数日を経て、今この田舎街にも世間を賑わす二つの話題が浸透してきた。

 一つは恭弥が語った件の噂。
 ここに至るまでに背びれ尾ひれが付いて回り――今ではA&ISは実は悪の秘密結社でこれらはテロ行為の一環だの、ACSという装置による世界侵略の前段階だのと、そのような荒唐無稽(こうとうむけい)な話まで持ち上がっているという。
 そんな誇大妄想だが、100%それを否定できる人間がいない所為でか、彼らの頭の隅に引っ掛かり続けているという始末の悪さ。

 今一つは、増山が語ったある組織の話。
 プレイヤーの中の年長者組が中心となって発足したという新たな派閥の団体。
 この世界からの脱出を目的とした大規模な社会的組織。
 彼らは自らを〈暁天の騎士団(オーダーオブブライト)〉と、そう称する。
 ゲームタイトルに(ちな)んで、未明を破って日の光を拝むという――そういうシンプルな意味合いらしい。

 彼らは噂だけでなく、実際にその姿をここエクトリアへと現した。
 そして意外な事にその先遣が志緒達の元に来ていた。

「おふ、おふ! これはマクダート卿! 壮健そうで何よりであらせられるぞよ!」
「ぬふぅ! このような場でクライスセレン猊下(げいか)御見(おまみ)えできるとは、恐悦の至りなりぃ!」

 増山と、そして志緒達よりも二つか三つは年上な感じの犬顔の青年、その二人が現代の軍隊式敬礼をし合っていた。
 昼過ぎにこの拠点へとやってきた〈暁天の騎士団〉を名乗るその二名。
 仕草や話し方から現代人であるとは知れるが、その内でも特に俗っぽいのが増山と一緒になってはっちゃけていた。

「何なん、この茶番?」

 有ろう事かあの香坂がツッコミ役に回っている。
 他のメンバーが色も言葉も無くしている状態であるからして、仕方がなかった。

「倉瀬くん、そろそろ本題に入りたいんだけど……」

 もう片方――いかにも誠実そうな風情を漂わす面の細い青年が、増山と一緒になってテンションを振り切らんばかりの犬顔に強張った笑顔でそう尋ね掛ける。

「おふ! これは失敬をば! 当方、数週間ぶりの盟友との再会についつい我を忘れる程に熱くなっていた模様! とりぞう殿、ご容赦を!」

 今一度、示し合わせるように増山と敬礼を果たしてようやく大人しくなった。

 一同が会したそのダイニングテーブルで「とりぞう」とそう呼ばれた彼が上座に立ち、一度咳払いをして取り繕う。

「皆、はじめまして。僕は酉谷(とりたに)浩三(こうぞう)と言います。この世界では基本『とりぞう』で通ってるので、そう呼んでくれて構わないから」

 柔らかくそう自己紹介をした。

「拙僧はクライスセレン・ディゴールド――こと、倉瀬(くらせ)伸彦(のぶひこ)であります!」

 犬顔が横合いから腕を伸ばしてそこに被せてくる。
 志緒達は皆――顔見知りらしい増山を除いて――どうリアクションを取ればよいやらという表情だ。

「僕らは〈暁天の騎士団〉のメンバーだ。今回ここエクトリアに支部を設立する事になり、その調整をする為にここに派遣されてきた」

 二人ともが丈夫な造りの砂色のローブに、明色の白と黄色を組み合わせた折り目の正しい軍服姿だ。
 酉谷とそう名乗った方は、そこに軽鎧を着込んで腰にも(メイス)を提げている。
 また、曙光を表しているという鮮やかな色彩の腕章が目に付いた。これが〈暁天の騎士団〉に所属している証となるらしい。

「そんな折に、倉瀬くんから君達の事を話に聞いて――」
「フレチャでの連絡はもう出来なくなってしまい申したが、それでもあのマクダート卿の事! 簡単にリタイアするタマではないと信じ! 一縷(いちる)の望みをかけて初期地域のエクトリアに避難しているのではと拙僧は(にら)んだですよ!」

 犬顔こと倉瀬が、感無量という顔つきで敬礼のポーズを取ったまま若干涙を浮かべている。

「それに一緒に遊んでいるというクラスメイト達の話も聞き及んでおりました故、もしやと思い至った次第!」
「くぅぅっ……! かような信頼を猊下に当てて貰えるとは! 身に余る光栄なりぃぃぃ!!」
「幸輝――さっきからそれウザイ」

 また引っ掻き回すようなテンションに(おちい)るその場を酉谷が同じように咳払いで元に戻す。

「そういう事なんだ。でも正直、本当によくここまでやってこれた……よく今まで無事で……」

 柔和そうなその顔に何か(はかな)げな感情が去来したかのよう、彼はそう言って目を(しか)めた。

「あの日以来、抜け出せなくなったこの世界では大人だって耐えられないような状況の連続だったろうに。本当によく……」

 みながその呟きに黙してしまう。
 それは言い表すより、実際に体験してきた彼らだからこその沈黙であった。

「一応の確認をしておきたいんだ。君達の内で、その……何かこう、不幸があったような子は?」

 言葉を濁しつつ、そう控え目に尋ねてくる。

「いえ。ここに居る俺達全員、少なくともこれまで誰一人と欠けた事はありません」

 道化の仮面を脱ぎ去って、増山が相手の心情を()み取ったかのような真摯(しんし)な声で返す。

「そうか。それは素晴らしい事だよ。本当に良かった」

 青年はそう言って破顔した。
 よくよく見遣れば、その細い面にはどこか拭いきれないような疲労感――陰りが見え隠れしている。

 今この世界で問題を抱えていない現代人など一人もいない。
 あるいは彼も、年長者組とそう言われる分類の人間とて、それでも若年の齢なのだ。
 自分達よりも年下の人間が圧倒的に多いという理由だけで、頭目に立たねばならなかった心労もあるのだろう。

 それでも件の組織から調整役として派遣される程の人物だ。
 それらの心労を押し隠してでも、奮闘しているのは察し得るというもの。

 逆に、彼のその様子から(かえり)みれば、志緒達以外の未成年者達は概ね不幸にあっているという事か。
 未だ社会の庇護の下に暮らしていた未熟な彼らだ。そういう手合いを利用しようとしたり、標的にしたりするアルドラン――いや、もしかしたら同じプレイヤーもいよう。
 それが酉谷という青年を今こうして感傷に浸らせている所以であるのかもしれない。

「ともかく、君達のような存在の保護も騎士団の役目の一つだ。これからは、僕らが出来る限りの支援を受け持つよ。何よりこちらに所属すれば、帝国への市民登録や税の支払いなんかも、僕らが一律で担当するしね」
「――マジで? 帝国への税金、そっちが肩代わりしてくれるんすか?」

 香坂を始め、その場の多くが色めき立って顔を見合わせた。
 その条件がどれだけ彼らの負担を減らすかは言及するまでもない。

「一応、現代日本の大人としての自覚があるからね。社会組織というのは、元来そうして弱者の救済を受け持って然りだよ。とは言え、勿論、君達をただ養うだけって訳にもいかないのは察しが付くと思う」
「要は下っ端として働けって事だろう」

 言葉を選ばない志緒のその率直すぎる発言に、気の良い青年は苦笑いだ。

「そうなるかな。でもこちらでは社会保障制度のようなものだって用意している。僕たちの状況は根本的にアルドラン達とは違うから、帝国側が施行しているそれらが適っていないのは明白だ。けれど僕らの為だけに帝国政府が現法案を改革してくれるわけはない。むしろ、突如として現れた僕らのような『難民』を受け入れてくれているだけ、奇跡的とすら言える。それならばと、間に緩衝材として入り込んで機能する――そういう役割を果たす組織が必要だった。分かるかな? ちょっと難しかった?」

 こちらへの気遣いを垣間見せながら、酉谷はまるで教師のようなに一同を見渡した。

「え、ええっと……だいたいは把握できてます」

 授業に積極的に臨む生徒のように、瑞貴は律儀に頷いて返す。

「そういう訳だから、君達には是非とも騎士団に所属しておいて貰いたい。極力こちらの目の届く範囲にいて欲しいからね。騎士団に所属となれば、本拠地であるシルヴィカッツに移ってもらう事になるだろうけど、生活はこちらが全て保障する。その方がきっと君達の為だ」
「あくまで……それは、強制ではなく?」

 恭弥がおずおずとした風で問う。

「勿論、君達の自由意志だよ。けれどね、君達だけでここまでやってこれたという事は有り難い事――得難い事なんだ。この先も、君達だけで全ての問題を解決していける訳はないと、僕はそう思う。だからやっぱり、重ねて言うけれど、その方が君達の為だ」

 その言葉は真実そうだった。
 正直に言って、きっと彼らは幸運であった部類だろう。

 場が沈黙を選んだ。

 数刻ほど志緒達からの返答を待っていた青年だが、安直には出せない答えと知ってか、彼はまるで空気を変えるよう明るい声を出す。

「まあ、今回は単なる顔見せみたいなものだ。焦る事はない、じっくりと考えて君達で答えを出せばいい。たとえ騎士団に所属していなくても、最低限の支援は約束される。僕らの目的は、より多くのプレイヤーの救済――そしてそれを伴ってこの世界から脱出する事だから」
「すんません。なんだか突然過ぎる話で、俺達戸惑ってるんです。ようやくここでの生活が地に足がついてきたみたいな、そんな時期だったので」

 増山が一同を代表するよう、申し訳なさげに頭を下げた。

「構わないさ。僕らが突然だったのは事実だからね。それに僕個人、本当に、この世界で君らのような子供達が懸命にやっている――その事柄だけで救われるような気分なんだ」

 終始、誠実さを滲ませていたその青年がそう言って締め括った。

「ではでは! マクダート卿、いずれは我ら騎士団の本部へも顔を出してくだされ! コードルカッツ提督も、バランフレイドク執政官も、卿の健勝なる姿を一目見たいと願って止まない筈!」
「なんと……なんと(おそ)れ多き事か……! 僥倖(ぎょうこう)ここに極まれりぃぃぃ!!」
「だからウザイって!」

 結局、どこかまた湿っぽくなったそんな空気は、倉瀬という型破りな青年の方に引っ掻き回されて幕を閉じたのだ。















 そこはこんな田舎町にしては珍しい豪奢(ごうしゃ)な邸宅であった。
 〈暁天の騎士団〉エクトリア支部――借受(かりうけ)の物件にしたって贅沢(ぜいたく)な造りだ。

 その邸宅の一室、随分と広い応接間へと志緒は招き入れられていた。

 部屋の中心、向かい合わせに並んだ長椅子の手前側には既に恭弥の姿がある。
 入ってきた志緒に気付くと振り返り、何とも微妙な面持ちで軽く片手を挙げた。

「やあ。呼び付けるような真似をして申し訳ない」

 そしてその長椅子の向こう側で、数日前に顔を合わせたばかりの酉谷という青年が気弱に会釈する。
 志緒は少し警戒の色合い見せながらも、「どうぞ」と勧められるがままに恭弥が座るその長椅子の片端へと腰を落ち着ける。

「まだ借り受けをしたばかりで、この部屋以外はあまり片付いていないんだ。話をするには少し広過ぎる部屋かな」

 そう言って酉谷は困ったように笑った。
 確かにその声が反響する程の面積を持つ一室だ。

「今日はあんた一人なのか? 増山の知り合いの、あのふざけた方は?」
「ああ、倉瀬くんか。彼はもう帝都の方に戻っているよ。いや、ははは、倉瀬くんはあんなキャラしてるけど意外と優秀なんだよ。特にこのアルドヘイムに関しての知識や造詣(ぞうけい)なんかは類を見ない」

 やっぱり増山と同タイプなのかと妙に納得した志緒だ。

 ちらりと、先程から大人しい横の恭弥の顔色を(うかが)う。
 どうも緊張している節がある。
 この豪奢な邸宅の事などの暢気(のんき)な世間話をするために、恭弥と志緒の二人を呼び出したのではないらしい。

「で、用件は?」

 故に志緒は単刀直入、まるで揺らぐ事なくそう切り出す。
 その剛胆さにやはり苦笑を余儀なくされる青年。

「騎士団の職務、その事に関してちょっとね」
「帝都に移れってあの話か? 考える時間をくれるんじゃなかったのかよ」
「ああ、ごめんごめん。紛らわしい言い方だった。――そっちの話じゃないんだ。その件に関しては、答えを出すのを急かせる気はないよ」

 平手を(かざ)しては取り繕いながらそう否定する。

「騎士団の役目のそのもう片方に関係する話なんだ」
「役目――目的って事だよな? 確かプレイヤー達の救済と……」
「そう、可能な限りの救済と、そしてこの世界からの脱出。その為に騎士団は常に優秀な人材を求めている」

 そう言って、一呼吸を空ける。

「分かり易く言うとね、この前した話とは別件で君達二人には騎士団の正式な一員となって欲しい。そういう事なんだ」

 その話に、志緒はまた眉間の縦皺(たてじわ)を深くする。
 それを聞いても恭弥の方に取り留めて反応がない事から、どうやら志緒が来る前に一度その話の持ちかけがあったらしい。

「そいつはまた、どういう了見(りょうけん)で」
「理由という事かな? それなら至極単純だよ。フジドーくん、それからシオくん、君達二人がとても優秀であるからだ」

 酉谷は無感情にそう答える。

「このゲームのシステムは知っての通りだと思う。正直言って、題材としてはMMORPGを(めい)打っていたが、その実はまるで異なったものだ。勿論、全くの新しいデバイスによる新感覚VRゲームだ。その事を含めれば、既存の物との相違をとやかく言うべきでもないんだろう。ただ、根本的にここのシステムでは……限界が見え過ぎているんだ」
「そんな話ならゲーム内でもリアルでもずっと議論の的だった」
「そうだったね。実際、時間さえかけてレベルアップすれば強くなれるそれまでのゲームの原則とかけ離れている。かと言って、ソーシャルゲームのように課金要素だって存在していない」

 サービスが本格的に始まっていたならば、あるいはそういうものも導入させる計画だったのか。
 今の志緒達には知る由もない。

「そんなこのシステムでは、強大な魔物を倒す為に必要なのはただただ膨大な物量だと、そう通説されている。けれどもね、そんな中で所謂(いわゆる)一兵卒の枠に収まり切らない〝適性〟を示してしまう人間が出現するんだ」

 そこで言葉を切って、その視線を志緒達二人へと当てた。

「僕は一時期、大学生の頃だったなぁ、FPSにどハマリしててね。その為だけに寝食を忘れて、全てを費やしたと言って差し支えない廃人だった」

 途端に変わった話に、志緒達はすかしを喰らった面持ちになる。
 酉谷は若干気恥ずかしそうに昔を語る装いだ。

「全国規模の大会にだって出た事あるんだよ。知ってるかな? 都内の球場とかを借り切って開かれる大規模な。――ああ、『とりぞう』っていうこの名前ね、その当時から使っているんだ」

 面喰らう二人にお構いなく話は進んでいく。

「でも、どれだけ時間かけて練習してもね……ある一定以上の強さには辿(たど)り着けなかった。目まぐるしく流動する戦況に対応できるだけのタフな反射神経と集中力、そして何よりも好機を生かして行動する為の状況判断力。そういうモノは簡単に(つちか)える代物じゃなくてね。まあつまり〝センス〟ってヤツかな、それを持ち合わせていなかったんだ」

 どこか自嘲気味に、そう言って頬から顎を指でなぞった。

「レベルアップで強くなれないこの世界での僕達も、そういうモノに(たの)みを置かなきゃいけない。けれど得てして、そういったモノは持つ者と持たざる者に分かれてしまうみたいだ」
「……俺達二人は、それを持ってるって?」
「そう、聞いているよ」
「誰がそんな事を吹聴(ふいちょう)して回ってやがんだ」
嚢中(のうちゅう)(きり)ってやつじゃないかな? ははは――」

 時間さえ掛ければ何とかなる既存の物とは違い、この世界ではどのように動き、そしてどのように立ち振る舞うか――
 そういった戦闘の流れというものが重要視される。
 無論それらを簡略化してこそのゲームと言うべきものだろうが、そういうお手軽さを一切として(はい)したこの世界では、酉谷の言うその「センス」と呼ぶものが最たる必要性を持つ。
 少なくともこの世界で強くなれる人間の最低条件がそれらだという事は、なんとなく志緒も察していた。
 ただ、それを自身が持ちえているかどうかはまた別の話だ。

「そういう〝適性〟を示す優秀な人材は多ければ多い程、騎士団の目的達成に繋がる。そういう人間を見つけてきてスカウトする事は、ある意味で騎士団の規模をより大きくする事と同義なんだ」
「それで、酉谷さん――」
「とりぞうでいいよ。そっちの方が呼ばれ慣れてる」
「とりぞうさん、えっと、それで俺達に具体的に何をさせようと?」

 それまで黙りっぱなしだった恭弥が、ここに来てその核心を突いた。

「――『腐蝕の王』とかいう奴を倒せば元の世界に戻れるって、そういう話があるんだろう?」

 しかし酉谷が何かを言う前に、先んじて志緒はその事に触れる。

「騎士団の中でもそう考える人間は多く居る」
「その口ぶりじゃ、あんたは信じてないように聞こえるが」
「どうなんだろうか。正直、確信なんて誰も持ち得ていないと思うけど」
「確かにな」
「けれど、それが事実かどうかは()(かく)、実際に『腐蝕の王』の復活らしき由縁によってか、魔物達の動きが乱れてきている。これまでの魔物達の生活(けん)浸蝕(しんしょく)されて、彼らは()まれず人里の方へと出てきているんだ」
「街の警備隊もその事で頭を悩ませてるみたいです。俺も一度、その討伐の仕事を()けました」
「騎士団の方でも、ギルドから優先的に依頼を回して貰っている次第だよ。帝国の力を以てしても対処が追いついていない事態らしい。それに僕らにだって関り合いのある話だ、この世界でやっていくしかない今の僕らにもね」

 最後の部分を特に意味有り気なニュアンスで酉谷はそう目を伏せた。

「つまりは『腐蝕の王』討伐を目標に据えながら、取り敢えずは降りかかる火の粉を払う――そして、その為にも戦力の拡充をって話か?」
「そういう事になる。降りかかる火の粉を払うにも、力が必要だ」

 (おおむ)ね、志緒と恭弥の二人も酉谷の話には納得がいっていた。
 だがそれでも返答に(きゅう)する要望であるのは確かだ。

 彼が言っている事とは即ち、その降りかかる火の粉から大多数を守る――その為の盾となれという話だ。
 成る程、確かに騎士団の掲げるその目的は立派ではある。
 だが詰まる所、それを背負わされるのはそうやって前線に送られる一兵士という事だ。
 その(いしずえ)に二人が成れと、そう迫ってきているに他ならなかった。

「……少し訊きたい」
「何をかな?」
「誰もが半信半疑な目標、その為だけにあんた等みたいな大きな組織が動くとは思えねぇ。確信とそう呼べるものを、本当に誰一人として持ち合わせてないのか?」
「シオくん、君の(うたぐ)りは(もっと)もだ。確信とまではいかなくとも、それでも騎士団が拠って立つだけの懸念と呼ぶべきもの、そういうものはあるらしい」
「まるで他人事のようだな」
「僕は騎士団でもそれほどの地位にいる訳じゃないから、人伝(ひとづて)にて聞いた話だ」
「そいつを詳しく聞きたいもんだ」

 腕を組んだまま、(にら)()えるようにして相手の顔を正面から覗き込む。
 しかしこの酉谷という青年、そんな志緒に対しても取り分けて動揺を見せる事もない。
 気弱で誠実そうなその面のまま、それでも芯を宿している風情であった。

「そうだね、簡潔に言うならばまさに懸念だよ。いくつもの懸念――その引っ掛かりが連なって意味を持ちえるまでに肥大化したと言うのかな」
「懸念、ですか?」
「まどろっこしいな」
「すまない。それじゃあこうしよう。――まず結論から言おう」
 
 困ったように笑った後、酉谷は仰々(ぎょうぎょう)しく長椅子から立ち上がった。

「つまりはね、今僕達が居るこの世界――そしてこの現状は、苑宮賢一郎という稀代の傑物の暴走によって生み出されたという事なんだ」

 両腕を広げ、さもこの場の空間そのもの指し示すように、そして彼はどこか空々(そらぞら)しくも映る顔でそう言って()けた。

「………………」

 その言を受けて、志緒達は唖然として言葉も出ない。
 苑宮賢一郎――その名が示す人物について、彼らは長らく忘れていたような気さえする。

「ロックビルソフトワークスの社員が数名、テスターの中に混じっていたという噂はもう耳にしていると思う。その噂は事実だ。というより彼らは今、僕らの騎士団が保護している。故に詳しい事情を存分に聞き出せている。A&ISとロックビル社との関係、そして何よりも件の苑宮賢一郎という人物についてのあれやこれやの逸話なんかもね」
「そいつらが……そう証言したってのか? 今俺達が(おちい)ってるこの事態、この現状は全て苑宮賢一郎の仕業だって、そいつらが言ったのか?」
「そう、確かに彼らはそういう(むね)の証言をしたそうだ」
「本当の事なのかよ……」
「いや、あくまでそれは彼らの言い分であり、確たる証左ができる程のものではないそうだ。考えてもみれば、彼らもあの日、突然こちらに取り残された側なのだから当たり前の話だ」
「だが、そいつらはそう証言したんだよな?」
「そう聞いている。このACSという全くの新しいデバイスによるこれらの騒動、もし本当にこれらの事態を故意に起こした人間が居ると仮定したならば、それらを司《つかさど》る位置にいる苑宮賢一郎という人物をおいて他に居ないと」
「A&ISでなく、あくまで苑宮賢一郎個人の(くわだ)てという事ですか?」

 呆然とした顔付きから未だ立ち直れないものの、それでも恭弥が慎重な声で尋ねた。

「そもそもA&ISという組織自体が苑宮という人物が自分自身の為だけに用意した、言うなれば自らの手足の延長線上のような会社らしい。そういう意味でも、最もその可能性を持ちえるのは――という話らしい」
「仮にその話が真実そうだったとして、一体何が目的で俺達をこんな世界に閉じ込めたってんだ」

 志緒が納得いかないよう目付きを険しくする。

「問題は何よりもそこだ。その部分だけはロックビルの社員達も、そして無論僕らにだって知りえないような部分だ。……けれど今、ある一つの推測が騎士団の中心人物の間で持ち上がっている」
「一体、何なんですかそれは?」

 一度口を閉ざし、酉谷は順に志緒達の眼を見た。
 そして彼は言う。

「苑宮賢一郎は〝神〟になりたかったのではないかという推察だよ」

 またしても、その突拍子すぎる発言に戸惑う事しかできない二人。

「なんだそりゃ……!?」
「荒唐無稽すぎる事を言ってるのは重々(じゅうじゅう)理解している。でもね、ちょっと考えてもみて欲しい。これまで君達は、このACSを用いたBoDCというゲーム――その商業戦略の破綻(はたん)ぶりにまるで気がつかなかったかい?」
「えっと、それはつまり、テスターと称して無制限に装置をバラまいてたりしてた事ですよね」
「そうだ。そして何よりもこのゲームそのもののコンセプトだよ」
「コンセプト?」
「これだけ圧倒的な質感をもって仮想現実を追体験できるこのシステム……まるで夢のようだとは思わないかい?」
「実際、夢のような技術だと世間でも持て(はや)されてました」
「だと言うのに、このゲームのシステムはあまりに現実に(そく)し過ぎている」
「ええ……」
「それじゃあ、このシステムはまるで無益じゃないか。折角のこんなに説得力のある第二の世界を体験できているというのに、僕らがやっている事は何だい? まるで現実世界と何ら代わりがない。魔法やモンスターは存在するのに、そんな世界で僕らは『無力な人間』をやっているだけ。そう思った事はプレイヤーなら誰でもあるはずだ」

 少しだけ熱を帯びた声色で、酉谷は続けた。

「ACSとは正に『夢のような』という言葉が示すように、作る側の設定でプレイヤーが無限の可能性で世界を追体験できるシステムだと僕は考えていた。けれど、箱を開けてみればこんな制約ばかりの現実と見紛う世界。プレイヤーが夢想するような第二の自分(アバター)には到底及ばず、求めている物をまったく満たしていないとすら言える」
「欲求や理想、つまりは俺達プレイヤー側のニーズをまったく考慮していないって話か……」
「絶対的の力を持ち、強力な技や魔法で巨大な化け物を容易く(ほふ)り去っては英雄として(たた)えられる。そういう夢想を求めているんじゃないかな、多くのプレイヤー達は」
「そういう風な不平や不満は、どこ行っても尽きなかったっけ」
「マゾゲーだどうのと(おとし)められてると、増山が怒り狂ってたな」
「まるでここは第二の世界であり、第二の現実なんだよ。……二人とも、人が神様に祈りを捧げる時ってどんな場面だと思う?」

 また話の矛先が変わり、志緒達は軽い混乱を見せる。

「祈り……?」
「神様に祈る、ですか?」
「現実世界に()いて、人が宗教に傾倒するような場面というのはね……得てして自分自身の力ではどうにも抗えないような事態――(むご)い悲劇に見舞われた時や、大きすぎる壁に(さえぎ)られてどうする事もできなくなった時なんだよ。そういう時に人は神様というもの持ち出してきて祈る。自分ではどうする手立てもないから、だから神様にお願いする。あまりに辛く、自分では変える事もできない現実という巨大な壁……それどうにかして欲しくて、人は神様という心の拠り所を創った」

 こちらの反応を窺いながら酉谷は――そして、こう続けた。

「今、ここに居る僕らがそれと同じように神様に助けを求めて祈った時、果たしてその祈りはどこへ向かうのだろう?」

 その問い掛けは志緒達に向けられているようで違った。
 言葉もない二人に、彼はさらに畳みかける。

「現実世界で定義されている神様? それとも、このアルドヘイムにて信奉されている神々? ……(ある)いはそれは、この世界の理(ゲームシステム)を創り上げたという一人の人物に向かうんじゃないのかな」

 その迫力が(とも)った声に志緒と恭弥の二人は鋭く息を呑む。
 そして何とも言いがたいものへと、その表情を移ろい変えた。

「……成る程」

 志緒が合点がいったとばかりに低い声を漏らす。

「現実世界で神様になろうとしたら、全知全能にでもなって人間を超越しなけりゃだ。けれど、俺達をこのアルドヘイムという造られた箱庭の世界に〝堕とす〟事で、相対的に自身を神様や運命なんかと同じ次元まで押し上げたって事か……」

 神に祈るという行為、()しくは運命を呪うという行為――これら二つは本質的に同じ事だ。
 別次元の存在に意識の矛先を向けるという事自体が、それらの存在を肯定するに事に繋がるからだ。
 そうやって神は生まれた。
 この世界でも神様を敬愛する必要はない。
 ただ「こんな(まま)ならない世界」――と、そう(ののし)る時、それは創造主の存在を諷示(ふうじ)する事に他ならない。

「それが騎士団の中心メンバーが打ち立てた一つの推察だという」
「苑宮賢一郎は、本当にそんな事の為に……?」
「勿論、確証はないよ。もしかしたら全ては不慮(ふりょ)の事故で、期間さえ費やせばこの悪夢も終りを告げるのかもしれない。……ただね、その神様とやらが僕らにこの窮地から抜け出す一つの試練を与えたって思えば辻褄(つじつま)が合いそうな気がするんだ。僕らがこの世界で、ゲームのシナリオ通りに魔王を倒せたらっていう具合にね」
「魔王――ラスボスか……」

 志緒と恭弥、各々が渋い表情で沈黙を選ぶ。
 そんな二人の前に立っている酉谷が、ふと呼吸のリズムを変えて締め括りにかかった。

「そういう訳で、魔王討伐の戦力を僕らは広く募集している」

 軽く流すように締め括ったその相手を、それでも志緒はまだ胡乱気(うろんげ)な目で捉えていた。

「話は解った。だが確実じゃないその憶測で、俺達に命をはれって事には変わりねぇな」
「確かに誰も保障なんてつけられない。でも最初に言った通り、降りかかる火の粉をそのままにもしてもおけない筈だ。積極的な遠征や討伐の仕事は危険も多い。それでも誰かがやらなくてはならない事だ。そして、それは能力を持ち得る者の仕事だよ。――被害を最小限に抑えるためにも」
(おっしゃ)る事は、ずっと前から考えてました。俺達が前に立つ事で、救える人間が大勢いるという話」
「恭弥……」
「けど、そうだろ――志緒? 俺達が戦う事で、多くの名も知らない誰かを救えるかもしれない。か弱いその命を」
「馬鹿言え、本来人間に弱い強いの大差なんざねぇんだよ。自分なら何でもできる――他人を救えるかもなんていうのは、それこそ幻想だ」
「それは、そうなんだろうけど……。でも俺は(おご)ってる訳じゃなく、ただ本当に……」
「さっきの話でも出てたろうが? 俺達はこの世界で完全無欠のヒーローをやれる訳じゃねぇのさ」
「うん、でも――」

 そんな折、長椅子の位置から遠く離れたドアがノックの後に開いた。

 そこから騎士団の制服と腕章を付けた志緒達とそう変わりない歳の少女がちらりと顔を見せる。
 短いおさげと可憐な容姿のその彼女は、志緒達を見て慌てて取り繕うよう一礼する。
 その場慣れしていない感や、どこか無防備な雰囲気はすぐに現代人であると知れた。

「――あぁ、申し訳ない。実は少し所用が残っているんだ。どうやら、もうその時間の様だ」

 そう言って、立ち上がったままだった酉谷は広い応接間をドアの方へと渡っていく。

「二人とも、そんなに掛からないと思うからどうかこの部屋で待っていてくれないかな。今、お茶受けなんかも用意させるから」

 気弱そうな笑みに立ち返り、そう懇願(こんがん)して部屋を後にする。

 残された二人は、向かいの空いた長椅子から視線を外す事なく、押し黙っては何かの考えを巡らしている。
 陽光が差し込む広々としたその部屋に、(しば)しの静寂が宿っていた。

 やがて、(おもむろ)に恭弥が口を開く。

「やっぱり俺、とりぞうさんの話を受けるべきだと思う」
「恭弥、お前な」
「判ってるよ――志緒の言いたい事は。口で言うほど容易くはないって事だろ? それでもさ、それでもやっぱり……自分が担う事で誰かが傷つかずに済むなら、それは大きな意味のある事なんだと思う」

 恭弥はその真っ直ぐな瞳で志緒の顔を捉えた。
 その真っ正直すぎるいつもの瞳を鋭く睨み付けてから、けれども志緒は「参った」という風な面持ちで嘆息する。

「……ま、お前ならそう言うだろうと予想してたが」
「それじゃあ、志緒も――」

 期待に満ちた恭弥のその目に、しかし志緒は一度釘を刺しておく。

「まあ、待て。一応は増山達にも相談するべきじゃねぇのか? 騎士団の庇護(ひご)の下、帝都で暮らすかどうかも含めて全員の納得が要るだろうが」
「そうだった。もしかしたら、皆とはバラバラになっちゃうかもだしな。ちゃんと話して納得して貰おう」
「猛反対される事態も考慮しろバカ」

 相変わらずの天真爛漫(てんしんらんまん)な笑みだ。
 あるいはそういう恭弥であればこそ、この世界でも本当の英雄(ヒーロー)という存在に成れるのでは思ってしまう――
 そういう笑みなのだ。










 そう掛からないと言っていた酉谷であったが、先程の彼女が気を利かして紅茶のおかわりを持ってくるまでに時間が経った。
 さすがに手持ち無沙汰になってきた志緒と恭弥は、応接間のガラス戸から広い庭へと足を踏み出していた。

 エクトリアの中心にこれだけの敷地を持った邸宅があった事も驚きだが、素朴と言う以外にない街の景観の中にあって、こんな豪奢(ごうしゃ)な建物が埋没していたという事の方が大きいだろう。
 高い塀の向こうに、藁葺(わらぶ)きの屋根が並んでいる風景はひどくミスマッチだ。

 そんな風な他愛ない話をしていた二人。
 その時だった――

 (へい)の向こうから駆け馬の(ひづめ)の音と(いなな)きが連鎖するように響く。
 街中を慌ただしい空気が駆け抜けていく。
 この時間の流れが緩やかな農村では、ひどく珍しい。

 そして間を置かず、村の外れに位置する物見台から響き渡る警鐘(けいしょう)の音。
 さすがの志緒達も顔を見合わせ、緊張の糸を絞った。

「火事かな? この街で警鐘なんて、滅多にならないよな」

 恭弥の(いぶか)しげなその問いに志緒は黙ってただ顎を引いている。
 しかし数秒も迷う事なく、志緒は恭弥に「見に行くぞ」と促していた。

「でも、とりぞうさんを待ってないと」

 そう引き止めようとする恭弥だったが、その必要もなく件の酉谷が応接間からこの庭へと急いだ様子で姿を見せた。
 彼も鳴り渡るその金属質な音に、警戒の色を(あらわ)としている。

「警鐘の音だね……? 一体何だろうか」
「さっきの話の続き、また今度にすべきだな」
「人を遣って様子を見に行かそう」
「いや、俺らが直接出向くさ」
「またどうして?」
「性格なんかな、いつも悪い事態ばかりを想定しちまうんだ」

 不穏そうに言う志緒を見て、酉谷も何かよからぬ想像が脳裏を()ぎったらしい。
 深刻な顔で「僕も同行しよう」とそう告げた。


















 長閑(のどか)さだけが取り得だったエクトリア中が、険しい喧騒に満ちている。
 人間達だけでなく、荷車を引く馬や舎の中の(とり)達もそれに当てられたよう落ち着きを無くしていた。

 街の中心――広場にて、衛兵隊が隊伍を組んで整列している。
 ひどく物々しい雰囲気だ。

 志緒達がそこへと差し掛かると、ちょうど複数に分かれた隊が三方向へと散っていった。
 いまだ残っていた衛兵達のその中に見知った大柄な影を見つける。
 陣頭指揮を取っているその顔馴染みの隊長の下へと、志緒は人の流れを押し退けて駆け込んでいた。

「バーグの旦那」
「――おお! シオにフジドーか、こいつぁ都合が良い」

 バーグが駆け込んできた志緒達を見て渡りに舟という声を上げる。
 彼は普通の人間ではまず扱え切れないような巨大な鉄槍――柄の部分まで鋼鉄製で、刀身が相当に分厚く広い――、そんなものを引っ提げており、まさに臨戦態勢という風情だ。

「そっちは確か傭兵団の。こりゃまた、出揃ったもんだ」

 遅れてきた酉谷の姿を確認してさらにその声の調子を加速させた。
 傭兵団とはアルドラン達が〈暁天の騎士団〉を指して言う。正規の意味で「騎士団」であるのは帝国軍であるからして、区分してそう呼び表している。

「隊長さん、これは何事でしょうか?」
「厄介な事に、魔物どもが襲撃してきよったわ」
「魔物が街まで攻めてきたのですか……街道の警備部隊は?」
「それだがな、ここん所に敢行(かんこう)してた討伐遠征――あれが裏目に出ちまった」
「どういう事だよ旦那」
「本国からの布令(ふれい)で、勢力を膨らます前に周辺の奴等を先んじて叩いてきた訳だが、その所為で兵員の損耗(そんもう)がシャレにならんのだ。歩哨(ほしょう)部隊からも人員を()いていたが、挙句に奴等め、討ち漏らされた残党共で手を組みよったんだ」
「残党どもが集結して街に迫ってきたと?」
「そのようだわい。〈小鬼(ゴブリン)〉に〈犬鬼(コボルト)〉……面倒な事に〈沼地の大鬼(スワンプトロール)〉の姿まで確認できとる」
「数や、位置の情報は?」
「四方から、それもわんさかだ。どうも奴等を追い込み過ぎたようだ。まさか一括(ひとくく)りになって襲ってきようとはのう。しかも、わざわざこんな田舎街を標的に……帝都に要請した補充要員も揃ってないというに」
「悠長にしていられねぇって事だけは把握した。奴等、今はどの辺まで迫ってきてんだよ?」
(じき)に街の外周、立派に育った麦々が魔物共に踏み荒らされる事態となろうな」
「――そんな!?」
「――南の渓谷の入り口には俺らの拠点があんだぞ?!」
「今はエクトリアの人間全てを街の中心に避難させとる最中だ。同時に準備が整った部隊から随時迎撃に向かわせた」
「緊急事態の様ですね。ギルドを介する時間はないですが、エクトリアに派遣された我らも総勢を持って助力させて頂きます。よろしいですか?」
「うむ、願ってもない。――シオ、フジドー、お前らも南方に向かった部隊に合流してくれるか?」
「言われなくてもそのつもりだ」
「ようし、得物(えもの)はそっから好きなの持っていけ。さてと、久方振りに俺も身体を動かすかな」

 首を回してそう豪快に吐き捨てながら、バーグはその大槍を肩に担いで広場の残った隊を牽引(けんいん)していく。
 その(きも)の座りっぷりは心底頼もしいものだ。
 伊達でこの街の警備隊長を任じられてはいない。

 酉谷も志緒達に一言を告げると、騎士団の支部へと駆け戻っていった。

 救護や連絡要員の衛兵達だけが残ったその広場で、志緒達も事に(のぞ)むべく動く。
 広場に並べられた衛兵隊の武器棚から年季の入った戦斧を拝借する。
 その隣で、恭弥が自分の手に合う細身の直剣を品定めしながら(かす)れがちな声で(つぶや)いていた。

「今、家に残ってるのって増山と木ノ下だけだっけ? 瑞貴は店の厨房だろうから大丈夫だよな。家に橋本が居てくれたなら心強いけど。氷川はどうだろう、よく一人で行動してるから……」

 途端、恭弥が鋭く息を飲み込んで顔を上げた。

「――しまった! 香坂」

 まるで叫ぶようなその声。
 しかし、志緒もその事に思い至って蒼然とする。

「香坂の奴、いつも街の外の森まで繰り出してたか……」
「どうしよう?! 魔物達、もう街外れまで迫ってるんだろ?! じゃあもしかしたら香坂が……」

 志緒は自身の額を荒々しく鷲掴(わしづか)みにする。
 四方から群れ成して迫りくる魔物の大群、その途上で飲み込まれてしまう級友の姿が脳内を過ぎる。

「香坂の元に行かないと――助けに!」
「いや、無理だ……あいつが今どこの森に居るのか判断つかねぇ」
「でも志緒!」
「――落ち着け。……魔物達の目標は街だ。外の森でなら、運良く(のが)れられてる可能性もある。それに今の時間帯なら、街へと戻ってるかもだ。だが魔物どもが南側から侵入しようとするなら、必ずあの渓谷を通ってくる。俺達の拠点が奴等の進攻ルートなのは間違いねぇ。今は拠点に残ってる増山達の安否を確認するのが先だ」

 苦い表情で、それでもそう冷静に事態を俯瞰(ふかん)していた。
 その様子に恭弥は固唾を飲むよう恐る恐ると頷いた。

「ともかく()ずは拠点だ、行くぞ」

 抑えようとしても尖った声が漏れ出る。
 志緒とて、嫌な想像が頭から離れないでいるのだった。


















 ここエクトリアに、シルヴィカッツのような堅固な城壁はない。穀物畑と牧草地の中心に民家が寄り集まってるに過ぎない。
 それでも街へと続く街道沿いに木杭のバリケードが設置され、等閑《なおざり》の防御陣地が構築されていた。
 無論、波状に迫ってくる魔物達全てを押し止めるべくもない。

 志緒と恭弥が南側の境界へと至った時には、既に魔物達と警備隊の戦闘が火蓋(ひぶた)を切っていた。

 青々と立派に育っていた麦穂が踏み荒らされては、無残な様相を(てい)している。
 (まば)らに建つ民家からは、逃げる時の混乱からの火の不始末か、黒ずんだ煙が高く上がっていた。
 今すぐにでも消し止めないと木材の家々は延焼し、近隣を巻き込んで倒壊しよう。

 しかして、そんな余裕など何処にもなかった。
 群れなす悪鬼共を街の中心へと至らせない事――それすらも、傍目からでは困難に映っている。

 逃げ遅れた人々の悲鳴と怒号、魔物達が発する濁った金切り声、火に包まれた牛舎から(たけ)り狂ったかのような牛達の鳴き声が木霊(こだま)する。
 そこに上塗りするかのような激しい剣戟(けんげき)の音が四方から飛び交う。

 街の衛兵隊の面々は果敢に奮戦しつつ、逃げ遅れた人々を(かば)い、そして街の中心へ誘導していく。

 相手取っているのは、成人した人間の半分程しかない鬼面の魔物――ゴブリンだ。
 子供のような体躯(たいく)でも筋骨は発達しており、獣の骨を削って作ったような武器を振りかぶっては俊敏に襲い来る。

 一見すれば、衛兵達が有利と見て取れる。
 こんな辺鄙(へんぴ)な田舎村の警備が仕事とて、精強なる帝国兵の一員だ。
 この程度の魔物に遅れを取る兵士は一人たりともいない。

 だがそれでも戦線が次第と後退していくのは目に見えていた。
 数は元より、魔物達の勢いが尋常ではない。相手側も決死の覚悟なのだろうか。

 その光景に当てられたよう、恭弥は目と鼻の先で戦闘が繰り広げられるそこで悄然(しょうぜん)と立ち尽くしていた。

 その時、横合いの茂みから二体のゴブリンが飛び出した。

「――恭弥!」

 身体ごと恭弥を押し退け、戦斧を水平に構えてその前に出る。
 骨製の鎌を振り上げては前傾して飛び掛かる相手、その尖った鼻先へと右の膝を狙い合わせて叩き込む。
 中空で()い止められた相手のその斜め後ろから、もう一体が棘槍を繰り出してくる。
 身体を横に流して(かわ)し、(ひるがえ)ると共に斧でその槍先を切り飛ばす。
 そして勢いを崩す相手へ、身体ごと振りかぶる横回転からの蹴りを放つ。

 えぐい音で敵の側頭部を陥没させた志緒の(かかと)が再び地面に舞い戻る頃、最初の一匹が体勢を整えて鎌を横なぎに振るう。
 ガチリとそれを斧で受けつつ、さらに足を踏み込んで内股刈りで相手をすっ転ばしている。
 そのまま(おお)(かぶ)さる要領で斧刃を小鬼の喉元へと食い込ませて仕留めた。

「この馬鹿! ()けてる場合か!?」
「ご、ごめん……」
「急ぐぞ! このまま畑を突っ切る!」

 火の手が次第に強まっていく中、それでも構わず志緒達は戦火を激しくする前方へと押し進んだ。
 目指すは広がる麦畑を越えた先、渓谷の入り口だ。

 当初、この凄惨(せいさん)な光景に意気を(くじ)かれていた恭弥だったが、その剣の腕が(ふる)われるや、瞬く間に襲い来る敵は仕留められていく。
 踏み荒らされていない麦穂の茂みに身を隠し、機敏に襲ってくるゴブリン共を圧倒的な動体視力と反射神経で迎え撃つ。
 複数体が跳躍して三方から飛び掛るも、滞空しているその合間でそれぞれ一突きに急所を(えぐ)られて墜ちた。

 戦闘に()いては自身の方が場慣れしていると自負する志緒にすら、真似できない芸当だ。
 才覚(センス)――酉谷の言ではないが、やはりそういう部類のものを色濃く宿しているのは明白だろう。この恭弥という人間は。

 魔物の層は、言うまでもなく前に進めば進むほど厚くなっていく。
 ゴブリンだけでない新手の魔物も姿を見せ始める。
 四足で駆け込んできた薄茶色の大型犬らしきものが、直前になって二足で立ち上がり、口に(くわ)えた短刀を手に持ち替えて斬り掛かる。
 いつぞやにも相手をした、ゴブリン達よりもさらに俊足なコボルト共だ。

 4体ほどが群れとなって真正面から襲い来たが、志緒が1体の脳天に斧を叩き込む間に、恭弥が既に残り全部を流麗な動きで刺し貫いていた。

 数が際限ない上、奇襲にも警戒せねばならない状況だったが、恭弥の反応力とその手数による殺傷力は驚異的であった。
 ゲームを始めた頃もその動きに舌を巻いていたが、ここに至る折、彼はさらに強くなっている。
 単純に経験を積んだ事と、そして仲間達の危機という今のこの状況が、そのポテンシャルを最大限に引き出す要因となったか。

 麦畑の端が見えてきた頃、十数体はいようかという魔物の群れに取り囲まれている4人ほどの衛兵の姿が視界に飛び込んできた。
 囲まれ、今まさに袋打ちに()おうかというその状況――恭弥はまるで躊躇(ちゅうちょ)なく直線の鋭い踏み込みで囲いの一部に斬り込んでいく。
 斬り込まれて陣形を崩したその傷口へ、志緒も轟然と身を投げ込んでは手当たり次第に首を落とす。

 突如の援護だったが、衛兵達も(さと)く呼応して剣を振り上げた。
 おかげで(わず)かな時間であの数の魔物が(ほふ)られていた。

「おお……お前か、フジドー!」
「ハインツさん」

 助勢した衛兵達の中に、顔の広い恭弥の知り合いが含まれていた。

「隊長に頼まれた来たのか?」
「はい。それに俺達自身、こっちに来なきゃだったから……」
「お前が加勢してくれるとあらば心強い。また遠征の時のような30体斬りの奇跡に(あやか)りたいものだ」

 ハインツと呼ばれた年壮の衛兵が、その武骨な(つら)で三嘆を示す。

「そういえば、お前達は渓谷内の古宿に住んでいたのだったか」
「そこに友達が取り残されてるかも知れなくて……」
「そうか、ならばそこまで自分達も同行しよう」
「――本当ですか!?」
「ああ、無論だ。街の人間を守るが我らの役目。先導してくれ、フジドー」
「はい!」

 恭弥のその人徳はここでもまた発揮された。
 屈強な兵士が四人も、志緒達の力になってくれるというのだ。

 この世界に本当に主人公と呼べる存在がいるとするならば、きっと恭弥という人間はそれに一番近い。
 重ね重ね、そう思わずにはいられない志緒。

 渓谷に至ると、さらに魔物の数は増える。

 それでも戦力が補強された今の志緒達には対応できる範囲だ。
 今また出会い頭のコボルトの群れを速やかに殲滅(せんめつ)した。
 さすがは軍属の兵士達、集団戦法に長けたその腕で危なげなく魔物を処理する。
 志緒と恭弥の二人はどちらかと言えばスタンドプレーが目立ったが、そんな彼らを確実に補佐して動いてくれる。
 特に恭弥のスピードに物を言わせた撹乱(かくらん)戦法――その()じ開けた(すき)を漏らさぬよう連携してくれた。

「こちら側にはまだ小物しか居ないようだが、西方からはトロールの姿が確認されている。いずれ防衛網にも穴は空こう」
「それじゃ、街の中心もいずれ被害に?」
「うむ……」

 ハインツがその頑強そうな四角い顎を(さす)って渋い顔を見せる。
 恭弥とは先日の遠征の際に顔馴染みになったらしい。頼れる人だと、そう志緒に紹介した。

「付いて来て貰ってなんだが、そっちに戻らなくていいのか」

 その性格は元より、疲労からほぼ吐き捨てるようにそう問うた志緒。

「心配するな。ちゃんとお前達の仲間とやらも連れて行く」
「いや、そういうつもりじゃ……」
「ありがとうございます」

 純粋にそう言葉を返せる恭弥に、志緒はただ身を引く思いだ。
 ぶっきらぼうな志緒は普段なら特に頓着(とんちゃく)しなかったろう。けれども今、その大人達の力が志緒達には必要不可欠であり、頼らざるを得ないのだ。
 だからこその葛藤が生まれていた。
 果たして、自分一人がここに至っていた折、彼らは同じように助力をしてくれただろうか。
 そんな(がら)にもない(まど)いを禁じえない。

 しかしそんな感慨は、眼前に現れたその焦燥に取って変わる。

 目的の場所、彼らが拠点としていたその古宿の端が見えた瞬間、恭弥も志緒も悲愴に駆け出していた。

 ()して立派とも言えなかったその建物、それが今、半壊の()き目に遭っている。
 柱も壁も半分程が打ち壊されて崩れ、屋根が傾いていた。
 広い庭の柵も破られ、その内部には何体もの魔物の屍骸(しがい)が横たわってた。
 宿の内からも濁った喚声のようなものが響くのだ。

 脇目も振らずにそこへと飛び込んだ二人。

 ざっと見渡してもその中に増山達の姿はない。
 ただゴブリンが数体ほど、地下倉に通じる地面の扉を叩き割ろうとしている。
 二人は直情的にそれらに斬り掛かる。
 顎を蹴り砕き、頭蓋を叩き割り、背中から胸にかけて穴を空け、喉を掻き切った。

 そうこうしている合間にも、荒れ放題の宿の内部から、さらには騒ぎに便乗するよう外部から、魔物達は続々と湧いて出る。
 ハインツ達は外部の、志緒と恭弥は内部の敵を相手取り、ここに来て最大数の魔物との戦闘が繰り広げられる。

 一人に対して3体以上の魔物が取り囲むこの場を乗り切るは、流石に危うい橋だった。

 武器を腕ごと叩き落したコボルトに、油断して肩口を噛み付かれた志緒。
 動きを止めた事でもう1体が身体ごと突進してくる。
 その煽りを受け、後ろの戸棚を巻き込んでは倒れ込む。
 そこに次々と魔物は飛び掛かった。

「志緒っ!!」

 だが次の瞬間、群がる薄茶色の毛皮どもが紅蓮(ぐれん)の炎と共に(はじ)け飛ぶ。
 〈炎術師〉の操る炎がその場を中心にして激しく燃え盛ったのだ。
 炎は一瞬だけ燃焼した為、周りに延焼こそしなかったものの、コボルト共を引き()がすには充分な爆発であった。

「無事だ……!」

 恭弥が確認の声を掛ける前にそう怒鳴り、瞬時に体勢を立て直しては手近な1体を斧で横()ぎに屠った。

 それを見て恭弥も頷き、剣を構えて眼前を見据える。
 一直線の廊下に、5体程が列を成す様にして向かってきた。
 〈軽装騎士〉の補助系アクティブスキル――〈疾風迅雷(ライトニングカウント)〉がここに来て発動する。
 スキルにより強化されるはその足(さば)き。助走を必要とせずにトップスピードを叩き出し、(ひね)りを加えた剣先が螺旋(らせん)を描くように線上の敵を連続して切り裂き貫く。

 まさに残滓(ざんし)を伴う電光石火の刺突の雨で、廊下に蔓延(はびこ)っていた魔物共は(ことごと)くが絶命する。

「フジドー、外は片付いたぞ」

 折り良く外の敵を片付けてくれたハインツ達も宿の内部へと踏み込む。
 残り(わず)かとなった魔物達はそれにより見事討ち果たされる。

 あれだけの数の魔物を相手に誰一人とて脱落していない。
 それでも志緒を含め、衛兵達も傷一つなくとはいかないようだ。――いいや、この場で一人、かすり傷すら負ってない恭弥が異常なのだろう。

「仲間達は無事だったか?」
「それが……」

 宿の内も外にも増山達の影は見て取れない。
 けれど志緒達が来る前に既に魔物の屍骸があったという事は、彼らが応戦していたという証。
 果たしてその彼らは、形勢の悪さに退いたか、散り散りに逃げ出したのか。
 生きていてくれるならどちらでも構わないが、少なくともこの場にはもう留まっていない様だ。 

 と、そこまで考えを巡らした志緒が、はっとして先程のゴブリン達の行動を思い返した。

「――こっちだ!」

 きょとんとする恭弥に、志緒はさっきまでゴブリン共が叩き壊そうとしていた地下の扉を指し示す。

「見てみろ。奴等があれだけ武器を叩き付けてたのに、扉に傷一つとして付いてねぇ」

 そう言い示した地面の落とし扉は確かに無傷なのである。
 その上、扉自体が白色に薄く発光している(てい)を見せていた。

「えっと……どういう事?」
「増山の結界魔法だ。おい、増山! そこに居るんだろう!? 俺達だ! もう外に魔物はいねぇぞ!」

 志緒はその扉を素手で叩き、大声で呼びかけた。
 何かの膜が張られたように、扉に衝撃を与える度に白色の光が拡散している。
 ようやくその事に気が付いた恭弥も扉の向こうを大声で呼ぶ。

「……奥崎? 藤堂? ……ほんとにお前らか?」

 恐る恐るといったくぐもった声が扉の奥から聞こえた。
 瞬間、志緒と恭弥は顔を見合わせる。

 やがて扉を覆っていた光がふっと消え、木擦れの音をさせて扉が下から開く。
 そこにひどく緊張した面持ちの増山がひょっこりと顔を出す。

「増山……!」

 恭弥が安堵の息を漏らした。

「うおお……。お前ら、助けに来てくれたのか!?」
「無事だったか、この野郎」

 志緒もどこか余裕を取り戻した顔でそう悪態を()いた。

「増山だけ? 他には?」
「あ、ああ……! 宮歩や橋本も奥で隠れてるぜ! というか橋本が怪我を負っちまって、それで俺らここに篭城(ろうじょう)してたんだ」
「よ、容態は……?」
「命の危機って訳じゃないが、ちぃっとヤバイかも」

 そう言って増山は、急勾配(こうばい)なほぼ梯子(はしご)のような階段を降りて後ろを示す。
 志緒達もその地下倉に身を(すべ)り込ませて後に続いた。

 今は使われていない大きな酒樽の足元――(かす)かなランプの明かりに照らされて、大柄な橋本が身を投げ出しているのが映る。
 その横に不安そうな顔をしている木ノ下の姿も確認できた。

「良かった……! 藤堂と奥崎も無事だったのね」

 木ノ下が涙声をそう(にじ)ませて二人を出迎えた。

「橋本、大丈夫なのか?」

 志緒達は近付いてそう声を掛けた。
 額を包帯代わりの布でぐるぐる巻きに止血されており、快活だったあの表情は今は少し虚ろげだ。

「あぁ……助かったわよ、アンタらが来てくれりゃ百人力だわ」

 それでもそう笑みを浮かべ、手にした戦鎚を持ち上げてみせる。――心底、勿体(もったい)ないくらい男前な気風(きっぷ)だ。

「悪ぃな、ここいらのは俺らで全部片付けちまったよ」
「ありゃ、残念……。数に巻かれてなきゃ、うちだってもっとやれたのに」
「その口振りなら大丈夫そうだ」

 恭弥がいつものあの笑みを取り戻していた。

「正直、焦ったぜ。橋本がやられちまってよ。何とかここまで逃げ込んだはいいが、それ以降の手立てがまるで無くてな。いつ俺の集中力が切れて、結界が用を成さなくなるかと。ふーっ……」

 よくよく見れば増山のその顔には幾つもの脂汗が浮いている。
 彼女らを守る為、これまで必死でその防御結界を維持してきたのだろう。

「それで他の皆は? お前ら街に行ってたんだろ、無事か?」
「それが、実はわからないんだ。俺達もまだ会ってなくて」
「おいおい……」

 恭弥の不安げな言葉に、増山もまた表情を固くする。
 志緒は極力冷静に取り次いだ。

「いや、篠宮が働いてる料亭は街の中心にある。そこなら警備部隊がしっかり防衛線を張って守ってくれてる。氷川も確か、街中をブラついてる事が多かった。街全体に既に避難指示は出されてるだろうから、心配はねぇと思う。それより、地理的にやばかったのはお前らだろ」
「ああ、そりゃ確かにな。なるほど――いや、ホント助かったぜ」
「ただ問題は香坂の奴だ。あいつは普段、街の外に行ってる事が多い」
「そうだ――香坂が今日どこへ出掛けたか、誰か知らない?」

 勢い込んでそう訊ねる恭弥。
 しばし取り戻した(はず)のその(ほが)らかな面影は既にない。

「……多分、北西の森だと思うぜ。あいつ最近はよくそっちの方に行ってたから」
「北西か、厄介な方向だ」
「どっちにしても怪我してる橋本達を一度街の中心まで連れていかないと」

 正直な所、志緒は恭弥のその言葉に賛同しかねた。
 このまま街に戻ったとして、本当にエクトリアの警備隊だけで事態を収容できるかという疑問が(ぬぐ)えないのだ。――もしかしたら、死地に連れ立つ事になりはしないかと。

 この魔物の襲撃、帝国軍にとっては想定外(はなは)だしい。
 警備もその為の施設も(ろく)にないこんな田舎街、それはそういう可能性が限りなく低いという理由によるものだ。

 しかし、その前提は(くつがえ)った。

 エクトリアだけでなく帝国全土で繰り返し敢行された魔物討伐――
 人間の領域にまで迫ったそれらを討つのは当然の事だが、そのしわ寄せが運悪くここに集結した。

 そもそもが、「腐蝕の王」らしき存在の復活により引き起こった事態。
 この世界そのものが、そういった趨勢(すうせい)によって今動かされている。

 あるいはこれこそが、神――苑宮賢一郎のシナリオなのだろうか。

 どうあれ、大勢(たいせい)には必ず機というものが存在する。
 勝機という名の()すべくして為るものが。
 勝つべくして勝つ、逆にそれは負ける戦はしないという事だ。
 戦いに勝つという事は選択を誤らない事――それは志緒の持論のようなものだ。
 このまま魔物の居ない方向に逃げ、近隣の集落に向かった方が生存率は高い。
 しかし、まだ街に残っている瑞貴達を置いてもいけない。
 とは言え、今すぐこの街に援軍でも派遣されない限り、ここが陥落するのは目に見えている。

 だからひどく迷っていた。

「仲間達は無事だったのか」

 そんな折、この地下倉に(いか)つい風貌の彼も降りてきた。

「街の衛兵?」

 増山が予期せぬ来客に当然の疑問を貼り付ける。

「ああ。正直な話、俺らだけじゃこんなに簡単にここまで来れなかったろうよ」
「そ、そうなのか?」
「アルドランの衛兵があたし達を助けに……」

 意外や意外という風に増山達が目を丸くする。
 実際志緒にも、こんな事は恭弥という人物が居なければ成り立たなかったと思える。

「フジドー、街の様子が気掛かりだ。直ぐにでもとんぼ返りといきたい所だが、こちらも疲弊し手傷を負った部下も多い。このまま強行軍で舞い戻るのは、(かんば)しくないだろう。そこでお前に先行偵察に出て貰いたい。軽装で足の速いお前なら適任だろう」

 橋本の容態も含め、確かにこのまま全員で無理を通すのは賢くない。
 恭弥は躊躇(ためら)う事なく「はい」と返事をする。

 しかし、苦い表情を余儀なくされるは志緒だ。
 まるで喉に何かが引っ掛かったかのように苦しげに(うめ)く。

 志緒自身、まだはっきりとこれからの算段をつけれていない。
 だが恭弥一人を最も危険な場所に向かわす愚は避けたかった。

「俺も行く。俺なら、恭弥にも何とか()いて走れる」
「志緒? でも、その肩の傷じゃ……」
「これくらい何ともない。ハインツさんだったか、それで構わねぇよな」
「そうだな、お前ならば大丈夫だろう。わかった、それではここに居る残った者達は我らがしっかりと警護しよう。安心してくれ」
「ああ」

 どこか消沈気味に志緒はそう返事をした。

「よし、志緒、じゃあ早く街に戻ろう」
「お、そうだ。ちょっと待て奥崎――」

 気力を(みなぎ)らせた恭弥に連れ立とうとする志緒を増山が引き止める。

「ほら、お前の触媒(しょくばい)、拾っといたぜ」

 そう言ってに(ひも)に繋がれた石膏(せっこう)髑髏(どくろ)を差し出す。
 触媒がなくとも炎は使えるが、その制御と威力が段違いだった。

「助かる。増山――」 
「おう」

 それを受け取る際に、増山だけに聞こえる小声で志緒は(ささや)いた。

「あまり急いで街には向かうな。橋本の容態を理由にしてもいい、ともかく慎重に動け」

 道化を演じる場面が多いが、増山が馬鹿ではないのを志緒は知っている。
 その真に迫った面差しに、増山は少しの間を置き、黙って頷いた。