目が覚めると体が軽かった。確か、さっき急にお腹が熱くなって血を吐いたと思ったらそこで意識が途絶えたはずだ。それなのに、なぜか今まで体の節々が痛くて堪らなかったはずなのに、すっかり痛みも消えていた。
不思議に思い体を起こすと、すぐ隣で鼻血を出した翼くんが倒れていた。
え?
「翼くん?翼くん!どうしたの⁉しっかりして!」
翼くんを揺すってみるが、意識は戻らない。
私はどうしていいのか分からず、そこで初めて他の人の存在に気づいた。部屋の中には三人ほどの旅館の女将さんがいて、みんな唖然とした顔でこちらを見ていた。
そのうちの一人の、サングラスをかけたシルバーヘアーのおばあさんが私の方に近づいてきた。おばあさんはサングラスをはずすと目を丸くして私たち二人を見ていた。
「信じられない。黒い塊を吸い込んでしまった。こんなことがありえるのかい」
おばあさんが何を言っているのか分からなかったが、私はとにかく助けを求めた。
「翼くんを助けてください!」
おばあさんは悲しそうな顔で言った。
「残念だけど、この男の子は助からないよ。今あんた体が軽いんじゃないのかい?それはね、この男の子が身代わりになってくれたからだよ。あんたは生きなくちゃいけないよ。この子が生かしてくれた命を大事に、この子の分も生きなさい」
そんな。嫌だ。翼くんが私の身代わりになった?嘘だ。そんなこと急に言われたって信じられないよ。
その時、以前野球をしたときのことを思い出した。あの後私は倒れて、翼くんが私のおでこに手を翳してくれたらすごい楽になったんだ。それで、私が治った後で、今度は翼くんが風邪を引いて…。
私は分かってしまった。あの時も翼くんが助けてくれてたんだ。私の身代わりになって。それで、今度は、私の病気の完全な身代わりに…。
「嫌だよ!翼くん!私そんなの望んでないよ!お願い死なないで!」
どうしよう。このまま病院に行っても私が治らなかったんだから、翼くんだって治る可能性は薄い。でも、このままじゃ翼くんが…。
私は翼くんの胸に手を当て必死に願った。
「戻れ!戻って!戻ってよ!翼くんを連れて行かないで!」
おばあさんは翼くんに近づくと脈をとっていた。
「一応まだ息はあるようだけど、もう意識が戻ることはないと思った方がいい。もう黒い塊が全身に回り切っている。長くないよ」
「そんな!嫌だ!おばあさん!何か知ってるんでしょ⁉本当にどうにもならないの⁉」
「無駄だよ。この子の覚悟を受け入れてやりな」
「やだ!絶対諦めない!」
駄々をこねる私におばあさんが溜息をついた。
「ここの近くに神社がある。子供ができない女性が子供を授かったり、行方不明の娘がそこの神社の横で倒れて発見されたり、何度か奇跡が起きたという話を聞いたことがある。車出してあげるから、そこに連れていってあげるよ。ただ期待しないことだね。急いで準備しな」
「ありがとうございます!」
私は言われるがまま、外に出て車に乗った。久々に出た外は日の光が明るく、軽い体も相まって今はそのことが空しく感じられた。
翼くんが助かる希望があるのなら、なんにでも縋りたかった。
翼くんが担架で運ばれ車に乗せられる。
車の中で、翼くんを膝枕しながら、その髪を撫でつける。
お願い。もう少しだから頑張って。
車に乗って、山道を揺れながら走る。まだ旅館を出て大して時間は経っていないはずなのに、私には長い時間が経ったように感じる。
ところが、山の中腹ほどまで行ったところで不運に見舞われた。山道を走っていると、横から突然雪崩が襲ってきたのだ。雪崩といっても車とその周囲数メートルを覆うくらいのものだったが、それでも車が止まるのに十分な大きさだ。白い雪がまるで先日の雪遊びのすべてを否定するごとく、凄まじい勢いで駆け下りてくる。
おばあさんがスピードを上げて何とか避けようとするが、雪崩の範囲は大きく、車体が大きく揺れる。私は翼くんに怪我させないように、私の胸に頭を抱える。
だが、私たちは車ごと雪に埋もれてしまった。
「大丈夫かい⁉すぐに助けを呼ぶからね!これは除雪まで長いことかかるよ。悲しいことだけど、その子はもう諦めた方がいい。そのまま病院に搬送した方がこの子のためだよ」
嫌だ。まだ諦めない。なんでこんな時に限って。
ああ、まずい。どんどん車内が冷えていく。ただでさえ翼くんは危篤なのに。
私は翼くんの体温が奪われないように力強く抱きしめる。
このまま助けがくるまで、この寒い車で待つの?酸素も薄くなってくるはず。翼くんが耐えられるわけないよ。
一刻も早く神社に行かないと。こんなところで足止め食らってる場合じゃない。
どうか。お願い。翼くんを助けてよ!
刹那、頭の中に火が燃え上がるイメージが流れ込んできた。
その直後、車を覆っていた雪がどんどん溶けていく。それどころか、道を覆っていた雪もすべて溶けてしまっていた。
「なんだいこれは。雪が溶けた?」
おばあさんが驚いた声を出した。
何だかよく分からないけど、雪が溶けたみたいだ。深く考えている時間はない。今がチャンスだ。
「おばあさん!また雪崩が来る前に、急いで山を降りようよ!」
「そ、そうだね」
私たちは、急いで神社に向かう。
私は車の中で、翼くんに思いを馳せる。
君も、私が弱っていた時、こんな気持ちだったのかな。ごめんね、私、心配かけてばっかりで。今になって、君の気持が痛いほどよく分かる。
君は絶対死なせないからね。また起きて、いつもみたいに私に憎まれ口叩いてよ。
ごめんね。私のせいでこんな苦しい目に遭わせて。
しばらく車を走らせ、神社に着いた。そこは森の中にあって、神社特有の神秘的な雰囲気を醸し出しているところだった。
鳥居を潜ると、すぐ階段があった。私は翼くんに肩を貸すと、階段を上る。おばあさんは反対側から翼くんを支えてくれていた。
階段を上ると、社殿は池に囲まれているところにあった。まるで儀式のための祭壇のようだった。
私たちは、池を渡ると、社殿の中に入る。社殿の中は、どこかひんやりとしていた。
その裏に回ると、本殿があった。ここにこの神社のご神体が祀られているらしい。
「誠意を持って一生懸命お願いするんだよ。もしかしたらあんたの清い心に、この男の子の優しさに、神様も応えてくださるかもしれない」
私は翼くんを本殿の前にそっと寝かせると、手を合わせて必死に頼んだ。
お願いします。私はどうなっても構いません。ですから、この人だけは連れて行かないで下さい。世界で一番大切な人なんです。
私はこの人に救われたんです。どうか。どうか翼くんを助けて下さい。どうか。
私は長いこと祈り続けた。三十分くらい経っただろうか。誰かが私の肩に手を置いた。
目を開けると、おばあさんだった。悲しそうな顔で首を横に振る。
「残念だが、もう、この子は…」
そんな。
翼くんはもう息をしていなかった。
なんで。嘘だ。こんなことあるはずないよ。
嫌だ。嫌だ。翼くん。
ふと隣に人の気配を感じ顔を上げると、以前道に迷っていた男が、翼くんがサンタクロースだと言っていた人が立っていた。
「え?」
「思い出してごらん。彼との思い出を。彼のことを考えてごらん」
「え?い、いつから」
「いいから。ほら」
翼くんとの思い出。宝物のように大事にしまっている。いつでもすぐにでも思い出せる。
一緒に猫を助けた。バーベキューをした。野球をした。お泊りをした。公園で遊んだ。紅葉を見に行った。病院から抜け出した。温泉に来た。
何度も言い争いをした。冗談を言い合った。笑い合った。手を繋いだ。抱きしめてくれた。
私の一挙一動に、本当に困って、呆れて、怒って。いつも私を見ていてくれた。私のわがままに振り回されてくれた。
いつもすました顔してるのに、不意を突かれた時の顔が好きだった。
素直じゃないんだけど、本当は誰よりも優しいところが好きだった。
困ったときに「まったく」って口癖のように言うのが愛おしかった。
全然泣きそうにないのに、私のためによく泣いてくれるのが嬉しかった。
むっつりって言われる度にむっとした顔になるのが面白かった。
こんなにも、好きで、愛おしくて、色んな感情にさせてくれる。
好き。大好き。私のヒーロー。
ずっと一緒にいたい。
隣を歩いていたい。
君のことをもっと知りたい。
君のことを考えるだけで、こんなにも胸が満たされていく。
君のいない世界を考えるだけで、こんなにも胸が張り裂けそうになる。
死なないで。行かないで。
嫌だよ。私を置いて行かないで。
私の両方の目から涙が零れ、翼くんの顔に滴り落ちた。
その時、私の落とした涙が光り始めた。その光は徐々に強く、大きくなり、翼くんの体を包み始める。目も開けられないほどの光に私を目を閉じる。
やがて光が収まり、私は恐る恐る目を開けた。
翼くんの胸が上下に動いていた。心臓が動いてる。
「翼くん!」
私は思わず翼くんを抱きしめた。
「ん?茜か?どこだここ?あれ?俺確か死んだはずじゃ。何か体軽いような」
翼くんがまた話してる。
涙が止まらなかった。
「え?お前、泣いてるのか?」
「ううっ、泣いてないもん」
「いやめっちゃ泣いてんじゃねえか。そっか。はは。やっと泣いたか。そうだよ。辛い時はいつだって泣いていいんだよ。誰もお前を責めるやつなんていねえんだから」
翼くんがいつもみたいに少し乱暴なしゃべり方で、でもいつも以上に優しく話しかけてくれる。
「私は君のせいで泣いてるんだからね!このいじめっこ!」
「俺のために泣いてくれたのか?ありがとな。茜」
翼くんが急に優しい目つきになる。ああ。翼くんが帰ってきたんだ。もう絶対放さない。
「信じられないよ。ほんとにどっちからも病気が消えてる」
隣でおばあさんが驚いた顔で私たち二人を見て、あの男の人のことを見る。
「あの。あなたが何かしてくれたんですか?」
私はハット帽の男に尋ねる。
「僕はただつないだだけさ。君とこの神社の神様との縁を。君が初めて流した涙が、誰かを愛おしいと思う愛と、死なないで欲しいという切実な哀の涙だったから。その純真さに神様が応えてくれたのさ。今まで大変だったね。もう君が背負うことはないよ。君の役目は終わったのさ」
「ありがとうございます!」
言っていることの意味はよく分からなかったが、とにかく私はハット帽の男にお礼を言った。
「お礼ならここの神様と、ここまで連れて来てくれた女将さんに言うんだね」
私たち二人は改めて、手を合わせてお礼を言った。
「女将さんもありがとうございました!」
「俺からも。本当にありがとうございました」
「いいんだよ。これが私の仕事みたいなものさ」
神様にお礼を言い終わった後に目を開けると、サンタさんはいなくなっていた。翼くんはそういう人だと言っていた。後から聞いたところ、あのハット帽の男が現れた時も、女将さんが瞬きをした一瞬のうちにだったらしい。
それにしても、まだ信じられなかった。私は翼くんが消えてしまわないようにずっとその手を握っていた。
それから宿に戻った俺たちは、女将さんにお礼を言うと、飛行機に乗って、町に帰って来た。
検査のため病院に戻ると、医者にも看護師さんにも俺たちはたっぷりと叱られた。
だが、検査の結果茜の病気は完全に治っていて、癌も完全に消えていた。医者は頭を悩ませていた。それでも大事をとって茜は一か月ほど入院した。
その間も俺は、毎日のように学校の帰りに病院に寄ってお見舞いに行った。
茜は退屈そうにしていたが、俺は、今までと違い、お見舞いに行くのが気楽で楽しかった。
大志は先生を宥めてくれていたようだが、学校に行くと先生にも叱られた。クラスメイトはみんな、見世物でも見るように不躾な視線で俺のことを見てきたが、もう気にならなかった。
「茜、調子はどうだ?」
俺は茜の病室に入った。
「もうずっと元気だよ。早く退院したいよー」
茜は退屈の余り、病院から何度か勝手に抜け出し、春香さんに叱られたらしい。
「もう少しの辛抱だ。俺は張り詰めた心もちで続いてたお見舞いの日々が更新されてるみたいで嬉しいよ」
「ごめんね心配かけて。私も君の気持が痛いほど分かったよ」
茜は珍しくしおらしい顔をする。
「まったくだ。二人とも助かって本当に良かった」
「そうだね」
「あ、ところで翼くん、お見舞いの品は?」
ドヤ顔で催促してくる。
「もう病人じゃねえんだから要らねえだろ」
「いるよ超いる!私の唯一の楽しみだよ?」
「じゃあ次から買ってくるよ」
「えー。今食べたい!アンパンマンの顔のクリームパンが食べたい!」
などと我儘を言う。
「なんだそのややこしいチョイスは。下のコンビニでおにぎりなら買って来てやる」
「だめ!アンパンマンが食べたいの!」
「アンパンマンが配る顔はただのあんぱんなんだから、それはもうあんぱんでいいだろ」
「うるさい青井くん。屁理屈ばっかり言ってないでさっさとあんぱん買ってこい」
そう言って乱暴な口を利く。
「焼きそばパン買ってこいみたいに言ってんじゃねーよ」
「あはは、一度言ってみたかったんだ」
「まったく」
俺たちは悲しい記憶を上書きするように、病院での日々を楽しんだ。
それから数か月が経った。四月になり、退院してすっかり元気になった茜と、桜の並木道を歩いていた。
一面ピンク色で世界が優しく、温かく、生命が躍動する気配がしていた。
「桜二人で見れて良かったな」
「ほんとにね。そうだ、近いうちに大山君も呼んで花見しようよ。私団子食べたい」
「お前はほんと花より団子だな」
俺は呆れた顔で隣を見る。
「意味はよく分からないけど、貶された気がしたぞ」
「いや、お前らしいなと思って」
「ねえ、いつ遊園地行こうか?ゴールデンウィークとかどうかな?」
「いいんじゃないか。春休みはさぼった分の課題で忙しかったからな。特にお前が」
「しばらく消しゴムは見たくないよ」
しばらく歩いていくと、桜並木の向かい側の塀に誰かが座っていた。
近づいてみると、黒いハット帽の男だった。
「やあ、二人とも。元気そうでなによりだよ。僕はほんの少し手を貸しただけだけど、まさか二人そろって生きてるなんてね」
男はきっとすべて知っているのだろう。どこまで計算していたのだろうか。
「あんたのおかげだ。ありがとう」
「いやいや、礼には及ばないよ。僕は大したことしてないしね」
「でも、あなたが助けてくれなかったら、私か翼くんどちらかが死ななければいけなかったです。本当にありがとうございました」
そう言って茜も頭を下げる。
「まあ今年はお嬢ちゃんにまだクリスマスプレゼントをあげてなかったからね。メリークリスマスと言うことで」
ハット帽を右手で押さえて軽く合図する。
「今までで一番のクリスマスプレゼントです」
茜が嬉しそうに言う。
「なら良かったよ。そんなことよりね、お嬢ちゃんに頼まれごとをしてたのを忘れててね」
「私?私何も頼んでないよ?」
茜は首を傾げている。
「ああ、そっちのお嬢ちゃんじゃなくてね、死んで少年の側に残っていた幽霊の方のお嬢ちゃんさ」
「…何か言ってたのか?」
やっぱり茜は言葉通り、あの時も俺のことを見守ってくれていたのだ。そのことに感動を覚える。
「君が死んでからずっと君の側で見守っている、君の母親と妹の声を届けてあげてってね。しつこくてね。まあ、これはサービスだね。一度しか会えないからよく噛みしめるんだよ」
そう言うと、男は塀を降りると、俺の方に向かって歩いてきた。
「目を閉じて」
俺の両方の目を覆うように手を翳した。
「いいよ、開けて」
目を開けると、そこは、さっきまでと同じ場所の様で、どこか違っていた。周囲には、俺以外誰もいなかった。さっきまで隣にいた茜も、俺の目の前にいたあの男も。まるで世界に俺一人取り残されたように、とても静かだ。
「翼。聞こえる?」
もう長いこと聞いていなかった、そして二度と聞けるはずのない声が聞こえた。
振り返ると、母さんと澪が立っていた。
「澪、母さん…」
突然現れた二人に俺は驚いた。みぞおちの奥が締め付けられる。そういえばさっきあの男が茜の幽霊の話をしていた。ということは、澪と母さんも幽霊なのか?俺は十年ぶりくらいに会う二人に戸惑う。だって二人とも何も成長していないのだから。俺のせいで。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
俺は二人に合わせる顔がなかった。一体どんな顔をして話をすればいいんだ。
俺は俯いたまま顔を上げられなかった。
時間はあまりないかもしれない。とにかくもし会えたなら、絶対に言わなくちゃいけないことがあったはずだ。
「二人とも、俺のせいで死んで、本当に――」
「お兄ちゃんごめんなさい!」
え?
「あの時、澪が死んじゃってから、お兄ちゃんがずっと後悔してるの側で、ずっと見てた。お兄ちゃん悪くないのに、自分のことずっと責め続けて、苦しんでるの澪いつも謝りたくて、澪も悲しかった。本当にごめんなさい!」
澪は泣きながら、俺に向かって叫んできた。
「何言ってるんだよ。あんなことで怒って手を放しちゃった俺が悪いに決まってるだろ。澪が謝る必要なんかない。やめてくれよ」
「そんなことないよ!お兄ちゃんあのフィギュア大好きだったのに怒って当たり前だよ!お兄ちゃんが自分のこと責める必要ないんだよ」
「そんなこと――」
「翼。あなたも澪も誰も悪くないのよ。あれは事故だったの。あなたがそんなに自分を責め続ける必要なんてないのよ」
母さんが優しく言葉をかけてくれる。
「母さん…」
「責任があるとすれば、お母さんの方なのよ。あの日、あなたたち二人を残して仕事に行ってしまった。私がちゃんとあの時二人と帰っていればこんなことにはならなかった」
「なんだよ、二人して。二人が悪いわけないだろ!それに母さんだって俺のこと恨んでただろ!俺のせいで澪が死んで、そのせいで母さんまで死んで…。全部俺が悪いんだよ」
「ごめんね翼。本当にごめんなさい。私のせいでこんなに苦しませてしまって。ううっ」
母さんも泣き出した。
「私は澪が死んでから、自分を責めてばっかりで、あの時二人をお家まで送ってればって、何度も考えて、あなたやお父さんとしゃべる余裕さえなくなってたの。お母さんは弱かったから、澪が死んだことを受け入れられなかったの。本当にごめんなさい。あなたを残していってしまってごめんなさい。翼のこと責めてたつもりは一切ないの。それは澪もお父さんも一緒なんだよ。誰も翼を恨んでなんかいないし、責めてもいないの。翼を許せないのは翼だけなのよ。そして翼はもう一人で十分苦しんだ。だからお願い。もうこれ以上自分を責めないで。翼が私たちのことを思うのなら、茜ちゃんと幸せに生きて欲しいの。そしたら私たちも安心して成仏できるから」
ずっと自分一人が悪いと思っていた。二人とも俺のことを恨んでいると決めつけていた。父さんだって俺を許せないだろうと思い込んでいた。
でも、そうじゃなかった。誰も俺を責めてなんかいなかった。
みんな苦しんでいた。母さんも澪もずっと俺のことを心配してくれていたのだ。そしてそれはきっと、父さんも一緒だ。
涙が止まらなかった。
「俺は、自分を許してもいいの?」
二人は大きく頷いた。
「澪は今でもお兄ちゃんのこと大好きだよ!澪のヒーローは今でもお兄ちゃんだから!だからお兄ちゃんには笑っていて欲しいの」
「お母さんもだよ、翼。あなたのことずっと愛してる。幸せになって。天国からずっとあなたのこと見守っているからね」
ああ。俺はこんなにも愛されていた。ずっと苦しかった。悲しかった。
どんなに楽しくても、嬉しくても、心のどこかにずっと罪悪感がついて回っていた。
もういいんだ。苦しまなくても。もう心の底から笑っていいんだ。幸せになっていいんだ。
「ありがとう。母さん、澪。俺もずっと愛してる」
俺がそう言った途端、まばゆい光が二人を包んで、二人は空の上へと昇って行った。
俺は涙を拭って、息を大きく吸い込むと、ゆっくりと目を閉じた。
再び目を開けると、眼前にあの男がいた。横を見ると隣には茜がいた。
「これで願いは聞き届けたからね、お嬢ちゃん」
「どうだったかい少年。ちゃんとお別れはできたかい?」
俺は首を縦に振ると、頭を下げた。
「色々と、本当にありがとうございました」
「どういたしましてだね」
男はそう言うと、俺たちの来た方へと飄々と歩いて行った。
「じゃあね、二人とも。達者でね」
俺たち二人は呆然と、男の姿を見送る。一瞬瞬きした間に消えていた。
「翼くん、大丈夫?なにがあったの?」
「それはそのうち話すよ」
俺は茜に言わなければいけないことがあった。
「なあ、それよりも――」
「あ、分かった!エロ本は子供の頼むものじゃないから来年からは没収って言われたんでしょ!もう泣くことないじゃん。それは翼くんが悪いよ。あ!そのことを見越して現金にしたんだね!それでも没収って言われちゃったんだ。まったく君はそういうことになると頭が働くんだから」
人が大事なことを言おうとしているのに、茜は横で腹立たしい勘違いをし始めた。
「違えよ!そんなしょうもないことで泣くか!俺をバカみたいに言うんじゃねえ。お前と一緒にするな」
「何だとー!私だってバカじゃないもん!バカって言った方がバカなんだぞ!翼くんのバカ!」
「その理屈で言ったら今お前はバカになったわけだが」
「し、しまった!や、やるね翼くん」
「くくっ。ほんとにお前は」
俺は茜とのやりとりに思わず笑みがこぼれる。
「あ、また笑ったね翼くん」
そう言って茜は手でカメラの形をつくり俺に向けてくる。
「これから、君とのいろんな思い出をこのカメラで撮って、記憶に焼き付けていこうね」
茜は楽しそうにそう言った。
「ああ。そうだな」
もう、茜を阻むものは何もないのだから。
「ところで。なあ、茜。待たせてごめんな。本当はもっと先になると思ってたけど」
「なに?」
俺の真剣な表情と声に、茜が不思議そうな顔をする。
俺は軽く息を吸い込むと、心の底からの思いを伝えた。
「俺のパートナーになってくれませんか」
俺は顔を背けながら、茜に向かって手を伸ばす。
茜は一瞬驚いた顔をして、それから頬を赤らめると、俺の手を握り返してきた。
「はい」
小さい頃から空を見上げるのが好きだった。
いつか手を伸ばせば、本気で手が届くと思っていた。今ではもう空に手を伸ばすことはなくなった。
でも、空に手が届かなくたって、少し手を伸ばせば触れられる距離に彼女がいてくれるならそれでいい。
超能力も、奇跡も、サンタクロースも、幽霊も全部あった。なら次は何を探そうか。
空を見上げると、吸い込まれそうなほど青い空がどこまでも広がっていた。
俺たちは二人手を繋いで歩き出した。
不思議に思い体を起こすと、すぐ隣で鼻血を出した翼くんが倒れていた。
え?
「翼くん?翼くん!どうしたの⁉しっかりして!」
翼くんを揺すってみるが、意識は戻らない。
私はどうしていいのか分からず、そこで初めて他の人の存在に気づいた。部屋の中には三人ほどの旅館の女将さんがいて、みんな唖然とした顔でこちらを見ていた。
そのうちの一人の、サングラスをかけたシルバーヘアーのおばあさんが私の方に近づいてきた。おばあさんはサングラスをはずすと目を丸くして私たち二人を見ていた。
「信じられない。黒い塊を吸い込んでしまった。こんなことがありえるのかい」
おばあさんが何を言っているのか分からなかったが、私はとにかく助けを求めた。
「翼くんを助けてください!」
おばあさんは悲しそうな顔で言った。
「残念だけど、この男の子は助からないよ。今あんた体が軽いんじゃないのかい?それはね、この男の子が身代わりになってくれたからだよ。あんたは生きなくちゃいけないよ。この子が生かしてくれた命を大事に、この子の分も生きなさい」
そんな。嫌だ。翼くんが私の身代わりになった?嘘だ。そんなこと急に言われたって信じられないよ。
その時、以前野球をしたときのことを思い出した。あの後私は倒れて、翼くんが私のおでこに手を翳してくれたらすごい楽になったんだ。それで、私が治った後で、今度は翼くんが風邪を引いて…。
私は分かってしまった。あの時も翼くんが助けてくれてたんだ。私の身代わりになって。それで、今度は、私の病気の完全な身代わりに…。
「嫌だよ!翼くん!私そんなの望んでないよ!お願い死なないで!」
どうしよう。このまま病院に行っても私が治らなかったんだから、翼くんだって治る可能性は薄い。でも、このままじゃ翼くんが…。
私は翼くんの胸に手を当て必死に願った。
「戻れ!戻って!戻ってよ!翼くんを連れて行かないで!」
おばあさんは翼くんに近づくと脈をとっていた。
「一応まだ息はあるようだけど、もう意識が戻ることはないと思った方がいい。もう黒い塊が全身に回り切っている。長くないよ」
「そんな!嫌だ!おばあさん!何か知ってるんでしょ⁉本当にどうにもならないの⁉」
「無駄だよ。この子の覚悟を受け入れてやりな」
「やだ!絶対諦めない!」
駄々をこねる私におばあさんが溜息をついた。
「ここの近くに神社がある。子供ができない女性が子供を授かったり、行方不明の娘がそこの神社の横で倒れて発見されたり、何度か奇跡が起きたという話を聞いたことがある。車出してあげるから、そこに連れていってあげるよ。ただ期待しないことだね。急いで準備しな」
「ありがとうございます!」
私は言われるがまま、外に出て車に乗った。久々に出た外は日の光が明るく、軽い体も相まって今はそのことが空しく感じられた。
翼くんが助かる希望があるのなら、なんにでも縋りたかった。
翼くんが担架で運ばれ車に乗せられる。
車の中で、翼くんを膝枕しながら、その髪を撫でつける。
お願い。もう少しだから頑張って。
車に乗って、山道を揺れながら走る。まだ旅館を出て大して時間は経っていないはずなのに、私には長い時間が経ったように感じる。
ところが、山の中腹ほどまで行ったところで不運に見舞われた。山道を走っていると、横から突然雪崩が襲ってきたのだ。雪崩といっても車とその周囲数メートルを覆うくらいのものだったが、それでも車が止まるのに十分な大きさだ。白い雪がまるで先日の雪遊びのすべてを否定するごとく、凄まじい勢いで駆け下りてくる。
おばあさんがスピードを上げて何とか避けようとするが、雪崩の範囲は大きく、車体が大きく揺れる。私は翼くんに怪我させないように、私の胸に頭を抱える。
だが、私たちは車ごと雪に埋もれてしまった。
「大丈夫かい⁉すぐに助けを呼ぶからね!これは除雪まで長いことかかるよ。悲しいことだけど、その子はもう諦めた方がいい。そのまま病院に搬送した方がこの子のためだよ」
嫌だ。まだ諦めない。なんでこんな時に限って。
ああ、まずい。どんどん車内が冷えていく。ただでさえ翼くんは危篤なのに。
私は翼くんの体温が奪われないように力強く抱きしめる。
このまま助けがくるまで、この寒い車で待つの?酸素も薄くなってくるはず。翼くんが耐えられるわけないよ。
一刻も早く神社に行かないと。こんなところで足止め食らってる場合じゃない。
どうか。お願い。翼くんを助けてよ!
刹那、頭の中に火が燃え上がるイメージが流れ込んできた。
その直後、車を覆っていた雪がどんどん溶けていく。それどころか、道を覆っていた雪もすべて溶けてしまっていた。
「なんだいこれは。雪が溶けた?」
おばあさんが驚いた声を出した。
何だかよく分からないけど、雪が溶けたみたいだ。深く考えている時間はない。今がチャンスだ。
「おばあさん!また雪崩が来る前に、急いで山を降りようよ!」
「そ、そうだね」
私たちは、急いで神社に向かう。
私は車の中で、翼くんに思いを馳せる。
君も、私が弱っていた時、こんな気持ちだったのかな。ごめんね、私、心配かけてばっかりで。今になって、君の気持が痛いほどよく分かる。
君は絶対死なせないからね。また起きて、いつもみたいに私に憎まれ口叩いてよ。
ごめんね。私のせいでこんな苦しい目に遭わせて。
しばらく車を走らせ、神社に着いた。そこは森の中にあって、神社特有の神秘的な雰囲気を醸し出しているところだった。
鳥居を潜ると、すぐ階段があった。私は翼くんに肩を貸すと、階段を上る。おばあさんは反対側から翼くんを支えてくれていた。
階段を上ると、社殿は池に囲まれているところにあった。まるで儀式のための祭壇のようだった。
私たちは、池を渡ると、社殿の中に入る。社殿の中は、どこかひんやりとしていた。
その裏に回ると、本殿があった。ここにこの神社のご神体が祀られているらしい。
「誠意を持って一生懸命お願いするんだよ。もしかしたらあんたの清い心に、この男の子の優しさに、神様も応えてくださるかもしれない」
私は翼くんを本殿の前にそっと寝かせると、手を合わせて必死に頼んだ。
お願いします。私はどうなっても構いません。ですから、この人だけは連れて行かないで下さい。世界で一番大切な人なんです。
私はこの人に救われたんです。どうか。どうか翼くんを助けて下さい。どうか。
私は長いこと祈り続けた。三十分くらい経っただろうか。誰かが私の肩に手を置いた。
目を開けると、おばあさんだった。悲しそうな顔で首を横に振る。
「残念だが、もう、この子は…」
そんな。
翼くんはもう息をしていなかった。
なんで。嘘だ。こんなことあるはずないよ。
嫌だ。嫌だ。翼くん。
ふと隣に人の気配を感じ顔を上げると、以前道に迷っていた男が、翼くんがサンタクロースだと言っていた人が立っていた。
「え?」
「思い出してごらん。彼との思い出を。彼のことを考えてごらん」
「え?い、いつから」
「いいから。ほら」
翼くんとの思い出。宝物のように大事にしまっている。いつでもすぐにでも思い出せる。
一緒に猫を助けた。バーベキューをした。野球をした。お泊りをした。公園で遊んだ。紅葉を見に行った。病院から抜け出した。温泉に来た。
何度も言い争いをした。冗談を言い合った。笑い合った。手を繋いだ。抱きしめてくれた。
私の一挙一動に、本当に困って、呆れて、怒って。いつも私を見ていてくれた。私のわがままに振り回されてくれた。
いつもすました顔してるのに、不意を突かれた時の顔が好きだった。
素直じゃないんだけど、本当は誰よりも優しいところが好きだった。
困ったときに「まったく」って口癖のように言うのが愛おしかった。
全然泣きそうにないのに、私のためによく泣いてくれるのが嬉しかった。
むっつりって言われる度にむっとした顔になるのが面白かった。
こんなにも、好きで、愛おしくて、色んな感情にさせてくれる。
好き。大好き。私のヒーロー。
ずっと一緒にいたい。
隣を歩いていたい。
君のことをもっと知りたい。
君のことを考えるだけで、こんなにも胸が満たされていく。
君のいない世界を考えるだけで、こんなにも胸が張り裂けそうになる。
死なないで。行かないで。
嫌だよ。私を置いて行かないで。
私の両方の目から涙が零れ、翼くんの顔に滴り落ちた。
その時、私の落とした涙が光り始めた。その光は徐々に強く、大きくなり、翼くんの体を包み始める。目も開けられないほどの光に私を目を閉じる。
やがて光が収まり、私は恐る恐る目を開けた。
翼くんの胸が上下に動いていた。心臓が動いてる。
「翼くん!」
私は思わず翼くんを抱きしめた。
「ん?茜か?どこだここ?あれ?俺確か死んだはずじゃ。何か体軽いような」
翼くんがまた話してる。
涙が止まらなかった。
「え?お前、泣いてるのか?」
「ううっ、泣いてないもん」
「いやめっちゃ泣いてんじゃねえか。そっか。はは。やっと泣いたか。そうだよ。辛い時はいつだって泣いていいんだよ。誰もお前を責めるやつなんていねえんだから」
翼くんがいつもみたいに少し乱暴なしゃべり方で、でもいつも以上に優しく話しかけてくれる。
「私は君のせいで泣いてるんだからね!このいじめっこ!」
「俺のために泣いてくれたのか?ありがとな。茜」
翼くんが急に優しい目つきになる。ああ。翼くんが帰ってきたんだ。もう絶対放さない。
「信じられないよ。ほんとにどっちからも病気が消えてる」
隣でおばあさんが驚いた顔で私たち二人を見て、あの男の人のことを見る。
「あの。あなたが何かしてくれたんですか?」
私はハット帽の男に尋ねる。
「僕はただつないだだけさ。君とこの神社の神様との縁を。君が初めて流した涙が、誰かを愛おしいと思う愛と、死なないで欲しいという切実な哀の涙だったから。その純真さに神様が応えてくれたのさ。今まで大変だったね。もう君が背負うことはないよ。君の役目は終わったのさ」
「ありがとうございます!」
言っていることの意味はよく分からなかったが、とにかく私はハット帽の男にお礼を言った。
「お礼ならここの神様と、ここまで連れて来てくれた女将さんに言うんだね」
私たち二人は改めて、手を合わせてお礼を言った。
「女将さんもありがとうございました!」
「俺からも。本当にありがとうございました」
「いいんだよ。これが私の仕事みたいなものさ」
神様にお礼を言い終わった後に目を開けると、サンタさんはいなくなっていた。翼くんはそういう人だと言っていた。後から聞いたところ、あのハット帽の男が現れた時も、女将さんが瞬きをした一瞬のうちにだったらしい。
それにしても、まだ信じられなかった。私は翼くんが消えてしまわないようにずっとその手を握っていた。
それから宿に戻った俺たちは、女将さんにお礼を言うと、飛行機に乗って、町に帰って来た。
検査のため病院に戻ると、医者にも看護師さんにも俺たちはたっぷりと叱られた。
だが、検査の結果茜の病気は完全に治っていて、癌も完全に消えていた。医者は頭を悩ませていた。それでも大事をとって茜は一か月ほど入院した。
その間も俺は、毎日のように学校の帰りに病院に寄ってお見舞いに行った。
茜は退屈そうにしていたが、俺は、今までと違い、お見舞いに行くのが気楽で楽しかった。
大志は先生を宥めてくれていたようだが、学校に行くと先生にも叱られた。クラスメイトはみんな、見世物でも見るように不躾な視線で俺のことを見てきたが、もう気にならなかった。
「茜、調子はどうだ?」
俺は茜の病室に入った。
「もうずっと元気だよ。早く退院したいよー」
茜は退屈の余り、病院から何度か勝手に抜け出し、春香さんに叱られたらしい。
「もう少しの辛抱だ。俺は張り詰めた心もちで続いてたお見舞いの日々が更新されてるみたいで嬉しいよ」
「ごめんね心配かけて。私も君の気持が痛いほど分かったよ」
茜は珍しくしおらしい顔をする。
「まったくだ。二人とも助かって本当に良かった」
「そうだね」
「あ、ところで翼くん、お見舞いの品は?」
ドヤ顔で催促してくる。
「もう病人じゃねえんだから要らねえだろ」
「いるよ超いる!私の唯一の楽しみだよ?」
「じゃあ次から買ってくるよ」
「えー。今食べたい!アンパンマンの顔のクリームパンが食べたい!」
などと我儘を言う。
「なんだそのややこしいチョイスは。下のコンビニでおにぎりなら買って来てやる」
「だめ!アンパンマンが食べたいの!」
「アンパンマンが配る顔はただのあんぱんなんだから、それはもうあんぱんでいいだろ」
「うるさい青井くん。屁理屈ばっかり言ってないでさっさとあんぱん買ってこい」
そう言って乱暴な口を利く。
「焼きそばパン買ってこいみたいに言ってんじゃねーよ」
「あはは、一度言ってみたかったんだ」
「まったく」
俺たちは悲しい記憶を上書きするように、病院での日々を楽しんだ。
それから数か月が経った。四月になり、退院してすっかり元気になった茜と、桜の並木道を歩いていた。
一面ピンク色で世界が優しく、温かく、生命が躍動する気配がしていた。
「桜二人で見れて良かったな」
「ほんとにね。そうだ、近いうちに大山君も呼んで花見しようよ。私団子食べたい」
「お前はほんと花より団子だな」
俺は呆れた顔で隣を見る。
「意味はよく分からないけど、貶された気がしたぞ」
「いや、お前らしいなと思って」
「ねえ、いつ遊園地行こうか?ゴールデンウィークとかどうかな?」
「いいんじゃないか。春休みはさぼった分の課題で忙しかったからな。特にお前が」
「しばらく消しゴムは見たくないよ」
しばらく歩いていくと、桜並木の向かい側の塀に誰かが座っていた。
近づいてみると、黒いハット帽の男だった。
「やあ、二人とも。元気そうでなによりだよ。僕はほんの少し手を貸しただけだけど、まさか二人そろって生きてるなんてね」
男はきっとすべて知っているのだろう。どこまで計算していたのだろうか。
「あんたのおかげだ。ありがとう」
「いやいや、礼には及ばないよ。僕は大したことしてないしね」
「でも、あなたが助けてくれなかったら、私か翼くんどちらかが死ななければいけなかったです。本当にありがとうございました」
そう言って茜も頭を下げる。
「まあ今年はお嬢ちゃんにまだクリスマスプレゼントをあげてなかったからね。メリークリスマスと言うことで」
ハット帽を右手で押さえて軽く合図する。
「今までで一番のクリスマスプレゼントです」
茜が嬉しそうに言う。
「なら良かったよ。そんなことよりね、お嬢ちゃんに頼まれごとをしてたのを忘れててね」
「私?私何も頼んでないよ?」
茜は首を傾げている。
「ああ、そっちのお嬢ちゃんじゃなくてね、死んで少年の側に残っていた幽霊の方のお嬢ちゃんさ」
「…何か言ってたのか?」
やっぱり茜は言葉通り、あの時も俺のことを見守ってくれていたのだ。そのことに感動を覚える。
「君が死んでからずっと君の側で見守っている、君の母親と妹の声を届けてあげてってね。しつこくてね。まあ、これはサービスだね。一度しか会えないからよく噛みしめるんだよ」
そう言うと、男は塀を降りると、俺の方に向かって歩いてきた。
「目を閉じて」
俺の両方の目を覆うように手を翳した。
「いいよ、開けて」
目を開けると、そこは、さっきまでと同じ場所の様で、どこか違っていた。周囲には、俺以外誰もいなかった。さっきまで隣にいた茜も、俺の目の前にいたあの男も。まるで世界に俺一人取り残されたように、とても静かだ。
「翼。聞こえる?」
もう長いこと聞いていなかった、そして二度と聞けるはずのない声が聞こえた。
振り返ると、母さんと澪が立っていた。
「澪、母さん…」
突然現れた二人に俺は驚いた。みぞおちの奥が締め付けられる。そういえばさっきあの男が茜の幽霊の話をしていた。ということは、澪と母さんも幽霊なのか?俺は十年ぶりくらいに会う二人に戸惑う。だって二人とも何も成長していないのだから。俺のせいで。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
俺は二人に合わせる顔がなかった。一体どんな顔をして話をすればいいんだ。
俺は俯いたまま顔を上げられなかった。
時間はあまりないかもしれない。とにかくもし会えたなら、絶対に言わなくちゃいけないことがあったはずだ。
「二人とも、俺のせいで死んで、本当に――」
「お兄ちゃんごめんなさい!」
え?
「あの時、澪が死んじゃってから、お兄ちゃんがずっと後悔してるの側で、ずっと見てた。お兄ちゃん悪くないのに、自分のことずっと責め続けて、苦しんでるの澪いつも謝りたくて、澪も悲しかった。本当にごめんなさい!」
澪は泣きながら、俺に向かって叫んできた。
「何言ってるんだよ。あんなことで怒って手を放しちゃった俺が悪いに決まってるだろ。澪が謝る必要なんかない。やめてくれよ」
「そんなことないよ!お兄ちゃんあのフィギュア大好きだったのに怒って当たり前だよ!お兄ちゃんが自分のこと責める必要ないんだよ」
「そんなこと――」
「翼。あなたも澪も誰も悪くないのよ。あれは事故だったの。あなたがそんなに自分を責め続ける必要なんてないのよ」
母さんが優しく言葉をかけてくれる。
「母さん…」
「責任があるとすれば、お母さんの方なのよ。あの日、あなたたち二人を残して仕事に行ってしまった。私がちゃんとあの時二人と帰っていればこんなことにはならなかった」
「なんだよ、二人して。二人が悪いわけないだろ!それに母さんだって俺のこと恨んでただろ!俺のせいで澪が死んで、そのせいで母さんまで死んで…。全部俺が悪いんだよ」
「ごめんね翼。本当にごめんなさい。私のせいでこんなに苦しませてしまって。ううっ」
母さんも泣き出した。
「私は澪が死んでから、自分を責めてばっかりで、あの時二人をお家まで送ってればって、何度も考えて、あなたやお父さんとしゃべる余裕さえなくなってたの。お母さんは弱かったから、澪が死んだことを受け入れられなかったの。本当にごめんなさい。あなたを残していってしまってごめんなさい。翼のこと責めてたつもりは一切ないの。それは澪もお父さんも一緒なんだよ。誰も翼を恨んでなんかいないし、責めてもいないの。翼を許せないのは翼だけなのよ。そして翼はもう一人で十分苦しんだ。だからお願い。もうこれ以上自分を責めないで。翼が私たちのことを思うのなら、茜ちゃんと幸せに生きて欲しいの。そしたら私たちも安心して成仏できるから」
ずっと自分一人が悪いと思っていた。二人とも俺のことを恨んでいると決めつけていた。父さんだって俺を許せないだろうと思い込んでいた。
でも、そうじゃなかった。誰も俺を責めてなんかいなかった。
みんな苦しんでいた。母さんも澪もずっと俺のことを心配してくれていたのだ。そしてそれはきっと、父さんも一緒だ。
涙が止まらなかった。
「俺は、自分を許してもいいの?」
二人は大きく頷いた。
「澪は今でもお兄ちゃんのこと大好きだよ!澪のヒーローは今でもお兄ちゃんだから!だからお兄ちゃんには笑っていて欲しいの」
「お母さんもだよ、翼。あなたのことずっと愛してる。幸せになって。天国からずっとあなたのこと見守っているからね」
ああ。俺はこんなにも愛されていた。ずっと苦しかった。悲しかった。
どんなに楽しくても、嬉しくても、心のどこかにずっと罪悪感がついて回っていた。
もういいんだ。苦しまなくても。もう心の底から笑っていいんだ。幸せになっていいんだ。
「ありがとう。母さん、澪。俺もずっと愛してる」
俺がそう言った途端、まばゆい光が二人を包んで、二人は空の上へと昇って行った。
俺は涙を拭って、息を大きく吸い込むと、ゆっくりと目を閉じた。
再び目を開けると、眼前にあの男がいた。横を見ると隣には茜がいた。
「これで願いは聞き届けたからね、お嬢ちゃん」
「どうだったかい少年。ちゃんとお別れはできたかい?」
俺は首を縦に振ると、頭を下げた。
「色々と、本当にありがとうございました」
「どういたしましてだね」
男はそう言うと、俺たちの来た方へと飄々と歩いて行った。
「じゃあね、二人とも。達者でね」
俺たち二人は呆然と、男の姿を見送る。一瞬瞬きした間に消えていた。
「翼くん、大丈夫?なにがあったの?」
「それはそのうち話すよ」
俺は茜に言わなければいけないことがあった。
「なあ、それよりも――」
「あ、分かった!エロ本は子供の頼むものじゃないから来年からは没収って言われたんでしょ!もう泣くことないじゃん。それは翼くんが悪いよ。あ!そのことを見越して現金にしたんだね!それでも没収って言われちゃったんだ。まったく君はそういうことになると頭が働くんだから」
人が大事なことを言おうとしているのに、茜は横で腹立たしい勘違いをし始めた。
「違えよ!そんなしょうもないことで泣くか!俺をバカみたいに言うんじゃねえ。お前と一緒にするな」
「何だとー!私だってバカじゃないもん!バカって言った方がバカなんだぞ!翼くんのバカ!」
「その理屈で言ったら今お前はバカになったわけだが」
「し、しまった!や、やるね翼くん」
「くくっ。ほんとにお前は」
俺は茜とのやりとりに思わず笑みがこぼれる。
「あ、また笑ったね翼くん」
そう言って茜は手でカメラの形をつくり俺に向けてくる。
「これから、君とのいろんな思い出をこのカメラで撮って、記憶に焼き付けていこうね」
茜は楽しそうにそう言った。
「ああ。そうだな」
もう、茜を阻むものは何もないのだから。
「ところで。なあ、茜。待たせてごめんな。本当はもっと先になると思ってたけど」
「なに?」
俺の真剣な表情と声に、茜が不思議そうな顔をする。
俺は軽く息を吸い込むと、心の底からの思いを伝えた。
「俺のパートナーになってくれませんか」
俺は顔を背けながら、茜に向かって手を伸ばす。
茜は一瞬驚いた顔をして、それから頬を赤らめると、俺の手を握り返してきた。
「はい」
小さい頃から空を見上げるのが好きだった。
いつか手を伸ばせば、本気で手が届くと思っていた。今ではもう空に手を伸ばすことはなくなった。
でも、空に手が届かなくたって、少し手を伸ばせば触れられる距離に彼女がいてくれるならそれでいい。
超能力も、奇跡も、サンタクロースも、幽霊も全部あった。なら次は何を探そうか。
空を見上げると、吸い込まれそうなほど青い空がどこまでも広がっていた。
俺たちは二人手を繋いで歩き出した。