俺が星野を避けるようになってから、一週間が経っていた。
 あの日以来、再び見るようになったいつもの夢を見る。
澪と母さんの亡霊が現れる。
「お兄ちゃん、澪とお母さんのこと忘れないでよ。お兄ちゃんはずっと苦しんで、引きずって生きていくんだよ」
「そうよ翼。自分一人だけが助かろうなんて考えないで。ちゃんと背負わなくちゃ」
 いつもの映像を見せつけられる。澪が跳ね飛ばされたところで目が覚めた。
 真っ暗な深夜。暗闇が真っ白だった天井を黒く染め上げている。最近は温かみを感じていた天井が、また、ひどく無機質に見えた。
 汗でべたつくシャツを着替えに立ち上がる。乾いた喉を潤すために、水道の蛇口を捻り、水を出す。ジャーという音が、冷たく部屋に染み込んでいく。
 窓の外から聞こえてくる虫の音は無味乾燥に聞こえた。
 この後眠れないことは分かり切っているので、俺は気まぐれで外に出ることにした。
 薄手のパーカーを羽織るとスニーカーを履き、財布をポケットに入れると、ドアを開けた。夜の街は、日中とは世界が違って見えた。真っ暗な世界に、冷たい風が吹く。ほんのりと灯る街灯の光が、俺の足元に影を落とす。
 光に慣れすぎた心に、暗闇が馴染んでいく。
 夏の頃の、朝早い夜明け前を思い出す。あの頃は、毎日のように夜が明けるのと同時に家に帰っていた。あの時の暗闇は、心地良い涼しさと、清々しい夏の空気を伴っていた。一日が始まるその瞬間に立ち会えることに、軽い高揚感と達成感を覚えていた。
 通り過ぎていく思い出を噛みしめ、歩く。
 自動販売機からほんのり淡い光が出ている。夜の自動販売機は、どこか趣があって好きだ。寂しげで、静かに、昼とは違う顔を覗かせている。まるで誰かを待っているかのような気がする。俺は小銭を入れるとポカリスエットのボタンを押した。
 このまま夜明けまでぶらぶら歩いても構わないが、歩道されても面倒なので家に帰ることにした。

 朝。眠い目を擦りながら登校する。隣の席を見ると、茜はまだ来ていなかった。
 このまま、また、つまらない日常が続くんだと思っていた。
 茜は、その日から、一か月学校に来なかった。

 一か月も連絡しなかったのは、あいつがまたさぼっているだけなんじゃないのかと思ったことと、またあいつと関われば、二人を忘れてしまうことが怖かったからだ。メールによると、茜は入院していた。 

「いやー、肝炎になっちゃったみたいでね。三か月くらい入院しないといけないんだって。ごめんね。心配かけて」
「まったくだお前は。普通連絡の一本くらい寄越すだろ」
 俺は自分のことを棚に上げることにした。
「いやー、そうしようかと思ったんだけど、誰かさんはなぜだか知らないけど私のこと避けてたみたいだし?悪いかなと思って。実際一か月も連絡なかったしね」
茜は皮肉たっぷりに言ってきた。
「ぐっ。今回ばかりは俺が悪かった。すまん」
「まったくだよ。ちゃんとお土産の品は買ってきたんだよね。それ次第では許してあげてもいいよ」
 顔を背けていたが俺の謝罪に少しは機嫌が直ったのかもしれない。
「ああ。いちご大福買ってきた。好きだろ?」
「大好物!許すよ!というかもう許したよ!」
「そうか。これにして正解だったな」
 俺は苦笑しながらいちご大福を茜に渡した。
「ねえ翼くん。それで、何で私のこと避けてたの?」
「…お前といると、苦しみを忘れてしまいそうになる」
「いいんだよ。忘れても。翼くんの苦しみが何なのかは知らないけど、忘れたらいいじゃん」
「そういうわけにもいかない。これは俺が背負わないといけないものだから」
 こいつのこういうところに甘えてしまいそうになる。
「そっか…」
「良かったー!私翼くんに嫌われちゃったんじゃないかって心配で心配で!私のことが嫌いになったわけじゃないんだね?」
 突然大きな声で明るい声を出す。
「あ、ああ…」
「そっかー!もうまったくもうだよ君ってやつは!」
「でも残念だったね翼くん。私は君を相棒にするってもう決めちゃったから。君がいくら嫌がっても君を一人にしてあげないよ。君の苦しみなんて私が吹き飛ばしてあげるから」
 茜はそう言うと、いつも通りにっしっしと笑う。
 だからお前の側にいれないんだよ。それじゃダメなんだ。
「それに、怪我人は手厚く親切に扱うのが君のポリシーだったよね?こんな弱り切った病弱な女の子を、まさか放っておくわけないよね?」
 ぐっ。痛いところを付いてくる。俺は母親が看護師だったせいか、病人や怪我人は労わるように育てられてきた。病人には弱いのだ。
 茜は俺が苦し気な顔をしているのが嬉しいのかニヤニヤしている。
「分かったよ。お前が入院してる間はちゃんとお見舞いにも来よう。いつも通りだ」
「んー。まあ、今はそれでいいよ。流石翼くん。慈愛の心で溢れているね」
 それに比べて、人の良心に漬け込むこいつは、果たしてほんとにヒーローになりたいのだろうか。
「偉そうな奴め。病院から一歩でも出たら覚悟しておけ」
「いたたたた。翼くん、お腹痛くなってきたよ。ちょっと肩もんでくれるかな」
「なぜお腹が痛いのに肩を揉む必要がある。せいぜい背中をさすってやるくらいだ」
「背中はさすってくれるんだね。もう君は本当に良いやつだなー。じゃあ入院してる間は珍しく素直な翼くんの優しさに甘えようかな」
 などと言ってニヤニヤしている。
「あまり調子に乗ると差し入れがすべてバナナになることを覚悟しておけ」
「えー!それは困るよ!ほどほどにしとくからイチゴにしてよ!」
「お前は本当にイチゴが好きだな」
 俺は再び苦笑する。
「それにしても、肝炎とは。お前また何か、道に落ちているもの拾い食いしたんじゃないのか」
「君は私を何だと思っているのさ!私は道に落ちているものを食べたことは一度だってないよ!」
「ははは、冗談だ」
 やっぱりこいつと一緒にいるのは楽しい。心が満たされていく。だが、この時間も長くは続かない。いずれ終わりが来る。その時は俺は、茜と距離を置かなければいけない。
どうか、この時間がいつまでも続きますように。
俺はとても独りよがりで不謹慎なことを願った。

 翌日、日直だったので教室のカギを返しに行った際、担任に話しかけられた。
「青井、星野のお見舞い行ってくれてるらしいな。星野と仲良くしてくれてありがとな」
「いえ別に」
「それで、調子はどうだとか聞いてるか?」
 先生が心配そうな顔で聞いてくる。
「三か月入院らしいんで、あと二か月後に退院できるらしいですよ。見た感じそこまで悪そうにも見えませんが」
「お前!聞いてないのか⁉星野から!」
 急に血相を変え、大きな声を出す。
「何がですか?」
「あいつは癌末期患者だ!今年の四月頃見つかって、余命はあと僅かなんだよ!」
 言っている意味が分からなかった。
非現実的な出来事が起きた時の、世界が歪むような感覚はこれが三度目だった。一度目は澪が跳ねられた時。二度目は母さんが自殺したとき。そして三度目が今だ。
 茜がガン末期患者?余命僅か?一体何を言っているんだ。だって、あいつは、ずっとヒーローになりたいって言ってて、あんなに、天真爛漫で、自由奔放で、あんなに生で満ちていて、この前だって、野球の試合をして、あんなに動き回って…。
 はっと思い当たる。
 そういえば、あの後、熱を出していた。
 パニック状態の頭の中で、冷静な部分が働き始める。
 あいつがよく学校をさぼっていたのは、病気だったからじゃないのか?それで、先生たちもあいつに甘かったんだとしたら?
 現実を受け入れたくない俺と、現実的な俺が葛藤している。
「青井!おい!大丈夫か」
 先生の声が遠く聞こえる。ごちゃごちゃな頭の中で、茜との日々が、もう二度と手の届かない過去のものへとなっていく。
 気づくと俺は走り出していた。
 廊下に俺の足音が空しく響き渡る。
 茜の入院している病院に着くと、ノックもせずに扉を開けた。
「わあ!ちょっとびっくりさせないでよ翼くん!私が着替え中だったらどうするのさ」
 茜はベッドの上で、イヤホンで音楽を聴いていたようだ。
 まるでさっきのことなんて嘘みたいに思えるくらい、いつもと何も変わらない。
「…先生から、お前が癌でもう長くないって聞いた」
 言葉にすると、ああ、本当にこれが現実なのかと、改めて実感させられる。
「…あーあ。聞いちゃったか。せっかく隠してたのに」
 茜はまるで、なんてことない秘密がバレたのかのように、そう言った。
「ごめんね、秘密にしてて」
 もしかしたら、嘘なのかもしれないって、心のどこかで期待していた。質の悪い冗談だって。拳を強く握りしめる。
「じゃあ、本当にお前は…」
「まあねー、実はあんまりよろしくないらしいんだよー。けっこう進行しちゃってるみたいでね」
 茜の緊張感のない物言いに、つい声を荒げてしまう。
「なら!なんでお前はヒーローになりたいなんて言えたんだ!なんでそんな何ともないみたいに振舞える!なんでそんなに明るくいられる!死ぬんだぞ!死んだらもう、二度と会えない」
最後は消え入るようにしか言葉が出てこなかった。
「だって私、死ぬ気なんてないもん」
 あっさりとそう言った。
「何を言って――」
「私はヒーローになってたくさんの人を救うっていう目標があるんだから、病気になんて負けてる場合じゃないの。知ってた翼くん?ヒーローは死なないんだよ?どれだけ、負けそうになっても、絶体絶命のピンチになっても、奇跡を起こして見せるの。そして何度でも立ち上がるんだよ。だから私も、君があの時奇跡を起こして見せたように、奇跡を起こして、何とかしてみせるよ。だから私は死なないの。病気ごときに負けないよ。にっしっし」
 そう言って星野は、いつもと何ら変わらず笑うのだった。
 こいつはどこまで真っ直ぐで強いのだろうか。本気で死ぬ気なんかなかったのか。だから、こんなに変わらずいられるというのか。どこまで前向きなのだ。苦しくないのか。悲しくないのか。死ぬのが怖くないのか。
本当に、乗り越えてしまいそうだ。こいつなら、本当に――。
 だが、現実の世界は、そんな風にうまくいかないことを、俺はよく知っている。この世界は、そんな風にできていない。
「それで、翼くん、差し入れは?」
 茜はにこにこしながら首を傾げた。
 茜はいつまでこのままでいられるのだろうか。
 俺は、茜がずっと茜のままでいられるよう、祈ることしかできなかった。
 
 季節は晩秋となり、十月も終わろうとしていた。
 俺は、大志と茜のお見舞いに向かっていた。
「まさか星野さんが癌だったとは。お前も知らされていなかったのか?」
「ああ。俺もつい先日聞いた。治すつもりだったから言わなかったそうだ」
「…末期なんだろ?」
 大志が恐る恐る口に出す。
「ヒーローは死なないから大丈夫だそうだ」
「なんだその根性論。星野さんらしいな」
「案外あいつは気力で何とかしてくれるかもしれない」
 俺は自分に言い聞かせる様に言った。
「だといいな。じゃあ今日は精がつくもの差し入れるか!」
「そうするか」
 大志が暗い空気を吹き飛ばすように言う。
「大山君も来てくれてありがとね」
 病院に着くと、茜は大志がいることに少し驚いた。
「あったりまえよ。同じ弁当をつついた仲じゃねえか」
「人の弁当を鍋みたいに言うんじゃねえ」
「翼くん、まーた目の下真っ黒になってるよ。ちゃんと眠れてる?」
 茜が心配そうにのぞき込んでくる。
「まあ、ぼちぼちといったところだ」
「俺よりお前の体の方が心配だ。調子はどうだ?」
「見ての通り元気もりもりだよ!」
 そう言って腕を曲げるとぷにぷにの腕のくせに力こぶを見せる仕草をする。
「そんなやつはこんな所に入院しないんだよ。少し瘦せたんじゃないか?」
「ここの病院食美味しくないんだよ。翼くんの手料理が食べたい!」
「今度煮物でも作って持ってきてやるよ」
「ほんと⁉わーい!やったー!」
 本当に、明るすぎて、病気なんて悪い夢みたいだ。でも、病魔は確実に彼女の体を貪っている。
 俺にできることは何でもやろうと、そう思った。
 
後日。今日は茜と病院のすぐ近くの並木道の紅葉を見に行く約束をしてある。茜は紅葉が好きらしく、とても楽しみにしていた。
「赤い色はヒーローの色だからね。あの並木道を歩くと、赤い葉が一面咲き誇る、赤い世界に浸れて心が躍るんだ!」
 なんて言ってうきうきしていた。
 病室のドアをノックする。
 返事が返ってこない。眠っているのだろうか。
「入るぞ」
 病室の中に入ってみると、茜はベットの中で疲弊していた。俺に気づくと、イヤホンを取り、スマホを横に置く。
「ごめんね、翼くん。今日楽しみにしてたんだけど、熱が出ちゃって、ちょっとだけしんどいんだ」
 茜が弱り切った声で言った。顔は赤く、全身だるそうに見える。
「また今度行こう。まだ紅葉の時期は終わってない。食欲あるか?ご飯食べれたか?」
「ううん。気持ち悪くて、食べられなかった」
 茜は困ったように笑いながら言った。
「なら丁度良かった。果物持ってきたから、りんご食べられるか?お前の好きな赤色だぞ」
「えへへ、さすが翼くんだね。それなら食べられるかも。翼くんが食べさせてくれたら言うことないんだけど」
「…まあ、病人だからな。仕方ない。体起こせそうか?」
「うそ。余計熱上がりそうだよ」
 自分で言っておきながら恥ずかしそうにしていた。 
俺はリンゴの皮を剥くと一口サイズに切った。
「ほら、口空けろ」
「あーん」
 茜の口に入れてやる。
「どうだ?うまいか?」
「なんでだろう。今まで食べたどのリンゴよりの美味しいかも」
「大げさだ。他にして欲しいことあるか?」
「じゃあ、ちょっとだけ手握っていて欲しい。なんて」
 熱のせいか顔が赤い。
「…まあ、仕方ないな。弱っているやつの頼みは無視できないし。これで少しでもよくなるのなら」
 そう言うと、俺は、茜の手を握った。初めて繋いだ女の子の手は、柔らかく、熱のせいか温かかった。
「翼くん。今私の顔見たら怒るからね」
「なんでだよ」
「今私絶対翼くんに見せられない顔してる」
 そう言って顔を隠す。
「……」
「こんなこと言ったら怒られちゃいそうだけど、私、熱出して良かったかも」
「…バカなこと言ってんなよ。早く治してもらわなきゃこっちが困る」
「そうだよね。翼くんのおかげで元気出てきたかも。ありがとね」
 手で隠した隙間から目を覗かせる。
「こんなことお安い御用だ」
「ねえ、翼くん。君は、病人だったら頼まれれば誰にでもこうするの?」
「…バカ言うな。誰にでもはしねえよ。俺がこんなことするのは、相当手間のかかるお前みたいなやつにだけだ」
「それ、どういう意味なの翼くん⁉」
 手をどかすと必死に聞いてくる。
「うるせえな、病人なんだからさっさと眠れ。お前が眠るまで帰れねえだろうが」
「さっきの言葉の意味が気になって眠れないよ!」
 結局、その後も一時間近く起きていた茜を何とか寝かしつけ、そっと部屋を出た。
 手のひらにはさっきまでの温もりが残っていて、なぜか心まで温かかった。
 けれど俺は、その温もりにいつまでも浸ることなく、心の深いところにそっとしまい込むと、冷たく乾いた十一月の寒空の下を歩いて行った。紅葉が散り始めていた。
 いつも通り茜の部屋のドアをノックする。
「どうぞ」
 弱々しい声が返ってきた。
 ドアを開けると、点滴と管に繋がれた茜がベッドに横になっていた。
「やあ、翼くん。今日は何を持ってきてくれたのかな?病院ってほんとに退屈で死んじゃいそうだよ。学校といい勝負だね」
 また、音楽を聴いていたようだ。本当にやることがないらしい。
 茜はすっかり痩せこけ、目の周りが真っ黒になっていた。
「今日はイチゴショートケーキ持って来た。食べられそうなのか?」
「わーい、うん。でも今はちょっと食べれそうにないから、冷蔵庫入れといてくれるかな」
 震えだしそうな口を必死に抑えつけ、何とか言葉を紡ぐ。
 分かってたじゃないか。こうなることなんて。
 自分の甘さに反吐が出そうになる。
 心のどこかで、茜なら何とかしてくれるはずだって、何の根拠もない希望に縋って、現実から目を背けていた。
 なぜ彼女なのだろうか。こんなにも、誰かのために生きようと努力し、夢があって、こんなにも死と対極にいる茜がなぜこんな目に遭わなければならない。他にいくらでもいるではないか。俺みたいなやつがのうのうと生きて、時間を無駄に浪費しているのに、なぜ俺ではなく彼女が死ななくてはならない。
「翼くん?どうかしたの?どこか痛いの?」
 胸が痛かった。張り裂けそうだ。
なんで、こんな状態で人のことまで心配できる。自分のことで精一杯のはずだろ。
「なあ、死なないよな?」
 答えなんて分かり切っているのに、俺は最低な質問をした。
「死なないよ」
 茜は真っ直ぐにこちらを見据えて、はっきりと答えた。
「私は死なないよ翼くん。だって私の心はまだ折れてないから。まだまだ、やりたいことがたくさんあるんだ。私はおばあちゃんになるまで長生きして、最後は老衰で死ぬ予定だからね。こんなところで死ぬつもりはないよ。だって私まだ十七歳だよ」
 茜の目はまだ死んでいなかった。体も心もこんなに追い詰められても、まだ心が死んでいなかった。
「退院したら、まずいちご狩りに行こうよ。お腹いっぱいイチゴ食べたい。それから、また翼くんのお家でお泊り会したいな。今度こそかつ丼作ってもらうからね。それから、今度はサッカーしたいな。私のボレーシュートすごいんだよ。あと、また小学生たちと遊びたいね。今度こそこびと捕まえるぞ!他にも春になったらお花見もしたいし、夏になったら海に行きたいな。全部一緒にやろうね翼くん。退院するのが楽しみだな」
 茜は目をキラキラさせながら、未来に思いを馳せる。
「…ああ。全部やろう。好きなだけかつ丼作ってやる。何回でも、どこにでも出かけよう」
「約束だからね」
「もちろんだ」
 俺は茜の強さにこう尋ねずにはいられなかった。
「なあ、茜。なんでお前はそんなに強くいられるんだ。なぜそんなにぶれない」
「私の中にはね、炎があるの。力強く、メラメラと燃えて、私の心の真ん中にある。その炎はね、なにがあっても消えないの。雨が降っても、槍が降っても、嵐が来ても、小さくなって弱々しくなる日もあるけれど、絶対消えない。また、すぐに、力強く燃えだして、そして私の全身を駆け巡る。その熱が、私の力の原動力になって、私を突き動かす。意志の炎。私の命が尽きるまで、燃え続ける。そして、その炎は真っ暗闇の中、煌々と光って、私の進むべき道を照らしてくれる。心の羅針盤なの。だから私は、どんなときも迷わない」
 そして、その炎は、その近くにいる人たちをも照らし、燃え広がっていくのだろう。まるで、太陽のようだと思った。だから茜からはお日様の匂いがするのかもしれない。
「お前らしいな」
 俺は心の底からそう思った。
「なあ、クマが酷いが、寝られないのか?」
「うん、薬の副作用で眠れないの。ねえ、翼くん。私このままじゃ、薬に殺されそうだよ。たくさん飲まなきゃいけないの。薬飲みたくない。でもお医者さんは良くなるから飲みなさいって」
「翼くん。ここから一緒に逃げ出さない?私ここにいても治らない気がする」
「バカ言うな。ここは病気を治すための場所だろ。必ず良くなるさ」
 俺は茜が自分を信じる限り、俺も彼女を信じようと思った。必ず治るはずだと。それにここから出たとして一体どこに行くというのだ。
「そっか」
 病室を出る時、茜は困ったように笑っていた。それ以来、茜のその顔をよく見るようになった。

 ある日、俺が学校帰りに商店街によって、差し入れにコロッケを買って行った時。その日は十一月も下旬へと差し掛かり、季節も移り替わろうとしていて、肌寒い日だった。
 いつも通り、茜の部屋に向かうと、ドアは開いていて、看護師さんたちがひっきりなしに出入りしていた。
 部屋の中を覗いてみると、酸素マスクを装着した茜の姿があった。
「君!そこ邪魔だからどいて!」
 茜を乗せたベッドが集中治療室へと運ばれていく。
 買ってきたコロッケが、ぐちゃっと音を立てて地面に落ちる。
 俺は、何もできずに、集中治療室の扉が閉まるまで、ただその場でバカみたいに突っ立ているだけだった。
 喉元まで迫ってきていた絶望を必死に抑え込む。
 俺にできることは、ただ茜を信じて祈ることだけだった。永遠にも感じられる時間が過ぎ、
処置を終えた先生が出てきた。
 俺は急いで駆け寄る。
「茜は⁉助かるんですか⁉」
「君お友達かい?大丈夫。一応今回は何とかなった」
 俺は安堵してその場に座り込みそうになるのを何とか堪える。
「ただ、非常に意識が混濁している。もしかしたら、もう意識が戻ることはないかもしれない」
 集中治療室の冷たい真っ白な扉と、ベッドの上の真っ白な天井が重なる。悪い夢ならもうたくさんだ。俺は床に崩れ落ちた。
夜の病棟を、儚げに蛍光灯の光が点滅して照らしていた。それはまるで、すり減った茜の命を表しているようだった。

茜の部屋を訪れる。茜はたくさんの管に繋がれ、酸素マスクを着けていた。
「茜。お見舞いに来たぞ。元気か?」
「って元気なわけないか。ははっ。何バカなこと言ってるんだろうな俺」
「そういえばそろそろクリスマスだぞ。今年は何を頼むんだ?まさかまだヒーローのフィギュアなんて言わないだろうな」
「お前はもっとお洒落な下着を買ってもらえ。もう高校生なんだから」
「ってそんなこと言ったら、また、ぶん殴られるな。あのパンチは効いたぜ」
「…」
俺の独り言が病室に空しく響き渡る。
「なあっっ。返事をしてくれよっ!」
 茜の目はずっと閉じられたままだ。
「お前、やりたいこといっぱいあるんじゃなかったのかよ!俺と全部回ろうって約束しただろ!病気になんか負けてられないって言ってたじゃねえか!また、笑ってくれよ」
 最後は言葉がほとんど出てこなかった。
 ほんとに、もう、このまま…。
 俺は茜の温もりを、生を感じたくて、手に触れる。
 その時。茜が弱々しく手を握り返してきた。
「茜⁉」
 茜は変わらず目を閉じていた。でも、まだ…
こんな状態になってまで、こいつは戦ってるんだ。まだ、諦めずに、必死に抗っている。
 変われるものなら変わってやりたい。一体どれほどの苦しみをこの小さな体で背負っているのか。
俺はただ、強く強く茜の手を握ることしかできなかった。

 
夜、ふと目が覚めた。理由は分からないがなぜか、妙な胸騒ぎを覚えていた。
 重たい体を起こし、台所に向かう。コップを戸棚から取ろうとした時、手から滑り落ちたカップが、ガシャン!と派手な音を立てて割れた。
 そのカップは、夏休みに、茜と買ったペアの赤いマグカップだった。
 虫の知らせ。
という言葉が頭によぎる。
気づけば俺は、寝巻のまま、病院に向かって走り出していた。
外は白い雪が降っていた。吐く息が白い。
真冬の寒風が肌を刺すように吹き付けるが、何も考えられず、ただただ、病院に向かって走る。
病院に着くと、扉は閉まっていた。
俺は拳を扉に打ち付ける。
ドンドンドン!
すると、夜勤の看護師がやってきた。
「あなた、茜ちゃんの友達の子ね!ちょうど良かった!今電話して知らせようと思ってたの!茜ちゃんの容態が悪化して!」
 俺の悪い予感は当たっていた。絶望に飲み込まれそうになるのを必死に抑えつけて何とか堪える。
 看護師さんと一緒に茜の部屋まで行くと、茜は前回お見舞いに来たときと同じように、たくさんの管で繋がれ、酸素マスクで生かされていた。
 変わらず、目は閉じたままだ。
 看護師さんが隣に来て耳打ちしてきた。
「もう長くないと思うから、今のうちに言いたい事言ってあげてね」
 世界が絶望の色で滲み始める。
 なんだよそれ。そんなのあるわけないだろ。だって俺は、まだ、こいつと、一緒に…。
 俺は現実を受け入れられずに、ただ、茜を見つめていた。
 茜。ほんとにもう…。
 その時。
「つ……ば…さ……く…ん…」
 茜の意識が戻った。
「茜⁉聞こえるか⁉茜!ああ!俺だ!分かるのか⁉」
 俺は茜の手を握る。
「わ…た……し……まけ……ない……か……ら……」
「わ……たし……は……ひ…い…ろ……お……に……なる……ん…だ……か……ら」
「い……っしょ…に……で…か……け……る……やく……そく……し……た……も……ん」
 茜は俺の手を弱々しく握り返しながら、声を絞り出した。
 茜はまだ、一人戦っていた。こんなになっても、諦めずに強く。
 茜の心が折れることはないのだろう。どれだけ苦しくても、痛くても、戦い続ける。鋼の意志で。
 だが、俺はもう、これ以上見ていられなかった。
 全身機械に繋がれ、ガリガリに瘦せ細り、髪の毛は白髪が増え、ところどころ抜け落ちている。
 いいんだ、茜。もう休んでいいんだ。十分頑張ったじゃないか。これ以上、苦しまないでくれ。
 そう思いながらも、今も諦めず戦い続けている茜に、そんなこと言えるわけもなかった。何より、俺は茜に生きていて欲しかった。残酷にも、まだ諦めきれない自分がどこかにいた。
「ああ!退院したらいろんなところに行こう!いろんなもの食べよう!俺がなんでも作ってやる!そうだ、遊園地なんてお前好きそうだろ!アトラクションもたくさんやってるはずだ!一緒に着ぐるみの中身を確かめて回ろう!きっと一体くらい本物がいるさ!体が鈍ってるだろうから公園で野球しよう!また商店街のおっさんたちも誘って試合しようぜ!他にも、もっと、たくさん、やりたいこと全部しよう!大丈夫だから!必ず元気になるから!だからっ……」
 気づけば目から涙が溢れていた。視界を滲ませ、流れた涙が零れ落ちる。。
「に……し……し……し……。きみ……は……そん……な……か……お……で……なく……ん……だ……ね……。も……っと……いろ……ん……な……き……み……の……か……お……が…み……た……いよ」
「あかねっ!」
「ねえ…つ…ば…さ…く……ん。…わた…し……れっど…じゃ…な……く……て…ぴん…く……が…よ…かっ…た……か……も……な……あ…ん……て」
 そう言うと茜は瞳を閉じた。
 その目が開かれることは二度となかった。
 茜が死んだ日はクリスマスだった。皮肉なことに、クリスマスを誰よりも楽しみにしていた彼女に、奇跡は訪れなかった。
 サンタクロースも、奇跡も、超能力も、彼女が信じたものは、この世界には何一つとして存在しなかった。
 存在したのは、ただただ残酷な現実だった。
 茜は最後の一瞬まで、その命が尽きるまで、決して諦めなかった。誰よりも強く、真っ直ぐに、自分を貫き続けた。
 それでも、茜が報われることはなかった。
 茜は冬を越せなかった。
 俺は再び、部屋に閉じこもるようになった。