電車とタクシーを乗り継ぎ、気が狂いそうになる移動時間を耐え、凍えるような潮風が吹き荒れる砂浜のすぐそばにある駐車場まで俺はようやく降り立った。

 夜遅くに頼み込むのは申し訳ないが、華鈴さんに連絡をして郁恵の行方を知っている人がいないか聞いて回ってもらい、この場所以外に郁恵が行きそうな店や大学を捜索してもらうことにした。
 
 自分一人で何とか出来るという奢りはこの際捨て去るべきだ。
 今、俺に出来る最善の策は講じたと思う。
 後は見つけ出して無事を確かめるだけだ。 

 俺は海壁から勢いよく飛び降りて無限に続く砂浜を走りながら目を凝らし、必死に郁恵の姿を捜した。

 途方もなくどこまでも続く海岸線。

 夜になると一段と空気が冷たくなり、少し走っただけで息が上がって来る。

 それでも俺は愛してやまない郁恵のことを諦めるわけにはいかなかった。


「郁恵っ!! どこにいるんだっ!! 声を聞かせてくれっ!!
 もう一人にしないから!! だから、俺のところに帰って来てくれっ!!」


 疲れがピークに達したのか、段々と意識が遠くなり、視界がぼやけて来る。

 必死に走り続けるが、砂浜は果てしなく先まで続いている。

 走りすぎて通り過ぎたのかもしれない、そもそもこの砂浜に来ていないのかもしれない。

 でも、華鈴さんからの連絡は未だない。

 俺は一縷の望みに賭けて走り続けるしかなかった。
 

 ”郁恵の無事を願い、走り続けていると、一瞬、顔色までは見えなかったが、白いワンピースを着た郁恵が風に吹かれながら海に入って行くのが見えた”


 服の色まで鮮明に見えるわけがない、砂絵(サンドアート)の幻が見えているだけだと言い聞かせて頭を振り払い、もう一度立ち止まって周囲を眺めた。

 穏やかに波飛沫を上げる夜空の下に広がる広大な海。

 美しい満月の月明かりが水面に光を差し、奇跡が起きたように僅かに視界が開けた。

「……郁恵」

 幻想的光景に目を奪われていた矢先、会いたくて堪らなかった長い髪を解いた麗しい女性の姿が水面に浮かんでいるのが映った。

 身体が浮き上がるように胸が高鳴る。

 意識があるか不明のまま、動き出す様子もなく郁恵は波に誘われるように遠ざかって行く。

 しかし、何かの力が働いているのか、単純に郁恵の身体が軽かったからなのか、水面に浮かび仰向けになったままだった。


「うぅう……あああっぁぁ……いくえ……いくえぇぇぇっ!!!」

 
 疲れも吹っ飛ぶほどに俺は叫び、風景の一部に囚われていた郁恵を取り戻そうと駆け出した。

 海水温の下がった凍えるような海に必死の思いで歯を食いしばって飛び込んでいく。
 
 冷たい海水に耐えながら泳ぎ、やっとの思いで郁恵の身体を掴んで息を確かめる。
 海水に沈みかけていた郁恵の身体は願いが通じたのか、ほんの僅かに息をしていた。


「郁恵っ!! お願いだっ!! 目を覚ましてくれっ!!」


 何とか砂浜まで上がり、息を切らしながら心臓マッサージを繰り返した。
 僅かな可能性に賭け、冷たく濡れた身体を必死に動かす。

 必死に郁恵を見つけ出した俺に、もうこれ以上出来ることはない。

 そんな泣き出しそうな虚しさまで湧いて出てくる中、郁恵の身体が小刻みに動き出し、瞳を開いた。

「往人さん……本当に助けに来てくれたの?」

「当たり前だろっ! どれだけ心配して…会いたかったと思ってんだっ!」

 生きているのが不思議なくらいのか細い郁恵の優しい声。
 俺はどうしようもなく涙が瞳から零れていき、郁恵の身体を抱き上げた。

「そっか……嬉しい。往人さんの声が聞えたよ。
 約束を覚えていてくれたんだね。
 ありがとう……私を深い眠りから目覚めさせてくれて」

「忘れる訳ねぇだろ……どれだけ大切な思い出だと思ってる……」

 安心したように笑顔を浮かべる郁恵。
 髪も身体もびしょびしょに濡れて肌は白く、唇は紫色をしていて、安心できないが、生きているだけで俺は嬉しかった。
 
「うん、そうだね。キスで目覚めさせてくれるなんて、往人さんはやっぱり私の王子様だね」

 この砂浜でキスをした日が思い出される郁恵の言葉に俺は胸が熱くなった。
 
「郁恵とのキスは慣れてるからな……無事でよかった……もう無茶するなよ……」

「うん、真美に攫われちゃった。本当にこれは夢じゃないんだね」

「現実だよ、俺は日本に帰って来たんだ」

「ありがとう。もう……待たせ過ぎなんだから……ダメだよ。
 大切な人を一人にしたら……」

 言葉を交わしながら、涙を流す郁恵。
 俺は濡れた身体を温めるために、郁恵の服を脱がした。

「大胆だね、往人さん……。
 私の身体は綺麗?」

「もちろんだよ。
 今すぐ抱き締めたいくらいだ」

「本当に往人さんってば……。
 私の裸を見ていいのは往人さんだけなんだからね」

 俺が着ていたコートを着せて、抱きかかえる。
 待っていてくれるよう頼んだタクシーまで辿り着く頃には、郁恵は寝息を立てていた。

 運転手からタオルを借り、身体を拭いて暖房の掛かったタクシーの中に乗り込むと、息も絶え絶えに脱力した。

 しかし、まだここで長い一日の終わりを迎えるわけにはいかない。

 水難事故と呼ぶには原因不明で歪な状況だが、明らかに低体温症になっている。

 さっきまで意識が戻っていたとはいえ、予断は出来ないのだ。

 今からでは夜間診療になってしまうが、俺は郁恵を受け入れてくれる病院を探すことにした。