「おはよー」
「おはよう」
「夏休み何してた?」
「私海!」
「本当だ、ちょっと日焼けしてるー」
「うそやだー」
夏休みも明け、久しぶりに登校してくる生徒たちは、この夏の話題で盛り上がっている。
俺は教室に入ると自分の席に着く。
「おはよ!青井くん」
「うす」
星野は相変わらず今日も、まるで楽しくてたまらないといった様子で、エネルギーに満ち満ちている。
「夏休みもあっという間に終わっちゃったねー。バーベキュー楽しかったね!」
「まあまあな」
「もう君は相変わらず素直じゃないなあ。あんなにはしゃいで、夜には興奮して私に襲い掛かろうとしてたっていうのに」
「どうやら頭を強く打ったらしいな。大丈夫か?もう一回強く打てば治るんじゃないか?どれ貸してみろ。俺に任せとけ。大丈夫だちゃんと痛くするから」
「怖いよ青井くん!人の頭をものみたいに。それに痛くしないでよ!」
星野が頭をおさえる。
「…」
「どうかしたの?」
「いや、なんでもない」
俺は今日、今まで俺が見て見ぬふりしてきたものにけりをつけようとしていた。
昼休み。俺はいつも通り教室の隅で大志と弁当を食べる前に、星野に言いたいことがあった。
星野はいつも昼休みになると弁当をもって一人でどこかへ行ってしまう。以前は、あの星野茜のことだからと気にも留めていなかった。だけど、今ならわかる。星野には友達がいない。星野はいつも昼休みに、一人で弁当を食べにどこかへ行くのだ。星野がどこで弁当を食べているのかなんて興味がないし、どんな気持ちで一人で教室から出て行くのかなんて分からない。けれど、それを見過ごせるほど今はあいつとの付き合いは浅いものでもない。
俺は勇気を振り絞って星野に声をかけた。
「星野!俺たちと一緒に弁当食わないか?」
星野は少し驚いた顔をして一瞬言葉に詰まったようだが、すぐに嬉しそうに返事をした。
「うん!食べる!」
「お、今日は星野さんも一緒か。よろしくな」
「うん大山君、よろしく」
星野も加わり三人で教室の端の席で食べる。
「気をつけろ星野。そいつは隙あらば人のおかずをかすめ取ろうとしてくる卑劣漢だぞ」
「安心しろ。俺はお前の弁当以外に興味はない。お前の手作り弁当は美味すぎるんだ。ちょっとくらい分けてくれたって罰は当たらねえだろ。今日のおかずはなんだ?」
「今日はチンジャオロースとジャガイモの丸煮にマヨネーズをかけ青のりを散らしたものと、人参しりしりに、大根サラダだ」
「くうー、うまそうだなあ。これを朝から作ってるのか?」
大志が涎を垂らす。
「まあ早く起きれたらだがな」
「えー!青井くん自分で作ってるの⁉私も一口食べたい!」
「おれもおれも!」
二人とも勢い強く催促してくる。
「分かったよ。だったらジャガイモ食うか?」
「「食べる―!」」
「んー!おいしー!ほっくほっくのジャガイモにマヨネーズがよく合うね!」
星野が美味しそうに感想を言う。
「青のりもいいアクセントになってる。俺の将来の夢は翼のお嫁さんになって毎日手作り料理を食べることだ!」
「つまらん夢を持つな」
「そ、それはだめだよ!翼くんは女の子と結婚しないと!私が困るよ!」
なぜか星野が焦り出す。
「それはそうだが、なぜお前が困る?」
「へっ⁉そ、それは、ほら!私は相棒として君のお嫁さんを選定しなきゃいけないからね」
「お前に決められるいわれはないし、相棒でもない」
「何だお前ら付き合ってるのか?」
大志がとんでもないことを言う。
「ち、ちち、違うよ!私たちはそんな不純な関係性じゃなくてもっと純粋なパートナーのような関係だよ!」
「余計誤解を招くようなことを言うな。俺はただのこいつの使いっ走りだ。お前のせいでな」
「お前は本当に根に持つよなー。それはこの前のラーメンでチャラになっただろ?」
「そんな約束した覚えはない。第一ラーメンとこの件とじゃ釣り合わない」
「ほんとだよこの根に持ち男。陰湿スケベめ」
なぜか機嫌の悪い星野が、問題の元凶のくせに俺に八つ当たりしてくる。
と、その時周囲から注目を浴びていることに気づく。こちらを見てなにやらこそこそ話したり、物珍しそうにこちらをちらちら見ている。
「あー、私はここらでおいとましようかな」
星野は困ったような顔で笑っている。
「なんでだよ星野さん。俺たちと食うの嫌だったか?わかるぜ翼は空気が読めないからな」
「違う。お前の暴食っぷりに当たったんだ。でかい弁当箱にパン三つって、どんだけ食うんだよ」
「ふたりとも見られてるの分かってるでしょ?」
星野が気まずそうにしぼりだす。だが俺たちはそんなの気にしない。
「お前は自意識過剰なんだよ。誰もお前のことなんざ見てねえよ。みんな大志の筋肉見てんだよ」
「そうだぜ星野さん。みんな翼の弁当狙ってんだよ。こいつの弁当は俺のもんだ」
「いつから俺の弁当はお前のものになった」
「…あはは。二人ともありがとね」
星野が申し訳なさそうな、嬉しそうな複雑な表情を浮かべる。
「それでいいんだよ。星野のくせに気なんて使うんじゃねえ」
「なんだよー、人を図太いみたいに」
「お前ほど図太い人間を見たことがないし、これから先見ることもないだろう」
「なんで先のことまで分かるのさ!」
心外そうに言う。
「俺は超能力が使えるんだ」
「えっうそ⁉ほんと⁉」
「ああ本当だ。お前は近いうちに俺を解放するだろう」
「なんだうそか」
一瞬で落胆する。
「おい」
「翼くんは嘘つきだからこれからもっとこき使ってあげるね」
「あと生意気も追加しといてくれ星野さん」
「わかった」
「…てめえら」
夏休みが明け、また六時間授業にも体が慣れてきたある日の放課後。俺たちは学校指定のジャージに着替えて、学校から少し離れたところにある公園に来ていた。
九月の上旬にもなると、暑く湿った空気も消え去り、外は涼しくなり始め、空気も乾き始めていた。季節は移ろい始め、秋が来ようとしていた。ジャージも着心地のいいくらいの気候だ。
「今日はなんでジャージなんだ?」
「そろそろ着くからそしたらわかるよ」
公園の中に入り、星野に付いていくと、草で覆われている広場に着いた。広場はフェンスに囲まれていて、何やら草野球をしているようだった。
「あちゃー。もう始まっちゃってるよー。スコアどうなってる?」
試合中のベンチの方に近づいていくと、どうやら中年のおじさんたちが野球をしているようだった。
「茜ちゃん!やっと来たか!待ってたよー。彼が君の言ってた助っ人かい?」
「そうだよ。おじさん、試合の方はどう?」
「それが木下商店街のやつら、とんでもない助っ人連れてきやがってよー。かなり負けてるんだよー。もう君たち頼みだよ」
試合はどうやらかなり押されているらしい。高校生くらいのピッチャーがマウンドに立ち、投球する。打者のおっさんは大分遅れてバッドを振った。
「ストラーイク」
相手チームはフィールドにいるメンバーもベンチも、みんなニヤニヤしながら退屈そうに一方的な試合を眺めている。スコアボードを見ると、日の丸商店と木下商店が試合をしているようで、もう5回裏で、スコアは5対0とかなり押されていた。
「まさか今日は野球か?」
「その通り!ヒーローは遅れてやってくるものだからね。任せておじさん!」
「おいおい、今更助っ人の登場かー?無駄なことを。それに一人は女じゃないか。情けない奴らだ。あっはっはっはっはー」
木下商店と思しき四十代前半ほどの小太りの男が、隣のベンチからわざわざやってくると嫌味を言いに来た。
「現役の野球部を連れてくるなんて反則だろうが!このインチキ野郎が!そこまでして勝ちたいか!」
「なら初めにそう言うんだったなー。まあ残りの回もせいぜい頑張ってくれ」
そう言い捨てると自分のベンチへと戻っていった。
「嫌なやつ。説明するね翼くん。まず、うちの町の商店街、日の丸商店街と、そこからすぐ近くの橋を渡った隣町にある対岸の商店街、木下商店街は隣接してるだけあってすごく仲が悪いの。それは知ってる?」
「競い合っているというのは聞いたことがある」
「それでね、今回あっち側から試合を挑んできて、負けたら日曜日を商店街の定休日にしろっていう無茶苦茶な条件をふっかけてきたんだよ。そして、向こうの町はちょっと治安が悪くて、商店街のバックには悪い人たちも付いてるみたいで、断るに断れなかったんだって。それでお互い助っ人ありってことで勝負になって、私が助っ人を頼まれてたんだけど、まさかこんなに点差が開いちゃってるとは…」
ちょっと困ったなーとつぶやく。
「なるほど。相手はそこに現役の野球部の助っ人を投入してきたというわけか。にしても気になるのが、なんでお前が商店街の人たちとつながりがあるんだ?」
「初めは私がうちの商店街にそっちゅう妨害しに来る悪い人たちを追っ払ったことから仲良くなったの。それ以来、私の張ったチラシを見て、何かあったら連絡くれたり、情報くれたりしてくれるんだよ」
「へーえ。お前ほんといろいろしてんのな」
「まあねー。そんなことより翼君!これから私と君とで悪い奴らをやっつけるんだよ!準備はいいかい?」
当然といった顔で言ってくる。
「準備も野球経験もねえよ。このピンチを俺たち二人で、野球部相手にどう切り抜けるんだよ。五対〇はさすがに無理があるだろ」
「大丈夫。私たち二人なら何とかなるよ!」
「はあ。まあやるだけやってみるが文句は言うなよ」
一度言い出したらこいつは聞かないからな。
「良かった。いやもうおじさんは体力的に限界でね。この回からちょうど二人メンバーが不足してたんだ。それじゃあいきなりで悪いけど、さっそく次の打者やってくれるかい?けれど君大丈夫かい?茜ちゃんの運動神経の良さは知ってるが、相手のピッチャーの球は速すぎてうちのメンバーはだれも触れられもしないんだよ」
おじさんが心配そうに言う。
「大丈夫だよおじさん。うちの翼君はやるときはやる男だからね。頼りにしていいよ!」
「そうか!それなら良かったよ。頑張ってくれ。頼んだよ」
「おいお前。余計な事言って俺の株を勝手に上げるんじゃねえ。初心者だって言ってるだろうが」
俺はバットを持ってバッターボックスに立つ。野球なんて体育の授業でしかやったことがない。そして俺の体育の成績は中学からずっと3だった。星野も日の丸商店街の人たちもみんな期待してくれているが、俺の実力なんて俺が良く知っている。
「おい、お前も高校生か?野球経験は?」
同い年くらいの前髪ぱっつんのピッチャーが話しかけてきた。
「ないな。お前はなんで協力してるんだ?」
「金で雇われたのさ。それにしてもまた素人かよ。助っ人のくせに俺とは違ってただの雑魚か。悪いな。女の前で恥かかせちまうことになって。にしてもあの子可愛いじゃねえか」
なんだこいつも似たようなやつか。どうやら相手チームは援軍も含めて全員嫌な奴らで構成されているらしい。
「…星野を見た目で甘く見ない方がいいぞ。そしてそんなに可愛いやつでもない」
「へーえ、なら俺が勝ったらデートに誘っちゃおうかなー」
「…好きにすればいいさ。だがお前じゃあ振られるのが目に見えているがな」
「なんだと。むかつくやつだ。大きな口を叩くのはこの俺の球を打ってからにしてもらおうか」
俺はバットを強く握ると構える。味方チームのおじさんたちは期待の目で、敵チームは品定めするようにこちらを見てくる。一筋の汗が俺の額を流れ落ちる。
ピッチャーが振りかぶって投げる。球はすごい勢いでキャッチャーのミッドの中に吸い込まれた。
「ストラーイク!」
「なんだー?偉そうな割には振ることさえできねえじゃねえか。助っ人が聞いて呆れるぜ」
周囲の落胆した表情やバカにするような表情が容易に浮かんで見える。俺はそのあとがむしゃらにバットを振って足掻いてみたが、球をかすりもせず、スリーアウトで相手の攻撃へと移った。俺はなにもできずにそのままバッターボックスを出る。
星野もこれで分かっただろう。俺が特別でもなんでもない、ただの凡人だということが。自分が期待している人間はただの冴えないありきたりな人間だということが。
それにしてもなんだろうか。この煮え切らない感じは。俺らしくもない。こんなもんじゃないか。俺にこれ以上何ができるというんだ。何に納得がいかないというんだ。精一杯やったじゃないか。
ベンチに戻ると、商店街のおじさんたちは優しく迎えてくれ、「気にすんな坊主。あんなの打てなくて当たり前だ」「それより今日は来てくれてありがとうよ」など、励ましの言葉をかけてくれた。そして星野は励ますわけでも、落胆するわけでもなくただ一言だけこういった。
「私を見ててね」
攻守が代わり、俺たちは守備となる。ピッチャーは星野だ。それを見た相手チームからヤジが飛ぶ。
「おいおい!女に投げさせんのか!どんだけ恥知らずなんだお前ら!」
「おっさんよりJKの方がましってかー?」
しかし、星野が投げた瞬間、ヤジは一瞬で止んだ。先ほどのピッチャーにも引けを取らないスピードで球が吸い込まれていく。
「ストラーイク!」
「にっしっしー!ここからだよみんな!気合い入れていくよー!」
「おおー!さすが茜ちゃんだ!」
おっさんたちから歓喜の声が湧く。
星野は続けて三振を取ると、どこから持ってきたのか野球帽を被りなおした。
「おっしゃー!俺たちも気合い入れていくぞー!茜ちゃんに続けー!」
星野の闘志が瞬く間にみんなに伝染していく。
「ちくしょう、かっこいいじゃねえか」
セカンドから星野の後ろ姿を眺める。闘志でみなぎったその背中と、そこから広がった勝利に向かうチームの雰囲気の中、俺は先ほど腑に落ちなかった気持ちに合点がいっていた。
俺はうちの商店街が不遇な目に遭うのに何もできないのが嫌だったわけでもなければ、星野がデートに誘われるのが嫌だったわけでもない。ただ、あのいけ好かない前髪野郎に言い返すこともできずコケにされたのが許せなかったのだ。俺はこう見えて負けず嫌いなのだ。
素直な俺はそう結論づけると、気合いを入れるべく自分の両頬をパンっと叩くと試合に集中する。負けてたまるか。
星野が二人目のバッターから三振を奪うと、次は例の前髪ぱっつんの高校生がバットを持ってやってきた。
「君やるねー。野球経験あるの?」
「ないよ。体を動かすのは得意なの」
「へー。でも俺は他のおっさんどもとは違うぜ。全力で投げた方がいい」
「そう。ならそうさせてもらおうかな!」
そういうと星野は膝を高く上げると全力で投球した。すると球は前髪野郎のバットを抜けるとまたしてもキャッチャーの腕の中に吸い込まれていく。
「ストラーイク」
なんとまだ全力を出していなかったようだ。へらへらしていた前髪野郎も余裕が消え、プライドを傷つけられたのか星野を睨んでいた。
「あまりいい気になるなよ」
「別になってないよ。君の方こそ本気でやってもいいんだよ?」
どうやら星野は先ほどの発言を根に持っていたようだ。相手を挑発している。
「この野郎。いいだろう。本気でやってやる」
そういうと前髪野郎はバットを握り直し、今度は真剣な面持ちで再度構える。
星野が振りかぶって投げる。だが、流石に現役野球部なだけあって今度は球にヒットし、低い打球がセンターとライトの間に飛ぶ。
しかし、星野のおかげで闘志むき出しのおじさんたちは、先ほどの弱腰とは違い、滑らかな動きでボールに飛び込むと、ボールをキャッチし、一塁で牽制した。
「よっしゃー!ナイスプレイ田中さん!」
星野の激励の声が飛ぶ。前髪野郎は想定外だったらしく、ベースを蹴って八つ当たりしていた。
その後も星野は相手を打たせずに抑え込むと、無失点でその回を抑えた。
再び攻守が代わり、六回表。点差は五点。今度は星野の打順からスタートだ。先ほどのお礼とばかりに前髪野郎は思いっきり投げてきた。
が、しかし、星野は「よっとっ」というと軽快にヒットさせ、球はレフトの頭を超えるとバウンドしてフェンスに当たる。どうやら相手もこちらと同じように、いや、こちら以上に守備に穴があるらしい。星野は二塁まで一気に走りこむ。
「おお!茜ちゃんが初めて塁に出たぞ!これはいけるんじゃないか⁉」
「いや。それが、あと一人誰かあいつの球を打てるやつがいないと、点は取れないぞ」
「そんなあ」
「だれがあんな球に触れるというんだ」
日の丸商店街のおじさんたちは、あの速球にみんな心を折られている。メンタルはパフォーマンスにも大きく影響する。となると、まだ一回しかアウトを取られていない俺が行くしかあるまい。それに星野がこんなに活躍しているのだ。同じ助っ人として俺も負けていられない。あのピッチャーには負けたくないしな。
「あの。俺、もう一度チャレンジしてみてもいいですか?」
「おお。もちろんいいとも。おじさんより若い君の方がまだ可能性があるしね」
俺はバットを持つと再びバッターボックスへ入る。リベンジだ。心なしか星野が嬉しそうな顔をしているような気がする。
「なんだまたお前か。こりもせずに恥かきに来たのか?」
「それはお互い様だろ。偉そうな割に星野に空振りさせられてたじゃねーか。現役野球部が」
「なんだと!お前調子に乗るなよ!」
前髪野郎はそう言って怒ると投球してきた。容易に挑発に乗ってくれたおかげか、手元が狂ったようで先ほどとは違い、球がしっかりと見える。
「ファウル」
しかし、バットは球をかすめるだけで当たりはしなかった。だが、大きな一歩だ。これで相手を動揺させることができただろう。こういうタイプはプライドが高く、少し失敗するだけで、ペースを崩してくれる。
俺はバントを当て、一塁に向かって全力で走る。砂を蹴り上げ腕を振る。このチャンスを逃がすな。俺は全力で頭からベースに飛び込んだ。そのタイミングでピッチャーの投げた球が敵のファーストのグローブに収まる。
判定はどうだ?
「セーフ!」
よし!
ベンチから歓喜の声が上がる。全身砂にまみれながら立ち上がると、星野は三塁まで行っていた。だが問題はここからだ。誰か打ってくれないと点が入らない。
と思ったが、どうやら俺の予想以上にピッチャーは調子を崩してくれことと、商店街のおじさんたちの頑張りで、ヒットを何本か打ち、俺も星野もホームベースを踏めた。
点差は二点となった。七回へと移る。
「やったね翼君!やっぱり君はやるときはやる人だよ!信じてた!」
「これほんとうにいけるんじゃないのか」
「ああ!茜ちゃんと坊主のおかげだ!やるぞお前ら!」
「「おおー!」」
チームが活気づき、点差も三点と希望が見えてきたタイミングで、けたましい音とともに十から十五台ほどのバイクが広場に乱入してきた。デゥルルンデゥルルン、グオングオングオン。荒々しい排気音がフィールドに響き渡る。
「応援に来たぜ!商店会長。よう、しょんべん臭い日の丸商店街ってのはお前らか!俺はチームドラゴンアンダーツリーの頭だ、以後夜露死苦!」
ノーヘルで一番派手な大型のバイクに乗った男が頭の悪そうな挨拶をする。全員同じ特攻服に、サングラスに派手な髪形をした、所謂暴走族だ。ヤンキーたちはバイクを相手ベンチの横に列を作って並べ始めた。
「おっしゃてめえらー!一発かましたれ!いくぞー!」
「「うーっす!」」
そういうとヤンキーたちは耳を覆いたくなるほどけたましい排気音でなにやら音楽を奏で始めた。どうやら応援ソングのつもりらしい。
「よーしてめえら!けっこう気合いが入ってたぞ今のやつは!上等!商店会長。俺ら全力で応援すっから、ぜってえ勝ってくれよ!」
どうやら先ほどの小太りのおっさんは商店会長らしい。そしてバックについている悪いやつらとは、こいつらのことか。
「え、ええ。もちろんですとも。それよりいいタイミングで来てくれましたよ。今ちょうど相手が勢いづいてたところでして」
「なに~⁉そりゃマズいな!隣町のしみったれ商店街なんかに負けんじゃねえぜ」
「なんだとー⁉さっきから黙って聞いてたら!」
まずい。星野が切れ始めた。
「おい、気持ちは分かるが堪えろ。流石に多勢に無勢すぎるし、今お前に怪我されたら困る」
審判の介入で、ヤンキーたちはフェンスの外に出され、中断されていた試合が再開される。星野がマウンドに立つと、フェンスの外からさっそくヤジが飛んできた。
「おいおい女が投げんのかよ、大丈夫かー?」
「怪我する前に引っ込めおら!ソフトボールじゃねえんだぞ!」
が、しかし。先ほどの木下商店街と同じく、星野の投球を見たら一斉にヤジは止んだ。
だが、今度は逆に味方にヤジが飛び始める。
「おいおい、しっかりしろよ―。俺に代われ!バッドの使い方教えてやるよ」
「女に舐められてんじゃねえぞ!ぶっ殺すぞ!」
汚いヤジが口々に飛び交い、先ほどとはフィールドの空気がうって変わる。俺も含め味方の選手も敵の選手もみな委縮してしまっている。問題は星野だ。先ほどから相当我慢しているらしく、コントロールも乱れてきた。そろそろ相手ベンチまで殴り込みに行きそうだ。
「そんなまずい飯しか作れねえ商店街なんかに負けんじゃねえ!」
今のが決定打だったようで、星野は球とグローブを投げ捨てるとベンチに向かって走り出そうとした。俺も慌てて静止しようとする。
と、その時、がやがや騒ぎながら、おばちゃんたちがたくさん広場の中に入ってきた。
「あー、やってるやってる。あんたー!パート終わったから応援に来たよー!まさか負けてないだろうねー!」
「隣町の商店街なんぞに負けんじゃないよ!」
「負けたらお小遣いぬきだからね!」
商店街のおばちゃんたちなのだろう。どのおばちゃんたちも口うるさく、委縮していたおっさんたちに再び気合いが入る。
「そうだ。ヤンキーなんかより家の女房の方が怖いに決まってる!」
「負けたら小遣いなくされちまう!」
「あんたー!気合い入れな!生活が懸かってるんだからね!死ぬ気でやんな!」
「まったく洋服もこんなに汚して!だれが洗濯すると思ってんの!」
嵐のようなおばちゃんたちの登場に、ヤンキーたちも呆気にとられ、世の母ちゃんたちのペースに吞まれていた。
「おい!しっかりしろ!応援するぞてめえら!バイクに乗れ!」
「「うーっす!」」
ヤンキーたちは気を取り直して再び排気音で曲を演奏し始める。
がしかし。演奏の途中でおばちゃんたちが、フライパンにお玉をぶつけカンカン鳴らしながらバイクのエンジン音よりも大きい音と声で演奏に割って入ってきた。
「うるさいってのよあんたたち!鼓膜壊れちゃうでしょ!お家帰って母ちゃんの手伝いしなさい!」
「うっせーぞクソババア!ぶっ殺すぞ!」
「あんた悪い言葉使って!どの口が言ったの⁉あんたたちだね⁉夜から騒いでバイク乗り回してるのは!朝やりなさい朝!おばさんうるさくて眠れないでしょ!」
「てめえらの町のことなんざ俺たちが知るか!俺たちに当たるんじゃねえ!」
おばちゃんの勢いにのまれたヤンキー。
「あんたたちみんな変な頭してそっくりじゃないかい!なんだいその変な頭は!うんちみたいな色して!将来父ちゃんみたいなるわよ!」
「触んじゃねえ!ばばあ!てめえにはこの良さが分かんねえんだよ!」
「何だいそのダッサイ服は!みっともないから早く着替えてきなさい!」
「あーもううっせええ!何だこのババアどもは!」
ヤンキーたちは皆おばちゃんたちにがみがみと口やかましく説教されていた。やはりどんな人間もおばちゃんたちには勝てないらしい。
七回裏。うちのチームの攻撃だ。おばちゃんたちのおかげで調子を取り戻した商店街のおじさんたちだったが、相手チームのピッチャーもヤンキーの到着でペースを取り戻したようで、塁に出たが得点までには至らなかった。
そんなこんなでおじさんたちは善戦しながら最終回、九回表。星野の活躍が大きく、ここまでなんと無失点で済ませてしまった。ただ代わりに、六回目以降点も取ることができず、二点の点差が変わらず開いていた。
再び前髪野郎の打順だ。こいつはどうやらそうとう無駄なプライドを持っているらしく、女である星野に抑えられていることがよほど気にいらないらしい。アウトで終わるたびに道具やベースに当たっている。
そして、九回表。とうとう行動に移してきた。
星野が変わらず速球を投げる。前髪野郎は口元をニヤッとさせると、星野めがけて球を打ってきた。顔に当たりそうになった星野はとっさに左手で庇う。球はなんとか星野の左手に収まったようだ。
「大丈夫か!星野」
「うん。大丈夫。何とかキャッチできたから」
「そうか。ならよかった。あの野郎わざと狙いやがった」
「このくらい野球じゃよくあることだよ」
「それはそうかもしれないが」
フェンスの外からヤジが飛んでくる。
「おい!女の顔に当てる気か⁉ばかやろう!」
「ちょっとあんた!気をつけなさい!ヒヤッとしたよ!あんたたちが女の子に投げさせるからだよ!ほんとにもう!しっかりしな!」
どうやらヤンキーも心配してくれているらしい。前髪野郎は慌ててベンチに戻っていった。星野が続けて投げる。が、なんと、二回続けて打たれてしまった。投球するたびに顔をしかめているように見える。あいつまさか。
なんとかこの回も無失点で終わらせると、給水しにベンチへと戻る。
「おい星野。左手見せてみろ」
「えっ!ど、どうしたの急に」
星野は慌てて左手を後ろに隠した。やはりそうか。俺は無理矢理星野の左腕を掴むと引っ張り出す。
「これっ!お前、腫れ上がってんじゃねえか!」
星野の左手は親指の付け根から腫れ上がっており、紫色に変色していた。恐らくさっきのやつの前から軽く痛めていたのだろう。そうじゃなきゃこうはならない。
「お前よくこれで投げれたな。初めから怪我してたろ?打順は他の人に代わってもらって、お前はとにかく休め。冷やした方がいい」
「だめだよ!私は出るよ!ここで下がっちゃったら何のための助っ人なのさ!まだ点差も二点もあるんだよ!ここが頑張りどころでしょ⁉」
「無理するな星野!なんでそこまでするんだ」
「私はヒーローなりたいからだよ。ヒーローは負けないんだ。どれだけ苦しくても、勝ち目がなくても、どれだけ痛くても、誰かのためなら何度だって立ち上がるんだ。いつだって全力何だよ!だから私もいつだって全力でやる!こんな嫌な奴らに負けてたまるもんか!商店街をつぶさせてたまるもんか!翼君!私はやるよ。君はどうする?」
こんな状況なのに、こいつは微塵も諦めていない。こんなに大怪我を追っておきながらそれでも前を向く。俺ももうこいつがどんなやつなのか分かってきていた。たとえ誰が何と言おうとこいつはやるだろう。
「分かったよ。急いで応急処置しよう。終わったらすぐ病院行けよ。無茶しやがって。どうなっても知らねえからな」
「うん!大丈夫!私痛みには強いから」
九回裏。五対三。こちらの商店会長の気合いで何とか出塁できている。しかしおじさんたちの力は及ばず、ツーアウトだ。絶体絶命の状況だった。
おばちゃんたちとヤンキーが見守る中、星野がバッターボックスに立つ。ちなみにヤンキーたちはおばちゃんたちに注意され汚いヤジを飛ばさなくなっている。母強し。
前髪野郎が球を投げる。しかし、星野はバットを振ることもできずに、ストライクを取られた。当たり前だ。本来バットを握るだけでも激痛だろう。またしても振ることもできずにストライクを取られる。
「ぐっ」
星野も苦い顔をしている。ここまでか。そう思ったとき。
「姉ちゃん頑張れー!気合入ってんぞー!」
「かましたれ!」
「おい!敵チーム応援するやつがあるか!」
ヤンキーの一人が見方を注意する。
「だってよー、あの姉ちゃん漢だぜ!怪我しながらバッド握って立ってる」
「ああ。根性あるぜ。バットの正しい使い方教えてやれば、うちのチームでもやっていけるぜ」
「バットは野球以外に使うもんじゃないでしょ!あんたたちはほんとに!喧嘩ばっかりして!」
横で聞いていたおばちゃんがまたたしなめる。
「茜ちゃーん!頑張るんだよ!でも無理するんじゃないよー!おばちゃんたちも応援してるからね!」
フェンスの外から、敵からも味方からも激励の声が飛んでくる。
「俺たちも応援するぞ!茜ちゃん頑張れー!」
「バントでいいバントで!」
「無理しないでくれー!」
フィールドが星野への声援で溢れかえる。この声援はきっと、星野が今までやってきたことが繋がっているんだろう。
星野は満面の笑みで再度バットを構えなおす。さっきまでの星野とは大きく違うだろう。絶対に諦めない星野の心に皆が応えてくれたのだ。
完全アウェーの中、苦い顔をした前髪野郎が投げた。星野は重い腕を振ると、見事に球にヒットさせた。
「よっしゃー!」
会場が湧く。打球はサードの方に跳ねると、線ぎりぎりに転がっていった。星野は渾身の力で走ると、塁に滑り込んだ。
これで、ツーアウト一、二塁。点差は二点。ピンチであることには変わりない。首の皮一枚でつながった感じだ。
さっきまで歓喜の声で満ちていたベンチが急に静まり返る。皆言外に問いている。誰が行くのか。それはそうだろう。こんなに盛り上がっている試合だ。それに星野が奇跡を起こして見せたのに、それを無駄にするようなことは絶対にできない。誰も行きたがらない。もちろん俺だって行きたくない。バントしかできない俺が行ったところで役に立てない。まだおじさんのうちの誰かが行った方が可能性があるだろう。
でも、だからって、このまま黙って見るだけなのか?星野は、あいつは、あんなにひどい怪我をしながら、それでも、自分の信念を貫いた。ここまでやれたのも、あいつがみんなを引っ張ってくれたからだ。今逃げて後悔しないか?
星野の方を見ると、一切こちらには目を向けず、ただひたすらにセカンドを見据えていた。俺の方なんて一切見ない。分かってる。あいつはいつだって俺を信じてくれている。今だって、俺が出てくるって確信してるから自分のやるべきことに集中している。ここで逃げて俺はどんな顔をしてあいつと話せばいい?怪我もしてない俺が逃げてどうする。
俺は覚悟を決めて立ち上がった。
「俺が行きます」
「一応助っ人ですし、少しでも役に立ちたい」
「ありがたいけど、無理してないかい?」
おじさんが心配そうに見る。
「星野ほどじゃないですよ」
そう言うと俺はバットを持ちバッターボックスへと入る。前髪野郎も今度は軽口を叩いてこなかった。先ほどのようにはいかないらしい。それともこの空気に呑まれただけか。
ピッチャーが振りかぶって投げる。案の定スピードは速く、球はバットにかすりもせず、キャッチャーにキャッチされる。
「ストラーイク」
「おい!しっかりしろ兄ちゃーん!姉ちゃんのガッツ無駄にする気かー⁉根性見せろー!」
「負けたらケツバットだぞこらあ!」
外野から厳しい声が飛ぶ。星野には優しかった声援も俺には厳しい。いいやつなのか嫌なやつなのかどちらかにして欲しい。
ピッチャーが再び投げる。俺はがむしゃらにバットを振る。当たれ!
しかし今度も再びバットは空を切り、球はグローブの中に吸い込まれる。
「ストラーイク」
九回裏。ツーアウトツーストライク。だめだ。何とか自分を奮い立たせ出てきたが、いきなり野球がうまくなるわけがなかった。どうにもならないことはある。人はそう簡単には変われないのだ。俺は顔を下げた。
その時。
「翼くん!」
星野の大きな声がフィールドに響き渡る。
顔を上げると星野の真っ直ぐな瞳が俺を射貫く。星野は何も言わずにただ大きく頷いた。
その時、星野の声が頭に響いた。
「君はやるときはやる人だよ。信じてた!」
「大丈夫!翼君はやるときはやる男だから」
「私はやるよ。君はどうする?」
そうだ。
一人の人間が、こんなにも俺のことを強く信じてくれている。他ならぬ俺よりも。ならば俺は、まだ諦めるわけにはいかない。逃げ出すわけにはいかない。あいつの、星野の期待に応えたい。あいつの頑張りを無駄にしたくない。
俺はバットを握り直すと、構える。まだ諦めるわけにはいかない。
ぎゅっと目をつぶり、ゆっくりと瞼を開く。必ず打つ。
すると。
急に周囲の音が何も聞こえなくなった。さっきまでうるさかった外野の声も、びゅーっという風の音も聞こえない。ピッチャーの動きはスローモーションに見え、投げた球はまるで止まっているかのように見える。。まるで時間がゆっくりと流れているようだ。なぜだか俺はすごく落ち着いていて、球をしっかりと見て、バットを振る。バットは芯を食い、打球は空高く舞い上がる。
飛球は秋の夕空に吸い込まれ、高く高く飛んでいく。空は赤が大部分を占め、青い空をかなり侵食していた。
球はそのままフェンスを越えると、後ろの川に落ちた。
と、その時、周囲の音が聞こえ始め、止まっているかのようにゆっくりと流れていた時間が元に戻る。
「うおおおおおお!ホームランだー!あの兄ちゃんやりやがった!」
「根性あんじゃねえか畜生!」
「きゃー!うちの勝利ねー!今夜はごちそうだよ!」
ヤンキーとおばちゃんたちの興奮した声が聞こえる中、日の丸商店街のおっさんたちが走って駆け寄ってくる。その中でも、誰よりも早く駆け付けた星野は俺の首に抱き着いてきた。
「翼くん!君ってやつは!いいとこ全部持って行っちゃうんだから‼信じてたよほんとに!」
「お、おい!」
「坊主!よくやってくれた!お前のおかげで勝てた!」
「ありがとう!君のおかげだ!」
「うおおおおお!よっしゃー!」
みんな俺の頭を嬉しそうに叩いてくる。
「茜ちゃん。嬉しいのは分かるけどいつまで抱き着いてるの。青井くんを称賛できないじゃないか」
「えっ⁉ごご、ごめん翼くん!嬉しすぎてつい…」
星野は顔を真っ赤にすると慌てて俺から離れた。
「あ、いや、いいけどよ」
「ちょっと!まだ試合終わってないですよ!三人ともちゃんとホームベース踏んで!」
「あ、そうだった」
俺たちは改めてホームベースを踏むと、得点ボードは五対六となった。
「ゲームセット!」
「よっしゃー!」
改めてチームのみんなが集まると俺を胴上げした。
「君たちは最高の助っ人だ!」
「俺たちの商店街を守ってくれてありがとう!」
「お前は俺たちのヒーローだ!」
重力に逆らって、夕空に近づいたり遠ざかったりしながら俺は考えていた。
こんなに汗と砂にまみれて、全力で走り回ったのはいつぶりだろうか。こんなに清々しい気持ちになったのはいつ以来だろうか。商店街のおじさんたちはみんな興奮して、本当に嬉しそうだった。誰かのために頑張る喜びを久しく忘れていた。
「お前は俺たちのヒーローだ」
その言葉が何度も胸にリフレインする。忘れていた感情を少しだけ思い出した気がした。
その後、おばちゃんたちに話しかけられた。
「あんたたち!今日は助けてくれてありがとね~。ほら!おにぎりと麦茶あるから食べな!夕飯前だから食べ過ぎないようにね!」
やかんで沸かした麦茶は冷たく、乾いた喉を潤してくれた。おばちゃんがにぎってくれたおにぎりは梅が入っていて、米とよく合った甘酸っぱさが、疲れた体に染み渡った。
試合も終わり、俺は星野を急いで近くの病院へと連れて行った。最後に無茶をしたせいか更に腫れ上がり変色も進んでいたが、幸い骨は折れていなかったようだ。お医者さんにはしばらく安静にするように言われた。
帰り道。星野が忘れ物をしたとのことで、俺たちは再度公園へと来ていた。
「あったあった。野球帽。良かったー」
「もう日も沈みかけて暗くなってきてる。さっさと帰ろうぜ」
「そうだね。今日はちょっと疲れたしね」
その時、ぽつりと頭に雨粒が落ちた。次の瞬間、ザーッという大きな音とともに大量の雨が降ってきた。
「うわー!」 「うお!」
俺たちは急いで近くのベンチへと逃げ込む。
秋の雨は周囲の気温を下げ、日没前の公園はすっかり冷え込んできた。
「もうすっかり秋だな。暗くなるのが早くなってきたし、雨が降るとこんなに冷える」
「…」
星野の返事がなかったので訝しく思い振り返ってみた。すると、星野は苦しそうな顔をしながらベンチに倒れていた。
「おい!どうした星野!大丈夫か!」
「…ちょっと無理しすぎちゃったみたい」
「だから言っただろうが!」
「今の雨で急に体温が下がったせいか!もう一度病院行くか?」
「そうしようかな。ちょっと余裕ないかも」
星野は苦しいだろうに困ったように笑っていた。
「ちょっとおでこ触らせてくれ」
星野の額に俺の手を当ててみる。
「すごい熱じゃないか。とにかく今からおぶってくからちょっとの間だけ我慢してくれ」
「あ、それひんやりして気持ちいいかも。ちょっとそれ続けてみてくれるかな」
「これがいいのか?」
「うん」
五分ほどそうしていると、星野はいきなりがバッと起き上がると、そのまま立ち上がった。
「治ったー!」
「は⁉そんなわけあるか。早く病院行くぞ」
「ほんとだよ!翼くんの手には冷えピタ効果でもあるのかな。さっきまでの気分が嘘みたいだよ!」
そういうとバットをスイングする身振りをしてみせた。
「…うそだろ。どうなってんだお前の体は」
どうやらこいつの体は普通の人間とは構造が違っているらしい。
「まったく。心配かけやがって。だが、とりあえずむこうにシャワーがあるから、直ぐにシャワーだけでも浴びた方がいい。汗と砂と雨といろいろ汚れているだろうし、衛生的にも良くない。お前の気力に体が負けている可能性もある。今日はさっさと帰って軽く食べて早く寝た方がいい」
「私着替えなんて持ってきてないよ。それに私ん家ここから遠いし」
「あ、そうだ!翼くん家ここからすぐ近くじゃん!着替えとシャワー貸してよ!」
軽いノリで恐ろしいことを言ってくる。
「なっ!」
「ほら!早くシャワー浴びないと体に悪いんでしょ?私また途中で倒れちゃうかもだよ?か弱い女の子を見捨てていいの?」
星野は勝ち誇った顔で詰め寄ってきた。完全に墓穴を掘ってしまった。ちくしょう。
仕方ない。人助けだと思えば。
「はあ。分かったよ。じゃあさっさと行くぞ」
「いやったー!翼くんの手料理が食べられる!」
「だれが夕飯まで食べて行けと言った」
相変わらず厚かましいやつだった。
雨は思いのほかすぐに止んだため、あまり濡れずに家まで辿り着けた。
ドアを開けると家の中に入った。
「お邪魔しまーす!」
うきうきした顔で星野が挨拶する。
「別に誰もいねえよ」
「翼くんご両親は?」
「…転勤で東京にいる」
一瞬固まるがすぐに答える。
「へえ。それじゃあ一人暮らしなんだね。寂しいでしょ?」
「別に。一人だと気楽でいいもんだ」
「そっかそっかー。それじゃあ私がたまに来てあげるね」
俺の返事を勝手に解釈する。
「今の会話の流れでなぜそうなる。来んでいい。それよりさっさと風呂に入れ。着替えは俺の服しかないが文句は言うなよ」
「言わないよ。じゃあ先にいただいちゃうね。あ、そうだ。分かってるとは思うけど覗いちゃダメだ――」
「夕飯は何が食べたい?砂団子でいいか?」
無視して続ける。
「いいわけないでしょ!ていうか無視しないでよ!かつ丼がいいかな!」
「そんなものはない」
「じゃあなんで聞いたのさ!それじゃあ君に任せるよ。あ、一緒に入るっていう選択肢もあ――」
星野が憤慨したと思ったら今度はふざけたことを言う。
「それじゃあ泥団子にしとくか」
「砂団子と変わらないじゃん!聞いてよ!」
「夕飯まで食べていっていいからさっさと入ってこいってことだ」
面倒くさいやつだ。
「まったく君は。可愛げってやつにかけるよね」
「さっさと行け。また倒れられても困る」
「はーい。夕飯楽しみにしてるねー」
俺はさっそく夕飯の支度に取り掛かることにした。
お米は水にさらすと早炊きにする。かつお出汁をとっておき、冷蔵庫から秋刀魚を取り出すと三枚に下ろし骨を抜き取る。酒に漬けておく。これで臭みが取れ身もやわらかくなる。大根、人参、ごぼう、玉ねぎ、豚肉を一口大に切っていく。フライパンに油をひき、小麦粉をまぶした秋刀魚を投入する。鍋にはごま油をひき、切っておいた野菜と豚肉を加え炒める。
風呂場から星野の鼻唄が聞こえてきた。例の曲だ。
秋刀魚の両面を焼くと、みりん、しょうゆ、酒の調味料を混ぜたたれをたっぷりとからめる。いい香りがしてきた。ねぎを小口切りにしておく。沸騰した出し汁に炒めた具材を入れ、弱火でことこと煮込む。十分ほど煮込むと火を止め味噌を溶き入れる。あとはお米が炊けたら完成だ。
「んんー!良いにおい!なに作ってるの?」
星野が風呂から出てきた。俺の服はサイズが大きいようで、ダボダボだったが、オーバーサイズのお洒落なTシャツの様で、案外様になっていた。
「秋刀魚のかば焼き丼と豚汁だ」
「わーお!良いねー旬だねー!和食だ!もう腹ペコだよー!」
頬を紅潮させワクワクした顔でお腹をさする。
「十分くらいで出るから俺が風呂入ってる間待っていてくれるか。お米もちょうどそれくらいで炊きあがる」
「えー。だから一緒に入ろうって言ったのにー」
「米なしで食いたいなら好きにしろ。非国民め」
先に風呂を借りておきながらぶーぶー文句を垂れる星野を無視すると俺は風呂に向かう。
砂と汗と雨とにまみれたジャージを脱ぐと洗濯機に放り込む。風呂場に入ると湯気が立っており、誰かが使った後の風呂場なんて見慣れぬせいか、いつもの風呂場と違って見えた。
暖かいお湯を全身に流すと冷えた体が芯から温まって、今日一日の疲れも流れていくようだった。ほっと一息つく。風呂場の窓の外からは、秋の夜の虫の音が聞こえてきていた。
そういえば、つい最近までこんな風に鬱陶しい雨が続いていたことを思い出す。あれはもう数か月も前の出来事か。時が過ぎるのがこんなにも早く感じる。星野に振り回され、毎日忙しくなったせいだろう。前まではあんなにも時間が過ぎるのが遅く感じていたというのに、それさえも遠い昔のことのように感じる。
鏡の中の自分の顔を見てみると、酷かったくまが消えていた。星野と関わるようになって以来俺は夜も――
「つばさくーん!まだー?もう私我慢できないよー」
「そろそろ上がる」
あまりに疲れていたのと、考え事が捗ってしまったせいかちょっと長居しすぎたらしい。急いで体を洗うと風呂から上がる。
脱衣所から出ると、なにやら星野は身を屈めるとベッドの下を覗き込んで何かを探していた。
「何してる」
「翼くんのエッチな本を探索しているの」
「そんなものはどこにもないからさっさと――」
そう言いかけて思い出す。そういえば、先日大志が忘れていったいかがわしい本を一冊、捨てるのも悪いからということで、押し入れに閉まっていなかったか。額に汗が滲む。
「どうかしたの翼くん?あと残るは押し入れだけだよ。君の無罪を証明しようじゃないか」
「い、いや。何でもない。それより冷めないうちに飯にしないか?」
「あ!そうだった!もうお腹ぺこぺこなんだよー」
ふー。何とか助かった。あとでこいつがトイレに行ったときにでも別の場所に隠そう。
炊飯器の蓋を開けるとつやつやのご飯が炊きあがっていた。それを丼によそい、たれのたっぷりかかった秋刀魚を乗っけると、切っておいた小ねぎを散らす。これで秋刀魚のかば焼きの完成だ。そして鍋の蓋を開け、熱々の味噌汁と豚汁の具材をよそう。
俺たちは机に向かい合って座ると、机に並べられた秋の食事を頂くことにした。
「いただきます!」 「いただきます」
「んんー!おいしー!」
星野が目を輝かせて本当に美味しそうな顔をする。
「そうか。ならよかったが」
「香ばしい醤油だれにぷりっぷりの秋刀魚!豚汁もごま油の味がして、こくがあるよ!疲れた体に染み渡るー!」
「へえ、分かってるじゃないか。だが丼の主役は米だ。このかば焼きはお米と一緒に食べるからこそこんなにおいしいのさ」
「また始まったよ翼くんのお米トークが」
「翼くん、ステイ!」
そう言って手で「待て」と合図してくる。
「犬か俺は」
「翼くんの話は長いんだよ。ところで翼くん。私たちが相棒になってそろそろ長いじゃない?」
「相棒になった覚えはないがな」
「だからそろそろ翼くんも、私のことを星野じゃなくて茜って呼んでもいいんだよ?」
構わずにわけのわからんことを言ってくる。
「なんだそれは。却下だ」
「何でー!私だって翼くんって下の名前で呼んでるんだから不公平じゃん!」
「ならお前が青井に戻せばいいだろ。俺の納得のいく理由があるなら上げてみろ」
「むむむ!何と頑固な」
豚汁をすすりながら星野が眉間にしわをよせる。
「改めて、今日はお疲れさまだな」
俺は冷蔵庫からキンキンに冷えたコーラを持ってくると、氷を入れたグラスに注ぎ、星野と乾杯する。
「お疲れさまー!翼くん今日カッコ良かったよ。君は奇跡を起こして見せたんだよ」
「あんなのただのビギナーズラックだ。そもそもお前がいなかったら試合にならなかった。お前のおかげで勝てたようなもんだ」
「えへへ、照れるなー。ありがとね」
「ところで翼くん。今日の試合は押して入れまくったよね。点を」
急に星野が不穏な笑顔を浮かべる。
びくっとする。
「あ、ああ。最後らへんだけだけどな」
「そうだねー」
星野は変わらずニコニコしている。
こいつ、まさか気づいたのか?なんだ今の違和感しかない倒置法は。そもそも試合は押してもいない。
「そうだ青井くん。秋刀魚、もっと取り入れてくれるかな」
再びびくっとする。
「取り入れろってお前、もっと買ってこいってことか?」
「あ、間違った。取って入れてくれるかな?だったや」
星野はずっと怖いくらいニコニコしている。
こいつ、間違いない。気づいている。エロ本の隠し場所に。俺が先ほどからちらちら見ていたのに気づいたに違いない。しかし、それ以上に、とてつもなく怒っている。
こいつ怒ったらこんな感じなのか。一番質が悪いじゃねえか。おそらく先ほどの俺の返答が気に入らなかったのだろう。呼び方も青井くんに戻っている。こいつにこんなねちねちした一面があったとは。
「青井くん、スポーツの秋、食欲の秋とこれば、あとは読書の秋だよねー。何か読みたいなー。何か刺激的なものが」
この確信犯め。攻めてきやがった。
「そんなことより星野。もっとコーラ飲むだろ?ついでやるよ」
なんとしてもこいつをトイレに行かさなければ。
「青井くんこそ、もっと飲むでしょ?今日の立役者なんだから。グイッと行こうよ」
「いやいやいや。今日のMVPはお前だ。ぜひ注がせてくれ」
「いやいやいやいや。青井くんあっての勝利だよ。私に注がせて?」
こいつ、俺をトイレに行かせて、その間に押し入れに行く気だな。
互いににこにこしながらコーラを奪い合う。
「うふふ。もう青井くん手を放してよ、注げないでしょ」
「あはは。そっちこそ放してくれよ、こぼれちまうぞ」
「うふふふふふ」
「あははははは」
渇いた笑いが部屋に響き合う。
「ぷぷっ」
「くくっ」
「あははははははは!」
「くくくくくくくくっ」
二人の笑い声が部屋に響く。
「もうなに、翼くん渇いた笑い声出して!」
「お前こそへったクソな演技しやがって!」
星野はいつか見たときのように、両方の手の親指と人差し指を直角に立てると、小さな四角形を作り、まるでカメラのようにその穴を俺に向けて覗き込んできた。
「前にも聞いたが、それは何なんだ?」
「これはねー、心のカメラだよ」
「心のカメラ?」
「そう。このカメラで写したものは何でも、一生心に焼き付けられて消えないんだ。だから私は本当にずっと残していたいものはこのカメラで撮るんだよ」
「前は君が怒ってるときだったから教えなかったの。それにしても君はそんな顔で笑うんだね」
星野は本当に嬉しそうな顔でそう言った。
俺が笑ってた?泣きも笑いもしなくて、面白みのない俺が、笑ってたのか。
時間の流れだけじゃなかった。俺はいつの間にか、こんなにも星野に…。
今日気づいた。こいつの行動でみんなが変えられていく。消沈していた商店街のおじさんたちも。敵対していたヤンキーたちも。諦めない星野が、みんなの心に勇気を与え、応援したくさせる。学校の外で見るこいつは、本当はクラスの誰も知らないたくさんの一面を持っている。
だからこそ、俺は前から気になっていたことを星野に聞いてみることにした。
「なあ星野。俺はお前が意味もなく奇怪な行動をするやつだとはもう思わない。前々から聞いてみたかった。なんでお前は、嫌われるような、周囲から浮くような行動を自分からとるんだ?」
「…私はね、この国では、たくさんの人が生きながらに死んでいると思う。自分の考えをもてずに、押し付けられた考えを自分のものだと思い込んで生きている。抑圧されて、押し付けられて。学校にいると息苦しいの。個性を奪われて、集団行動を強いられて、見えない空気を読まないといけない。どんどん自分が死んでいく。腐った社会に出て行く予行演習をしているように感じるの。だから私は空気を壊すことにしたんだ。飼いならされてなるもんか。死んでなんかやるもんかって。つまらない日常の中で腐敗しちゃいそうになるのなら、私が日常を非日常に変えてやるんだって。だから私は何にも縛られず生きている。ただそれだけだよ」
「……」
星野はずっと、抗い続けていたのだ。バカにされながらも、蔑まれながらも、それでも、自分の信念を貫き通してきた。
心の中では、俺も思ってた。目に見えない空気を読んで、個性を押し殺す毎日に辟易していた。でも、何もできずにつまらない日々を淡々と消費して生きてきた。
星野は俺と似ている。けれど、決定的に違うのは、何もできずに諦めてしまう俺に対して、星野は、ずっと行動で示し続けてきたことだ。だから俺は、俺と似ていながらも対極にいる彼女に、こんなにも心動かされるのだ。
「こんな間違いだらけの世界だから息をするのも苦しい。息苦しくて、生きづらい。でも。生きづらさはまだ私たちが死んでない証だから。まだ私たちが抗い続けているから息苦しくて生きづらいんだと思うんだ。自分の中の大切にしていることや、こだわりたい事、貫きたいことを大事にしているからこんなに生きづらい。もっと生きやすい方法はあるはずなのに、自分を殺せば楽なのにそうしない。そうできないのかもしれないね。誇っていいんだよ。それが大切にすべき自分らしさだから。でもいつか。こんな世界で生きやすくなってしまった時は、きっと戦うのを止めて順応して、生きやすい楽な道を選んでしまったからなんだろうね。きっとみんな少しずつ戦うのをやめていく。少しずつ無意識にそうなっていくんだよ。それが大人になるってことなのかもしれないね」
星野は、最後は悲しそうにそうつぶやいた。星野は誰よりも子供じみ見えるが、本当は誰よりも大人なのかもしれない。いや、そうなりたくないと必死に抗っている、大人でも子供でもない、何かなのか。その何かが一番輝いていて、本当の意味での一人前なんじゃないかと俺は思った。俺たちは大人から見たらこの社会のことは疎い半人前かもしれないが、きっと未熟で不格好で、かっこいい半人前だ。
「さあ翼くん。私はまだ諦めてないよ。君がどこかに隠した例のぶつを白日の下に晒されたくなかったら私の条件を飲んでもらおうか」
さっきまでの雰囲気は消え去り、またふざけた明るい空気が流れ出す。
「仮にその物があったとして、見つけたらどうなる?」
「破り捨てるよ。それか我が家の家宝として、君のムッツリっぷりを末代まで語り継ぐよ。そして君のことをむっつり翼と呼ぶ。そんな売れない芸人みたいに呼ばれるのは嫌でしょ?だから、さっさと諦めて私のことを茜って呼んで。そして今晩は私のことを泊めなさい」
などと腹立たしいことを要求してくる。
「おい。さらっとなんか一つ増えてんじゃねえか」
「大丈夫!私は君の寝言も歯ぎしりも気にしないから!」
「俺はお前の寝言も歯ぎしりも、そして涎も気にするんだよ」
「私は寝言も歯ぎしりもしませんー!涎も‼」
「俺だってしねえよ。あとお前、涎は垂らして――」
ぶおん。星野の拳が俺の横数ミリをかすめる。
「次は当てるよ」
「涎は垂らさないな。間違いない」
「でしょ?じゃあ泊っていいよね?」
星野は先ほどのやり取りなどなかったかのように話を進めようとする。
「いや、だけどだな」
「君はこんな時間に病人を一人で遠いお家まで帰らせるの?私が途中で倒れちゃったらどうするのさ!もうこんなに遅い時間なんだよ」
「ぐっ、確かにそれはそうだが」
「君に選択肢などないのだよ、翼くん。大丈夫、枕投げは加減するから」
「そんな心配はしていない」
恐らくこいつは何を言っても聞かないだろう。それに弱みも握られているしな。
「分かったよ。はあ」
「いやったー!お泊りだ!私誰かのお家に泊るの初めてなんだよね!あ、コンビニで歯ブラシ買ってくるね!」
「あ、そうだった。その前に。ほら、翼くん。どうぞ」
「…何だよ。さっさと買ってこいよ。星野」
星野は心底むかつく顔で、まるで「だめだこいつは」ととでも言うように大げさに肩をすくめると、大きくため息をついた。
「はあ。まったく。これだから翼くんは。リピートアフターミー?あかね」
「だから何なんだその英語は」
「いいから!」
「…気を付けて行って来いよ。茜」
星野は、いや、茜は、心底嬉しそうに笑うとこう言った。
「うん!翼くん!行ってきます!」
「お前の布団、俺の父親が使ってたやつしかないが、いいか?」
コンビニから帰って来た茜に確認する。
「うん、もちろんいいよ。あ、明日の朝ドングリジャーと仮面ライダーやるから絶対起きてみようね!」
「いやだよ、一人で見ろよ」
「ええー、じゃあプリキュアは一緒に見ようね!」
「余計見るかよ。女児向けアニメだぞ。おいもう電気消すぞ」
何を言っているんだこいつは。
「翼くんのパンツすーすーするよ。お腹壊さないかな」
「だったら二枚履けばいいだろ。今日は疲れたから寝させてくれ。消すぞ」
「ねえ翼くん」
なおもしゃべり続ける。
「まだなんかあるのかよ」
「今日の翼くん、かっこよかったよ。」
「…そりゃどうも」
「うん。それだけ。おやすみ」
「ああ。おやすみ」
俺は電気を消した。見慣れたはずの天井はいつもと違って見えた。他人が横に寝ているせいで、なかなか寝付けないのではないかと踏んでいたが、疲れていたのかすぐに意識が消えた。
その晩、熱を出した。俺もかなり疲れていたのだろうか。それとも、季節の変わり目だからか。朦朧とした意識で夢うつつの中、茜の姿が見えた気がした。
あ、翼くん起きた?調子どう?翼くんひどくうなされてたんだよ。私の風邪が移っちゃったのかな。昨日泊って正解だったよ」
おでこには熱さまシートが貼られていた。時計を見るともう昼の十二時だった。茜が看病してくれてたのか。
「悪いな。ずっと看病してくれてたのか。ちゃんと寝たか?俺夜中から発熱してただろ」
「もう寝不足だよ。でも私一日くらい寝なくても平気だから安心して。あ、おかゆも作ってあるよ。台所勝手に使わせてもらったけど。食べて。元気出るよ。翼くんの大好きなお米だから」
「ありがとう。お前もしばらく寝たらどうだ?俺はもう大丈夫そうだ」
そう言って俺が上体を起こそうとすると。
「あっ!まだ無理しないで!翼くん四十度近くあったんだよ。今は解熱剤が聞いてるけど、治ったわけじゃないからしばらく寝てなさい。私は帰ってから寝るから大丈夫」
「そうか。分かった。悪いな」
「ううん、気にしないで。翼くんだって昨日私が倒れた時面倒見てくれたでしょ」
茜はその後、十五時近くまで俺の面倒を見て、帰っていった。
結局その後も熱はぶり返し、完全に回復するまで一週間もかかった。
完全に風邪も治り、しばらく経ったある日の放課後、俺たちは最早日課となったパトロールをしていた。すっかり秋も深まって、空気もより乾いてきた。
隣から香ばしい匂いがしてきた。
「んー!この焼き芋おいしー!翼くんも半分食べる?さっき商店街のおじさんにもらったの」
「サンキュ。商店街はその後どんな感じなんだ?」
「木下商店街とお互い競い合って、どっちも味が向上して繁盛してるみたいよ」
「へえ。良かったよ」
俺たちが参加した意味もあるな。茜のおかげだ。
「ところでお前、そろそろ俺の洋服返せよ。いつになったら持ってくるんだ」
「だめ。あの洋服は私の抱き枕にしてるの」
「人の洋服を勝手に枕にするんじゃねえ。下着も早く持ってこい」
図々しいやつだ。
「翼くんのエロ本と交換ならいいよ」
「あれは俺のじゃねえ。大志のだ!」
「はいはい。まったくムッツリなんだから」
俺たちが並んで焼き芋を食べながら口論していると、道に迷っている人を見かけた。
タウンアンドカントリーのマークが入った灰色のアンダーシャツに、緑色の色褪せたYシャツ、黒い半ズボン、島草履、無精ひげに、黒いハット帽が目元を覆っている格好に、銀色の十字架のマークのピアスをしている。年の頃は三十代前半から四十代前半にも見える。不思議な雰囲気を纏った男だった。男は地図を見ながら、道に立ち尽くし、首を傾げていた。
「あの、道に迷ったんですか?」
茜が話しかける。
「んん?ああそうなんだ。実は道に迷っちゃってね。困ってたんだよ」
男はまるで自分が道に迷っていたことなんて忘れていたかのように、飄々とした様子で答えた。
「良かったら案内しますよ。どこに行きたいんですか?」
「それは悪いよ。今僕がどこにいるのかと、そこからの道のりを口頭で教えてくれれば行けそうだからさ。知らないおじさんについて行っちゃいけないって教わらなかったかい?」
「困っている人は別ですよ。あんまり悪い人にも見えないし。ね、翼くん」
「いや、どうみても怪しいだろ。変な雰囲気漂わせてるじゃねえか」
俺は小声で返す。
「そっちの少年は見る目があるねー。お嬢ちゃんはもう少し警戒心を持った方がいい。それともっと自分を労わってあげないと」
男は地獄耳のようで俺の言葉が聞こえていたようだ。
横を見ると茜の様子が少し変だった。意表を突かれたかのような顔で男を見ている。そんなに警戒心を持っていないことを気にしていたのだろうか。
「それで、どこへ行きたいんです?」
俺は男に尋ねる。
「…この学校の近くにある病院に行きたいんだ」
男はそう言うと地図を指さした。
「あれ、その学校俺たちが通ってる学校ですよ。病院も知ってます」
「俺たちが今いる場所がここなんで、ここからこう行くと行けますよ」
俺が地図を指でなぞり道順を教える。
「ああなるほどね。そう行くのか。助かったよ少年。お嬢ちゃんもありがとね」
男は先ほどから様子のおかしい茜に話しかける。
「え、はい。こちらこそ」
茜は戸惑った様子でそう返した。
「それじゃあ二人とも、頑張ってね」
男はそう言い残すと飄々とした足取りで行ってしまった。
それにしても変な男だった。俺たちがパトロールしていることも知っていたのだろうか。まさかな。
その後、俺たちは先日の公園に差し掛かった。もう十六時過ぎだというのに、遊んでいる子供は一人もいなかった。
「よし、翼くん。今日はパトロールはこれくらいにして超能力の練習にしよう」
「今日はどんな練習をするんだ」
「私に付いてきたまえ翼くん」
「まずはこれ、ブランコだ!」
ブランコの前で腕を組む。
「ブランコで何をするんだ?」
「いいかい翼くん。超能力を使える条件はね、子供であることだよ。大人の不純な心がある限り使えないんだ。だから今日は童心に帰って遊びまくる!そうすることで超能力が使えるようになるはずだ!」
「もうなんでもいいけどな」
「というわけで翼くん!どちらが遠くまで跳べるか競争だ!」
俺たちはブランコに並んで座ると漕ぎ始めた。
キィコキィコキィコキィコ。
小学生以来乗るブランコは、あの時とは違い乗り心地が悪く、小さく感じた。
対照的に茜は、本当に楽しそうに、無邪気に全力でブランコを漕いでいる。
「ねえ翼くん!超能力ってあると思う?」
「急にどうした。あると思うから練習してるんだろ?」
「うん!そうだよ!じゃあ宇宙人は?妖怪は?幽霊は?」
目を輝かせて矢継ぎ早に質問してくる。
「なんだよ。全部妄言の類だと思ってるが」
「私はね、超能力も、宇宙人も、妖怪も、幽霊も、魂も、全部あると思う!」
「だって世界はこんなに広いんだよ?この世界にはきっと無限の可能性が秘められているんだ!私たちが知らない世界があって、そこにはきっと、私が探してるものが全部あるの!そんな気がする!だから私はいつかそこに行きたいんだ!」
きらきらした瞳で茜はそう語った。
「だからいつか二人でそこに行こうね!」
そう言うと茜は飛んだ。ブランコから身を投げ出し、前へ跳躍する。
その姿は、どこまでも真っ直ぐで、無邪気で、純粋そのものだった。
太陽の光が茜と重なり、まるで光を放っているかのように見えた。
そのまま空に羽ばたき飛んでいくように思えた。
しかし、やはり重力には勝てなかったようで、数メートル先に着地する。
「くそう。飛べそうな気がしたんだけどなー」
「翼くんもとびなよ!」
「ああ」
俺は勢いよく茜の元へ飛んだ。
つもりだった。しかし、無意識に自制してしまったようで、子供の頃のようにはいかなかった。茜の半分くらいの位置に立つ。
「もう、へったくそだなー」
「うるせえ」
続いて、シーソーに乗る。
俺が上に上がると、茜が下へ下がる。茜が上に上がると、俺が下へ下がる。ギッタンバッコン、ギッタンバッコン。交互に繰り返す。昔はこれが楽しかったというのだから不思議だ。
「そういえば翼くん。あのかっこいい変身ポーズってどうやって作ったの?」
「藪から棒に俺の黒歴史を掘り起こすな」
「えー、あれかっこいいじゃん!また翼くんがやるところ見たいなー」
目をキラキラさせて恐ろしいことを言ってくる。
「絶対やんねえ」
「ちぇっ、けちだなー」
「これじゃあかっこいいヒーローになれないよ」
「どういうことだ?」
俺は顔を上げると向かいの茜の顔を見る。
「いい翼くん?ヒーローになるための条件は三つ!」
「一つ、誰かを守りたいという強い思い。二つ、愛と平和を求める正義の心。三つ、かっこいい変身ポーズだよ!」
「前二つはともかく最後の一つは要らねえだろ」
「何言ってるの⁉一番大事な要素だよ!」
どこがだよ。
「でもね、翼くん。今言った条件を満たさなくてもヒーローはいるんだよ」
「どういうことだ?」
「大切な誰かを、何かを守るために、人知れず歯を食いしばって、踏ん張って、何かを貫こうと戦っている人たちは、私にとってはヒーローだよ」
「私はそういう人間でありたい」
一言一言を噛みしめるように茜は言った。
「たしかにそれは難しいことだ。頭が下がるな」
「君だって…」
「俺だってなんだ?」
「ううん、なんでもない」
とその時、入り口近くから大きな声が聞こえた。
「あ!茜だ!」
「珍しい!誰かと一緒だ!」
小学校低学年頃の男の子と女の子数人がこちらを指さし、近づいてきた。
「茜お姉ちゃんでしょ!翔太!」
茜が注意する。
「うっせー!いつも一人で可哀想だから遊んでやってるのに、もう遊んでやんないぞ!」
「遊んであげてるのはこっちだし!あ!何翼くんその可哀想な人を見る目は!今すぐやめて!」
「茜お姉ちゃんの彼氏なのー?」
女の子が尋ねる。
「へっ⁉ち、ち、ち、違うよ!私たちはパートナーだよ!」
「それって付き合ってるってことだろ!茜はバカだなー」
「うぇぇっ⁉そ、そうなの翼くん⁉」
驚いた顔でこっちに確認してくる。
「違うだろ。俺はこのお姉ちゃんにこき使われていじめられているんだ」
「ちょっと、翼くん!人聞きが悪いこと言わないでよ!」
茜が不服そうに抗議してくる。
「このお兄ちゃん目つき怖―い!」
「陰湿そー。ムッツリだ!」
「茜の召使いってことは俺より下だな!」
クソガキどもが。どこでそんな言葉覚えてきやがった。最近のガキには可愛げがないな。
「あはははは!翼くん、小さい子にもムッツリってバレてるじゃん!」
「どの口が言ってんだ。小学生に遊んでもらってるやつに言われたくねえよ」
「茜!今日も一緒に遊んでやるよ。今日こそはこびと捕まえるぞ!」
「まったく、しょうがないなー。ごめんね翼くん。付き合ってあげてね」
そう言った割には茜の目はキラキラと輝いていた。精神年齢的に小学生と気が合うのだろう。それにしても小人とは案外可愛らしいではないか。
小学生のうちの一人がランドセルから一冊の大きい本を取り出した。
「こびと観察入門」と書いてある。
「今日はどのこびと捕まえる?私リトルハナガシラ飼いたい」
虫か。
「じゃあなんか囮の虫必要だな!俺捕まえてくる」
「いやいや待て待て。こびとは虫食うのか?」
恐ろしい言葉が聞こえたが。
「なんだよ兄ちゃん知らねえのー?こびとづかん」
「なんだそれは」
「子供たちの間で流行ってるファンシーなこびとたちだよ」
若干一名小学生ではないやつも混じっていたが気にしないことにした。
「どれ、見せてくれ」
俺は少女にそのこびとづかんとやらを見せてもらう。
するとそこには、ファンシーとは程遠い渋い顔をした変な格好のこびとが写っていた。
「なんだこの可愛さのかけらもない不細工なこびとは」
「何言ってるの翼くん!超かわいいじゃん!私もペットの代わりに飼いたいよ!」
「だからペットって。妖精みたいな扱いじゃねえのかよ」
先ほど言っていたリトルハナガシラというこびとを見てみると、全身緑色で頭に花を乗っけていた。しかも性格は非常に獰猛で肉食なうえに、仲間内でも喧嘩が絶えず、群れのリーダーなどもいるらしい。
全然可愛くなかった。どんなこびとだよ。このなりで性格まで可愛くないってどんだけだよ。なんでこの子こいつ飼いたいんだ。群れとかリーダーとか最早野生動物じゃねえか。肉食なのも可愛くない。
「おい、こいつはやめてもっとましなのにしないか。ほら、このバイブスマダラなんて見た目はちょっとあれだが、温和で草食みたいだし、ほんわかしてて可愛らしいじゃないか」
「えー、まあ確かにリトルハナガシラは飼うの大変だから、別にいいけどよ。でもそしたら空き缶必要だから兄ちゃん飲み物買って来てな」
「まあしょうがない。ちょうど喉も乾いてたしな。俺だけ飲むのもなんだから全員分買ってくるか。何飲みたい?」
ガキどもの方を見下ろす。
「えー!兄ちゃん太っ腹!」
「やったー!ありがとうお兄ちゃん!」
「じゃあ俺コーラ!」
「わたしポカリ!」
口々に叫ぶ。
「茜。お前は?」
「え、私は悪いから自分の分出すよ。何なら私も一緒に行くよ。一人で持つの大変でしょ」
「一緒に来てくれるのはありがたいが、金は要らない。成り行きだ」
「そう?じゃ、頂こうかな。私メロンソーダ!」
二人で遊具の裏にある自販機で小学生六人、俺と茜の分の計八本を購入する。ちなみに俺は麦茶にした。
みんなが飲み物を飲み終わると、コーラの空き缶とメロンソーダの空き缶をつぶし、草むらに設置する。どうやらこの空き缶で演奏をしにやってくるらしい。意外と陽気だな。
そして何やら演奏し疲れたバイブスマダラが寝るための靴が必要らしい。
「兄ちゃん言い出しっぺだから兄ちゃんの靴置こうぜ。大きいし」
「なぜ俺の…。まあいいが」
俺は右足のスニーカーを脱ぐとバイブスマダラの餌たる草を詰め、空き缶の横に設置する。そして俺たちはそこから少し離れた草むらに隠れた。ここからバイブスマダラがやってくるのを見張るらしい。
しかし、というか案の定、十分経っても二十分経ってもやって来ない。
「で、茜、いつやってくるんだ?」
「翼くんの靴が臭うんじゃないかな。こびとは繊細なんだよ」
「俺はお前の飲んだメロンソーダが気に入らないんだと見た」
イラっとしたので言い返す。
「なんだとー」
「なんだよ」
互いに額を突き合わせる。
「もうお兄ちゃんたち喧嘩しないでよ」
「バイブスマダラは音楽が好きだから、口笛と手拍子でおびき出そう!って書いてあるよ」
「ヒュヒュ♪ヒュ♪ヒュヒュ♪ヒュ♪」
茜が急に口笛を吹き始めた。
「タタ♪タン♪タタ♪タン♪」
ガキンチョたちが茜に合わせて手を叩き始める。
「…」
みんなして俺を見つめてくる。
「翼くん」
「お兄ちゃん」
「兄ちゃん」
みんなで促してくる。
「悪いな俺はやらない。そこまでしてあのこびとは欲しくない」
「みんなかっこいい変身ポーズ見たくない?」
茜が恐ろしいことを言う。
「えー!見たーい!」
「よっしゃ!なんとしてもバイブスマダラ捕獲して飼ってやるぜ!」
「ヒュヒュ♪ヒュ♪ヒュヒュ♪ヒュ♪」
「タタ♪タン♪タタ♪タン♪」
そういうと俺は口笛を吹きながら、リズムに乗って手を叩き始める。
覚えてろ茜め。
みんなで単調なリズムを手と口とで奏でる。
五分程経った時、近くのごみ捨て場を漁っていたカラスが一匹、空き缶の方へやって来た。すると、空き缶や地面をくちばしでつつき、その場所を荒らし始めた。
「あー!カラスが荒らしてる!」
「あっち行け!」
ガキどもがカラスを追い払おうと脅かしに行く。
しかし、そのカラスは太々しく、相手が子供だから気にもせず荒らし続ける。このままだとガキどもの方が怪我させられそうだ。
そう思った俺が出て行こうとした時。
急にカラスが苦しそうな鳴き声を上げると、その場から逃げるように去っていった。
「どうだ!参ったか!」
いや、今のはこいつらにビビったんじゃなかった。他のなにかを嫌がって逃げたように見えた。
「なーもうこびと来ないし、待つの飽きたー。他の遊びしようぜ」
「そうだね、こびとは繊細だからなかなか人間の前には現れてくれないのかもね」
茜が少し寂しそうな口調で諭すように言う。
「じゃあ次鬼ごっこしようぜ!鬼ごっこ!」
「お、やるかい?いいよー」
「茜は手抜けよな!いつも大人げないんだよ」
みんな次の遊びに移ろうとしている中で、俺は靴を拾いに空き缶のところに行ってみた。すると、カラスは靴に手は出していなかったのに、靴の中の草が半分ほど減っていた。そしてなぜかその靴はほんのりと温かかった。
俺は先程見た本のバイブスマダラのページを思い出していた。そこにはこう記されていた。
バイブスマダラはカラスが嫌いで、カラスが嫌がる音を出す、と。
「まさかな」
俺は空き缶を拾いごみ箱に入れると、ガキンチョどもの方へと歩いて行った。
茜は俺相手の時だけ全力で追いかけてきたので、俺も全力で公園を駆け回った。
ガキンチョどもと茜は疲れ知らずの様で、こちらから言い出さなければ永遠に走り回っていそうだ。ベンチで少し休憩する。
「兄ちゃんへばるの早すぎだぜー」
「お兄ちゃん体力なーい」
ガキどもが文句を垂れてくる。
「翼くん、まだまだ修行が足りないね」
「そもそも俺はそこまで運動は得意じゃないんだよ。お前ら小学生には付いていけねえよ」
「私は小学生じゃないよ!」
星野がむきになって言ってくる。
「お前が一番小学生してるよ」
「まあ翼くんはあんな大人向けの本を読むくらいだから、私と違って大人だよねー」
などと少し怒った顔で皮肉を言ってくる。
「だからあれは俺のじゃないって何度も言っているだろ。お前もしつこいやつだな」
「今度また検査しに行くからね!次見つけたらその場で破り捨てるから」
「また来る気かよ」
と、その時。ガキンチョのうちの一人が茜のスカートをたくし上げた。
白地にイチゴの柄のパンツが露になる。
「エロエロこうげきー!」
「きゃあ⁉」
茜が甲高い声を出す。
「逃げろー!」
顔を真っ赤にした茜は慌ててスカートを抑えつける。
「待て翔太―!」
茜は真っ赤な顔で追いかけて行った。
「お兄ちゃん、見たでしょ」
小学校低学年の女の子がジト目でこちらを見てくる。
「…」
なぜ何も悪いことはしていないはずなのに、こんなに罪悪感を感じてしまうのだ。まるで俺が悪いみたいではないか。それに今のは俺ではなくあのガキンチョがどう考えても悪いはずだ。俺はイチゴパンツなど断じて見ていない。
「悪い子は、皮をはいで、骨を砕いて、肉を食らって、一滴残らず血を啜ってやるぞ!きええええええええ!」
「うわあああああああああ、ごめんなさいー!」
茜はよく分からん悪役のマネらしきもので、ガキンチョをマジ泣きさせていた。怖すぎるだろ。
「二度と!しちゃ!ダメ!だから!ね!」
ガキンチョのお尻をぺんぺんしながら説教している。
「お姉ちゃん怖い」
横で見ていた男の子が言った。
「いいかお前ら。スカート捲りが許されるのは子供の今だけだ。こんなの可愛い方だぞ。もし仮に俺があいつのスカートを捲ったもんなら、あいつは躊躇なく空手の奥義を使ってくるだろう。場合によってはそのまま警察に連行される。大人になるとはそういうことだ」
「何変なこと教えてるの翼くん」
すぐ後ろから声を掛けられた。
「よ、よう。災難だったな」
「まったくだよほんとに」
「最近の子供は生意気だよね」
自分の幼さは棚にあげて文句を言う。
「まったくだ」
「…」
「…」
しばらくどっちも無言で気まずい空気が流れる。
「それで?」
肩がびくっと跳ねる。
「見たの?」
茜がもじもじしながら聞いてくる。
「なんのことだ」
俺は白を切ることにした。
「どうだった心美ちゃん?」
「うーん、怪しかった」
茜がまるで不審者を見る目でこちらを見てくる。
「翼くん、1+5は?」
「6」
「本能寺の変って何年だっけ?」
「1582年だ」
「私の好きな食べ物覚えてる?」
「覚えてない」
「私この前ストローでベリー食べたんだー」
「そうか」
茜がねちねちとまるで姑のように攻撃してくる。
「翼くん、そろそろ白状したら?」
「知らない。俺は知らない」
負けない。俺は断じて理不尽には屈しない。見たと言えば絶対面倒なことになるに決まってる。
茜は諦めたのか、しばらくすると何も言ってこなくなった。
俺は隣の小学生男子二人にひそひそ声で話しかけた。
「いいか。これから先偶然パンツを見てしまったときはこうやって対処するんだ。間違っても見たと言ってはいけない。言うと理不尽な目に遭わされるぞ。それから高校生になってもいちごパンツを履いている女には気をつけろ。ろくなやつがいない」
「お姉ちゃーん、お兄ちゃんやっぱり見たんだって!」
「あと高校生になってもいちごパンツ履いている女はろくなやつがいないから気をつけろって!」
せっかくアドバイスしてやったというのに、あろうことかガキ二人は茜に告げ口した。
「翼くん!歯を食いしばれ!」
「ま、待て茜!話をしようじゃな――」
「変態制裁突き!」
茜のパンチが腹部に炸裂する。
「ぐはっ」
俺は地面に倒れこむ。
「太一、健人、よく教えてくれたね!ご褒美に後でいちごシュークリーム買ってあげるね」
「やったー!シュークリームだ!」
「教えて良かったー。俺あのお兄ちゃん偉そうだから嫌い」
「俺もー。なんか暗そうだし」
ガキどもがジュースの恩も忘れて愚痴をこぼす。
「理不尽だ。ていうか、どんだけいちご好きなんだよ。あと、やっぱりガキは嫌いだ」
俺は地面に倒れながら一人呟いたのだった。
俺が休んでいる間、ガキどもと茜は今度はヒーローごっこを始めた。
「きえええええ。悪い子はいないがー。取って食ったるどー」
どうやら茜は先ほどの悪役の演技がうけたようで、あの茜が悪役をさせられていた。超嫌そうだった。
「茜!演技へたくそ!さっきみたいな感じでやれよなー」
「えー、私もヒーローの方やりたいよー」
「じゃあ、次やらせてやるからちゃんと悪役やれよ!」
「ほんと⁉分かった!」
見た目以外最早完全に小学生だった。違和感なく溶け込んでいる。
「くらえ!必殺どんぐりビーム!ビビビビビビッ!」
「ぐわあああああ!や、やられたー」
茜が死んだふりをして倒れる。
「どうだ!参ったか!怪人いちごゴリラ女め!」
「な、何だとー⁉」
「ぶふっ!」
ベンチで見ていた俺は思わず吹き出してしまった。なんだその最高のネーミングセンスは。
「みんなちょっと待っててね。今あの怪人陰湿むっつり男をしばいてくるから」
茜はにこにこ笑顔でそう言うと拳をパキパキ鳴らした。
だから怖いんだよその笑顔は。
俺が茜の八つ当たりから逃げようとした時、意地の悪い声とともにがたいの大きい小学生二人がやってきた。
「だっせー!ヒーローごっことかやってるぜ!恥ずかしー!」
「しかも高校生まで混じってるぜ!かっこわる!」
「いいか!あと数年経ったらそんなの存在しないし、恥ずかしいことだって思うようになるんだよ~。現実見ろよ!がきども」
すでに中学生並みのガタイで、見下すようにガキどもを圧迫してくる。ガキどもはみんな夢を否定され、悲しそうな顔で怯えている。
「愛の炎が悪を燃やす!レッド参上!みんな大丈夫だよ!こんなやつらの言うこと聞かなくていいから」
「ぎゃははははは!だっせー!なんだこの高校生!」
「おいいいか!普通高校生にもなったらそんなこと恥ずかしくてできねえんだよ!」
みんなを庇うように前に出た茜を、デカいガキ二人は心底バカにした顔で笑う。
だが、言っていることは間違っていない。高校生にもなってそんなことできるのは茜くらいだ。だが、茜はバカにされているのに堂々と相手を見据えている。
みんなの視線がこちらに集まる。本当にそうなの?ガキどもが不安そうにこちらを見てくる。茜は何も言わずに真っ直ぐな瞳でただこちらを見つめていた。
今ここで俺があいつらの言葉に賛同し、何もしなければこの子たちは今日、夢を壊され、一つ大人に近づいてしまうだろう。だが潮時なんじゃないのか。そろそろヒーローを卒業して早めに現実を見るのがこの子たちのためなんじゃないのか。いつかはみんなどこかで気づくのだから。それが優しさってものだろ。茜は納得しないかもしれないが、せめて俺が仲介してなるべく穏やかに済ませよう。
そう思った。はずだった。
でも、次の瞬間、俺がとった行動は、それとはまったく真逆のものだった。
「愛と平和の戦士、ブルーペガサス参上!」
両手を翼のように大きく広げると、右足を上げ前足のように浮かせる。
「子供をいじめる悪いやつがいると聞いて、居ても立っても居られず変身したぞ!」
確かにヒーローなんてテレビの中だけの存在かもしれない。大人になれば諦めるかもしれない。でも、俺は、ヒーローは無理でも、正義の味方のような存在でありたい。困っている人がいれば助けたい。悪いやつがいれば成敗したい。子供を守りたい。そんな信念を持って生きたい。
この数か月、茜と一緒に行動する中で、俺の心の奥深くに押し込めていた思いが、蘇ってきていた。ずっと暗い部屋に閉じこもっていた俺を、こいつがこんなに変えてくれた。俺の世界を変えてくれた。こいつが俺を救ってくれたように、俺も誰かを救いたい。
かつてこの場所で、大きくなったら、悪いやつらから子供を守るヒーローになりたいと思った。いじめっ子たちに立ち向かっていた。この場所での懐かしい思い出とかつての決意が俺の背中を押してくれたのかもしれない。
その場がシーンと静まり返る。
やらかしたか。俺が渾身の勇気を振り絞ってとった行動は無意味だったのか。
「やっぱり君は最高にかっこいいな」
次の瞬間、茜が満面の笑みを浮かべてこちらに駆けてきた。
俺の手を引くとデカいガキ二人の前に立つ。
「レッドとブルーが現れたからにはもう安心だ!子供の夢を壊す悪い子供たちはお仕置きが必要だね!」
後ろで子供たちが歓喜の声を上げる。
「だっせえんだよ!高校生が二人も揃って」
少し前までなら俺も同じことを思っていただろう。だが今は、茜に当てられすぎたのか、死ぬほど恥ずかしくはあるが、この行動をださいとは思わなかった。そして、そんな自分が嫌いじゃなかった。
俺はなけなしの勇気を振り絞った。
「人の夢を壊すんじゃねえよクソガキ。どうせお前らだって今度は中二病になるんだから大して変わらねえんだよ。なんならもっと恥ずかしいまであるな」
「なんだと!高校生だからって怯むと思うなよ!俺の兄ちゃんは星野って裏番長の舎弟なんだぞ!」
デカいガキが偉そうに虎の威を借りる。
「そうなのか茜?」
「私に舎弟なんかいないよ」
「え?」
デカいガキがマヌケな声をあげる。
「残念だがそういうことだ。こちらがお前の兄ちゃんのボスの星野さんだ」
「に、逃げろー!殺される!」
「ひいー!ごめんなさいー!」
デカいガキ二人はあたふたと逃げ帰っていった。
「お前どんだけ怖いんだよ。あのにこにこした顔で怒るの怖いからやめた方がいいぞ」
「私がそんなことするのは君くらいだよ。それにしてもあんなに怯えられると傷つくね」
そう言いながらも茜は本当に嬉しそうで、ずっとにこにこしていた。
「お兄ちゃん、お姉ちゃんかっこいいー!」
「茜!お前本当はすごいやつだったんだな!」
「茜お姉ちゃん有名人なの⁉強いの⁉」
ガキどもがキラキラした目で駆け寄ってくる。
「まあねー。実は私、結構有名人なんだー。にっしっしー」
「まあ、いろんな意味でだがな」
「一言余計だよ翼くん」
茜がむっとした顔で見てくる。
「よし!みんな!気を取り直してさっきの続きだ!」
「おおー!」
「兄ちゃんはショッカーからだぞ。イー!以外言っちゃダメだからな」
「なんでだよ」
俺たちはその後も日が暮れるまでヒーローごっこに明け暮れたのだった。
夕焼けが町を赤に染め始める中、俺たちはガキどもと帰り道を歩いていた。
「お腹空いたー。今日の夕飯何かなー」
「今日も楽しかったー。明日はかくれんぼしようよ!」
「えー、じんかくがいいなー」
だからなぜお前は次も一緒に遊ぶ予定なのだ。
「お兄ちゃんもまた一緒に遊ぶでしょ?」
少女が手を繋いできた。
「…考えておく」
「えー、また一緒に遊ぼうよー。お兄ちゃんのショッカーまた見たい!」
「絶対遊ばない」
「あはははは!お兄ちゃん面白い!琴葉お兄ちゃんけっこう好き!また遊ぼうね」
「…」
繋いだ手を何となく見る。小さくて細く、温かい、幼い女の子の手だ。
「じゃあ琴葉こっちだから!またねお兄ちゃん!」
琴葉の手が俺から離れる。
琴葉はこちらを振り返りながら横断歩道を渡る。
その時。
ブロロロロロロロ。大きな音とともにトラックが突っ込んできた。琴葉は固まったまま茫然とトラックを見ている。
頭の片隅に追いやっていた記憶がフラッシュバックする。
離れた手、泣き叫ぶクラクション、飛び散る血、壊れたプラモデル、鳴り響く蝉の声。
澪と琴葉が重なる。
俺は突然の衝撃でとっさに体が動かず、茫然と立ちすくむことしかできなかった。
ああ、だめだ。また――
そう思ったとき、茜がとっさに走り出し、琴葉に向かって飛び込んだ。二人して道路の隅に投げ飛ばされる。そのすぐ直後、トラックが走り去っていった。
俺ははっと我に返ると、すぐに二人の元に走り寄る。
「おい!大丈夫か!二人とも!」
「大丈夫。当たってないよ」
「ええええええん!」
全身擦り傷だらけの茜と、びっくりして泣き叫ぶ琴葉。
「はあ。そうか。良かった」
俺は心から安心すると、ほっと息をつく。
「それにしても危なかったよ。横断歩道に突っ込んでくるとは何事だ」
「うええええええん!お姉ちゃああん!怖かったあああ!」
「もう大丈夫だからね、琴葉」
茜は琴葉を抱きしめてなだめる。
俺は琴葉が助かったというのに、頭の中では別のことを考えていた。
もしも、あの時澪が助かっていれば、こんな未来もあり得たのだろうか。澪は六歳で死んだ。大きくなれば、琴葉みたいになったのだろうか。どんな風に成長したのだろうか。
本当は心のどこかで気づいてた。自分がずっと目をそらし続けていることに。忙しい日々に忙殺されて、過去から、自分の罪から目を背けて、自分だけ救われようとしていた。そんなこと、許されるわけもないのに。
横断歩道の先に見える澪の亡霊が、俺に向かって語り掛けてくる。
「お兄ちゃんだけ幸せになるなんて、そんなこと許されるわけないじゃん。澪はお兄ちゃんのせいで死んだんだよ。ちゃんと背負って、全部諦めてよ」
そうだ。そうだった。人殺しが正義の味方とは笑わせる。
茜の明るさに救われていた。自分も幸せになっていいんだって、勘違いしてしまっていた。
「茜。悪いが、琴葉を家まで送ってやってくれないか」
「いいけど…。翼くんはどうするの?」
「…すまんが俺は今日は先に帰らせてもらう」
茜は何か勘づいたのか、心配そうな顔でこちらを見てくる。
「…分かった。じゃあまた、学校でね」
「…じゃあな」
俺はまたなとは言わなかった。
秋風がさっきまで感じていた手の温もりをさらって行ってしまったようだった。
夕暮れ時だからだろうか。先ほどまで涼しく心地よかった風が、急に冷たく、突き放すように感じた。
その日から俺は、茜を避けるようになった。
俺が星野を避けるようになってから、一週間が経っていた。
あの日以来、再び見るようになったいつもの夢を見る。
澪と母さんの亡霊が現れる。
「お兄ちゃん、澪とお母さんのこと忘れないでよ。お兄ちゃんはずっと苦しんで、引きずって生きていくんだよ」
「そうよ翼。自分一人だけが助かろうなんて考えないで。ちゃんと背負わなくちゃ」
いつもの映像を見せつけられる。澪が跳ね飛ばされたところで目が覚めた。
真っ暗な深夜。暗闇が真っ白だった天井を黒く染め上げている。最近は温かみを感じていた天井が、また、ひどく無機質に見えた。
汗でべたつくシャツを着替えに立ち上がる。乾いた喉を潤すために、水道の蛇口を捻り、水を出す。ジャーという音が、冷たく部屋に染み込んでいく。
窓の外から聞こえてくる虫の音は無味乾燥に聞こえた。
この後眠れないことは分かり切っているので、俺は気まぐれで外に出ることにした。
薄手のパーカーを羽織るとスニーカーを履き、財布をポケットに入れると、ドアを開けた。夜の街は、日中とは世界が違って見えた。真っ暗な世界に、冷たい風が吹く。ほんのりと灯る街灯の光が、俺の足元に影を落とす。
光に慣れすぎた心に、暗闇が馴染んでいく。
夏の頃の、朝早い夜明け前を思い出す。あの頃は、毎日のように夜が明けるのと同時に家に帰っていた。あの時の暗闇は、心地良い涼しさと、清々しい夏の空気を伴っていた。一日が始まるその瞬間に立ち会えることに、軽い高揚感と達成感を覚えていた。
通り過ぎていく思い出を噛みしめ、歩く。
自動販売機からほんのり淡い光が出ている。夜の自動販売機は、どこか趣があって好きだ。寂しげで、静かに、昼とは違う顔を覗かせている。まるで誰かを待っているかのような気がする。俺は小銭を入れるとポカリスエットのボタンを押した。
このまま夜明けまでぶらぶら歩いても構わないが、歩道されても面倒なので家に帰ることにした。
朝。眠い目を擦りながら登校する。隣の席を見ると、茜はまだ来ていなかった。
このまま、また、つまらない日常が続くんだと思っていた。
茜は、その日から、一か月学校に来なかった。
一か月も連絡しなかったのは、あいつがまたさぼっているだけなんじゃないのかと思ったことと、またあいつと関われば、二人を忘れてしまうことが怖かったからだ。メールによると、茜は入院していた。
「いやー、肝炎になっちゃったみたいでね。三か月くらい入院しないといけないんだって。ごめんね。心配かけて」
「まったくだお前は。普通連絡の一本くらい寄越すだろ」
俺は自分のことを棚に上げることにした。
「いやー、そうしようかと思ったんだけど、誰かさんはなぜだか知らないけど私のこと避けてたみたいだし?悪いかなと思って。実際一か月も連絡なかったしね」
茜は皮肉たっぷりに言ってきた。
「ぐっ。今回ばかりは俺が悪かった。すまん」
「まったくだよ。ちゃんとお土産の品は買ってきたんだよね。それ次第では許してあげてもいいよ」
顔を背けていたが俺の謝罪に少しは機嫌が直ったのかもしれない。
「ああ。いちご大福買ってきた。好きだろ?」
「大好物!許すよ!というかもう許したよ!」
「そうか。これにして正解だったな」
俺は苦笑しながらいちご大福を茜に渡した。
「ねえ翼くん。それで、何で私のこと避けてたの?」
「…お前といると、苦しみを忘れてしまいそうになる」
「いいんだよ。忘れても。翼くんの苦しみが何なのかは知らないけど、忘れたらいいじゃん」
「そういうわけにもいかない。これは俺が背負わないといけないものだから」
こいつのこういうところに甘えてしまいそうになる。
「そっか…」
「良かったー!私翼くんに嫌われちゃったんじゃないかって心配で心配で!私のことが嫌いになったわけじゃないんだね?」
突然大きな声で明るい声を出す。
「あ、ああ…」
「そっかー!もうまったくもうだよ君ってやつは!」
「でも残念だったね翼くん。私は君を相棒にするってもう決めちゃったから。君がいくら嫌がっても君を一人にしてあげないよ。君の苦しみなんて私が吹き飛ばしてあげるから」
茜はそう言うと、いつも通りにっしっしと笑う。
だからお前の側にいれないんだよ。それじゃダメなんだ。
「それに、怪我人は手厚く親切に扱うのが君のポリシーだったよね?こんな弱り切った病弱な女の子を、まさか放っておくわけないよね?」
ぐっ。痛いところを付いてくる。俺は母親が看護師だったせいか、病人や怪我人は労わるように育てられてきた。病人には弱いのだ。
茜は俺が苦し気な顔をしているのが嬉しいのかニヤニヤしている。
「分かったよ。お前が入院してる間はちゃんとお見舞いにも来よう。いつも通りだ」
「んー。まあ、今はそれでいいよ。流石翼くん。慈愛の心で溢れているね」
それに比べて、人の良心に漬け込むこいつは、果たしてほんとにヒーローになりたいのだろうか。
「偉そうな奴め。病院から一歩でも出たら覚悟しておけ」
「いたたたた。翼くん、お腹痛くなってきたよ。ちょっと肩もんでくれるかな」
「なぜお腹が痛いのに肩を揉む必要がある。せいぜい背中をさすってやるくらいだ」
「背中はさすってくれるんだね。もう君は本当に良いやつだなー。じゃあ入院してる間は珍しく素直な翼くんの優しさに甘えようかな」
などと言ってニヤニヤしている。
「あまり調子に乗ると差し入れがすべてバナナになることを覚悟しておけ」
「えー!それは困るよ!ほどほどにしとくからイチゴにしてよ!」
「お前は本当にイチゴが好きだな」
俺は再び苦笑する。
「それにしても、肝炎とは。お前また何か、道に落ちているもの拾い食いしたんじゃないのか」
「君は私を何だと思っているのさ!私は道に落ちているものを食べたことは一度だってないよ!」
「ははは、冗談だ」
やっぱりこいつと一緒にいるのは楽しい。心が満たされていく。だが、この時間も長くは続かない。いずれ終わりが来る。その時は俺は、茜と距離を置かなければいけない。
どうか、この時間がいつまでも続きますように。
俺はとても独りよがりで不謹慎なことを願った。
翌日、日直だったので教室のカギを返しに行った際、担任に話しかけられた。
「青井、星野のお見舞い行ってくれてるらしいな。星野と仲良くしてくれてありがとな」
「いえ別に」
「それで、調子はどうだとか聞いてるか?」
先生が心配そうな顔で聞いてくる。
「三か月入院らしいんで、あと二か月後に退院できるらしいですよ。見た感じそこまで悪そうにも見えませんが」
「お前!聞いてないのか⁉星野から!」
急に血相を変え、大きな声を出す。
「何がですか?」
「あいつは癌末期患者だ!今年の四月頃見つかって、余命はあと僅かなんだよ!」
言っている意味が分からなかった。
非現実的な出来事が起きた時の、世界が歪むような感覚はこれが三度目だった。一度目は澪が跳ねられた時。二度目は母さんが自殺したとき。そして三度目が今だ。
茜がガン末期患者?余命僅か?一体何を言っているんだ。だって、あいつは、ずっとヒーローになりたいって言ってて、あんなに、天真爛漫で、自由奔放で、あんなに生で満ちていて、この前だって、野球の試合をして、あんなに動き回って…。
はっと思い当たる。
そういえば、あの後、熱を出していた。
パニック状態の頭の中で、冷静な部分が働き始める。
あいつがよく学校をさぼっていたのは、病気だったからじゃないのか?それで、先生たちもあいつに甘かったんだとしたら?
現実を受け入れたくない俺と、現実的な俺が葛藤している。
「青井!おい!大丈夫か」
先生の声が遠く聞こえる。ごちゃごちゃな頭の中で、茜との日々が、もう二度と手の届かない過去のものへとなっていく。
気づくと俺は走り出していた。
廊下に俺の足音が空しく響き渡る。
茜の入院している病院に着くと、ノックもせずに扉を開けた。
「わあ!ちょっとびっくりさせないでよ翼くん!私が着替え中だったらどうするのさ」
茜はベッドの上で、イヤホンで音楽を聴いていたようだ。
まるでさっきのことなんて嘘みたいに思えるくらい、いつもと何も変わらない。
「…先生から、お前が癌でもう長くないって聞いた」
言葉にすると、ああ、本当にこれが現実なのかと、改めて実感させられる。
「…あーあ。聞いちゃったか。せっかく隠してたのに」
茜はまるで、なんてことない秘密がバレたのかのように、そう言った。
「ごめんね、秘密にしてて」
もしかしたら、嘘なのかもしれないって、心のどこかで期待していた。質の悪い冗談だって。拳を強く握りしめる。
「じゃあ、本当にお前は…」
「まあねー、実はあんまりよろしくないらしいんだよー。けっこう進行しちゃってるみたいでね」
茜の緊張感のない物言いに、つい声を荒げてしまう。
「なら!なんでお前はヒーローになりたいなんて言えたんだ!なんでそんな何ともないみたいに振舞える!なんでそんなに明るくいられる!死ぬんだぞ!死んだらもう、二度と会えない」
最後は消え入るようにしか言葉が出てこなかった。
「だって私、死ぬ気なんてないもん」
あっさりとそう言った。
「何を言って――」
「私はヒーローになってたくさんの人を救うっていう目標があるんだから、病気になんて負けてる場合じゃないの。知ってた翼くん?ヒーローは死なないんだよ?どれだけ、負けそうになっても、絶体絶命のピンチになっても、奇跡を起こして見せるの。そして何度でも立ち上がるんだよ。だから私も、君があの時奇跡を起こして見せたように、奇跡を起こして、何とかしてみせるよ。だから私は死なないの。病気ごときに負けないよ。にっしっし」
そう言って星野は、いつもと何ら変わらず笑うのだった。
こいつはどこまで真っ直ぐで強いのだろうか。本気で死ぬ気なんかなかったのか。だから、こんなに変わらずいられるというのか。どこまで前向きなのだ。苦しくないのか。悲しくないのか。死ぬのが怖くないのか。
本当に、乗り越えてしまいそうだ。こいつなら、本当に――。
だが、現実の世界は、そんな風にうまくいかないことを、俺はよく知っている。この世界は、そんな風にできていない。
「それで、翼くん、差し入れは?」
茜はにこにこしながら首を傾げた。
茜はいつまでこのままでいられるのだろうか。
俺は、茜がずっと茜のままでいられるよう、祈ることしかできなかった。
季節は晩秋となり、十月も終わろうとしていた。
俺は、大志と茜のお見舞いに向かっていた。
「まさか星野さんが癌だったとは。お前も知らされていなかったのか?」
「ああ。俺もつい先日聞いた。治すつもりだったから言わなかったそうだ」
「…末期なんだろ?」
大志が恐る恐る口に出す。
「ヒーローは死なないから大丈夫だそうだ」
「なんだその根性論。星野さんらしいな」
「案外あいつは気力で何とかしてくれるかもしれない」
俺は自分に言い聞かせる様に言った。
「だといいな。じゃあ今日は精がつくもの差し入れるか!」
「そうするか」
大志が暗い空気を吹き飛ばすように言う。
「大山君も来てくれてありがとね」
病院に着くと、茜は大志がいることに少し驚いた。
「あったりまえよ。同じ弁当をつついた仲じゃねえか」
「人の弁当を鍋みたいに言うんじゃねえ」
「翼くん、まーた目の下真っ黒になってるよ。ちゃんと眠れてる?」
茜が心配そうにのぞき込んでくる。
「まあ、ぼちぼちといったところだ」
「俺よりお前の体の方が心配だ。調子はどうだ?」
「見ての通り元気もりもりだよ!」
そう言って腕を曲げるとぷにぷにの腕のくせに力こぶを見せる仕草をする。
「そんなやつはこんな所に入院しないんだよ。少し瘦せたんじゃないか?」
「ここの病院食美味しくないんだよ。翼くんの手料理が食べたい!」
「今度煮物でも作って持ってきてやるよ」
「ほんと⁉わーい!やったー!」
本当に、明るすぎて、病気なんて悪い夢みたいだ。でも、病魔は確実に彼女の体を貪っている。
俺にできることは何でもやろうと、そう思った。
後日。今日は茜と病院のすぐ近くの並木道の紅葉を見に行く約束をしてある。茜は紅葉が好きらしく、とても楽しみにしていた。
「赤い色はヒーローの色だからね。あの並木道を歩くと、赤い葉が一面咲き誇る、赤い世界に浸れて心が躍るんだ!」
なんて言ってうきうきしていた。
病室のドアをノックする。
返事が返ってこない。眠っているのだろうか。
「入るぞ」
病室の中に入ってみると、茜はベットの中で疲弊していた。俺に気づくと、イヤホンを取り、スマホを横に置く。
「ごめんね、翼くん。今日楽しみにしてたんだけど、熱が出ちゃって、ちょっとだけしんどいんだ」
茜が弱り切った声で言った。顔は赤く、全身だるそうに見える。
「また今度行こう。まだ紅葉の時期は終わってない。食欲あるか?ご飯食べれたか?」
「ううん。気持ち悪くて、食べられなかった」
茜は困ったように笑いながら言った。
「なら丁度良かった。果物持ってきたから、りんご食べられるか?お前の好きな赤色だぞ」
「えへへ、さすが翼くんだね。それなら食べられるかも。翼くんが食べさせてくれたら言うことないんだけど」
「…まあ、病人だからな。仕方ない。体起こせそうか?」
「うそ。余計熱上がりそうだよ」
自分で言っておきながら恥ずかしそうにしていた。
俺はリンゴの皮を剥くと一口サイズに切った。
「ほら、口空けろ」
「あーん」
茜の口に入れてやる。
「どうだ?うまいか?」
「なんでだろう。今まで食べたどのリンゴよりの美味しいかも」
「大げさだ。他にして欲しいことあるか?」
「じゃあ、ちょっとだけ手握っていて欲しい。なんて」
熱のせいか顔が赤い。
「…まあ、仕方ないな。弱っているやつの頼みは無視できないし。これで少しでもよくなるのなら」
そう言うと、俺は、茜の手を握った。初めて繋いだ女の子の手は、柔らかく、熱のせいか温かかった。
「翼くん。今私の顔見たら怒るからね」
「なんでだよ」
「今私絶対翼くんに見せられない顔してる」
そう言って顔を隠す。
「……」
「こんなこと言ったら怒られちゃいそうだけど、私、熱出して良かったかも」
「…バカなこと言ってんなよ。早く治してもらわなきゃこっちが困る」
「そうだよね。翼くんのおかげで元気出てきたかも。ありがとね」
手で隠した隙間から目を覗かせる。
「こんなことお安い御用だ」
「ねえ、翼くん。君は、病人だったら頼まれれば誰にでもこうするの?」
「…バカ言うな。誰にでもはしねえよ。俺がこんなことするのは、相当手間のかかるお前みたいなやつにだけだ」
「それ、どういう意味なの翼くん⁉」
手をどかすと必死に聞いてくる。
「うるせえな、病人なんだからさっさと眠れ。お前が眠るまで帰れねえだろうが」
「さっきの言葉の意味が気になって眠れないよ!」
結局、その後も一時間近く起きていた茜を何とか寝かしつけ、そっと部屋を出た。
手のひらにはさっきまでの温もりが残っていて、なぜか心まで温かかった。
けれど俺は、その温もりにいつまでも浸ることなく、心の深いところにそっとしまい込むと、冷たく乾いた十一月の寒空の下を歩いて行った。紅葉が散り始めていた。
いつも通り茜の部屋のドアをノックする。
「どうぞ」
弱々しい声が返ってきた。
ドアを開けると、点滴と管に繋がれた茜がベッドに横になっていた。
「やあ、翼くん。今日は何を持ってきてくれたのかな?病院ってほんとに退屈で死んじゃいそうだよ。学校といい勝負だね」
また、音楽を聴いていたようだ。本当にやることがないらしい。
茜はすっかり痩せこけ、目の周りが真っ黒になっていた。
「今日はイチゴショートケーキ持って来た。食べられそうなのか?」
「わーい、うん。でも今はちょっと食べれそうにないから、冷蔵庫入れといてくれるかな」
震えだしそうな口を必死に抑えつけ、何とか言葉を紡ぐ。
分かってたじゃないか。こうなることなんて。
自分の甘さに反吐が出そうになる。
心のどこかで、茜なら何とかしてくれるはずだって、何の根拠もない希望に縋って、現実から目を背けていた。
なぜ彼女なのだろうか。こんなにも、誰かのために生きようと努力し、夢があって、こんなにも死と対極にいる茜がなぜこんな目に遭わなければならない。他にいくらでもいるではないか。俺みたいなやつがのうのうと生きて、時間を無駄に浪費しているのに、なぜ俺ではなく彼女が死ななくてはならない。
「翼くん?どうかしたの?どこか痛いの?」
胸が痛かった。張り裂けそうだ。
なんで、こんな状態で人のことまで心配できる。自分のことで精一杯のはずだろ。
「なあ、死なないよな?」
答えなんて分かり切っているのに、俺は最低な質問をした。
「死なないよ」
茜は真っ直ぐにこちらを見据えて、はっきりと答えた。
「私は死なないよ翼くん。だって私の心はまだ折れてないから。まだまだ、やりたいことがたくさんあるんだ。私はおばあちゃんになるまで長生きして、最後は老衰で死ぬ予定だからね。こんなところで死ぬつもりはないよ。だって私まだ十七歳だよ」
茜の目はまだ死んでいなかった。体も心もこんなに追い詰められても、まだ心が死んでいなかった。
「退院したら、まずいちご狩りに行こうよ。お腹いっぱいイチゴ食べたい。それから、また翼くんのお家でお泊り会したいな。今度こそかつ丼作ってもらうからね。それから、今度はサッカーしたいな。私のボレーシュートすごいんだよ。あと、また小学生たちと遊びたいね。今度こそこびと捕まえるぞ!他にも春になったらお花見もしたいし、夏になったら海に行きたいな。全部一緒にやろうね翼くん。退院するのが楽しみだな」
茜は目をキラキラさせながら、未来に思いを馳せる。
「…ああ。全部やろう。好きなだけかつ丼作ってやる。何回でも、どこにでも出かけよう」
「約束だからね」
「もちろんだ」
俺は茜の強さにこう尋ねずにはいられなかった。
「なあ、茜。なんでお前はそんなに強くいられるんだ。なぜそんなにぶれない」
「私の中にはね、炎があるの。力強く、メラメラと燃えて、私の心の真ん中にある。その炎はね、なにがあっても消えないの。雨が降っても、槍が降っても、嵐が来ても、小さくなって弱々しくなる日もあるけれど、絶対消えない。また、すぐに、力強く燃えだして、そして私の全身を駆け巡る。その熱が、私の力の原動力になって、私を突き動かす。意志の炎。私の命が尽きるまで、燃え続ける。そして、その炎は真っ暗闇の中、煌々と光って、私の進むべき道を照らしてくれる。心の羅針盤なの。だから私は、どんなときも迷わない」
そして、その炎は、その近くにいる人たちをも照らし、燃え広がっていくのだろう。まるで、太陽のようだと思った。だから茜からはお日様の匂いがするのかもしれない。
「お前らしいな」
俺は心の底からそう思った。
「なあ、クマが酷いが、寝られないのか?」
「うん、薬の副作用で眠れないの。ねえ、翼くん。私このままじゃ、薬に殺されそうだよ。たくさん飲まなきゃいけないの。薬飲みたくない。でもお医者さんは良くなるから飲みなさいって」
「翼くん。ここから一緒に逃げ出さない?私ここにいても治らない気がする」
「バカ言うな。ここは病気を治すための場所だろ。必ず良くなるさ」
俺は茜が自分を信じる限り、俺も彼女を信じようと思った。必ず治るはずだと。それにここから出たとして一体どこに行くというのだ。
「そっか」
病室を出る時、茜は困ったように笑っていた。それ以来、茜のその顔をよく見るようになった。
ある日、俺が学校帰りに商店街によって、差し入れにコロッケを買って行った時。その日は十一月も下旬へと差し掛かり、季節も移り替わろうとしていて、肌寒い日だった。
いつも通り、茜の部屋に向かうと、ドアは開いていて、看護師さんたちがひっきりなしに出入りしていた。
部屋の中を覗いてみると、酸素マスクを装着した茜の姿があった。
「君!そこ邪魔だからどいて!」
茜を乗せたベッドが集中治療室へと運ばれていく。
買ってきたコロッケが、ぐちゃっと音を立てて地面に落ちる。
俺は、何もできずに、集中治療室の扉が閉まるまで、ただその場でバカみたいに突っ立ているだけだった。
喉元まで迫ってきていた絶望を必死に抑え込む。
俺にできることは、ただ茜を信じて祈ることだけだった。永遠にも感じられる時間が過ぎ、
処置を終えた先生が出てきた。
俺は急いで駆け寄る。
「茜は⁉助かるんですか⁉」
「君お友達かい?大丈夫。一応今回は何とかなった」
俺は安堵してその場に座り込みそうになるのを何とか堪える。
「ただ、非常に意識が混濁している。もしかしたら、もう意識が戻ることはないかもしれない」
集中治療室の冷たい真っ白な扉と、ベッドの上の真っ白な天井が重なる。悪い夢ならもうたくさんだ。俺は床に崩れ落ちた。
夜の病棟を、儚げに蛍光灯の光が点滅して照らしていた。それはまるで、すり減った茜の命を表しているようだった。
茜の部屋を訪れる。茜はたくさんの管に繋がれ、酸素マスクを着けていた。
「茜。お見舞いに来たぞ。元気か?」
「って元気なわけないか。ははっ。何バカなこと言ってるんだろうな俺」
「そういえばそろそろクリスマスだぞ。今年は何を頼むんだ?まさかまだヒーローのフィギュアなんて言わないだろうな」
「お前はもっとお洒落な下着を買ってもらえ。もう高校生なんだから」
「ってそんなこと言ったら、また、ぶん殴られるな。あのパンチは効いたぜ」
「…」
俺の独り言が病室に空しく響き渡る。
「なあっっ。返事をしてくれよっ!」
茜の目はずっと閉じられたままだ。
「お前、やりたいこといっぱいあるんじゃなかったのかよ!俺と全部回ろうって約束しただろ!病気になんか負けてられないって言ってたじゃねえか!また、笑ってくれよ」
最後は言葉がほとんど出てこなかった。
ほんとに、もう、このまま…。
俺は茜の温もりを、生を感じたくて、手に触れる。
その時。茜が弱々しく手を握り返してきた。
「茜⁉」
茜は変わらず目を閉じていた。でも、まだ…
こんな状態になってまで、こいつは戦ってるんだ。まだ、諦めずに、必死に抗っている。
変われるものなら変わってやりたい。一体どれほどの苦しみをこの小さな体で背負っているのか。
俺はただ、強く強く茜の手を握ることしかできなかった。
夜、ふと目が覚めた。理由は分からないがなぜか、妙な胸騒ぎを覚えていた。
重たい体を起こし、台所に向かう。コップを戸棚から取ろうとした時、手から滑り落ちたカップが、ガシャン!と派手な音を立てて割れた。
そのカップは、夏休みに、茜と買ったペアの赤いマグカップだった。
虫の知らせ。
という言葉が頭によぎる。
気づけば俺は、寝巻のまま、病院に向かって走り出していた。
外は白い雪が降っていた。吐く息が白い。
真冬の寒風が肌を刺すように吹き付けるが、何も考えられず、ただただ、病院に向かって走る。
病院に着くと、扉は閉まっていた。
俺は拳を扉に打ち付ける。
ドンドンドン!
すると、夜勤の看護師がやってきた。
「あなた、茜ちゃんの友達の子ね!ちょうど良かった!今電話して知らせようと思ってたの!茜ちゃんの容態が悪化して!」
俺の悪い予感は当たっていた。絶望に飲み込まれそうになるのを必死に抑えつけて何とか堪える。
看護師さんと一緒に茜の部屋まで行くと、茜は前回お見舞いに来たときと同じように、たくさんの管で繋がれ、酸素マスクで生かされていた。
変わらず、目は閉じたままだ。
看護師さんが隣に来て耳打ちしてきた。
「もう長くないと思うから、今のうちに言いたい事言ってあげてね」
世界が絶望の色で滲み始める。
なんだよそれ。そんなのあるわけないだろ。だって俺は、まだ、こいつと、一緒に…。
俺は現実を受け入れられずに、ただ、茜を見つめていた。
茜。ほんとにもう…。
その時。
「つ……ば…さ……く…ん…」
茜の意識が戻った。
「茜⁉聞こえるか⁉茜!ああ!俺だ!分かるのか⁉」
俺は茜の手を握る。
「わ…た……し……まけ……ない……か……ら……」
「わ……たし……は……ひ…い…ろ……お……に……なる……ん…だ……か……ら」
「い……っしょ…に……で…か……け……る……やく……そく……し……た……も……ん」
茜は俺の手を弱々しく握り返しながら、声を絞り出した。
茜はまだ、一人戦っていた。こんなになっても、諦めずに強く。
茜の心が折れることはないのだろう。どれだけ苦しくても、痛くても、戦い続ける。鋼の意志で。
だが、俺はもう、これ以上見ていられなかった。
全身機械に繋がれ、ガリガリに瘦せ細り、髪の毛は白髪が増え、ところどころ抜け落ちている。
いいんだ、茜。もう休んでいいんだ。十分頑張ったじゃないか。これ以上、苦しまないでくれ。
そう思いながらも、今も諦めず戦い続けている茜に、そんなこと言えるわけもなかった。何より、俺は茜に生きていて欲しかった。残酷にも、まだ諦めきれない自分がどこかにいた。
「ああ!退院したらいろんなところに行こう!いろんなもの食べよう!俺がなんでも作ってやる!そうだ、遊園地なんてお前好きそうだろ!アトラクションもたくさんやってるはずだ!一緒に着ぐるみの中身を確かめて回ろう!きっと一体くらい本物がいるさ!体が鈍ってるだろうから公園で野球しよう!また商店街のおっさんたちも誘って試合しようぜ!他にも、もっと、たくさん、やりたいこと全部しよう!大丈夫だから!必ず元気になるから!だからっ……」
気づけば目から涙が溢れていた。視界を滲ませ、流れた涙が零れ落ちる。。
「に……し……し……し……。きみ……は……そん……な……か……お……で……なく……ん……だ……ね……。も……っと……いろ……ん……な……き……み……の……か……お……が…み……た……いよ」
「あかねっ!」
「ねえ…つ…ば…さ…く……ん。…わた…し……れっど…じゃ…な……く……て…ぴん…く……が…よ…かっ…た……か……も……な……あ…ん……て」
そう言うと茜は瞳を閉じた。
その目が開かれることは二度となかった。
茜が死んだ日はクリスマスだった。皮肉なことに、クリスマスを誰よりも楽しみにしていた彼女に、奇跡は訪れなかった。
サンタクロースも、奇跡も、超能力も、彼女が信じたものは、この世界には何一つとして存在しなかった。
存在したのは、ただただ残酷な現実だった。
茜は最後の一瞬まで、その命が尽きるまで、決して諦めなかった。誰よりも強く、真っ直ぐに、自分を貫き続けた。
それでも、茜が報われることはなかった。
茜は冬を越せなかった。
俺は再び、部屋に閉じこもるようになった。
一日中ベッドの上で、茜の輪郭をなぞった。彼女の温度が消えないように。
カーテンを閉じ、電気を消し、真っ暗な部屋で、暗闇と同化した。
胸にぽっかりと空いた穴を塞ぐように、思い出を貪るように浸り、この歪んだ世界から逃げ続けた。
腹が空いたら出前を頼み、眠たくなったら貪るように眠った。
もうどれくらい時間が過ぎたのか分からない。時間感覚なんてとっくになくしていた。
ある時気づいた。俺の方から会いに行けばいいんじゃないかと。三人に会いたい。澪に。母さんに。そして、茜に。
俺はふらつく足でベランダに向かう。カーテンを開けると、窓をスライドさせ、外に出る。そのまま柵の上に立った。
下を見下ろすと、地面との距離に足が竦む。急に鼓動が早くなり始める。
どうした。飛べ。みんなに会えるぞ。
「ピンポーン」
その時、チャイムが鳴った。
無視して続けようと思ったが、チャイムがしつこく鳴る。
「ピンポーン。ピンポーン」
俺は柵から降りると、玄関に向かった。
ドアを開けると、そこには大志がいた。
「よう、翼。二週間も学校さぼりやがって。冬休みも合わせると一か月近いぞ。ちょっと見ない間にやつれたなー。その調子だと、ずっと閉じこもってるな」
大志は、いつも通り、朗らかに言った。
「どうだ。ちょっと付き合えよ。久しぶりに、ラーメンと銭湯行かねえか?」
「…いや、俺は」
「まあまあ、そう言わずによ。その調子だと風呂もしばらく入ってねえだろ。それにお前知らねえのか?ラーメン食わねえと早死にするんだぞ」
大志は白い歯を覗かせながら笑う。
こいつの頼みは断れない。続きはあとでいいか。そう思った俺は付き合うことにした。
俺たちは家からすぐ近くの銭湯に向かった。
「それにしてもお前、一か月近くも風呂入ってなんてばっちいなあ。カビ生えてんじゃないのか?ちゃんと洗えよ」
「うっせえな。分かってるよ」
俺は、お湯でべたついた髪の毛を洗い流し、シャンプーで綺麗に汚れを洗い落としていく。 続いて、全身をお湯で流すと、石鹸で軽く擦り体を洗う。
「体洗ったか?ほんじゃ入りますか」
俺たちは温泉に浸かると、冷えた体を温めた。
お湯加減はちょうどいいくらいで、全身が心地よかった。冷え切った心が温められ、心なしか、暗く塞がった気持ちも少しだけ軽くなった気がした。
「ふー。最高だなー。やっぱ冬の銭湯はたまらんぜ」
「ああ」
「それにしても、お前と銭湯来るのは久しぶりだなー。お前星野さんとつるんでばっかで、俺とあんまり遊んでくれなかってもんなー」
大志が意地悪そうな顔を浮かべる。
「悪かったな」
「…」
「なあ、翼」
「ちょうど、星野さんが入院したくらいか。お前がまた、前の暗い頃に戻ったこと、気づいてた」
急に真剣な表情になり、ポツリと言った。
「……流石だな」
「だけどな、俺はその時、安心したんだ」
「え?」
「また、暗くなったと思った。前のお前に戻ったように見えた。でも、違った。お前はもう前のお前とは違ってたんだ。明るくなってた。感情豊かで、よく笑うし、よく怒るし、どこか生き生きしてた」
大志がよく意味の分からないことを言う。
「お前、前まで死のうとしてただろ?」
「…やっぱり気づいてたか」
「当たり前だ。何年お前の側にいると思ってる。当然気づいてた。だけど、また、暗くなった頃のお前は違ったんだよ。もうお前は死に憑りつかれていないように見えた」
そんなことは…。
「なんでか分かるか?星野さんがいたからだ」
「……」
「彼女がお前を振り回してくれたから、お前を外に連れ出してくれたから、お前を変えてくれたから。お前はもう、昔とは違うんだよ。だから俺はもうお前を心配していない。彼女がいなくなった今だって、お前はもう死なないさ」
何を言っているんだ。さっきだって俺は死のうとしていた。
「そんなことはない。お前の勘違いだ」
「いや、そうさ。お前が自覚していないだけだ。俺には分かるよ」
「…」
俺たちは、しばらく温泉に浸かると、ほどなくして上がった。
「よーし、ちょうど腹も減って来たし、ラーメン行くか!暖かいスープで体ぽかぽかにしようぜ!」
「そうだな」
俺たちは行きつけのラーメン屋さんに入ると、カウンター席に着く。店内は暖房が効いていて温かかった
「おっちゃん!俺醤油ラーメンね!野菜マシマシで!」
「あいよ!」
「俺は塩ラーメンで」
「あいよ!」
十分ほどでラーメンが運ばれてきた。
「へいお待ち!」
「うっひょー!うまそー!」
「いただきます!」 「いただきます」
俺はまずスープから飲む。塩味の効いたあっさりとした暖かいスープが体に染み渡る。体が火照ってきた。続いて麵を啜る。何度も食べたことのある味なのに、久々に食べるラーメンは、なぜかいつもより無性に美味しく感じた。
一息ついてから、大志が話しかけてきた。
「なあ、翼。お前、一人になんてなれると思うなよ」
「へ?」
俺の目を真っ直ぐ見つめてくる。
「お前が落ち込むようなことがあった時は、俺がこうしてラーメンに連れてきてやる。悲しくて仕方ない時は、俺が慰めてやる。むかついて仕方ない時は、俺が愚痴を聞いてやる。お前は誰かに頼るのが下手くそだからな。俺はいつだってお前のことを見てる。もう誰もいないなんて思うなよ。俺がお前の側にずっといてやる」
「…」
「なんでそこまでしてくれるんだ?」
「友達だからに決まってんだろ」
そう言うと大志は、白い歯を覗かせて笑って見せた。
「それとな、実は星野さんから預かってたものがある。もしも自分が死んだときはお前に渡してくれって、預かってた」
そう言って大志が取り出したものは、USBメモリだった。
家に帰ると、早速、USBメモリをパソコンに挿し込んでみた。
そこには、「翼くんへ」と書かれた動画ファイルが一つだけあった。
俺は恐る恐るファイルをクリックした。
動画が再生される。
そこには、病院服を着た、まだ元気な頃の茜が映っていた。
「元気が出る超能力!ビビビビビビビビビビッ!」
「どう?元気出たかな翼くん。私が死んじゃって、まーたしみったれた顔した翼くんに戻っちゃってるかもしれないからね。それとも、案外すぐ立ち直ってたりするのかな?だったらすごくショックなんだけど。でもこれちょっと恥ずかしいね。だれもいないのに一人でしゃべっててバカみたい」
相変わらず、マイペースで、能天気なしゃべり方をする、どこか間の抜けた茜の姿があった。俺は思わず涙が出そうになる。
「あ!あと先に言っておくけど、これは生きるのをを諦めたから残したんじゃないからね?私は死なないし、諦めてるみたいで何か嫌だって言ったんだけど、春香さんがやれってうるさいから。そうしないと点滴の時痛くするわよって!私が注射嫌いなの知っててわざと言ってくるんだよ!まったくとんでもない人だよ。っていうわけで、これは君に届くことはないだろうから、そのつもりで聞いてね。あれ?でも、そしたら君に届く前提でしゃべってるのはおかしいのかな。んん?なんだかこんがらがってきたぞ」
春香さんというのは、恐らく茜が死んだ日にエントランスのドアの中にいたあの看護師のことだろう。
それにしても、まるで茜が生き返ったみたいで、懐かしい感覚になる。俺は思わず笑ってしまいそうになる。
「とにかく、所謂遺言ってやつだね。これやったら気が滅入っちゃいそうで嫌なんだよなー。まあいいか。じゃあ、翼くん。悔いのないように、伝えたい事伝えるね」
茜はベッドの上で姿勢を正した。
「まず、元気ですか?君はいじけんぼだから心配だな。私がいなくなって、また、閉じこもってませんか?ちゃんと外出てる?ちゃんと眠れてる?ちゃんとご飯は食べてますか?」
お前は俺の母親かよ。
「今、お前は俺の母親かよって思ったでしょ?」
茜はいたずらが成功した子供のように笑う。
図星だった。俺は思わず苦笑する。
「今の君もそうだけど、未来の君はもっと心配だな。本当に君は私に心配ばかりかけるよ。ねえ、知ってた?私実は、君のこと、小学一年生の頃から知ってるんだよ?
私が小学一年生の時、初めて行った公園で、同い年くらいの男の子が、いじめられているのを見かけたの。男の子三人に囲まれて、砂かけて意地悪されてた。その子は泣いていたのに、私は怖くて動けなかった。そんな時、ヒーローが現れたの」
「愛と平和の戦士、ブルーペガサス参上!」
「そう言って堂々と決めポーズをすると、その男の子は、いじめっ子たちにたった一人で立ち向かって、殴られながらも、三人相手に、何回も何回も立ち上がって、立ち向かっていったの。そして、ついにはいじめっ子たちをやっつけて、ぼろぼろになりながらもその後ろ姿は私が今まで見たどんなものよりも綺麗で、輝いて見えた。私はその日生まれて初めて本物のヒーローを見たの。あんまりテレビなんか見なくて、ヒーローなんて知らなかった私は、お家に帰ってすぐに戦隊モノのテレビを見て、確信したの。私はヒーローのレッドになって、あの男の子とペアを組むんだって
その日から私は、君のファンになった。たまに君の姿を見かけると堪らなく嬉しくて、一人で喜んでた。君に少しでも追いつきたくて、空手を始めた。ずっと君を追いかけてた。私の憧れだった。私のヒーローだった。中学に上がって、周囲はバカにしてきたけど、私は構わなかった。中三の時には、君の通ってた塾に侵入して、君の志望校を必死に探ってたんだよ。そして、必死に勉強して、入学した高校では、初めて君と同じ学校に通えることが嬉しくて、一晩中寝れなくて、初日から寝坊したのはいい思い出。
でも、大きくなった君は、すごく変わってた。目は腐ってて、目つきは悪くて、顔色も悪くて、今にも死んじゃいそうだった。
君を見ててすぐに気づいた。君は、他の人と違っていた。君だけは、いつも、ここじゃないどこかを見てた。儚げで、悲しそう。なんだか、涙を流さないで泣いているように見えた。
そして、その瞳の奥には、昔の君がいた。君の熱を、何かが塞いでいるのが分かった。そしてそれに君が、惹かれていることも。ずっと君に話しかけたかった。でも勇気が出なくて、全然話しかけられなかった。
でも、ある時。六月頃。君が教室から窓の外を眺めている時、君が今にも空に吸い込まれそうに見えた。すごく危うげで、見てられなかった。気づいたら私は君に声を掛けてた。
その時決めたの。私が君の心を塞いでいるものを吹き飛ばしてやろうって。君を連れて行かせはしないって。だから、こう見えて私は結構必死だったんだよ。大山君にも君が今にも死にそうだから、私が何とかするから、翼くんの弱みを教えてって頼み込んだんだよ。大山君もやっぱり気づいてたみたいで、驚いてた。
そしてね。公園で遊んだ時、君がまた、あの決めポーズをやってくれた時。私は本当に嬉しかったんだ。私の夢が叶った瞬間だから。君と並んで、ヒーローになれた。夢みたいだった。私はこの瞬間のために生まれてきたんだって、そう思った。その後すぐにまた君は、元気がなくなっちゃったんだけど、私はこの時、確信したんだよ。君はもう大丈夫だって。君の目を見てすぐに分かった。あの時の翼くんの目をしてた。君に何があったのかは知らないけど、君はもうあの瞬間を忘れられないよ。君の中の青い炎が、君の黒い炎を焼き尽くしてくれる。だからもう君は大丈夫!もし仮にこっちに来るなんてことがあったら、ぶっ飛ばすからね!君はおじいちゃんになってよぼよぼになってから、ゆっくり来るように!といっても、私は死んでも幽霊になって君のこと見張ってるから大丈夫だけどね。君がまた、うじうじし出したら、かつ入れてやるからね。あっ!あとエロ本読んだら祟るからね!タンスの角に小指ぶつける呪いかけてやる!
でも、念のため、君に別の呪いもかけておくね。もし私が死んじゃったら、君にね、私の意志を継いでほしいの。私の代わりに、ヒーローになってほしいの。たくさんの人を救って、悪いやつらをやっつけて、この世界を少しでも良くしてほしいの。私の最後のお願いっていえば、聞かざるを得ないよね?これで君は死ねない呪いにかかっちゃたからね!にっしっし!頼んだよ。翼くん」
「それとね、翼くん…」
茜は急に顔を赤らめ、もじもじし出した。
「君はね、最初は私の憧れだったの。でも、君を見てると、君と話してると、変わらない君に、変わった君に、どんどん惹かれていって。いつの間にか私は君のことが…」
俯いた顔を上げて、凛とした目でこちらを見据えてきた。
「いつの間にか君のことが好きになっていました。君は私の憧れで、パートナーで、しょうがないやつで、わたしの心をこんなにもかき乱してくれる、大好きで、世界で一番特別な人です
君が私のことをどう思ってくれているのかは、まだ、分からないけど、私の人生はまだ終わっていないから、覚悟しててね!いつか絶対私のパートナーにしてみせるからね!」
「茜入るぞ」
ノックの音ともに俺の声が聞こえた。
「やば!翼くん来ちゃったよ!じゃ、じゃあね!未来の翼くん!」
そう言うと、画面が急に暗くなった。
しかし、動画の停止ボタンを押し忘れたようで、動画はまだ続いていた。
「ん?今お前何隠した?」
「へ⁉べ、べ、別に何も隠してないよ⁉」
「嘘つけ。今枕の下に何か隠しただろ。なんか顔も赤いな。ははーん。さては…」
「ち、ち、ち、違うよ!別に私はそんなことして――」
「さては、エロ本読んでただろ?」
「はい?」
「ああ、いいぞ言わなくても分かってるからな。なるほどなるほど。まあ、お前もお年頃だからな。分かるぞ?如何わしい本の一つや二つ読みたくもなるよなー」
「んなっ!違うから!何さそのしてやったりみたいな顔は!君と一緒にしないでくれるかな⁉」
「はいはい。分かった分かった。それにしてもいつも人にむっつりむっつり言うくせに、自分も隠れてこっそりエロ本を読んでいるとは、お前のことをこれからムッツリ茜と売れない芸人のように呼んでやろう」
「ムカーッ!こんなにむかついたのはいつぶりかな⁉なんなのかなその得意顔は!言っておくけど私は無実だからねっ」
「じゃあ、枕の下見せてみろよ」
「ぐっ。それは…」
「ほら見ろ。次からは差し入れは食べ物じゃなくてエロ本にしてやろうか?」
「キーっ!悔しい!言い返せないのがものすごく腹立たしいよっ!」
「そもそも君は――」
そこで動画は終わっていた。
俺は、驚きと、喜びと、悲しみと、愛しさと、後悔とで、頭がどうにかなりそうだった。
茜が俺のことをそんなに前から知っていたことも、俺のことをこんなにも見抜いていたことも、こんなに俺のことを思ってくれていたことも、死んでもなお、俺のことを救おうとしてくれていることも、すべてが嬉しくて、そして、同じくらい切なかった。
「〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ!」
涙が溢れて止まらなかった。
すべてが手遅れだった。
茜への思いが溢れて、全身が叫んでいた。
長いこと、泣き叫び続け、涙が枯れる頃、思い出した。
大志は正しかった。
俺はあの時、死ねなかった。少し前までの俺なら迷わず飛んでいただろう。
だけど、今の俺は、もう、昔の俺とは違ってしまっていた。
茜が俺を変えてくれた。
彼女は、俺に生きることの楽しさを思い出させてくれた。。
そして、俺に忘れていた気持ちを思い出させてくれた。
茜が言ったからだけじゃない。俺は、もう、無視できないほど、昔の気持ちを思い出していた。
あんなにも、必死に、生きることを諦めずに、望み続けた茜を見て、俺はもう、命を蔑ろにすることなんてできなくなっていた。
茜が守りたかった世界を、俺は生きたいという気持ちを否定できなかった。
そして、茜がかけた呪いが、俺をこの世界に縛り付ける。
結局最後まであいつには敵わなかった。
正義の味方もどきでも何でも構わない。善行を積んで、誰かを救い続けて、いつか許されるその日が来るまで、俺は誰かのために生き続けたいとそう思っていた。
いい加減いつまでも立ち止まっている場合ではない。俺もそろそろ前に進まなくてはいけない。過去を抱えて、苦しみながらも前に進もうと藻掻かなければいけない。
自分を許さずにいるのは楽だから、いつまでもそこで立ち止まっていた。でもそれじゃだめだ。自分を許せるよう、許されるよう、努力し続けるんだ。
それに、いつまでもうじうじしてたら、茜にぶん殴られてしまう。きっと心配していつまでも成仏できないだろう。
やらなければいけないことができた。いつまでも閉じこもっている場合じゃない。
俺は、カバンの中から、クシャクシャになった進路調査票を取り出すと、第一志望から第三志望まで、「正義の味方」と殴り書いた。
もう、迷わなかった。
茜が死んで二か月が過ぎようとしていた。
俺はあれから、また学校に通うようになっていた。
朝起きてから学校に行くと、退屈な授業を受け、放課後になると一人パトロールをする。
困っている人がいると手伝った。町の掲示板にチラシを張って、困りごとを募集した。その中で思い当たる。これを茜も一人でやっていたことに。あいつはどんな気持ちで学校に通い、授業を受け、放課後を一人過ごしていたのだろうか。今となってはもう知りようもない。
ある日、学校が終わり、家に帰ろうと玄関で靴を履いていた時、おばあさんに話しかけられた。
「あなたが青井くんね?」
「はい、そうですが」
誰だったか。
少し悩んで思い当たる。茜の病室で何度か見たことがある。茜のおばあちゃんだろうか。
「お話をするのは、初めましてね。茜の祖母です」
「茜の友達の、青井翼といいます」
「知ってるわ」
茜のおばあちゃんは、ゆったりと優しそうにしゃべる。
「あなたのことは、茜から毎日のように聞いてたの。あの子、あなたのことを本当に楽しそうに話すの」
「今日は、あなたに茜の話をしたくて、訪ねてきたの。あの子はあなたのことが大好きだったから、あなたにあの子のことを知っておいて欲しいと思って。本当は話そうかどうかすごく迷ったのだけれど、あなたはあの子のことを知る権利があると思って話すことにしたわ」
茜のこと?なんだ?
「あの子はね、小学校に上がる前まで血の繋がった両親に虐待されていたの」
俺は突然の告白に衝撃を隠せなかった。茜が虐待されていた?
「ひどいものだったそうよ。私は病気でずっと入院していて、あの子のことを知らなかった。私のバカ息子に子供がいたことさえ知らなかった。あの子は泣くことを許されなかった。泣くたびに殴られて、罵られ、愛情を受けずに育ってきたの。
あの子が六歳になった頃、あの子の両親は二人そろってあの子を残して消えたの。あの子は捨てられたのよ。その時初めて私はあの子の存在を知った。私が初めて会った時のあの子は酷かったわ。着ているものはボロボロで、髪の毛もボサボサ、人形みたいに表情がなかった。言葉も話せなくて、いくら話しかけてもうんともすんとも言わなかったわ。ただ、殴られないようにこちらの機嫌を伺うだけ。見ていて心が裂けそうだった。そして、私はあの子を育てることに決めたわ。最初はずっと無表情だったあの子も、私が長い時間をかけて愛情を注ぎ続けた結果、感情が豊かになって、明るい女の子に育ったわ。小学校に上がる頃には、よく笑って、表情豊かな普通の女の子になった。
ただ、一つだけ、治らなかったところがあったの。
あの子は、どんなに悲しくても、苦しくても、辛くても泣かないの。
ただ、困ったように笑うだけ。
もともと元気で明るい性格なんだけど、あの子はそれが許されない環境で育ったせいで、強くなりすぎてしまったの。いいえ。強さだけじゃないわ。あの子はちゃんとどこかで苦しんでる。私には分かるわ。ただそれをうまく吐き出せないだけ。
学校も楽しくないようで、私が学校どう?って聞くと、楽しいよってしか言わなかったんだけど、あの子の顔を見ればすぐに分かった。
でも、ある時から急に毎日楽しそうになって、あなたの話をよくするようになったの。
今日は青井くんがどうだったとか、翼くんと何をしたとか、本当に楽しそうで。茜は酷い両親のせいで、テレビもろくに見せてもらえなくて、ヒーローの存在も知らなかったの。でも、私に引き取られてすぐに、一人で遊びに行った公園で、あなたを見たらしくて、走って家に帰って来たと思ったら、ヒーローって何?って無表情だったあの子が、目を輝かせて言うのよ。それでテレビで見せたら、「茜ヒーローになる」って言いだして、それ以来どんどん明るくなっていったわ。本当にあなたのおかげなのよ。病気のことも、気にしてないように見えて、あの子は…」
「…それ以上は、言わなくても、分かります」
俺は愚かだった。星野茜は強い女の子だと思い込んでいた。
決して諦めない、普通の人とは根本から違う、不屈の心を持った、特別な人間だと思っていた。
違った。あいつも一人の人間だった。当たり前だ。あいつもずっと苦しんでいたんだ。
学校でも、独りぼっちで、毎日戦ってたんだ。自分の信念を貫き通すために、変な目で見られるのも、周囲から浮くのも、本当は気にしていたんだ。
そして、病気だってそうだ。
あいつはただの一度だって、弱音を吐かなかった。泣かなかった。当たり散らさなかった。諦めなかった。
でも、心のどこかで、たった一人で苦しんでいた。それをさらけ出す術を知らなくて、誰も見ていなくても、悲しむことも苦しむことも許されなかった。本当は、心のどこかで泣いていたんじゃないのか?あいつはああ見えて、実は繊細だったじゃないか。なぜそんなことにも気づけなかったんだ。
いつからか、よく、あいつの困ったような笑い顔を見るようになった。あれはあいつのSOSだったんじゃないのか。
あいつはよく、あいつの好きだったあの曲を聴いていた。学校でも、病院でも。
あの曲を聴くと勇気がもらえるって言っていた。戦っていたからなんじゃないのか。一人誰にも頼れずに、苦しんでいたんじゃないのか。
俺は、あいつのために、もっと何かしてやれることがあったんじゃないのか?
気づけば俺は走り出していた。
「くそおおおおおおおおおおおお!」
何が正義の味方だ。大切な人のことさえ何も知らず、救えなかった。
抑え込んでいた色んな感情が溢れ出てくる。
この一か月近く、この町を回って、強く感じた。
この町は、俺の心は、茜との思い出で溢れすぎている。どこに行っても、茜との記憶が蘇えった。放課後二人で歩いて回った記憶が、いつも俺の頭に付いて回った。
最初は話題で持ちきりだった茜の話を、もう誰もしなくなった。あんなにも茜はこの世界のためにあろうと生きたのに、この世界は、茜がいなくても、何一つ変わることなく回っている。
誰かがもう、茜のことを忘れてしまったかもしれない。
いつか、誰かが茜のことを完全に忘れてしまうかもしれない。
いつかは俺も、彼女の声を、笑顔を、匂いを、温度を忘れてしまうのかもしれない。
このまま大人になって、この気持ちも思い出に変わるのかもしれない。
茜を失ったことを、大人になったなんて言葉で済ませて乗り越えたくない。
もう一度会いたい。また、バカみたいに言い合いたい。
やり直したい。
彼女の側で、支えてあげたい。
茜っ!
茜への思いが泉のように溢れだしてきて止まらなかった。
気づけば、茜が入院していた学校近くの病院裏の廃ビルまでやってきていた。
俺は何となく、階段を上ってみる。
しばらく階段を上ると屋上に出た。
案の定、誰もいないようで、景色を見ようと柵に近づくと、どこからか声が聞こえてきた。
「柵に近づかない方がいいよ。老化してるからね」
声の主を探して、上を見ると、屋上のタンクの上に人が座っていた。
「久しぶりだね。少年」
よく見ると、以前迷子になっていた黒いハット帽の男だった。
「こんなところでなにしてるんです?」
「それはこっちのセリフだよ。僕は仕事をしに来たんだけど、君は一体何のためにこんな誰もいないはずの廃ビルに入って来たんだい?」
仕事?こんな所で?
「まあ、聞かなくても分かるか。本来ここはもう来れないはずだからね。普通の人には見えないはずだから。君は強く願ったんじゃないかい?例えば、過去に戻りたい、とかね」
「…」
男が言っている言葉の意味はよく分からなかった。雰囲気も怪しげだし、そろそろ引き返した方がいいかもしれない。
「実を言うとね、この場所は危険だから封じにきたんだよ。ほんとなら、もっと早くに終わってたんだけど、君たちの様子を見てたら、長引いちゃってね。でも、タイミングが良かったね。まだ終わってなくて良かったよ」
俺たちを見ていた?何なんだこのおっさんは。
「なんの話をしてるんです?」
「この町で、こんな噂話聞いたことないかい?病院裏の廃ビルから飛び降りたら過去に戻れる、ってね」
そういえば、以前クラスの女子がそんなことを話していた。
「それが何なんです?ただの噂でしょ」
「火のない所に煙は立たぬってね。昔からよく言うじゃないか。本来ならこういうのはすぐに塞がないといけないんだけどね。今回はサービスだ。君たちには道を教えてもらった恩があるしね。僕はこう見えてけっこう義理堅いんだよ」
「話が見えませんね。あなた何者なんです?」
「分からないかい?僕はいわゆるサンタさんさ。メリークリスマス。少年」
なんだ危ないやつか。
「こんなサンタがいてたまるかよ。もう、帰っていいですか?」
「最近のトレンドだろ?ハット帽は。今時サンタ帽なんて被らないよ。いいのかい?お嬢ちゃんともう一度会いたいんだろ?」
戻りかけた足を止める。
「僕の言っていることを信じてもらうために、少し僕の話をしようか」
男は無精ひげをさすりながら、片足をもう片方の足に上にのっけた。
「僕はね、サンタが来ない子供の家にプレゼントを届けるのが仕事なんだ。今年も子供たちの笑顔を見れて良かったよ。だからね、茜ちゃんのことも知ってるよ」
なぜこいつが茜の名前を知っている。俺の目つきが鋭くなると、男はニヤッと笑った。
「あの子は六歳までひどい両親の下にいたからね。クリスマスプレゼントを貰えなかった。だから僕が代わりにあげてたんだ。毎年枕元においてあるクリスマスプレゼントにあの子は喜んでた。その反面、彼女の両親はなぜか毎年どこからか湧いて出てくるプレゼントを不快に思って、捨てたり、壊したりするんだけどね、不思議なことに次の日にはまた全く同じプレゼントが新品の状態で置いてある。気味悪く思った彼女の両親も、放っておくようになったんだよ。だから彼女はこんなに大きくなっても、僕たちのことを信じてくれていたのさ。
どうだい?少しは信じる気になっただろ?」
なぜこいつは茜が虐待されていたことまで知っている。それに、そんな親の元で育った茜がサンタクロースを信じていたのは確かに違和感がある。
だが、だからと言ってこんな噂話を信じるのか?
「他にも君のことも知ってるよ、青井翼くん。まだ、信じられないのなら君のことを離してもいいよ。君の後悔してること、君の心の傷について」
心臓がドクンと跳ねあがる。まさか。
「いや。流石にこれはやめておくか。ごめんね、僕としたことが少し意地悪だったかもしれない。まあ、何にせよ、君に任せるよ。このまま帰って今の日常を受け入れるも良し。それとも、勇気を出して、一歩踏み出すも良し。それにしても、君も罪な男だなー。女の子三人に心配かけて」
このまま帰って、また、茜のいない日常に戻る?
それとも、勇気を出して一歩踏み出して、もう一度茜に会いに行く?
会いたい。茜に。もう一度会える可能性が少しでもあるのなら。やり直せるのなら。少し前に自分で言ってたじゃないか。百憶分の一の可能性でも会えるのなら、それも悪くないって。
「彼女はあまりに不憫すぎる。大きすぎるものを背負わされている。僕としても君に支えてあげて欲しいんだよね。ちなみに、安心して飛びなよ。僕がいる限り成功率は120%だ」
俺の鼓動が早くなり始める。いいのか?こんな得体の知れないやつの言うことを信じるのか?嘘だったら死ぬんだぞ?
俺の中の冷静な部分が葛藤し始める。
もし、逆の立場なら茜はどうしただろうか。
そんなの決まり切っている。
あいつなら、迷わず飛んだだろう。茜がブランコから飛び降りた光景を思い出す。あの時の茜は、まるで、本当に飛んでいるかのようだった。
俺は覚悟を決めた。
ごめん。母さん、澪。俺は茜を選ぶよ。
額から汗が流れ落ちる。呼吸も荒い。
大丈夫。俺の名前は青井翼だ。俺には翼があるじゃないか。
右足を前に出して、構える。
「いつ跳んでもいいよ。準備はできてる」
怖い。足ががくがくしてきた。全身が震え出す。
その時、二つの手らしきものが、俺の背中に触れた気がした。なぜだろう。すごく落ち着く。気づけば震えは止まっていた。
そして、その誰かが俺の背中を押してくれた気がした。
頭の中に、あいつのよく聞いていたあの音楽が鳴り響く。
ガーガガガガーッ♪ガーガガーガーッ♪ガーガガガガーッ♪ガーガガーガーッ♪
俺は前に向かって走り出す。
「ああああああああああああああっ!」
柵が壊れている所から、叫びながらそのまま空に向かって跳んだ。
俺の翼ならどこへだって飛べるはずだ。過去にだって。
俺は宙に浮いていた。
ように思った。しかし、次の瞬間、地面に向かって落下する。灰色のコンクリートが近づいてくる。
ああ騙された。俺は飛べなかった。
そのまま地面に衝突した、と思った瞬間。
地面をすり抜けた。
真っ黒な海に沈んでいく。なんだここは。息ができない。意識が途切れ――
「じゃあ翼くん、日も沈んできたしそろそろ帰ろうか?みんなもそろそろ帰らないと、お家の人心配するんじゃない?」
気づけば、目の前で茜がしゃべっていた。夕暮れ時、公園の遊具で、周囲にはいつかの子供たちがいる。
「え?」
「だーかーらー、もう帰ろうよ!それともまだ鬼ごっこしたいの翼くん?」
世界が夕日で茜色に染まっていた。俺の胸にぽっかり空いていた穴に、爽やかな秋風が吹き込んだ。
俺は気づくと茜を抱きしめていた。
「へっ⁉ちょ、ちょ、ちょっと翼くん⁉何するの⁉」
「茜!俺もお前が好きだ!」
「な、な、な、何言ってるの翼くん⁉熱でもあるの⁉っていうか離れてよ!嬉しいけど、子供たちが見てるよ!」
茜が珍しくあたふたしだす。
「あー!告白したー!」
「やっぱりカップルだったんだ!兄ちゃん嘘つき!」
「お兄ちゃん大たーん」
ガキどもが横でうるさかったが、俺はそれでも構わなかった。もう一度、茜に会えた。もう一度、触れられる。茜のすべてが愛おしかった。涙が止まらなかった。
最初は戸惑っていた茜だが、俺が泣いているのを見ると、ぎょっとし、急に落ち着きを取り戻した。
「ごめんね、みんな。今日は先に帰ってくれるかな。私はちょっとお兄ちゃん落ち着かせてから帰るね」
「どうしたのお兄ちゃん、どこか痛いの?大丈夫?」
琴葉が心配そうに尋ねてくる。
「いや、これは…」
言いかけて思い出す。そういえばこの日の帰り道、琴葉はトラックに轢かれそうになるんじゃなかったか。
「琴葉、今日はお母さんに電話して迎えに来てもらえ」
「琴葉歩いて帰るから大丈夫だよ?」
「頼む。今日はお兄ちゃんの言うこと聞いてくれないか」
両手を合わせて頼む。
「えー?変なの。まあいいけど。じゃあ琴葉今日はお母さんと帰るね」
「ありがとう」
「何だ、兄ちゃん急にどうしたんだ?本当はさっき怖かったのか?」
翔太が茶化すように言ってくる。
「翔太、いいから今日は放っといてあげて」
「分かった!二人でイチャイチャするんだろ!スケベ!」
「んなっ!私と翼くんはそんなただれた関係じゃないから!いいから早く帰る!」
ガキどもがいなくなると、茜は俺の背中をポンポンと優しく叩き、そのままの姿勢でなだめてくれた。
俺はしばらくそうしていると、次第に落ち着いてきた。
「それで、どうしたの翼くん?何か辛いことあったの?」
茜が優しく問いかけてくる。
俺はようやく茜から離れると、手で涙を拭った。
しばらくすると、徐々に熱が引いていき、自分の言動を思い返し、羞恥心が湧き出てくる。
子供たちの前でまるで赤ん坊のように号泣し、茜に甘えてしまった。
気まずさからしばらく沈黙していると、茜が優しく微笑んで言った。
「大丈夫だよ、翼くん。話してみて」
茜にこんな母親のような一面があるとは知らなかった。本来なら知ることもできなかっただろう。俺はまた泣きそうになる。
しかし、本当のことを話すわけにはいかなかった。あんなにも、諦めずに足掻き続けていた茜に、残酷な真実を教えることなんてできなかった。
だから俺は、代わりに別のことを話すことにした。前回は、茜に話すことのできなかった俺の過去を。
茜はただ黙って静かに俺の話を聞いてくれた。
「だから俺は、まだ許されていない。まだ正義の味方にはなれない。だから、お前とペアを組むことができるのは、まだ先になることになる。かなり待たせるかもしれない。お前がそれでもいいのなら、俺はお前のパートナーになりたい」
俺が話し終えるの待ってから、茜がゆっくりと口を開く。
「…そっか。話してくれてありがとね。でも、私はそれ、君は悪くないと思うな。君の意志は尊重するけど、君は自分のことを責めすぎだよ」
「そんなことはない。このくらい、当たり前だ」
「…君はそんなに重い過去を抱えていたんだね」
「でも…」
茜が顔を赤らめもじもじし出す。
「君が私のこと好きだって言ってくれたのは、忘れてないからね。だから、いずれはちゃんとパートナーになってもらうからね」
「ああ、勿論だ」
「むふふふふふ」
茜が嬉しさが溢れて止まらないといった顔で、奇妙な声を上げる。
「なんだよ、その気色悪い声は」
「気色悪いとは何さ!今日は私にとって人生最高の日なんだよ!だって、翼くんと並んで決めポーズできたし、あの翼くんから好きだって言ってもらえたんだよ⁉もう私今日で死んじゃうのかな⁉私はきっとこの日のために生まれてきたんだよ!」
茜は興奮が止まらないようだった。洒落になっていないことを言う。
これから先、待ち受けている苦しみを、何も知らない茜は、子供のようにはしゃぐ。
いつか、許されたなら、パートナーになりたい。それは、たった一つの現実から目をそらした言葉だった。
茜の寿命は、残り僅かだということから。
一週間後、茜が入院した。分かっていたことだ。
「いやー、肝炎になっちゃったみたいでねー。心配かけてごめんね。三か月で退院できるからさ」
茜はまた、笑顔で嘘をつく。
「嘘をつくな。癌なんだろ。しかも末期患者だ。そう聞いた」
「あー、聞いちゃったかー。ごめんね、心配かけたくなかったから、秘密にしてたんだ。でも、安心して。私は死なないから」
明るく、呑気に、まるで風邪でも引いたかのように言う。
前回は鵜呑みにしてしまった。気づいてやれなかった。茜の弱さに。こいつは強い人間だ。でも、繊細な一面を持っている。心のどこかで苦しんでるんだ。俺は、今度こそ茜の支えになりたくて、ここに戻って来た。
「なあ、茜。苦しい時は俺を頼ってくれないか。俺の前でくらい泣いてくれ。弱音を吐いてくれ。無理して笑わないでくれ」
「…ごめんね。なかなか直らない悪い癖なんだ。翼くんは優しいね。でも大丈夫。私は強い子だから」
そう言って茜はにっしっしと笑った。
俺は毎日のように病院に通ったが、茜が俺を頼ってくれることはなかった。
「ねえ、ところで翼くん。ずっと気になっていたんだけど、君は一体どこから来たの?」
え?
ある日お見舞いに来た時、唐突に茜にそんなことを聞かれた。聞き違いかと思い、茜の顔を凝視する。
「何を言っているんだ?俺は学校から直接来たが?」
「違うよ。君は私の知っている翼くんと少し違う。少し前に、公園で一緒に遊んだ時くらいかな。君の様子がおかしかった日。あの時から、君は違うよ。なんだか、急にどこか吹っ切れた感じがするし、ちょっと切なそうに見える。特に私と話している時が。何より、目が違うよ。それに何か私に隠してるよね?」
俺は唖然とした。
「分かるのか?俺が未来から来たことが」
「お前は俺のことは本当に何でも分かるんだな」
「え⁉未来⁉嘘⁉もしかしたらそうだったりして、なんて思ってワクワクしてたけど、まさか本当にそうとは思わなかったよ!」
茜はキラキラした目でこちらを見てきた。
俺は茜の目を真っ直ぐ見れなかった。恐らく嘘をついても茜にはすぐにバレるだろう。
「なんで未来からやって来たの⁉私は元気になってたでしょ?」
茜は興味津々といった感じで聞いてくる。。
「それは…」
俺は何も言えなかった。
「え?違うの?」
黙りこくる俺を見て茜は何かを察したようだった。
「そっか。私は死んじゃうんだね」
茜は寂しそうな顔でそう言った。
俺はすべてを話すことにした。
「…だから、俺は、お前のおばあちゃんからその話を聞いて、こうして未来からやって来たんだ」
茜はしばらく黙って話を聞いていた。
少ししてから、徐に口を開く。
「私は絶対に死なないって思ってたんだけどな。ちょっと参ったな」
茜はまた、困ったように笑っていた。
「でもやっぱりサンタさんはいたんだね。あの迷子の人がサンタクロースだったとはびっくりだよ。赤い服じゃなかったのは残念だったけど。それにタイムスリップだって存在したんだね。それにしてもやっぱり翼くんはかっこいいなー。屋上から飛び降りるなんて。あと、それから、なんだろう、あれ、うまく言葉が出てこないや」
俺は、茜にもう一度会いたい、支えになりたいなんて、自分本位な思いで戻って来た。そのせいで、茜の心を挫けさせてしまいそうになっている。
俺が一番誰よりも知っている。茜が死ぬのは決まっていることだからと、諦めていた。だというのに、気づけば俺は、突拍子もないことを口走っていた。
「俺が絶対お前を死なせない。何があっても守るから。もうお前の死ぬところなんて二度と見たくない。だから大丈夫だ。きっと大丈夫。必ず助かる」
「…ありがとう。翼くん」
「…うん。そうだよ!サンタさんもタイムスリップもあったんだから、きっと奇跡だってあるよ!私はまだ挫けないよ!それに今回は、翼くんが私のことを好きだって言ってくれたからね!私のパワーも前回の比じゃないよ!」
茜は立ち直ってくれたのか、急に元気を取り戻すといつもの調子に戻ったように見えた。
「ああ!その調子だ。一緒に頑張ろうぜ!」
「うん!」
茜を絶対に死なせない。そう決めた俺は、まずは俺にできることを考えることにした。
二度目の十一月。今回は、茜の調子が悪くなる時期が分かっていたので、それよりも少し早く、俺たちは朝早くから紅葉を見に来ていた。茜は楽しみにしていたが、前回は結局間に合わず、散ってしまって見に行けなかった。二度目は同じ轍は踏まない。
秋の爽やかな晴れ空の下、俺と茜は、紅葉が咲き誇り、紅色に染まった並木道を歩いていた。
「うわー!綺麗だなー!見に来れてよかったー!」
茜は子供のようにはしゃぐ。
「毎年この季節に紅葉の生い茂った並木道を通るのが、一年で一番の楽しみなんだ!」
俺に眩しい笑顔を向けてくる。本当に良かった。
茜は本当に楽しそうに、まるで全身で光合成でもするかのように、綺麗な赤色を味わっていた。
茜が紅葉に向かって手を伸ばす。
そんな茜を見ていて、俺は覚悟を決めた。
あれからずっと考えていた。どうすれば茜を救えるのか。考えれば考えるほど、絶望的な状況に、答えなどでなかった。
でも、一つだけ確かなことはある。それは、ここにいても茜は助からないということだ。俺は茜が少しでも苦しまずに済むように、戻って来た。だったら…。
「茜」
「何?翼くん」
「薬どうだ?夜眠れてるか?」
「私薬嫌い。全然眠れない。苦しいし」
あの時、俺は茜に必ず良くなるから頑張って飲めと言った。結果、茜は苦しんで死んでいった。あの時できなかったことをしたい。後悔のないように。
「茜。一緒に逃げ出さないか?」
「ええ⁉まさか翼くんの方から言ってくれるなんて!私もそうできたらいいなって思ってた!でも翼くんに迷惑かけるかなって…」
「迷惑なんてたくさんかけてくれ。俺はお前が笑っていてくれたらそれでいい」
俺は茜の手を握ると、走り出した。
木枯らしが冷たく吹き抜ける中、燃えるように赤々とした紅葉が俺たちを見下ろしていた。その赤が乾いた空気を伝って俺の心に入り交じり、行け、進めと全身を熱となって駆け巡る。俺の熱と、茜の手のひらから伝わる熱が混じり合い、一つになる。
今なら、どこへだって行けるような気がした。
二度目の秋が暮れようとしていた。
俺たちは空港に来ていた。
「お前が洋服選ぶのに時間かけすぎるから、フライトギリギリの時間になっちまったじゃねえか」
「だって、二人きりの逃避行だよ?めいいっぱいお洒落しないと!」
「普通の女の子みたいなこと言いやがって」
「普通の女の子なんですけど⁉翼くんが私にどういうイメージを抱いているのかがよく分かったよ」
頬を膨らませて軽く睨みつけてくる。
「ところでどこに行くの⁉ディズニーランド⁉」
「あのな、お前の病気を治しに行くんだよ」
『秋田行きの便にご搭乗予定のお客様、お早めのご搭乗手続きをお願い致します』
アナウンスがなった。
「ほら、これだ。急いで手続するぞ」
「秋田県まで行くの⁉やったー!遠出だー!ワクワクしてきたね翼くん!」
病院から逃げ出してきたというのに、茜はまるで緊張感がなく、まるで旅行気分だ。
「今頃病院中大騒ぎだろうよ。おばあちゃんには連絡したか?」
「まだだよ。なんて言ったらいいと思う?」
「一応病気を治しに行ってきます、くらい言っておけば心配は薄れるんじゃないか?」
「おばあちゃんはまだ大丈夫だと思うけど、春香さんが怖いなあ。もし見つかったらお説教じゃすまないかも」
「仕方ないさ。病気を治すためなんだから」
俺たちは搭乗手続きを済ませると、飛行機に乗る。
「いやー!病院ってずっと退屈だったから、この背徳感たまらないね!にっしっし!このまま世界一周しよう!」
「まったく。まあ道中を気ままに楽しむのも、目的だからな」
「そうだよ!病は気からともよく言うしね」
俺は茜の図太さに呆れながらも頼もしく感じていた。茜が助かる可能性があるとすれば、こいつの逞しさだろう。
自然療法。ナチュロパシーともいう。人が生まれながらにして持っている怪我や病気を治す力、いわゆる自然治癒力を利用した治療方法だ。
茜の気力、生命力を引き出し、病気に打ち勝つ。そのために俺たちは、秋田のとある温泉宿を目指していた。調べてみるとそこでの湯治で末期癌が治ったという話もあった。
だから茜には、そこまでの道中も兼ねて、リラックスして自然を、旅を楽しんでもらうのが目的だ。
「翼くん!窓の外見て!私たちの町がまるで模型みたいに見えるよ!翼くん家どこかな」
「おい。パンツ見えてるぞ。お前は洋服じゃなくてイチゴパンツ以外のパンツを買え」
本来なら見て見ぬふりをしているところだが、機内なのでやむを得ず声を掛ける。
茜は顔を真っ赤にさせ、ばっとスカートでパンツを隠す。
「デリカシーのない口はこの口かな?翼くん」
そう言うと茜は、俺の左頬に拳をぐりぐりと押し付けてくる。
「君は一度その口をなまはげに食べてもらうといいよ」
「お前こそ病気を治してもらうために患部を食べてもらえ」
「ええ!嫌だよ!絶対あの包丁で患部切り落とす気だよ!」
頬を押さえてひええと怯える。
「お前は悪い子だから仕方あるまい」
「もし遭遇したら私は真っ先に翼くんを差し出すよ」
「あのな、言っておくがああ見えて、神の使いらしいぞ?」
事前に調べたところネットに書いてあった。
「そうなの?どう見ても鬼だけどね」
「ちょうど時期だ。縁起も良いということさ。秋田で思う存分羽を伸ばそう」
「秋田はお米で有名な県でもある。秋田のお米楽しみだ」
「にっしっしー!良かったね翼くん!あ!でも秋田は秋田美人が多いって聞くからね!隣にこんなに可愛い女の子がいるのによそ見なんかしたら、正拳突きだからね!」
こいつは空手技を一般人に向けて使いすぎじゃないのか。一度こいつに空手を教えたやつに会ってみたいものだ。
「はいはい。余所見なんてしねえよ」
飛行機に二時間ほど乗ると、秋田に到着した。
「とうちゃーく!さむ!翼くん寒いよ!」
「そりゃあ東北だからな」
空港から出るとまだ冬にならないのに、冷たい空気が肌を覆う。
「うっひょー!遂にやって来たね!翼くんは学校さぼってこんなところまで来ちゃうなんて悪い子だねー」
「お前だって重篤患者のくせに病院から抜け出してきたんだろ」
「君の方から誘ってきたんだよ。さあ、世界の果てまで逃げようじゃないか!」
「どこまで行く気だよ。せいぜい日本の果てだろここら辺は。それに行先は決まってる」
俺たちは荷物を受け取ると、空港を出て最寄りの駅に向かい、電車に乗った。
二人で遅めの昼食を食べながら、窓の外を眺める。
「車内は暖房が効いてて暖かいね」
「ああ。体調の方は大丈夫か?」
「大丈夫だよ。翼くんは心配性だなー。むしろ病院で鈍った体が解れたよ」
そう言って肩を回す。
「まあ本人がそういうなら大丈夫か」
「むしろ絶好調だよ!心と体が喜んでる気がする!きっと病気も良くなってきてるよ!」
「はは。なら良かったよ。飛び出してきて正解だったかもな」
「だね。ところで病気を治すってどこに向かってるの?」
茜がそういえばといった様子で聞いてきた。
「旅館だ。そこの温泉が癌に効くらしい。それに料理も体を健康にしてくれて力が漲るメニューらしいぞ」
「へー!楽しそう!楽しみだなー」
「しばらく滞在する予定だから存分に羽を伸ばすといい」
「うん!私にはこの治療法が合ってる気がするな」
両腕を伸ばしてリラックスする。
「それにしてもこの駅弁美味しいねー。秋田比内地鶏こだわり鶏めし弁当だって。ほかほかご飯が鶏の旨味で美味しいよ。鶏肉もぷりぷりでジューシー。翼くんも一口食べる?」
「へえ。美味そうだな。じゃあ一口もらおうかな」
俺は自分の箸で茜の弁当の鶏めしをつまもうとした。
すると、ぱしっと手を叩かれた。
「おい。どういうつもりだ」
「はい翼くん、あーん」
そう言って茜は自分の箸で鶏めしをつまむと、俺の口に近づけてきた。
「…自分で食うからいい」
「ダメだよ翼くん。私の鶏めしが食べたかったら、この食べ方じゃないとあげないよ」
「じゃあ別にいらね――」
「えー?ほんとに要らないのかな翼くん?この鶏めしは、あきたこまちを鶏ガラの出汁で炊き上げたものなんだよ?お米好きの翼くんならここは見逃すことできないよね?」
くそう。これほどただののり弁当を買った過去の自分を責めたくなることはないだろう。
「ほらいいのー?全部食べちゃうよー?」
茜がニヤニヤしながら焦らしてくる。
「くっ。分かったよ」
さすがにこんなに美味そうなご飯を見逃すことなど俺にはできなかった。
「はい、あーん」
俺は恥ずかしさを堪えて口を開け、茜の箸で鶏めしを食べさせてもらう。
「どう?おいしい?」
茜は自分でやっておきながら頬を赤く染めていた。
「まあまあだな」
初めて食べる秋田比内地鶏の鶏めしは、思ったよりも甘い味がした。
しばらく電車で行くと、窓の外に山道が見えてきた。そこで俺たちは降りる。
「茜。この山を登らないと旅館には辿り着けないんだが、登れそうか?」
「もちのろんだよ。何なら山頂まで勝負するかい?」
茜は袖を捲り上げ、二の腕を見せると力こぶを作る真似をした。
俺たちは長いこと山道を登った。
一時間程して、ようやく山頂に旅館が見える。そこに隣して、自然に囲まれ開放的な大きい岩風呂が見える。
「ようやく到着だねえ翼くん。秋田の自然は厳しいよ」
「だがその自然の恵みに助けてもらうんだ。それにしてもここは暗くなるのが早いな。まだ十七時前だぞ」
「早く行こうよ翼くん。なまはげが出るよ」
「だからなまはげは神の使いなんだって言ってるだろ」
「おっ風呂♪おっ風呂♪おっ風呂♪」
聞いちゃいなかった。
「ここの温泉で末期癌が治った人がたくさんいるらしい。湯治と言って、人の自然治癒力を引き出してくれるそうだ。お前の図太さなら何とかなるかもしれん」
「図太さって何さ!それを言うなら丈夫さでしょ⁉」
「まあ、そうとも言うな」
「まったくもうだよ翼くんは」
横でブーブー文句を垂れる茜と旅館の中に入る。
旅館は木造で、年季が入っているようだったが、どこか落ち着く雰囲気があった。やはり旅館は和風に限る。
エントランスで受付をする。とりあえず一か月程だろうか。俺の心もとないお年玉で足りるといいが。
俺が二部屋でお願いしようとすると茜がとんでもないことを口走った。
「あ、一部屋で大丈夫ですよ」
「何言ってんだ⁉大丈夫なわけあるか!」
「だってあんまり翼くんにお金使わせるのも悪いし。あ、お金は後で全額返すから安心してね。それに私は病人なんだから翼くんが付いていてくれないと心配だなー」
茜はしてやったりといった顔でこちらを見てくる。
確かにお金もこいつの体調も心配だが、さすがに同じ部屋はまずいのではないかと頭を悩ませていると、一部屋で話が進んでしまっていた。
「それでは、ごゆっくりどうぞ」
部屋の鍵を渡される。
「変なことしたら大声出すからな」
「それ私のセリフなんだけど」
部屋は畳に障子、布団と和式だった。俺たちは荷物を降ろすと、ようやく一息つく。
「はー、疲れたねー。長旅だったよー」
茜は部屋にあった和菓子を摘まみながらくつろいでいる。
「本当に体調の方は大丈夫なのか?ちょっと頭触らせてみてくれ」
俺は茜の額に自分の手を当てる。どうやら熱はないっぽい。
「だから大丈夫だって。翼くんは心配性だなー。同じ部屋にして良かったよ。この様子じゃあ一時間に一回は見に来てたね」
「お前は病人である自覚が足りないんだよ。本来病院のベッドで寝てるはずなんだ。心配だってする」
「でも本当に、旅を楽しむっていうのかな、リフレッシュできた気がする。病院で入院してるよりこっちの方がよっぽど効果ありそうだよ」
首をグリングリン回す。
「なら良かったが」
「そうだ、翼くん。さっそく温泉行ってみようよ!冷えた体を温めよう!」
「そうだな。どうする?外にも岩風呂があったが、中にも大きい温泉があるみたいだぞ」
「じゃあ今日は中でゆっくり温まりますか」
「ああ。じっくり浸かって来いよ」
俺たちは浴衣と着替えを入れる袋に下着を入れ、浴場へと向かう。
「どうする?翼くん、混浴入っちゃう?にっしっし」
「ここに混浴なんてねえよ」
「ちぇっ、つまらないな。覗いたらダメだよ翼くん」
「誰が覗くか」
俺たちはそれぞれ男湯と女湯へ入っていった。
脱衣所で衣服を脱ぐと浴場へ入る。浴場は広く、湯船も大きかった。
大志が来たら喜びそうだ。
俺は綺麗に頭と体を洗うと、シャワーで洗い流す。体を綺麗にして湯船へ入る。
「ふー」
旅の疲れが癒されるようだった。全身ぽかぽかする。なんだか力が漲ってくる。これは本当に病気にも効果がありそうだ。
二十分ほど浸かっていると、頭がくらくらしてきたので、そろそろ上がることにした。
温泉から出て部屋に戻ると茜はまだ戻ってきていなかった。存分に浸かってくれているようで何よりだ。
十分ほどして茜が戻って来た。
「ふー。いい湯だったねー。なんか、ほんとに、病気治っちゃいそうだよ。ここの温泉浸かってると力が湧いてくる感じがした」
「そうか!それは良かった。ここで一か月近く浸かり続ければ本当に何とかなるかもしれんな!」
「そうだね!あとは翼くんが私を甘やかしてくれれば完璧だよ」
「十分甘やかしているだろう。それにお前はすぐに調子に乗るからな」
「絶対そんなことないよ。翼くん私への愛が足りないんじゃないの?」
なにやら面倒臭いことを言い始めた。
「はいはい。ならなにをご所望で?」
「そうだね!じゃあ一緒の布団で寝ようよ!私翼くんの匂い好きなんだよねー」
「却下だ。やはりお前は厳しくした方が良さそうだ。同じ部屋にいる時点でまずいのに、同じ布団でなんて寝れるか」
「病人を看護しようとは思わないの!」
「何が看護だ。そんな看護があってたまるか」
ギャーギャー言い合っているともう夕飯の時間になっていた。
旅館の女将さんが料理を運んできてくれる。
金目鯛の煮つけに、マツタケの土瓶蒸し、栗とキノコの五目ご飯、なめこ茸と三つ葉、もみじ人参の吸い物に、デザートはぶどうだ。
「うわー!美味しそう!秋の素材がこれでもかってほどに詰まってるね!病院食とは大違いだよ!」
「ああ。しかもここは麓の農家から、旬の有機野菜を仕入れてて、健康にも気を使っているんだ。丈夫な体つくりには持ってこいだな」
「もう翼くん大好き。ブドウの次くらいにね」
などと言ってウインクしてくる。
「けっこう下じゃねえか。俺も好きだぜ、栗ご飯の次くらいにな」
「ちょっと⁉何それ聞き捨てならないんだけど!」
「いや、お前から言い出したんだろ」
「私のは冗談だけど、翼くんのは本気を感じたよ!」
腰を浮かせると口を膨らませて睨んでくる。
「面倒臭いやつだ。お前はキノコと同じくらいには好きだ。ちなみにキノコはやる」
「君キノコ嫌いって前に言ってたよね⁉私の皿に除けないで!私もキノコは嫌いなんだよ!」
冗談を交わし合いながら、夕飯を食べる。
「この金目鯛、醬油の出汁が香ばしいね!身も歯ごたえがあって美味しい!」
「ああ。栗五目ご飯も甘くて、出汁が効いてて美味い」
「和食って素晴らしいね!」
「ほんとだよ。畳に障子がまた乙だな」
「浴衣もね!」
俺たちは日本人に生まれたことに軽く感動しながら、夕食を楽しんだ。
夕食を終え、寝る時間になる。
俺と茜は布団を並べて敷くと、横になった。
「ねえ、翼くん。私をここに連れてきてくれてありがとね」
「どうした、急に」
真っ暗な部屋の中、茜の温度をどことなく感じる。
「こんなにわくわくするの生まれて初めて。つまらない学校からも病院からも解放されて、好きな人と二人きりで、こんなところまで逃げてきて、こんなに近くに君がいる。私の病気が治ったら、色んな所を、一緒に見て回ろうね。君となら、どこへだって行ける気がする」
「…ああ。勿論だ」
暗闇はいつも俺の心の黒い部分に馴染んで、無理矢理俺の心を塞いでくれていた。でも今茜が隣にいる暗闇は、まるで子供の頃のような、どこか心躍り、それでも落ち着きを与えてくれる、そんな懐かしくも新鮮な暗闇だった。
茜がそっと手を繋いできた。俺はその手を優しく握り返す。
静かな夜だった。
暗闇が優しく二人を見守ってくれている。そんな気がした。
朝、目が覚める。隣の布団では茜が寝ていた。起こさないようにトイレに行こうとすると、茜は起きていたようで、立ち上がって伸びをした。
「ふあーあ。なんだか体軽いかも。昨日の温泉のおかげかな」
茜が俺に気づかず独り言を言う。
「へえ。いい傾向だな。もう起きるのか?」
「あれ、起きてたの翼くん。そうしようかな。もう七時だし。朝風呂言ってくる。その後一緒に朝ご飯食べようね」
「ああ。行ってらっしゃい」
「行ってきます!」
そう言うと茜はルンルンで温泉に行ってしまった。
三十分ほどして帰ってきた
こうやって俺たちは、朝ご飯を食べ、部屋で休み、温泉に浸かり、夕ご飯を食べ、眠るという日々を繰り返した。
そんな日々を繰り返し、気づけば一か月が経っていた。
「翼くーん!暇だよー!暇!お外行こうよ!」
「お前は病人なんだからおとなしくしてろ」
駄々をこねる茜に言い聞かせるのは大変だった。
「あー、窓の外見てよ!雪積もってるよ!まだクリスマス前なのに!」
「本当だ。綺麗な景色だ。一面真っ白だな」
「よーし!雪だるまつくりに行くよ!翼くん!そしてユキオトコビトを見つけよう」
「おい体壊すぞ。ここから見るだけにしとけ。そしてなんだそのデカいのか小さいのかよくわからん奴は」
「嫌だよ!大丈夫私は風の子だから!」
そういうと茜は洋服を着こんで手袋をつけると出て行ってしまった。
「まったく」
俺も着替えると後から続く。
案の定外は気温が低く、雪が木々を白く染め上げていた。雪が音もなく降っている。
茜は夢中で雪を搔き集めている。子供かあいつは。
しばらく茜が雪だるまを作っているのを眺めていると、どこかから視線を感じた。振り返ると、旅館の中から、サングラスをかけたシルバーヘアーのおばあさんがこちらを見ていた。旅館の女将だろうか。
と、その時、突然背中に冷たいものが入り込んできた。
「うおっ!」
慌てて取り出すと雪だった。
振り返ると茜がしたり顔で立っていた。
「翼くんも一緒に遊ぼうよ」
「嫌だね。雪なんて積もってるのを見るくらいがちょうどぶほっ」
茜が顔面に雪を投げつけてきた。
「そんなこと言わずに遊ぼうよ。どうせ部屋に戻っても退屈なんだから」
「あんまり長居しすぎるとほんとに体に悪い。さっさともどぶほっ」
いつかのようにまた俺の言葉を遮って投げつけてくる。
「しつこいぞ翼くん。私はここ一帯の雪がなくなるまで遊びつくすってもう決めたんだから」
「おい貴様次はないぞ。さっさと部屋にもどぶほっ」
「にっしっしー!それ逃げろー!」
「よーし決めた!なまはげに代わって貴様は俺がお仕置きしてやる。そして俺はお前の背中に雪を入れるまでお前を中には返さん!」
「きゃー!翼くん顔怖いよ!変態ー!」
俺たちは雪が降る中、子供のように無邪気に走り回った。俺たちが付けた足跡を、降り積もる雪が上から消してゆく。この時間もいつか俺は忘れてしまうのだろうか。茜の命も雪のように儚く散っていくのだろうか。
いや。忘れてしまうのならまた二人で作ればいい。新しい思い出を。降り積もる雪が足跡を消そうとする側から、次々と新しい足跡を着けていくように。
茜の命はかき消させない。俺は純白な世界の中、そう誓った。
部屋に戻ると、茜はすぐに温泉に向かった。今日は岩風呂の方に行くと言っていた。雪も降っているのに寒くないのだろうか。
茜の体調を憂いながら、カバンに防寒具を閉まっていると、スマートフォンが出てきた。そういえばずっと電源をオフにしていた。俺はスマートフォンの電源をオンにする。すると、着信履歴が百件ほど来ていた。電話はすべて大志からだった。
大志に連絡するのを完全に忘れていた。俺はすぐに大志に電話する。
「もしもし?大志か?悪い完全に連絡するの忘れてた」
「バカ野郎!お前心配かけやがって!今どこで何してる⁉」
大声で怒鳴られる。
「すまん。茜の病気を治しに秋田まで来てるんだ」
「秋田⁉星野さんは無事なのか⁉」
「ああ。むしろ調子は良いくらいだ。秋田に癌に効く温泉があってな。湯治に来てるんだ」
「まったく!学校でも病院でも駆け落ちしたんじゃないかって噂になってるぞ!危うく警察沙汰になるところだったんだ!星野さんのおばあさんと看護婦さんが説得してくれたから何とか納まったが。それにあんな状態の星野さんを連れ出すなんて何考えてるんだ⁉みんなお前らのこと探してる!早く帰ってこい!」
まあそう言われるよな。
「いやまったくだ。迷惑かけたな。だが俺は帰るつもりはない。茜はここで治して帰る。もう決めたんだ」
「本気か⁉何かあったらどうする⁉」
「覚悟の上だ。病院にいたって茜は良くならない。俺には分かる」
「…後悔しないか?」
「しない。断言できる」
一度見てきた俺にしか理解できないだろう。
「…はあ。そうか。まあお前がここまで言うからには何か根拠があるんだろ。俺からも先生にうまく言っとくよ。ただ約束しろ。何かあったら俺にもちゃんと相談しろ。俺たちは一緒に飯食った仲だろ。俺だけ除け者にしてくれるなよな」
「ああ。話が早くて助かる。勿論だ。定期的に電話する。悪かったな。助かるよ」
「星野さんにもよろしく言っといてくれ。じゃあな」
そう言うと大志は電話を切った。
ある程度騒ぎになるかもしれないことは予想していたが、警察沙汰になりかけることはさすがに予想していなかった。だが、こうでもしないと病院から抜け出せなかったからな。これでよかったはずだ。茜のおばあちゃんと春香さんに感謝だな。それと大志もいろいろ手をまわしてくれているはずだ。
実際茜はもう十二月だというのに、病院にいた頃と違い元気に見える。やはりここでの食事と湯治が効いているのだろう。
そう思っていた。その翌日、茜がまた熱を出すまでは。
「平気か?やっぱり昨日寒い中走り回ったのが原因なんじゃないのか?」
「それは関係ないよ。だってあんなに楽しかったんだもん」
「まったく。何の関係があるんだ」
言葉とは裏腹に、俺は不安でいっぱいだった。
「ご飯は食べられそうか?」
「うーん、何とか。ちょっと気持ち悪いけど」
弱っている茜を見るのは久しぶりだった。嫌な記憶がフラッシュバックする。俺はそれを振り払うように頭を振った。
「温泉もこれ以上熱が上がると危ないから今日はやめておいた方がいい。そんな気力もないだろうしな。ここの風呂くらいなら入れそうか?」
「翼くん洗って」
上目遣いで恐ろしいことをお願いしてくる。
「甘えるな。それくらい自分でしろ。体くらいなら拭いてやるがな」
「あはは。体は拭いてくれるんだね。やっぱり優しいね。病人だからかな」
さすがに冗談だよと軽く笑う。
「今は余計な事考えなくていい。とにかく休め。病院と違って俺はずっとそばについていられるからな」
「やったー。翼くんに甘えたい放題だな」
「まったく。さっさと治してくれよ」
「了解であります」
しかし、次の日も、その次の日も茜の熱は引かなかった。食べる量も目に見えて減っていき、どんどん痩せていった。茜の側にずっといる分、それは顕著に表れて見えた。
「なかなか熱引かないね。ちょっと調子良くないかも。あはは。でも大丈夫。すぐに良くなるからね」
相変わらず茜は笑っていた。こんなにも苦しそうだというのに。
茜はとうとう布団から出なくなった。トイレとお風呂の時以外、一日中布団の中で寝るようになった。俺は一日中茜の看病をしていた。
夜中、茜の呻き声で目が覚めることも卒中だった。俺は茜の手をただ握ることしかできなかった。
それでも、茜は弱さを見せることや、弱音を漏らすこと、泣くことはなかった。ただ、困ったように笑うのだった。茜のこの癖は、簡単に直らない根深いものがあるのだろう。それが許されなかった、そんな環境で育てられ、今もなお茜の心の深いところに根付いている。
ある夜、茜が言ってきた。
「ねえ、翼くん。私、死ぬのかな」
茜が弱い自分を見せてくれるのは、初めてだった。
「大丈夫さ。死なせない。きっと何とかなる」
何の根拠もなく、陳腐なセリフを吐くことしかできない自分の無力さが惨めだった。結局俺はまた、苦しむ茜のそばで、今度はただ近く眺めているだけだった。何も変わらない。
「ごめんね。翼くんにはまた苦しむ姿見せちゃって」
なぜ自分が誰よりも苦しいはずなのに、人の心配などするのだ。
「お前が謝ることじゃない。謝らないといけないのは、何もできていない俺の方だ」
俺が代わってやれたらどれだけいいかと、何度も何度も考える。
「死にたくないよ翼くん。まだ、やりたいこと、いっぱいあるんだ」
俺は茜の顔を見れなかった。自分で頼ってくれと言っておきながら、いざそう言われると、俺には何を言っていいのか分からなかった。
「ごめんね。私最近ちょっと弱気になってきてる。しっかりしなくちゃね」
ぐっ。それが当たり前なのに、俺の不甲斐なさのせいで、また茜に無理をさせてしまう。
俺は返せる言葉を持ち合わせていなかった。
気づくと茜を抱きしめていた。思ったよりも小さくて、華奢な体に、余計に心が締め付けられる。涙が溢れ出す。
「こんなに体は苦しいのに、胸のドキドキの方が勝って、幸せな気持ちでいっぱいになる。もう私死んでもいいかも、なんて思っちゃう」
「冗談でも止めてくれないか」
「ふふ。ごめんね。君はよく泣くね」
自分が苦しいはずなのに俺の頭を優しくなでてくれる。
「俺は本来あんまり泣かないはずなんだよ。お前が心配かけすぎなんだ。それにお前が泣かないから、その分俺が泣いてるんだ」
「そうだね。ごめんね。ありがとう。どんな言葉よりも、君がこうしてくれるだけで、勇気が湧いてくる。生きようって思える」
俺はこの温もりにいつまで触れることができるのだろうか。茜の温度をいつまで感じられるのだろうか。また、同じことを繰り返しているような気がした。
ある日、部屋に向かう途中の廊下で、以前俺たちを見ていた、サングラスをかけた女将に話しかけられた。
「あんたたち、長いことここにいるけど、若い子二人だけで湯治に来てるのかい?」
「ええ。まあ」
その女将さんは、淡白な話し方をするが、その瞳は優しく、不思議な雰囲気を持った人だった。
「ここの湯はいろんな病気によく効くよ。実際、医者に見放されたたくさんの患者の病気が治るのを何回も見てきた」
「そうなんですか。食事も健康的で助かってます」
「…あんたたち病院から駆け落ちしてきたのかい?」
サングラスを外すと、案の定優しい瞳をした人だった。
「何で分かったんです?駆け落ちというか、逃げ出してきました」
「若すぎるからだよ。まだ高校生くらいだろ?」
「…ええまあ」
「私はここで色んな患者を見てきた。するとね、いつからか、その人のどこが悪いのか、見えるようになった。だからね、あんたの連れの女の子のことも分かるよ。あの子はもう助からない」
女将さんは、どこか悲しそうに、淡々と告げた。
「冗談でもやめてくださいよ」
「冗談でこんなこと言わないさ。あの女の子の胸の中心にね、どす黒い塊が見える。私には病気がそんな風に見えるんだけど、こんなに酷いのは見たことがない。よくあれでここまで来れたね」
「あれは何をしても治らない。たまにいるんだよ。あれはあの子の業だよ。運命で決められているのさ。あの子の純粋で真っ直ぐな瞳を見ればすぐに分かる。あの子は大きすぎるものを背負っている。誰かが背負わなければいけないのさ。それに何やら色んなものを溜め込んでいるのも原因の一つに見えるね」
なんだよそれ。そんなのどうすればいいんだ。この人が嘘をついているようには見えなかった。なぜか知らないが、茜が一人溜め込んでいるものまで知っている。
「じゃあ、どうしたらいいんです…」
「ここに連れてきた選択は別に間違ってはいないと思うけど、いつまでもここであんた一人で面倒は見られないんじゃないのかい。車出してあげるから病院に行くといい。ただ、何度も言うようだが、長くは持たないと思った方がいいよ。胸の真ん中から、どす黒い何かが、全身に回り始めてる。すまないが私にはどうしようもないよ。食べ物は果物をすりつぶしたもの用意しておいてあげるよ。それとうちの野菜ジュースは体にいいから飲んだ方がいいね」
そう言うと女将さんは行ってしまった。
取り残された俺は、一人決断を迫られていた。ただ、また抱えきれないほどの絶望が俺の心を吞み込み始めていた。
病院に行くという選択は、俺の中にはなかった。行ったところでどうなるかはよく知っていた。とりあえず年内まではここで踏ん張ってみることにした。俺のお年玉もそれくらいが限界だった。茜も病院には行きたくないと言った。
しかし、奇跡なんて存在しなかった。
翌日、元旦。俺が女将さんから茜用の夕飯をもらって部屋に戻ってくると、茜は口から血を流して倒れていた。俺は持っていたお盆を落とした。
「茜!おい!大丈夫か!」
茜の口から流れ落ちた血が、真っ白な布団を赤く染め上げていく。
「さよなら、大好きだよ」
そう聞こえた気がした。
茜はいくら呼びかけても意識が戻らなかった。俺の大声を聞いて、旅館の女将たちがやって来る。
女将のうちの一人が、すぐさま119番にかけ、救急車を呼んだ。
このまま病院に戻されるのか。その先の未来は見えていた。
本当にもうどうしようもないのか。俺はまた、茜を失うのか。
俺は結局何の役にも立てずにまた同じことを繰り返すだけなのか。
嫌だ。もう二度と茜が死ぬのなんて見たくない。
茜を連れて行かないでくれ。どうか。どうか。
茜を失いたくない!
俺が強く祈った時、茜の胸の中心にどす黒い塊が見えた。そこから茜の全身に、黒い何かが広がっている。
なんだこれは。これがあの女将さんが言っていた病気の根源なのか。
ああ、茜はこんなものを抱えながら生きていたんだ。
俺は、自分でも驚くほど落ち着いていた。茜の方へ、自然と手が吸い寄せられる。俺は茜の胸に手を置いた。どす黒い塊が、手を伝って、俺の体の中に一部吸い込まれた。その瞬間、全身に激痛が走り、鼻血が出てきた。
俺は驚いて手を放す。
ふと思い当たる。そうか、あの時。茜が公園で倒れた時。茜の額に手を翳したら茜の体調が良くなって、代わりに俺が熱を出したことがあった。あれは俺がやったんだ。
ちょっと吸い込んだだけで、こんな激痛。茜は一体どれほどの苦しみを一人抱えていたのだろうか。
覚悟はとっくの昔に決まっていた。俺が代われるのなら。
もっとだ。全部吸い取れ。
俺の体の中に、どんどん黒い何かが流れ込んできて、体を蝕んでいく。
骨が軋んで、体が内側から焼かれているみたいに熱い。全身が重い。
これで、茜の苦しみが少しは理解できただろうか。良かった。これで茜は死なずに済む。
全部吸い込み終わり、俺の意識がどんどん遠くなっていく。
薄れてゆく意識の中、最後に茜の笑顔が浮かんだ気がした。
目が覚めると体が軽かった。確か、さっき急にお腹が熱くなって血を吐いたと思ったらそこで意識が途絶えたはずだ。それなのに、なぜか今まで体の節々が痛くて堪らなかったはずなのに、すっかり痛みも消えていた。
不思議に思い体を起こすと、すぐ隣で鼻血を出した翼くんが倒れていた。
え?
「翼くん?翼くん!どうしたの⁉しっかりして!」
翼くんを揺すってみるが、意識は戻らない。
私はどうしていいのか分からず、そこで初めて他の人の存在に気づいた。部屋の中には三人ほどの旅館の女将さんがいて、みんな唖然とした顔でこちらを見ていた。
そのうちの一人の、サングラスをかけたシルバーヘアーのおばあさんが私の方に近づいてきた。おばあさんはサングラスをはずすと目を丸くして私たち二人を見ていた。
「信じられない。黒い塊を吸い込んでしまった。こんなことがありえるのかい」
おばあさんが何を言っているのか分からなかったが、私はとにかく助けを求めた。
「翼くんを助けてください!」
おばあさんは悲しそうな顔で言った。
「残念だけど、この男の子は助からないよ。今あんた体が軽いんじゃないのかい?それはね、この男の子が身代わりになってくれたからだよ。あんたは生きなくちゃいけないよ。この子が生かしてくれた命を大事に、この子の分も生きなさい」
そんな。嫌だ。翼くんが私の身代わりになった?嘘だ。そんなこと急に言われたって信じられないよ。
その時、以前野球をしたときのことを思い出した。あの後私は倒れて、翼くんが私のおでこに手を翳してくれたらすごい楽になったんだ。それで、私が治った後で、今度は翼くんが風邪を引いて…。
私は分かってしまった。あの時も翼くんが助けてくれてたんだ。私の身代わりになって。それで、今度は、私の病気の完全な身代わりに…。
「嫌だよ!翼くん!私そんなの望んでないよ!お願い死なないで!」
どうしよう。このまま病院に行っても私が治らなかったんだから、翼くんだって治る可能性は薄い。でも、このままじゃ翼くんが…。
私は翼くんの胸に手を当て必死に願った。
「戻れ!戻って!戻ってよ!翼くんを連れて行かないで!」
おばあさんは翼くんに近づくと脈をとっていた。
「一応まだ息はあるようだけど、もう意識が戻ることはないと思った方がいい。もう黒い塊が全身に回り切っている。長くないよ」
「そんな!嫌だ!おばあさん!何か知ってるんでしょ⁉本当にどうにもならないの⁉」
「無駄だよ。この子の覚悟を受け入れてやりな」
「やだ!絶対諦めない!」
駄々をこねる私におばあさんが溜息をついた。
「ここの近くに神社がある。子供ができない女性が子供を授かったり、行方不明の娘がそこの神社の横で倒れて発見されたり、何度か奇跡が起きたという話を聞いたことがある。車出してあげるから、そこに連れていってあげるよ。ただ期待しないことだね。急いで準備しな」
「ありがとうございます!」
私は言われるがまま、外に出て車に乗った。久々に出た外は日の光が明るく、軽い体も相まって今はそのことが空しく感じられた。
翼くんが助かる希望があるのなら、なんにでも縋りたかった。
翼くんが担架で運ばれ車に乗せられる。
車の中で、翼くんを膝枕しながら、その髪を撫でつける。
お願い。もう少しだから頑張って。
車に乗って、山道を揺れながら走る。まだ旅館を出て大して時間は経っていないはずなのに、私には長い時間が経ったように感じる。
ところが、山の中腹ほどまで行ったところで不運に見舞われた。山道を走っていると、横から突然雪崩が襲ってきたのだ。雪崩といっても車とその周囲数メートルを覆うくらいのものだったが、それでも車が止まるのに十分な大きさだ。白い雪がまるで先日の雪遊びのすべてを否定するごとく、凄まじい勢いで駆け下りてくる。
おばあさんがスピードを上げて何とか避けようとするが、雪崩の範囲は大きく、車体が大きく揺れる。私は翼くんに怪我させないように、私の胸に頭を抱える。
だが、私たちは車ごと雪に埋もれてしまった。
「大丈夫かい⁉すぐに助けを呼ぶからね!これは除雪まで長いことかかるよ。悲しいことだけど、その子はもう諦めた方がいい。そのまま病院に搬送した方がこの子のためだよ」
嫌だ。まだ諦めない。なんでこんな時に限って。
ああ、まずい。どんどん車内が冷えていく。ただでさえ翼くんは危篤なのに。
私は翼くんの体温が奪われないように力強く抱きしめる。
このまま助けがくるまで、この寒い車で待つの?酸素も薄くなってくるはず。翼くんが耐えられるわけないよ。
一刻も早く神社に行かないと。こんなところで足止め食らってる場合じゃない。
どうか。お願い。翼くんを助けてよ!
刹那、頭の中に火が燃え上がるイメージが流れ込んできた。
その直後、車を覆っていた雪がどんどん溶けていく。それどころか、道を覆っていた雪もすべて溶けてしまっていた。
「なんだいこれは。雪が溶けた?」
おばあさんが驚いた声を出した。
何だかよく分からないけど、雪が溶けたみたいだ。深く考えている時間はない。今がチャンスだ。
「おばあさん!また雪崩が来る前に、急いで山を降りようよ!」
「そ、そうだね」
私たちは、急いで神社に向かう。
私は車の中で、翼くんに思いを馳せる。
君も、私が弱っていた時、こんな気持ちだったのかな。ごめんね、私、心配かけてばっかりで。今になって、君の気持が痛いほどよく分かる。
君は絶対死なせないからね。また起きて、いつもみたいに私に憎まれ口叩いてよ。
ごめんね。私のせいでこんな苦しい目に遭わせて。
しばらく車を走らせ、神社に着いた。そこは森の中にあって、神社特有の神秘的な雰囲気を醸し出しているところだった。
鳥居を潜ると、すぐ階段があった。私は翼くんに肩を貸すと、階段を上る。おばあさんは反対側から翼くんを支えてくれていた。
階段を上ると、社殿は池に囲まれているところにあった。まるで儀式のための祭壇のようだった。
私たちは、池を渡ると、社殿の中に入る。社殿の中は、どこかひんやりとしていた。
その裏に回ると、本殿があった。ここにこの神社のご神体が祀られているらしい。
「誠意を持って一生懸命お願いするんだよ。もしかしたらあんたの清い心に、この男の子の優しさに、神様も応えてくださるかもしれない」
私は翼くんを本殿の前にそっと寝かせると、手を合わせて必死に頼んだ。
お願いします。私はどうなっても構いません。ですから、この人だけは連れて行かないで下さい。世界で一番大切な人なんです。
私はこの人に救われたんです。どうか。どうか翼くんを助けて下さい。どうか。
私は長いこと祈り続けた。三十分くらい経っただろうか。誰かが私の肩に手を置いた。
目を開けると、おばあさんだった。悲しそうな顔で首を横に振る。
「残念だが、もう、この子は…」
そんな。
翼くんはもう息をしていなかった。
なんで。嘘だ。こんなことあるはずないよ。
嫌だ。嫌だ。翼くん。
ふと隣に人の気配を感じ顔を上げると、以前道に迷っていた男が、翼くんがサンタクロースだと言っていた人が立っていた。
「え?」
「思い出してごらん。彼との思い出を。彼のことを考えてごらん」
「え?い、いつから」
「いいから。ほら」
翼くんとの思い出。宝物のように大事にしまっている。いつでもすぐにでも思い出せる。
一緒に猫を助けた。バーベキューをした。野球をした。お泊りをした。公園で遊んだ。紅葉を見に行った。病院から抜け出した。温泉に来た。
何度も言い争いをした。冗談を言い合った。笑い合った。手を繋いだ。抱きしめてくれた。
私の一挙一動に、本当に困って、呆れて、怒って。いつも私を見ていてくれた。私のわがままに振り回されてくれた。
いつもすました顔してるのに、不意を突かれた時の顔が好きだった。
素直じゃないんだけど、本当は誰よりも優しいところが好きだった。
困ったときに「まったく」って口癖のように言うのが愛おしかった。
全然泣きそうにないのに、私のためによく泣いてくれるのが嬉しかった。
むっつりって言われる度にむっとした顔になるのが面白かった。
こんなにも、好きで、愛おしくて、色んな感情にさせてくれる。
好き。大好き。私のヒーロー。
ずっと一緒にいたい。
隣を歩いていたい。
君のことをもっと知りたい。
君のことを考えるだけで、こんなにも胸が満たされていく。
君のいない世界を考えるだけで、こんなにも胸が張り裂けそうになる。
死なないで。行かないで。
嫌だよ。私を置いて行かないで。
私の両方の目から涙が零れ、翼くんの顔に滴り落ちた。
その時、私の落とした涙が光り始めた。その光は徐々に強く、大きくなり、翼くんの体を包み始める。目も開けられないほどの光に私を目を閉じる。
やがて光が収まり、私は恐る恐る目を開けた。
翼くんの胸が上下に動いていた。心臓が動いてる。
「翼くん!」
私は思わず翼くんを抱きしめた。
「ん?茜か?どこだここ?あれ?俺確か死んだはずじゃ。何か体軽いような」
翼くんがまた話してる。
涙が止まらなかった。
「え?お前、泣いてるのか?」
「ううっ、泣いてないもん」
「いやめっちゃ泣いてんじゃねえか。そっか。はは。やっと泣いたか。そうだよ。辛い時はいつだって泣いていいんだよ。誰もお前を責めるやつなんていねえんだから」
翼くんがいつもみたいに少し乱暴なしゃべり方で、でもいつも以上に優しく話しかけてくれる。
「私は君のせいで泣いてるんだからね!このいじめっこ!」
「俺のために泣いてくれたのか?ありがとな。茜」
翼くんが急に優しい目つきになる。ああ。翼くんが帰ってきたんだ。もう絶対放さない。
「信じられないよ。ほんとにどっちからも病気が消えてる」
隣でおばあさんが驚いた顔で私たち二人を見て、あの男の人のことを見る。
「あの。あなたが何かしてくれたんですか?」
私はハット帽の男に尋ねる。
「僕はただつないだだけさ。君とこの神社の神様との縁を。君が初めて流した涙が、誰かを愛おしいと思う愛と、死なないで欲しいという切実な哀の涙だったから。その純真さに神様が応えてくれたのさ。今まで大変だったね。もう君が背負うことはないよ。君の役目は終わったのさ」
「ありがとうございます!」
言っていることの意味はよく分からなかったが、とにかく私はハット帽の男にお礼を言った。
「お礼ならここの神様と、ここまで連れて来てくれた女将さんに言うんだね」
私たち二人は改めて、手を合わせてお礼を言った。
「女将さんもありがとうございました!」
「俺からも。本当にありがとうございました」
「いいんだよ。これが私の仕事みたいなものさ」
神様にお礼を言い終わった後に目を開けると、サンタさんはいなくなっていた。翼くんはそういう人だと言っていた。後から聞いたところ、あのハット帽の男が現れた時も、女将さんが瞬きをした一瞬のうちにだったらしい。
それにしても、まだ信じられなかった。私は翼くんが消えてしまわないようにずっとその手を握っていた。
それから宿に戻った俺たちは、女将さんにお礼を言うと、飛行機に乗って、町に帰って来た。
検査のため病院に戻ると、医者にも看護師さんにも俺たちはたっぷりと叱られた。
だが、検査の結果茜の病気は完全に治っていて、癌も完全に消えていた。医者は頭を悩ませていた。それでも大事をとって茜は一か月ほど入院した。
その間も俺は、毎日のように学校の帰りに病院に寄ってお見舞いに行った。
茜は退屈そうにしていたが、俺は、今までと違い、お見舞いに行くのが気楽で楽しかった。
大志は先生を宥めてくれていたようだが、学校に行くと先生にも叱られた。クラスメイトはみんな、見世物でも見るように不躾な視線で俺のことを見てきたが、もう気にならなかった。
「茜、調子はどうだ?」
俺は茜の病室に入った。
「もうずっと元気だよ。早く退院したいよー」
茜は退屈の余り、病院から何度か勝手に抜け出し、春香さんに叱られたらしい。
「もう少しの辛抱だ。俺は張り詰めた心もちで続いてたお見舞いの日々が更新されてるみたいで嬉しいよ」
「ごめんね心配かけて。私も君の気持が痛いほど分かったよ」
茜は珍しくしおらしい顔をする。
「まったくだ。二人とも助かって本当に良かった」
「そうだね」
「あ、ところで翼くん、お見舞いの品は?」
ドヤ顔で催促してくる。
「もう病人じゃねえんだから要らねえだろ」
「いるよ超いる!私の唯一の楽しみだよ?」
「じゃあ次から買ってくるよ」
「えー。今食べたい!アンパンマンの顔のクリームパンが食べたい!」
などと我儘を言う。
「なんだそのややこしいチョイスは。下のコンビニでおにぎりなら買って来てやる」
「だめ!アンパンマンが食べたいの!」
「アンパンマンが配る顔はただのあんぱんなんだから、それはもうあんぱんでいいだろ」
「うるさい青井くん。屁理屈ばっかり言ってないでさっさとあんぱん買ってこい」
そう言って乱暴な口を利く。
「焼きそばパン買ってこいみたいに言ってんじゃねーよ」
「あはは、一度言ってみたかったんだ」
「まったく」
俺たちは悲しい記憶を上書きするように、病院での日々を楽しんだ。
それから数か月が経った。四月になり、退院してすっかり元気になった茜と、桜の並木道を歩いていた。
一面ピンク色で世界が優しく、温かく、生命が躍動する気配がしていた。
「桜二人で見れて良かったな」
「ほんとにね。そうだ、近いうちに大山君も呼んで花見しようよ。私団子食べたい」
「お前はほんと花より団子だな」
俺は呆れた顔で隣を見る。
「意味はよく分からないけど、貶された気がしたぞ」
「いや、お前らしいなと思って」
「ねえ、いつ遊園地行こうか?ゴールデンウィークとかどうかな?」
「いいんじゃないか。春休みはさぼった分の課題で忙しかったからな。特にお前が」
「しばらく消しゴムは見たくないよ」
しばらく歩いていくと、桜並木の向かい側の塀に誰かが座っていた。
近づいてみると、黒いハット帽の男だった。
「やあ、二人とも。元気そうでなによりだよ。僕はほんの少し手を貸しただけだけど、まさか二人そろって生きてるなんてね」
男はきっとすべて知っているのだろう。どこまで計算していたのだろうか。
「あんたのおかげだ。ありがとう」
「いやいや、礼には及ばないよ。僕は大したことしてないしね」
「でも、あなたが助けてくれなかったら、私か翼くんどちらかが死ななければいけなかったです。本当にありがとうございました」
そう言って茜も頭を下げる。
「まあ今年はお嬢ちゃんにまだクリスマスプレゼントをあげてなかったからね。メリークリスマスと言うことで」
ハット帽を右手で押さえて軽く合図する。
「今までで一番のクリスマスプレゼントです」
茜が嬉しそうに言う。
「なら良かったよ。そんなことよりね、お嬢ちゃんに頼まれごとをしてたのを忘れててね」
「私?私何も頼んでないよ?」
茜は首を傾げている。
「ああ、そっちのお嬢ちゃんじゃなくてね、死んで少年の側に残っていた幽霊の方のお嬢ちゃんさ」
「…何か言ってたのか?」
やっぱり茜は言葉通り、あの時も俺のことを見守ってくれていたのだ。そのことに感動を覚える。
「君が死んでからずっと君の側で見守っている、君の母親と妹の声を届けてあげてってね。しつこくてね。まあ、これはサービスだね。一度しか会えないからよく噛みしめるんだよ」
そう言うと、男は塀を降りると、俺の方に向かって歩いてきた。
「目を閉じて」
俺の両方の目を覆うように手を翳した。
「いいよ、開けて」
目を開けると、そこは、さっきまでと同じ場所の様で、どこか違っていた。周囲には、俺以外誰もいなかった。さっきまで隣にいた茜も、俺の目の前にいたあの男も。まるで世界に俺一人取り残されたように、とても静かだ。
「翼。聞こえる?」
もう長いこと聞いていなかった、そして二度と聞けるはずのない声が聞こえた。
振り返ると、母さんと澪が立っていた。
「澪、母さん…」
突然現れた二人に俺は驚いた。みぞおちの奥が締め付けられる。そういえばさっきあの男が茜の幽霊の話をしていた。ということは、澪と母さんも幽霊なのか?俺は十年ぶりくらいに会う二人に戸惑う。だって二人とも何も成長していないのだから。俺のせいで。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
俺は二人に合わせる顔がなかった。一体どんな顔をして話をすればいいんだ。
俺は俯いたまま顔を上げられなかった。
時間はあまりないかもしれない。とにかくもし会えたなら、絶対に言わなくちゃいけないことがあったはずだ。
「二人とも、俺のせいで死んで、本当に――」
「お兄ちゃんごめんなさい!」
え?
「あの時、澪が死んじゃってから、お兄ちゃんがずっと後悔してるの側で、ずっと見てた。お兄ちゃん悪くないのに、自分のことずっと責め続けて、苦しんでるの澪いつも謝りたくて、澪も悲しかった。本当にごめんなさい!」
澪は泣きながら、俺に向かって叫んできた。
「何言ってるんだよ。あんなことで怒って手を放しちゃった俺が悪いに決まってるだろ。澪が謝る必要なんかない。やめてくれよ」
「そんなことないよ!お兄ちゃんあのフィギュア大好きだったのに怒って当たり前だよ!お兄ちゃんが自分のこと責める必要ないんだよ」
「そんなこと――」
「翼。あなたも澪も誰も悪くないのよ。あれは事故だったの。あなたがそんなに自分を責め続ける必要なんてないのよ」
母さんが優しく言葉をかけてくれる。
「母さん…」
「責任があるとすれば、お母さんの方なのよ。あの日、あなたたち二人を残して仕事に行ってしまった。私がちゃんとあの時二人と帰っていればこんなことにはならなかった」
「なんだよ、二人して。二人が悪いわけないだろ!それに母さんだって俺のこと恨んでただろ!俺のせいで澪が死んで、そのせいで母さんまで死んで…。全部俺が悪いんだよ」
「ごめんね翼。本当にごめんなさい。私のせいでこんなに苦しませてしまって。ううっ」
母さんも泣き出した。
「私は澪が死んでから、自分を責めてばっかりで、あの時二人をお家まで送ってればって、何度も考えて、あなたやお父さんとしゃべる余裕さえなくなってたの。お母さんは弱かったから、澪が死んだことを受け入れられなかったの。本当にごめんなさい。あなたを残していってしまってごめんなさい。翼のこと責めてたつもりは一切ないの。それは澪もお父さんも一緒なんだよ。誰も翼を恨んでなんかいないし、責めてもいないの。翼を許せないのは翼だけなのよ。そして翼はもう一人で十分苦しんだ。だからお願い。もうこれ以上自分を責めないで。翼が私たちのことを思うのなら、茜ちゃんと幸せに生きて欲しいの。そしたら私たちも安心して成仏できるから」
ずっと自分一人が悪いと思っていた。二人とも俺のことを恨んでいると決めつけていた。父さんだって俺を許せないだろうと思い込んでいた。
でも、そうじゃなかった。誰も俺を責めてなんかいなかった。
みんな苦しんでいた。母さんも澪もずっと俺のことを心配してくれていたのだ。そしてそれはきっと、父さんも一緒だ。
涙が止まらなかった。
「俺は、自分を許してもいいの?」
二人は大きく頷いた。
「澪は今でもお兄ちゃんのこと大好きだよ!澪のヒーローは今でもお兄ちゃんだから!だからお兄ちゃんには笑っていて欲しいの」
「お母さんもだよ、翼。あなたのことずっと愛してる。幸せになって。天国からずっとあなたのこと見守っているからね」
ああ。俺はこんなにも愛されていた。ずっと苦しかった。悲しかった。
どんなに楽しくても、嬉しくても、心のどこかにずっと罪悪感がついて回っていた。
もういいんだ。苦しまなくても。もう心の底から笑っていいんだ。幸せになっていいんだ。
「ありがとう。母さん、澪。俺もずっと愛してる」
俺がそう言った途端、まばゆい光が二人を包んで、二人は空の上へと昇って行った。
俺は涙を拭って、息を大きく吸い込むと、ゆっくりと目を閉じた。
再び目を開けると、眼前にあの男がいた。横を見ると隣には茜がいた。
「これで願いは聞き届けたからね、お嬢ちゃん」
「どうだったかい少年。ちゃんとお別れはできたかい?」
俺は首を縦に振ると、頭を下げた。
「色々と、本当にありがとうございました」
「どういたしましてだね」
男はそう言うと、俺たちの来た方へと飄々と歩いて行った。
「じゃあね、二人とも。達者でね」
俺たち二人は呆然と、男の姿を見送る。一瞬瞬きした間に消えていた。
「翼くん、大丈夫?なにがあったの?」
「それはそのうち話すよ」
俺は茜に言わなければいけないことがあった。
「なあ、それよりも――」
「あ、分かった!エロ本は子供の頼むものじゃないから来年からは没収って言われたんでしょ!もう泣くことないじゃん。それは翼くんが悪いよ。あ!そのことを見越して現金にしたんだね!それでも没収って言われちゃったんだ。まったく君はそういうことになると頭が働くんだから」
人が大事なことを言おうとしているのに、茜は横で腹立たしい勘違いをし始めた。
「違えよ!そんなしょうもないことで泣くか!俺をバカみたいに言うんじゃねえ。お前と一緒にするな」
「何だとー!私だってバカじゃないもん!バカって言った方がバカなんだぞ!翼くんのバカ!」
「その理屈で言ったら今お前はバカになったわけだが」
「し、しまった!や、やるね翼くん」
「くくっ。ほんとにお前は」
俺は茜とのやりとりに思わず笑みがこぼれる。
「あ、また笑ったね翼くん」
そう言って茜は手でカメラの形をつくり俺に向けてくる。
「これから、君とのいろんな思い出をこのカメラで撮って、記憶に焼き付けていこうね」
茜は楽しそうにそう言った。
「ああ。そうだな」
もう、茜を阻むものは何もないのだから。
「ところで。なあ、茜。待たせてごめんな。本当はもっと先になると思ってたけど」
「なに?」
俺の真剣な表情と声に、茜が不思議そうな顔をする。
俺は軽く息を吸い込むと、心の底からの思いを伝えた。
「俺のパートナーになってくれませんか」
俺は顔を背けながら、茜に向かって手を伸ばす。
茜は一瞬驚いた顔をして、それから頬を赤らめると、俺の手を握り返してきた。
「はい」
小さい頃から空を見上げるのが好きだった。
いつか手を伸ばせば、本気で手が届くと思っていた。今ではもう空に手を伸ばすことはなくなった。
でも、空に手が届かなくたって、少し手を伸ばせば触れられる距離に彼女がいてくれるならそれでいい。
超能力も、奇跡も、サンタクロースも、幽霊も全部あった。なら次は何を探そうか。
空を見上げると、吸い込まれそうなほど青い空がどこまでも広がっていた。
俺たちは二人手を繋いで歩き出した。