やがて、お迎えの時間がやって来た。
 私は聖花ちゃんと手を繋ぎ玄関口まで向かった。

「おかあさん!」

 出入口まで辿り着くと聖花ちゃんは元気な声を上げて、自走式の車椅子に乗ってやってきた母親との再会を喜んだ。

「いつもお世話になっております」

 労いの言葉を掛けてくれる聖花ちゃんのお母さん。

「いえいえ、今日もうさぎのお世話をしたり、絵本を一緒に読んだり楽しく過ごされていました。いつも良い子で助かっています」

 聖花ちゃんは補聴器なしではほとんど音が聞こえない身体で、悪戯で子どもに補聴器を取られて泣いてしまったことがある。
 
 だから、母親が心配をするのも当然で、普段は明るい性格で今日のように楽しい一日を過ごしている手のかからない子どものように見えても、大切に見守らなければ子どもの一人なのだ。
 
「郁恵さんは明るくて気配りもしっかりできて素敵ですね。私ももっと見習わないといけないです」
「そんなことないですよ。私もまだまだ新人です。お母さんと一緒にいることを聖花ちゃんは喜んでくれています」

 車椅子に乗った母親の下で安心した様子の聖花ちゃん。
 私は車椅子で生活を送るお母さんの車椅子を押してあげるのが夢だと聖花ちゃんが語っていたことを印象的な出来事として覚えている。
 本当に思いやりのある優しい親子として私は認識しているのだった。

「さようなら、聖花ちゃん」
「うん、いくえおねえちゃん、さようなら!」

 今日も聖花ちゃんの笑顔を見守ることができた。
 私は温かい気持ちになりながら手を振って二人が帰り道を歩いていくのを見送った。

 その後、掃除やデスクワークをしているとあっという間に帰宅の時間になり、私は荷物を持って立ちあがった。

 時刻は一八時ちょうど。
 この保育園ではシフト制を採用していて退勤時間は人によって異なる。
 朝早い人もいれば遅い人もいる、私はその中間くらいでこの時間に帰るのが働きやすいと思ってこのシフトにしてもらっている。

 まだ仕事をしている他の保育士さんに挨拶をして玄関口へと向かう。
 すると、今日は迎えに来てくれたのか、往人さんの声が聞えた。

「郁恵、お疲れ様」
「うん、往人さんも迎えに来てくれてありがとう」
 
 私を一番安心させてくれる、愛しい人。
 疲れも吹き飛んでしまうくらいに嬉しい気持ちになって私は往人さんと手を繋いだ。

 二人で帰り道を歩く間、私は今日あったことを往人さんに話した。
 
「聖花ちゃんがね、私と往人さんが作った絵本を読んでみたいって」
「そうか、すっかり懐いてくれてるんだな」
「うん、最初は泣いてばかりいたのに、子どもって私達がどう接するかで変わっていくの。それがとってもやりがいのある仕事だなって思って」
「楽しそうだな」
「毎日楽しいよ、色んな子どもの面倒を見て考えることも沢山あるけど、子ども達の笑顔を守る為に頑張るのは全然苦じゃないから」
「夢は叶えるためにある。郁恵が今幸せだって言うなら、保育士は郁恵にとって天職だな」
「そうだといいな。周りの保育士さんの方が沢山の子どもを相手にしていて立派に頑張ってるから、自分ではまだまだだなって思ってるけど」

 目まぐるしく毎日が過ぎていく。
 実習をしていた頃と違い、保育士として働くということは思った以上に大変だ。
 それでも、私は夢を叶えただけの価値はあると思って日々を生きている。
 本当はもっと近い場所を選んで就職をしたかったけれど、往人さんは遠い地まで付いてきてくれた、こんな私のために。
 だから、私はこれからも毎日を大切に生きて行こうと思うのだ。

「往人さん……ありがとうね」
「いいんだよ、それは何回も聞いたから」

 往人さんがいなかったら、私はここに来れていない。
 安心して毎日を過ごせていない。
 だから、今も感謝しきれないくらい恩を感じている。

「ねぇ、往人さん。私はフェロッソがいなくても往人さんがいるだけで、こんなにも自由になれて幸せなのに。
 私のように障がいを持った多くの人が抱えている、不自由って何なんでしょうね?」

 私はそう……この社会が一人でも多く合理的配慮の下で不自由なく生きられることを理想として進んでいるように感じているのかもしれない。

 それもまた正しい在り方だけど、本当の理想はそうではない。
 誰もが孤立することなく、共生できる社会を目指していきたいんだ。

 人と心を交わし合うことで、こんなにも人は自由に幸せを享受することが出来るんだから。

「俺と郁恵がこうして一緒にいるのも奇跡のようなものだ、神様がマッチングしてくれたわけでも何でもない、奇跡のようなものなんだ。
 たぶん、人が心から信用できる相手に出会えるのは一握りでしかない。
 一生の間、気付かないうちにすれ違ってしまっていることも沢山あるんだろうって思う。
 それが、本当の不自由の正体なのかもしれないな」

「涼子さんも坂倉さんも私が落としてしまった白杖を拾ってくれたことがあります。
 でも、私が信用したいと思って寄り添ってもそうはなりませんでした。
 人の心とはそういうものなんだって、分かってはいます。
 でも、それって寂しいじゃないですか……」

「あぁ……郁恵の優しい気持ちに間違いはない。
 間違いはないよ」

 人は簡単にすれ違い、心を通い合わせることなく離れていく。
 
 そんな世界でも私達は一人では生きてはいけない。
 
 上手に泳ぐことも、空を飛ぶことも出来ない。

 だからまた、支えあって歩いて行こうとするんだ。

「明日はまたすぐにやって来る、だから明日も頑張らないと」

「子ども達が、郁恵を待ってるからな」

 夕焼け空の下、私達は手を繋ぎ笑顔を浮かべ帰り道を歩いた。

 二人分の影がずっと先まで伸びていく。いつまでも離れることなく寄り添うように。