ゴールデンウイーク明け、私は変わることなく慶誠大学に来ていた。
 フェロッソを連れて昼休みまで一人で講義を受けていると静江さんが食堂へ向かう途中に声を掛けてくれた。

「郁恵さん、大丈夫だった?って……それを聞くのは卑怯だよね。
 私は知ってたから、あの子がそういうことしようとして二人きりになろうとしてたって。
 本当は私も一緒にいるか恵美さんを連れて一緒に帰るべきだったのに。
 だから謝るわね、本当にごめんなさい!」

「静江さん……私は気にしてないよ。
 それより知ってたんですね、あの後のこと」

 バツの悪い焦った様子で謝る静江さん。
 あの日から数日過ぎたが、静江さんのところに恵美ちゃんから連絡があったそうだ。
 酷いことをしてしまったからあたしの代わりに郁恵のことを慰めておいて欲しいと。

「電話越しだけど、恵美さんはかなりショックで後悔してるみたいだったわ。
 二度と同じ過ちはしたくないって」

 そんなことがあの後にあったのかと私はまず最初に思った。
 怖い経験ではあったが、特に身体を傷つけられて外傷を受けたわけでもない。
 お互い謝って元の関係に戻ってお終いにしたかったのだけど……。
 あの夜のことで恵美ちゃんは相当自責の念に(さいな)まれているようだ。

「そっか……私はもう気にしてないのに」

 私は静江さんに言った。早く元の関係に戻りたいと思っていたから。
 
「そう……でも危ないところだったでしょ?」

 心配な態度に変わりなく静江さんは聞いてきた。
 女性同士でも愛し合うレズビアンは社会的には不思議なことではない。
 でも、それは双方の同意があって成立するもの、私がそれを望むことは恵美ちゃん相手にはない。
 私はあの場でそのことを分かって欲しかった。

「恵美ちゃんはちゃんと話せば分かってくれる、私は信じてたよ。
 静江さんだって本当はそうでしょ? 恵美ちゃんのことを信じようとしたんでしょ?
 だから私達を残して家に帰った」

「だとしても危ないよ……そんなに簡単に人を信用するなんて」

 一言では言えない複雑な心情を抱いているのか、静江さんはそう言い返した。

「違うよ、私はいつもみんなに助けられてる。私、人を見る目はあるんだ。
 静江さんも恵美ちゃんも、この子も、私が危ない橋を渡ろうとしてるって分かったら教えてくれる、時に叱ってくれる。だから私は迷うことなく生きていられるんです。
 私が生きているのは私だけの力じゃない。
 それを知っているから私は私の傍に寄り添ってくれる人を信じるんです。それがいつも私を幸せに導いてくれるから」

 自然と強く手綱を握りながら、私の想いを静江さんに伝えた。

「郁恵さんは相手の顔が見えなくて怖くないの? 見えない事への不安はないの?」

「怖くないよ。だって怖い人かは声を聞いていれば分かるから」

「でも、そんなのわざと演技をして優しくしてるかもしれないじゃない」

「ちゃんと話してみれば分かるよ。それに、たとえ目が見えても、相手の心の中までは見えないよ」

 これまで考えることだけは沢山してきたから、私の回答に迷いはなかった。
 静江さんも私の言葉に圧倒されて納得せざるおえなかったようだ。
 伝えたい気持ちに正直になって思わず感情的になってしまった。 
 でも、静江さんは私の言葉を自分の思考で噛み砕いて、よく分かってくれたようだった。

「はぁ、仕方ないわね……郁恵さんには敵わないわ。
 当たり前のことだけど、私も人の心の内側までは分からない。
 だから、勝手に決めつけることなくお互いに言葉を尽くすことが大切よね。
 分かってるつもりなのに、目の前でこういうことがあると自分でも分からなくなるわね」

 静江さんの中では、恵美ちゃんの悪い部分ばかりが印象付けられて頭の中にあったのかもしれない。
 人は相手を警戒すればするほどそのことを(さと)られないよう平静を装おうとする。それはよくあることで、本人が自ら気付いて直していくべきことで、私が否定することでもない。

「そうかもしれませんね……。
 教えられることより、経験することの方が大事。
 それは今も昔も変わらないんだと思います。
 だから、会いに行きましょう? 
 私を案内してください、恵美ちゃんのいるところまで」

 エスパーではない私には恵美ちゃんの居場所は分からない。
 だから、私は静江さんを頼ることにした。
 もしかしたら、恵美ちゃんの匂いの付いたものでも持ってきていたら、警察犬みたいにフェロッソが探し出してくれるかもしれないけど、フェロッソは盲導犬だ。そういうことに使う気にはなれなかった。

「分かったわ、案内するから行きましょう、郁恵さん」

 納得してくれたのか静江さんは覚悟を決めてそう言うと歩き出し、先導してくれた。
 そして、食堂に入った私達は恵美ちゃんの座る席に辿り着いた。

「恵美ちゃん、一緒に食べよう?」

 恵美ちゃんの前に立ち私は明るく声を掛けた。自分に負けないように、人を恐れないように。

「でも……あたし、二人に会わす顔がないよ」

 落ち込んだ声で、遠慮するような声で、恵美ちゃんは言った。
 昼食時、食堂は今日も賑やかで生徒はたくさんいたが、恵美ちゃんだけはテーブルに一人で座っているようだった。

「そんなことない、私は恵美ちゃんと一緒にいたいよ。
 それに、傷ついてる恵美ちゃんを友達として放ってはおけない。
 私も力になりたいから。してもらうばっかりじゃなくて、一緒に支え合いたいから。
 それが、友達だって思うから」

 今度会ったら伝えようと思っていた気持ちを込めて、自分の言葉で伝える。
 私の言葉に静江さんも続いた。

「私も同じ気持ちよ。
 反省している恵美さんを一人にさせてはサポートスタッフとして失格だから、これも一つの手助け。
 だから、一緒に食事しましょう?
 傷つけることがあっても、仲直りして分かり合うことが出来る。
 それが友情というものでしょう」

 先輩らしく、静江さんがしっかりとした言葉を恵美ちゃんに送る。
 落ち着いていて、感情的にならずに躊躇ったりもしない。
 静江さんはよく出来たお姉さんのようだった。

「ありがとう……二人とも。
 うん、一緒に食べよう。食べる量はなかなか減らせないあたしだけど。
 こんなあたしでよければ」

 まだ固い雰囲気だったが、少しだけ柔らかくなった声色で恵美ちゃんは言った。
 
 ようやく氷が解けたように、安堵して昼食を買いに私は静江さんと向かった。
 私達は恵美ちゃんがカレーライスを食べているから、同じものを一緒に食べた。
 恵美ちゃんが食べているのは大盛りのカツカレーで私は食べ終わった頃には満腹度100%でちょっと苦しかったけど、恵美ちゃんと同じ物が食べられて、嬉しい気持ちの方が大きかった。

 こうして元の関係に戻った私達。
 
 まだキャンパスライフは始まったばかりなのに、様々な経験をしている。
 
 日本に来てからというもの、新鮮な事ばかりで驚かされる。

 そういえば、大学入試の日も大変な事件に巻き込まれたことを思い出し、私はあの日助けてくれた男性の絵の具の匂いに思いを馳せて、午後の講義に向かった。