郁恵が入院してから数日が過ぎた。
 フェロッソの方が先に動物病院から退院することになり、リハビリを担当する盲導犬協会に引き取られ、俺たちの下からついに離れていった。
 
 郁恵にとっては別れの挨拶も出来ず、悲しい別れになってしまったことは悔やんでも悔やみきれないことだが、どうすることもできないのが現実だった。

 そんなある日、郁恵との面会が終えて帰ろうとしていた俺は看護師の佐々倉奈美さんに呼び止められた。

「少しだけ、中庭で話しませんか?」

 郁恵のことを良く知り、大変お世話になっている俺は迷うことなく頷いた。
 病院内のカフェを出てすぐにある中庭。
 四季の花々が植えられたガーデンは冬の季節は少し寂しく、風も冷たかった。

「ここなら、誰に聞かれる心配もなく話せますね」
「凍えそうなくらい寒いけどな」

 敬語は使わなくていいと言われたことを思い出し、俺は返事をした。
 顔色一つ変えずに明るい表情を浮かべる看護師はカーディガンを羽織っているが、それでも寒いことに変わりないだろう。
 確かにこの寒い中、中庭まで出る奇特な人間はいないわけだ。

「少し、髪が赤茶色になってきましたか?」
「そうか? 師匠がまだ日本に戻って来てないからな。
 なかなか自分で調整するのは難しいんだ」
「そういうことでしたか」

 男の俺に対しては少し距離の感じる話し方をする看護師。
 華鈴さんが師匠から秘伝の術とやらを教わって俺の髪を明るい赤に染め上げたことはあるが、基本的には自分で染めることは出来ない。
 肝心の師匠はまだ日本に帰国しておらず、ここ数日はすっかり郁恵の見舞いにばかり来ていることもあって自分でも変化に気付かない日々が続いていたのだった。

「正直、脱色しても黒くなるだけだから、困らないんだよな……」
「それはそうですね。綺麗な赤髪もトレードマークになっていてよかったですけど」
 
 そんな印象を持たれていたのかと俺は驚愕したが、目立ってしまっていることを自覚している俺は余計なツッコミを入れるのは止めておくことにした。

「寒いのに話を脱線させてしまいましたね。
 ずっと迷っていたんですが、誰も説明をしないと思いますので、少しだけ真美さんと郁恵さんの関係について話してもいいですか?」

 俺は郁恵のことなら知りたいと思い「もちろん」と答えた。
 話す内容を整理しているのか、ずっと正面を向いたまま考え込む看護師。
 膝に手を置いたまま、静かに話し始めた。

「郁恵さんが最初に入院してきた時、心を閉ざしとても危険な状態でした。
 とても辛いことがあったことは誰の目にも明らかで私も目の見えない郁恵さんとどう向き合うのか考える日々でした。

 そんな時、ベッドが隣で同世代の真美さんが親しく郁恵さんに接してくれました。真美さんのおかげで少しずつ郁恵さんは心を開いていき、二人が親しくする姿を見掛けるようになりました。
 
 家族がほとんど見舞いに来ることのない郁恵さんにとって同世代の友達は大きな心の支えになっていたと思います。

 しかし、真美さんの病状が悪化し、ついにはホスピス病棟に移ることになりました。
 誰も使わない白いベッドだけが取り残された後、精神的不安の消えない郁恵さんは真美さんがいなくなっても真美さんが隣にいると思い込み、独りごとを繰り返すようになったのです。

 今はもう、真美さんが亡くなったことを郁恵さん本人も受け入れていますが、時々、不安に襲われると幻聴が聞こえてしまう状況に変わりはありません。

 しかし、病院での暮らしは郁恵さんのためにもならないと考えています。
 それは、桜井さんも分かっていることだと思います。

 ですので桜井さん、郁恵さんのことをよろしくお願いします。
 薬を再開することで今は落ち着いていますが、精神的な負担が高めればそれだけ今回のような事故を招くリスクが大きくなります。

 だから、郁恵さんをこれからも支えてあげてください。
 あの子にとってはこれが最初で最後の恋なんですから」

 本気で心配しているからこそ、俺に向けた言葉なのだろう。

 フェロッソがこのまま帰って来なければ俺が郁恵を支えて行かなければならない。

 多くの人に愛されている郁恵のことを俺の手で……。

 郁恵をこれからも守っていくこと、それが責任重大であることはもう分かりきっていることだった。

「話してくれてありがとうございました。
 郁恵は俺に沢山のことを教えてくれて成長させてくれました。一生をかけて支えていきます、どこまでも一緒に」

 郁恵の幸せを守る為に、俺はこれからも生きていく。

 ただその想いを胸に俺は看護師の女性に話してくれたことへの感謝を伝えた。