入室するのは二度目となる郁恵が二年間暮らしてきた寮室。
引っ越しの準備を進めているため、段ボール箱がいくつも部屋の隅に積み上げられていた。
実際のところ、目の見えない郁恵が荷造りを自分でするのは大変な苦労を伴う。
触って本当に必要なものかすぐに分かるものばかりならいいが、そうもいかない。
スマホのアプリなどでカメラ撮影すると撮影した物の情報を読み上げてくれる機能があるが、それでも分別して整理して段ボールに詰める作業は神経も使い、想像以上にストレスが溜まり大変だ。
父親が手伝ってくれていることはとても助けになっていたことだろう。
玄関を上がりすぐの台所を通り過ぎ、部屋の中央にあるソファーとテーブル。
そこに見知らぬスーツ姿の紳士的な男性の姿があった。
「いつも郁恵が世話になっているね、往人君と呼んでいいのかな?」
郁恵の父親、前田吾郎の横顔が俺と郁恵の方に視線を向ける。
身長は俺よりも一回り高く、立派な佇まいをした落ち着いた男性だった。
「はい、お好きなようにお呼びください。郁恵さんのお父さんですよね?」
「あぁ、そうだよ。前田吾郎という名だ、実際に会うのは初めてかな?」
表情は柔らかに見えて視線は鋭く、こちらを品定めているようだった。
俺の両親と友人関係にあったのだからこれまでに会ってもいてもおかしくはないが、既視感のようなものは感じなかった。
「そうみたいですね……僕の両親とは友人関係だと聞いていますが」
慎重に俺は言葉を選ぶ。一人称に僕を使うのも恐ろしいほどに久しぶりのことだった。
「そうだね。まぁ、そんなに固くならなくてもいいよ。私がコーヒーを淹れるから腰を落ち着かせるといい」
そう言って間髪入れず立ち上がり、俺の横を通り過ぎ台所に向かう郁恵の父親、前田吾郎さん。
確かに中高年である俺の父と同世代と言われても頷ける、健康的な動作とまだ十分に若々しい外見をしていた。
俺と郁恵は六歳差があるが、俺の父と郁恵の父親はそれほど歳の差はないのだろう。
決して広くはない寮室に俺は郁恵の誘導によって座らされた。
「お父さんがね……一緒に暮らすなら会って話したかったって……。
ちゃんとお話聞いてあげてね、お願いだから」
テーブルに向かいタイルカーペットに座る俺に小声で郁恵は念を押すように声を掛けて来る。
何かざわついた違和感のようなものを覚えて、慌てないよう呼吸を整えた。
「何か試されるみたいだぞ……」
「そんなつもりはないから……ゆっくりしていって。引っ越し前でお父さんと絶賛荷物整理中だけど」
クスクス笑いをする余裕のある様子の郁恵。
父親の邪魔はしたくないのか、父親が戻ってくるまでの間、会話を交わすだけで立ち上がることはなかった。
テーブルにコーヒーカップが置かれる。
父親は慣れた手付きで郁恵のコーヒーにミルクと多めの砂糖を入れた。
「ね? お父さんって変な人でしょ?」
郁恵が微笑みながら口にする。
「気品があって礼儀正しくていいんじゃないか。気を利かしてくれてるんだろ?」
「それが時々可笑しくって……往人さんは知ってると思うけど、私でもコーヒーを淹れるくらいは出来るのに、自然と手を焼いてくれるの」
「郁恵は頑張り屋さんだからな……一緒にいる時間くらいは、手を貸してやりたくなるのさ」
柔らかな表情を浮かべ、そう言葉にする郁恵の父親はやはり俺から見ても尊敬に値する実に立派な人だった。
「あっ、お父さんのことはおじさんって呼んでもいいんだよ?」
「おじさんは勘弁してくれよ、郁恵」
「ふふふふっ……だってさ、往人さん。お父さんって呼んであげてもいいよ?」
挑発するかのような物言いで俺にお父さん呼びを強制してくる郁恵。
二人で共謀しているかのようなやり取りに根負けして俺はお父さん呼びをすることになった。
「それでは、お父さん……頂きます」
慣れない感覚のままカップを手にして淹れたての珈琲を一口頂く。
喫茶さきがけで出しているものと同等の味わいが口いっぱいに広がっていった。
コクと酸味のバランスの良さが挽立ったキリマンジャロコーヒー。
豊富な雨量などコーヒー産地に適したアフリカ最高峰キリマンジャロ山麓で栽培されたこの味わいは世界的にも有名で、当然喫茶さきがけでもいくつか取り扱ってある。
「これはとても美味しいですね」
「そうだろう……私も珈琲は好きでね、個人的にいい物を集めているんだよ」
和やかな雰囲気になるように仕向けた父親なりの配慮なのだろう。
俺は自然と喉を潤してくれる珈琲の味わいに浸った。
「それはそうと往人君、私の顔を見て気付いたことはあるかい?」
突然、顔を上げて真っすぐにこちらの瞳を覗き込んでくる父親。
郁恵と比べればずっと大きな顔面が俺の近くにある。
何かを暗示するような物言いに俺は神経を尖らせた。
緊張で考える余裕がなかったが、郁恵の顔と父親の顔を見比べる。
そして、そこに違和感があることに気付き始めた。
引っ越しの準備を進めているため、段ボール箱がいくつも部屋の隅に積み上げられていた。
実際のところ、目の見えない郁恵が荷造りを自分でするのは大変な苦労を伴う。
触って本当に必要なものかすぐに分かるものばかりならいいが、そうもいかない。
スマホのアプリなどでカメラ撮影すると撮影した物の情報を読み上げてくれる機能があるが、それでも分別して整理して段ボールに詰める作業は神経も使い、想像以上にストレスが溜まり大変だ。
父親が手伝ってくれていることはとても助けになっていたことだろう。
玄関を上がりすぐの台所を通り過ぎ、部屋の中央にあるソファーとテーブル。
そこに見知らぬスーツ姿の紳士的な男性の姿があった。
「いつも郁恵が世話になっているね、往人君と呼んでいいのかな?」
郁恵の父親、前田吾郎の横顔が俺と郁恵の方に視線を向ける。
身長は俺よりも一回り高く、立派な佇まいをした落ち着いた男性だった。
「はい、お好きなようにお呼びください。郁恵さんのお父さんですよね?」
「あぁ、そうだよ。前田吾郎という名だ、実際に会うのは初めてかな?」
表情は柔らかに見えて視線は鋭く、こちらを品定めているようだった。
俺の両親と友人関係にあったのだからこれまでに会ってもいてもおかしくはないが、既視感のようなものは感じなかった。
「そうみたいですね……僕の両親とは友人関係だと聞いていますが」
慎重に俺は言葉を選ぶ。一人称に僕を使うのも恐ろしいほどに久しぶりのことだった。
「そうだね。まぁ、そんなに固くならなくてもいいよ。私がコーヒーを淹れるから腰を落ち着かせるといい」
そう言って間髪入れず立ち上がり、俺の横を通り過ぎ台所に向かう郁恵の父親、前田吾郎さん。
確かに中高年である俺の父と同世代と言われても頷ける、健康的な動作とまだ十分に若々しい外見をしていた。
俺と郁恵は六歳差があるが、俺の父と郁恵の父親はそれほど歳の差はないのだろう。
決して広くはない寮室に俺は郁恵の誘導によって座らされた。
「お父さんがね……一緒に暮らすなら会って話したかったって……。
ちゃんとお話聞いてあげてね、お願いだから」
テーブルに向かいタイルカーペットに座る俺に小声で郁恵は念を押すように声を掛けて来る。
何かざわついた違和感のようなものを覚えて、慌てないよう呼吸を整えた。
「何か試されるみたいだぞ……」
「そんなつもりはないから……ゆっくりしていって。引っ越し前でお父さんと絶賛荷物整理中だけど」
クスクス笑いをする余裕のある様子の郁恵。
父親の邪魔はしたくないのか、父親が戻ってくるまでの間、会話を交わすだけで立ち上がることはなかった。
テーブルにコーヒーカップが置かれる。
父親は慣れた手付きで郁恵のコーヒーにミルクと多めの砂糖を入れた。
「ね? お父さんって変な人でしょ?」
郁恵が微笑みながら口にする。
「気品があって礼儀正しくていいんじゃないか。気を利かしてくれてるんだろ?」
「それが時々可笑しくって……往人さんは知ってると思うけど、私でもコーヒーを淹れるくらいは出来るのに、自然と手を焼いてくれるの」
「郁恵は頑張り屋さんだからな……一緒にいる時間くらいは、手を貸してやりたくなるのさ」
柔らかな表情を浮かべ、そう言葉にする郁恵の父親はやはり俺から見ても尊敬に値する実に立派な人だった。
「あっ、お父さんのことはおじさんって呼んでもいいんだよ?」
「おじさんは勘弁してくれよ、郁恵」
「ふふふふっ……だってさ、往人さん。お父さんって呼んであげてもいいよ?」
挑発するかのような物言いで俺にお父さん呼びを強制してくる郁恵。
二人で共謀しているかのようなやり取りに根負けして俺はお父さん呼びをすることになった。
「それでは、お父さん……頂きます」
慣れない感覚のままカップを手にして淹れたての珈琲を一口頂く。
喫茶さきがけで出しているものと同等の味わいが口いっぱいに広がっていった。
コクと酸味のバランスの良さが挽立ったキリマンジャロコーヒー。
豊富な雨量などコーヒー産地に適したアフリカ最高峰キリマンジャロ山麓で栽培されたこの味わいは世界的にも有名で、当然喫茶さきがけでもいくつか取り扱ってある。
「これはとても美味しいですね」
「そうだろう……私も珈琲は好きでね、個人的にいい物を集めているんだよ」
和やかな雰囲気になるように仕向けた父親なりの配慮なのだろう。
俺は自然と喉を潤してくれる珈琲の味わいに浸った。
「それはそうと往人君、私の顔を見て気付いたことはあるかい?」
突然、顔を上げて真っすぐにこちらの瞳を覗き込んでくる父親。
郁恵と比べればずっと大きな顔面が俺の近くにある。
何かを暗示するような物言いに俺は神経を尖らせた。
緊張で考える余裕がなかったが、郁恵の顔と父親の顔を見比べる。
そして、そこに違和感があることに気付き始めた。