俺たち以外、誰も乗車していないバスの車内で「私が押すから」と言う郁恵。その言葉通り目的地の案内放送が聞えるとすぐに降車ボタンを押した。

 バスがブレーキをかけ停車すると微笑む郁恵に押されて俺もバスを降りた。

「私が辿った道のりを感じてくれてる? 往人さん」

「あぁ……冬の寒さも夏の暑さもどちらも厳しいことに変わりはない。
 十分に想像できるよ、郁恵にとってこれが大冒険だってことを」

「そうでしょ? 本当に大変だったんだよ。
 だからね……今も大切な思い出としてここにあるんだよ」

 胸に手を当てて、四年前の出来事に思いを馳せる郁恵。
 きっと、郁恵は俺に知って欲しかったのだろう。
 普通の人にとっては楽しいだけの小旅行でも、同じく目の不自由な俺にはこの道のりが如何に過酷であるか想像できるから。

「その時の郁恵は本当に頑張ったんだな。
 さぁ、行こうぜ。海はもうすぐそこだ」

 大きく頷き、再び俺の手を掴む郁恵。
 ここに来るまで付き添ってきた俺の手を迷わず掴む郁恵のことがまた一段と愛おしくなった。

 バスから降りた先は静かで何もない田舎道が広がっていた。
 どこにでもあるような、のどかな自然の風景。
 人の姿はまばらで、懐かしい匂いがした。

 帰りのバスは一時間以上先、俺は郁恵に急かされながら海の方角へと進んだ。

 いよいよ海岸が近づいて来ると激しい波飛沫が鳴り響いて来る。
 本当にすぐそばに海があるのだと興奮気味に感情が湧き立ってきた。

「迷わず来れて良かった……これも往人さんとフェロッソのおかげだよ」

 あまりに自然に感謝の言葉を口にする。
 恋人同士になっても、こういう律儀で謙虚なところは全く変わっていない。
 それがまた、郁恵らしさがあって俺も安心して隣にいたいと思うことが出来た。

「俺も郁恵の大切な思い出の場所に来れて嬉しい。
 それに、付き合って最初のデートが海なんてロマンチックじゃねぇか」

 郁恵と歩く一歩一歩が楽しくて、満たされた心地になる。

 そして、道路沿いを歩いて行くと砂浜が広がる海岸線が姿を見せた。
 広大なその景観に圧倒されてしまうと、足も自然と止まっていた。

「また、帰って来れたんだね……私の分岐点に」

 情緒的に声を漏らし、今にも飛び出しそうなほど、前のめりになる郁恵は俺の手をさらに強く握っていた。
 
「さすがにこれだけ寒かったら、誰も来てないか……」

 広い砂浜は果てしなく向こうまで続いていたが、人影は全く見えなかった。
 灰色の視界では美しい海かどうか簡単に判断は付かないが、ゴミはほとんど落ちていなかった。

「今年の夏に来た時は白杖を持って一人で砂浜を歩いたから、今日はフェロッソと往人さんも並んで歩いてくれるかな?」

 夏に一人で歩いたのが心細かったのか、郁恵は一緒に歩くことを求めた。

「この寒い中歩くのは気が引けるが、分かったよ」

「ありがとう、行こう」

 転びそうになる郁恵を支えながら階段を降り、砂浜に足を踏み入れていく。
 とても裸足になって歩ける気がしないので、靴を履いたまま一歩ずつ進む。
 目の見えない郁恵は完全に俺を支えにしながら足が砂に吸い込まれて行く度に子どものようにはしゃいだ。


「フェロッソとも、往人さんとも一緒にここを歩けて嬉しい……。
 
 私ね……思うんだ。これからもどこかで険しい道のりが訪れると思う。
 
 風が冷たかったり、波飛沫が襲ってきたり、砂に足を取られたり。
 
 大変だけど、それが人生だって思うから。

 だから往人さんもフェロッソもよろしくね。

 この手をずっと離さずに、どこまで歩いて行こう。
 
 私、大好きだから、往人さんのことも、フェロッソのことも大好きだから。

 一緒にいて、凄く幸せを共有していられるから。

 私の望んでる道は一緒、どこまでも歩いて行こう。

 幸せの向こう側まで」

 
 優しい微笑みを浮かべ、最果ての見えない砂の回廊を歩き続けながら、郁恵は切なる願いを口にした。
 目の見えない不自由な郁恵だからこそ、俺やフェロッソと一緒に歩んでいく道を望む。
 それは、寂しいことでも悲しいことでもない、もちろん弱いことでもない。

 郁恵は沢山の人との絆を深めながら、どんどん強くなってきたんだ。

 だから、あれほどの演奏をクリスマス演奏会で披露することが出来た。

 俺はそんな心優しい、人と絆を繋ぐことの出来る郁恵の彼氏になれて光栄に思う。
 
 俺にはそこまで他人を信じて歩むことは出来なかったから。

「俺も……こうして歩いているだけで、幸せを満喫してる気分だ。

 こんなに温かい気持ちになれるなんて不思議だな……」

 風は冷たいのに、心は温かくて、ずっとこの空間の中に浸っていたくなる。
 母親は当たり前のように俺に寄り添ってくれた。
 だから一から誰かと心を繋ぎ、関係を築いて一緒にいることがこんなに幸せなことなのだと実感したのは、生まれて初めてのことだった。