第一章
七月二十六日(日)
夏休み最初の日曜日も僕は部屋の片づけに追われた。前の晩の女の声は多少気にはなっていた。女の声はかなりはっきりと聞こえたような気がしたが、ほぼ一日中部屋にいても一向に女の声は聞こえてこなかったので、夕方にはやはり気のせいだったのかと思い始めていた。
女が声を掛けてきたのは、僕が早めの夕食を近所のラーメン屋で済ませて、前の晩と同じようにガラス戸の前に腰を下ろして三線を構えた時だった。
「すみません。昨夜は驚かせて御免なさい」
申し訳なさそうな声だった。
前の晩の声が幻聴ではなかったことがはっきりした。尋常ではない出来事に少々驚いたものの僕は丁寧に相手に問い返した。
「あの、もしかして、昨日の夜に声を掛けてきた方ですか?」
「はい、申し訳ありません。脅かすつもりはなかったのです。まさか私の声が聞こえると思わなかったし、歌がとても素敵だったので、つい声を掛けてしまいました」
「そうでしたか」
言った時点で、僕は恐怖を感じることもなく事態をすっかり冷静に受け止めていた。それはたぶん、声の主に邪悪さが感じられなかったことと、前の晩に僕の歌を褒めてくれたことが原因だったのだろう。しかし、やはり相手の正体は気になった。
「僕には、あなたの声は聞こえるけれど姿は見えない。あなたは幽霊なんですか?」
「いいえ、あなたと同じ生きた人間です。幽霊でも、妖怪でも、宇宙人でもありません。今、私たちは不思議な状況に置かれているので不審に思われるのは分かりますが、信じてください」
女の言葉には嘘は無いような気がした。
僕は質問を続けた。
「僕にはあなたの声しか聞こえないけど、あなたの方はどうなんですか?僕の顔とか部屋の様子とか見えるんですか?」
「私にはあなたの顔も部屋の様子も見えています」
「それはちょっと不公平ですね。今、あなたはどこにいるんですか?」
「え、あの、それは、同じ、同じ町内にあるアパートにいます」
女は少し動揺しているようにも感じられ、その言葉には嘘があるような気もした。話題を逸らそうとしたのか、今度は女が質問をしてきた。
「あの、昨夜の歌の歌詞にあった竹富はどこにあるのですか?やはり沖縄ですか?」
「沖縄ですよ。八重山諸島って知っていますか?」
「すみません。知りません」
女の声は少し恥ずかしそうに聞こえた。そこで、僕は八重山について教えてあげることにした。
「八重山諸島は日本の最南端の島々です。西のはずれでもあり、もう台湾のすぐ近くです。八重山諸島の玄関口になるのが石垣島です。沖縄本島から石垣島までは飛行機で一時間かかります。竹富島は石垣港から船で十五分くらいの所にある小さな島です」
「きっと素敵な島なんでしょうね。どんな所か、少し詳しく教えてくれませんか?」
女が興味を示したので僕は竹富島の概要について語った。
「竹富島は島全体がテーマパークみたいな所です。基本的には全ての家が昔ながらの赤瓦の家です。奇麗な浜がいくつかあります。中でもカイジ浜は僕が八重山で一番好きな場所です」
話している相手の姿が見えないので反応がつかめないせいもあり、調子に乗って余計なことまでしゃべり過ぎたかと反省したが、そうでもなかった。
「他には、どんな島があるんですか?」
僕の話に興味を失くした様子はなく、女が更に聞いてきたので僕は全ての島の名前を言って聞かせた。
「石垣島、竹富島の他には、黒島、小浜島、新城島、西表島、鳩間島、波照間島、与那国島と全部で九つの有人島があります」
「西表島は聞いたことがあります。天然記念物のイリオモテヤマネコがいる島ですよね。ヤマネコを見たことがありますか?」
女はイリオモテヤマネコが簡単に見られるものと誤解しているようだった。
「ありません。島の人でもめったに見ることはないそうです」
「そうでしたか」
残念そうに言った後、女は更に問いかけてきた。
「あなたは全部の島に行ったことがあるんですか?」
「はい、あります。実は、八重山の九つの島、それぞれの歌を作ろうとしているところです。昨夜の歌もその一つです」
「すごいですね。プロのシンガーソングライターなんですか?」
女があまりにも驚くので僕は返答するのが少し恥ずかしくなった。
「まさか。単なる趣味です。僕はただの大学生ですよ」
「そうですか。どんな学科の生徒さんなんですか?」
「英語英文学科の二年生です」
「英語なんてカッコいいですね」
女が僕のありふれた学科にさえ感心してくれるので、僕はますます恥ずかしくなった。女は何か考えたようで少し間を置いてから問いを発した。
「じゃあ、年齢は二十くらいですか?」
「はい、二十です」
言った後、僕は少し躊躇したが思い切って相手の年齢を聞いてみることにした。
「あの、本来なら女性に年齢を尋ねるのは失礼だと思っています。でも、僕にはあなたの姿が見えないので口の聞き方に少し困っています。あなたは何歳ですか?」
「あ、えーと。その、私は」
女がすぐに答えなかったのは単に恥ずかしかったからと言うだけではないような気がした。
それはさておき、僕はまだ自分たち二人が相手の名前さえ聞いていないことに気づいた。僕は先に自分の名前を名乗ることにした。
「すみません。順番が違っていました。まだ、お互いの名前も知りませんでしたね。僕の名前は山崎純、純は純粋の純です」
「私は玉木真澄、十九歳です。苗字は『王』に点のついた方の『玉』で、『木』は『木曜日』の『木』です。『真澄』は真実の『真』と澄みきった空の『澄』です。近くの工場で働いています」
先ほど言い淀んでいたのが?のように女は自分の名前や年齢まで素直に教えてくれた。不思議なもので、相手の素性が少し分かっただけで女のことが少し身近に感じられるようになった。
「真澄さん、僕たちはあまり年齢も変わらないようだから、敬語は止めて気楽に話しませんか?」
「そうね、そうしましょう」
そう言った後すぐに、真澄は友達に話すような口調で聞いてきた。
「あの、昨夜の歌のことで聞きたいことがあるだけど、教えてくれる?」
「何かな?」
「あの歌って実話なの?」
僕はほんの一瞬だけ回答をためらった。
「まさか、作り話だよ」
「でも、似たような出来事があったとか、ヒロインのモデルがいたとか、そういうことは無いの?」
僕はすぐには答えられなかった。少しだけ胸が痛んだ。
「無いと言えば嘘になるかな。もちろん歌だから、全てが事実ではないし、色々と脚色はしているけどね」
「ねえ、もし良かったら、その時の話を聞かせてくれないかな?」
僕は少し迷ったが話すことにした。
その歌ができたいきさつを誰かに話したことはそれまで一度もなかった。それなのに、前の晩に知り合ったばかりで声しか聞こえない相手に、どうして話す気になったのか自分でも良く分からなかった。でも本当は、いつか誰かにその話を聞いて欲しいとずっと思っていたのかもしれなかった。
「きっかけから話すと、すごく長くなるけどいいかな?」
「うん、聞かせてくれると嬉しい」
真澄の声からは興味津々の様子が伝わってきた。
「今から三年半前になるかな、僕は高校一年の一月に初めて竹富に行って、あの歌を書いたんだ。でも、あの歌の話をするなら竹富に行った経緯から話すべきだと思うんだ」
三線をケースに戻すと、僕は覚悟を決めて竹富に行った経緯から真澄に話し始めた。
約四年前、僕は今通っている大学の付属高校に入学した。二学期が終わるまで、僕はごく普通の高校生活を送っていた。僕がいた1年2組は男子の学級委員の不動と女子の学級委員の吉沢さんを中心とした仲の良いクラスだった。
しかし、年が変わり三学期が始まると僕の生活は一変した。僕へのいじめが始まったのだ。いじめの首謀者は、なんと学級委員の不動だった。不動は成績も学年でトップ、スポーツも万能で何かの格闘技も習っているという話だった。なかなかのイケメンでいじめとは縁のなさそうな好青年だった。
当然、女の子にも人気があったが不動は誰とも付き合っていなかった。同じクラスの馬場祐子のことが好きだからだという噂があった。その馬場祐子は僕のガールフレンドだった。
僕と祐子は軽音楽部の部員で、共にギターを弾いていた。入学後すぐに付き合い始めた僕たちはそれを周囲にうまく隠していたが、おそらく冬休みの間にそのことが不動に知れたらしい。そして、嫉妬は不動の理性を完全に破壊してしまったようだった。
三学期が始まると、僕は、机に落書きをされる、カバンにゴミを入れられる、持ち物を隠されるなど、陰湿ないじめに合うようになった
それから、徐々に僕を無視するクラスメートが出始めた。クラスに強い影響力を持つ不動には逆らえず、ついに僕はクラスメート全員から無視されるようになった。
不動は、好意を抱いていたせいか祐子にはいじめの矛先を向けなかった。不動のいじめの方向はもっぱら僕にだけ向いていた。
それでも、祐子だけは僕の味方だと言ってくれた。しかし、それも長くは持たなかった。ほどなく、僕は祐子から別れ話を切り出された。祐子はあれこれと別れの理由を並べたが、それは如何にもとってつけたようなものばかりで何の説得力もなかった。祐子もあっさりと僕を無視する側に回ってしまった。
それでも、僕は学校に通い続けた。学校に来なくなったら自分の負けだと思った。家族にも、先生にも、相談はしなかった。一人で乗り切るべきことだ、そして、自分にはそれができるはずだと、自分に言い聞かせて毎日耐え続けた。
しかし、ある日、ついに糸が切れた。もう、何もかもどうでもよくなった。僕はどこか遠くへ行きたいと思った。そして、地図を見た。雪の降る北にはさすがに行く気になれなかった。そこで、南を見た。日本の南の果てに、東京から最も遠い場所、八重山諸島をみつけた。そこはもう台湾に近かった。
わずかな時間遠くへ行ったところで、いじめが解決することがないことは分かりきっていた。それでも、僕はただ逃げたかった。どこか遠くへ行きたかった。愚かなことをしているという自覚はあったが、結局、僕は八重山の玄関口である石垣島行きの飛行機に乗っていた。平成十九年一月十八日のことだった。
しかし、僕は八重山に着いた十八日も次の十九日も天候に恵まれなかった。わざわざ日本の最南端まで来たというのに僕の気分は沈みきっていた。
転機が訪れたのは十九日の午後、その夜から二泊する竹富島の民宿に電話を掛けた時だった。予約を入れた時、船に乗る前に電話を入れるように言われていた。
「はい、のむら荘です」
電話から聞こえてきた女性の声が綺麗だと思った。
「今日予約をしている山崎です。四時半の船に乗ります」
「はい、では、港でお持ちしております」
なぜだか分からなかったが、僕はその美しい声に妙に魅かれた。一体どんな人なのだろうかと思い、僕は竹富島行きの高速船に乗った。
高速船を降りて桟橋に立った瞬間に、僕は電話に出た女性をみつけた。いや、見つけたと思った。彼女が持っているボードに書かれた僕の名前が見えたわけでもないのに、この人だと僕は確信した。彼女の周りだけが、なぜか光り輝いているような気がした。
近づいてみると僕の直感が間違いでないことが分かった。彼女が持っているボードには確かに僕の名前が書かれていた。
「山崎です」
僕が声を掛けると彼女は綺麗な声で応えた。
「お待ちしておりました。どうぞこちらに」
そう言いながら彼女は僕を駐車場に止めた車の方に案内した。
三十歳くらいに見える彼女の服装は宿の名前が入った紺のトレーナーにGパンと、極めえてシンプルだった。背中の真ん中辺りまで伸びた美しい黒髪は後ろで一本に束ねられていた。見栄えよりも働き易さを優先しているようだった。
僕の身長は百七十四センチだったが、彼女の身長は僕より五センチくらい低い程度だったので、女性としてはかなり背が高い方だった。細身の体はスタイルが良く、手も足もすらりと長かった。
男の僕から見れば、化粧など何もしていないように見えたが、それがかえって彼女の顔立ちの美しさを際立たせていた。
大げさに言えば、人生に疲れ、何かを求めて八重山に来た僕は、出会った瞬間に既に彼女に魅入られていた。
「こちらに荷物を入れてください」
彼女はミニバンの後部のハッチを開いた。言われた通り僕はそこに自分のリュックを置いた。次に彼女は後部座席のスライド式のドアを開いた。
「こちらにお座りください」
僕は黙ってシートに腰を下した。彼女は運転席に着くとエンジンを掛け、とても慎重に車をバックさせた。そして、静かに前進すると駐車場の出口で緩やかなカーブを描いて左折した。
車はすぐにのむら荘に到着した。石垣に囲まれた母屋は伝統的な赤瓦の家だった。母屋の脇には、食堂と宿主一家の住居を兼ねた建物があった。その建物の軒先にはテーブルと椅子が置かれた談話スペースが設けられていた。
僕は彼女に導かれるまま談話スペースに腰を下した。彼女は僕の向かいに座るとテーブル越しに宿帳を差し出した。
「これに、ご記入をお願いします」
彼女に言われて僕は必要事項を記入した。
「山崎さんは東京からですか?」
「はい」
僕が答えると彼女は少し嬉しそうな顔をした。
「私も東京出身なんですよ」
言われてみれば、確かに彼女は沖縄の人らしい顔立ちではなかった。
「そうですか。こちらの方ではなかったんですね」
「はい、ただのスタッフというか、居候のようなもんですね。ああ、申し遅れました。私は柏木奈々、奈々って呼んでください」
その後、彼女は業務的な仮面をさらりと外した。
「あの、山崎さんじゃなくて、純君って呼んでいい?」
「はい、そうしてください」
「じゃあ、純君よろしく」
「はい、奈々さん、こちらこそよろしく」
奈々さんと少し距離が縮まったような気がして僕は嬉しかった。
「じゃあ、部屋はこっちね」
奈々さんが案内してくれた母屋の部屋に僕は荷物を運び込んだ。そして、畳の上に寝転んで天井を見上げた。旅に出てから初めて落ち着いた気分になった。
それからしばらくして、夕食の時間がやって来た。畳敷きの細長い食堂には、片側三人掛けくらいのお膳が一つだけあった。旅行シーズンにはもう二つくらいお膳が並べられるようだった。料理は四人分が用意されていた。
その日の僕以外の宿泊客は、山田博隆さん・理恵子さんという年配のご夫妻、そして、若いカメラマンの日野さんだった。彼らはのむら荘の常連で、夕食を食べながら僕に八重山のことを色々と教えてくれた。そんな中、僕は理恵子さんに聞かれた。
「ねえ、純君はどうして、のむら荘を選んだの?」
「ネットの口コミにあった『安らぎ』という言葉に魅かれたんです」
「それは正解だったね。俺は色々な宿に泊まっているけど、ここくらい安らげる所は無いよ」
日野さんが自分の体験を話してくれた。
そんな風にして続く夕食を食べながらの会話は実に楽しいものだった。
「じゃあ、そろそろ片付けましょうか?」
夕食が済むと理恵子さんが声を掛けた。日野さんも僕たち四人の茶碗やお皿を重ね始めた。食器を運ぶのがのむら荘のしきたりのようだった。僕もそれに習った。博孝さんが四人分の食器を戻すために厨房に続く小窓を開けた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
厨房から、宿のご主人の義男さんの声が返ってきた。理恵子さんが用意されていた布巾でテーブルを拭き終わった頃、厨房に続くドアを開けて義男さんが現れた。
「では、ユンタクは、ここで八時からですから。今日は私の代わりにオジイがやってくれます。ああ、強制ではありませんが、山崎さんも良かったら参加してくださいね」
「ああ、はい、時間があれば」
僕は何だかよく分からないまま適当な返事をしていた。
義男さんが厨房に戻った後、僕は理恵子さんに尋ねた。
「あの、ユンタクって何ですか?」
「まあ、おしゃべりの時間ね。お酒も飲めるわよ。三線も聴けるし、歌えるし、最後は少し踊ったりするの。純君も是非参加してね」
「はい、参加させてもらいます」
今度は本気で答えていた。
そして、僕たちは食堂を出てそれぞれの部屋に戻った。
夕食の後、僕はシャワーを浴び、八時ちょうどに食堂に着いた。山田さんご夫妻と日野さんは既に来ていて、夕食の時と同じ席に座っていた。四人の間には泡盛や氷が用意されていた。僕が席に着くと理恵子さんは黙って三人分の泡盛を注ぎ始めた。僕には麦茶を注いでくれた。
そこに厨房の方から、義男さんの父であるオジイと奈々さんが入ってきた。二人は僕の左側、テーブルの端の方に座った。理恵子さんは二人の分の泡盛を注いでグラスを二人の前に並べた。オジイは僕たちの顔をちらりと見てから、ユンタク開始の挨拶をした。
「みなさん、今日も集まってくれてありがとうございます。義男は今日、会合があって出かけておりますので、私と奈々ちゃんでやらせてもらいます。では、みなさんグラスを持って」
僕たちはそれぞれにグラスを掲げた。
「それでは、今日の出会いに乾杯しましょう。では、乾杯」
「乾杯」
僕たちも声を揃えた。
「それじゃあ、まずは自己紹介から」
オジイが司会を始めた。
「ああ、オジイ。それはもう夕食の時に済んでいるんです」
博孝さんが報告をした。
「そうですか、じゃあ、さっそく歌いましょうかね。日野さん、歌集を取ってくれんかね」
「はい」
日野さんは立ち上がると、オジイたちが座っているのとは反対側の壁際に置かれた棚から人数分の歌集を取り出してきて僕たちに配った。日野さんにとっては毎度のことという様子だった。
歌集は手作りのもので、表紙にはオジイやのむら荘の建物、それにハイビスカスやブーゲンビリアの写真が載っていた。
「じゃあ、まずは1ページ。やっぱり『安里屋ユンタ』からかな。奈々ちゃん、よろしく」
オジイが声を掛けると奈々さんは立ち上がり、後方のテレビの台の下から三線のケースを持ってきた。再び席に座り直すとケースから三線を取り出し、右手の人差し指に三線の演奏に使う爪の様な道具をつけた。それから、左手で糸を巻きながら、自分の耳だけで音を合わせていった。ごく何気ない仕草なのに、僕にはそれがとても美しいもののように感じられた。
奈々さんが歌おうとしている「安里屋ユンタ」は、かつて竹富に住んでいたクヤマという絶世の美女の歌だということはガイドブックを読んで知っていた。
「じゃあ、始めます」
奈々さんがイントロを弾き始めた。その瞬間に鳥肌が立った。初めて聴く生の三線の音は僕の心に波を立てた。しかし、それはまだ、ただの細波に過ぎなかった。イントロに続く奈々さんの歌声が響き始めた時、僕は津波のような大波に飲まれ一瞬息が止まった。
糸を押さえる左手と、それを弾く右手の動きが艶やかだった。僕の目は歌う奈々さんの姿に釘付けになっていた。まるで伝説のクヤマがそこにいるような気がした。僕が呆けているうちに歌は終わってしまった。他の人たちが拍手をした時、僕はやっと我に返った。
「次は純君も歌える歌にしましょうね。だから、今度は純君も一緒に歌ってね。じゃあ、十七ページ」
奈々さんの言葉に、僕は頬が火照るのを感じた。奈々さんに見とれていたことに気付かれたような気がした。僕は慌てて十七ページを開いた。
そこに載っていたのは確かに僕も歌える歌だった。奈々さんの歌声に自分の声を重ねることは冒涜以外の何物でもないような気がしたが、みんなで歌ってみると、それはとても楽しかった。
それから、奈々さんは次々とみんなが歌えそうな歌を選び、僕たちは一緒に歌った。こんな風に楽しい時間を過ごしたのは久しぶりだと僕は思った。
「さて、みんなで歌うのも良いけど、そろそろ奈々ちゃんのソロの歌と三線をしっかりと聴かせてほしいな」
頃合を見計らっていたように博孝さんが言い出した。
「俺も、そろそろ聴きたいと思ってたんだ」
日野さんも同調した。
「じゃあ、リクエストにお答えしてやらせてもらいます」
奈々さんは糸を巻き直すと次の曲のイントロに入った。それは少し悲しげなメロディーだった。イントロに続く歌の歌詞は沖縄方言ではなく内容は全て理解できた。八重山を離れて十二年になるという望郷の歌だった。東京出身の奈々さんにとって、八重山は異郷の地だったが、歌に込めた思いは何の不自然さも感じさせることなく僕の心に染み渡っていった。僕は一音も聴き逃すまいと、奈々さんの歌と三線に耳を傾けた。
望郷の歌が終わると、次のリクエストをしたのは理恵子さんだった。
「奈々ちゃん、次は徳之島の闘牛の曲を聞かせてくれないかしら?」
「ああ、あの速弾きの曲か」
博孝さんが感慨深げに言った。
「純君、これは中々見ものだよ」
日野さんの言葉に期待が膨らんだ。
「じゃあ、やらせてもらいます」
奈々さんは三線を構えて演奏に入った。その途端に僕の体に電流が走った。僕は一度も見たことのない闘牛の様子が見えたような気がした。奈々さんの演奏の迫力は牛同士がぶつかり合う戦いの激しさそのものだった。奈々さんの左手は三線の竿の上をものすごい速さで上下し、指は軽やかに踊っていた。右の人差し指についたバチは左手の動きに一瞬たりとも遅れることなく糸を弾き続けていた。
ギターの経験のある自分には、奈々さんの演奏のすごさが身にしみて分かっていた。僕は更に強く奈々さんに魅かれていった。
「じゃあ、最後はカチャーシーを踊って締めます」
オジイがユンタクの終わりを告げた。僕はそれが残念でならなかった。もっともっと奈々さんの歌声と三線を聴いていたかったからだ。
僕が気後れしているように見えたのか、オジイがカチャーシーの踊り方を教えてくれた。
「純君は初めてだったね。まあ、簡単だよ。こんな風に、男は両手をグーにして、それを頭の上で左右に向けて体を揺らすだけだから、じゃあ、みんな立って」
山田さんご夫妻と日野さんが立ち上がり、やや遅れて僕も続いた。奈々さんがにぎやかな曲を弾き始め、歌がそれに続いた。山田さんご夫妻と日野さんは上手に踊っていた。僕はなんとかそれを真似しようとしたが、あまり上手くいかなかった。ただ、それでも楽しかった。
その時、僕は東京のことなど何も考えていなかった。
その晩は久しぶりに良く眠れた。
翌朝、気分よく目が覚めたが外はまだ暗かった。真冬なのに加えて、日本の最西端に近い竹富では日の出が東京よりもかなり遅かった。
太陽が顔を出した頃に、まだ静まり返ったままの宿の門外に出てみた。オジイの奥さんらしき女性が白砂の道を竹箒で掃き清めていた。
天気も良く、真冬だというのに寒さはまったく感じられなかった。それはまるで夏の高原で迎えるような清々しい朝だった。
朝食後、僕は談話スペースでガイドブックを見ながら少し途方にくれていた。竹富をどこからどう回ろうか、何も決まっていなかったからだ。
いつの間にか気温がすごく上がっていた。昨日までが嘘のように空が晴れ、夏と言って良いほどの天気になっていた。奇跡的な陽気だと僕は思った。
しかし、奇跡はそれに留まらなかった。奈々さんは食堂の建物の裏手からやって来ると、まるで僕の心を見透かしたように言った。
「純君、島を案内してあげるから、ついてきて。ああ、今日は夏みたいに暑いからTシャツに短パンで十分だよ」
まったく予想もしていなかった展開に、僕は一瞬、自分の耳を疑った。奈々さんはTシャツにハーフパンツという夏らしい服装をしていた。シャツとパンツから伸びた長い手足が妙に眩しかった。
「じゃあ、僕、寝巻き代わりに持ってきたシャツと短パンに着替えてきます」
「早くしてね。なごみの塔が混んじゃうから」
僕は慌てて部屋に戻り着替えをした。部屋を出て靴を履こうとしたら、奈々さんに止められた。
「靴なんかじゃなくて、サンダルにしたほうがいいわよ。ちょっと待ってね」
奈々さんは敷地の奥の方からビーチサンダルを持ってきてくれた。
「はい、これ履いて」
「ありがとうございます」
僕は靴下を脱いで部屋の中に放り込むと用意してもらったサンダルを履いた。
「じゃあ、自転車で行こうね。自転車は駐車場の奥にあるから、ついてきて」
「はい」
奈々さんは門を出るとすぐに右に曲がった。そして、右手にある駐車場の奥に向かった。僕も後に続いた。車の後ろに貸し出し用の自転車が並んでいた。
「どれでも、好きなものを選んで」
奈々さんの言葉通りに僕はサドルの高さが高めになっているものを選んだ。自転車を引き、奈々さんの後について宿の前の道に戻った途端に、僕たちは島の若い男に出くわした。
「奈々ちゃん、そいつ誰ね?」
男は不機嫌そうだった。
「ああ、従兄弟の純君。小さい頃から可愛がっていた子なんだけど、遊びに来てくれたの」
「ああ、純です。奈々さんがいつもお世話になっています」
僕は咄嗟に口裏を合わせた。男は相変わらず不機嫌そうだった。
「じゃあ、行こうか」
そう言って自転車を漕ぎだした奈々さんに僕はついていった。
しばらくすると、奈々さんがクスクスと笑い出した。
「純君、嘘が上手いのね」
「勘弁してくださいよ。冷や汗がでましたよ」
「まあ、この先も従兄弟ってことにしておいてね。そうしないと、色々と面倒なことになると思うから」
見えはしなかったが、奈々さんは少しズルそうな顔をしていそうな気がした。
「奈々さん、もてるんですね」
「島には若い女性が少ないから目立つだけよ」
そんなやり取りをしながら、僕たちは真っ白な細い道を自転車で進んだ。道の両側には黒い石を積み上げてできた石垣が続いていた。家々の赤瓦の屋根は夏のような日差しを浴びて青い空に映えた。迷路のような竹富の道を奈々さんと二人で自転車を漕ぎながら、僕は八重山に来て初めて旅人になれたような気がした。
集落の中を一通り回った後、僕たちは島の中心部にある公園のような場所にたどり着いた。そこには、えらく急で細い階段のついた小さなコンクリートの塔が建っていた。
「あれが、なごみの塔よ。この島の観光名所の一つ。登ってみましょうね」
奈々さんは、一旦、塔の前を通り過ぎて近くの自転車置き場に向かった。そこに僕たちは自転車を並べて置き、塔の方に戻った。僕は奈々さんの後について行ったが、塔の台座の部分の階段を上り、いよいよ塔そのものの下まで来ると、先に行くように言われた。
言われるがまま、僕は階段を上り始めた。階段は人一人がやっと通れるほどの幅しかなく、まるで梯子を上っているようで少し怖かった。
僕の後を奈々さんがついてきた。僕はすぐに塔の上の展望スペースのようなところに着いたが、そこもやはり人間一人がやっと立てるぐらいの広さしかなかった。僕は後から上ってきた奈々さんに塔の展望スペースの手すりに押し付けられるような格好になった。
奈々さんの胸が僕の背中に当たっていた。
眼下には美しい赤瓦の町並みが広がり、奈々さんは僕の背中側から右手を伸ばしてあれこれと解説をしてくれた。しかし、十六歳の僕は、背中に当たる奈々さんの胸の感触ばかりが気になって、言葉は僕の耳を素通りするばかりだった。
「次はこっちよ」
なごみの塔の階段の下から南側の道に戻ると、奈々さんは自転車置き場の方に歩き始めた。また自転車に乗るものと思ってついて行ったが、奈々さんの行く先は自転車置き場ではなく、その向かいの小さな店だった。
一緒に店に入ると、奈々さんは冷蔵庫から飲み物を二つ取り出し僕に持たせた。更に奈々さんは見慣れないお菓子を追加して会計を済ませた。
店を出るとすぐに、奈々さんは店の前のベンチに腰を下ろした。
「座って。おやつの時間にしましょう」
言われた通りに僕はその隣に座った。僕が持たされていたペットボトルを二人の間に置くと、奈々さんは丸いお菓子の入ったビニール袋の封を開いた。そして、その中から一つを取り出すと、それを僕にくれた。
「これがサーターアンダーギー、沖縄風ドーナツといったところかな」
僕は手の中のそれを少し眺めてから噛りついた。確かに美味しかった。
「あと、こっちの飲み物はさんぴん茶、まあ、ジャスミンの入ったお茶なんだけどね」
奈々さんに言われて、僕はキャップを開け、一口飲んでみた。少し渋めの味はサーターアンダーギーの甘さと相性が良かった。
僕たちが店の前で穏やかなティータイムを過ごしていると、左手からガイドブックで見た乗り物がやって来た。水牛車だった。水牛の頭の左右から、それぞれ一本ずつ突き出た長い角はまるで一つの弓のように見えた。水牛が引く車は三角の屋根を持った長屋のような形をしていた。車の先頭にいる御者は三線を爪弾きながら「安里屋ユンタ」を口ずさんでいた。
水牛車が目の前をゆっくりと通り過ぎてゆく様を僕はじっと眺めていた。この島の時の流れは都会よりも遅い気がした。
「水牛車、乗ってみたいの?」
不意に奈々さんが尋ねた。
「いいえ、見ているだけいいです。なんか料金も高そうな気がするし」
「乗ってみようよ」
突然、奈々さんが立ち上がった。
「え!」
あっけに取られている僕に構わずに奈々さんは自転車置き場の方に歩き出した。
「早くおいで。私と一緒なら顔パス。お金はいらないから」
促されて、僕は奈々さんの後を追った。
水牛車の乗り場で奈々さんが知り合いに声を掛けると、僕たちは水牛車の前に案内された。後ろの小さな階段から狭い車に乗り込むと、僕たちは前の方に並んで腰を下した。その後に、僕たちに続いて何人かのお客さんが乗り込んできた。最後に御者のおじさんが僕たちよりも前に座ると水牛車はゆっくりと動き始めた。
水牛車は石垣の間を縫うように緩やかに進んだ。交差点に差し掛かると、御者のおじさんが何もしないのに水牛は大回りをして綺麗に狭い道を曲がってみせた。
少しすると、御者のおじさんが三線を取り出して「安里屋ユンタ」を歌い始めた。
聴き慣れてきた歌が耳に優しかった。
車が揺れると、時々、奈々さんの肩が僕の肩に触れた。奈々さんの髪からは甘い香りがした。黒い石垣、赤瓦の家、ハイビスカスの紅に、ブーゲンビリアの赤紫、そして、時おり覗いてみる奈々さんの横顔。感じるものの全てが愛おしかった。ゆっくりと進む水牛車の速度と反比例して、都会でのことが猛スピードで遠くなっていった。
「じゃあ、一度宿に戻ろうか」
水牛車を降りた後、奈々さんは宿の方に自転車を漕ぎだした。宿に着くと、奈々さんは談話スペースにある扇風機の電源を入れた。戦闘機のプロペラのような大型の扇風機が轟音を立てた。
「ちょっと休んだら、次はカイジ浜に行こうね」
僕たちはテーブルを挟んで向かい合って座ると、扇風機が送ってくる風を浴びた。
「真冬に扇風機回すなんて、ここに来て初めてだな」
奈々さんが呆れたように呟いた。
僕はそれにありきたりの言葉を返した。
「地球温暖化の影響ですかね?」
「さあ、分からないけど、本当に夏みたいね」
「そうですね。でも昨日までみたいな天気じゃなくて嬉しいです。やっと南の島に来たっていう実感が湧きました。来た甲斐がありました」
「そう、良かったわね」
嬉しそうな僕の言葉を聞いて奈々さんの顔もどこか満足げだった。
僕たちはしばらく黙って扇風機の風に吹かれていた。沈黙は決して不快ではなかった。無理に言葉で沈黙を埋めようと焦ることもなかった。僕はただ奈々さんの傍にいるだけでよかった。
しばらくしてから、僕たちは自転車でカイジ浜に向かった。奈々さんの自転車の籠には三線のケースが収まり、左肩にはトートバッグが掛っていた。日差しは熱かったが体を通り過ぎてゆく風が気持ち良かった。
やがて前方の道の果てに、深い緑で覆われた自転車置き場が見えてきた。僕たちはそこに自転車を止めてカイジ浜の方に歩き始めた。
濃い木々の緑のアーチの向こうに美しい色をした海面が見えた。短い坂を下ると、見たこともないような海がそこにあった。
海の向こうには、西表島がでんと控えていて、その手前で小浜島が小さくなっていた。西表島から海を隔ててすぐ右側に、無人島のカヤマ島がちょこんと控えていた。海は、青や薄いエメラルドグリーン、水色や紺と、様々な色のグラデーションを描きながらカイジ浜に至っていた。
奈々さんは右手に進むと、木陰の方に歩き出した。まるで座ってくださいと言わんばかりに木陰に横たわる流木を目指していた。僕は黙って奈々さんについていった。
「まずは、のんびりしようね」
奈々さんは流木の上に三線のケースを置き、トートバッグからブルーシートを取り出すと、それを広げて流木の前に敷いた。そして、すぐに三線のケースをシートの端の方に移動させた。それからトートバッグを畳んで、持ってきたタオルと共に枕代わりにすると、シートの上に横になった。僕が固まっていると、奈々さんに言われた。
「何やってんの。純君も隣で横になりなよ。気分がいいよ」
「ああ、はい、じゃあ」
僕はためらいがちに奈々さんの隣で横になった。真昼間とはいえ、人前で女性の隣に寝転んでいるのは十六歳の僕には余りにも照れくさかった。一度は奈々さんの方に目を向けたが、やはり目のやり場に困った。仕方なく、僕は奈々さんとは反対側の海に視線を向けた。その先にはコンドイ浜の白砂が細い砂州のように沖に向かっているのが見えた。
夏のような日差しが降っていたが、僕たちのいる木陰は湿気もなく実に快適だった。奈々さんから顔を背けているうちに、僕はいつの間にか眠りに落ちていた。
目を覚ますと、奈々さんが僕の顔をのぞき込んでいた。
「良く寝てたね。でも、女の子を放っておいて爆睡したりすると振られちゃうよ」
「心配しなくても、もう振られてますよ。いや、捨てられたというか」
「もしかして、それでこの島に来たわけ?」
確かにそれは理由の一部ではあったが、そうは言えなかった。
「違いますよ。そうじゃありません」
「そうよね、昭和生まれの私と違って、純君は平成生まれだからね」
少し気になる一言だった。
「ええ!私と違って?まさか奈々さん、そういう理由でここに来たんですか?」
「純君、女性にそんなこと聞いていいと思ってるの?」
奈々さんは怖い顔をした。
「ごめんなさい、忘れてください」
「馬鹿ね、冗談よ。そんなロマンチックな理由じゃないわよ」
そうは言ったものの、奈々さんの顔は少し寂しそうに見えた。なんとなく気まずい雰囲気になったので、僕は立ち上がった。カイジ浜は星の形をした砂粒が取れる所だと思い出し、それを理由にした。
「僕、星の砂を探してきます」
そう宣言すると、ビーチサンダルを履いて奈々さんの元から離れた。白い砂浜の上にしゃがみこんで、手のひらを砂に押し付けるということを何度かしてみたが、星の砂はいっこうにみつからなかった。
「馬鹿ね、そんなところを探してもないわよ」
背中から奈々さんの声がした。
「もっと波打ち際の方よ。岩の窪みに砂が溜まっている所があるでしょう。そういう所を探すのよ」
僕は言われたとおり探してみたが、やはり見つからなかった。星砂の浜というのは実は嘘ではないかと思い始めていた。
「純君、こっちに来てごらん」
また、背中から声がした。僕は振り向いて奈々さんいる所まで行った。
「純君、手を出してごらん」
僕は言われた通り左手の手のひらを奈々さんの前に差し出した。すると、奈々さんは僕の手のひらにいくつかの星の形をした砂粒を並べていった。
「ほら、これが星の砂よ」
「本当だ。綺麗ですね」
僕が答えると、奈々さんはティッシュペーパーを取り出した。そして、その上に砂粒を集めると綺麗に畳んで、それを僕にくれた。
「おみやげに持って返るといいわ」
「ありがとうございます。大切にします」
「何を大袈裟なことを言っているの。たかだか砂粒よ」
奈々さんは、あきれたように言うと流木の方に戻っていった。僕はもらったものをとりあえず短パンのポケットにしまって奈々さんの後を追った。
木陰の流木の所にたどり着くと、奈々さんは三線のケースを流木の上に乗せた後、ブルーシートを四分の一位に畳み、その上に三線のケースを置き直した。そして流木に腰を下すと僕に声を掛けた。
「じゃあ、ここらは三線タイムね。私の右側に座って」
「はい」
僕は言われたとおり奈々さんの右側に座った。奈々さんはケースから三線を取り出すと糸を巻いた。僕は奈々さんの何気ない仕草をじっと見つめていた。
「じゃあ、歌おうね」
「はい」
僕が答えると、奈々さんはイントロを弾き始めた。もはや馴染み深くなった「安里屋ユンタ」だった。歌の部分に入ると僕も奈々さんと声を合わせた。
歌が終わると奈々さんが僕の方を見た。
「どう、こうやって綺麗な海を見ながら歌うと気分が良いでしょう」
「そうですね。嫌なことなんか、みんな忘れちゃいますね」
「そうでしょ」
奈々さんは嬉しそうに次の曲のイントロに入った。僕も良く知っているバンドの歌だった。
その後、奈々さんは次々と色々な曲を弾いていった。一緒に歌えるものもあったが、僕には歌詞の意味がまるで分からない沖縄の民謡もあった。僕が歌える、歌えないは、大きな問題ではなかった。珊瑚礁の美しい海を前にして、奈々さんの三線に耳を傾けているだけで心が静かになった。これは本当に現実の出来事なのだろうか?もしかして、狐か狸にばかされているだけで、気が付いたら、あのおぞましい教室にいるのではないか。そんなことさえ考えたりもした。でも、奈々さんは確かに隣にいた。
更にしばらく歌い続けた後、奈々さんは手を止めた。
「ちょっと歌い疲れたから一休みするね」
奈々さんは三線のケースから小さな飲み物の容器を取り出すと、蓋を開け中身を口に運んだ。その容器は映画などでよく見られるものだった。カウボーイや海賊がポケットから取り出してウィスキーを飲むあれだ。フラスクという名前は後から知った。
奈々さんは更に二口目に移った。三線を抱えたままフラスクから酒を飲む奈々さんは、まるで映画のヒロインみたいで見栄えが良かった。
「あの、中身はやっぱりお酒ですよね?」
僕が尋ねると奈々さんは迷わずに答えた。
「中身はスコッチよ」
「まさかストレートってことはないですよね?」
「そうよ、私、ウィスキーはストレートでしか飲まないから」
カッコよすぎる答えだった。
「でも、ウィスキーをストレートで飲む人って、僕のイメージでは人生終わってる奴っていう感じなんですが」
「ああ、それは当たってるかも。私、確かに人生終わってるかな」
「いいえ、奈々さんのことを言ってるわけじゃありません」
僕は慌ててそう言ったが奈々さんは僕の言ったことなど気にしていなかった。
「馬鹿ね。別に怒ってなんていないわよ。純君って、本当に真面目ね。でも真面目すぎると、いつかぷつんと切れるわよ」
笑えない話だった。
奈々さんはフラスクから更にスコッチを口に運んだ。もしかしたら、島の男でさえ奈々さんを相手にしたら飲み負けるかもしれないと僕は思った。そして、こんな風にして、奈々さんは言い寄ってくる島の男たちを蹴散らしてしまう魔性の女なのかもしれないという想像が頭をもたげた。
「ねえ、純君も弾いてみる?」
少しすると、奈々さんが三線を僕の方に向けた。僕は不意を突かれたような気がしてすぐに言葉が出てこなかった。
「純君、軽音楽部でギター弾いてるって言ったよね、だったら、そんなに難しくないと思うよ」
奈々さんは簡単に言ってのけたが、僕にはまるで自信がなかった。
「そんな、無理ですよ」
僕が弱音を吐くと奈々さんの表情が少し険しくなった。
「何もしないうちに諦めちゃうの?」
奈々さんの言葉は真剣味を帯びていた。決して三線のことだけを言っているのではないような気がした。
「じゃあ、やってみます」
「いい心構えじゃない、じゃあ基本的なことだけ教えてあげるわね」
それから、奈々さんは三線の弾き方の基本を丁寧に教えてくれた。
「じゃあ、弾いてみて」
一通り説明が済むと、奈々さんは僕に三線とバチを手渡した。僕はバチを指につけて三線を構えた。
「じゃあ、まずドレミファソラシドレミファから」
奈々さんの言葉を受けて、僕はたどたどしくそれを繰り返した。奈々さんはアドバイスを交えながら辛抱強くそれに付き合ってくれた。ギターを弾き慣れている僕にとって三線は同じ種類の楽器だったから徐々にコツが掴めてきた。
しばらくすると、奈々さんは僕の上達振りに感心したように言った。
「うん、やっぱり想った通り。純君には才能があるわ」
「そんなこと、すぐ分かるんですか?」
僕は半信半疑だったが奈々さんの言葉は確信に満ちていた。
「うん、分かる。昨夜、純君の歌を聴いていて思ったの。これは理屈じゃなくて勘だけどね」
「そういうもんなんですか?」
「そういうものよ」
僕には自分の才能の有無など分かりようがなかったが、奈々さんは僕の才能を疑っていないようだった。
「じゃあ、試しに『安里屋ユンタ』を弾いてごらん」
「え、楽譜もないのに?」
僕は少々戸惑った。
「純君、もう『安里屋ユンタ』歌えるでしょう」
「歌えます。歌詞は完全には覚えていませんが」
「純君なら、歌える歌は弾けると思うよ。まあ、さすがにスラスラとはいかないとは思うけどね」
奈々さんの推測はおよそ正しかった。
「まあ、確かにギターなら、メロディーラインぐらいはコピーできますが」
「そうでしょ。三線も基本は同じよ。やってみて」
「わかりました。やってみます」
僕はどうにかして三線で「安里屋ユンタ」のメロディーラインをコピーしようとした。初め、それはまったく上手くいかなかったが、徐々に指が動き始めた。もちろん、ギターの経験がなければそうはいかなかっただろう。
たどたどしい僕の演奏に奈々さんはきちんと声を合わせてくれた。それが僕に力をくれた。最後まで決してスラスラと弾けるようにはならなかったが、ある程度は形になった。
「ほら、やっぱり諦めずにやればできるじゃない」
確かに奈々さんの方が正しかった。ただの三線の弾き方ではなく、何かもっと大切なことを僕は奈々さんに教わったような気がした。
「今日初めて三線を手にした人には見えないわね。後は練習を積むだけね」
奈々さんはどこか嬉しそうだった。
「ありがとうございます」
僕は指からバチを取り三線と一緒に奈々さんに返した。受け取ったそれらを奈々さんはケースに収めようとした。その時、僕は少し前から思っていたことを口にした。
「あの、奈々さん、もしかしてオリジナルソングとか作っていませんか?」
「どうしてそう思うの?」
「いえ、なんとなく勘というか」
「作ってるわよ」
僕の勘は当たっていた。僕はどうしても奈々さんのオリジナルソングを聴いてみたいと思った。
「あの、聴かせてもらえませんか?奈々さんの作った歌」
「他人に聴かせるほどのものじゃないわよ」
奈々さんにしては消極的なものの言いようだった。
「そんなことないと思います。僕はとても聴いてみたいと思ってます」
僕が真剣に頼み込むと奈々さんも承知してくれた。
「そうね、純君がそこまで言うならば聴いてもらおうかしら」
「お願いします」
奈々さんは少し考えた様子を見せた後に口を開いた。
「いくつかあって少し迷ったんだけど、ここで歌うなら、やっぱりカイジ浜の歌がいいかな」
「へえ、この浜の歌があるんですか。楽しみですね」
「たいした歌じゃないけどね」
奈々さんは言いながら三線の糸を巻き始めた。僕は奈々さんが歌い出すのを固唾飲んで見守った。
やがて、夏のような日差しが作った木陰に静かに三線の音が響き始めた。それは沖縄風の曲ではなかった。そして、どこか悲しげなメロディーだった。イントロが終わりに近づき、歌が始まろうとする頃になると、奈々さんの瞳は遠くを見つめていた。手前の海よりも、対岸の西表よりも、その向こうの雲よりも、奈々さんは遠くを見ていた。奈々さんが歌い始めた途端、僕はその美しい声に引き込まれた。僕を絡め取っていた穢れた世界は姿を消して、僕は歌の中の美しい世界に何処までも深く落ちていった。奈々さんは歌の中で猫になりたいと願っていた。
もし、もう一度生まれ変わるなら
私はカイジ浜の猫になりたい
あなたの好きなこの場所にずっと
一日中、一年中、たたずんでいたい
白く輝く砂にまみれて
青く煌く海を見ていたい
都会の暮らしも胸の痛みも
みんな忘れ、カイジ浜の
猫になりたい
もし、この浜の猫になれたら
今は遠いあなたの傍に行きたい
あなたと気づかず、私と気づかれず
指でそっと耳の後ろ撫でられてみたい
浜に寝転ぶあなたの横で
小さく丸くなって眠りたい
あの日の笑顔も、昨日の涙も
みんな忘れ、カイジ浜の
猫になりたい
奈々さんが歌い終わっても、僕はすぐに元の世界に帰って来ることができなかった。何も言葉が見つからなかった。これは実話なのか?などとは決して聞けなかった。そして、僕は実在するのかさえも分からない歌詞の中の「あなた」に嫉妬していた。
「どうだった?」
奈々さんに問われて、ようやく僕は我に返った。
「なんというか、言葉にできないくらい良い歌でした」
「大袈裟ね。でも気に入ってくれたなら良かったわ」
奈々さんが嬉しそうに笑った次の瞬間に、僕は今まで誰にも言わずに秘めていた望みをあっさりと口にしていた。
「実は、僕もいつかオリジナルソングを作りたいと思っていたんです。こんな歌が作れたらいいなと思いました」
「こんな後ろ向きの歌は、ウィスキーをストレートで飲むような人生終わってる奴が作るものよ。純君は、もっと明るい歌を作りなさい」
奈々さんは少し寂し気に笑った。視線は僕ではなく遠くに向いていた。
そんな奈々さんの横顔を見ていたら、どうしても奈々さんから教えを請いたいと思った。
「あの、奈々さん、僕にも歌の作り方を教えてくれませんか?前からいつかは作ってみたいと思っていたんですけど、回りには作っている人がいなかったから、なんかきっかけがなくて」
「いいわよ、じゃあ、とりあえず今日のことを歌詞にしてみて。夜までの宿題よ」
「奈々さん、なんだか先生みたいな口ぶりですね」
「そんなことないと思うけど」
奈々さんの顔が少し曇った。
「もしかして、竹富に来る前は先生をしてたとか?」
僕の言葉を聞いて奈々さんの表情が一気に厳しくなった。
「純君、こんど今みたいなこと言ったら二度と口聞かないから」
奈々さんは冗談めかして言ったが、その言葉は冗談ではないような気がした。
「待って下さい。奈々さんにまで無視されたら、僕、生きていけませんよ」
「純君って、もしかして周りから無視されてるの?」
図星だったが、そうは言えなかった。
「いえ、そんなことありません。なんというか『言葉の綾』っていうか」
「まあ、いいわ。とにかく書いてみて」
奈々さんは少しあきれ気味に言うと三線を片付け始めた。
「はい、やってみます」
そうは言ったものの、僕は難しい課題を出されたものだと途方に暮れた。そんな風にして、僕は初めて歌を作ることになった。
昼食を取ってから宿に戻り、談話スペースで一息つくと、奈々さんが次の行動の提案をしてきた。
「じゃあ、次は海を見に行こうね」
「海って、もう見たじゃないですか」
わざわざ「海」を別の物のように言う奈々さんの言葉が意味することを僕は理解できなかった。
「うん、そうね。でも、これから行くのはとっておきの場所なの。まあ、とにかく、ついてきて」
「分かりました」
とっておきの場所という言葉に僕の期待が膨らんだ。
「ああ、タオルだけは忘れずに持って行ってね」
「はい」
僕が準備を済ませ談話スペースで待っていると、奈々さんは先ほどと同じトートバッグを持って現れた。
「じゃあ、行こうか」
声を掛けられて、僕も小さなリュックを持って後に続いた。
僕たちは自転車にまたがりコンドイ浜を目指した。夏のような日差しは相変わらずだったが、手足を通り過ぎてゆく風も相変わらず優しかった。しばらくすると、僕たちはコンドイ浜の入り口に到着した。
道の両側の木々が作り出す濃い影の先に白い砂浜が見えた。浜と防風林を仕切る壁に沿って自転車置き場が設けられていた。僕たちはそこに自転車を止めた。
コンドイ浜は砂浜が広く、開放感のある浜だった。木陰の近くまで波が寄せてくるカイジ浜とは対照的だった。しかし、海はすっかり潮が引いていて、遥か遠くまで白い水底が顔を出していた。
「奈々さん、海を見に行くって言いましたけど、海なんてほとんど見えないじゃないですか」
奈々さんの真意を測りかねている僕をからかうように奈々さんは笑みを浮かべた。
「沖の方まで行くのよ。そこから、とても綺麗な海が見えるわ」
「なるほど」
奈々さんは波打ち際に近づくと、海面の様子を確かめながら左手のカイジ浜の方向へ歩き続けた。僕はただ奈々さんについていくだけだった。
「じゃあ、ここから海に入るわよ」
しばらくして、奈々さんが宣言した。
「わかりました」
僕の答えを確認すると奈々さんは海に足を踏み入れた。僕もその後に続いた。気温は夏のようだったが水温の方は冬の海そのものだった。初め低かった水位も徐々に深くなり、僕たちは短パンの裾をまくらなければならなかった。
白い海を生まれて初めて見た。真っ白な砂の水底まで見える澄んだ海は正に白い海だった。その信じられないような美しい海の中を奈々さんがゆっくりと歩いてゆく。より上の方まで見えるようになった奈々さんの足に目を奪われて、一度転びそうになった。僕はどうしようもなく十六歳だった。
やがて、再び水深が浅くなり、僕たちは白い砂の大陸に上陸した。目の前には白い平野が広がっていた。
奈々さんは左手に見える黒島の方向に歩いていった。海はその方向に向かって潮が引いていっているようだった。そちらの方向だけ、まだ、わずかに水が残る部分があり砂も濡れていた。僕たちは、たまにぶつかる水溜りを横切りながら歩き続けた。そして、とうとう僕たちは白い世界の果てに到着した。
真冬だというのに波の上を蝶々が飛んでいた。水深が極めて浅い白い海は少しずつ青みを増して左手の黒島の方に続いていた。極めて平らな黒島は空と海の青に挟まれて少し霞んで見えた。
右手に目を向けると西表、小浜、カヤマ、そして石垣と、八重山の島々がずらりと並んでいた。砂の大陸の延長である浅い海は、西表や、その手前の小浜島まで歩いていけそうに見えた。
振り向いてみると、左手のコンドイ浜も、右手のカイジ浜も、砂の大陸の遥か彼方だった。小さな人影が見えなくもなかったが、ほとんど無いに等しかった。
空の青、沖の海の緑、砂の白、目に見える世界の全てが美しかった。そして、その美しいものだけがある世界には僕と奈々さんの二人しかいなかった。
「ここに、こんなに綺麗な海があること、あまり知られていないのよ」
奈々さんの言葉を聞いて横を向くと、奈々さんは遠くを見つめていた。
「そうですか、なんかもったいないですね」
「うん、でも、その方が良いと思うのよね。ほら、だってこんな綺麗な景色を独占できるって素敵だと思わない?」
「そうですね。僕もそう思います」
本音だった。穢れたものなど何一つないその場所に、僕はいつまでも二人きりでいたいと思っていた。しかし、それは叶わぬ夢だと知らされた。
「でもね、ここには長くはいられないのよ。もうすぐ、ここは海の底に沈んでしまうの。あと少しで干潮だから、その前に少し余裕を持って戻らないといけないの。服が濡れるぐらいで済めば良いけど、下手すると他所の国まで流されてしまうかもしれないわ」
「そうですか、残念ですね」
言葉通り残念極まりなかった。そして、その後の奈々さんの言葉は更に切なかった。
「ほとんどの人が知らなくて、わずかな時間しか姿を現さない。ここって少し不思議の国みたいでしょ。でも、美しいものだけがある世界にはいつまでもいられない。いつかは現実に帰らなければならない。ちょっと寂しいよね」
ちょっとではなかった。僕は次の日には、美しい島に、そして奈々さんに別れを告げなければならなかった。
「じゃあ、戻ろうか」
奈々さんが波打ち際を右手に歩き始めた。僕はその背中を追った。砂の大陸を大回りして僕たちはコンドイ浜に戻った。
自転車に乗り浜を去る前に、僕はもう一度沖に目をやった。僕たち二人だけの美しい世界はもうすぐ海の底に沈んでしまうのかと思ったら、たまらなく寂しくなった。
夏のような日差しを投げかけていた太陽も、そろそろ西に傾き始めていた。
のむら荘に戻ると、僕は談話スペースで持ってきたメモ帳を広げた。そして、奈々さんに出された作詞の宿題に取り掛かった。夏のように暑い一日にはあまりにも色々な出来事があり過ぎた。とてもすべてを語ることはできなかった。だから、語るべきことを絞ることから始めた。絞り込みが済みどうにか歌詞を書き始めた頃、夕食の時間になった。
宿泊客は増えも減りもせず、昨夜と同じ顔ぶれだった。昨夜同様に楽しい夕食の時間が終わると、僕は談話スペースに腰を下ろし、作詞の宿題に再び取り掛かった。
初めて取り組む作詞という作業は決して簡単ではなかったが、なかなか面白いものだった。紆余曲折を経て、ユンタクが始まる前にどうにか歌詞は完成した。とはいえ、出来上がった詞は自分でも稚拙に思えて、とても奈々さんが合格点をくれるとは思えなかった。
お茶を飲みながらメモ帳とにらめっこをしていると、後ろから奈々さんに声を掛けられた。
「純君、宿題はできたの?」
「ああ、やっぱり奈々さん・・」
言いかけて口をつぐんだ。奈々さんに無視されたくはなかった。僕は手元にあったメモ帳を開いて奈々さんに差し出した。奈々さんは僕の隣に腰を下して真剣に僕の書いた歌詞に目を通した。
「う~ん、純君、今までに歌詞を書いたことあったの?」
「いえ、初めてです」
「まあ、初めてにしては、とても良いと思うわ。元号まで日付が入っている歌なんて斬新だと思うわ。どうして、こんなにご丁寧に日付を入れたの?」
「いえ、たぶん僕にとって歴史的な日付になるだろうと思ったので」
「純君は大袈裟な表現が多いね」
「いえ、ちっとも大袈裟じゃありません」
僕の確信を他所に、奈々さんは少々呆れたような顔で講評を続けた。
「まあ、いいわ。それは別として、問題点がいくつかあるから言っておくわ」
「どこでしょうか?」
何を言われるのだろうかと僕は身構えた。
「そうね。一番、二番の最後に出てくる『夏のような日』という表現はもっと別の言い方にするべきだと思うわ」
「どういうことですか?」
僕にはそうすべき理由がわからなかった。
「つまりね、日常会話みたいな表現では歌詞としては面白くないということ」
面白くないと言われても、僕はただ途方に暮れるだけだった。
「どうすればいいんでしょう?」
「それは自分で考えなさい。純君の歌なんだから」
このまま突き放されては溺れてしまいそうだった。僕は藁をもすがる思いで懇願した。
「じゃあ、何かヒントをもらえませんか?」
「そうね、『夏のような日』はあまりにも子供っぽい表現だし、もっと簡潔でインパクトのある言葉に変えるの。純君は真冬の大都会から、まるで別世界のようなこの島に来たわけでしょう。しかも、島の人さえめったに経験しない夏みたいな日を体験した。だから、そういう非現実的な雰囲気を伝えられるような七文字の言葉を探すのよ。もしかしたら、それは歌のタイトルにできるかもしれない」
「すごいアドバイスですね。やっぱり奈々さんは・・・」
「何、何が言いたいの?」
奈々さんが怖い顔をした。
「いえ、何でもないです」
やはり、僕は無視されたくなかった。
「あと、二番の星の砂のくだりだけど、男女の立場を逆転させた方が良いわね。女の子が探し当てた砂を男がもらうのはロマンチックじゃないでしょ」
「でも、それは現実じゃないし」
僕がそう言うと奈々さんはまた呆れたような口調で話し始めた。
「純君、歌詞は君の日記じゃないのよ。現実である必要なんか無いの。多くの人が共感できる美しい物語であるべきなのよ。もちろん作り手の純君の思いが欠片も残っていない歌詞を書いたら、良い歌詞にはならないと思うけどね。だから自分だけの思いは、こっそりと少しだけ忍ばせるようにするのよ」
奈々さんの話には説得力があった。
「分かりました。自分の思いが完全に消えない範囲で、現実と虚構の折り合いを上手くつければいいわけですね?」
「そういうことね。ああ、ごめんね。でも、これは私の持論だから、他の人は私とは全く違うことを言うかもしれないわね。大体において、物語性はほとんどなくて抽象的だけど素晴らしい歌詞を書いている人は沢山いるものね。残念だけど、私にはそういう歌詞の書き方は教えられない。でもとりあえず、この歌はそういう方向性で作ってみて。たくさん歌を作って色々な人の意見を聞いているうちに純君自身の持ち味は自然に出てくると思うから」
「はい。頑張ってみます」
僕の言葉に小さく微笑むと奈々さんはまたメモ帳をのぞき込んだ。
「ところでこの歌、二番で完結していないから、三番が必要ね。どうするつもり?」
痛いところを突かれたと思った。
「わかりません。この旅が終わらないと書けないような気がします」
頼りない言葉を吐き、また叱られそうだと思ったが、そうはならなかった。
「そう、まあ、それで良いと思う。どんな歌詞になるのか楽しみね。ところで私、曲の方については何も言わなかったけど何か考えはあるの?」
「いいえ、今のところ全く」
「ふ~ん、全くねえ」
奈々さんは少し考えてからアドバイスをくれた。
「そう。それならば、沖縄風のメロディーにしてみたらどうかしら?歌詞の雰囲気にも合うと思うわ。純粋な沖縄音階にしなくても沖縄らしさは出せると思うわ。三線の伴奏も似合いそうね」
そこまで言って奈々さんは確認を入れた。
「たぶん、純君はコンピューターに音符打ち込んで鳴らしたりできるよね?」
「はい、やれます」
「それならば、本物の三線での録音は無理にしても、コンピューターを使えば、それらしい音は出せるはずよ。純君なら頭に浮かんだメロディーを楽譜にするのはそれほど難しくはないはずだから、メロディーさえできれば後は楽ね」
簡単に言ってくれるなと思った。
「そのメロディーを作るほうが歌詞を書くより難しいと思いますが」
「そうかしら?この歌詞ならスローテンポの切ないメロディーにしかなりようがないでしょう。それをなんとなく沖縄風に歌おうとすれば自然と形になると思うけどな」
「そう簡単にゆくでしょうか?」
僕にはそうは思えなかった。しかし、奈々さんはやれると信じているようだった。
「まあ、とにかくやってみることね。別に締め切りがあるわけじゃなし。のんびりとやればいいのよ。でも、純君には才能があるから、きっと良い歌になると思うわ」
「ありがとうございます。できあがったら、是非聴いてくださいね」
「うん、そうだね」
そう言ったものの、奈々さんは僕の歌ができるまでずっと待っているとは言ってくれなかった。
その後のユンタクも前夜同様に盛り上がり、とても楽しかった。しかし季節外れの暑さのせいか最後のカチャーシーを踊ると微かに汗が滲んだ。
ユンタクの後は談話スペースに場所を移したが話はつきることがなかった。奈々さんも泡盛を飲みながら話の輪に加わっていた。
やがて夜も更けて、山田夫妻と日野さんが部屋に戻ったタイミングで奈々さんが提案をしてきた。
「ねえ、純君、西桟橋に行ってみない?」
夕方から雲が出て星も見えないのに、今頃なぜ?と思ったが、せっかくのお誘いを断る理由など何もなかった。
「はい、行きます」
「じゃあ、ちょっと待っててね」
奈々さんは立ち上がり、食堂のある建物の裏手から小さなレジ袋を持って戻ってきた。
「暗いから純君も懐中電灯を持ってね」
奈々さんは談話スペースの棚に置かれた懐中電灯を二つ取り出すと、その一つを僕に差し出した。
「じゃあ、行きましょうか」
奈々さんに言われて僕は立ち上がり、門を出てゆく奈々さんの後を追った。
門を出て右手に進み、夜遅くまでやっている食堂を通り過ぎると街灯が途絶えた。それから、周回道路を横切ると闇が更に濃くなった。両側の墓地を通り過ぎるのが少し怖かったが、周回道路の一つ外側の道に出るのにはたいして時間は掛からなかった。
そこから西桟橋へ下る坂はまるで魔界へ続いている様な気がした。一人では決してこの先には進めないと思った。懐中電灯の明かりを頼りに僕たちは短い坂を下った。
西桟橋には昼間も来ていた。西桟橋は対岸の西表島や小浜島の方向にまっすぐに伸びていて夕陽の名所でもあった。日没の時間には多くの人が集まる場所だった。残念ながら、その日は夕方に雲が出てしまい綺麗な日没を見ることは叶わなかった。
星もない夜の西桟橋は、そこにあることがどうにか見て取れる程度だった。
「ちょっとここで待っててね」
桟橋の袂にたどり着くと、奈々さんはすぐに先へ進もうとはせずに右手の砂浜に下りていった。それから、浜辺でかがみこむと小石を集めて持ってきたレジ袋の中に放り込んでいった。
一体何をするつもりなのか僕には見当がつかなかった。そもそも、星も出ていないこんな夜に、どうして奈々さんが僕を桟橋に誘ったのか、その理由はまだ聞いていなかった。
「ごめんなさい、お待たせしました」
奈々さんは戻ってくると桟橋の先の方に歩き始めた。
「じゃあ、桟橋の先まで行きましょう。海に落ちないように気をつけてね」
「はい」
僕は懐中電灯で足元を照らしながら奈々さんの後に続いた。
対岸の西表と小浜には小さな明かりも見えたが、僕たちが歩く桟橋は闇に包まれていた。懐中電灯があっても先に進むのはかなり怖かった。もし、左右どちらかの海に落ちたら、真っ暗な海の底に引きずりこまれて二度と陸に戻ることはできないような気がした。
実際には桟橋の左右は満潮でも十分に足が着く程度の深さしかなかったので、そんなことになるわけがないことは分かりきっていた。しかし、それでもなお、そういう恐怖を拭い去ることができなかった。
当然ながら、星もない真冬の桟橋に、僕たち以外に人はいなかった。やがて僕たちは無人の桟橋の一番先までたどり着いた。
「純君、こっち側に来て」
奈々さんは桟橋の右側の縁に立った。僕は言われた通り奈々さんの右隣に並んだ。
「懐中電灯を消して」
言われたとおりにすると僕たちは完全な闇に囲まれた。僕は不意に背筋が寒くなった。
「どうしたの?怖いのかしら?」
「別に怖くなんてないです」
僕は見栄を張った。
「わ!」
奈々さんが急に僕を突き飛ばすふりをした。
「おお!」
僕は少しのけぞってしまった。まんまと嵌められて少し悔しかった。
「なんだ、やっぱり怖いんじゃない」
「勘弁してくださいよ、もう」
いたずらが過ぎると思った。
「純君、頼りないわね。本当だったら私を守ってくれるくらいじゃないとね」
「あの、こんなことをするために僕をここに連れてきたんですか?」
「まさか。純君に見せたいものがあったのよ。まあ、絶対に見られるという保証はないんだけどね」
それから、奈々さんは持ってきたレジ袋の中に手を差し入れた。
「じゃあ、水面を良く見ていてね」
奈々さんが海中に小石を投げ込むと、海中のあちらこちらに小さな光が現れてすぐに消えた。まるで海の中に蛍がいるようだった。
「何ですか?今の?」
思わず僕は尋ねた。
「夜光虫よ。もう一度やるから、よく見ておいてね」
奈々さんは改めてレジ袋から小石を取り出すと、それらをまた海に投げ込んだ。同じように小さな光があちこちに現れた。
「夜光虫はね。振動に反応するの。だから、こうやって小石を投げ込んだりすると光るのよ」
奈々さんが更に小石を放り込むと夜光虫がそれに応えた。
それから、奈々さんは残りの小石を次々と海中に投げ入れた。その度に淡い光が現れたが、小石が尽きるとそれも絶えた。
「そろそろ帰りましょうか」
奈々さんは再び懐中電灯のスイッチを入れると来た道を引き返した。僕も黙ってそれに続いた。
桟橋の袂から短い坂を上ると人の世に帰って来たような気がした。お墓の脇を通り過ぎた辺りで奈々さんが立ち止まった。
「純君、懐中電灯消してみて」
奈々さんに言われた通りにすると途端に闇が再び濃くなった。
「草むらの中を見てごらんなさい」
僕は道の脇に寄って草むらに目を凝らした。そこでは、よく注意して見ないと気づかないくらい小さな白い光がいくつか点滅を繰り返していた。
「見えた?蛍」
「はい、僕、初めて見ました。でも蛍って、もっと大きいものかと思っていました。それに飛ばないんですね」
「私も飛ぶのは見たことないわ。じゃあ、戻りましょうか」
道の先方に向き直って奈々さんが懐中電灯のスイッチを入れようとした時だった。右側の草むらから一匹の蛍が飛び立った。蛍はどこか危なげな動きで道を横切ると道路の左側に消えていった。
「飛んだね」
奈々さんがつぶやいた。
「はい、飛びました」
「私、初めて見たわ」
「僕も、なんか、感動しました」
蛍が飛ぶのを見た。世の中で起こっている様々なことと比べれば、取るに足りない些細な出来事だったが、それを奈々さんと一緒に見ることができたことが僕はすごく嬉しかった。小さな秘密を奈々さんと共有できたような気がした。
予期せぬ事件はその少し後に起こった。周回道路を横切り、まだ営業していた食堂の入り口に差し掛かった時だった。僕の右側を歩いていた奈々さんが何かにつまづいて転びそうになった。とっさに、僕は左腕で奈々さんを抱きとめた。
「ありがとう」
そう言った奈々さんの顔が僕の顔の間近にあった。僕は不意に奈々さんにキスしたいという気持ちに襲われた。もし、あと十秒その状態が続いていたら僕は奈々さんにキスをしていただろう。しかし思わぬ事態によりそれは解消した。
一人の男が食堂から出てきたのだ。年は三十くらいだろうか。坊主頭でがっしりとした体格をしていた。如何にも島の男という印象だった。男は僕たちに気づくと声を荒げた。
「なんだ、お前、島中の男をコケにしておいて、そんなガキといちゃついてるとは一体どういうつもりだ?」
男は足をふらつかせながら僕たちの方に向かってきた。かなり酔っているようだった。
「この子は私の従兄弟よ。それに、私は人をコケにした覚えなんてないわ」
奈々さんの言葉は火に油を注いでしまったようだった。
「なんだと」
男はよろけた足取りで奈々さんに詰め寄ろうとした。その瞬間、僕は反射的に男の前に立ちはだかっていた。
「奈々さんに何をするつもりですか?」
「何だ、このクソ餓鬼」
男は僕に迫ってくると両手で僕の両肩を掴み僕を左側になぎ倒した。僕の体はみごとに地面で一回転してしまった。地面に倒れた僕に更に蹴りでも入れようとしたのか、男がもう一度僕に迫ろうとした時、奈々さんが僕と男の間に割って入った。
「この子はね、のむら荘のお客さんでもあるのよ。うちのお客さんに怪我でもさせたら、オジイが黙っちゃいないわよ。あんた、島にいられなくなるわよ」
奈々さんは声には相手を圧倒する勢いがあった。
男は苦々しい表情を浮かべ捨て台詞を吐いた。
「お前、綺麗な顔してるくせに汚ねえ手を使いやがるな」
そう言い捨てて男はふらふらと集落の中心の方に消えていった。
「大丈夫?」
奈々さんが、倒れたままの僕に手を差し出した。その手を取って僕は立ち上がった。
「すみません。奈々さんを助けるつもりで、逆に助けられちゃった。なんか、すごくカッコ悪いですよね」
本当に情けないと思った。
「そんなことないよ。あんなゴツイ男に立ち向かったんだから、カッコ良かったよ。弱そうに見えるけど、いざとなると純君は強いんだね。見直したわ」
そう言われても何の慰めにもならなかった。
「奈々さんの方が強いじゃないですか。ゲームに出てくる女性格闘家みたいに見えました」
「私は強くなんかないわよ。うちのオジイ、ああ見えて実は島の実力者なのよ。そのことをちょっと利用しただけよ。『虎の威を借る女狐』なんて思ったんじゃないの、あいつ」
「奈々さん、うまいこと言いますね」
ただの狐ではなく女狐と変えるあたりに奈々さんの教養の高さを感じた。
宿に戻ると、談話スペースの明かりも既に落ちていた。
「ああ、もう消灯の時間過ぎちゃったね」
奈々さんの言葉は僕を寂しい気分にさせた。夜が終わるのがあまりにも惜しかった。そんなことを思っていた時、僕は庭に漂う甘い香りに気づいた。
「なんか良い香りがしますね」
つぶやいた僕の言葉に奈々さんが答えてくれた。
「ああ、これね。ヤコウボクの香りよ」
ヤコウボク、聞いたことのない単語だった。
「ヤコウボクって何ですか?」
「『夜香る木』って書いて夜香木。純君、こっちに来てごらん」
奈々さんは手招きして僕を談話スペースとは反対側の壁の方に連れて行った。奈々さんと肩を並べて木の前に立つと甘い香りが強くなったような気がした。
「これが夜香木。小さな白い花がついてるでしょ。これが香りの元。でも、花は一夜限りで、明日になったらみんな散ってるわ。なんか儚いよね」
夜香木の香りに包まれた奈々さんの横顔を僕は見つめた。一夜限りの花の香りは僕の心をざわつかせた。奈々さんの肩を抱き寄せたいという強い衝動に駆られた。そして、乳飲み子のように奈々さんの胸にすがりたいという欲望が頭をもたげた。しかし、僕は心を惑わせる花の香りにかろうじて耐え切った。そして僕は当たり障りのない台詞を口にした。
「今日は奈々さんと、沢山お話ができて楽しかったです。今日が終わっちゃうのって、なんか寂しいですね」
そう言うと奈々さんに名前を呼ばれた。
「純君」
奈々さんは僕の方を向いてまっすぐに僕を見つめていた。
「君、本当に話したいこと、まだ何も話していないんじゃない?」
「え?」
僕は心の中を見抜かれた気がした。
「君、十六歳でしょ。まだ子供なんだよ。私はもう立派な大人。だから、甘えてもいいんだよ」
心臓の鼓動が一気に速くなった。
「溜まっているもの、全部、南の島で吐き出しちゃいなさい」
奈々さんが僕の手を取った。
「おいで、私の部屋に」
奈々さんは僕の手を引いて歩き始めた。僕はまるで母親に手を引かれて歩く幼子のように、されるがまま奈々さんの部屋に連れて行かれた。
それから、僕は夜明けまで奈々さんの部屋で過ごした。
朝が来ると、奈々さんはそれまでのことが嘘だったみたいに、ただの宿のスタッフに戻っていた。朝食をテーブルに並べているところを見たきりで、その後、奈々さんは全く僕の前に姿を現さなかった。
仕方なく、僕は残された時間でもう一度島を巡ってみることにした。しかし、奈々さんと訪れたどの場所も一人で行くと寂しさが募るばかりだった。
午後、いよいよ、のむら荘を発つ時間になった。僕は談話スペースで車が来るのを待っていた。義男さんが車を門の前に付けて僕を呼んだ。
「山崎さん、じゃあ行きましょうか」
すると、裏手から急いで駆けてくる足音が聞こえた。やってきたのは奈々さんだった。
「義男さん、私が行きます」
「そうかい、じゃあ、よろしく。山崎さん、また来てくださいね」
「はい、必ず来ます。お父様にもよろしくお伝えください」
「はい。では、お気をつけて」
義男さんはそう言うと去っていった。
「行きましょうか」
奈々さんが僕に声を掛けた。
「はい」
僕がリュックを肩に掛けて車の後部に回ると奈々さんがハッチを開けてくれた。僕はそこに自分のリュックを置いた。なぜかそこには奈々さんの三線のケースも置かれていた。
奈々さんは一昨日とは違って、二列目ではなく助手席のドアを開けていた。僕が乗り込むと、奈々さんは運転席に回ってエンジンを掛けた。車が動き出すと、たまらなく切ない思いがこみ上げてきた。陳腐極まりない表現だが、正に夢のような竹富での二泊三日だった。そして、僕は不快極まりない現実に戻ろうとしていた。
車は、前夜に島の男と対峙した食堂の前をあっさりすり抜けた。外周道路との交差点を右に曲がり、車は一路、港に向かった。
不意に奈々さんが昨日の奈々さんに戻った。
「約束だからね。帰ったら必ずご両親と担任の先生に相談するのよ。絶対になんとかなるから」
奈々さんの口調は強かった。
「はい、必ず相談します」
僕はそう答えるしかなかった。
「すぐは解決しないかも知れないけど、来年度も同じクラスっていうのは絶対ないから、最悪でもあと三ヶ月足らずの辛抱だから頑張るのよ」
「はい、頑張ります」
奈々さんは更に僕を鼓舞した。
「純君、昨夜は、あんな怖そうな奴に立ち向かえたんだから。本当は強いんだよ。必ず何とかなるわ」
「はい、なんとかやってみます。」
そう答えた後で、僕は気になっていたことを聞いてみた。
「奈々さんはどうして僕にここまでしてくれたんですか?」
答えが返ってくるまで少し時間が掛かった。
「純君が、寂しそうな目をしていたから。船から降りてきた時から純君は寂しそうな目をしていた」
一度言葉を切ってから奈々さんはまた話し始めた。
「私の弟もね、同じような目をしていたの。気づいていたのに、私は弟を助けられなかった。助けられて当然の立場にいたのにね。だから、なんとなく純君のことを放っておけなかったの」
奈々さんは、もう生まれ変わらなければ弟さんに会えないのだと僕は悟った。そして、生まれ変わっても弟さんに合わせる顔がないと思っているだろうことも。だから、奈々さんは猫になりたかったのだ。多くの人が共感できるラブストーリーの歌詞の中に、奈々さんは自分にしか分からない悲しみを忍ばせていたのだと、僕はようやく気づいた。
その後すぐに車は港に着いてしまった。
奈々さんは車を桟橋のすぐ近くに止めると後部のハッチを開けた。僕も車から降りて後ろに回った。
「じゃあ、元気でね」
奈々さんが僕のリュックを取り出した。僕はそれを背中に担いだ。とうとう別れの時が来てしまった。しかし、もちろん、僕はそれきりで終わらせるつもりなどなかった。
「奈々さん、携帯の番号教えてくれませんか?」
僕の言葉に答えた奈々さんの声は小さかった。
「教えない」
奈々さんは少し悲しそうな顔をしたように見えた。
「どうして教えてくれないんですか?」
「純君、君はね、私のことなんて追いかけちゃダメよ」
少し俯いて奈々さんはその先を続けた。
「私のことは南の島の綺麗な思い出にしておいて」
納得のいかない話だった。
「そんなの嫌です。僕、また、すぐに会いに来ますよ」
僕の必死の叫びはあっさりと奈々さんにかわされた。
「無駄よ。私たちは今日でお別れ。私ね、八重山を卒業することにしたの。ずっと迷ってたんだけど、純君に会ってはっきりと分かったの。私が生きるべき場所はやっぱりここじゃないって」
「そんな、そんなの悲しすぎますよ」
僕も奈々さんにとって何者かには成れたとは思っても、悲しみが薄まるものではなかった。
「純君の気持ちには応えてあげられないけど・・・」
奈々さんは言いかけて、車の後部から三線のケースを取り出すと、それを僕の目の前に掲げて見せた。
「代わりにこれをあげるわ」
「もらえませんよ。大切なものなんでしょう」
突然の申し出に僕はひどく驚いた。簡単に受け取って良いものとは思えなかった。
「いいのよ。そもそも、もらい物だし。私はもう八重山を卒業するんだから」
奈々さんは真剣な表情でその後を続けた。
「純君には、これからもっと八重山を好きになって欲しい。三線ももっと上手に弾けるようになって欲しいな。そして、いつか純君が作った歌を他の人にも聴かせてあげて」
奈々さんの願いが僕の胸に突き刺さった。しかし、僕には奈々さんの願いに応えられる自信がまるでなかった。
「そんな、僕には無理ですよ」
「そんなことはないわ。君には絶対に才能がある。私には分かるわ。君の未来はこれからなのよ。その気になれば何だってできるわ」
奈々さんはまっすぐに僕の目を見つめていた。その目が早く受け取れと言っていた。僕は両手で奈々さんの三線を受け取った。
「でも、こんな別れ方ってひどすぎますよ」
奈々さんの表情が少し険しくなった。
「甘えていいって言ったけど、それは昨日までよ」
「でも」
僕が未練がましい言葉を吐くと奈々さんの表情が更に険しくなった。
「山崎様、この度はのむら荘をご利用いただき、どうもありがとうございました。またのご利用をお待ちしています」
わざと業務的に戻した口調から、もう何も言うなという奈々さんの思いが痛いほど伝わってきた。
「これ、大切にします」
僕が少しだけ三線のケースを持ち上げて見せると奈々さんは寂しそうに笑った。
その後、奈々さんは荒っぽくハッチを閉めた。運転席に乗り込むと乱暴に車をバックさせ、急発進して駐車場の出口に向かった。タイヤが軋むほどの急カーブで左折すると、あっという間に奈々さんの車は視界から消えた。
それから、どうやって空港に着いたのか僕にはほとんど記憶が無かった。荷物を預ける前に、僕はベンチに座り膝の上で三線のケースを開いてみた。奈々さんの香りがするような気がした。それから、宿の食堂で、庭で、そしてカイジ浜で、三線を弾く奈々さんの面影が浮かんだ。
同時に、すぐにでも竹富に帰りたい、奈々さんに会いたいという気持ちが心の中で大きく渦を巻き始めた。僕はケースを閉じて空港の出口に歩き出そうとした。
その時、もう一人の僕が僕を止めた。
『それは奈々さんがしてくれたことへの裏切りだ。そんなお前を奈々さんは受け止めてはくれないぞ』
その通りだった。
僕は三線のケースを閉じ、それを両手で強く握り締めた。そして歯を食いしばって竹富に帰りたいという思いを無理やりねじ伏せた。
その時、ケースの中の三線が聴いたことのない沖縄風のメロディーを奏でたような気がした。しかし、それは僕の頭の中で生まれたメロディーが奈々さんの三線の音を求めただけなのだとすぐに気が付いた。
子供っぽいと言われた「夏のような日」に代わる七文字の言葉が自然にメロディーに重なった。歌が全てできたわけではなかった。しかし、全く手がついていなかった三番の最後のフレーズが出来上がっていた。
平成十九年一月二十日
今はもう返らない幻の夏
そこまで話したところで真澄が遠慮がちに言ってきた。
「とっても良いお話ね。私、泣きそうになっちゃった」
姿は見えないが、真澄の目には涙が滲んでいるような気がした。
「ありがとう。長い話に付き合ってくれて」
僕が素直に感謝していると真澄が聞いてきた。
「いくつか質問していい?」
「いいよ」
何だろうかと思った。
「まず、いじめは、どうなったの?」
てっきり奈々さんとのことを尋ねられると思った僕は少々拍子抜けをした。
「ああ、そうだね。そっちの話はまだしていなかったね。実は意外な展開になったんだ」
僕はその後の話を続けた。
八重山から戻った次の朝、僕はいつも通りに学校に登校した。その日の放課後には担任の先生に相談に行くつもりだった。父には既にいじめのことは打ち明けていて、早々に三者面談をしてもらおうという話になっていた。
しかし、事態は思わぬ方向に向かうことになった。
その朝、僕が後ろのドアから教室に入ると、前の方にはただならぬ気配が漂っていた。最前列の席に座る祐子の机の前に不動とその取り巻きが並んでいた。
「もう一度チャンスをやる。これさえ書けば昨日のことは忘れてやるよ」
不動はなにか薄くて四角いものを祐子に突きつけていた。
「いくらなんでも、私、そんなことまでしたくない」
祐子は机に突っ伏した。
「お前も、あいつと同じ目に合いたいのか。お前ら、もう別れたんだろ。だったら、いいじゃねえか」
不動は更に迫った。
「そんなの関係ない。いくらなんでも、こんなの酷すぎるよ」
祐子は泣き出しそうだった。
近づいてみると四角いものの正体が分かった。それは色紙だった。そこには僕の冥福を祈るクラスメートの言葉が並んでいた。いわゆるお葬式ごっこという奴だった。
「さっさと書けって言ってるだろう」
不動が更に迫った時、僕は自分でも予期せぬ行動に出ていた。僕は不動の前に立ち彼の目を睨みつけていた。不思議と恐怖は感じなかった。
「なんだ、山崎、とっくに自殺でもしたかと思ったからこいつを用意してやったのに、怖くて死にそこなったか」
不動が睨み返した。しかし、僕は怯まなかった。
「こいつは、ありがたく頂戴しておくよ」
僕は不動の手から色紙を取り上げた。
「証拠物件にもなるしね」
「なんだと」
不動の顔が歪んだ。
「男の僕ならともかく、女の子にまでこんなことをして、みっともないと思わないのか?」
「てめえ、喧嘩売るつもりか?」
不動の頬が紅潮した。
「まさか、君と喧嘩して勝てるなんて思ってないよ。僕はずっと我慢してきたけど、もう我慢するのは止めることにしたんだ。こんなことは今日限り止めてくれないかな?そうすれば、今日までのことは水に流すよ。でも、続けるならば、君は将来を棒に振ることになるよ。僕の父は教育委員会に勤めていて、うちの副校長とはクラスメートだ。もし、こんなことを続けるならば君はこの学校にいられなくなるよ」
僕の言葉を受けて不動の怒りが頂点に達した。
「嘘言ってんじゃねえ」
不動が右の拳を振り上げた瞬間、予想外のことが起こった。不動が一番親しくしている野上が不動の拳を両手で押さえていた。
「不動、もう止めようよ。お前だって、本当は、もう止めたいんだろう。悪かった。本当は俺が最初からお前を止めるべきだったんだ。でも、止めなかった。反省してるよ」
意外な展開に不動の目は焦点を失った。
その野上の言葉に女子の学級委員の吉沢さんが反応した。吉沢さんは自席から立ち上がると不動の右肩に手を置いた。
「不動君、体育祭や球技大会の時のあなたはとってもカッコよかったよ。それに君は立派なクラスのまとめ役でもあったじゃない。私、昔の君に戻って欲しいな。そして、私が好きだった一年二組を返してよ」
不動は虚ろな目で周囲を見回した。そして、周囲の空気の変化に気づいたようだった。しかし、不動はまだプライドを捨て切れなかった。
「お前ら、臭い青春ドラマみたいなこと言ってんじゃねえ」
吐き捨てると不動は教室から出て行った。結局、その日、不動は教室には戻ってこなかった。
一時間目が終わり休み時間になると、祐子が僕の所にやってきた。
「山崎君、さっきはありがとう。山崎君が別の人になったみたいで驚いたけど、カッコ良かったよ」
「そんなことないよ。ちょっと人まねをしただけさ。『虎の威を借る女狐』って奴さ」
「ええ、どうして女狐?」
裕子は不思議そうな顔をした。
「ああ、狐、狐だよね」
裕子の反応を見て僕は少し慌てた。
「でも、不動君をやりこめちゃうなんてすごいね」
裕子が今までと違う視線で僕を見ていているのに気付いた。でも、裕子の言っていることは的を得ていないと僕は思った。
「違うよ。不動を動かしたのは僕の脅しなんかじゃない。野上と吉沢さんの言葉だよ」
「そうかしら?」
「ああ、間違いない」
僕は本心でそう思っていた。
「山崎君は本当に優しいんだね。裏切った私のことまで助けてくれて」
一瞬、僕は次の言葉に迷った。しかし、その後、言うべき言葉はきちんと言えた。
「そのことはもう気にしないでいいよ。これからもずっと友だちでいてくれると嬉しいな」
「友だち・・・そうね」
祐子は少し寂しそうに笑うと自分の席に戻っていった。
翌日、不動は坊主頭で学校にやってきた。誰一人、理由を尋ねる者はいなかった。そして、僕へのいじめはぴたりと止んだ。
その後、クラスは少しずつ元に戻り始めた。しかし、戻らないものもあった。僕と祐子が恋人同士に戻ることはなく、不動はいつまでも髪を伸ばそうとはしなかった。クラスで先頭に立とうとすることもなくなった。そのまま、クラスは三月の修了式を迎えた。
その日、僕は日直だった。一人きりになった教室で日直日誌を書いている時だった。僕は自分の横に立つ人影に気づいた。不動だった。
「山崎、悪かったな」
ぎこちなく言うと不動は足早に出口に向かった。
「不動」
僕が呼び止めると不動は足を止めたが振り向こうとはしなかった。
「不動、そろそろ髪を伸ばしたらどうだ。坊主頭、似合わないよ」
顔は見えなかったが、不動が苦笑いをしたような気がした。
「お言葉に甘えて、そうさせてもらうよ。じゃあな」
結局、振り向かないまま不動は教室から出て行った。その日以来、不動も祐子も、僕にとって過去の人になった。二年生になると、僕たち三人はそれぞれ別のクラスへと散っていった。
「もうひとつ聞いていい?」
いじめの話に区切りが着くと、真澄は次の質問を繰り出した。
「いいよ」
「奈々さんのことは、きちんと思い出にできたの?」
「できたとは言えないかな。未練がましく奈々さんの面影を追いかけているわけじゃなくて、何人か別の女の子と付き合ったけど、うまくいかなかった。どっかでまだ吹っ切れていないのかもしれないな」
「いじめの迷路から抜け出したら、今度は恋の迷路に迷い込んだってことかしら?」
「そのようだね」
「奈々さんの方は、今頃どうしているのかしら?」
「さあ、どうしているのかな?」
そう言いながら、僕は、八重山を卒業した奈々さんが「自分が生きるべき場所」に戻ってきちんと生きていることを疑っていなかった。
そんな僕の様子を見て、少し間を置いてから真澄がリクエストをしてきた。
「ねえ、純さん、昨日の歌、もう一度聴かせてくれない?純さんの話を聞いたら、もう一度聴いてみたくなっちゃった」
「いいよ」
僕は三線をケースから取り出し座布団の上に座ると、念のため糸を巻き直した。そして、イントロを弾き始め歌に入った。
竹富の古い宿屋で会った君と共に
島巡る自転車の旅始めた冬の朝
赤瓦の古い家が並ぶ町並みを
駆け抜けるT-シャツに降る
夏色の日差し
平成十九年一月二十日
冬の日に訪れた幻の夏
カイジ浜でほんの少し僕が探し当てて
君の小さな手のひらに並べた星の砂
様々な色に煌く珊瑚礁の海を
飽きもせず君と見ていた
冬の昼下がり
平成十九年一月二十日
波の上、蝶が舞う幻の夏
三線の音色に合わせ君と歌った夜
カチャーシー踊れば肌に微かに滲む汗
夜香木の花が香る庭に舞い込んだ
蛍火のように儚き
束の間出会い
平成十九年一月二十日
今はもう返らない幻の夏
歌い終わると、真澄の声がした。
「歌が生まれた背景を知ったら、益々この歌が良い歌に思えてきたわ」
「ありがとう」
真澄の言葉にお世辞の色は見られず、僕が喜んでいると、真澄が予想外のことを口にした。
「もう一つ質問があるんだけど」
真澄は少しためらっていたようだった。
「ええ、まだ質問があるの?」
「うん、純さんは奈々さんとの出会いはただの偶然だと思う?」
僕にすれば思いもよらぬ意外な質問だった。
「ああ、確かに奇跡みたいな出会いだったけど、別に運命だとか、そんな風に思ったことはないな」
僕の答えに真澄は少し不満そうだった。
「そうかなあ。私は二人の出会いは、偶然にしてはでき過ぎているような気がするの」
「そんなことはないと思うけどな」
真澄は相変わらず納得がいかないとばかりに、更に踏み込んだ質問をしてきた。
「純さんは、何か純さんを導く不思議な力みたいなものを感じたことはないの?」
「ないよ」
嘘ではなかった。そんなことを感じたことは全くなかった。
「そうなんだ」
失望したように言った後、なぜか不満げな様子が消えて、真澄はどこか夢見心地に自説を持ち出してきた。
「私はね、奈々さんの弟さんが二人を引き合わせてくれたような気がするの」
「ええ、それは考えすぎじゃないかな。僕はそんなことを感じたことはないよ」
随分と突飛なことを考えるものだと思った。しかし真澄はまだ自説を捨てがたいようだった。
「じゃあ、純さんはどうやってのむら荘にたどり着いたの?」
「ネットの口コミだよ。なんとなく『安らぎ』という言葉に魅かれたような覚えはあるけど、どんな内容だったかよく覚えていないくらいだから、真澄さんの言うように何か特別なものに引き寄せられたとは思えないな」
「そうなんだ」
真澄はまだ諦めきれない口ぶりだった。
「うん、だから、僕たちの出会いは奇跡的ではあっても、運命とか導きとは無関係だと思うな」
真澄は僕の主張をまだ疑っていた。
「本当にそうなのかしら?」
「そうだと思うよ」
「まあ、純さんがそう言うならば、そうなのかもしれないね。二人の出会いは素晴らしいものだっただから、きっかけなんてどうでもいいことかもね?」
ようやく真澄も諦めたようだった。
「ああ、出会えたことが重要なんだから、それで良いと思うよ」
「そうね」
自分を納得させるようにそう言ってから、真澄はこれでお開きと伝えてきた。
「じゃあ、私、今日はこれで失礼させてもらうわ。明日も仕事だから」
「そう、じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
真澄の声はそこで途切れた。僕もそろそろ眠ろうかと思った。
布団に入ってから、僕は急に先ほどの真澄の言葉が気になり始めた。気になりだすと上手く寝付けなかった。布団から起き上がると、ノートパソコンの電源を入れ、ネットにつなぎ、以前に見た宿の口コミを探した。
僕を導いた何か特別なものがあるとしたら、その手がかりはそこにしかないように思えた。口コミを探すのにそれほど時間は掛からなかった。口コミの内容はこうだった。
のむら荘は、宿の人も、集まる旅人も、皆、心の優しい人ばかりです。
あなたの望む安らぎがそこにあるでしょう。
そして、あなたもまた、誰かの安らぎになることでしょう。
食事やユンタクで暖かい交流が生まれる。今も変わらない宿の雰囲気をよく伝える文章だった。その詩的な表現は多くの旅人を引き付けつけそうな美しさがあったが、僕にだけ強く何かを訴えているようには思えなかった。
やはり真澄の勘違いだろうと思った時、口コミにリンクが貼ってあることに気づいた。クリックしてみると口コミの投稿者のものと思われるブログにつながった。
しかし、最新の記事は口コミよりも三年も前のもので、しかもブログの閉鎖を告知する内容だった。口コミの投稿者はどうして三年も前に閉鎖したブログへのリンクを貼ったのか、僕にはその意図が分からなかった。僕は改めて閉鎖の告知を読み直してみた。
-ブログ閉鎖のご案内-
この度、一身上の都合でブログを閉鎖することになりました。今日まで僕の拙い文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。僕は今日この場所を去りますが、皆様の末永い健康をお祈り致しております。
読み返してみると、遺書めいた文章だと思った。そして、心に波が立った。僕は恐る恐るその前の記事を開いてみた。その途端、全てが明らかになった。
記事の見出しは「姉とカイジ浜へ」
記事の冒頭にはツーショットの写真が貼られていた。見覚えのある流木に高校生ぐらいの少年が座っていた。彼はその手に三線を抱えていた。そして、彼の右隣には、僕が知っているよりも少し若い奈々さんが座っていた。



