くと、奏太が駆け寄って来るのが見えた。膝の辺りに埃がついている。
「朔斗〜! ほいっ」
 横の席に座ると、朔斗の目の前に2つのお菓子を突き出す。
「え……何?」
 奏太はにやりと笑い、仰々しく話し始める。
「あなたが落としたのは、この金のフィナンシェですか? それとも、この銀のマドレーヌですか?」
「え……っと、どっちも俺のものじゃないな……」
「おお、なんと正直な人なんだ! そんなあなたにはこの両方を差し上げましょう!」
 2つの個包装がカシャリとかすかに音を立て、閉じてあった問題集の上に置かれた。
「えっ、いや、ほんとに大丈夫だよ。これ奏太が持ってきたやつじゃん」
「え、もしかして甘いもの苦手?」
「いや、そうじゃないけど……」
「ならいいじゃん! なんかおばさんがお土産でくれて、うちにいっぱいあるんだよ。もらってよ」
「じゃあ、うん。ありがとう」
「おう」
 かばんにしまいかけて、ふと思いなおす。
「じゃあさ、これ1個ずつ食べて、勉強始めようよ」
「えっ?」
「これから頭使うから、甘いもの食べた方がいいじゃん」
 朔斗の提案に、奏太はいたずらっぽく笑う。
「ははっ、それもそうだな! うまいもんは早く食べたいしな! いいね、どっち食べる?」
「じゃあ、俺フィナンシェもらうね」
「おっ、金のフィナンシェだな! お目が高い!」
「ふふっ、フィナンシェが金なのはまだ分かるとしても、マドレーヌはなんで銀なんだよ?」
「それ、銀座で買ってきたやつらしいぞ」
「それだけ?」
「うん、それだけ」
 奏太は封を勢いよく開け、マドレーヌを丸ごと口に放りこんだ。
「うわぁ、うま! 一気に食べると口の中最高!」
 足をばたつかせるほどおいしいようだ。朔斗もフィナンシェを一口かじる。ほろりとくずれた生地は、口の中に甘い香りをもたらす。
「そっちもうまいだろ?」
 マドレーヌの幸せに浸ったままの満面の笑みにつられ、朔斗も笑顔になる。
「うん」
「ふふっ、いやー、うまいもん食べると、もう勉強したくなくなっちゃうなー!」
「そうだな」
「だろ?」
 背中をばしばし叩かれ、食べかけのフィナンシェが手から落ちそうになる。
「早く終わらせてさっさと帰ろうぜ」
「うん、そうだね」
 残りも口に突っ込み、問題集とノートを開く。
「ん、この問題なんだけどさ、使う公式は合ってるっぽいのに、答えが違うんだよね」
「どれどれ?」
 奏太は前かがみになり、朔斗が解いた痕跡を覗きこむ。柔軟剤の香りが頭の横を通り過ぎた。
「ああ、ここ、数字を逆に代入してるよ。授業でやった問題とは解き方ちょっと違うみたいだね」
 指で差し示されたノートの一点を見る。
「ほんとだ。逆だ」
 筆箱からシャーペンを取り出し、計算をし直そうとしたとき、廊下の方からふいに声をかけられる。
「あっ! お前らほんとに勉強してんのかよ! 真面目だな」
 中村が教室の扉から首だけ突き出していた。
「俺が分かんないところ聞いてるだけだから」
「ふーん」
 つまらなさそうな声に、興味のなさが丸見えだった。奏太がいたずらっぽい声で聞く。
「中村も奏太様の説明聞いていくか?」
「やだよ。俺帰る。ていうか、お前ら一緒に勉強するなんてほんと仲良いな。ま、頑張ってなー」
 のんびり歩いて立ち去る中村を見送り、顔を見合わせる。
「これくらい、普通じゃね?」
「うん、そうだと思う」
「あいつ、まじでテキトーにしゃべってんな」
 2人でくすくすと笑い合う。
(テキトーでも、そう言われちゃうと、そんな気がしなくもない)
 歯を見せて笑う奏太が、少し特別なやつに見えた。