視えない私のめぐる春夏秋冬

 どうしようもない身体の不調もあったが、師匠の家に居候を始めてからというもの、俺は何かと関わることを避けていたと思う。

 でも、誰かのために手を貸すことの大切さを郁恵は一度教えてくれた。
 まだ前向きに考えられるわけではないが俺は郁恵の力になりたい、間違いなくそう思っている自分がいた。

 パーティー会場になっている立派なホテルの前にやってきた俺は自分がしようとしていることの大きさを思い知らされた。

 ただ、一人の女性を救い出すためとはいえ、こんな大それたことが自分に出来るのか、未だ分からないでいた。

「桜井往人さん……?」

 名前を呼ばれ、後ろを向くと郁恵の友人が二人、そこに決意を秘めた表情をして立っていた。

「どうして付いてきた?」

「それは当然、郁恵さんを助ける手助けをするためよ」
「男らしいところ見せてくれるのは嬉しいけど、一人で行かせるのは友達としては心配だから」

 付いてきたら邪魔になるという考えは毛頭ないのか、二人は先程までの沈んだ姿とは違い、強い瞳で俺のことを見つめていた。

「好きにすればいいが、危ない真似はするなよ」

 止めてもやって来るだろうと思い、面倒に思いつつ一言だけ二人に声を掛ける。
 俺はとにかく早く終わらそうと、招待状も何一つないのにホテルへ正面から乗り込んで行った。

 明らかにパーティーに参加するようなお洒落な服装をしていない俺はパーティー会場外のエントランスで面識のある人間から坂倉が郁恵と(おぼ)しき女性を連れてエレベーターを昇って行ったという情報を聞きつけた。

 ある程度、自分に出来る範囲を見極め作戦計画を組んでいたが幸先は良かった。
 次に郁恵の盲導犬の姿を見つけた俺は盲導犬の預かりをしている担当に「前田郁恵を迎えに来た兄です」と真っ赤な嘘を付いて、友人二人に盲導犬を預けて先に喫茶さきがけに連れて帰ってもらうことにした。

「一人の方が身軽だ。後は俺一人で連れて帰る」
 
 芳しい反応ではなかったが、年上の女の方と目が合い納得した様子で何とか立ち去ってくれた。
 ここからは暴力も辞さない危険を伴う救出作戦になる。
 そのため荒事に慣れていない女を連れて行くわけにはいかなかった。

 俺は華鈴さんが渡していたGPS機能の付いた防犯ブザーから郁恵の現在位置を確認した。

 しばらく同じところから動いていない……。
 坂倉に連れ去られ一緒にいる可能性は十分にある。
 俺は位置情報をスマホで確認しながら救出に向かった。
 これで余分な手間をかけることなく郁恵の下に辿り着ける。
 抜け目がないというか、これは機転の利いた華鈴さんのファインプレーと認めていいだろう。
 
 どの階にいるのか捜索するのに時間はかかるがそれは致し方ない。俺は必死に捜し続けあるホテルの一室の前まで辿り着いた。
 そこには、浮かない顔をした鏡沢涼子(かがみさわりょうこ)が壁にもたれかかり腕を組んで待ち構えていた。

「心配になって聞き耳でも立てていたのか?」

 綺麗なドレス姿に着飾った鏡沢。

 腰までまっすぐに伸びた長い金髪に真珠のネックレス着けていて、細く長い美脚に誰もが羨むようなバランスの取れた体型をしている。さらに引き締まったウエストラインがより自信の表れを示すように膨らんだ胸とお尻を強調させていた。
 
 だが、その美しい外見とは裏腹に内心では黒いものが渦巻いているのを俺は感じ取った。

「今更現れて……まさか先輩面ですか?」

 俺の姿に気付き、鋭い視線を寄越して質問を質問で返す鏡沢。
 坂倉と俺は同い年だが、鏡沢は一つ年下。
 勿論、俺は鏡沢が坂倉とただならぬ仲であることを知っている。
 因縁があるというほどではないが、一緒に現代アートの展示会に行ったことまである者同士、知らない間柄ではなかった。
 
「いや、そこまであいつがご執心になる器のある男かどうか、俺には理解しがたいだけさ。俺が卒業してからも、立派に続けていたんだな……」

「馬鹿馬鹿しい……ミスコングランプリ連覇を続けてる私ですよ。
 桜井往人、そんな皮肉を言いにここまで来たのですか……っ!!」

 一年先輩の卒業生との再会を喜ぶことはなく、大きな声を出して怒りを露わにする鏡沢。
 その姿は俺がよく知る感情表現豊かな鏡沢の印象そのままだった。

「馬鹿言え、卒業生の俺がそんな無駄口を言いにわざわざ来るわけがないだろう。
 助けに来たんだよ、この部屋の中でやべぇ奴に騙されてる女がいるって聞いてな」

 俺に対して本性を隠さないのは、坂倉が俺の絵画を買っているなど関係が続いていることも由来するのだろう。
 鏡沢を相手にするのには慣れている。
 俺は遠慮することなく、目的を口にした。

「貴方らしくないことをするのね……。
 あらそう、どこで知り合ったのか知らないけど、目が不自由な者同士、同情しているのかしら?」

 冷ややかな笑みを浮かべ、軽蔑した眼差しを向ける鏡沢。
 何を俺がしようとしているのか理解して、歓喜しているようにも俺には見えた。

 この部屋の中に郁恵と坂倉が一緒にいるかどうかは博打でしたかなかったが、鏡沢の反応を見る限りビンゴのようだ。
 
「俺の意思だけじゃないさ。
 それに、いつまでも遊んでばかりいる坂倉の奴を目覚めさせてやらないとな。
 だからさ、止めるんじゃねぇぞ。
 鏡沢だって、こんなバカげたことを続けて欲しくはないだろう?」

「好きにすればいいわ……。
 あの子の悲鳴を聞くのも悪くないって思ってたけど。
 何かイライラするのよね。本当にあんな怖いもの知らずな子がいたなんて」

「同感だな。俺もあの子には少しは警戒心ってものを持ってもらいたいものだ。
 それじゃあ遠慮なく行かせてもらう。救出した後のことは頼んだぜ。
 ぜってぇ坂倉の奴は機嫌を悪くするからな」

「面倒事を押し付けてくれるわね……。
 まぁ、さっさとあの子を諦めて欲しいのはマジだから。
 尻拭いくらいはしてあげるわよ」

 渋々といった調子で俺の言葉を受け止める鏡沢。
 ここからはもう、遠慮はいらない。
 俺は鏡沢から”いざという時のため、持たされていた”というカードキーを受け取り、禁断の一室に突入した。

 覚悟はもう十分に出来ていたから、そこからは出たとこ勝負だった。
 
 想いを馳せる色彩を纏った郁恵の乱れたドレス姿を目にすると、無意識に力が湧き上がってくるのを感じた。

 怒りから無尽蔵に沸き上がって来る力。
 医学部で大した運動をしていない坂倉相手とはいえ、腕っ節で比べればどちらが優勢であるかはすぐに判断できない。
 
 しかし、感情的になる坂倉相手に負ける気はしなかった。
 
 怒号を上げる坂倉相手と取っ組み合いになり、何度もその顔を殴った。

 罪を重さを思い知らせてやりたくて、力の限りを尽くした。

 息を荒くして、抵抗が止まったところで俺は郁恵の手を取り、部屋を抜け出した。

 郁恵を救い出して部屋から出た瞬間、満足げな笑顔を浮かべる鏡沢と目が合った。
 
 ”好きという感情”はずっとありながらも、坂倉の行動にはうんざりしている。そんな表情に俺には見えた。

 無事、喫茶さきがけに帰って来た俺は華鈴さんからの抱擁を受けた。
 
「よく帰って来たわね……」

「坂倉が相手でしたから、遠慮する必要なくやり合えました。
 それに、華鈴さんのおかげで位置を特定できましたし」
 
 感極まった様子の華鈴さんに俺は安堵して感謝を伝えた。
 また、郁恵を助けることになった。
 それは運命のようで、約束された再会だったのかもしれないと天国にいる母を想いながら思った。
 思い出の回想を終えた俺は、長いフライトから解放され、関西国際空港に降り立った。
 預けていた旅行用カバンを手にして、俺は足早に空港を離れて家を目指した。
 
 既に時刻は夜六時を回っている。俺は一秒でも早く郁恵に会いたい一心で電車に乗り込んだ。

 待ちきれない思いを抱えながら、最寄り駅に到着した俺は自然と早足になっていた。

 そして、すっかり暗くなった日本の街の景観に懐かしさを覚えつつ施錠されていない鍵の開いた玄関から家に入った瞬間、俺はあまりに予想外の光景に出くわした。

「どうして……親父がここにいるんだよ」

 皴一つないスーツ姿をして、何食わぬ顔でそこに居座る肉親。
 最悪の形で父親と再会してしまった俺は旅行用カバンを乱暴に玄関に置いて、すぐさま靴を脱いで玄関を上がった。威嚇するように鋭い視線を向け、どうしてここにいるのかと俺は父親を睨みながら考えた。
 だが、考える間もなくその答えは相手から告げられた。

「本当にこんなところで会うことになるとは不思議な心地だな。
 ”砂絵の少女に会いに来ただけだよ……”
 彼女はどうも、お前と会わせたかったらしいがな」

「なんだよそれは……訳わからねぇことを言いやがって……。
 家にまで押しかけてきた親父と何で今更会う理由がある……。
 あいつに余計なことをしようとしてたんじゃねぇだろうな」

 部屋に入り、俺は握拳を作り警戒心を露わにする。
 せっかく郁恵に会えると思って帰って来たのに、苛立ちを隠せるはずがない。
 依然として涼しい顔をする親父が一体、何を考えているのかまるで思考が読めない状況が続く。

「久しぶりに会ったというのに、そんな物騒な顔をするなよ。
 往人、お前にとっての特別な相手に危害を加えることなんてするわけがない。
 往人にとって特別であるということは私にとっても特別な存在ということなのだからな。息子が真剣なお付き合いをしているというのなら、誘いを断る理由はないだろう。それが親というものだ」

 親父の俺に対する淡白な態度は昔から変わらない。
 母が優しかった分、放任主義の親父とは一度溝が出来ると埋まることはなかった。

「親父と関わる気なんてこっちにはないんだよ……。
 母さんの妹と再婚して、そんな非常識な奴の世話になりたかねぇんだよ。
 いつまでも母さんのことが忘れられないっていうなら、自分の家で慰め合ってればいいだろ!
 郁恵に手を出してんじゃねぇよ!」

 寒さも忘れて感情を爆発させる俺。
 郁恵が親父にどう接していたかなんて関係なかった。

「母さんと過ごした時間は往人、お前よりもずっと長いんだよ。
 忘れて生きるよりも、悲しみを分け合って生きる方が清く正しい。
 息子のお前には分かって欲しいものだな」

 冷静に言葉を返す親父、そこに過去の反省は見えない。

 母さんが亡くなって葬儀も終わり、一か月が過ぎた頃、親父は家に帰らなくなり、母さんの実家に出入りして母さんの妹と慰め合い、どうしてか付き合い始めた。

 手を繋ぎ、肩を寄せ合い、一緒に飯を食べている。
 三人で暮らしていた頃とはあまりに変わり果てた光景に俺の心は掻き乱されていった。
 そして、数か月が経ってから、俺は妹を妊娠させたことを告げられた。
 母の死の真相も明らかにならないまま、家を空けてまでしていた親父の奇行。
   
 自分達の世界に浸り、母のことを過去の人にしていく二人の態度。
 忌々しい双子の兄妹が生まれた直後、一緒の家に暮らすことに限界を感じた俺はよく通っていたアトリエがある師匠の家に居候することを選んだ。

 普段から事情を話していたことから、師匠は俺に同情してくれた。
 師匠が母が命の落とした日の第一発見者だったのも大きかったのだろう。
 そんなことを俺は当時思った。

「分かる訳ねぇよ……そんな安っぽい愛に巻き込むんじゃねぇ……。
 それよりも郁恵はどこにいるんだよ?」

 思い出しただけで反吐が出る。
 郁恵との大切な日になんてことを思い出させるのか。
 俺は感情を抑えられないまま、郁恵のことを聞いた。

「あの子ならケーキを忘れたからと喫茶店まで取りに行くと言っていたよ。
 意外と帰って来るのが遅いようだがね……。
 向こうでゆっくりコーヒーを御馳走してもらってるんじゃないかい?」

「ああそうかい、ここにいないっていうなら用はねぇよ。
 親父の相手をしてる暇なんてねぇ、俺は郁恵に用があんだよ」

 心配する様子もなく悠長なことを口にする親父。
 郁恵は盲導犬のフェロッソといつも一緒にいるとはいえ、全盲の視覚障がいを持った人間だ。夜間に出歩くことがどれだけ危険な事か、考えればすぐに分かることのはずなのに。

 携帯が繋がらないから途中から慌てて帰って来たがこのざまとは。

 ここで待っていても帰ってくる保障はない。

 俺は親父と二人きりでいる気分になれるはずもなく、居ても立っても居られず、玄関を飛び出した。
 家にいなかった郁恵の行方を探して、俺は走り出した。
 去年に郁恵がプレゼントしてくれたマフラーを掴み、無事を祈る。
 吐く息も白くなるほどの厳寒(げんかん)も気にしている余裕はない。
 ただ、目を凝らして走っている方が寒さも忘れて余計なことを考えずに済んだ。

 喫茶さきがけに到着して扉を勢いよく開く。
 そこにいたのは帰り支度を済ませた、私服姿の華鈴さんだけだった。

「往人君、帰って来ていたの?」

 驚いた様子で声を上げる華鈴さん。
 俺は息を切らしながら何とか郁恵の無事を確かめようと口を開いた。

「さっき日本に帰ってきたばかりです。
 郁恵を……それより郁恵を見ませんでしたか?
 まだ、家に帰って来ていないんです」

「えっ……? 嘘でしょ……。
 本当なの? 郁恵さんなら一時間くらい前にケーキを取りに来たけど、その後は真っ直ぐ家に帰ったはずよ」

「そうですか……親父の言ってたことに間違いはなかったか。
 だが、一体どこに行っちまったんだよ、郁恵は」

 苛立ちのあまり独り言のように俺は呟く。
 見つかるまで捜し出さなければならない、絶対に。
 携帯も繋がらず、行方知らずのまま家に帰るわけにはいかない。
 俺は意地でも捜し出す決意を固めた。

「すみません、俺は郁恵を捜します。
 何か分かったことがあれば、俺に連絡をください」

「もちろんよ。あの子ったら一体どこに行ったのかしら。
 往人君と会えるのを楽しみにしていたのに……」

 今年も一緒に演奏をして郁恵のことを妹のように可愛がる華鈴さんが本気で心配をして考え込む。

 行方の分からぬまま嫌な胸騒ぎが止まらない。
 事件や事故に巻き込まれたのかもしれない。
 誰かに誘拐されてしまったのかもしれない。

 そんな、嫌な想像ばかりが頭に浮かんでくる。
 早く郁恵に会って無事を確かめたい。
 俺は耐え切れないほどに胸が苦しくなっていく中、喫茶さきがけを後にした。
 
 俺は家から喫茶さきがけまでの道中に行方不明の郁恵がいることを願って、先程とは別のルートを早足で歩いた。
 喫茶さきがけに来るまでにすれ違っていないのだから、同じ道を歩くよりは見つけられる可能性があると考えた。

 先程来た道よりも狭く通りづらいが近道になっている道。
 普段は通ることが少ないが、急いで帰りたくてこちらの道を選んだのかもしれない。
 そんな希望にすがりつき俺は寒さで煙のような息を吐きながら捜し歩いた。


 そして、信号のない見晴らしの悪い交差点に差し掛かったところで、目新しい事故現場を発見した。


 数少ない街灯と警察車両のヘッドライトが事故の状況を映し出す。
 雪解けが進み、濡れたアスファルトの所々に血痕らしきものが残っている。
 警官の数は多くないが、物々しい光景に変わりはなかった。

 全色盲なだけでなく、視力も悪いせいで夜になると余計に視界の悪さが際立つ中、郁恵のスマートフォンを握った面識ない三十歳前後の見た目をした謎の女性を見つけた。

「そのスマートフォン、一緒に暮らしてる奴の持ち物なんだが」
 
 スマートフォンに着けられている人参を咥えたうさぎのストラップは縁起物として郁恵が付けていた物だ。

 事情が分からないが一刻の猶予もない俺は、女性に近づいていき躊躇うことなく話しかけた。

「あなたは……前田郁恵さんの彼氏さん?」

 手掛かりを逃すわけにはいかない、俺はただ真っすぐに相手を見つめ頷いた。

 ようやく目が合った手掛かりになりそうなスマートフォンを手にした女性は、ハイネックニットの上にテーラードジャケットを着て、左手薬指には指輪を嵌めて、デニムパンツを履いたお洒落な姿をしている。

 曇った表情をした相手から郁恵のスマートフォンを手渡されて今一度確かめる。
 
 事故の被害にあったのだろう、既に電源も切れてひび割れて壊れている状態のスマートフォン。
 携帯の機種や傷の位置も含めて郁恵が出会った頃からずっと使っているスマートフォンであることに間違いはなかった。

「その……言いづらいのだけど、前田郁恵さんのことを捜しているの……」

 気まずそうにそう口にする女性、郁恵の姿が見えないことでさらなる不安が俺に押し寄せていた。

「あんたもか。俺は家に帰って来ていないから捜していたんだ。この通り、スマホがここにあるから連絡も通じないからな」

「そうだったの……ごめんなさい。動物病院で私が目を離した間にいなくなったみたい」

 事情を話し始めた女性は大学で郁恵のサポートスタッフをしていた女性の姉だと自己紹介した。さらにフェロッソが轢き逃げの交通事故に遭い、その様子を見て助けようとショックを受けていた郁恵を連れて動物病院まで運んでくれたことを教えてくれた。

 過去にも事故があったのか、交差点には危険を伝える看板が置かれている。
 目の見えない郁恵にとっては他の道路と同じに感じられても、自転車や自動車で交通する者にとっては違い、危険な通りであるということなのだろう。
 これは不運であったと簡単に決めつけられる話ではない。
 そう思えば、郁恵にこの交差点を使わないよう前々から伝えていれば事故は抑止出来たのではないか、そんな思いが後悔と共に湧き上がってきた。

「ありがとうございます……郁恵の力になってくれて……。
 まだ日本に帰って来たばかりですが郁恵の行方は俺が捜します」

 悔やんでいるのだろう……沈んだ表情を浮かべる相手を見て俺は思った。
 この場にいても何も解決しないことを悟り、感謝を伝えて俺は郁恵を捜しに出ることにした。

 ミスコンの打ち上げパーティー会場まで助けに行った時のように、GPS付きの防犯ブザーは郁恵に持たせていない。
 
 この情報のまるでない中、自力で捜索しなければならないのかと思うと胸が引き裂かれそうだった。

 郁恵は今もどこかで苦しんでいるかもしれない、泣いているかもしれない、俺のことを呼んでいるかもしれない。
 
 やっと会えると思って日本に帰って来たのに、悲惨な状況に泣き出しそうになった。

 何とか郁恵が行きそうな場所を頭の中を振り絞って考える。
 闇雲に捜すしかないのか……そう思いかけたその時、俺の誕生日の日に、付き合って初めてのデートで行った、あの砂浜での郁恵の言葉を思い出した。
 

 ”往人さん……一つだけ覚えていてください”
 
 ”もしも私が自分を見失いそうになったら、絶対に助けにきてね”

 ”私……信じてるから、真美が私を攫う前に助けにきてくれること”


 
 あの言葉を郁恵はどんな気持ちで伝えようとしたのか、今一度考える。
 入院していた頃、友人だったと言っていた真美が郁恵のことを攫う……。
 思い出の砂浜に連れて行ってしまう……。

「僅かな可能性かもしれないが、賭けてみるか」

 それは最も危険な想像に違いない。
 だが、思い出してしまったら、あの場所に行かなければならないという使命感が自然と湧き上がった。

 何としても郁恵を見つけなけれならない。
 ただその一心で俺は一面に砂浜が広がるあの海岸を目指すことに決めた。

「前田郁恵さんのことを見つけたのね」

 物思いに耽っていた俺に向かって女性は言った。
 しっかりした大人の女性に言われると、自分が本当に見つけられるような予感がした。

「思い出しただけです、大切な約束を」

 もう迷う必要はない、俺は女性に顔を向けて言い放った。

「そう……郁恵さんを大切にしてくれている彼氏さんの言葉なら信じるわ。
 だから、郁恵さんを見つけたら教えてあげて。
 あなたのパートナーの盲導犬は死んでなんてない、生命に別状はないって」

 盲導犬のことも、郁恵のことも本当に心配してくれているのだろう。
 目を潤ませながら、綺麗な瞳を俺に向ける女性。
 迷いがなくなったことで俺は冷静になって表情も和らいだ。

「事故に遭ったのは災難ですが、それは良かったです。必ず伝えます」

 記念日を最悪の日に塗りつぶすわけにはいかない。
 一人きりの恩人に別れを告げて、僅かな可能性に賭けて俺は動き出した。
 電車とタクシーを乗り継ぎ、気が狂いそうになる移動時間を耐え、凍えるような潮風が吹き荒れる砂浜のすぐそばにある駐車場まで俺はようやく降り立った。

 夜遅くに頼み込むのは申し訳ないが、華鈴さんに連絡をして郁恵の行方を知っている人がいないか聞いて回ってもらい、この場所以外に郁恵が行きそうな店や大学を捜索してもらうことにした。
 
 自分一人で何とか出来るという奢りはこの際捨て去るべきだ。
 今、俺に出来る最善の策は講じたと思う。
 後は見つけ出して無事を確かめるだけだ。 

 俺は海壁から勢いよく飛び降りて無限に続く砂浜を走りながら目を凝らし、必死に郁恵の姿を捜した。

 途方もなくどこまでも続く海岸線。

 夜になると一段と空気が冷たくなり、少し走っただけで息が上がって来る。

 それでも俺は愛してやまない郁恵のことを諦めるわけにはいかなかった。


「郁恵っ!! どこにいるんだっ!! 声を聞かせてくれっ!!
 もう一人にしないから!! だから、俺のところに帰って来てくれっ!!」


 疲れがピークに達したのか、段々と意識が遠くなり、視界がぼやけて来る。

 必死に走り続けるが、砂浜は果てしなく先まで続いている。

 走りすぎて通り過ぎたのかもしれない、そもそもこの砂浜に来ていないのかもしれない。

 でも、華鈴さんからの連絡は未だない。

 俺は一縷の望みに賭けて走り続けるしかなかった。
 

 ”郁恵の無事を願い、走り続けていると、一瞬、顔色までは見えなかったが、白いワンピースを着た郁恵が風に吹かれながら海に入って行くのが見えた”


 服の色まで鮮明に見えるわけがない、砂絵(サンドアート)の幻が見えているだけだと言い聞かせて頭を振り払い、もう一度立ち止まって周囲を眺めた。

 穏やかに波飛沫を上げる夜空の下に広がる広大な海。

 美しい満月の月明かりが水面に光を差し、奇跡が起きたように僅かに視界が開けた。

「……郁恵」

 幻想的光景に目を奪われていた矢先、会いたくて堪らなかった長い髪を解いた麗しい女性の姿が水面に浮かんでいるのが映った。

 身体が浮き上がるように胸が高鳴る。

 意識があるか不明のまま、動き出す様子もなく郁恵は波に誘われるように遠ざかって行く。

 しかし、何かの力が働いているのか、単純に郁恵の身体が軽かったからなのか、水面に浮かび仰向けになったままだった。


「うぅう……あああっぁぁ……いくえ……いくえぇぇぇっ!!!」

 
 疲れも吹っ飛ぶほどに俺は叫び、風景の一部に囚われていた郁恵を取り戻そうと駆け出した。

 海水温の下がった凍えるような海に必死の思いで歯を食いしばって飛び込んでいく。
 
 冷たい海水に耐えながら泳ぎ、やっとの思いで郁恵の身体を掴んで息を確かめる。
 海水に沈みかけていた郁恵の身体は願いが通じたのか、ほんの僅かに息をしていた。


「郁恵っ!! お願いだっ!! 目を覚ましてくれっ!!」


 何とか砂浜まで上がり、息を切らしながら心臓マッサージを繰り返した。
 僅かな可能性に賭け、冷たく濡れた身体を必死に動かす。

 必死に郁恵を見つけ出した俺に、もうこれ以上出来ることはない。

 そんな泣き出しそうな虚しさまで湧いて出てくる中、郁恵の身体が小刻みに動き出し、瞳を開いた。

「往人さん……本当に助けに来てくれたの?」

「当たり前だろっ! どれだけ心配して…会いたかったと思ってんだっ!」

 生きているのが不思議なくらいのか細い郁恵の優しい声。
 俺はどうしようもなく涙が瞳から零れていき、郁恵の身体を抱き上げた。

「そっか……嬉しい。往人さんの声が聞えたよ。
 約束を覚えていてくれたんだね。
 ありがとう……私を深い眠りから目覚めさせてくれて」

「忘れる訳ねぇだろ……どれだけ大切な思い出だと思ってる……」

 安心したように笑顔を浮かべる郁恵。
 髪も身体もびしょびしょに濡れて肌は白く、唇は紫色をしていて、安心できないが、生きているだけで俺は嬉しかった。
 
「うん、そうだね。キスで目覚めさせてくれるなんて、往人さんはやっぱり私の王子様だね」

 この砂浜でキスをした日が思い出される郁恵の言葉に俺は胸が熱くなった。
 
「郁恵とのキスは慣れてるからな……無事でよかった……もう無茶するなよ……」

「うん、真美に攫われちゃった。本当にこれは夢じゃないんだね」

「現実だよ、俺は日本に帰って来たんだ」

「ありがとう。もう……待たせ過ぎなんだから……ダメだよ。
 大切な人を一人にしたら……」

 言葉を交わしながら、涙を流す郁恵。
 俺は濡れた身体を温めるために、郁恵の服を脱がした。

「大胆だね、往人さん……。
 私の身体は綺麗?」

「もちろんだよ。
 今すぐ抱き締めたいくらいだ」

「本当に往人さんってば……。
 私の裸を見ていいのは往人さんだけなんだからね」

 俺が着ていたコートを着せて、抱きかかえる。
 待っていてくれるよう頼んだタクシーまで辿り着く頃には、郁恵は寝息を立てていた。

 運転手からタオルを借り、身体を拭いて暖房の掛かったタクシーの中に乗り込むと、息も絶え絶えに脱力した。

 しかし、まだここで長い一日の終わりを迎えるわけにはいかない。

 水難事故と呼ぶには原因不明で歪な状況だが、明らかに低体温症になっている。

 さっきまで意識が戻っていたとはいえ、予断は出来ないのだ。

 今からでは夜間診療になってしまうが、俺は郁恵を受け入れてくれる病院を探すことにした。
やがて島から脱出する決行の日を迎えました。
 まだ日が昇るには早い夜明け前。
 二人は旅支度をすませて手をつないで小屋を抜け出しました。

「ドキドキするね……もう、ここには帰って来ないんだ」
「帰ってくる必要なんてないのよ。牧場の主はあたしたちを利用してきた悪い人なんだから」
「本当にそうなのかな……私は佳代みたいに賢くないから分からないよ」
「今は考えなくていいわ。海岸に小舟を用意してるから行くわよ」
「うん、道案内をお願い」

 佳代にとっては牧場の主がどれだけ子どもたちを利用してきたのか実感していました。
 
 ですが、動物たちのお世話をすることを楽しんできた小夜にとっては、この島の動物たちに別れを告げるのには最後まで迷いがあったのです。
 
 佳代と小夜は足音をさせないように、静かに息をひそめて歩いて行きます。
 
 牧場には大きくの子どもたちがいて、牧場の主もいましたが気付かれることなく無事に牧場を抜け出すことに成功しました。

 
 牧場を出て、しばらく草原を歩いていった二人は追手もなく、日の出を迎える頃に海岸に無事たどり着きました。

 そこには広大な砂浜があり、果てが見えないほどずっと先まで青い海が広がっていました。

「潮の香りがするね」
「海がすぐそばにあるのよ」
「うん、波の音が聞こえる。佳代の言った通り、本当に海まで来たのね」
「そうよ、この海を超えればもっと大きな世界が広がっているわ」

 穏やかな波の音が聞こえ、小夜は海をすぐそばに感じました。
 涼しい風を受け、島での日々に別れを告げようとしていた時、佳代は思わぬことを小夜に語り始めました。

「ねぇ……小夜。本当のあなたはアンドロイドなの。
 戦争で傷ついてしまったあなたをこの牧場の主は引き取った。もちろん動物たちのお世話をさせるためよ。
 そしてこの島にやって来たあなたは記憶を奪われ、両目をくり抜かれてしまったのよ。
 この島から決して抜け出せないようにするためにね」

「えっ? 一体何を言ってるの? 佳代?」

「最後なんだから、ちゃんと耳をすませて聞きなさい」

 小夜は一体何の話をしているのか分かりませんでした。
 でも、とても真剣な目で見てくる佳代の態度を見て、しっかり話しを聞こうと集中しました。

「だから……この島をもし抜け出せても良い人に巡り合えないと人間としては扱ってくれないかもね。
 ごめんなさい、あなたと出会えてよかったわ」

「なんで……なんでそんなことを言うの……私は見えないことなんて気にしない。目が欲しいなんて思わないよ」

「分かっているわ。だから、あなたはここにいるべきではないのよ」

 佳代は小夜の手を握り、小夜を小舟に乗せて手を離しました。

「さぁ……目を覚ましなさい。
 小夜には立派な羽が生えているんだから。
 自分の力で羽ばたいていけるわ」

「やだっ! どうして……いかないで!! 佳代っ!!」

 小夜はもう一度手をつなごうと必死に手を伸ばしますが、小舟はどんどん砂浜から離れていきます。


「小夜……空を飛べるあなたはこの世界で一番自由になれるのよ、頑張りなさい。
 あなたと出会えてよかったわ、さようなら」


 遠ざかる佳代の声を聞きながら、小夜は目にいっぱいの涙を溜めて、悲しみがあふれていき膝を抱えてしまいました。
 

「佳代が消えてしまう……私の前から消えてしまう……いやだよ。
 そんなの嫌だよっ!!」


 悲しみが押し寄せていき、佳代の気配を感じられなくなると、小夜はついに意識を失ってしまいました。



「あれ……ここは」

 小夜が声を漏らして身体を起こすと、そこは小舟の上ではなくベッドの上でした。
 
 目を覚ました小夜は看護師さんから話しを聞き、今までのことが全て夢であったことを知りました。

 果たして悪い夢だったのか分かりませんが、しかし自分が人間であることを知った小夜はたとえ目が見えなくても、自分に出来ることがたくさんあることを学んだことを思い出しました。

「ありがとう佳代、空はまだ飛べないけど、佳代のおかげで私はやっと自由になれたよ」

 振り返れば確かに現実感のない夢のような時間だったと、そんな風に小夜は思い、佳代はいつも自分のことをはげましてくれたと勇気づけられました。

 佳代のおかげで島の外に出ることができたと考えを改めることにした小夜は、前を向いて生きて行こうと歩みを始めるのでした。

 (『空を飛べたら』25ー32ページ)
「どうして……夢を見ていたの……」

 身体がまだ重たく感じるが、徐々に意識が戻って来る。
 微かに夢を見ていたような気がして、いつの間にか自分が書いた絵本の物語に肉体ごと没入していたような感覚がした。

 布団の上で眠っていたみたいだ。私は何とか力を入れ、身体を起こして状況を確かめる。

 四肢を動かすと点滴の針が右腕に刺さっている感覚がちくりとした。あまりに身体にフィットした病衣、暖房の入った暖かい空気、そのどれもが私にはひどく懐かしかった。

「私……生きてるんだ……」

 現実感のない目覚めに生きていることさえ疑いを持ってしまう。
 あれから一体どれだけの時間、眠っていたのかは分からなかった。

「身体が重い……病院は嫌だよ、早く往人さんのところに帰りたいなぁ……」

 情報収集する手段であるスマートフォンも失くしてしまい、一人病室にいると不安に駆られてしまう私がいた。

 フェロッソが交通事故に遭ったことも往人さんに抱きかかえられて助けられた事もはっきりと覚えているが、その間の記憶を掘り起こそうとすると頭痛がして頭がクラクラした。

「郁恵さん、目を覚ましたのね」

 巡回している看護師さんの優しい声掛けが耳に届いた。

「嘘……その声は奈美(なみ)さんですか?」

 声がした方を向いて私は聞いた。
 長い入院生活でお世話になったあまりに懐かしい声を聞いて私は驚きでいっぱいになった。

「ええそうよ、大変だったわね。もう大丈夫よ」

 手を優しく握ってくれる看護師さん。
 あぁ…間違いない、この感触は佐々倉奈美(ささくらなみ)さんの手だ。
 この手に支えられていた頃のことが今にも蘇ってくるようだった。

「懐かしい匂いがすると思ったら…そうだったんですね。
 また、戻って来たんだ……私は生きているんですよね?」

 感傷を覚える程にあれから時が過ぎている。
 まだここが現実かどうか疑いが解けない私はつい奈美さんにまで聞いてしまった。

「もちろんよ。今日は十二月二十六日、あなたは今日の早朝にこの病院に搬送されてきたのよ。
 郁恵さんとまた会うことになるなんて驚いたわ。本当に大きくなったわね」

「それは……あれから六年は過ぎてますから。大きくなりますよ」

 半日以上、眠っていたのかと思うと往人さんがこの場にいないのも納得だった。

 まだ奈美さんがこの病院の看護師を続けていることにも驚かされた私はやっと気持ちを落ち着かせることができた。
 
 あの時の凍えそうなほどの寒さも、冷たい海水に濡れた突き刺さるような感覚だって今でも思い出せる。
 だから、私は全て本当にあった出来事だと受け入れることができた。

 一息ついて、思考を巡らせた私は恐ろしいことに気付き、それを奈美さんに告白した。

「奈美さん、一つ分かったことがあります、
 あの日、私を砂絵の世界へと導いたのは真美じゃなかったんです」

 きっと、普通はこんなことを言っても誰も信じてはもらえないだろう。
 それが医療従事者であればなおのことだ。

 でも、遺体となった真美に会わせてくれた奈美さんなら違う観点から見てくれるかもしれない。
 そんな願望があったからこそ、私は告白した。
 だって、私が狂っているというなら、あの時に起こった奇跡だって全部幻になってしまうから。
 それは、受け入れたくないと心から思った。
 気付けば日付が変わってしまい、放心状態のまま一人家に帰り、眠れない夜を過ごしながら考える。

 何故、郁恵はあんな危険な行為に及んだのか。
 一体、何が郁恵をあそこまで追い詰めていったのか。
 その謎が明らかになることのないまま、一日が終わった。

 夜間診療を受けた後、病院側の判断で精密検査が必要であると判断され別の病院に移送されることになった。
 移送先はかつて郁恵が長い入院生活を送っていたことがある病院。

 まだ郁恵が目覚めた姿を見ていない以上、安心は出来ない。
 面会時間の都合上、一旦家に帰ることになったが心にぽっかり穴が開いたようだった。

「郁恵は目を覚ますのでしょうか……?」

 俺は郁恵がストレッチャーに乗せられて別の病院まで移送されていく最中、担当医師に聞いた。

「心配いりませんよ、間もなく目覚めます。
 今は好きな人と会うために身支度をしてるんです。
 女性にはそういう時間が必要なんですよ」

 何か確信めいたものがある様子で担当していた女医はそう話して、郁恵を見送っていた。
 心配している俺を安心させようとしてくれていたのだろう、落ち着いて見守れるほど冷静にはなれないが、俺は医師の言葉に言い返すことなく素直に現実を受け止めた。
 詳しい病状の説明は移送先で聞いた方がいいと言われた以上、口を挟む理由もなくなってしまった。
 寒空の下、俺は郁恵が早く目覚めるのを願いながら家に帰った。

 次の日の朝、いつの間にか熟睡していたのか、面会開始時間が迫っていた。
 俺は洗面所で顔を洗い、鏡で自分の姿を確認すると、すぐさま身支度に入った。段々と髪が脱色してきている気がするが気にしている暇はなかった。

 入院時に必要なものをメモした紙を見ながら必要なものを揃える。
 ふと、郁恵が愛用しているぬいぐるみ達の姿が目に入るが、持っていくのは止めることにした。

「フェロッソ……お前が無事な姿も見に行ってやらねぇとな……」

 異様なほどに静かな部屋の中で俺は呟く。
 大きなケージの中でいつも寝ていたあいつがいないことがこんなにも胸を苦しくさせるとは思いもしなかった。

 俺はトレンチコートを羽織り、電気を消して戸締まりをすると、郁恵が入院している移送先の病院まで急いだ。
 病院内に入ると清潔を極める独特の空気感が漂っていた。
 十階のホスピス病棟までぎっしり病院設備が整った立派な病院。
 各フロアを回り、面会受付を済ませて郁恵のいる病室を目指して歩くと自然と鼓動が脈打ち、緊張している自分がいた。

「あっ…待ちたまえ、君」

 膝丈まである白衣を着た医師とすれ違った直後、呼び止められる。
 振り返るとそこには四十代くらいの眼鏡を掛けた医師がこちらを真っすぐに見ていた。

「はい、何でしょうか?」

 遮光眼鏡に赤髪をした俺を不審者と見間違えたのかと思い一度身構えるが、医師が事情を話し始めるとそんなことはなかった。

「君は今日から入院することになった前田郁恵さんの面会に来たのでしょう?」

「そうです」

 つい重い責務を背負って仕事をしている医師を目の前にすると身体が強張るが、俺は冷静に答えた。

「なら安心するといい、先程彼女は目を覚ました。
 看護師と会話も出来ていて、容体は落ち着いているよ。
 だがしかし、すぐに会いに行きたいだろうが少し我慢してくれないか?
 君には彼女の身に起こっていることを話しておきたい」

 ネックストラップに構内PHSをぶら下げた医師は迷う様子もなく俺に向かってそう言い放った。
 
「それなら従いますが……よく俺が彼女の面会に来たと分かりましたね」

 医者が言うのなら間違いはないだろうが、話しが早すぎるのを見て俺は流されないように確認を取ろうと口を挟んだ。
 医師は疑いの目で見られていることに気付き、軽く口元を緩ませ、省略していた説明を始めた。

「家族からも事情を伺っていますので。
 今は君と二人で暮らしていることは既に存じ上げているよ。
 その上で、家族から君には詳しい病状を話しておいて欲しいという要望を受けた。
 相当に君は家族側からも信頼されていると判断して、現時点で分かっていることを話すつもりです。
 以前に入院していた当時の症状についても含めてね。
 家族から聞いた君の特徴とも一致している。疑う余地はないというわけだ」

 家族というのはもちろん、郁恵の父親、前田吾郎のことに間違いないだろう。
 試されているのかもしれないが、オーストラリアにいるあの人は俺に任せるのが適当だと考えたのだろう。
 郁恵と早く面会したい気持ちはあるが、今の容体を知ってから郁恵と顔を合わせた方が、不安も拭い去ることができて、妙な勘繰りをしなくて済むだろうと考え、俺は医師の言葉に頷いた。

「賢明だよ、さぁ、付いて来てくれるかな。そう長く時間は取らせないよ」

 そうして医師の言葉に導かれ、俺は同じ階にある小さな部屋に案内された。
 案内されるままにパイプ椅子に座ると医師は密室の中で詳しい病状について聞かせてくれた。
 よくそんなに小難しい話しをペラペラと話せるなと思いながら俺は最後まで聞いた。


 郁恵の担当医を務めるこの精神科医の医師の話しによると、以前の入院当時の郁恵は幻聴や妄想、倦怠感などの症状があることから”統合失調症(とうごうしっちょうしょう)”であると診断されていたらしい。
 現在の症状もそれに近いものがあり、再発している可能性を考慮して検査入院に至ったということだ。

 統合失調症は神経伝達物質の一つ、ドーパミンという物質が過剰に放出されて、精神的不安定な状態になったり、幻聴や幻覚を発症することがある精神疾患だ。

 思春期から四十歳くらいまでに発病することが多く、その割合はおよそ百人に一人といわれており、決して稀な病気ではない。
 主に精神系の薬による治療や精神科リハビリテーションなどの治療によって回復すると言われていて、社会復帰まで長期間に及ぶこともある。

 発症の原因については明確には分からないが、過度のストレスが長期間にわたり、続いたことによる影響であると医師は語った。

 海に投身するほどの錯乱状態をどう解釈すればいいのか理解に苦しむが、フェロッソが事故に遭った精神的ショックによる影響だと予測を立てることは出来た。

 しばらくは点滴や錠剤による抗精神病薬を使いながらの検査入院が必要で、担当医師がいない年末年始の休診期間を挟むことから退院は来年にずれ込む見通しだそうだ。

 以前に入院していた頃に比べれば、今の症状は軽傷であることから、退院後もしばらくは脳内のドーパミン神経の活動を抑える抗精神病薬を服薬しながら様子を見ることで、大事には至らないと判断された。

 危機一髪、海に沈みかけていた郁恵をあの冷たい真冬の海面から救い出した俺としては、同じようなことが起きないか心配だ。俺からも事情を説明したところ、動じる様子なく医師は俺の話しにただ頷き、同じような症状を引き起こさないために、抗精神病薬の必要性について説明を繰り返した。


「一人暮らしをしていたなら、オーストラリアで暮らす父親と同居することを勧めるところだが、同居している君が彼女の様子を見てくれるのなら、その方が学業を優先したい彼女のためにもなるだろう。
 処方した薬が合わないようならいつでも相談に応じます。私からの話しは以上だ、今の時点で聞いておきたいことがあれば伺います」
 
 
 医師の話しは終わり、俺も特にこれ以上聞きたいこともなく、早く郁恵のところに向かうことにした。

「問題ありません、ありがとうございました」

 俺は医師と同時に立ちあがり、お辞儀をして部屋を出た。
 冷静に振舞う医師は何事もなかったかのように看護師と話し、次の回診へと向かった。

 俺は大きな溜息を付き、気持ちを整理した。
 改めて俺は郁恵について知らないことが数多くあることに気付かされた。

 長期間に渡り入院していたことは知っていたが、詳しいことは何も知らないまま今日まで来た。郁恵にも聞かないようにしていた。

 俺が見てきた限りでは病院に世話になることはほとんどなく、健康に暮らしていた郁恵。病院から処方された薬を服薬する姿も見かけたことがない。
 治療が終わり、健康になったと思いたいところだが、今回のことを考えると今まで通りにとは行かないだろう。
 
 今思えば、亡くなった真美の声が時折聞こえて来ると話していたのも、統合失調症の症状の一つである幻聴に当たるのかもしれないと思えた。 

 随分、緊張していたのか疲れがどっと押し寄せる中、荷物を持ち、俺は郁恵の待つ病室へと向かった。
 入院することになった今日だけかもしれないが、扉の前まで来ると病室は個室になっていた。
 六年ぶりに再会した看護師の奈美さんと懐かしい気持ちで会話を続けていると、唐突に病室の扉がゆっくりと開かれる音がした。

 往人さんが来てくれたことを期待して胸がキュンと反応を起こす。
 少し気を遣い、躊躇いながら扉が開かれたせいだ。

「あら、彼氏さんが来てくれたみたいよ」

 往人さんに会ったことのないはずの奈美さんが私に言った。
 私の反応を見て察してしまったのかもしれない、エスパーかと思ってしまうくらいだ。

「本当に目を覚ましたんだな……よかった」
「往人さんの声だ……私も会えて嬉しい……」

 愛おしい声が私の耳をくすぐる。奈美さんが「やっぱり正解だったみたいね」と声を漏らす中、私と往人さんはいつもそうしているみたいに手を繋いで無事を確かめ合った。

「なかなか起きる様子がなくて焦ったよ、本当に心配させやがって……」
「うん、ごめんね……もう、大丈夫だから」

 心細かった気持ちが落ち着き、花が開くように自然と笑顔がこぼれた。
 あぁ……私はこんなにも往人さんと会いたかったのかと今すぐ抱きしめたい衝動を堪えた。

 私は病室の中だから我慢をしたつもりだったが、気付けば往人さんの腕に顔をスリスリさせて、生きている幸せを噛み締めていた。

 今にも涙が零れそうになる、私の編んだマフラーを巻いた往人さんもまた同じ気持ちなのだろう。自然と指を絡めながら私は思った。

 「あらあら……見せつけられちゃったわね」と奈美さんは微笑みながら言うと、「食事を持ってくるわ」と言い残し、病室を去って行った。
 
 やり過ぎないよう加減をしたつもりだったが、ちょっと不謹慎だったみたいだ。

 
 奈美さんがいなくなった病室で私は往人さんから紙袋に入ったいっぱいの荷物を預かった。

「必要そうなものを持ってきたよ。検査入院することになるって聞いてたからな」

「ありがとう…本当に助かるよ。下着とかもちゃんと入ってるんだ…」

 下着の柄までは判別できないが、家に置いている私物に関しては触ればある程度何が入っているかは分かる。
 洗面用具や着替え、生理用品に至るまで日常生活で使っているものが揃っている。入院時に必要なものを調べて持ってきてくれたのだろう。
 往人さんらしい気遣いを感じて温かい気持ちになった。

「まぁ……禁断の引き出しを開けることになったが……」

 そう言われると恥ずかしい気持ちになってしまう。
 着る勇気がないのに派手な下着を大切にしまってあったりするから、ちょっと見られると困ってしまう私がいた。

「さすがに派手な下着を持ってきてたりはしてないよね?」

 間違って病院でエッチな下着を着てしまったら大変恥ずかしい目に遭ってしまう。私は念の為に確認をした。

「あぁ、大丈夫だと思う……見たことある下着だけを持ってきたからな」
「その言い方はちょっと引っ掛かるけど……」
「ガーターベルトは持ってきてないから、布面積が少ないやつも」
「そんなに私の下着を物色しなくてもいいって! 恥ずかしいのに、往人さんってば……」

 そこまでヤバい下着は間違って着ることはないのに、往人さんに私の手持ちの下着を知られてしまったと思うと恥ずかしくて仕方なかった。

 何はともあれ、スマートフォンを失くしてしまい、ハンドバックまでどこかに置いてきてしまった私としては感謝しかない。

 往人さんと会い、少し安心したところで、私は往人さんに謝らなければならないことがあること気付き、話しておくことにした。

「私の病気のこと、聞きましたか?」

「あぁ、担当医の先生から聞いたよ、以前に入院していた頃のことも」

 重い話しを耳にしたのだろう、声色から動揺する様子も往人さんからは見られた。

「そっか……往人さんに私が壊れてしまっていること、知られてしまいましたね。隠す理由はなかったんですけど、オーストラリアで四年間お父さんと過ごして、精神的に不安定になることも、幻聴が聞こえることもなくなって、薬も飲まなくてよくなったんです。
 だから私は忘れようとしていたんです。辛い記憶と一緒に真美のことも全部。これからは将来のことや楽しいことだけを考えて生きて行こうって。
 いつも笑顔でいたいから……だから忘れようって思ったんです」

 辛い気持ちを隠すために、笑顔を浮かべて明るい口調を崩さなかったが、それでも目が泳いでしまっていた。

「無理しなくていいんだよ。一緒に支えあって生きていくって決めただろ?」

 往人さんがまた優しく慰めようとしてくれている。
 涙が出そうなくらいに嬉しいのに、いつも助けてもらってばかりで情けなくて申し訳ない気持ちになった。

「そうだったね……往人さんに心配かけないよう、頑張りすぎちゃってたのかな……フェロッソが事故に遭った瞬間、目の前が真っ暗になっちゃった。
 もう、不安な気持ちを隠すことができなくなるって、いつもの自分のままでいられなくなるって、それが怖かったんだよ」

「そうか……ごめんな、俺がいない時に大変だったよな。
 家に着いた時、郁恵がいなくて、連絡も付かなくて必死に捜したんだ。
 フェロッソは無事だよ。郁恵を捜してる途中に動物病院まで一緒だった女性から聞いた。スマートフォンも預かって来たんだ。電源は付かないみたいだけどな」

 液晶画面にヒビの入ったスマートフォンを手渡された。
 フェロッソが無事でいてくれたのは嬉しいけど、大切にしてきたスマートフォンが壊れてしまったことを知ると、事故の衝撃の大きさを改めて痛感した。

 私は往人さんに代わりにフェロッソの様子を見に行ってくれるようお願いした。

 もう一度、一緒に桜並木を歩くのは難しいかもしれないけど、それでも長年連れ添ったフェロッソには元気でいて欲しかった。