298日 後編 「たくさんの愛をくれた人」



───────────────












朔夜side




俺は、施設出身だ。




親が亡くなったのか、捨てられたのかは分からない。




気づいた時にはもう施設にいた。




明那と昴とは、その施設で出会った。




2人と遊んでいる時はとても楽しかった。




『僕のお母さんとお父さんはどこにいるんだろう?』




その疑問と同時に俺を襲う孤独。




でも、2人と一緒にいれば、そんな寂しさなんてすぐに忘れる。




寝る時も、ご飯を食べる時も、常に一緒だった。




でも、夏が去って少しした頃、俺は今の両親に引き取られることになった。




ここでの生活は贅沢とは言えないし、親だって居ない。




でも、昴と明那と一緒に遊べるのはここだけ。




だから、その場所から遠ざけようとする父さんと母さんに、いい気持ちなんて抱けるはずがなかった。




泣きながら施設を出て、強引に車に乗せられる。




車が施設から遠ざかっていき、2人の姿が見えなくなった時、俺は大きな声で泣いた。




そんな俺を元気づけるためか、父さんは途中で車を停めた。




そこには、海が広がっていた。




海を見たのは、その時が初めてだった。




当時4歳。




夕日に照らされて橙色に染まった海面が、ひどく美しかった。




その光景を見た時、俺は俺が今まで生きていた世界の狭さを知った。




「あれ、なあに?」




子供の好奇心とは抑えられないものだ。




今の今まで絶対口をきいてやらないと腹を立てていたのに、気づけばそんな質問をしていた。




父さんは俺を抱っこして、優しい声色で答えてくれた。




「あれは海っていうんだよ」




「うみ?」




「そう、海。綺麗だろう?僕は海が大好きなんだ」




ちゃんと父さんの声を聞いたのはそれが初めてで、なんとも眠くなる声だと思った。




僕はこれから、このうみがすきで、こえがあったかい人と生きていくんだ!




それも、悪くないと思った。




少し海水に触れてみて、海水はしょっぱいのだと知ったあと、俺は疲れて眠ってしまった。




帰りの車は、静かだったことだろう。




両親のことをお父さんとお母さんと呼ぶようになるまで、そんなに時間はかからなかった。




見ず知らずの子供の俺に、たっぷりの愛情を注いでくれる2人に、嫌う部分なんて見当たるはずもない。




「えっと……えっとね、おとうさんと……おかあさん?」




と慣れない言葉を緊張しながら口にした時、2人は俺を抱きしめ泣いて喜んでくれたっけ。




そして後日知らされたのは、明那と昴の2人も、俺の近くの家の大人に引き取られ、俺たちは同じ幼稚園に通えることにことになった。




父さんは、そこまで配慮してくれていたのだ。




何度も施設を訪れ、俺たち3人が仲がいい事を知り、なるべく離れ離れにならないように、と。




これは後に知った話だが、1番早く引き取りが決まっていたのは明那だったらしい。




その明那の両親となる人が父さんたちの住んでいる家と近かったから、心細いだろうと、明那と仲のいい俺を引き取ることにしたのだそう。




のちに昴の引き取り手とも話をして、俺たちは変わらず一緒に過ごせるようになった。




色々なものを食べさせてくれて、色々なところに連れて行ってくれた両親。




俺が風邪で熱を出した時は、眠りにつくまで横にいてくれた。




母さんなんか、俺のために料理を張り切りすぎて火傷をしたこともあった。




おおらかな父さんと、おっちょこちょいな母さんに引き取られたこと。




俺は、人生の大半の運をここで使い切ったと思った。




父さんは仕事が忙しくて夜遅くに帰ってくるけれど、休日や空き時間は常に家族と一緒にいようとしてくれる、家族団欒を大切にする人だった。




唯鈴のことも、急なことながら快く迎え入れてくれた。




俺の時と、同じように。




朔夜、とその優しい声で呼ばれるのが好きだった。




でも、もうそれは……2度と、聞けない?




そんな、こと……




信じることが出来なかった。




何より、信じてはならないと思った。




でも、事実にあるのは父さんが亡くなったということだけ。




母さんのそばにいないといけなかったのにも関わらず、俺は家を飛び出した。




「朔!」




「おい朔夜!」




俺を呼び止める声が聞こえる。




でも俺の足は止まらずに走り続けた。




どこに向かっているのか、自分でも分からない。




ただ、家から遠くへ、遠くへ。




あの人の色で染まりきっているあの家から、離れなければ。




そうで、ないと……っ




どうやってもあの人を感じてしまう空間にいると、もういないという事実が余計に気持ち悪くて。




父さんが買ってきた玄関に飾ってあるフクロウの置物。




台所に雫を垂らしながら置かれているティーカップ。




海の色だと言って、もう7年も前に買ったボールペン。




どこを見ても、あの人だらけ。




あの声が、眼差しが、足音が、この世から消えた。




「はぁっ……はぁっ……う、はぁっ……」




泣きながらひたすらに走る。




今立ち止まったら、もう、足が動かない気がして。




父さんが死ぬはずない。




だって、今日だって朝、行ってきますって……行ってらっしゃいって……っ




父さんが出勤してから、まだ半日も経っていない。




半日前はいたんだ、あの家に。




なのに、俺たちが誕生日パーティとか、ゲームとかしてる時、父さんはっ……!




不慮の事故。




どれだけ痛かっただろうか。




想像するだけで痛いそれを、なぜ父さんが身をもって体感しなければならなかったのか。




心に優しく寄り添ってくれるという海が大好きで、間違ったことをした時は優しく真剣な声で注意して正してくれて、誰よりも家族を愛していたあの人が、どうして。




この1年で、自分の無力さを何度実感しただろう。




でも今日は、無力さよりも、怒りの気持ちが強い。




父さんが今日、俺の誕生日に事故で死ぬ運命にした、神への怒り。




いくら怒ったってこの運命が変わることはない。




それでも、この気持ちをぶつける相手がいないと、俺の心は破裂しそうで。




息が切れて、これ以上走れないと思った時。




そこにあったのは、海だった。




あの時と同じくらいの時間帯。




沈む太陽が海の青を蝕む、長いようで短い時間。




「っ……なんなんだよ、そこまで俺を苦しめたいのかよ……っ?」




家と同じくらい、今の俺にとって残酷な場所。




そこで、俺はあることに気がつく。




「……いや、違うな……」




これは、無力な俺には死ねということだ。




ああ、きっとそうだ……




神なんて曖昧なもの、信じられるわけが無いし、頭の隅では死ねなんて違うと分かっている。




でも、太陽が月へバトンを渡す夜の淵にしか、心のやり場がなくて……




父さんの好きな景色を見ながら死ねるなら、良かったじゃないか。




少なくとも、父さんよりは幸せな死だ。




人間は何故か、自殺する時に靴を脱ごうとする。




その理由が、分かった気がする。




いくら世界に失望して、拒絶をしたとしても、自分がいたというその事実の証拠を残したかったのだろう。




最期の、もう手遅れの望み。




サンダルを揃えて砂の上に置き、夕焼けへと体を沈めていく。




冬だもんな、冷てぇ………




そして腰辺りまで浸かった時。




「朔!」




「朔夜!」




追いかけてきた唯鈴と真琴の声が聞こえてきた。




でももう、振り返る気力すらない。




もっと、深いとこに……




ゆっくり足を進める。




「朔夜、何やってんの……ちょっと、朔夜!」




真琴………




「朔、お願いよ!やめて、私を置いていかないで……っ」




唯鈴のその声に、少し足が止まるも、再び動き始める。




後ろから急いで追いかけてくる真琴に、俺はあっさり捕まった。




でもだからと言って、抗おうとはしなかった。




そんな力は、残ってない。




「朔夜っ!何、考えてんの……っ」




「…………死のうと」




その時、左の頬が痛みに襲われる。




真琴に殴られたのだ。




真琴が怒る、まして手を上げるなんて初めてで、俺は状況を飲み込むのに時間を要した。




そして次は胸ぐらを掴まれて。




「そんなの……許されるわけないだろ?唯鈴と椿さんのこと残して、自分だけ楽になる?ふざけるな!」




丹色と印度藍の水平線を背に鮮明化した友情の叫び。




辺りはだいぶ暗くなってきていて、海水温もこれまで以上に下がってきた。




でも真琴はそんなことお構い無しで俺を叱り続ける。




「朔夜が自殺して喜ぶやつがどこにいるんだ!朔夜が死んで悲しむ人がいることに気がつけよ!」




怒りを隠せない真琴に、唯鈴が優しく声をかける。




「真琴、ありがとう。でも一旦上がりましょう?冷えるわ」




上がると余計に寒かったが、まだ家に帰る気にはなれなくて砂の上に座り込む。




「朔、私を見て」




唯鈴の両手が俺の頬に触れる。




ひどい顔してんだろうな、俺。




でも唯鈴は、俺の目を真っ直ぐ見つめて。




「亡くなった人が生き返ることは出来ない……」




「……」




「とは言わないわ」




「!」




生き返るなんて有り得ないだろ……と内心思いながらも、でもその言葉に救われている自分がいる。




「時に人は、大切な人のために“命だって捧げられる”ものよ。でもそれは、全ての人にできることじゃない」




感情を持たない唯鈴の一言一言に胸を打たれる。




感情は持たなくても、確かにその言葉には熱があった。




「人はいつか死ぬ。これは誰にだって共通することよ。そして、人はいつか死ぬからこそ美しい。命の消え入る様は、残酷であると同時に、次の1歩を踏み出す強さをくれるくらい綺麗で儚い」




そう言われてハッとする。




父さんの死をきっかけに俺が自殺したら、あの世で父さんに怒られ、母さんに恨まれるに違いないと。




バカだなぁ、俺………




手で空を仰ぎながら、唯鈴はこんなことを口にする。




「都合のいい解釈だって思われても仕方がないけれど、私は、人が必ず死ぬ理由として、人間の世界の美しさを上から見ていることしかできない神に自慢するためなのだと信じたいわ」




「自慢……?」




「ええ。だから、天国へ行くことは絶望するようなことではないわ。朔のお父さん……優さんもきっと、楽しく過ごしている。しばらくは悲しいかもしれないけれど、少なくとも、朔が自殺することを望んでなんかいないわ。いつも穏やかな優さんだけれど、朔が自殺しようとしたなんて知って、今頃空の上で大激怒してるんじゃない?」




「………そう、だな」




人はいつか死んでしまう。




それでもやっぱり、急な死を飲み込むにはまだ時間が足りない。




でも、自殺なんてもう考えないようにしよう。




母さんと唯鈴を残してなんて、今思うとゾッとする。




父さんの代わりに、俺が2人を守るんだ。




そう固く決意した時。




「ねぇ、2人とも……いくらなんでも寒すぎない?」




と真琴が言ってきた。




1月に海に入り、今は空気のあたる場所にいるのだから寒いに決まっている。




「確かに寒いわ。なら、帰りましょう、朔?」




「………ああ、帰ろう。俺たちの家に」




そして急いで家に帰ったあと、俺は服を着替えて涙を流す母さんのそばにいた。




その後病院へ向かうと、安らかに眠っている父さんの姿が。




顔には目立つ外傷がなかった。




でも、それが返って父さんを思い出させて、涙を流さずにはいられなかった。




悲しみに暮れながらも、今の俺には強い決意がある。




だから気持ちを入れ替えることが出来た。




後日、俺と母さんは海洋散骨をしに海へ向かった。




海が大好きな父さんには、ピッタリだと。




その日の空は、まるで父さんの眼差しのように、優しい縹色をしていた。