完全に風邪も治り、しばらく経ったある日の放課後、俺たちは最早日課となったパトロールをしていた。すっかり秋も深まって、空気もより乾いてきた。
隣から香ばしい匂いがしてきた。
「んー!この焼き芋おいしー!翼くんも半分食べる?さっき商店街のおじさんにもらったの」
「サンキュ。商店街はその後どんな感じなんだ?」
「木下商店街とお互い競い合って、どっちも味が向上して繁盛してるみたいよ」
「へえ。良かったよ」
 俺たちが参加した意味もあるな。茜のおかげだ。
「ところでお前、そろそろ俺の洋服返せよ。いつになったら持ってくるんだ」
「だめ。あの洋服は私の抱き枕にしてるの」
「人の洋服を勝手に枕にするんじゃねえ。下着も早く持ってこい」
 図々しいやつだ。
「翼くんのエロ本と交換ならいいよ」
「あれは俺のじゃねえ。大志のだ!」
「はいはい。まったくムッツリなんだから」
 俺たちが並んで焼き芋を食べながら口論していると、道に迷っている人を見かけた。
タウンアンドカントリーのマークが入った灰色のアンダーシャツに、緑色の色褪せたYシャツ、黒い半ズボン、島草履、無精ひげに、黒いハット帽が目元を覆っている格好に、銀色の十字架のマークのピアスをしている。年の頃は三十代前半から四十代前半にも見える。不思議な雰囲気を纏った男だった。男は地図を見ながら、道に立ち尽くし、首を傾げていた。
「あの、道に迷ったんですか?」
 茜が話しかける。
「んん?ああそうなんだ。実は道に迷っちゃってね。困ってたんだよ」
 男はまるで自分が道に迷っていたことなんて忘れていたかのように、飄々とした様子で答えた。
「良かったら案内しますよ。どこに行きたいんですか?」
「それは悪いよ。今僕がどこにいるのかと、そこからの道のりを口頭で教えてくれれば行けそうだからさ。知らないおじさんについて行っちゃいけないって教わらなかったかい?」
「困っている人は別ですよ。あんまり悪い人にも見えないし。ね、翼くん」
「いや、どうみても怪しいだろ。変な雰囲気漂わせてるじゃねえか」
 俺は小声で返す。
「そっちの少年は見る目があるねー。お嬢ちゃんはもう少し警戒心を持った方がいい。それともっと自分を労わってあげないと」
 男は地獄耳のようで俺の言葉が聞こえていたようだ。
 横を見ると茜の様子が少し変だった。意表を突かれたかのような顔で男を見ている。そんなに警戒心を持っていないことを気にしていたのだろうか。
「それで、どこへ行きたいんです?」
 俺は男に尋ねる。
「…この学校の近くにある病院に行きたいんだ」
 男はそう言うと地図を指さした。
「あれ、その学校俺たちが通ってる学校ですよ。病院も知ってます」
「俺たちが今いる場所がここなんで、ここからこう行くと行けますよ」
 俺が地図を指でなぞり道順を教える。
「ああなるほどね。そう行くのか。助かったよ少年。お嬢ちゃんもありがとね」
 男は先ほどから様子のおかしい茜に話しかける。
「え、はい。こちらこそ」
 茜は戸惑った様子でそう返した。
「それじゃあ二人とも、頑張ってね」
 男はそう言い残すと飄々とした足取りで行ってしまった。
 それにしても変な男だった。俺たちがパトロールしていることも知っていたのだろうか。まさかな。
 その後、俺たちは先日の公園に差し掛かった。もう十六時過ぎだというのに、遊んでいる子供は一人もいなかった。
「よし、翼くん。今日はパトロールはこれくらいにして超能力の練習にしよう」
「今日はどんな練習をするんだ」
「私に付いてきたまえ翼くん」
「まずはこれ、ブランコだ!」
 ブランコの前で腕を組む。
「ブランコで何をするんだ?」
「いいかい翼くん。超能力を使える条件はね、子供であることだよ。大人の不純な心がある限り使えないんだ。だから今日は童心に帰って遊びまくる!そうすることで超能力が使えるようになるはずだ!」
「もうなんでもいいけどな」
「というわけで翼くん!どちらが遠くまで跳べるか競争だ!」
 俺たちはブランコに並んで座ると漕ぎ始めた。
 キィコキィコキィコキィコ。
 小学生以来乗るブランコは、あの時とは違い乗り心地が悪く、小さく感じた。
 対照的に茜は、本当に楽しそうに、無邪気に全力でブランコを漕いでいる。
「ねえ翼くん!超能力ってあると思う?」
「急にどうした。あると思うから練習してるんだろ?」
「うん!そうだよ!じゃあ宇宙人は?妖怪は?幽霊は?」
 目を輝かせて矢継ぎ早に質問してくる。
「なんだよ。全部妄言の類だと思ってるが」
「私はね、超能力も、宇宙人も、妖怪も、幽霊も、魂も、全部あると思う!」
「だって世界はこんなに広いんだよ?この世界にはきっと無限の可能性が秘められているんだ!私たちが知らない世界があって、そこにはきっと、私が探してるものが全部あるの!そんな気がする!だから私はいつかそこに行きたいんだ!」
 きらきらした瞳で茜はそう語った。
「だからいつか二人でそこに行こうね!」
 そう言うと茜は飛んだ。ブランコから身を投げ出し、前へ跳躍する。
その姿は、どこまでも真っ直ぐで、無邪気で、純粋そのものだった。
太陽の光が茜と重なり、まるで光を放っているかのように見えた。
そのまま空に羽ばたき飛んでいくように思えた。
しかし、やはり重力には勝てなかったようで、数メートル先に着地する。
「くそう。飛べそうな気がしたんだけどなー」
「翼くんもとびなよ!」
「ああ」
 俺は勢いよく茜の元へ飛んだ。
 つもりだった。しかし、無意識に自制してしまったようで、子供の頃のようにはいかなかった。茜の半分くらいの位置に立つ。
「もう、へったくそだなー」
「うるせえ」
 続いて、シーソーに乗る。
 俺が上に上がると、茜が下へ下がる。茜が上に上がると、俺が下へ下がる。ギッタンバッコン、ギッタンバッコン。交互に繰り返す。昔はこれが楽しかったというのだから不思議だ。
「そういえば翼くん。あのかっこいい変身ポーズってどうやって作ったの?」
「藪から棒に俺の黒歴史を掘り起こすな」
「えー、あれかっこいいじゃん!また翼くんがやるところ見たいなー」
 目をキラキラさせて恐ろしいことを言ってくる。
「絶対やんねえ」
「ちぇっ、けちだなー」
「これじゃあかっこいいヒーローになれないよ」
「どういうことだ?」
 俺は顔を上げると向かいの茜の顔を見る。
「いい翼くん?ヒーローになるための条件は三つ!」
「一つ、誰かを守りたいという強い思い。二つ、愛と平和を求める正義の心。三つ、かっこいい変身ポーズだよ!」
「前二つはともかく最後の一つは要らねえだろ」
「何言ってるの⁉一番大事な要素だよ!」
 どこがだよ。
「でもね、翼くん。今言った条件を満たさなくてもヒーローはいるんだよ」
「どういうことだ?」
「大切な誰かを、何かを守るために、人知れず歯を食いしばって、踏ん張って、何かを貫こうと戦っている人たちは、私にとってはヒーローだよ」
「私はそういう人間でありたい」
 一言一言を噛みしめるように茜は言った。
「たしかにそれは難しいことだ。頭が下がるな」
「君だって…」
「俺だってなんだ?」
「ううん、なんでもない」
 とその時、入り口近くから大きな声が聞こえた。
「あ!茜だ!」
「珍しい!誰かと一緒だ!」
 小学校低学年頃の男の子と女の子数人がこちらを指さし、近づいてきた。
「茜お姉ちゃんでしょ!翔太!」
 茜が注意する。
「うっせー!いつも一人で可哀想だから遊んでやってるのに、もう遊んでやんないぞ!」
「遊んであげてるのはこっちだし!あ!何翼くんその可哀想な人を見る目は!今すぐやめて!」
「茜お姉ちゃんの彼氏なのー?」
 女の子が尋ねる。
「へっ⁉ち、ち、ち、違うよ!私たちはパートナーだよ!」
「それって付き合ってるってことだろ!茜はバカだなー」
「うぇぇっ⁉そ、そうなの翼くん⁉」
 驚いた顔でこっちに確認してくる。
「違うだろ。俺はこのお姉ちゃんにこき使われていじめられているんだ」
「ちょっと、翼くん!人聞きが悪いこと言わないでよ!」
 茜が不服そうに抗議してくる。
「このお兄ちゃん目つき怖―い!」
「陰湿そー。ムッツリだ!」
「茜の召使いってことは俺より下だな!」
 クソガキどもが。どこでそんな言葉覚えてきやがった。最近のガキには可愛げがないな。
「あはははは!翼くん、小さい子にもムッツリってバレてるじゃん!」
「どの口が言ってんだ。小学生に遊んでもらってるやつに言われたくねえよ」
「茜!今日も一緒に遊んでやるよ。今日こそはこびと捕まえるぞ!」
「まったく、しょうがないなー。ごめんね翼くん。付き合ってあげてね」
そう言った割には茜の目はキラキラと輝いていた。精神年齢的に小学生と気が合うのだろう。それにしても小人とは案外可愛らしいではないか。
小学生のうちの一人がランドセルから一冊の大きい本を取り出した。
「こびと観察入門」と書いてある。
「今日はどのこびと捕まえる?私リトルハナガシラ飼いたい」
虫か。
「じゃあなんか囮の虫必要だな!俺捕まえてくる」
「いやいや待て待て。こびとは虫食うのか?」
 恐ろしい言葉が聞こえたが。
「なんだよ兄ちゃん知らねえのー?こびとづかん」
「なんだそれは」
「子供たちの間で流行ってるファンシーなこびとたちだよ」
 若干一名小学生ではないやつも混じっていたが気にしないことにした。
「どれ、見せてくれ」
 俺は少女にそのこびとづかんとやらを見せてもらう。
 するとそこには、ファンシーとは程遠い渋い顔をした変な格好のこびとが写っていた。
「なんだこの可愛さのかけらもない不細工なこびとは」
「何言ってるの翼くん!超かわいいじゃん!私もペットの代わりに飼いたいよ!」
「だからペットって。妖精みたいな扱いじゃねえのかよ」
 先ほど言っていたリトルハナガシラというこびとを見てみると、全身緑色で頭に花を乗っけていた。しかも性格は非常に獰猛で肉食なうえに、仲間内でも喧嘩が絶えず、群れのリーダーなどもいるらしい。
全然可愛くなかった。どんなこびとだよ。このなりで性格まで可愛くないってどんだけだよ。なんでこの子こいつ飼いたいんだ。群れとかリーダーとか最早野生動物じゃねえか。肉食なのも可愛くない。
「おい、こいつはやめてもっとましなのにしないか。ほら、このバイブスマダラなんて見た目はちょっとあれだが、温和で草食みたいだし、ほんわかしてて可愛らしいじゃないか」
「えー、まあ確かにリトルハナガシラは飼うの大変だから、別にいいけどよ。でもそしたら空き缶必要だから兄ちゃん飲み物買って来てな」
「まあしょうがない。ちょうど喉も乾いてたしな。俺だけ飲むのもなんだから全員分買ってくるか。何飲みたい?」
 ガキどもの方を見下ろす。
「えー!兄ちゃん太っ腹!」
「やったー!ありがとうお兄ちゃん!」
「じゃあ俺コーラ!」
「わたしポカリ!」
 口々に叫ぶ。
「茜。お前は?」
「え、私は悪いから自分の分出すよ。何なら私も一緒に行くよ。一人で持つの大変でしょ」
「一緒に来てくれるのはありがたいが、金は要らない。成り行きだ」
「そう?じゃ、頂こうかな。私メロンソーダ!」
 二人で遊具の裏にある自販機で小学生六人、俺と茜の分の計八本を購入する。ちなみに俺は麦茶にした。
 みんなが飲み物を飲み終わると、コーラの空き缶とメロンソーダの空き缶をつぶし、草むらに設置する。どうやらこの空き缶で演奏をしにやってくるらしい。意外と陽気だな。
そして何やら演奏し疲れたバイブスマダラが寝るための靴が必要らしい。
「兄ちゃん言い出しっぺだから兄ちゃんの靴置こうぜ。大きいし」
「なぜ俺の…。まあいいが」
 俺は右足のスニーカーを脱ぐとバイブスマダラの餌たる草を詰め、空き缶の横に設置する。そして俺たちはそこから少し離れた草むらに隠れた。ここからバイブスマダラがやってくるのを見張るらしい。
 しかし、というか案の定、十分経っても二十分経ってもやって来ない。
「で、茜、いつやってくるんだ?」
「翼くんの靴が臭うんじゃないかな。こびとは繊細なんだよ」
「俺はお前の飲んだメロンソーダが気に入らないんだと見た」
 イラっとしたので言い返す。
「なんだとー」
「なんだよ」
 互いに額を突き合わせる。
「もうお兄ちゃんたち喧嘩しないでよ」
「バイブスマダラは音楽が好きだから、口笛と手拍子でおびき出そう!って書いてあるよ」
「ヒュヒュ♪ヒュ♪ヒュヒュ♪ヒュ♪」
 茜が急に口笛を吹き始めた。
「タタ♪タン♪タタ♪タン♪」
 ガキンチョたちが茜に合わせて手を叩き始める。
「…」
 みんなして俺を見つめてくる。
「翼くん」
「お兄ちゃん」
「兄ちゃん」
 みんなで促してくる。
「悪いな俺はやらない。そこまでしてあのこびとは欲しくない」
「みんなかっこいい変身ポーズ見たくない?」
 茜が恐ろしいことを言う。
「えー!見たーい!」
「よっしゃ!なんとしてもバイブスマダラ捕獲して飼ってやるぜ!」
「ヒュヒュ♪ヒュ♪ヒュヒュ♪ヒュ♪」
「タタ♪タン♪タタ♪タン♪」
 そういうと俺は口笛を吹きながら、リズムに乗って手を叩き始める。
 覚えてろ茜め。
 みんなで単調なリズムを手と口とで奏でる。
 五分程経った時、近くのごみ捨て場を漁っていたカラスが一匹、空き缶の方へやって来た。すると、空き缶や地面をくちばしでつつき、その場所を荒らし始めた。
「あー!カラスが荒らしてる!」
「あっち行け!」
 ガキどもがカラスを追い払おうと脅かしに行く。
しかし、そのカラスは太々しく、相手が子供だから気にもせず荒らし続ける。このままだとガキどもの方が怪我させられそうだ。
 そう思った俺が出て行こうとした時。
 急にカラスが苦しそうな鳴き声を上げると、その場から逃げるように去っていった。
「どうだ!参ったか!」
 いや、今のはこいつらにビビったんじゃなかった。他のなにかを嫌がって逃げたように見えた。
「なーもうこびと来ないし、待つの飽きたー。他の遊びしようぜ」
「そうだね、こびとは繊細だからなかなか人間の前には現れてくれないのかもね」
 茜が少し寂しそうな口調で諭すように言う。
「じゃあ次鬼ごっこしようぜ!鬼ごっこ!」
「お、やるかい?いいよー」
「茜は手抜けよな!いつも大人げないんだよ」
 みんな次の遊びに移ろうとしている中で、俺は靴を拾いに空き缶のところに行ってみた。すると、カラスは靴に手は出していなかったのに、靴の中の草が半分ほど減っていた。そしてなぜかその靴はほんのりと温かかった。
俺は先程見た本のバイブスマダラのページを思い出していた。そこにはこう記されていた。
 バイブスマダラはカラスが嫌いで、カラスが嫌がる音を出す、と。
「まさかな」
 俺は空き缶を拾いごみ箱に入れると、ガキンチョどもの方へと歩いて行った。

 茜は俺相手の時だけ全力で追いかけてきたので、俺も全力で公園を駆け回った。
ガキンチョどもと茜は疲れ知らずの様で、こちらから言い出さなければ永遠に走り回っていそうだ。ベンチで少し休憩する。
「兄ちゃんへばるの早すぎだぜー」
「お兄ちゃん体力なーい」
 ガキどもが文句を垂れてくる。
「翼くん、まだまだ修行が足りないね」
「そもそも俺はそこまで運動は得意じゃないんだよ。お前ら小学生には付いていけねえよ」
「私は小学生じゃないよ!」
 星野がむきになって言ってくる。
「お前が一番小学生してるよ」
「まあ翼くんはあんな大人向けの本を読むくらいだから、私と違って大人だよねー」
 などと少し怒った顔で皮肉を言ってくる。
「だからあれは俺のじゃないって何度も言っているだろ。お前もしつこいやつだな」
「今度また検査しに行くからね!次見つけたらその場で破り捨てるから」
「また来る気かよ」
 と、その時。ガキンチョのうちの一人が茜のスカートをたくし上げた。
白地にイチゴの柄のパンツが露になる。
「エロエロこうげきー!」
「きゃあ⁉」
 茜が甲高い声を出す。
「逃げろー!」
 顔を真っ赤にした茜は慌ててスカートを抑えつける。
「待て翔太―!」
 茜は真っ赤な顔で追いかけて行った。
「お兄ちゃん、見たでしょ」
 小学校低学年の女の子がジト目でこちらを見てくる。
「…」
 なぜ何も悪いことはしていないはずなのに、こんなに罪悪感を感じてしまうのだ。まるで俺が悪いみたいではないか。それに今のは俺ではなくあのガキンチョがどう考えても悪いはずだ。俺はイチゴパンツなど断じて見ていない。
「悪い子は、皮をはいで、骨を砕いて、肉を食らって、一滴残らず血を啜ってやるぞ!きええええええええ!」
「うわあああああああああ、ごめんなさいー!」
 茜はよく分からん悪役のマネらしきもので、ガキンチョをマジ泣きさせていた。怖すぎるだろ。
「二度と!しちゃ!ダメ!だから!ね!」
 ガキンチョのお尻をぺんぺんしながら説教している。
「お姉ちゃん怖い」
 横で見ていた男の子が言った。
「いいかお前ら。スカート捲りが許されるのは子供の今だけだ。こんなの可愛い方だぞ。もし仮に俺があいつのスカートを捲ったもんなら、あいつは躊躇なく空手の奥義を使ってくるだろう。場合によってはそのまま警察に連行される。大人になるとはそういうことだ」
「何変なこと教えてるの翼くん」
 すぐ後ろから声を掛けられた。
「よ、よう。災難だったな」
「まったくだよほんとに」
「最近の子供は生意気だよね」
 自分の幼さは棚にあげて文句を言う。
「まったくだ」
「…」
「…」
 しばらくどっちも無言で気まずい空気が流れる。
「それで?」
 肩がびくっと跳ねる。
「見たの?」
 茜がもじもじしながら聞いてくる。
「なんのことだ」
 俺は白を切ることにした。
「どうだった心美ちゃん?」
「うーん、怪しかった」
 茜がまるで不審者を見る目でこちらを見てくる。
「翼くん、1+5は?」
「6」
「本能寺の変って何年だっけ?」
「1582年だ」
「私の好きな食べ物覚えてる?」
「覚えてない」
「私この前ストローでベリー食べたんだー」
「そうか」
 茜がねちねちとまるで姑のように攻撃してくる。
「翼くん、そろそろ白状したら?」
「知らない。俺は知らない」
 負けない。俺は断じて理不尽には屈しない。見たと言えば絶対面倒なことになるに決まってる。
 茜は諦めたのか、しばらくすると何も言ってこなくなった。
 俺は隣の小学生男子二人にひそひそ声で話しかけた。
「いいか。これから先偶然パンツを見てしまったときはこうやって対処するんだ。間違っても見たと言ってはいけない。言うと理不尽な目に遭わされるぞ。それから高校生になってもいちごパンツを履いている女には気をつけろ。ろくなやつがいない」
「お姉ちゃーん、お兄ちゃんやっぱり見たんだって!」
「あと高校生になってもいちごパンツ履いている女はろくなやつがいないから気をつけろって!」
 せっかくアドバイスしてやったというのに、あろうことかガキ二人は茜に告げ口した。
「翼くん!歯を食いしばれ!」
「ま、待て茜!話をしようじゃな――」
「変態制裁突き!」
 茜のパンチが腹部に炸裂する。
「ぐはっ」
俺は地面に倒れこむ。
「太一、健人、よく教えてくれたね!ご褒美に後でいちごシュークリーム買ってあげるね」
「やったー!シュークリームだ!」
「教えて良かったー。俺あのお兄ちゃん偉そうだから嫌い」
「俺もー。なんか暗そうだし」
 ガキどもがジュースの恩も忘れて愚痴をこぼす。
「理不尽だ。ていうか、どんだけいちご好きなんだよ。あと、やっぱりガキは嫌いだ」
 俺は地面に倒れながら一人呟いたのだった。

俺が休んでいる間、ガキどもと茜は今度はヒーローごっこを始めた。
「きえええええ。悪い子はいないがー。取って食ったるどー」
 どうやら茜は先ほどの悪役の演技がうけたようで、あの茜が悪役をさせられていた。超嫌そうだった。
「茜!演技へたくそ!さっきみたいな感じでやれよなー」
「えー、私もヒーローの方やりたいよー」
「じゃあ、次やらせてやるからちゃんと悪役やれよ!」
「ほんと⁉分かった!」
 見た目以外最早完全に小学生だった。違和感なく溶け込んでいる。
「くらえ!必殺どんぐりビーム!ビビビビビビッ!」
「ぐわあああああ!や、やられたー」
 茜が死んだふりをして倒れる。
「どうだ!参ったか!怪人いちごゴリラ女め!」
「な、何だとー⁉」
「ぶふっ!」
 ベンチで見ていた俺は思わず吹き出してしまった。なんだその最高のネーミングセンスは。
「みんなちょっと待っててね。今あの怪人陰湿むっつり男をしばいてくるから」
 茜はにこにこ笑顔でそう言うと拳をパキパキ鳴らした。
 だから怖いんだよその笑顔は。
 俺が茜の八つ当たりから逃げようとした時、意地の悪い声とともにがたいの大きい小学生二人がやってきた。
「だっせー!ヒーローごっことかやってるぜ!恥ずかしー!」
「しかも高校生まで混じってるぜ!かっこわる!」
「いいか!あと数年経ったらそんなの存在しないし、恥ずかしいことだって思うようになるんだよ~。現実見ろよ!がきども」
 すでに中学生並みのガタイで、見下すようにガキどもを圧迫してくる。ガキどもはみんな夢を否定され、悲しそうな顔で怯えている。
「愛の炎が悪を燃やす!レッド参上!みんな大丈夫だよ!こんなやつらの言うこと聞かなくていいから」
「ぎゃははははは!だっせー!なんだこの高校生!」
「おいいいか!普通高校生にもなったらそんなこと恥ずかしくてできねえんだよ!」
 みんなを庇うように前に出た茜を、デカいガキ二人は心底バカにした顔で笑う。
 だが、言っていることは間違っていない。高校生にもなってそんなことできるのは茜くらいだ。だが、茜はバカにされているのに堂々と相手を見据えている。
 みんなの視線がこちらに集まる。本当にそうなの?ガキどもが不安そうにこちらを見てくる。茜は何も言わずに真っ直ぐな瞳でただこちらを見つめていた。
 今ここで俺があいつらの言葉に賛同し、何もしなければこの子たちは今日、夢を壊され、一つ大人に近づいてしまうだろう。だが潮時なんじゃないのか。そろそろヒーローを卒業して早めに現実を見るのがこの子たちのためなんじゃないのか。いつかはみんなどこかで気づくのだから。それが優しさってものだろ。茜は納得しないかもしれないが、せめて俺が仲介してなるべく穏やかに済ませよう。
 そう思った。はずだった。
 でも、次の瞬間、俺がとった行動は、それとはまったく真逆のものだった。
「愛と平和の戦士、ブルーペガサス参上!」
 両手を翼のように大きく広げると、右足を上げ前足のように浮かせる。
「子供をいじめる悪いやつがいると聞いて、居ても立っても居られず変身したぞ!」
 確かにヒーローなんてテレビの中だけの存在かもしれない。大人になれば諦めるかもしれない。でも、俺は、ヒーローは無理でも、正義の味方のような存在でありたい。困っている人がいれば助けたい。悪いやつがいれば成敗したい。子供を守りたい。そんな信念を持って生きたい。
 この数か月、茜と一緒に行動する中で、俺の心の奥深くに押し込めていた思いが、蘇ってきていた。ずっと暗い部屋に閉じこもっていた俺を、こいつがこんなに変えてくれた。俺の世界を変えてくれた。こいつが俺を救ってくれたように、俺も誰かを救いたい。
 かつてこの場所で、大きくなったら、悪いやつらから子供を守るヒーローになりたいと思った。いじめっ子たちに立ち向かっていた。この場所での懐かしい思い出とかつての決意が俺の背中を押してくれたのかもしれない。
 その場がシーンと静まり返る。
 やらかしたか。俺が渾身の勇気を振り絞ってとった行動は無意味だったのか。
「やっぱり君は最高にかっこいいな」
次の瞬間、茜が満面の笑みを浮かべてこちらに駆けてきた。
 俺の手を引くとデカいガキ二人の前に立つ。
「レッドとブルーが現れたからにはもう安心だ!子供の夢を壊す悪い子供たちはお仕置きが必要だね!」
 後ろで子供たちが歓喜の声を上げる。
「だっせえんだよ!高校生が二人も揃って」
 少し前までなら俺も同じことを思っていただろう。だが今は、茜に当てられすぎたのか、死ぬほど恥ずかしくはあるが、この行動をださいとは思わなかった。そして、そんな自分が嫌いじゃなかった。
俺はなけなしの勇気を振り絞った。
「人の夢を壊すんじゃねえよクソガキ。どうせお前らだって今度は中二病になるんだから大して変わらねえんだよ。なんならもっと恥ずかしいまであるな」
「なんだと!高校生だからって怯むと思うなよ!俺の兄ちゃんは星野って裏番長の舎弟なんだぞ!」
 デカいガキが偉そうに虎の威を借りる。
「そうなのか茜?」
「私に舎弟なんかいないよ」
「え?」
 デカいガキがマヌケな声をあげる。
「残念だがそういうことだ。こちらがお前の兄ちゃんのボスの星野さんだ」
「に、逃げろー!殺される!」
「ひいー!ごめんなさいー!」
 デカいガキ二人はあたふたと逃げ帰っていった。
「お前どんだけ怖いんだよ。あのにこにこした顔で怒るの怖いからやめた方がいいぞ」
「私がそんなことするのは君くらいだよ。それにしてもあんなに怯えられると傷つくね」
 そう言いながらも茜は本当に嬉しそうで、ずっとにこにこしていた。
「お兄ちゃん、お姉ちゃんかっこいいー!」
「茜!お前本当はすごいやつだったんだな!」
「茜お姉ちゃん有名人なの⁉強いの⁉」
 ガキどもがキラキラした目で駆け寄ってくる。
「まあねー。実は私、結構有名人なんだー。にっしっしー」
「まあ、いろんな意味でだがな」
「一言余計だよ翼くん」
 茜がむっとした顔で見てくる。
「よし!みんな!気を取り直してさっきの続きだ!」
「おおー!」
「兄ちゃんはショッカーからだぞ。イー!以外言っちゃダメだからな」
「なんでだよ」
 俺たちはその後も日が暮れるまでヒーローごっこに明け暮れたのだった。
 
夕焼けが町を赤に染め始める中、俺たちはガキどもと帰り道を歩いていた。
「お腹空いたー。今日の夕飯何かなー」
「今日も楽しかったー。明日はかくれんぼしようよ!」
「えー、じんかくがいいなー」
 だからなぜお前は次も一緒に遊ぶ予定なのだ。
「お兄ちゃんもまた一緒に遊ぶでしょ?」
 少女が手を繋いできた。
「…考えておく」
「えー、また一緒に遊ぼうよー。お兄ちゃんのショッカーまた見たい!」
「絶対遊ばない」
「あはははは!お兄ちゃん面白い!琴葉お兄ちゃんけっこう好き!また遊ぼうね」
「…」
 繋いだ手を何となく見る。小さくて細く、温かい、幼い女の子の手だ。
「じゃあ琴葉こっちだから!またねお兄ちゃん!」
 琴葉の手が俺から離れる。
 琴葉はこちらを振り返りながら横断歩道を渡る。
その時。
 ブロロロロロロロ。大きな音とともにトラックが突っ込んできた。琴葉は固まったまま茫然とトラックを見ている。
 頭の片隅に追いやっていた記憶がフラッシュバックする。
 離れた手、泣き叫ぶクラクション、飛び散る血、壊れたプラモデル、鳴り響く蝉の声。
 澪と琴葉が重なる。
 俺は突然の衝撃でとっさに体が動かず、茫然と立ちすくむことしかできなかった。
 ああ、だめだ。また――
 そう思ったとき、茜がとっさに走り出し、琴葉に向かって飛び込んだ。二人して道路の隅に投げ飛ばされる。そのすぐ直後、トラックが走り去っていった。
 俺ははっと我に返ると、すぐに二人の元に走り寄る。
「おい!大丈夫か!二人とも!」
「大丈夫。当たってないよ」
「ええええええん!」
 全身擦り傷だらけの茜と、びっくりして泣き叫ぶ琴葉。
「はあ。そうか。良かった」
 俺は心から安心すると、ほっと息をつく。
「それにしても危なかったよ。横断歩道に突っ込んでくるとは何事だ」
「うええええええん!お姉ちゃああん!怖かったあああ!」
「もう大丈夫だからね、琴葉」
茜は琴葉を抱きしめてなだめる。
 俺は琴葉が助かったというのに、頭の中では別のことを考えていた。
 もしも、あの時澪が助かっていれば、こんな未来もあり得たのだろうか。澪は六歳で死んだ。大きくなれば、琴葉みたいになったのだろうか。どんな風に成長したのだろうか。
 本当は心のどこかで気づいてた。自分がずっと目をそらし続けていることに。忙しい日々に忙殺されて、過去から、自分の罪から目を背けて、自分だけ救われようとしていた。そんなこと、許されるわけもないのに。
 横断歩道の先に見える澪の亡霊が、俺に向かって語り掛けてくる。
「お兄ちゃんだけ幸せになるなんて、そんなこと許されるわけないじゃん。澪はお兄ちゃんのせいで死んだんだよ。ちゃんと背負って、全部諦めてよ」
 そうだ。そうだった。人殺しが正義の味方とは笑わせる。
茜の明るさに救われていた。自分も幸せになっていいんだって、勘違いしてしまっていた。
「茜。悪いが、琴葉を家まで送ってやってくれないか」
「いいけど…。翼くんはどうするの?」
「…すまんが俺は今日は先に帰らせてもらう」
 茜は何か勘づいたのか、心配そうな顔でこちらを見てくる。
「…分かった。じゃあまた、学校でね」
「…じゃあな」
 俺はまたなとは言わなかった。
 秋風がさっきまで感じていた手の温もりをさらって行ってしまったようだった。
 夕暮れ時だからだろうか。先ほどまで涼しく心地よかった風が、急に冷たく、突き放すように感じた。
 その日から俺は、茜を避けるようになった。