一日中ベッドの上で、茜の輪郭をなぞった。彼女の温度が消えないように。
カーテンを閉じ、電気を消し、真っ暗な部屋で、暗闇と同化した。
胸にぽっかりと空いた穴を塞ぐように、思い出を貪るように浸り、この歪んだ世界から逃げ続けた。
腹が空いたら出前を頼み、眠たくなったら貪るように眠った。
もうどれくらい時間が過ぎたのか分からない。時間感覚なんてとっくになくしていた。
ある時気づいた。俺の方から会いに行けばいいんじゃないかと。三人に会いたい。澪に。母さんに。そして、茜に。
俺はふらつく足でベランダに向かう。カーテンを開けると、窓をスライドさせ、外に出る。そのまま柵の上に立った。
下を見下ろすと、地面との距離に足が竦む。急に鼓動が早くなり始める。
どうした。飛べ。みんなに会えるぞ。
「ピンポーン」
その時、チャイムが鳴った。
無視して続けようと思ったが、チャイムがしつこく鳴る。
「ピンポーン。ピンポーン」
俺は柵から降りると、玄関に向かった。
ドアを開けると、そこには大志がいた。
「よう、翼。二週間も学校さぼりやがって。冬休みも合わせると一か月近いぞ。ちょっと見ない間にやつれたなー。その調子だと、ずっと閉じこもってるな」
大志は、いつも通り、朗らかに言った。
「どうだ。ちょっと付き合えよ。久しぶりに、ラーメンと銭湯行かねえか?」
「…いや、俺は」
「まあまあ、そう言わずによ。その調子だと風呂もしばらく入ってねえだろ。それにお前知らねえのか?ラーメン食わねえと早死にするんだぞ」
大志は白い歯を覗かせながら笑う。
こいつの頼みは断れない。続きはあとでいいか。そう思った俺は付き合うことにした。
俺たちは家からすぐ近くの銭湯に向かった。
「それにしてもお前、一か月近くも風呂入ってなんてばっちいなあ。カビ生えてんじゃないのか?ちゃんと洗えよ」
「うっせえな。分かってるよ」
俺は、お湯でべたついた髪の毛を洗い流し、シャンプーで綺麗に汚れを洗い落としていく。 続いて、全身をお湯で流すと、石鹸で軽く擦り体を洗う。
「体洗ったか?ほんじゃ入りますか」
俺たちは温泉に浸かると、冷えた体を温めた。
お湯加減はちょうどいいくらいで、全身が心地よかった。冷え切った心が温められ、心なしか、暗く塞がった気持ちも少しだけ軽くなった気がした。
「ふー。最高だなー。やっぱ冬の銭湯はたまらんぜ」
「ああ」
「それにしても、お前と銭湯来るのは久しぶりだなー。お前星野さんとつるんでばっかで、俺とあんまり遊んでくれなかってもんなー」
大志が意地悪そうな顔を浮かべる。
「悪かったな」
「…」
「なあ、翼」
「ちょうど、星野さんが入院したくらいか。お前がまた、前の暗い頃に戻ったこと、気づいてた」
急に真剣な表情になり、ポツリと言った。
「……流石だな」
「だけどな、俺はその時、安心したんだ」
「え?」
「また、暗くなったと思った。前のお前に戻ったように見えた。でも、違った。お前はもう前のお前とは違ってたんだ。明るくなってた。感情豊かで、よく笑うし、よく怒るし、どこか生き生きしてた」
大志がよく意味の分からないことを言う。
「お前、前まで死のうとしてただろ?」
「…やっぱり気づいてたか」
「当たり前だ。何年お前の側にいると思ってる。当然気づいてた。だけど、また、暗くなった頃のお前は違ったんだよ。もうお前は死に憑りつかれていないように見えた」
そんなことは…。
「なんでか分かるか?星野さんがいたからだ」
「……」
「彼女がお前を振り回してくれたから、お前を外に連れ出してくれたから、お前を変えてくれたから。お前はもう、昔とは違うんだよ。だから俺はもうお前を心配していない。彼女がいなくなった今だって、お前はもう死なないさ」
何を言っているんだ。さっきだって俺は死のうとしていた。
「そんなことはない。お前の勘違いだ」
「いや、そうさ。お前が自覚していないだけだ。俺には分かるよ」
「…」
俺たちは、しばらく温泉に浸かると、ほどなくして上がった。
「よーし、ちょうど腹も減って来たし、ラーメン行くか!暖かいスープで体ぽかぽかにしようぜ!」
「そうだな」
俺たちは行きつけのラーメン屋さんに入ると、カウンター席に着く。店内は暖房が効いていて温かかった
「おっちゃん!俺醤油ラーメンね!野菜マシマシで!」
「あいよ!」
「俺は塩ラーメンで」
「あいよ!」
十分ほどでラーメンが運ばれてきた。
「へいお待ち!」
「うっひょー!うまそー!」
「いただきます!」 「いただきます」
俺はまずスープから飲む。塩味の効いたあっさりとした暖かいスープが体に染み渡る。体が火照ってきた。続いて麵を啜る。何度も食べたことのある味なのに、久々に食べるラーメンは、なぜかいつもより無性に美味しく感じた。
一息ついてから、大志が話しかけてきた。
「なあ、翼。お前、一人になんてなれると思うなよ」
「へ?」
俺の目を真っ直ぐ見つめてくる。
「お前が落ち込むようなことがあった時は、俺がこうしてラーメンに連れてきてやる。悲しくて仕方ない時は、俺が慰めてやる。むかついて仕方ない時は、俺が愚痴を聞いてやる。お前は誰かに頼るのが下手くそだからな。俺はいつだってお前のことを見てる。もう誰もいないなんて思うなよ。俺がお前の側にずっといてやる」
「…」
「なんでそこまでしてくれるんだ?」
「友達だからに決まってんだろ」
そう言うと大志は、白い歯を覗かせて笑って見せた。
「それとな、実は星野さんから預かってたものがある。もしも自分が死んだときはお前に渡してくれって、預かってた」
そう言って大志が取り出したものは、USBメモリだった。
家に帰ると、早速、USBメモリをパソコンに挿し込んでみた。
そこには、「翼くんへ」と書かれた動画ファイルが一つだけあった。
俺は恐る恐るファイルをクリックした。
動画が再生される。
そこには、病院服を着た、まだ元気な頃の茜が映っていた。
「元気が出る超能力!ビビビビビビビビビビッ!」
「どう?元気出たかな翼くん。私が死んじゃって、まーたしみったれた顔した翼くんに戻っちゃってるかもしれないからね。それとも、案外すぐ立ち直ってたりするのかな?だったらすごくショックなんだけど。でもこれちょっと恥ずかしいね。だれもいないのに一人でしゃべっててバカみたい」
相変わらず、マイペースで、能天気なしゃべり方をする、どこか間の抜けた茜の姿があった。俺は思わず涙が出そうになる。
「あ!あと先に言っておくけど、これは生きるのをを諦めたから残したんじゃないからね?私は死なないし、諦めてるみたいで何か嫌だって言ったんだけど、春香さんがやれってうるさいから。そうしないと点滴の時痛くするわよって!私が注射嫌いなの知っててわざと言ってくるんだよ!まったくとんでもない人だよ。っていうわけで、これは君に届くことはないだろうから、そのつもりで聞いてね。あれ?でも、そしたら君に届く前提でしゃべってるのはおかしいのかな。んん?なんだかこんがらがってきたぞ」
春香さんというのは、恐らく茜が死んだ日にエントランスのドアの中にいたあの看護師のことだろう。
それにしても、まるで茜が生き返ったみたいで、懐かしい感覚になる。俺は思わず笑ってしまいそうになる。
「とにかく、所謂遺言ってやつだね。これやったら気が滅入っちゃいそうで嫌なんだよなー。まあいいか。じゃあ、翼くん。悔いのないように、伝えたい事伝えるね」
茜はベッドの上で姿勢を正した。
「まず、元気ですか?君はいじけんぼだから心配だな。私がいなくなって、また、閉じこもってませんか?ちゃんと外出てる?ちゃんと眠れてる?ちゃんとご飯は食べてますか?」
お前は俺の母親かよ。
「今、お前は俺の母親かよって思ったでしょ?」
茜はいたずらが成功した子供のように笑う。
図星だった。俺は思わず苦笑する。
「今の君もそうだけど、未来の君はもっと心配だな。本当に君は私に心配ばかりかけるよ。ねえ、知ってた?私実は、君のこと、小学一年生の頃から知ってるんだよ?
私が小学一年生の時、初めて行った公園で、同い年くらいの男の子が、いじめられているのを見かけたの。男の子三人に囲まれて、砂かけて意地悪されてた。その子は泣いていたのに、私は怖くて動けなかった。そんな時、ヒーローが現れたの」
「愛と平和の戦士、ブルーペガサス参上!」
「そう言って堂々と決めポーズをすると、その男の子は、いじめっ子たちにたった一人で立ち向かって、殴られながらも、三人相手に、何回も何回も立ち上がって、立ち向かっていったの。そして、ついにはいじめっ子たちをやっつけて、ぼろぼろになりながらもその後ろ姿は私が今まで見たどんなものよりも綺麗で、輝いて見えた。私はその日生まれて初めて本物のヒーローを見たの。あんまりテレビなんか見なくて、ヒーローなんて知らなかった私は、お家に帰ってすぐに戦隊モノのテレビを見て、確信したの。私はヒーローのレッドになって、あの男の子とペアを組むんだって
その日から私は、君のファンになった。たまに君の姿を見かけると堪らなく嬉しくて、一人で喜んでた。君に少しでも追いつきたくて、空手を始めた。ずっと君を追いかけてた。私の憧れだった。私のヒーローだった。中学に上がって、周囲はバカにしてきたけど、私は構わなかった。中三の時には、君の通ってた塾に侵入して、君の志望校を必死に探ってたんだよ。そして、必死に勉強して、入学した高校では、初めて君と同じ学校に通えることが嬉しくて、一晩中寝れなくて、初日から寝坊したのはいい思い出。
でも、大きくなった君は、すごく変わってた。目は腐ってて、目つきは悪くて、顔色も悪くて、今にも死んじゃいそうだった。
君を見ててすぐに気づいた。君は、他の人と違っていた。君だけは、いつも、ここじゃないどこかを見てた。儚げで、悲しそう。なんだか、涙を流さないで泣いているように見えた。
そして、その瞳の奥には、昔の君がいた。君の熱を、何かが塞いでいるのが分かった。そしてそれに君が、惹かれていることも。ずっと君に話しかけたかった。でも勇気が出なくて、全然話しかけられなかった。
でも、ある時。六月頃。君が教室から窓の外を眺めている時、君が今にも空に吸い込まれそうに見えた。すごく危うげで、見てられなかった。気づいたら私は君に声を掛けてた。
その時決めたの。私が君の心を塞いでいるものを吹き飛ばしてやろうって。君を連れて行かせはしないって。だから、こう見えて私は結構必死だったんだよ。大山君にも君が今にも死にそうだから、私が何とかするから、翼くんの弱みを教えてって頼み込んだんだよ。大山君もやっぱり気づいてたみたいで、驚いてた。
そしてね。公園で遊んだ時、君がまた、あの決めポーズをやってくれた時。私は本当に嬉しかったんだ。私の夢が叶った瞬間だから。君と並んで、ヒーローになれた。夢みたいだった。私はこの瞬間のために生まれてきたんだって、そう思った。その後すぐにまた君は、元気がなくなっちゃったんだけど、私はこの時、確信したんだよ。君はもう大丈夫だって。君の目を見てすぐに分かった。あの時の翼くんの目をしてた。君に何があったのかは知らないけど、君はもうあの瞬間を忘れられないよ。君の中の青い炎が、君の黒い炎を焼き尽くしてくれる。だからもう君は大丈夫!もし仮にこっちに来るなんてことがあったら、ぶっ飛ばすからね!君はおじいちゃんになってよぼよぼになってから、ゆっくり来るように!といっても、私は死んでも幽霊になって君のこと見張ってるから大丈夫だけどね。君がまた、うじうじし出したら、かつ入れてやるからね。あっ!あとエロ本読んだら祟るからね!タンスの角に小指ぶつける呪いかけてやる!
でも、念のため、君に別の呪いもかけておくね。もし私が死んじゃったら、君にね、私の意志を継いでほしいの。私の代わりに、ヒーローになってほしいの。たくさんの人を救って、悪いやつらをやっつけて、この世界を少しでも良くしてほしいの。私の最後のお願いっていえば、聞かざるを得ないよね?これで君は死ねない呪いにかかっちゃたからね!にっしっし!頼んだよ。翼くん」
「それとね、翼くん…」
茜は急に顔を赤らめ、もじもじし出した。
「君はね、最初は私の憧れだったの。でも、君を見てると、君と話してると、変わらない君に、変わった君に、どんどん惹かれていって。いつの間にか私は君のことが…」
俯いた顔を上げて、凛とした目でこちらを見据えてきた。
「いつの間にか君のことが好きになっていました。君は私の憧れで、パートナーで、しょうがないやつで、わたしの心をこんなにもかき乱してくれる、大好きで、世界で一番特別な人です
君が私のことをどう思ってくれているのかは、まだ、分からないけど、私の人生はまだ終わっていないから、覚悟しててね!いつか絶対私のパートナーにしてみせるからね!」
「茜入るぞ」
ノックの音ともに俺の声が聞こえた。
「やば!翼くん来ちゃったよ!じゃ、じゃあね!未来の翼くん!」
そう言うと、画面が急に暗くなった。
しかし、動画の停止ボタンを押し忘れたようで、動画はまだ続いていた。
「ん?今お前何隠した?」
「へ⁉べ、べ、別に何も隠してないよ⁉」
「嘘つけ。今枕の下に何か隠しただろ。なんか顔も赤いな。ははーん。さては…」
「ち、ち、ち、違うよ!別に私はそんなことして――」
「さては、エロ本読んでただろ?」
「はい?」
「ああ、いいぞ言わなくても分かってるからな。なるほどなるほど。まあ、お前もお年頃だからな。分かるぞ?如何わしい本の一つや二つ読みたくもなるよなー」
「んなっ!違うから!何さそのしてやったりみたいな顔は!君と一緒にしないでくれるかな⁉」
「はいはい。分かった分かった。それにしてもいつも人にむっつりむっつり言うくせに、自分も隠れてこっそりエロ本を読んでいるとは、お前のことをこれからムッツリ茜と売れない芸人のように呼んでやろう」
「ムカーッ!こんなにむかついたのはいつぶりかな⁉なんなのかなその得意顔は!言っておくけど私は無実だからねっ」
「じゃあ、枕の下見せてみろよ」
「ぐっ。それは…」
「ほら見ろ。次からは差し入れは食べ物じゃなくてエロ本にしてやろうか?」
「キーっ!悔しい!言い返せないのがものすごく腹立たしいよっ!」
「そもそも君は――」
そこで動画は終わっていた。
俺は、驚きと、喜びと、悲しみと、愛しさと、後悔とで、頭がどうにかなりそうだった。
茜が俺のことをそんなに前から知っていたことも、俺のことをこんなにも見抜いていたことも、こんなに俺のことを思ってくれていたことも、死んでもなお、俺のことを救おうとしてくれていることも、すべてが嬉しくて、そして、同じくらい切なかった。
「〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ!」
涙が溢れて止まらなかった。
すべてが手遅れだった。
茜への思いが溢れて、全身が叫んでいた。
長いこと、泣き叫び続け、涙が枯れる頃、思い出した。
大志は正しかった。
俺はあの時、死ねなかった。少し前までの俺なら迷わず飛んでいただろう。
だけど、今の俺は、もう、昔の俺とは違ってしまっていた。
茜が俺を変えてくれた。
彼女は、俺に生きることの楽しさを思い出させてくれた。。
そして、俺に忘れていた気持ちを思い出させてくれた。
茜が言ったからだけじゃない。俺は、もう、無視できないほど、昔の気持ちを思い出していた。
あんなにも、必死に、生きることを諦めずに、望み続けた茜を見て、俺はもう、命を蔑ろにすることなんてできなくなっていた。
茜が守りたかった世界を、俺は生きたいという気持ちを否定できなかった。
そして、茜がかけた呪いが、俺をこの世界に縛り付ける。
結局最後まであいつには敵わなかった。
正義の味方もどきでも何でも構わない。善行を積んで、誰かを救い続けて、いつか許されるその日が来るまで、俺は誰かのために生き続けたいとそう思っていた。
いい加減いつまでも立ち止まっている場合ではない。俺もそろそろ前に進まなくてはいけない。過去を抱えて、苦しみながらも前に進もうと藻掻かなければいけない。
自分を許さずにいるのは楽だから、いつまでもそこで立ち止まっていた。でもそれじゃだめだ。自分を許せるよう、許されるよう、努力し続けるんだ。
それに、いつまでもうじうじしてたら、茜にぶん殴られてしまう。きっと心配していつまでも成仏できないだろう。
やらなければいけないことができた。いつまでも閉じこもっている場合じゃない。
俺は、カバンの中から、クシャクシャになった進路調査票を取り出すと、第一志望から第三志望まで、「正義の味方」と殴り書いた。
もう、迷わなかった。
茜が死んで二か月が過ぎようとしていた。
俺はあれから、また学校に通うようになっていた。
朝起きてから学校に行くと、退屈な授業を受け、放課後になると一人パトロールをする。
困っている人がいると手伝った。町の掲示板にチラシを張って、困りごとを募集した。その中で思い当たる。これを茜も一人でやっていたことに。あいつはどんな気持ちで学校に通い、授業を受け、放課後を一人過ごしていたのだろうか。今となってはもう知りようもない。
ある日、学校が終わり、家に帰ろうと玄関で靴を履いていた時、おばあさんに話しかけられた。
「あなたが青井くんね?」
「はい、そうですが」
誰だったか。
少し悩んで思い当たる。茜の病室で何度か見たことがある。茜のおばあちゃんだろうか。
「お話をするのは、初めましてね。茜の祖母です」
「茜の友達の、青井翼といいます」
「知ってるわ」
茜のおばあちゃんは、ゆったりと優しそうにしゃべる。
「あなたのことは、茜から毎日のように聞いてたの。あの子、あなたのことを本当に楽しそうに話すの」
「今日は、あなたに茜の話をしたくて、訪ねてきたの。あの子はあなたのことが大好きだったから、あなたにあの子のことを知っておいて欲しいと思って。本当は話そうかどうかすごく迷ったのだけれど、あなたはあの子のことを知る権利があると思って話すことにしたわ」
茜のこと?なんだ?
「あの子はね、小学校に上がる前まで血の繋がった両親に虐待されていたの」
俺は突然の告白に衝撃を隠せなかった。茜が虐待されていた?
「ひどいものだったそうよ。私は病気でずっと入院していて、あの子のことを知らなかった。私のバカ息子に子供がいたことさえ知らなかった。あの子は泣くことを許されなかった。泣くたびに殴られて、罵られ、愛情を受けずに育ってきたの。
あの子が六歳になった頃、あの子の両親は二人そろってあの子を残して消えたの。あの子は捨てられたのよ。その時初めて私はあの子の存在を知った。私が初めて会った時のあの子は酷かったわ。着ているものはボロボロで、髪の毛もボサボサ、人形みたいに表情がなかった。言葉も話せなくて、いくら話しかけてもうんともすんとも言わなかったわ。ただ、殴られないようにこちらの機嫌を伺うだけ。見ていて心が裂けそうだった。そして、私はあの子を育てることに決めたわ。最初はずっと無表情だったあの子も、私が長い時間をかけて愛情を注ぎ続けた結果、感情が豊かになって、明るい女の子に育ったわ。小学校に上がる頃には、よく笑って、表情豊かな普通の女の子になった。
ただ、一つだけ、治らなかったところがあったの。
あの子は、どんなに悲しくても、苦しくても、辛くても泣かないの。
ただ、困ったように笑うだけ。
もともと元気で明るい性格なんだけど、あの子はそれが許されない環境で育ったせいで、強くなりすぎてしまったの。いいえ。強さだけじゃないわ。あの子はちゃんとどこかで苦しんでる。私には分かるわ。ただそれをうまく吐き出せないだけ。
学校も楽しくないようで、私が学校どう?って聞くと、楽しいよってしか言わなかったんだけど、あの子の顔を見ればすぐに分かった。
でも、ある時から急に毎日楽しそうになって、あなたの話をよくするようになったの。
今日は青井くんがどうだったとか、翼くんと何をしたとか、本当に楽しそうで。茜は酷い両親のせいで、テレビもろくに見せてもらえなくて、ヒーローの存在も知らなかったの。でも、私に引き取られてすぐに、一人で遊びに行った公園で、あなたを見たらしくて、走って家に帰って来たと思ったら、ヒーローって何?って無表情だったあの子が、目を輝かせて言うのよ。それでテレビで見せたら、「茜ヒーローになる」って言いだして、それ以来どんどん明るくなっていったわ。本当にあなたのおかげなのよ。病気のことも、気にしてないように見えて、あの子は…」
「…それ以上は、言わなくても、分かります」
俺は愚かだった。星野茜は強い女の子だと思い込んでいた。
決して諦めない、普通の人とは根本から違う、不屈の心を持った、特別な人間だと思っていた。
違った。あいつも一人の人間だった。当たり前だ。あいつもずっと苦しんでいたんだ。
学校でも、独りぼっちで、毎日戦ってたんだ。自分の信念を貫き通すために、変な目で見られるのも、周囲から浮くのも、本当は気にしていたんだ。
そして、病気だってそうだ。
あいつはただの一度だって、弱音を吐かなかった。泣かなかった。当たり散らさなかった。諦めなかった。
でも、心のどこかで、たった一人で苦しんでいた。それをさらけ出す術を知らなくて、誰も見ていなくても、悲しむことも苦しむことも許されなかった。本当は、心のどこかで泣いていたんじゃないのか?あいつはああ見えて、実は繊細だったじゃないか。なぜそんなことにも気づけなかったんだ。
いつからか、よく、あいつの困ったような笑い顔を見るようになった。あれはあいつのSOSだったんじゃないのか。
あいつはよく、あいつの好きだったあの曲を聴いていた。学校でも、病院でも。
あの曲を聴くと勇気がもらえるって言っていた。戦っていたからなんじゃないのか。一人誰にも頼れずに、苦しんでいたんじゃないのか。
俺は、あいつのために、もっと何かしてやれることがあったんじゃないのか?
気づけば俺は走り出していた。
「くそおおおおおおおおおおおお!」
何が正義の味方だ。大切な人のことさえ何も知らず、救えなかった。
抑え込んでいた色んな感情が溢れ出てくる。
この一か月近く、この町を回って、強く感じた。
この町は、俺の心は、茜との思い出で溢れすぎている。どこに行っても、茜との記憶が蘇えった。放課後二人で歩いて回った記憶が、いつも俺の頭に付いて回った。
最初は話題で持ちきりだった茜の話を、もう誰もしなくなった。あんなにも茜はこの世界のためにあろうと生きたのに、この世界は、茜がいなくても、何一つ変わることなく回っている。
誰かがもう、茜のことを忘れてしまったかもしれない。
いつか、誰かが茜のことを完全に忘れてしまうかもしれない。
いつかは俺も、彼女の声を、笑顔を、匂いを、温度を忘れてしまうのかもしれない。
このまま大人になって、この気持ちも思い出に変わるのかもしれない。
茜を失ったことを、大人になったなんて言葉で済ませて乗り越えたくない。
もう一度会いたい。また、バカみたいに言い合いたい。
やり直したい。
彼女の側で、支えてあげたい。
茜っ!
茜への思いが泉のように溢れだしてきて止まらなかった。
気づけば、茜が入院していた学校近くの病院裏の廃ビルまでやってきていた。
俺は何となく、階段を上ってみる。
しばらく階段を上ると屋上に出た。
案の定、誰もいないようで、景色を見ようと柵に近づくと、どこからか声が聞こえてきた。
「柵に近づかない方がいいよ。老化してるからね」
声の主を探して、上を見ると、屋上のタンクの上に人が座っていた。
「久しぶりだね。少年」
よく見ると、以前迷子になっていた黒いハット帽の男だった。
「こんなところでなにしてるんです?」
「それはこっちのセリフだよ。僕は仕事をしに来たんだけど、君は一体何のためにこんな誰もいないはずの廃ビルに入って来たんだい?」
仕事?こんな所で?
「まあ、聞かなくても分かるか。本来ここはもう来れないはずだからね。普通の人には見えないはずだから。君は強く願ったんじゃないかい?例えば、過去に戻りたい、とかね」
「…」
男が言っている言葉の意味はよく分からなかった。雰囲気も怪しげだし、そろそろ引き返した方がいいかもしれない。
「実を言うとね、この場所は危険だから封じにきたんだよ。ほんとなら、もっと早くに終わってたんだけど、君たちの様子を見てたら、長引いちゃってね。でも、タイミングが良かったね。まだ終わってなくて良かったよ」
俺たちを見ていた?何なんだこのおっさんは。
「なんの話をしてるんです?」
「この町で、こんな噂話聞いたことないかい?病院裏の廃ビルから飛び降りたら過去に戻れる、ってね」
そういえば、以前クラスの女子がそんなことを話していた。
「それが何なんです?ただの噂でしょ」
「火のない所に煙は立たぬってね。昔からよく言うじゃないか。本来ならこういうのはすぐに塞がないといけないんだけどね。今回はサービスだ。君たちには道を教えてもらった恩があるしね。僕はこう見えてけっこう義理堅いんだよ」
「話が見えませんね。あなた何者なんです?」
「分からないかい?僕はいわゆるサンタさんさ。メリークリスマス。少年」
なんだ危ないやつか。
「こんなサンタがいてたまるかよ。もう、帰っていいですか?」
「最近のトレンドだろ?ハット帽は。今時サンタ帽なんて被らないよ。いいのかい?お嬢ちゃんともう一度会いたいんだろ?」
戻りかけた足を止める。
「僕の言っていることを信じてもらうために、少し僕の話をしようか」
男は無精ひげをさすりながら、片足をもう片方の足に上にのっけた。
「僕はね、サンタが来ない子供の家にプレゼントを届けるのが仕事なんだ。今年も子供たちの笑顔を見れて良かったよ。だからね、茜ちゃんのことも知ってるよ」
なぜこいつが茜の名前を知っている。俺の目つきが鋭くなると、男はニヤッと笑った。
「あの子は六歳までひどい両親の下にいたからね。クリスマスプレゼントを貰えなかった。だから僕が代わりにあげてたんだ。毎年枕元においてあるクリスマスプレゼントにあの子は喜んでた。その反面、彼女の両親はなぜか毎年どこからか湧いて出てくるプレゼントを不快に思って、捨てたり、壊したりするんだけどね、不思議なことに次の日にはまた全く同じプレゼントが新品の状態で置いてある。気味悪く思った彼女の両親も、放っておくようになったんだよ。だから彼女はこんなに大きくなっても、僕たちのことを信じてくれていたのさ。
どうだい?少しは信じる気になっただろ?」
なぜこいつは茜が虐待されていたことまで知っている。それに、そんな親の元で育った茜がサンタクロースを信じていたのは確かに違和感がある。
だが、だからと言ってこんな噂話を信じるのか?
「他にも君のことも知ってるよ、青井翼くん。まだ、信じられないのなら君のことを離してもいいよ。君の後悔してること、君の心の傷について」
心臓がドクンと跳ねあがる。まさか。
「いや。流石にこれはやめておくか。ごめんね、僕としたことが少し意地悪だったかもしれない。まあ、何にせよ、君に任せるよ。このまま帰って今の日常を受け入れるも良し。それとも、勇気を出して、一歩踏み出すも良し。それにしても、君も罪な男だなー。女の子三人に心配かけて」
このまま帰って、また、茜のいない日常に戻る?
それとも、勇気を出して一歩踏み出して、もう一度茜に会いに行く?
会いたい。茜に。もう一度会える可能性が少しでもあるのなら。やり直せるのなら。少し前に自分で言ってたじゃないか。百憶分の一の可能性でも会えるのなら、それも悪くないって。
「彼女はあまりに不憫すぎる。大きすぎるものを背負わされている。僕としても君に支えてあげて欲しいんだよね。ちなみに、安心して飛びなよ。僕がいる限り成功率は120%だ」
俺の鼓動が早くなり始める。いいのか?こんな得体の知れないやつの言うことを信じるのか?嘘だったら死ぬんだぞ?
俺の中の冷静な部分が葛藤し始める。
もし、逆の立場なら茜はどうしただろうか。
そんなの決まり切っている。
あいつなら、迷わず飛んだだろう。茜がブランコから飛び降りた光景を思い出す。あの時の茜は、まるで、本当に飛んでいるかのようだった。
俺は覚悟を決めた。
ごめん。母さん、澪。俺は茜を選ぶよ。
額から汗が流れ落ちる。呼吸も荒い。
大丈夫。俺の名前は青井翼だ。俺には翼があるじゃないか。
右足を前に出して、構える。
「いつ跳んでもいいよ。準備はできてる」
怖い。足ががくがくしてきた。全身が震え出す。
その時、二つの手らしきものが、俺の背中に触れた気がした。なぜだろう。すごく落ち着く。気づけば震えは止まっていた。
そして、その誰かが俺の背中を押してくれた気がした。
頭の中に、あいつのよく聞いていたあの音楽が鳴り響く。
ガーガガガガーッ♪ガーガガーガーッ♪ガーガガガガーッ♪ガーガガーガーッ♪
俺は前に向かって走り出す。
「ああああああああああああああっ!」
柵が壊れている所から、叫びながらそのまま空に向かって跳んだ。
俺の翼ならどこへだって飛べるはずだ。過去にだって。
俺は宙に浮いていた。
ように思った。しかし、次の瞬間、地面に向かって落下する。灰色のコンクリートが近づいてくる。
ああ騙された。俺は飛べなかった。
そのまま地面に衝突した、と思った瞬間。
地面をすり抜けた。
真っ黒な海に沈んでいく。なんだここは。息ができない。意識が途切れ――
カーテンを閉じ、電気を消し、真っ暗な部屋で、暗闇と同化した。
胸にぽっかりと空いた穴を塞ぐように、思い出を貪るように浸り、この歪んだ世界から逃げ続けた。
腹が空いたら出前を頼み、眠たくなったら貪るように眠った。
もうどれくらい時間が過ぎたのか分からない。時間感覚なんてとっくになくしていた。
ある時気づいた。俺の方から会いに行けばいいんじゃないかと。三人に会いたい。澪に。母さんに。そして、茜に。
俺はふらつく足でベランダに向かう。カーテンを開けると、窓をスライドさせ、外に出る。そのまま柵の上に立った。
下を見下ろすと、地面との距離に足が竦む。急に鼓動が早くなり始める。
どうした。飛べ。みんなに会えるぞ。
「ピンポーン」
その時、チャイムが鳴った。
無視して続けようと思ったが、チャイムがしつこく鳴る。
「ピンポーン。ピンポーン」
俺は柵から降りると、玄関に向かった。
ドアを開けると、そこには大志がいた。
「よう、翼。二週間も学校さぼりやがって。冬休みも合わせると一か月近いぞ。ちょっと見ない間にやつれたなー。その調子だと、ずっと閉じこもってるな」
大志は、いつも通り、朗らかに言った。
「どうだ。ちょっと付き合えよ。久しぶりに、ラーメンと銭湯行かねえか?」
「…いや、俺は」
「まあまあ、そう言わずによ。その調子だと風呂もしばらく入ってねえだろ。それにお前知らねえのか?ラーメン食わねえと早死にするんだぞ」
大志は白い歯を覗かせながら笑う。
こいつの頼みは断れない。続きはあとでいいか。そう思った俺は付き合うことにした。
俺たちは家からすぐ近くの銭湯に向かった。
「それにしてもお前、一か月近くも風呂入ってなんてばっちいなあ。カビ生えてんじゃないのか?ちゃんと洗えよ」
「うっせえな。分かってるよ」
俺は、お湯でべたついた髪の毛を洗い流し、シャンプーで綺麗に汚れを洗い落としていく。 続いて、全身をお湯で流すと、石鹸で軽く擦り体を洗う。
「体洗ったか?ほんじゃ入りますか」
俺たちは温泉に浸かると、冷えた体を温めた。
お湯加減はちょうどいいくらいで、全身が心地よかった。冷え切った心が温められ、心なしか、暗く塞がった気持ちも少しだけ軽くなった気がした。
「ふー。最高だなー。やっぱ冬の銭湯はたまらんぜ」
「ああ」
「それにしても、お前と銭湯来るのは久しぶりだなー。お前星野さんとつるんでばっかで、俺とあんまり遊んでくれなかってもんなー」
大志が意地悪そうな顔を浮かべる。
「悪かったな」
「…」
「なあ、翼」
「ちょうど、星野さんが入院したくらいか。お前がまた、前の暗い頃に戻ったこと、気づいてた」
急に真剣な表情になり、ポツリと言った。
「……流石だな」
「だけどな、俺はその時、安心したんだ」
「え?」
「また、暗くなったと思った。前のお前に戻ったように見えた。でも、違った。お前はもう前のお前とは違ってたんだ。明るくなってた。感情豊かで、よく笑うし、よく怒るし、どこか生き生きしてた」
大志がよく意味の分からないことを言う。
「お前、前まで死のうとしてただろ?」
「…やっぱり気づいてたか」
「当たり前だ。何年お前の側にいると思ってる。当然気づいてた。だけど、また、暗くなった頃のお前は違ったんだよ。もうお前は死に憑りつかれていないように見えた」
そんなことは…。
「なんでか分かるか?星野さんがいたからだ」
「……」
「彼女がお前を振り回してくれたから、お前を外に連れ出してくれたから、お前を変えてくれたから。お前はもう、昔とは違うんだよ。だから俺はもうお前を心配していない。彼女がいなくなった今だって、お前はもう死なないさ」
何を言っているんだ。さっきだって俺は死のうとしていた。
「そんなことはない。お前の勘違いだ」
「いや、そうさ。お前が自覚していないだけだ。俺には分かるよ」
「…」
俺たちは、しばらく温泉に浸かると、ほどなくして上がった。
「よーし、ちょうど腹も減って来たし、ラーメン行くか!暖かいスープで体ぽかぽかにしようぜ!」
「そうだな」
俺たちは行きつけのラーメン屋さんに入ると、カウンター席に着く。店内は暖房が効いていて温かかった
「おっちゃん!俺醤油ラーメンね!野菜マシマシで!」
「あいよ!」
「俺は塩ラーメンで」
「あいよ!」
十分ほどでラーメンが運ばれてきた。
「へいお待ち!」
「うっひょー!うまそー!」
「いただきます!」 「いただきます」
俺はまずスープから飲む。塩味の効いたあっさりとした暖かいスープが体に染み渡る。体が火照ってきた。続いて麵を啜る。何度も食べたことのある味なのに、久々に食べるラーメンは、なぜかいつもより無性に美味しく感じた。
一息ついてから、大志が話しかけてきた。
「なあ、翼。お前、一人になんてなれると思うなよ」
「へ?」
俺の目を真っ直ぐ見つめてくる。
「お前が落ち込むようなことがあった時は、俺がこうしてラーメンに連れてきてやる。悲しくて仕方ない時は、俺が慰めてやる。むかついて仕方ない時は、俺が愚痴を聞いてやる。お前は誰かに頼るのが下手くそだからな。俺はいつだってお前のことを見てる。もう誰もいないなんて思うなよ。俺がお前の側にずっといてやる」
「…」
「なんでそこまでしてくれるんだ?」
「友達だからに決まってんだろ」
そう言うと大志は、白い歯を覗かせて笑って見せた。
「それとな、実は星野さんから預かってたものがある。もしも自分が死んだときはお前に渡してくれって、預かってた」
そう言って大志が取り出したものは、USBメモリだった。
家に帰ると、早速、USBメモリをパソコンに挿し込んでみた。
そこには、「翼くんへ」と書かれた動画ファイルが一つだけあった。
俺は恐る恐るファイルをクリックした。
動画が再生される。
そこには、病院服を着た、まだ元気な頃の茜が映っていた。
「元気が出る超能力!ビビビビビビビビビビッ!」
「どう?元気出たかな翼くん。私が死んじゃって、まーたしみったれた顔した翼くんに戻っちゃってるかもしれないからね。それとも、案外すぐ立ち直ってたりするのかな?だったらすごくショックなんだけど。でもこれちょっと恥ずかしいね。だれもいないのに一人でしゃべっててバカみたい」
相変わらず、マイペースで、能天気なしゃべり方をする、どこか間の抜けた茜の姿があった。俺は思わず涙が出そうになる。
「あ!あと先に言っておくけど、これは生きるのをを諦めたから残したんじゃないからね?私は死なないし、諦めてるみたいで何か嫌だって言ったんだけど、春香さんがやれってうるさいから。そうしないと点滴の時痛くするわよって!私が注射嫌いなの知っててわざと言ってくるんだよ!まったくとんでもない人だよ。っていうわけで、これは君に届くことはないだろうから、そのつもりで聞いてね。あれ?でも、そしたら君に届く前提でしゃべってるのはおかしいのかな。んん?なんだかこんがらがってきたぞ」
春香さんというのは、恐らく茜が死んだ日にエントランスのドアの中にいたあの看護師のことだろう。
それにしても、まるで茜が生き返ったみたいで、懐かしい感覚になる。俺は思わず笑ってしまいそうになる。
「とにかく、所謂遺言ってやつだね。これやったら気が滅入っちゃいそうで嫌なんだよなー。まあいいか。じゃあ、翼くん。悔いのないように、伝えたい事伝えるね」
茜はベッドの上で姿勢を正した。
「まず、元気ですか?君はいじけんぼだから心配だな。私がいなくなって、また、閉じこもってませんか?ちゃんと外出てる?ちゃんと眠れてる?ちゃんとご飯は食べてますか?」
お前は俺の母親かよ。
「今、お前は俺の母親かよって思ったでしょ?」
茜はいたずらが成功した子供のように笑う。
図星だった。俺は思わず苦笑する。
「今の君もそうだけど、未来の君はもっと心配だな。本当に君は私に心配ばかりかけるよ。ねえ、知ってた?私実は、君のこと、小学一年生の頃から知ってるんだよ?
私が小学一年生の時、初めて行った公園で、同い年くらいの男の子が、いじめられているのを見かけたの。男の子三人に囲まれて、砂かけて意地悪されてた。その子は泣いていたのに、私は怖くて動けなかった。そんな時、ヒーローが現れたの」
「愛と平和の戦士、ブルーペガサス参上!」
「そう言って堂々と決めポーズをすると、その男の子は、いじめっ子たちにたった一人で立ち向かって、殴られながらも、三人相手に、何回も何回も立ち上がって、立ち向かっていったの。そして、ついにはいじめっ子たちをやっつけて、ぼろぼろになりながらもその後ろ姿は私が今まで見たどんなものよりも綺麗で、輝いて見えた。私はその日生まれて初めて本物のヒーローを見たの。あんまりテレビなんか見なくて、ヒーローなんて知らなかった私は、お家に帰ってすぐに戦隊モノのテレビを見て、確信したの。私はヒーローのレッドになって、あの男の子とペアを組むんだって
その日から私は、君のファンになった。たまに君の姿を見かけると堪らなく嬉しくて、一人で喜んでた。君に少しでも追いつきたくて、空手を始めた。ずっと君を追いかけてた。私の憧れだった。私のヒーローだった。中学に上がって、周囲はバカにしてきたけど、私は構わなかった。中三の時には、君の通ってた塾に侵入して、君の志望校を必死に探ってたんだよ。そして、必死に勉強して、入学した高校では、初めて君と同じ学校に通えることが嬉しくて、一晩中寝れなくて、初日から寝坊したのはいい思い出。
でも、大きくなった君は、すごく変わってた。目は腐ってて、目つきは悪くて、顔色も悪くて、今にも死んじゃいそうだった。
君を見ててすぐに気づいた。君は、他の人と違っていた。君だけは、いつも、ここじゃないどこかを見てた。儚げで、悲しそう。なんだか、涙を流さないで泣いているように見えた。
そして、その瞳の奥には、昔の君がいた。君の熱を、何かが塞いでいるのが分かった。そしてそれに君が、惹かれていることも。ずっと君に話しかけたかった。でも勇気が出なくて、全然話しかけられなかった。
でも、ある時。六月頃。君が教室から窓の外を眺めている時、君が今にも空に吸い込まれそうに見えた。すごく危うげで、見てられなかった。気づいたら私は君に声を掛けてた。
その時決めたの。私が君の心を塞いでいるものを吹き飛ばしてやろうって。君を連れて行かせはしないって。だから、こう見えて私は結構必死だったんだよ。大山君にも君が今にも死にそうだから、私が何とかするから、翼くんの弱みを教えてって頼み込んだんだよ。大山君もやっぱり気づいてたみたいで、驚いてた。
そしてね。公園で遊んだ時、君がまた、あの決めポーズをやってくれた時。私は本当に嬉しかったんだ。私の夢が叶った瞬間だから。君と並んで、ヒーローになれた。夢みたいだった。私はこの瞬間のために生まれてきたんだって、そう思った。その後すぐにまた君は、元気がなくなっちゃったんだけど、私はこの時、確信したんだよ。君はもう大丈夫だって。君の目を見てすぐに分かった。あの時の翼くんの目をしてた。君に何があったのかは知らないけど、君はもうあの瞬間を忘れられないよ。君の中の青い炎が、君の黒い炎を焼き尽くしてくれる。だからもう君は大丈夫!もし仮にこっちに来るなんてことがあったら、ぶっ飛ばすからね!君はおじいちゃんになってよぼよぼになってから、ゆっくり来るように!といっても、私は死んでも幽霊になって君のこと見張ってるから大丈夫だけどね。君がまた、うじうじし出したら、かつ入れてやるからね。あっ!あとエロ本読んだら祟るからね!タンスの角に小指ぶつける呪いかけてやる!
でも、念のため、君に別の呪いもかけておくね。もし私が死んじゃったら、君にね、私の意志を継いでほしいの。私の代わりに、ヒーローになってほしいの。たくさんの人を救って、悪いやつらをやっつけて、この世界を少しでも良くしてほしいの。私の最後のお願いっていえば、聞かざるを得ないよね?これで君は死ねない呪いにかかっちゃたからね!にっしっし!頼んだよ。翼くん」
「それとね、翼くん…」
茜は急に顔を赤らめ、もじもじし出した。
「君はね、最初は私の憧れだったの。でも、君を見てると、君と話してると、変わらない君に、変わった君に、どんどん惹かれていって。いつの間にか私は君のことが…」
俯いた顔を上げて、凛とした目でこちらを見据えてきた。
「いつの間にか君のことが好きになっていました。君は私の憧れで、パートナーで、しょうがないやつで、わたしの心をこんなにもかき乱してくれる、大好きで、世界で一番特別な人です
君が私のことをどう思ってくれているのかは、まだ、分からないけど、私の人生はまだ終わっていないから、覚悟しててね!いつか絶対私のパートナーにしてみせるからね!」
「茜入るぞ」
ノックの音ともに俺の声が聞こえた。
「やば!翼くん来ちゃったよ!じゃ、じゃあね!未来の翼くん!」
そう言うと、画面が急に暗くなった。
しかし、動画の停止ボタンを押し忘れたようで、動画はまだ続いていた。
「ん?今お前何隠した?」
「へ⁉べ、べ、別に何も隠してないよ⁉」
「嘘つけ。今枕の下に何か隠しただろ。なんか顔も赤いな。ははーん。さては…」
「ち、ち、ち、違うよ!別に私はそんなことして――」
「さては、エロ本読んでただろ?」
「はい?」
「ああ、いいぞ言わなくても分かってるからな。なるほどなるほど。まあ、お前もお年頃だからな。分かるぞ?如何わしい本の一つや二つ読みたくもなるよなー」
「んなっ!違うから!何さそのしてやったりみたいな顔は!君と一緒にしないでくれるかな⁉」
「はいはい。分かった分かった。それにしてもいつも人にむっつりむっつり言うくせに、自分も隠れてこっそりエロ本を読んでいるとは、お前のことをこれからムッツリ茜と売れない芸人のように呼んでやろう」
「ムカーッ!こんなにむかついたのはいつぶりかな⁉なんなのかなその得意顔は!言っておくけど私は無実だからねっ」
「じゃあ、枕の下見せてみろよ」
「ぐっ。それは…」
「ほら見ろ。次からは差し入れは食べ物じゃなくてエロ本にしてやろうか?」
「キーっ!悔しい!言い返せないのがものすごく腹立たしいよっ!」
「そもそも君は――」
そこで動画は終わっていた。
俺は、驚きと、喜びと、悲しみと、愛しさと、後悔とで、頭がどうにかなりそうだった。
茜が俺のことをそんなに前から知っていたことも、俺のことをこんなにも見抜いていたことも、こんなに俺のことを思ってくれていたことも、死んでもなお、俺のことを救おうとしてくれていることも、すべてが嬉しくて、そして、同じくらい切なかった。
「〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ!」
涙が溢れて止まらなかった。
すべてが手遅れだった。
茜への思いが溢れて、全身が叫んでいた。
長いこと、泣き叫び続け、涙が枯れる頃、思い出した。
大志は正しかった。
俺はあの時、死ねなかった。少し前までの俺なら迷わず飛んでいただろう。
だけど、今の俺は、もう、昔の俺とは違ってしまっていた。
茜が俺を変えてくれた。
彼女は、俺に生きることの楽しさを思い出させてくれた。。
そして、俺に忘れていた気持ちを思い出させてくれた。
茜が言ったからだけじゃない。俺は、もう、無視できないほど、昔の気持ちを思い出していた。
あんなにも、必死に、生きることを諦めずに、望み続けた茜を見て、俺はもう、命を蔑ろにすることなんてできなくなっていた。
茜が守りたかった世界を、俺は生きたいという気持ちを否定できなかった。
そして、茜がかけた呪いが、俺をこの世界に縛り付ける。
結局最後まであいつには敵わなかった。
正義の味方もどきでも何でも構わない。善行を積んで、誰かを救い続けて、いつか許されるその日が来るまで、俺は誰かのために生き続けたいとそう思っていた。
いい加減いつまでも立ち止まっている場合ではない。俺もそろそろ前に進まなくてはいけない。過去を抱えて、苦しみながらも前に進もうと藻掻かなければいけない。
自分を許さずにいるのは楽だから、いつまでもそこで立ち止まっていた。でもそれじゃだめだ。自分を許せるよう、許されるよう、努力し続けるんだ。
それに、いつまでもうじうじしてたら、茜にぶん殴られてしまう。きっと心配していつまでも成仏できないだろう。
やらなければいけないことができた。いつまでも閉じこもっている場合じゃない。
俺は、カバンの中から、クシャクシャになった進路調査票を取り出すと、第一志望から第三志望まで、「正義の味方」と殴り書いた。
もう、迷わなかった。
茜が死んで二か月が過ぎようとしていた。
俺はあれから、また学校に通うようになっていた。
朝起きてから学校に行くと、退屈な授業を受け、放課後になると一人パトロールをする。
困っている人がいると手伝った。町の掲示板にチラシを張って、困りごとを募集した。その中で思い当たる。これを茜も一人でやっていたことに。あいつはどんな気持ちで学校に通い、授業を受け、放課後を一人過ごしていたのだろうか。今となってはもう知りようもない。
ある日、学校が終わり、家に帰ろうと玄関で靴を履いていた時、おばあさんに話しかけられた。
「あなたが青井くんね?」
「はい、そうですが」
誰だったか。
少し悩んで思い当たる。茜の病室で何度か見たことがある。茜のおばあちゃんだろうか。
「お話をするのは、初めましてね。茜の祖母です」
「茜の友達の、青井翼といいます」
「知ってるわ」
茜のおばあちゃんは、ゆったりと優しそうにしゃべる。
「あなたのことは、茜から毎日のように聞いてたの。あの子、あなたのことを本当に楽しそうに話すの」
「今日は、あなたに茜の話をしたくて、訪ねてきたの。あの子はあなたのことが大好きだったから、あなたにあの子のことを知っておいて欲しいと思って。本当は話そうかどうかすごく迷ったのだけれど、あなたはあの子のことを知る権利があると思って話すことにしたわ」
茜のこと?なんだ?
「あの子はね、小学校に上がる前まで血の繋がった両親に虐待されていたの」
俺は突然の告白に衝撃を隠せなかった。茜が虐待されていた?
「ひどいものだったそうよ。私は病気でずっと入院していて、あの子のことを知らなかった。私のバカ息子に子供がいたことさえ知らなかった。あの子は泣くことを許されなかった。泣くたびに殴られて、罵られ、愛情を受けずに育ってきたの。
あの子が六歳になった頃、あの子の両親は二人そろってあの子を残して消えたの。あの子は捨てられたのよ。その時初めて私はあの子の存在を知った。私が初めて会った時のあの子は酷かったわ。着ているものはボロボロで、髪の毛もボサボサ、人形みたいに表情がなかった。言葉も話せなくて、いくら話しかけてもうんともすんとも言わなかったわ。ただ、殴られないようにこちらの機嫌を伺うだけ。見ていて心が裂けそうだった。そして、私はあの子を育てることに決めたわ。最初はずっと無表情だったあの子も、私が長い時間をかけて愛情を注ぎ続けた結果、感情が豊かになって、明るい女の子に育ったわ。小学校に上がる頃には、よく笑って、表情豊かな普通の女の子になった。
ただ、一つだけ、治らなかったところがあったの。
あの子は、どんなに悲しくても、苦しくても、辛くても泣かないの。
ただ、困ったように笑うだけ。
もともと元気で明るい性格なんだけど、あの子はそれが許されない環境で育ったせいで、強くなりすぎてしまったの。いいえ。強さだけじゃないわ。あの子はちゃんとどこかで苦しんでる。私には分かるわ。ただそれをうまく吐き出せないだけ。
学校も楽しくないようで、私が学校どう?って聞くと、楽しいよってしか言わなかったんだけど、あの子の顔を見ればすぐに分かった。
でも、ある時から急に毎日楽しそうになって、あなたの話をよくするようになったの。
今日は青井くんがどうだったとか、翼くんと何をしたとか、本当に楽しそうで。茜は酷い両親のせいで、テレビもろくに見せてもらえなくて、ヒーローの存在も知らなかったの。でも、私に引き取られてすぐに、一人で遊びに行った公園で、あなたを見たらしくて、走って家に帰って来たと思ったら、ヒーローって何?って無表情だったあの子が、目を輝かせて言うのよ。それでテレビで見せたら、「茜ヒーローになる」って言いだして、それ以来どんどん明るくなっていったわ。本当にあなたのおかげなのよ。病気のことも、気にしてないように見えて、あの子は…」
「…それ以上は、言わなくても、分かります」
俺は愚かだった。星野茜は強い女の子だと思い込んでいた。
決して諦めない、普通の人とは根本から違う、不屈の心を持った、特別な人間だと思っていた。
違った。あいつも一人の人間だった。当たり前だ。あいつもずっと苦しんでいたんだ。
学校でも、独りぼっちで、毎日戦ってたんだ。自分の信念を貫き通すために、変な目で見られるのも、周囲から浮くのも、本当は気にしていたんだ。
そして、病気だってそうだ。
あいつはただの一度だって、弱音を吐かなかった。泣かなかった。当たり散らさなかった。諦めなかった。
でも、心のどこかで、たった一人で苦しんでいた。それをさらけ出す術を知らなくて、誰も見ていなくても、悲しむことも苦しむことも許されなかった。本当は、心のどこかで泣いていたんじゃないのか?あいつはああ見えて、実は繊細だったじゃないか。なぜそんなことにも気づけなかったんだ。
いつからか、よく、あいつの困ったような笑い顔を見るようになった。あれはあいつのSOSだったんじゃないのか。
あいつはよく、あいつの好きだったあの曲を聴いていた。学校でも、病院でも。
あの曲を聴くと勇気がもらえるって言っていた。戦っていたからなんじゃないのか。一人誰にも頼れずに、苦しんでいたんじゃないのか。
俺は、あいつのために、もっと何かしてやれることがあったんじゃないのか?
気づけば俺は走り出していた。
「くそおおおおおおおおおおおお!」
何が正義の味方だ。大切な人のことさえ何も知らず、救えなかった。
抑え込んでいた色んな感情が溢れ出てくる。
この一か月近く、この町を回って、強く感じた。
この町は、俺の心は、茜との思い出で溢れすぎている。どこに行っても、茜との記憶が蘇えった。放課後二人で歩いて回った記憶が、いつも俺の頭に付いて回った。
最初は話題で持ちきりだった茜の話を、もう誰もしなくなった。あんなにも茜はこの世界のためにあろうと生きたのに、この世界は、茜がいなくても、何一つ変わることなく回っている。
誰かがもう、茜のことを忘れてしまったかもしれない。
いつか、誰かが茜のことを完全に忘れてしまうかもしれない。
いつかは俺も、彼女の声を、笑顔を、匂いを、温度を忘れてしまうのかもしれない。
このまま大人になって、この気持ちも思い出に変わるのかもしれない。
茜を失ったことを、大人になったなんて言葉で済ませて乗り越えたくない。
もう一度会いたい。また、バカみたいに言い合いたい。
やり直したい。
彼女の側で、支えてあげたい。
茜っ!
茜への思いが泉のように溢れだしてきて止まらなかった。
気づけば、茜が入院していた学校近くの病院裏の廃ビルまでやってきていた。
俺は何となく、階段を上ってみる。
しばらく階段を上ると屋上に出た。
案の定、誰もいないようで、景色を見ようと柵に近づくと、どこからか声が聞こえてきた。
「柵に近づかない方がいいよ。老化してるからね」
声の主を探して、上を見ると、屋上のタンクの上に人が座っていた。
「久しぶりだね。少年」
よく見ると、以前迷子になっていた黒いハット帽の男だった。
「こんなところでなにしてるんです?」
「それはこっちのセリフだよ。僕は仕事をしに来たんだけど、君は一体何のためにこんな誰もいないはずの廃ビルに入って来たんだい?」
仕事?こんな所で?
「まあ、聞かなくても分かるか。本来ここはもう来れないはずだからね。普通の人には見えないはずだから。君は強く願ったんじゃないかい?例えば、過去に戻りたい、とかね」
「…」
男が言っている言葉の意味はよく分からなかった。雰囲気も怪しげだし、そろそろ引き返した方がいいかもしれない。
「実を言うとね、この場所は危険だから封じにきたんだよ。ほんとなら、もっと早くに終わってたんだけど、君たちの様子を見てたら、長引いちゃってね。でも、タイミングが良かったね。まだ終わってなくて良かったよ」
俺たちを見ていた?何なんだこのおっさんは。
「なんの話をしてるんです?」
「この町で、こんな噂話聞いたことないかい?病院裏の廃ビルから飛び降りたら過去に戻れる、ってね」
そういえば、以前クラスの女子がそんなことを話していた。
「それが何なんです?ただの噂でしょ」
「火のない所に煙は立たぬってね。昔からよく言うじゃないか。本来ならこういうのはすぐに塞がないといけないんだけどね。今回はサービスだ。君たちには道を教えてもらった恩があるしね。僕はこう見えてけっこう義理堅いんだよ」
「話が見えませんね。あなた何者なんです?」
「分からないかい?僕はいわゆるサンタさんさ。メリークリスマス。少年」
なんだ危ないやつか。
「こんなサンタがいてたまるかよ。もう、帰っていいですか?」
「最近のトレンドだろ?ハット帽は。今時サンタ帽なんて被らないよ。いいのかい?お嬢ちゃんともう一度会いたいんだろ?」
戻りかけた足を止める。
「僕の言っていることを信じてもらうために、少し僕の話をしようか」
男は無精ひげをさすりながら、片足をもう片方の足に上にのっけた。
「僕はね、サンタが来ない子供の家にプレゼントを届けるのが仕事なんだ。今年も子供たちの笑顔を見れて良かったよ。だからね、茜ちゃんのことも知ってるよ」
なぜこいつが茜の名前を知っている。俺の目つきが鋭くなると、男はニヤッと笑った。
「あの子は六歳までひどい両親の下にいたからね。クリスマスプレゼントを貰えなかった。だから僕が代わりにあげてたんだ。毎年枕元においてあるクリスマスプレゼントにあの子は喜んでた。その反面、彼女の両親はなぜか毎年どこからか湧いて出てくるプレゼントを不快に思って、捨てたり、壊したりするんだけどね、不思議なことに次の日にはまた全く同じプレゼントが新品の状態で置いてある。気味悪く思った彼女の両親も、放っておくようになったんだよ。だから彼女はこんなに大きくなっても、僕たちのことを信じてくれていたのさ。
どうだい?少しは信じる気になっただろ?」
なぜこいつは茜が虐待されていたことまで知っている。それに、そんな親の元で育った茜がサンタクロースを信じていたのは確かに違和感がある。
だが、だからと言ってこんな噂話を信じるのか?
「他にも君のことも知ってるよ、青井翼くん。まだ、信じられないのなら君のことを離してもいいよ。君の後悔してること、君の心の傷について」
心臓がドクンと跳ねあがる。まさか。
「いや。流石にこれはやめておくか。ごめんね、僕としたことが少し意地悪だったかもしれない。まあ、何にせよ、君に任せるよ。このまま帰って今の日常を受け入れるも良し。それとも、勇気を出して、一歩踏み出すも良し。それにしても、君も罪な男だなー。女の子三人に心配かけて」
このまま帰って、また、茜のいない日常に戻る?
それとも、勇気を出して一歩踏み出して、もう一度茜に会いに行く?
会いたい。茜に。もう一度会える可能性が少しでもあるのなら。やり直せるのなら。少し前に自分で言ってたじゃないか。百憶分の一の可能性でも会えるのなら、それも悪くないって。
「彼女はあまりに不憫すぎる。大きすぎるものを背負わされている。僕としても君に支えてあげて欲しいんだよね。ちなみに、安心して飛びなよ。僕がいる限り成功率は120%だ」
俺の鼓動が早くなり始める。いいのか?こんな得体の知れないやつの言うことを信じるのか?嘘だったら死ぬんだぞ?
俺の中の冷静な部分が葛藤し始める。
もし、逆の立場なら茜はどうしただろうか。
そんなの決まり切っている。
あいつなら、迷わず飛んだだろう。茜がブランコから飛び降りた光景を思い出す。あの時の茜は、まるで、本当に飛んでいるかのようだった。
俺は覚悟を決めた。
ごめん。母さん、澪。俺は茜を選ぶよ。
額から汗が流れ落ちる。呼吸も荒い。
大丈夫。俺の名前は青井翼だ。俺には翼があるじゃないか。
右足を前に出して、構える。
「いつ跳んでもいいよ。準備はできてる」
怖い。足ががくがくしてきた。全身が震え出す。
その時、二つの手らしきものが、俺の背中に触れた気がした。なぜだろう。すごく落ち着く。気づけば震えは止まっていた。
そして、その誰かが俺の背中を押してくれた気がした。
頭の中に、あいつのよく聞いていたあの音楽が鳴り響く。
ガーガガガガーッ♪ガーガガーガーッ♪ガーガガガガーッ♪ガーガガーガーッ♪
俺は前に向かって走り出す。
「ああああああああああああああっ!」
柵が壊れている所から、叫びながらそのまま空に向かって跳んだ。
俺の翼ならどこへだって飛べるはずだ。過去にだって。
俺は宙に浮いていた。
ように思った。しかし、次の瞬間、地面に向かって落下する。灰色のコンクリートが近づいてくる。
ああ騙された。俺は飛べなかった。
そのまま地面に衝突した、と思った瞬間。
地面をすり抜けた。
真っ黒な海に沈んでいく。なんだここは。息ができない。意識が途切れ――