「おはよー」
「おはよう」
「夏休み何してた?」
「私海!」
「本当だ、ちょっと日焼けしてるー」
「うそやだー」
 夏休みも明け、久しぶりに登校してくる生徒たちは、この夏の話題で盛り上がっている。
 俺は教室に入ると自分の席に着く。
「おはよ!青井くん」
「うす」
 星野は相変わらず今日も、まるで楽しくてたまらないといった様子で、エネルギーに満ち満ちている。
「夏休みもあっという間に終わっちゃったねー。バーベキュー楽しかったね!」
「まあまあな」
「もう君は相変わらず素直じゃないなあ。あんなにはしゃいで、夜には興奮して私に襲い掛かろうとしてたっていうのに」
「どうやら頭を強く打ったらしいな。大丈夫か?もう一回強く打てば治るんじゃないか?どれ貸してみろ。俺に任せとけ。大丈夫だちゃんと痛くするから」
「怖いよ青井くん!人の頭をものみたいに。それに痛くしないでよ!」
 星野が頭をおさえる。
「…」
「どうかしたの?」
「いや、なんでもない」
 俺は今日、今まで俺が見て見ぬふりしてきたものにけりをつけようとしていた。

 昼休み。俺はいつも通り教室の隅で大志と弁当を食べる前に、星野に言いたいことがあった。
 星野はいつも昼休みになると弁当をもって一人でどこかへ行ってしまう。以前は、あの星野茜のことだからと気にも留めていなかった。だけど、今ならわかる。星野には友達がいない。星野はいつも昼休みに、一人で弁当を食べにどこかへ行くのだ。星野がどこで弁当を食べているのかなんて興味がないし、どんな気持ちで一人で教室から出て行くのかなんて分からない。けれど、それを見過ごせるほど今はあいつとの付き合いは浅いものでもない。
 俺は勇気を振り絞って星野に声をかけた。
「星野!俺たちと一緒に弁当食わないか?」
 星野は少し驚いた顔をして一瞬言葉に詰まったようだが、すぐに嬉しそうに返事をした。
「うん!食べる!」

「お、今日は星野さんも一緒か。よろしくな」
「うん大山君、よろしく」
 星野も加わり三人で教室の端の席で食べる。
「気をつけろ星野。そいつは隙あらば人のおかずをかすめ取ろうとしてくる卑劣漢だぞ」
「安心しろ。俺はお前の弁当以外に興味はない。お前の手作り弁当は美味すぎるんだ。ちょっとくらい分けてくれたって罰は当たらねえだろ。今日のおかずはなんだ?」
「今日はチンジャオロースとジャガイモの丸煮にマヨネーズをかけ青のりを散らしたものと、人参しりしりに、大根サラダだ」
「くうー、うまそうだなあ。これを朝から作ってるのか?」
 大志が涎を垂らす。
「まあ早く起きれたらだがな」
「えー!青井くん自分で作ってるの⁉私も一口食べたい!」
「おれもおれも!」
 二人とも勢い強く催促してくる。
「分かったよ。だったらジャガイモ食うか?」
「「食べる―!」」
「んー!おいしー!ほっくほっくのジャガイモにマヨネーズがよく合うね!」
 星野が美味しそうに感想を言う。
「青のりもいいアクセントになってる。俺の将来の夢は翼のお嫁さんになって毎日手作り料理を食べることだ!」
「つまらん夢を持つな」
「そ、それはだめだよ!翼くんは女の子と結婚しないと!私が困るよ!」
 なぜか星野が焦り出す。
「それはそうだが、なぜお前が困る?」
「へっ⁉そ、それは、ほら!私は相棒として君のお嫁さんを選定しなきゃいけないからね」
「お前に決められるいわれはないし、相棒でもない」
「何だお前ら付き合ってるのか?」
 大志がとんでもないことを言う。
「ち、ちち、違うよ!私たちはそんな不純な関係性じゃなくてもっと純粋なパートナーのような関係だよ!」
「余計誤解を招くようなことを言うな。俺はただのこいつの使いっ走りだ。お前のせいでな」
「お前は本当に根に持つよなー。それはこの前のラーメンでチャラになっただろ?」
「そんな約束した覚えはない。第一ラーメンとこの件とじゃ釣り合わない」
「ほんとだよこの根に持ち男。陰湿スケベめ」
なぜか機嫌の悪い星野が、問題の元凶のくせに俺に八つ当たりしてくる。
と、その時周囲から注目を浴びていることに気づく。こちらを見てなにやらこそこそ話したり、物珍しそうにこちらをちらちら見ている。
「あー、私はここらでおいとましようかな」
 星野は困ったような顔で笑っている。
「なんでだよ星野さん。俺たちと食うの嫌だったか?わかるぜ翼は空気が読めないからな」
「違う。お前の暴食っぷりに当たったんだ。でかい弁当箱にパン三つって、どんだけ食うんだよ」
「ふたりとも見られてるの分かってるでしょ?」
 星野が気まずそうにしぼりだす。だが俺たちはそんなの気にしない。
「お前は自意識過剰なんだよ。誰もお前のことなんざ見てねえよ。みんな大志の筋肉見てんだよ」
「そうだぜ星野さん。みんな翼の弁当狙ってんだよ。こいつの弁当は俺のもんだ」
「いつから俺の弁当はお前のものになった」
「…あはは。二人ともありがとね」
 星野が申し訳なさそうな、嬉しそうな複雑な表情を浮かべる。
「それでいいんだよ。星野のくせに気なんて使うんじゃねえ」
「なんだよー、人を図太いみたいに」
「お前ほど図太い人間を見たことがないし、これから先見ることもないだろう」
「なんで先のことまで分かるのさ!」
 心外そうに言う。
「俺は超能力が使えるんだ」
「えっうそ⁉ほんと⁉」
「ああ本当だ。お前は近いうちに俺を解放するだろう」
「なんだうそか」
 一瞬で落胆する。
「おい」
「翼くんは嘘つきだからこれからもっとこき使ってあげるね」
「あと生意気も追加しといてくれ星野さん」
「わかった」
「…てめえら」

 夏休みが明け、また六時間授業にも体が慣れてきたある日の放課後。俺たちは学校指定のジャージに着替えて、学校から少し離れたところにある公園に来ていた。
九月の上旬にもなると、暑く湿った空気も消え去り、外は涼しくなり始め、空気も乾き始めていた。季節は移ろい始め、秋が来ようとしていた。ジャージも着心地のいいくらいの気候だ。
「今日はなんでジャージなんだ?」
「そろそろ着くからそしたらわかるよ」
 公園の中に入り、星野に付いていくと、草で覆われている広場に着いた。広場はフェンスに囲まれていて、何やら草野球をしているようだった。
「あちゃー。もう始まっちゃってるよー。スコアどうなってる?」
 試合中のベンチの方に近づいていくと、どうやら中年のおじさんたちが野球をしているようだった。
「茜ちゃん!やっと来たか!待ってたよー。彼が君の言ってた助っ人かい?」
「そうだよ。おじさん、試合の方はどう?」
「それが木下商店街のやつら、とんでもない助っ人連れてきやがってよー。かなり負けてるんだよー。もう君たち頼みだよ」
 試合はどうやらかなり押されているらしい。高校生くらいのピッチャーがマウンドに立ち、投球する。打者のおっさんは大分遅れてバッドを振った。
「ストラーイク」
 相手チームはフィールドにいるメンバーもベンチも、みんなニヤニヤしながら退屈そうに一方的な試合を眺めている。スコアボードを見ると、日の丸商店と木下商店が試合をしているようで、もう5回裏で、スコアは5対0とかなり押されていた。
「まさか今日は野球か?」
「その通り!ヒーローは遅れてやってくるものだからね。任せておじさん!」
「おいおい、今更助っ人の登場かー?無駄なことを。それに一人は女じゃないか。情けない奴らだ。あっはっはっはっはー」
 木下商店と思しき四十代前半ほどの小太りの男が、隣のベンチからわざわざやってくると嫌味を言いに来た。
「現役の野球部を連れてくるなんて反則だろうが!このインチキ野郎が!そこまでして勝ちたいか!」
「なら初めにそう言うんだったなー。まあ残りの回もせいぜい頑張ってくれ」
 そう言い捨てると自分のベンチへと戻っていった。
「嫌なやつ。説明するね翼くん。まず、うちの町の商店街、日の丸商店街と、そこからすぐ近くの橋を渡った隣町にある対岸の商店街、木下商店街は隣接してるだけあってすごく仲が悪いの。それは知ってる?」
「競い合っているというのは聞いたことがある」
「それでね、今回あっち側から試合を挑んできて、負けたら日曜日を商店街の定休日にしろっていう無茶苦茶な条件をふっかけてきたんだよ。そして、向こうの町はちょっと治安が悪くて、商店街のバックには悪い人たちも付いてるみたいで、断るに断れなかったんだって。それでお互い助っ人ありってことで勝負になって、私が助っ人を頼まれてたんだけど、まさかこんなに点差が開いちゃってるとは…」
 ちょっと困ったなーとつぶやく。
「なるほど。相手はそこに現役の野球部の助っ人を投入してきたというわけか。にしても気になるのが、なんでお前が商店街の人たちとつながりがあるんだ?」
「初めは私がうちの商店街にそっちゅう妨害しに来る悪い人たちを追っ払ったことから仲良くなったの。それ以来、私の張ったチラシを見て、何かあったら連絡くれたり、情報くれたりしてくれるんだよ」
「へーえ。お前ほんといろいろしてんのな」
「まあねー。そんなことより翼君!これから私と君とで悪い奴らをやっつけるんだよ!準備はいいかい?」
 当然といった顔で言ってくる。
「準備も野球経験もねえよ。このピンチを俺たち二人で、野球部相手にどう切り抜けるんだよ。五対〇はさすがに無理があるだろ」
「大丈夫。私たち二人なら何とかなるよ!」
「はあ。まあやるだけやってみるが文句は言うなよ」
 一度言い出したらこいつは聞かないからな。
「良かった。いやもうおじさんは体力的に限界でね。この回からちょうど二人メンバーが不足してたんだ。それじゃあいきなりで悪いけど、さっそく次の打者やってくれるかい?けれど君大丈夫かい?茜ちゃんの運動神経の良さは知ってるが、相手のピッチャーの球は速すぎてうちのメンバーはだれも触れられもしないんだよ」
 おじさんが心配そうに言う。
「大丈夫だよおじさん。うちの翼君はやるときはやる男だからね。頼りにしていいよ!」
「そうか!それなら良かったよ。頑張ってくれ。頼んだよ」
「おいお前。余計な事言って俺の株を勝手に上げるんじゃねえ。初心者だって言ってるだろうが」
 俺はバットを持ってバッターボックスに立つ。野球なんて体育の授業でしかやったことがない。そして俺の体育の成績は中学からずっと3だった。星野も日の丸商店街の人たちもみんな期待してくれているが、俺の実力なんて俺が良く知っている。
「おい、お前も高校生か?野球経験は?」
 同い年くらいの前髪ぱっつんのピッチャーが話しかけてきた。
「ないな。お前はなんで協力してるんだ?」
「金で雇われたのさ。それにしてもまた素人かよ。助っ人のくせに俺とは違ってただの雑魚か。悪いな。女の前で恥かかせちまうことになって。にしてもあの子可愛いじゃねえか」
 なんだこいつも似たようなやつか。どうやら相手チームは援軍も含めて全員嫌な奴らで構成されているらしい。
「…星野を見た目で甘く見ない方がいいぞ。そしてそんなに可愛いやつでもない」
「へーえ、なら俺が勝ったらデートに誘っちゃおうかなー」
「…好きにすればいいさ。だがお前じゃあ振られるのが目に見えているがな」
「なんだと。むかつくやつだ。大きな口を叩くのはこの俺の球を打ってからにしてもらおうか」
 俺はバットを強く握ると構える。味方チームのおじさんたちは期待の目で、敵チームは品定めするようにこちらを見てくる。一筋の汗が俺の額を流れ落ちる。
 ピッチャーが振りかぶって投げる。球はすごい勢いでキャッチャーのミッドの中に吸い込まれた。
「ストラーイク!」
「なんだー?偉そうな割には振ることさえできねえじゃねえか。助っ人が聞いて呆れるぜ」
 周囲の落胆した表情やバカにするような表情が容易に浮かんで見える。俺はそのあとがむしゃらにバットを振って足掻いてみたが、球をかすりもせず、スリーアウトで相手の攻撃へと移った。俺はなにもできずにそのままバッターボックスを出る。
星野もこれで分かっただろう。俺が特別でもなんでもない、ただの凡人だということが。自分が期待している人間はただの冴えないありきたりな人間だということが。
それにしてもなんだろうか。この煮え切らない感じは。俺らしくもない。こんなもんじゃないか。俺にこれ以上何ができるというんだ。何に納得がいかないというんだ。精一杯やったじゃないか。 
ベンチに戻ると、商店街のおじさんたちは優しく迎えてくれ、「気にすんな坊主。あんなの打てなくて当たり前だ」「それより今日は来てくれてありがとうよ」など、励ましの言葉をかけてくれた。そして星野は励ますわけでも、落胆するわけでもなくただ一言だけこういった。
「私を見ててね」
 攻守が代わり、俺たちは守備となる。ピッチャーは星野だ。それを見た相手チームからヤジが飛ぶ。
「おいおい!女に投げさせんのか!どんだけ恥知らずなんだお前ら!」
「おっさんよりJKの方がましってかー?」
 しかし、星野が投げた瞬間、ヤジは一瞬で止んだ。先ほどのピッチャーにも引けを取らないスピードで球が吸い込まれていく。
「ストラーイク!」
「にっしっしー!ここからだよみんな!気合い入れていくよー!」
「おおー!さすが茜ちゃんだ!」
 おっさんたちから歓喜の声が湧く。
 星野は続けて三振を取ると、どこから持ってきたのか野球帽を被りなおした。
「おっしゃー!俺たちも気合い入れていくぞー!茜ちゃんに続けー!」
 星野の闘志が瞬く間にみんなに伝染していく。
「ちくしょう、かっこいいじゃねえか」
セカンドから星野の後ろ姿を眺める。闘志でみなぎったその背中と、そこから広がった勝利に向かうチームの雰囲気の中、俺は先ほど腑に落ちなかった気持ちに合点がいっていた。
俺はうちの商店街が不遇な目に遭うのに何もできないのが嫌だったわけでもなければ、星野がデートに誘われるのが嫌だったわけでもない。ただ、あのいけ好かない前髪野郎に言い返すこともできずコケにされたのが許せなかったのだ。俺はこう見えて負けず嫌いなのだ。
素直な俺はそう結論づけると、気合いを入れるべく自分の両頬をパンっと叩くと試合に集中する。負けてたまるか。
 星野が二人目のバッターから三振を奪うと、次は例の前髪ぱっつんの高校生がバットを持ってやってきた。
「君やるねー。野球経験あるの?」
「ないよ。体を動かすのは得意なの」
「へー。でも俺は他のおっさんどもとは違うぜ。全力で投げた方がいい」
「そう。ならそうさせてもらおうかな!」
 そういうと星野は膝を高く上げると全力で投球した。すると球は前髪野郎のバットを抜けるとまたしてもキャッチャーの腕の中に吸い込まれていく。
「ストラーイク」
 なんとまだ全力を出していなかったようだ。へらへらしていた前髪野郎も余裕が消え、プライドを傷つけられたのか星野を睨んでいた。
「あまりいい気になるなよ」
「別になってないよ。君の方こそ本気でやってもいいんだよ?」
 どうやら星野は先ほどの発言を根に持っていたようだ。相手を挑発している。
「この野郎。いいだろう。本気でやってやる」
 そういうと前髪野郎はバットを握り直し、今度は真剣な面持ちで再度構える。
 星野が振りかぶって投げる。だが、流石に現役野球部なだけあって今度は球にヒットし、低い打球がセンターとライトの間に飛ぶ。
しかし、星野のおかげで闘志むき出しのおじさんたちは、先ほどの弱腰とは違い、滑らかな動きでボールに飛び込むと、ボールをキャッチし、一塁で牽制した。
「よっしゃー!ナイスプレイ田中さん!」
 星野の激励の声が飛ぶ。前髪野郎は想定外だったらしく、ベースを蹴って八つ当たりしていた。
 その後も星野は相手を打たせずに抑え込むと、無失点でその回を抑えた。
 再び攻守が代わり、六回表。点差は五点。今度は星野の打順からスタートだ。先ほどのお礼とばかりに前髪野郎は思いっきり投げてきた。
が、しかし、星野は「よっとっ」というと軽快にヒットさせ、球はレフトの頭を超えるとバウンドしてフェンスに当たる。どうやら相手もこちらと同じように、いや、こちら以上に守備に穴があるらしい。星野は二塁まで一気に走りこむ。
「おお!茜ちゃんが初めて塁に出たぞ!これはいけるんじゃないか⁉」
「いや。それが、あと一人誰かあいつの球を打てるやつがいないと、点は取れないぞ」
「そんなあ」
「だれがあんな球に触れるというんだ」
 日の丸商店街のおじさんたちは、あの速球にみんな心を折られている。メンタルはパフォーマンスにも大きく影響する。となると、まだ一回しかアウトを取られていない俺が行くしかあるまい。それに星野がこんなに活躍しているのだ。同じ助っ人として俺も負けていられない。あのピッチャーには負けたくないしな。
「あの。俺、もう一度チャレンジしてみてもいいですか?」
「おお。もちろんいいとも。おじさんより若い君の方がまだ可能性があるしね」
 俺はバットを持つと再びバッターボックスへ入る。リベンジだ。心なしか星野が嬉しそうな顔をしているような気がする。
「なんだまたお前か。こりもせずに恥かきに来たのか?」
「それはお互い様だろ。偉そうな割に星野に空振りさせられてたじゃねーか。現役野球部が」
「なんだと!お前調子に乗るなよ!」
 前髪野郎はそう言って怒ると投球してきた。容易に挑発に乗ってくれたおかげか、手元が狂ったようで先ほどとは違い、球がしっかりと見える。
「ファウル」
 しかし、バットは球をかすめるだけで当たりはしなかった。だが、大きな一歩だ。これで相手を動揺させることができただろう。こういうタイプはプライドが高く、少し失敗するだけで、ペースを崩してくれる。
 俺はバントを当て、一塁に向かって全力で走る。砂を蹴り上げ腕を振る。このチャンスを逃がすな。俺は全力で頭からベースに飛び込んだ。そのタイミングでピッチャーの投げた球が敵のファーストのグローブに収まる。
 判定はどうだ?
「セーフ!」
 よし!
 ベンチから歓喜の声が上がる。全身砂にまみれながら立ち上がると、星野は三塁まで行っていた。だが問題はここからだ。誰か打ってくれないと点が入らない。
と思ったが、どうやら俺の予想以上にピッチャーは調子を崩してくれことと、商店街のおじさんたちの頑張りで、ヒットを何本か打ち、俺も星野もホームベースを踏めた。
点差は二点となった。七回へと移る。
「やったね翼君!やっぱり君はやるときはやる人だよ!信じてた!」
「これほんとうにいけるんじゃないのか」
「ああ!茜ちゃんと坊主のおかげだ!やるぞお前ら!」
「「おおー!」」
 チームが活気づき、点差も三点と希望が見えてきたタイミングで、けたましい音とともに十から十五台ほどのバイクが広場に乱入してきた。デゥルルンデゥルルン、グオングオングオン。荒々しい排気音がフィールドに響き渡る。
「応援に来たぜ!商店会長。よう、しょんべん臭い日の丸商店街ってのはお前らか!俺はチームドラゴンアンダーツリーの頭だ、以後夜露死苦!」
 ノーヘルで一番派手な大型のバイクに乗った男が頭の悪そうな挨拶をする。全員同じ特攻服に、サングラスに派手な髪形をした、所謂暴走族だ。ヤンキーたちはバイクを相手ベンチの横に列を作って並べ始めた。
「おっしゃてめえらー!一発かましたれ!いくぞー!」
「「うーっす!」」
 そういうとヤンキーたちは耳を覆いたくなるほどけたましい排気音でなにやら音楽を奏で始めた。どうやら応援ソングのつもりらしい。
「よーしてめえら!けっこう気合いが入ってたぞ今のやつは!上等!商店会長。俺ら全力で応援すっから、ぜってえ勝ってくれよ!」
どうやら先ほどの小太りのおっさんは商店会長らしい。そしてバックについている悪いやつらとは、こいつらのことか。
「え、ええ。もちろんですとも。それよりいいタイミングで来てくれましたよ。今ちょうど相手が勢いづいてたところでして」
「なに~⁉そりゃマズいな!隣町のしみったれ商店街なんかに負けんじゃねえぜ」
「なんだとー⁉さっきから黙って聞いてたら!」
 まずい。星野が切れ始めた。
「おい、気持ちは分かるが堪えろ。流石に多勢に無勢すぎるし、今お前に怪我されたら困る」
 審判の介入で、ヤンキーたちはフェンスの外に出され、中断されていた試合が再開される。星野がマウンドに立つと、フェンスの外からさっそくヤジが飛んできた。
「おいおい女が投げんのかよ、大丈夫かー?」
「怪我する前に引っ込めおら!ソフトボールじゃねえんだぞ!」
 が、しかし。先ほどの木下商店街と同じく、星野の投球を見たら一斉にヤジは止んだ。
 だが、今度は逆に味方にヤジが飛び始める。
「おいおい、しっかりしろよ―。俺に代われ!バッドの使い方教えてやるよ」
「女に舐められてんじゃねえぞ!ぶっ殺すぞ!」
 汚いヤジが口々に飛び交い、先ほどとはフィールドの空気がうって変わる。俺も含め味方の選手も敵の選手もみな委縮してしまっている。問題は星野だ。先ほどから相当我慢しているらしく、コントロールも乱れてきた。そろそろ相手ベンチまで殴り込みに行きそうだ。
「そんなまずい飯しか作れねえ商店街なんかに負けんじゃねえ!」
 今のが決定打だったようで、星野は球とグローブを投げ捨てるとベンチに向かって走り出そうとした。俺も慌てて静止しようとする。
 と、その時、がやがや騒ぎながら、おばちゃんたちがたくさん広場の中に入ってきた。
「あー、やってるやってる。あんたー!パート終わったから応援に来たよー!まさか負けてないだろうねー!」
「隣町の商店街なんぞに負けんじゃないよ!」
「負けたらお小遣いぬきだからね!」
 商店街のおばちゃんたちなのだろう。どのおばちゃんたちも口うるさく、委縮していたおっさんたちに再び気合いが入る。
「そうだ。ヤンキーなんかより家の女房の方が怖いに決まってる!」
「負けたら小遣いなくされちまう!」
「あんたー!気合い入れな!生活が懸かってるんだからね!死ぬ気でやんな!」
「まったく洋服もこんなに汚して!だれが洗濯すると思ってんの!」
 嵐のようなおばちゃんたちの登場に、ヤンキーたちも呆気にとられ、世の母ちゃんたちのペースに吞まれていた。
「おい!しっかりしろ!応援するぞてめえら!バイクに乗れ!」
「「うーっす!」」
 ヤンキーたちは気を取り直して再び排気音で曲を演奏し始める。
 がしかし。演奏の途中でおばちゃんたちが、フライパンにお玉をぶつけカンカン鳴らしながらバイクのエンジン音よりも大きい音と声で演奏に割って入ってきた。
「うるさいってのよあんたたち!鼓膜壊れちゃうでしょ!お家帰って母ちゃんの手伝いしなさい!」
「うっせーぞクソババア!ぶっ殺すぞ!」
「あんた悪い言葉使って!どの口が言ったの⁉あんたたちだね⁉夜から騒いでバイク乗り回してるのは!朝やりなさい朝!おばさんうるさくて眠れないでしょ!」
「てめえらの町のことなんざ俺たちが知るか!俺たちに当たるんじゃねえ!」
 おばちゃんの勢いにのまれたヤンキー。
「あんたたちみんな変な頭してそっくりじゃないかい!なんだいその変な頭は!うんちみたいな色して!将来父ちゃんみたいなるわよ!」
「触んじゃねえ!ばばあ!てめえにはこの良さが分かんねえんだよ!」
「何だいそのダッサイ服は!みっともないから早く着替えてきなさい!」
「あーもううっせええ!何だこのババアどもは!」
 ヤンキーたちは皆おばちゃんたちにがみがみと口やかましく説教されていた。やはりどんな人間もおばちゃんたちには勝てないらしい。 
 七回裏。うちのチームの攻撃だ。おばちゃんたちのおかげで調子を取り戻した商店街のおじさんたちだったが、相手チームのピッチャーもヤンキーの到着でペースを取り戻したようで、塁に出たが得点までには至らなかった。
そんなこんなでおじさんたちは善戦しながら最終回、九回表。星野の活躍が大きく、ここまでなんと無失点で済ませてしまった。ただ代わりに、六回目以降点も取ることができず、二点の点差が変わらず開いていた。
 再び前髪野郎の打順だ。こいつはどうやらそうとう無駄なプライドを持っているらしく、女である星野に抑えられていることがよほど気にいらないらしい。アウトで終わるたびに道具やベースに当たっている。
そして、九回表。とうとう行動に移してきた。
星野が変わらず速球を投げる。前髪野郎は口元をニヤッとさせると、星野めがけて球を打ってきた。顔に当たりそうになった星野はとっさに左手で庇う。球はなんとか星野の左手に収まったようだ。
「大丈夫か!星野」
「うん。大丈夫。何とかキャッチできたから」
「そうか。ならよかった。あの野郎わざと狙いやがった」
「このくらい野球じゃよくあることだよ」
「それはそうかもしれないが」
 フェンスの外からヤジが飛んでくる。
「おい!女の顔に当てる気か⁉ばかやろう!」
「ちょっとあんた!気をつけなさい!ヒヤッとしたよ!あんたたちが女の子に投げさせるからだよ!ほんとにもう!しっかりしな!」
 どうやらヤンキーも心配してくれているらしい。前髪野郎は慌ててベンチに戻っていった。星野が続けて投げる。が、なんと、二回続けて打たれてしまった。投球するたびに顔をしかめているように見える。あいつまさか。
なんとかこの回も無失点で終わらせると、給水しにベンチへと戻る。
「おい星野。左手見せてみろ」
「えっ!ど、どうしたの急に」
 星野は慌てて左手を後ろに隠した。やはりそうか。俺は無理矢理星野の左腕を掴むと引っ張り出す。
「これっ!お前、腫れ上がってんじゃねえか!」
 星野の左手は親指の付け根から腫れ上がっており、紫色に変色していた。恐らくさっきのやつの前から軽く痛めていたのだろう。そうじゃなきゃこうはならない。
「お前よくこれで投げれたな。初めから怪我してたろ?打順は他の人に代わってもらって、お前はとにかく休め。冷やした方がいい」
「だめだよ!私は出るよ!ここで下がっちゃったら何のための助っ人なのさ!まだ点差も二点もあるんだよ!ここが頑張りどころでしょ⁉」
「無理するな星野!なんでそこまでするんだ」
「私はヒーローなりたいからだよ。ヒーローは負けないんだ。どれだけ苦しくても、勝ち目がなくても、どれだけ痛くても、誰かのためなら何度だって立ち上がるんだ。いつだって全力何だよ!だから私もいつだって全力でやる!こんな嫌な奴らに負けてたまるもんか!商店街をつぶさせてたまるもんか!翼君!私はやるよ。君はどうする?」
 こんな状況なのに、こいつは微塵も諦めていない。こんなに大怪我を追っておきながらそれでも前を向く。俺ももうこいつがどんなやつなのか分かってきていた。たとえ誰が何と言おうとこいつはやるだろう。
「分かったよ。急いで応急処置しよう。終わったらすぐ病院行けよ。無茶しやがって。どうなっても知らねえからな」
「うん!大丈夫!私痛みには強いから」
 九回裏。五対三。こちらの商店会長の気合いで何とか出塁できている。しかしおじさんたちの力は及ばず、ツーアウトだ。絶体絶命の状況だった。
おばちゃんたちとヤンキーが見守る中、星野がバッターボックスに立つ。ちなみにヤンキーたちはおばちゃんたちに注意され汚いヤジを飛ばさなくなっている。母強し。
 前髪野郎が球を投げる。しかし、星野はバットを振ることもできずに、ストライクを取られた。当たり前だ。本来バットを握るだけでも激痛だろう。またしても振ることもできずにストライクを取られる。
「ぐっ」
 星野も苦い顔をしている。ここまでか。そう思ったとき。
「姉ちゃん頑張れー!気合入ってんぞー!」
「かましたれ!」
「おい!敵チーム応援するやつがあるか!」
 ヤンキーの一人が見方を注意する。
「だってよー、あの姉ちゃん漢だぜ!怪我しながらバッド握って立ってる」
「ああ。根性あるぜ。バットの正しい使い方教えてやれば、うちのチームでもやっていけるぜ」
「バットは野球以外に使うもんじゃないでしょ!あんたたちはほんとに!喧嘩ばっかりして!」 
 横で聞いていたおばちゃんがまたたしなめる。
「茜ちゃーん!頑張るんだよ!でも無理するんじゃないよー!おばちゃんたちも応援してるからね!」
 フェンスの外から、敵からも味方からも激励の声が飛んでくる。
「俺たちも応援するぞ!茜ちゃん頑張れー!」
「バントでいいバントで!」
「無理しないでくれー!」
 フィールドが星野への声援で溢れかえる。この声援はきっと、星野が今までやってきたことが繋がっているんだろう。
 星野は満面の笑みで再度バットを構えなおす。さっきまでの星野とは大きく違うだろう。絶対に諦めない星野の心に皆が応えてくれたのだ。
 完全アウェーの中、苦い顔をした前髪野郎が投げた。星野は重い腕を振ると、見事に球にヒットさせた。
「よっしゃー!」
会場が湧く。打球はサードの方に跳ねると、線ぎりぎりに転がっていった。星野は渾身の力で走ると、塁に滑り込んだ。
これで、ツーアウト一、二塁。点差は二点。ピンチであることには変わりない。首の皮一枚でつながった感じだ。
さっきまで歓喜の声で満ちていたベンチが急に静まり返る。皆言外に問いている。誰が行くのか。それはそうだろう。こんなに盛り上がっている試合だ。それに星野が奇跡を起こして見せたのに、それを無駄にするようなことは絶対にできない。誰も行きたがらない。もちろん俺だって行きたくない。バントしかできない俺が行ったところで役に立てない。まだおじさんのうちの誰かが行った方が可能性があるだろう。
でも、だからって、このまま黙って見るだけなのか?星野は、あいつは、あんなにひどい怪我をしながら、それでも、自分の信念を貫いた。ここまでやれたのも、あいつがみんなを引っ張ってくれたからだ。今逃げて後悔しないか?
星野の方を見ると、一切こちらには目を向けず、ただひたすらにセカンドを見据えていた。俺の方なんて一切見ない。分かってる。あいつはいつだって俺を信じてくれている。今だって、俺が出てくるって確信してるから自分のやるべきことに集中している。ここで逃げて俺はどんな顔をしてあいつと話せばいい?怪我もしてない俺が逃げてどうする。
 俺は覚悟を決めて立ち上がった。
「俺が行きます」
「一応助っ人ですし、少しでも役に立ちたい」
「ありがたいけど、無理してないかい?」
 おじさんが心配そうに見る。
「星野ほどじゃないですよ」
 そう言うと俺はバットを持ちバッターボックスへと入る。前髪野郎も今度は軽口を叩いてこなかった。先ほどのようにはいかないらしい。それともこの空気に呑まれただけか。
 ピッチャーが振りかぶって投げる。案の定スピードは速く、球はバットにかすりもせず、キャッチャーにキャッチされる。
「ストラーイク」
「おい!しっかりしろ兄ちゃーん!姉ちゃんのガッツ無駄にする気かー⁉根性見せろー!」
「負けたらケツバットだぞこらあ!」
外野から厳しい声が飛ぶ。星野には優しかった声援も俺には厳しい。いいやつなのか嫌なやつなのかどちらかにして欲しい。
ピッチャーが再び投げる。俺はがむしゃらにバットを振る。当たれ!
しかし今度も再びバットは空を切り、球はグローブの中に吸い込まれる。
「ストラーイク」
 九回裏。ツーアウトツーストライク。だめだ。何とか自分を奮い立たせ出てきたが、いきなり野球がうまくなるわけがなかった。どうにもならないことはある。人はそう簡単には変われないのだ。俺は顔を下げた。
その時。
「翼くん!」
星野の大きな声がフィールドに響き渡る。
顔を上げると星野の真っ直ぐな瞳が俺を射貫く。星野は何も言わずにただ大きく頷いた。
その時、星野の声が頭に響いた。
「君はやるときはやる人だよ。信じてた!」
「大丈夫!翼君はやるときはやる男だから」
「私はやるよ。君はどうする?」
 そうだ。
 一人の人間が、こんなにも俺のことを強く信じてくれている。他ならぬ俺よりも。ならば俺は、まだ諦めるわけにはいかない。逃げ出すわけにはいかない。あいつの、星野の期待に応えたい。あいつの頑張りを無駄にしたくない。
 俺はバットを握り直すと、構える。まだ諦めるわけにはいかない。
ぎゅっと目をつぶり、ゆっくりと瞼を開く。必ず打つ。
すると。
 急に周囲の音が何も聞こえなくなった。さっきまでうるさかった外野の声も、びゅーっという風の音も聞こえない。ピッチャーの動きはスローモーションに見え、投げた球はまるで止まっているかのように見える。。まるで時間がゆっくりと流れているようだ。なぜだか俺はすごく落ち着いていて、球をしっかりと見て、バットを振る。バットは芯を食い、打球は空高く舞い上がる。
 飛球は秋の夕空に吸い込まれ、高く高く飛んでいく。空は赤が大部分を占め、青い空をかなり侵食していた。
球はそのままフェンスを越えると、後ろの川に落ちた。
と、その時、周囲の音が聞こえ始め、止まっているかのようにゆっくりと流れていた時間が元に戻る。
「うおおおおおお!ホームランだー!あの兄ちゃんやりやがった!」
「根性あんじゃねえか畜生!」
「きゃー!うちの勝利ねー!今夜はごちそうだよ!」
 ヤンキーとおばちゃんたちの興奮した声が聞こえる中、日の丸商店街のおっさんたちが走って駆け寄ってくる。その中でも、誰よりも早く駆け付けた星野は俺の首に抱き着いてきた。
「翼くん!君ってやつは!いいとこ全部持って行っちゃうんだから‼信じてたよほんとに!」
「お、おい!」
「坊主!よくやってくれた!お前のおかげで勝てた!」
「ありがとう!君のおかげだ!」
「うおおおおお!よっしゃー!」
 みんな俺の頭を嬉しそうに叩いてくる。
「茜ちゃん。嬉しいのは分かるけどいつまで抱き着いてるの。青井くんを称賛できないじゃないか」
「えっ⁉ごご、ごめん翼くん!嬉しすぎてつい…」
 星野は顔を真っ赤にすると慌てて俺から離れた。
「あ、いや、いいけどよ」
「ちょっと!まだ試合終わってないですよ!三人ともちゃんとホームベース踏んで!」
「あ、そうだった」
 俺たちは改めてホームベースを踏むと、得点ボードは五対六となった。
「ゲームセット!」
「よっしゃー!」
 改めてチームのみんなが集まると俺を胴上げした。
「君たちは最高の助っ人だ!」
「俺たちの商店街を守ってくれてありがとう!」
「お前は俺たちのヒーローだ!」
 重力に逆らって、夕空に近づいたり遠ざかったりしながら俺は考えていた。
 こんなに汗と砂にまみれて、全力で走り回ったのはいつぶりだろうか。こんなに清々しい気持ちになったのはいつ以来だろうか。商店街のおじさんたちはみんな興奮して、本当に嬉しそうだった。誰かのために頑張る喜びを久しく忘れていた。
「お前は俺たちのヒーローだ」
 その言葉が何度も胸にリフレインする。忘れていた感情を少しだけ思い出した気がした。
 
その後、おばちゃんたちに話しかけられた。
「あんたたち!今日は助けてくれてありがとね~。ほら!おにぎりと麦茶あるから食べな!夕飯前だから食べ過ぎないようにね!」
 やかんで沸かした麦茶は冷たく、乾いた喉を潤してくれた。おばちゃんがにぎってくれたおにぎりは梅が入っていて、米とよく合った甘酸っぱさが、疲れた体に染み渡った。
 
 試合も終わり、俺は星野を急いで近くの病院へと連れて行った。最後に無茶をしたせいか更に腫れ上がり変色も進んでいたが、幸い骨は折れていなかったようだ。お医者さんにはしばらく安静にするように言われた。
 帰り道。星野が忘れ物をしたとのことで、俺たちは再度公園へと来ていた。
「あったあった。野球帽。良かったー」
「もう日も沈みかけて暗くなってきてる。さっさと帰ろうぜ」
「そうだね。今日はちょっと疲れたしね」
 その時、ぽつりと頭に雨粒が落ちた。次の瞬間、ザーッという大きな音とともに大量の雨が降ってきた。
「うわー!」 「うお!」
 俺たちは急いで近くのベンチへと逃げ込む。
 秋の雨は周囲の気温を下げ、日没前の公園はすっかり冷え込んできた。
「もうすっかり秋だな。暗くなるのが早くなってきたし、雨が降るとこんなに冷える」
「…」
 星野の返事がなかったので訝しく思い振り返ってみた。すると、星野は苦しそうな顔をしながらベンチに倒れていた。
「おい!どうした星野!大丈夫か!」
「…ちょっと無理しすぎちゃったみたい」
「だから言っただろうが!」
「今の雨で急に体温が下がったせいか!もう一度病院行くか?」
「そうしようかな。ちょっと余裕ないかも」
 星野は苦しいだろうに困ったように笑っていた。
「ちょっとおでこ触らせてくれ」
 星野の額に俺の手を当ててみる。
「すごい熱じゃないか。とにかく今からおぶってくからちょっとの間だけ我慢してくれ」
「あ、それひんやりして気持ちいいかも。ちょっとそれ続けてみてくれるかな」
「これがいいのか?」
「うん」
 五分ほどそうしていると、星野はいきなりがバッと起き上がると、そのまま立ち上がった。
「治ったー!」
「は⁉そんなわけあるか。早く病院行くぞ」
「ほんとだよ!翼くんの手には冷えピタ効果でもあるのかな。さっきまでの気分が嘘みたいだよ!」
 そういうとバットをスイングする身振りをしてみせた。
「…うそだろ。どうなってんだお前の体は」
 どうやらこいつの体は普通の人間とは構造が違っているらしい。
「まったく。心配かけやがって。だが、とりあえずむこうにシャワーがあるから、直ぐにシャワーだけでも浴びた方がいい。汗と砂と雨といろいろ汚れているだろうし、衛生的にも良くない。お前の気力に体が負けている可能性もある。今日はさっさと帰って軽く食べて早く寝た方がいい」
「私着替えなんて持ってきてないよ。それに私ん家ここから遠いし」
「あ、そうだ!翼くん家ここからすぐ近くじゃん!着替えとシャワー貸してよ!」
 軽いノリで恐ろしいことを言ってくる。
「なっ!」
「ほら!早くシャワー浴びないと体に悪いんでしょ?私また途中で倒れちゃうかもだよ?か弱い女の子を見捨てていいの?」
 星野は勝ち誇った顔で詰め寄ってきた。完全に墓穴を掘ってしまった。ちくしょう。
 仕方ない。人助けだと思えば。
「はあ。分かったよ。じゃあさっさと行くぞ」
「いやったー!翼くんの手料理が食べられる!」
「だれが夕飯まで食べて行けと言った」
 相変わらず厚かましいやつだった。

 雨は思いのほかすぐに止んだため、あまり濡れずに家まで辿り着けた。
 ドアを開けると家の中に入った。
「お邪魔しまーす!」
うきうきした顔で星野が挨拶する。
「別に誰もいねえよ」
「翼くんご両親は?」
「…転勤で東京にいる」
 一瞬固まるがすぐに答える。
「へえ。それじゃあ一人暮らしなんだね。寂しいでしょ?」
「別に。一人だと気楽でいいもんだ」
「そっかそっかー。それじゃあ私がたまに来てあげるね」
 俺の返事を勝手に解釈する。
「今の会話の流れでなぜそうなる。来んでいい。それよりさっさと風呂に入れ。着替えは俺の服しかないが文句は言うなよ」
「言わないよ。じゃあ先にいただいちゃうね。あ、そうだ。分かってるとは思うけど覗いちゃダメだ――」
「夕飯は何が食べたい?砂団子でいいか?」
 無視して続ける。
「いいわけないでしょ!ていうか無視しないでよ!かつ丼がいいかな!」
「そんなものはない」
「じゃあなんで聞いたのさ!それじゃあ君に任せるよ。あ、一緒に入るっていう選択肢もあ――」
 星野が憤慨したと思ったら今度はふざけたことを言う。
「それじゃあ泥団子にしとくか」
「砂団子と変わらないじゃん!聞いてよ!」
「夕飯まで食べていっていいからさっさと入ってこいってことだ」
 面倒くさいやつだ。
「まったく君は。可愛げってやつにかけるよね」
「さっさと行け。また倒れられても困る」
「はーい。夕飯楽しみにしてるねー」
 俺はさっそく夕飯の支度に取り掛かることにした。
 お米は水にさらすと早炊きにする。かつお出汁をとっておき、冷蔵庫から秋刀魚を取り出すと三枚に下ろし骨を抜き取る。酒に漬けておく。これで臭みが取れ身もやわらかくなる。大根、人参、ごぼう、玉ねぎ、豚肉を一口大に切っていく。フライパンに油をひき、小麦粉をまぶした秋刀魚を投入する。鍋にはごま油をひき、切っておいた野菜と豚肉を加え炒める。
 風呂場から星野の鼻唄が聞こえてきた。例の曲だ。
 秋刀魚の両面を焼くと、みりん、しょうゆ、酒の調味料を混ぜたたれをたっぷりとからめる。いい香りがしてきた。ねぎを小口切りにしておく。沸騰した出し汁に炒めた具材を入れ、弱火でことこと煮込む。十分ほど煮込むと火を止め味噌を溶き入れる。あとはお米が炊けたら完成だ。
「んんー!良いにおい!なに作ってるの?」
 星野が風呂から出てきた。俺の服はサイズが大きいようで、ダボダボだったが、オーバーサイズのお洒落なTシャツの様で、案外様になっていた。
「秋刀魚のかば焼き丼と豚汁だ」
「わーお!良いねー旬だねー!和食だ!もう腹ペコだよー!」
 頬を紅潮させワクワクした顔でお腹をさする。
「十分くらいで出るから俺が風呂入ってる間待っていてくれるか。お米もちょうどそれくらいで炊きあがる」
「えー。だから一緒に入ろうって言ったのにー」
「米なしで食いたいなら好きにしろ。非国民め」
 先に風呂を借りておきながらぶーぶー文句を垂れる星野を無視すると俺は風呂に向かう。
 砂と汗と雨とにまみれたジャージを脱ぐと洗濯機に放り込む。風呂場に入ると湯気が立っており、誰かが使った後の風呂場なんて見慣れぬせいか、いつもの風呂場と違って見えた。
 暖かいお湯を全身に流すと冷えた体が芯から温まって、今日一日の疲れも流れていくようだった。ほっと一息つく。風呂場の窓の外からは、秋の夜の虫の音が聞こえてきていた。
 そういえば、つい最近までこんな風に鬱陶しい雨が続いていたことを思い出す。あれはもう数か月も前の出来事か。時が過ぎるのがこんなにも早く感じる。星野に振り回され、毎日忙しくなったせいだろう。前まではあんなにも時間が過ぎるのが遅く感じていたというのに、それさえも遠い昔のことのように感じる。
 鏡の中の自分の顔を見てみると、酷かったくまが消えていた。星野と関わるようになって以来俺は夜も――
「つばさくーん!まだー?もう私我慢できないよー」
「そろそろ上がる」
 あまりに疲れていたのと、考え事が捗ってしまったせいかちょっと長居しすぎたらしい。急いで体を洗うと風呂から上がる。
 脱衣所から出ると、なにやら星野は身を屈めるとベッドの下を覗き込んで何かを探していた。
「何してる」
「翼くんのエッチな本を探索しているの」
「そんなものはどこにもないからさっさと――」
そう言いかけて思い出す。そういえば、先日大志が忘れていったいかがわしい本を一冊、捨てるのも悪いからということで、押し入れに閉まっていなかったか。額に汗が滲む。
「どうかしたの翼くん?あと残るは押し入れだけだよ。君の無罪を証明しようじゃないか」
「い、いや。何でもない。それより冷めないうちに飯にしないか?」
「あ!そうだった!もうお腹ぺこぺこなんだよー」
 ふー。何とか助かった。あとでこいつがトイレに行ったときにでも別の場所に隠そう。
 炊飯器の蓋を開けるとつやつやのご飯が炊きあがっていた。それを丼によそい、たれのたっぷりかかった秋刀魚を乗っけると、切っておいた小ねぎを散らす。これで秋刀魚のかば焼きの完成だ。そして鍋の蓋を開け、熱々の味噌汁と豚汁の具材をよそう。
 俺たちは机に向かい合って座ると、机に並べられた秋の食事を頂くことにした。
「いただきます!」 「いただきます」
「んんー!おいしー!」
 星野が目を輝かせて本当に美味しそうな顔をする。
「そうか。ならよかったが」
「香ばしい醤油だれにぷりっぷりの秋刀魚!豚汁もごま油の味がして、こくがあるよ!疲れた体に染み渡るー!」
「へえ、分かってるじゃないか。だが丼の主役は米だ。このかば焼きはお米と一緒に食べるからこそこんなにおいしいのさ」
「また始まったよ翼くんのお米トークが」
「翼くん、ステイ!」
 そう言って手で「待て」と合図してくる。
「犬か俺は」
「翼くんの話は長いんだよ。ところで翼くん。私たちが相棒になってそろそろ長いじゃない?」
「相棒になった覚えはないがな」
「だからそろそろ翼くんも、私のことを星野じゃなくて茜って呼んでもいいんだよ?」
 構わずにわけのわからんことを言ってくる。
「なんだそれは。却下だ」
「何でー!私だって翼くんって下の名前で呼んでるんだから不公平じゃん!」
「ならお前が青井に戻せばいいだろ。俺の納得のいく理由があるなら上げてみろ」
「むむむ!何と頑固な」
 豚汁をすすりながら星野が眉間にしわをよせる。
「改めて、今日はお疲れさまだな」
 俺は冷蔵庫からキンキンに冷えたコーラを持ってくると、氷を入れたグラスに注ぎ、星野と乾杯する。
「お疲れさまー!翼くん今日カッコ良かったよ。君は奇跡を起こして見せたんだよ」
「あんなのただのビギナーズラックだ。そもそもお前がいなかったら試合にならなかった。お前のおかげで勝てたようなもんだ」
「えへへ、照れるなー。ありがとね」
「ところで翼くん。今日の試合は押して入れまくったよね。点を」
 急に星野が不穏な笑顔を浮かべる。
 びくっとする。
「あ、ああ。最後らへんだけだけどな」
「そうだねー」
 星野は変わらずニコニコしている。
 こいつ、まさか気づいたのか?なんだ今の違和感しかない倒置法は。そもそも試合は押してもいない。
「そうだ青井くん。秋刀魚、もっと取り入れてくれるかな」
 再びびくっとする。
「取り入れろってお前、もっと買ってこいってことか?」
「あ、間違った。取って入れてくれるかな?だったや」
星野はずっと怖いくらいニコニコしている。
こいつ、間違いない。気づいている。エロ本の隠し場所に。俺が先ほどからちらちら見ていたのに気づいたに違いない。しかし、それ以上に、とてつもなく怒っている。
こいつ怒ったらこんな感じなのか。一番質が悪いじゃねえか。おそらく先ほどの俺の返答が気に入らなかったのだろう。呼び方も青井くんに戻っている。こいつにこんなねちねちした一面があったとは。
「青井くん、スポーツの秋、食欲の秋とこれば、あとは読書の秋だよねー。何か読みたいなー。何か刺激的なものが」
 この確信犯め。攻めてきやがった。
「そんなことより星野。もっとコーラ飲むだろ?ついでやるよ」
 なんとしてもこいつをトイレに行かさなければ。
「青井くんこそ、もっと飲むでしょ?今日の立役者なんだから。グイッと行こうよ」
「いやいやいや。今日のMVPはお前だ。ぜひ注がせてくれ」
「いやいやいやいや。青井くんあっての勝利だよ。私に注がせて?」
 こいつ、俺をトイレに行かせて、その間に押し入れに行く気だな。
 互いににこにこしながらコーラを奪い合う。
「うふふ。もう青井くん手を放してよ、注げないでしょ」
「あはは。そっちこそ放してくれよ、こぼれちまうぞ」
「うふふふふふ」
「あははははは」
渇いた笑いが部屋に響き合う。
「ぷぷっ」
「くくっ」
「あははははははは!」
「くくくくくくくくっ」
 二人の笑い声が部屋に響く。
「もうなに、翼くん渇いた笑い声出して!」
「お前こそへったクソな演技しやがって!」
 星野はいつか見たときのように、両方の手の親指と人差し指を直角に立てると、小さな四角形を作り、まるでカメラのようにその穴を俺に向けて覗き込んできた。
「前にも聞いたが、それは何なんだ?」
「これはねー、心のカメラだよ」
「心のカメラ?」
「そう。このカメラで写したものは何でも、一生心に焼き付けられて消えないんだ。だから私は本当にずっと残していたいものはこのカメラで撮るんだよ」
「前は君が怒ってるときだったから教えなかったの。それにしても君はそんな顔で笑うんだね」
 星野は本当に嬉しそうな顔でそう言った。
俺が笑ってた?泣きも笑いもしなくて、面白みのない俺が、笑ってたのか。
時間の流れだけじゃなかった。俺はいつの間にか、こんなにも星野に…。
今日気づいた。こいつの行動でみんなが変えられていく。消沈していた商店街のおじさんたちも。敵対していたヤンキーたちも。諦めない星野が、みんなの心に勇気を与え、応援したくさせる。学校の外で見るこいつは、本当はクラスの誰も知らないたくさんの一面を持っている。
だからこそ、俺は前から気になっていたことを星野に聞いてみることにした。
「なあ星野。俺はお前が意味もなく奇怪な行動をするやつだとはもう思わない。前々から聞いてみたかった。なんでお前は、嫌われるような、周囲から浮くような行動を自分からとるんだ?」
「…私はね、この国では、たくさんの人が生きながらに死んでいると思う。自分の考えをもてずに、押し付けられた考えを自分のものだと思い込んで生きている。抑圧されて、押し付けられて。学校にいると息苦しいの。個性を奪われて、集団行動を強いられて、見えない空気を読まないといけない。どんどん自分が死んでいく。腐った社会に出て行く予行演習をしているように感じるの。だから私は空気を壊すことにしたんだ。飼いならされてなるもんか。死んでなんかやるもんかって。つまらない日常の中で腐敗しちゃいそうになるのなら、私が日常を非日常に変えてやるんだって。だから私は何にも縛られず生きている。ただそれだけだよ」
「……」
 星野はずっと、抗い続けていたのだ。バカにされながらも、蔑まれながらも、それでも、自分の信念を貫き通してきた。
心の中では、俺も思ってた。目に見えない空気を読んで、個性を押し殺す毎日に辟易していた。でも、何もできずにつまらない日々を淡々と消費して生きてきた。
星野は俺と似ている。けれど、決定的に違うのは、何もできずに諦めてしまう俺に対して、星野は、ずっと行動で示し続けてきたことだ。だから俺は、俺と似ていながらも対極にいる彼女に、こんなにも心動かされるのだ。
「こんな間違いだらけの世界だから息をするのも苦しい。息苦しくて、生きづらい。でも。生きづらさはまだ私たちが死んでない証だから。まだ私たちが抗い続けているから息苦しくて生きづらいんだと思うんだ。自分の中の大切にしていることや、こだわりたい事、貫きたいことを大事にしているからこんなに生きづらい。もっと生きやすい方法はあるはずなのに、自分を殺せば楽なのにそうしない。そうできないのかもしれないね。誇っていいんだよ。それが大切にすべき自分らしさだから。でもいつか。こんな世界で生きやすくなってしまった時は、きっと戦うのを止めて順応して、生きやすい楽な道を選んでしまったからなんだろうね。きっとみんな少しずつ戦うのをやめていく。少しずつ無意識にそうなっていくんだよ。それが大人になるってことなのかもしれないね」
 星野は、最後は悲しそうにそうつぶやいた。星野は誰よりも子供じみ見えるが、本当は誰よりも大人なのかもしれない。いや、そうなりたくないと必死に抗っている、大人でも子供でもない、何かなのか。その何かが一番輝いていて、本当の意味での一人前なんじゃないかと俺は思った。俺たちは大人から見たらこの社会のことは疎い半人前かもしれないが、きっと未熟で不格好で、かっこいい半人前だ。
「さあ翼くん。私はまだ諦めてないよ。君がどこかに隠した例のぶつを白日の下に晒されたくなかったら私の条件を飲んでもらおうか」
 さっきまでの雰囲気は消え去り、またふざけた明るい空気が流れ出す。
「仮にその物があったとして、見つけたらどうなる?」
「破り捨てるよ。それか我が家の家宝として、君のムッツリっぷりを末代まで語り継ぐよ。そして君のことをむっつり翼と呼ぶ。そんな売れない芸人みたいに呼ばれるのは嫌でしょ?だから、さっさと諦めて私のことを茜って呼んで。そして今晩は私のことを泊めなさい」
 などと腹立たしいことを要求してくる。
「おい。さらっとなんか一つ増えてんじゃねえか」
「大丈夫!私は君の寝言も歯ぎしりも気にしないから!」
「俺はお前の寝言も歯ぎしりも、そして涎も気にするんだよ」
「私は寝言も歯ぎしりもしませんー!涎も‼」
「俺だってしねえよ。あとお前、涎は垂らして――」
 ぶおん。星野の拳が俺の横数ミリをかすめる。
「次は当てるよ」
「涎は垂らさないな。間違いない」
「でしょ?じゃあ泊っていいよね?」
 星野は先ほどのやり取りなどなかったかのように話を進めようとする。
「いや、だけどだな」
「君はこんな時間に病人を一人で遠いお家まで帰らせるの?私が途中で倒れちゃったらどうするのさ!もうこんなに遅い時間なんだよ」
「ぐっ、確かにそれはそうだが」
「君に選択肢などないのだよ、翼くん。大丈夫、枕投げは加減するから」
「そんな心配はしていない」
 恐らくこいつは何を言っても聞かないだろう。それに弱みも握られているしな。
「分かったよ。はあ」
「いやったー!お泊りだ!私誰かのお家に泊るの初めてなんだよね!あ、コンビニで歯ブラシ買ってくるね!」
「あ、そうだった。その前に。ほら、翼くん。どうぞ」
「…何だよ。さっさと買ってこいよ。星野」
 星野は心底むかつく顔で、まるで「だめだこいつは」ととでも言うように大げさに肩をすくめると、大きくため息をついた。
「はあ。まったく。これだから翼くんは。リピートアフターミー?あかね」
「だから何なんだその英語は」
「いいから!」
「…気を付けて行って来いよ。茜」
 星野は、いや、茜は、心底嬉しそうに笑うとこう言った。
「うん!翼くん!行ってきます!」

「お前の布団、俺の父親が使ってたやつしかないが、いいか?」
 コンビニから帰って来た茜に確認する。
「うん、もちろんいいよ。あ、明日の朝ドングリジャーと仮面ライダーやるから絶対起きてみようね!」
「いやだよ、一人で見ろよ」
「ええー、じゃあプリキュアは一緒に見ようね!」
「余計見るかよ。女児向けアニメだぞ。おいもう電気消すぞ」
 何を言っているんだこいつは。
「翼くんのパンツすーすーするよ。お腹壊さないかな」
「だったら二枚履けばいいだろ。今日は疲れたから寝させてくれ。消すぞ」
「ねえ翼くん」
 なおもしゃべり続ける。
「まだなんかあるのかよ」
「今日の翼くん、かっこよかったよ。」
「…そりゃどうも」
「うん。それだけ。おやすみ」
「ああ。おやすみ」
 俺は電気を消した。見慣れたはずの天井はいつもと違って見えた。他人が横に寝ているせいで、なかなか寝付けないのではないかと踏んでいたが、疲れていたのかすぐに意識が消えた。
その晩、熱を出した。俺もかなり疲れていたのだろうか。それとも、季節の変わり目だからか。朦朧とした意識で夢うつつの中、茜の姿が見えた気がした。

 あ、翼くん起きた?調子どう?翼くんひどくうなされてたんだよ。私の風邪が移っちゃったのかな。昨日泊って正解だったよ」
 おでこには熱さまシートが貼られていた。時計を見るともう昼の十二時だった。茜が看病してくれてたのか。
「悪いな。ずっと看病してくれてたのか。ちゃんと寝たか?俺夜中から発熱してただろ」
「もう寝不足だよ。でも私一日くらい寝なくても平気だから安心して。あ、おかゆも作ってあるよ。台所勝手に使わせてもらったけど。食べて。元気出るよ。翼くんの大好きなお米だから」
「ありがとう。お前もしばらく寝たらどうだ?俺はもう大丈夫そうだ」
 そう言って俺が上体を起こそうとすると。
「あっ!まだ無理しないで!翼くん四十度近くあったんだよ。今は解熱剤が聞いてるけど、治ったわけじゃないからしばらく寝てなさい。私は帰ってから寝るから大丈夫」
「そうか。分かった。悪いな」
「ううん、気にしないで。翼くんだって昨日私が倒れた時面倒見てくれたでしょ」
 茜はその後、十五時近くまで俺の面倒を見て、帰っていった。
 結局その後も熱はぶり返し、完全に回復するまで一週間もかかった。