郁恵と一緒に迎えた朝の朝食を終えて、出掛ける支度を済ませると、俺たちはフェロッソを連れて玄関を出た。

 郁恵は昨日着ていたコートを羽織り、ニット帽を被っている。
 俺はいつものサングラスのような遮光眼鏡を着け、ウール100%素材のブラウンカラーをした中折れフェルトハットを被る。
 相変わらず人を寄せつけない赤髪をしているが、郁恵が気に掛けることは今のところないので、気にしないことにしている。

「両手が塞がっちまうのに、いいのか?」

 玄関を出ると、郁恵は朝から準備万端な様子の元気なフェロッソと繋がったリードを掴んだまま俺の手を握った。
  
「うん、平気だよ。それより、私のカバンまで持ってもらっていいの?」
「もちろんだ、気にするな。この方が手を繋ぎやすいだろ」

 貴重品が入った郁恵のハンドバックも肩に掛けているが、荷物は普段から少ないため負担にはならなかった、
 一つ一つの小さなやり取りにも恋人同士になった愛情を感じつつ、俺は時折前を向く郁恵を横から見つめながら、一緒に砂浜海岸を目指して駅へと向かった。
 手の感触をより感じていたいからか、俺と同じように郁恵も手袋は着けず素手のままだった。

「今日もまた外は冷えるね……雪が降り始めても不思議じゃないくらいだよ」

「そうだな、今年はまだ降ってないか……そろそろ頃合いかもしれないな」

 冷たい寒気が頬を撫でると身体が寒さで震えてしまう。
 陽が昇って晴れているのは間違いないが、確かにいつ雪が降っても不思議ではない天候だった。

 郁恵の歩幅に合わせて駅まで歩き、人の列に並び電車に乗る。
 俺は郁恵を席に案内して吊革を持った。フェロッソは余程盲導犬として上手に躾けられているのか、平日で乗客も多いにもかかわらず、寝そべったまま動じる様子はなかった。

「もう少し早く来れたらよかったね」
「朝食を食べるのも大事なことだからな、寝るのも遅かったから我慢だな」
 
 満員電車というほどではないが、朝の時間帯は昼間より乗客が多い。
 盲導犬を連れて目立つような恰好もしているので、注目を浴びていた。
 もう八時前の時刻を指していたから仕方のないことだった。

 電車は走り続け、風景が瞬く間に通り過ぎていく。
 不意にカーブで電車が激しく揺れ、郁恵は身体が揺れられて姿勢を崩した。

「あわわわ……ごめんなさい」

 俺の股間に頭をぶつけて郁恵は倒れることはなかったが、どうにも申し訳なさそうな表情を浮かべていた。

「急な大きい振動だったな、平気か?」
「私は大丈夫だけど、往人さんは大丈夫、変な所に当たらなかった?」
「特に問題ないよ。倒れなくてよかった」

 俺は反射的に股間が反応しなくてよかったと思いつつ、何とかこの場を乗り切った。

「往人さんは、交際始めたこと、誰かに報告した?」

 先程まで楽な姿勢を取り少し下を向いていたが、顔を上げて郁恵は聞いてきた。
 
「まだ誰にも話してないな。わざわざ電話とかメッセージを送らなくても、会った時にでも話せばいいんじゃないか?」

「そうかな…? 朝メッセージアプリ起動してたら、報告待ってるみたいだったから……特に恵美ちゃんとか。でも急いで報告しなくていいよね、今日は往人さんとのデートをじっくり楽しみたいから」

 友人からの催促が来るという自然な会話から甘い言葉を掛けてくれる郁恵。不意打ちを食らった形で俺は照れてしまい、返す言葉を失った。
 
 デートを楽しみたいか……郁恵を無事に案内することばかりに神経を尖らせていたが、これは付き合って最初のデート。しっかりエスコートしつつも思い出に残るデートにしたいと思った。

 目的地の駅に着く前にもう一度地図アプリを起動する。
 駅に着いてから砂浜海岸まではバスに乗って徒歩も含めると一時間程度。
 郁恵はそこまで一人で辿り着いたと聞いたが、にわかに信じられなかった。

 電車を乗り継ぎ、駅員の姿も見えない閑散とした田舎の駅に到着して、バス停に向かった。
 季節が夏ならセミの合唱が聞えてきただろうが、今は冬。凍えるような冷たい風が吹いているのみだった。

「郁恵は本当に海まで一人で行ったのか?」

 半信半疑のまま海に到着してしまうのも悪いと思い、俺は確かめたくなり思い切って聞いてみた。
 寒さを凌ぎ、一時間に一本しか来ないバスに乗り込んて席に座わってゆっくり腰を落ち着けたところだった。
 隣に座る郁恵に確認するのは酷なことかもしれないが、現実味が湧いてこないことがずっと気掛かりでならなかった。