お前と喫茶店に来るなんて、久しぶりだな。なんてご機嫌な妻の横顔に見とれながら、飴色に磨きこまれた重たい扉を開け、先に妻を通す。カラン、とカウベルの音が店内に柔らかく響いた。
「いらっしゃいませ、二名様ですね。パンケーキですか」
「はい」
「ご予約は」
「済んでいます」
「お待ちしておりました、どうぞ」
外出自粛の時期が長く続き、閉店を余儀なくされた飲食店も多いという。その中でもこの喫茶店は根強いファンに支えられ、パンケーキのテイクアウトという形で経営を続けてきた。
だがやはりこの喫茶店のパンケーキは店内で味わいたい、そんなファンの声に後押しされてようやく店内営業再開となったニュースをいち早く入手したのは、勿論うちの妻である。
「おい、あの店でパンケーキが食べられるぞ」
「あの店って……あそこか! 銅板パンケーキの」
「ああそうだ。外はカリッと中はふわふわの分厚いパンケーキにたっぷりのバターと蜂蜜をかけて」
「よし、すぐ行こう」
「駄目だ、あそこは予約制だってこと忘れたのか」
「そうだった……」
一度思い浮かべたら忘れられない、二段重ねの夢のパンケーキ。昭和の風情漂うレトロな喫茶店で、三十分という待ち時間のスパイスとともに煮込まれた客のハートは、じっくりと銅板で一枚ずつ焼き上げられるパンケーキの登場に高揚するばかりなのだ。
だが店内の狭さ、スタッフの少なさ、焼き上げる枚数や時間に限度があるため、パンケーキの注文に限っては予約制となっている。しかも自粛明けで俺達と同じように首を長くして待っていたファンが殺到したとあって、営業再開から三ヶ月後、ようやく俺達の番が回ってきたという訳だ。
普段はクールでポーカーフェイスなうちの妻も、小さく頬を緩ませている。傍目には分からない? そうだろう。妻の変化に気付けるのは俺くらいなものだ。
「おい、何をぶつぶつ言っている。飲み物を早く注文しろ」
「あっはいはい」
妻はこういった老舗の喫茶店でスイーツを味わう時、たいていストレートティーを注文する。俺はコーヒー一択だ。
「スイーツを味わうのに、コーヒーは邪道だ」
妻は冷たい視線を俺に投げかけるが、それ込みで俺はコーヒー一択だ。むふ。
スイーツが来るのを待つ間、俺達は会話に興じることはあまりない。まあ長い付き合いの中で、話す内容は話尽くした感もあるし、話さなくても通じる空気感のようなものもある。男同士で向かい合ってきゃぴきゃぴする歳でもないし、特にこういった雰囲気の良い喫茶店では、静かに二人の時間を味わいたいという気持ちもあった。
俺はフリーランスの仕事で使っている手帳をおもむろに開く。妻は常に携帯している文庫本のしおりを外した。
二人の間に流れる三十分。少しだけ互いの存在を感じながら過ごす時間が愛おしい。
「お待たせしました。パンケーキです。二段をご注文のお客様は」
「あ、俺です」
「こちら三段です」
「はい、ありがとうございます」
そう。妻はこんなにピシッと決まっていてスタイルも良いのに、俺より大食いなのである。
「さぁ食べるぞ」
「おうよ」
結局のところ、黄金色の蜂蜜を幸せそうにかける妻の笑顔が、俺にとってのなによりのスイーツなのだが。
おしまい
「いらっしゃいませ、二名様ですね。パンケーキですか」
「はい」
「ご予約は」
「済んでいます」
「お待ちしておりました、どうぞ」
外出自粛の時期が長く続き、閉店を余儀なくされた飲食店も多いという。その中でもこの喫茶店は根強いファンに支えられ、パンケーキのテイクアウトという形で経営を続けてきた。
だがやはりこの喫茶店のパンケーキは店内で味わいたい、そんなファンの声に後押しされてようやく店内営業再開となったニュースをいち早く入手したのは、勿論うちの妻である。
「おい、あの店でパンケーキが食べられるぞ」
「あの店って……あそこか! 銅板パンケーキの」
「ああそうだ。外はカリッと中はふわふわの分厚いパンケーキにたっぷりのバターと蜂蜜をかけて」
「よし、すぐ行こう」
「駄目だ、あそこは予約制だってこと忘れたのか」
「そうだった……」
一度思い浮かべたら忘れられない、二段重ねの夢のパンケーキ。昭和の風情漂うレトロな喫茶店で、三十分という待ち時間のスパイスとともに煮込まれた客のハートは、じっくりと銅板で一枚ずつ焼き上げられるパンケーキの登場に高揚するばかりなのだ。
だが店内の狭さ、スタッフの少なさ、焼き上げる枚数や時間に限度があるため、パンケーキの注文に限っては予約制となっている。しかも自粛明けで俺達と同じように首を長くして待っていたファンが殺到したとあって、営業再開から三ヶ月後、ようやく俺達の番が回ってきたという訳だ。
普段はクールでポーカーフェイスなうちの妻も、小さく頬を緩ませている。傍目には分からない? そうだろう。妻の変化に気付けるのは俺くらいなものだ。
「おい、何をぶつぶつ言っている。飲み物を早く注文しろ」
「あっはいはい」
妻はこういった老舗の喫茶店でスイーツを味わう時、たいていストレートティーを注文する。俺はコーヒー一択だ。
「スイーツを味わうのに、コーヒーは邪道だ」
妻は冷たい視線を俺に投げかけるが、それ込みで俺はコーヒー一択だ。むふ。
スイーツが来るのを待つ間、俺達は会話に興じることはあまりない。まあ長い付き合いの中で、話す内容は話尽くした感もあるし、話さなくても通じる空気感のようなものもある。男同士で向かい合ってきゃぴきゃぴする歳でもないし、特にこういった雰囲気の良い喫茶店では、静かに二人の時間を味わいたいという気持ちもあった。
俺はフリーランスの仕事で使っている手帳をおもむろに開く。妻は常に携帯している文庫本のしおりを外した。
二人の間に流れる三十分。少しだけ互いの存在を感じながら過ごす時間が愛おしい。
「お待たせしました。パンケーキです。二段をご注文のお客様は」
「あ、俺です」
「こちら三段です」
「はい、ありがとうございます」
そう。妻はこんなにピシッと決まっていてスタイルも良いのに、俺より大食いなのである。
「さぁ食べるぞ」
「おうよ」
結局のところ、黄金色の蜂蜜を幸せそうにかける妻の笑顔が、俺にとってのなによりのスイーツなのだが。
おしまい