雪景色を収めたいくつかのキャンバスアートが出来上がった頃、俺は郁恵と暮らす物件探しを始めた。
 
 頭の回転の速い郁恵は住所や築年数、間取りなどの情報を簡単に伝えるとすぐさま理解して、見学に行きたいか教えてくれる。

 賃貸業者の営業担当は言葉巧みで情報を伝えてくれる度についつい興味を持ってしまう。

 しかし、気になった物件全てを見学していてもキリがないので、俺は総合的に生活可能であるかを見極めて、リストアップしたものから絞り込んでいく。
 その横で郁恵は点字システム手帳にメモをしている様子で、素早く穴を開けていく姿は新鮮な光景だった。

 慶誠大学からそれほど距離の離れていないお目当ての物件が決まった頃には三月を迎えていて、郁恵は長い春休みの真っ最中だった。

 郁恵の提案で春分の日に郁恵の父親を迎えて話し合いをすることが決まった。
 生活の拠点が変わる大きな転機。夏休みをオーストラリアで過ごすことがある郁恵は父親と毎年会っているが、その父親が日本にやってくるのは入学当時以来とのことだった。

 俺は郁恵の父親、前田吾郎(まえだごろう)とは初対面になる。 
 電話で会話を交わした関係とはいえ、緊張しないわけがない。
 しっかり信頼を勝ち得ることが出来るか不安を抱きながら俺は当日を迎えることとなった。

 寮室での面会当日、雲一つない春の日を迎え、俺は朝食を終えると部屋に戻り鏡の前に立っていた。
 淡い紺色のYシャツの上に黒のジャケットを羽織り、久しぶりにネクタイを締める。
 覚悟を決めてというほどではないが、少しは誠意のある凛々しさを表したくて装いをしてみたが、見た目がスーツ姿のようで固すぎる感覚を覚えた。

 どれほどの発色をしているかは分からないが、師匠が染めてくる赤髪の具合は相変わらずで、髭をしっかり剃り落としても、サングラスのような遮光眼鏡と相まって不審者感が否めない。

 こんなことを気にして落ち込んでいても仕方がないので、洗面所に向かいもう一度入念に歯を磨いて顔を洗う。

 師匠はアトリエの方で仲間と盛り上がっている様子で声が上階まで響いて来る。俺は声を掛けることなく革靴を履いて就職面接に向かうような佇まいで師匠の家を発った。

 ぼんやりと灰色に染まった街を歩いて行く。
 陽射しの強さを肌で感じると俺は少し姿勢を下げて歩いた。
 猫背になってしまうのは悔しいが、強い日差しは身体に毒なので致し方なかった。
 
 母親を亡くしてから長く続いた憂鬱だった日々。
 画家としての修行も生活も共にしてくれた師匠がいなければ、もっと鬱屈した人生を送っていたことだろう。
 
 視力が悪いため、周りの人よりもゆっくりとした足取りで歩いて行く。
 時間を気にして歩く背広を着たサラリーマンも制服を着た学生も自分より遥かに歩く速度が速く、顔色を伺う間もなく通り過ぎていく。
 信号機の色が見分けにくいことも晴れているのか曇っているのか分かりづらいことも不自由に感じないほど生活に慣れてきた。

 今はもう、白杖を手にする郁恵の支えになってあげられるから心理的にも辛くはない。
 自分よりもずっと前を向いて力強く生きている郁恵がいるから頑張れる。
 郁恵が叶えたい夢は俺の願いでもある。
 だから、俺も前に進んでいくことに決めたんだ。

 明日に卒業式を控えた郁恵の通う慶誠大学。
 卒業生である俺にとっても思い出深い学び舎。
 懐かしさが込み上げてくる中、駅前から大学まで続く桜並木を歩いて行く。
 長い坂道の途中、そこに郁恵が暮らしてきた学生寮があった。
 
「母さん……もう、自由になっていいんだよな……」

 返事はないと分かっているが、虚空に向かって俺は呟いた。
 春の息吹と共に風に吹かれ、桜の花びらが舞い踊る。
 一瞬、あの日の真っ赤な血のように花びらが赤く染まって見えたが俺は懸命に頭を振ってそれを掻き消した。

 忘れてはいない……でも、忘れなければならない。
 郁恵と共に歩んでいくために、乗り越えなければならないんだ。

「郁恵、寮の前に着いたよ」

 スマートフォンを取り出し、自然を装い通話を掛ける。

「往人さん! お父さんもう到着して部屋でゆっくりしてるよ」

 すぐに元気な郁恵の声が返って来て、俺の気持ちは落ち着きを取り戻した。

 春の風景を彩るような、花柄のノースリーブフレアワンピースを着たお洒落な郁恵が清潔に髪を結び、姿を現す。
 吸い付きたくなるような郁恵の綺麗な肌を目にすると心が自然と湧き立つ。
 俺が腕を伸ばすと郁恵は肘を握り、密着した体勢のまま寮室まで案内された。

「一人だとなかなか進まないからお父さんに荷造りを手伝ってもらってたの。往人さん、珍しく緊張しちゃってるね」
「そりゃあな……初めて対面するわけだから」

 郁恵は今も変わらず俺のことを”往人さん”と呼ぶ。
 本人もこれが呼びやすいようだから今更変えることもないだろう。
 フローラルな甘い香りを漂わせる郁恵が隣にいるとつい抱き締めたくなるが、俺はグッと衝動を堪えた。

「お父さん! 往人さんを連れて来たよ!」

 郁恵は表情を柔らかくして寮室の奥に向かって声を掛けた。
 家族なのだから当然のはずだが、郁恵の明るい声が印象的に映った。
 
 郁恵が靴を脱ぎ寮室に入ろうとするのを見て俺も革靴を脱ぎ、郁恵と一緒に寮室に入った。