「ふぃー! これで全部だわ、マジ奥崎ちゃん、手伝ってくれて感謝」

 志緒は今、香坂に連れ立って近隣の森に採集と小動物の狩猟に来ていた。
 仕掛け罠の様子を見て回りながら、山菜やらを摘んで回るのが香坂の日課だ。直接的な戦闘には向いてない〈追跡者〉というその職種は、今みたいな日常生活の方が役に立つ。
 罠の解体に使ったその大型のハンティングナイフをしっかりと拭いつつ、彼は毎度の能天気な声を上げている。

「なんだかここ数日で、お前もらしくなってきたか」

 香坂がそうやって道具の手入れを怠らない様は新鮮だ。
 始めの頃など、弓の弦を張りかえるという事すら知らなかった体たらく。

「え、だってこれ新品よ? やっぱ大事にしなきゃじゃん」
「また無駄遣いか」
「いや、マジだってスッゲーお買い得だって店のおっちゃんが」
「お前みたいなのをな、カモって言うんだ」
「いやマジに、これ狩猟用にも戦闘用にも使える『一個徳用』とかいうヤツなんよ」
「……もしかして『一挙両得』か?」
「それそれ。マジほら、柄んトコにさ、好きな刻印までしてくれるって言うからお願いしたんよ」

 そう言って見せたその木目の柄頭の部分には、あのにっこりマークの顔文字らしきものが彫られている。

「――って、それお前……」
「だって俺、この世界では『ユウタヒダリショウカッコ(以下略)』でアルドランから通ってんしね?」

 難儀過ぎる名前だった。――まあ、結局はそういうキャラとして認知されている訳だ。

「じゃあ、俺は街に戻るぞ」
「うぃっす。したら俺はもうちょい、森の様子とか見て回ってくんわ。もっと獲物がいっぱい掛かる場所とか見つけられるかも」
「あまり一人で遠くへは行くなよ。魔物達の行動圏が広がってるって話だ」
「りょ」

 そう毎度の馬鹿返事をする香坂。
 彼とはそこで別れて、志緒は一人街へと向かった。











 志緒達が無事エクトリアに戻る事が出来てから、さらに2週間が経過した。
 道中の時間もあわせれば40日近くが経過した事になる。
 無論、未だこの世界に取り残されている。

 この程、大きな動きが二つあった。

 一つは冒険者ギルドが限定的に閉鎖された事。
 クエストを喜んでこなすプレイヤーがめっきりと減った事で、冒険者ギルドはその存在価値を縮小させた。アルドランと死が等価値となった彼らが、勇敢というよりは無謀に近い戦いに赴く事が無くなった訳だから、これは止むを得ない。
 むしろ今までの前提が異常だった。
 死んでも死んでも挑み、最終的に勝利する。そんな神話の物語はもう再現できない。
 だが腕の立つ人間を選定し、それに見合った仕事内容の斡旋(あっせん)――これは引き続き行われた。
 いわば無選別にクエストを開放する事をやめ、ランク制度のようなものを作った訳だ。

 二つ目は、なんともありがたい事に、帝国がプレイヤー達に市民権を与えるというお触れを出したのである。
 身分を立てる証と税さえ払えば、クリスタリアンでも帝国市民として扱うと、そう帝国政府は裁量した。
 この決定が、プレイヤー達を救っただけでなく、アルドランとクリスタリアンとの垣根を崩す第一歩ともなった。
 飯を食わねば餓死する。故に日々の糧のために働く。
 だが身入りの良い魔物討伐などのクエストは、もう特定の熟達者や命知らず以外は行わず、彼らはまるで一般のアルドラン達となんら変わらない仕事に従事するようになった。
 無論、そうなるまで一朝一夕では無かった。
 特別な身分を示していたクリスタルの腕輪も外し、今はもう見分けが付かない程に馴染んでいるプレイヤーも数多い。
 ステータスを確認できない今となっては、本人の意識だけがそれを証とする。

 そんな日々を繰り返し、辛うじてこのアルドヘイムという世界で志緒達も暮らしている。

 だが、多くのプレイヤーが何事もなく生活できている訳ではない。
 テスターの年齢に制限があった故、(ほとん)んどは若く未熟な彼ら。――中には実生活が壊滅的な人間もいた(はず)だ。

 この世界での暮らしは現代日本よりもっと苛酷だ。
 不幸な結末となったプレイヤーは数え切れない。
 ある意味この一月で、この世界に順応できる人間だけに淘汰されたと言っても過言ではないかもしれない。

 まだ学生である志緒達はそんな中を良くやっていた。
 彼らは街の外れのさらに端、麦畑を越えた先にある谷間にぽつんと立った大きな家屋――元は宿屋であったというその都合の良い空き物件を借り受け、8人で共同生活を始めていた。
 慣れぬ事も多いし、問題だってその都度に絶えない。
 それでも彼らは誰一人として欠ける事なく日々を無事に紡いでいる。

 街では、死ねば現実に戻れるといった不確定な噂を信じて自ら命を絶つ者や、単純にこの現状に絶望して物乞いのような生活を送っている者も多いと聞く。

 そういう意味でも、彼らは本当に健気であった。










 志緒はほぼ日課となった荷運びや薪割りの仕事をこなす。
 いつかの酒場にて、葡萄酒の入った樽を荷車から降ろし終え、一息を吐いていたそんな時――

「おお、やっとるなあ! シオ!」

 大声で気安く話しかける人間がいた。

「バーグの旦那」

 衛兵の鎧を着た、熊のような口(ひげ)と体躯をした巨漢だった。

「感心、感心。みなもお前のその真面目な働きぶりは褒めてたわい。仕事を紹介した俺の鼻も高い。――うわはははっ!!」

 そのでんとした腹を擦って、熊男は野太い声でさも愉快そうだ。

「いやなに、初めてお前がこの街に姿を見せた時など、絶対に何かよからぬ事をしでかす輩だと顔を見た瞬間にぴんと来たがな」
「人の事、言えた面かよ」
「だから悪かったと言っとるだろう」

 彼の名はバーグ。帝国軍所属のエクトリアの警備主任だ。
 そして初めて志緒がこの街に来訪した際、「ゴロツキ」呼ばわりをしてくれた尊大な態度のあの衛兵であった。
 最初の印象こそ最悪だったが、知り合って見ればこの男、単に直情的で裏表がないだけだと知れる。
 それにやたらと面倒見もよく、豪快で剽軽(ひょうきん)でもある。
 今もそうして、一見すればおっかなくも映るその髭に塗れた粗い造りの顔をくしゃくしゃにして笑っている。

「なんせあのフジドーが唯一無二の親友だと太鼓判を押すぐらいだ。いやぁ、本当に悪かった悪かった」
「それで納得されるのも(しゃく)だ……」

 ここでもまた、恭弥という人間の天質がふんだんに発揮されていた。
 然して規模もない集落故か、街の多くの人間が恭弥の顔を知り、その魅力にたらし込まれている。
 そんな訳で、志緒達は意外とこの街に馴染めている。

「そういや、その恭弥達はどうしてる? ちょっと前から警備隊の方の仕事を手伝うって出て行ったきりだが」
「それなんだが、実はまた南の渓谷沿いから亜人族が勢力を伸ばして来おってな。その討伐に参加して貰っとるわい」
「またかよ。最近、警備隊は休む間が無ねぇな」
「これまでは、お前たち放浪者が依頼や――もしくは頼んでもいないのに狩り尽くしてくれていたからな」
「それじゃ、俺達がやってくる数ヶ月前まではどうしてたんだ?」
「数ヶ月ぅ? 何を言っとるんだ、お前らクリスタリアンはもう何百年も前からこの地におるだろうに」
「……そうか、前作からも含まれての話か」
「何をぶつぶつ言うとる、シオ?」
「いや、何でもねぇ。ただ俺達――クリスタリアンはそんなに昔からいたのかと思ってよ」
「ふむ? ……まあ、そうだな。クリスタリアンについてのもっとも古い記述は、神話の代にまで(さかのぼ)るとの事だ」
「神話の?」
「詳しくは知らんが、幾つもの伝承に残っとる。――『水晶より生を受けし者共、暁闇(ぎょうあん)の剣を掲げ、腐蝕(ふしょく)の王を討ち果たさん』――てな具合でな。ガキでも知ってる御伽(おとぎ)話だ」
 
 慣れぬ単語が多くでてきた事で、志緒はまた難儀な顔をしていた。

「まあ、それはともかくだ。シオ――もしかしたら、お前も魔物討伐の遠征に参加してもらうかも知らん。数日は街を離れるだろうが、荷運びの仕事は俺から事情を話しておく。そうなったら頼むぞ?」
「本職の人間の足を引っ張らなきゃいいが」
謙遜(けんそん)などらしくないわい! なあに、お前の腕前はしっかりと聞き及んどる。腕が立って度胸もある。だが何よりもお前さん、多くの放浪者と違って戦い方に迷いがないそうだな」
「迷いがない? ……俺がか?」
「何人かこっちでも放浪者を雇っとるが、奴等――能力は十二分にある癖して、どうも真剣味に欠けるというか、必ずどこかで気が抜けとるんだ。実際、その所為で(むご)い目に()うた輩も多い。まだ不死であった自分達の幻影を引き()っとるのか……」

 バーグはそう言って、その頑丈そうな顎に手をやる。
 アルドランである彼にはさぞ不可解であろうが、志緒にはその部分がはっきりと理解できていた。

「それも有ると思うが……俺達、実質の所は、争いのない平和な国で育ってきたんだよ。命のやり取りなんてゲームで――ああ、いや、その真似事しかやった事がねぇ。そういう能天気な人種なんだ」

 リアルとゲームの違い――そのプレイヤー達の精神構造は、たった数週間で書き換わったりはしない。
 バーグが(いぶか)しんでいるその部分とは即ち、そういう領域の話だ。

「そう言えば、奴等もよく話しとるな。お前らの故郷『ニホン』とかいう国の事を。殆んど理解できん話ばかりだが」
「俺達の事情を理解して貰うには、もっと長い期間が必要だろう」

 志緒はもうとっくに眼前の相手――このNPCが、作り物であるなどという観念を捨て去っていた。
 あるいは作られた物であったとしても、何ら人間と変わりないように接する努力をしていた。
 それが、彼らとの関係を上手に運ぶ為の最低限の心構えであると思い知らされたからだ。

「まあ、俺の話はそんな所だ。――じゃあ、軍を編成する際は声を掛けさせて貰うぞ。邪魔したわい」

 またそう野太い笑いを立てながら、軽妙に手を振って去る熊男だ。

「……『腐蝕の王』か。最近その言葉、よく聞くな」

 降ろし終えていた酒樽を中へと運び込み、酒場の主に一言告げた後、志緒は今は亡きクリスタルの広場へと足を向けた。














 かつて多くのプレイヤーで賑わっていたそこは、今はもう閑散としている。
 けれども街の人間が(まば)らには見受けられた。

「――王は帰還される!」

 そこに異様な雰囲気を(まと)った人間が一人。
 誰に向けてでもなく、身振り手振りを大仰に、しわがれた声を張り上げている。

「聞け! 王は帰還される! 惑いし者共、異質なる我等の同胞(はらから)よ! 慈悲を与え(たも)うは王以外におらず! その腐蝕(ふしょく)! その(うみ)! そしてそこに湧く(うじ)にこそ! 世界を救い(おお)せる真理が在る! 追放されし者共、異端なる我等の同胞よ! 王は帰還される! その慈悲を願い(ほっ)すらば! 王に挑め! その猛毒を己が身に宿し! ()の腐敗なるその御身に近づくのだ! 世界を浄化するその猛毒に触れよ! その洗礼を受け入れよ!」

 枯れ枝のように痩せ細った腕を振り回わし、その黄ばんだ衣の老婆は広場の中央で掠れ切った声をそれでも詰まる事なく張り上げていた。
 何かの皮膚病か、露出した肌からは黄色い膿がどろりと垂れている。
 それを異臭と共に撒き散らして、取り憑かれたように同じ内容の説法を繰り返している。

 志緒に覚えがあるだけでここ数日に3人、同じ格好をした老人が入れ替わり立ち代わりで演説を続けていた。
 街の人間はそれらを――ある者は不快そうに、またある者は憐憫(れんびん)の眼差しで見遣るだけで止めようとはしなかった。

 そこには近付かないようにして、志緒は広場の外周で世間話をしている知った顔の中年女性に話しかける。

「おや、あんた、確かシオだったかねえ? この前は薪割りをどうもありがとうよ」
「どうも。ご主人の肩の具合は?」
「うーん、まだ良くはならないよ。もう少ししたら、またお願いする事になりそうだ」
「それは構わねぇが。それより、あの物乞いがずっと喋ってる『腐蝕の王』っての、一体何なんだ?」
「あたし等も実はよくは知らないんだ。伝承に出てくるって事ぐらいは聞いてるけど。それだって、昔に婆さまから又聞きした程度だしねえ」
「詳しく知ってる人間の心辺りとかは?」
「どうだかねえ。まあ、年寄り連中ならあたし等よりは知ってそうだけど。他には学者さんとかかい? あとは、もしかしたらクリスタルの教徒達が詳しいかもねえ」
「聖堂の?」
「そうそう。ただ、あの連中がまともに会話してくれるとは思えないんだよ。――ああ、でもあんたは確か放浪者だっけ? なら可能性はあるかもだよ」
「クリスタルの聖堂か……」

 (しば)らく逡巡(しゅんじゅん)した後、礼を言ってその場から去る。
 そこまでしなくとも増山辺りから聞き出せそうな話ではあったが、志緒は少しの懸念を覚え、街を外れた西の丘にぽつんとあるその大きな建物へと向かっていた。

 これまでまるで人気(ひとけ)がなかったその場所は今、多くの人間で(あふ)れている。
 その殆んどがプレイヤーだ。
 有り体に言って死んだ魚の目をしたような者達が、聖堂内の薄暗がりに力無く座りこんでいた。
 よく観察しなければ、動いてさえいないだろう。

 あの日から、プレイヤーは二極化された。
 少しでも前向きに事に臨もうとする志緒達のような存在と、もう全てを投げ出してしまったかのような――それでいて自ら命を絶つ事もしない存在。
 ここに居るのは、言うまでもなく後者達だ。

 聖堂の司祭達は、そんな彼らに僅かばかりとはいえ食料を分け与え、こうして暖のある寝床まで(あつら)えている。
 彼らはクリスタルに信仰を誓った身。
 そのクリスタルが全て砕かれた今となっては、そこから生まれ出たという設定のプレイヤー達に献身するのが唯一の存在目的なのだと聞いた。
 プレイヤー達も、設定上自分達を呼び出したのはこの司祭達であるという事に(かこつ)けて、そこに厄介になる事にまるで(はばか)らない。

 それが今ここに生ける屍として住み着いている輩――という内情だ。

「放浪者よ」

 開け放たれているドアから入ってきた志緒の姿を確認した司祭の一人が、掌を差し広げて歓迎の意を示す。
 相変わらず、フードで顔は拝めなかった。

 一人だけ雰囲気の違う――生気に満ちた人間の闖入(ちんにゅう)に、虚ろに身を投げ出した者達がちらりと目線を向ける。
 だが志緒が視線を辿るように返すと、多くの者がぱっと顔を俯ける。
 まるで取り巻く空気だけでなく吐く息さえも濁り切っている様だ。
 その険の強い眼が周りを穿つも、誰一人とて取り合う所か反応すらしない。

 司祭の一人が、布に包まれた半切れのパンを差し出してきた。

「悪いが俺は乞食(こじき)じゃねぇ」

 そう言って志緒は、差し出されたそれを相手に押し返す。
 当て付けがましいその言葉に対して堂内の何人かがぴくりと肩を震わすも、やはり誰一人として俯いたまま動き見せない。

「聞きたい事がある。『腐蝕の王』って存在について、あんた等なら詳しいんじゃないか?」

 しかし幾ら待ってみても、司祭達は言葉を一切として返さなかった。
 根気強く別の司祭にも訊ね掛けてみたが、まるで変わらずの素振りだ。

「そ、そいつ等と、まともな会話なんかでき、できないよ」

 どこか引き攣ったような声が脇から聞こえた。

「クリスタル教の司祭は、自分達が生きていられる最低限の事しか、し、しないんだ。日常のほぼ全てを祈りとか瞑想に費やして、もう、ま、まとも精神を持ち合わせていないって設定だよ。し、知らないのかい?」

 話し掛けてきたのは、燭台(しょくだい)の下の薄暗がりで胡坐(あぐら)をかく太った男だ。
 だが志緒の鋭い眼がじろりとそこに当てられると、気まずそうに顔を背けてしまう。
 数秒その相手を見遣るも、苦しそうに身体を無理に(よじ)っているだけだ。

 鼻で溜め息を漏らし、この場でただ独り毅然としたまま堂内の扉へと引き返す。

 聖堂を出て丘を降っていた折、後ろから声が掛かる。

「ちょ、ちょっと待ってくれ! そそ、そこのあんた!」

 上擦ったその声に振り返ると、そこには先程の太った男。
 増山が持ってるのと同じ形状の杖を突きながら、左足を引き摺るような不恰好さで志緒の後を追ってきた。

 日の下で見るそいつはひどく薄汚く映る。
 充血した目、無精髭に黄色い歯、その風体からは倦怠感しか読み取れない。

「あ、あんた、さっきの話、き、聞きたいのかい? 『腐蝕の王』の話だよ」
「知ってるのか?」
「へ、へへ……。そ、そんなの、BoDCの古参プレイヤーなら誰でも知ってるよ」

 男は引き攣った笑みを(たた)えたまま、どこか小馬鹿にしたようだ。
 しかし、やはり志緒の目線が鋭くその面に当てられると、顔を俯けて視線を外してしまう。

「お、俺が教えてあげてもいいけどね。で、でもさ、今ちょっと入用で……」
「はあ?」
「わ、わかるだろっ? 少し金を恵んでくれって、はな、話だよ。ほら、あんたも同じ現代人なら俺達の状況は知ってるだろ? お互い、た、助け合いの精神でさ……」

 その言い含む所を理解した志緒は、相手をひどく情けなく思う。

「誰でも知ってる話なら、お前にわざわざ聞くまでもねぇな」
「――ちょ、ちょっと待ってくれよ! こ、こんな状況だろ? た、助けると思ってさ。少しでも、いい、いいんだよ。聖堂で配給される飯は、りょ、量が少なすぎるんだ。なんとか、生きてられるけどね」

 その言の割りに、たるんだ顎やでっぷりとはみ出た腹が目立った。

「乞食の分際で贅沢じゃねぇか、街に出て働けよ」
「へへ、へへへ……! あ、あんたはそうやって生活できてるみたいだな? 羨ましい限りだよ。適性がある、にに、人間ってのはさ……!」
「何が言いたい」
「おお、俺だってな! 望んでこんな生活してるわけじゃない! ……でもあの日から、俺達の体が変わっちまって……それでこんな風に追い込まれたんだ! お、俺は被害者なんだぞ?!」

 途端に威勢が良くなった相手が、それでも俯き加減で声を荒げる。

「あの直後は俺だってな、仲間達と一緒にクエストをこなしてなんとかやっていこうとしてたんだ! でも、し、信じられるかい? お、俺達はな……魔物でもない猫一匹に全滅させられたんだよ……!」
「猫だと?」
「そ、そうさ! 山猫だよ! 家猫を一回りか二回り大きくした程度の動物にさ! 寝込みを襲われて、仲間が4人とも、手足の肉を噛み千切られ、爪で切り裂かれた程度で動けなくなったんだ! そして、後はそ、その場で(なぶ)り殺しだよ! ……は、ははははっ! 笑えるだろう!? たかだか野生の獣一匹に、強大な魔物を幾体も倒してきた自分達が、まるで歯が立たなかったっ!」

 そこで志緒は相手のその左足を見遣る。
 びっこを引くように歩いてきたその足――その話の時に負った傷だろう。

「ふざけるなよ……! そんなゲームがあるもんかよ! ダメージを受けたら痛みで発狂して、もう戦い所じゃなくなる……! そんなクソみたいなシステム――どこにあるんだよっ!?」
「現実になら、あるんじゃねぇか」
「……へ、へへ……へへへへっ! そうだな、まるでここはクソみたいな現実と一緒だよ! いや、現実の方がまだマシか……」

 男は皮肉に顔を歪めて、自身の左足に手を遣る。

「俺だって何不自由なく暮らせるように働きたいさ! でもこの足じゃ……。わ、笑えるだろ? もうこの世界じゃ、前の様に治癒術のスキルでも完全には治りゃしないんだ!」

 男は憔悴し切った目でそう憤りを言葉にしている。
 哀れであると思うが、それでもこの男が情けないと思うのも変わらない。

「その足でもやれる仕事なんざ幾らでもある。それにお前、その杖を手放していないって事はまだスキルは使えるんだろう? どうにもならねぇその足を逃げる理由にしてないで、他の人間よりも荷物を背負(しょ)ってるって言い訳にでも代えて図太くやってみろ」
「ご高説痛み入るね……! 五体満足の人間の言葉は、お、重みが違うよ……!」
「チッ――」

 志緒は稼いだばかりの銀貨数枚を肥えた醜いその腹に叩きつけ、風を切って反転して歩きだした。

「は、話はいいのかい?」
「くれてやるよ。――クズが」
「どうも……!」

 背を向けたままそう告げる。
 後ろでは難儀そうに銀貨を拾い集めた男が、やはり引き攣った笑みを見せていた。

 今この世界では、プレイヤー達の何割かはその男のように心が折れてしまっているのだろう。
 これが只のゲームであったならコントローラを投げ出せばいい。
 しかし、今この世界では……。

 志緒達とて、いつそちら側へと傾いてもおかしくはない。
 それ故にこれ以上その相手の姿を見ている事が耐えられなかった。

















「腐蝕の王か、知ってるぜ。つーかシリーズやってる人間なら知らない方が少ないって具合だ」

 拠点となったその家屋、もう自宅と言っても差し支えないそこに戻った志緒は増山にその話を振った。

 他のメンバーは全員出払ってるらしく、増山は一人キッチンにてエプロン姿で豆や根菜を煮込んだスープを作っていた。
 驚く事に、メンバーの中で料理が一番できたのは増山であった。
 趣味がケーキ作りという意外過ぎる一面もそうだが、「キモイ事この上ないけど腕前だけは確か」と木ノ下に言わしめる程に彼の腕は抜群だ。

 そんな訳で、この家では増山が家事全般を取り仕切っていた。

「まあ所謂、シリーズ屈指のラスボス的な位置づけというかな。帝国を何百年と苦しめ続ける大魔王みたいな――そういう存在」

 慣れた手つきで具材を掻き回し、増山は続ける。

「名前の通り腐蝕を体現する存在でさ。ただまあ、絶対悪の象徴って訳じゃないんだぜ? それらを信奉するアルドランも居るくらいだ」
「信奉者? アルドランにか?」
「腐蝕の王は(うみ)(うじ)なんかも関連して語られるんだが、ほらよく聞くだろ? 膿ってさ、汚い物だと(さげす)まれがちだけど、実は体の毒を吸い取ってくれてるって話。蛆も実は怪我の治療に用いられるって有益な存在で、その部分の死滅した細胞だけを食い取って綺麗にしてくれるってやつ。マゴットセラピーだったか?」
「へえ」
「まあ、そういう風な感じで、世界をより良く生まれ変わらせる為の終末思想? 破壊思想? ――そういう考えの輩が祀り上げてるんだってよ」
「だが、理由はどうあれ、そいつは世界を滅ぼす事を目的としてると」
「そうなる。だから帝国含む多くの人間にとっては敵ってこった」
「そいつが復活するって話を街の広場で触れ回ってる奇妙なのが居るが」
「本当だとしたら厄介な事だぜ。一応、今作でもそいつがラスボス級の設定なんだろうけど……」
「強いのか?」
「ううむ……強いっていうか、ホント厄介なんだよなぁ」

 増山は木のおたまを握ったまま腕を組んでしまう。

「そいつはさ、ウィルスのようにその腐蝕を撒き散らして、接触する人間というか――動物植物を問わずにあらゆる生命を自身と同質化させちまうんだ」
「確かに厄介な話だ。でも攻略法、ちゃんとあるんだろ」
「攻略法ねえ……。有るには有るが、平たく言や――捨て身覚悟の短期決戦ってな具合だぜ。シリーズ通して、そんな不完全な倒し方を繰り返してはまんまと復活をされてるってな按配(あんばい)だ。まあゲームとしちゃシリーズが続けられるから、それでも良いんだろうけど」
「ぞんざいだな」
「気になるのか、奥崎?」
「ああ。ゲームでなら、世界の終りだなんだとほざこうがプレイヤーがラスボス倒すまでは実質的に待っていてくれてんだろ? ラスボスとの決戦直前にどれだけ遊んでいようともな」
「ははは、まあ確かにな。で、この世界でもその理論が通用するかどうかって話だな」
「俺達がこうやって日々に追われてる合間に世界が滅びました――じゃあ、冗談にしたってお粗末だ」
「うん、俺もその事はずっと気掛かりだった」
「そもそも、そのラスボスを倒せる実力が俺ら(プレイヤー)にあるのか」
「そいつに関しては朗報が一つあるぜ」
「朗報? どういう――」
「ここ短期間で、プレイヤー達の中で特に年長者組が中心になってある組織が結成されたんだ」
「組織? ……わざわざそんな言い方したって事は、ゲーム時代のクランとかいうのとは一線を画すものなんだな」
「その通り。所謂これは馴れ合い的なコミュニティとは別格のもの。明確な設立目的を持った団体と言うべきか」
「その目的ってのは?」
「至極明瞭だぜ。ずばり、このゲーム世界からの脱出」
「……まあ、そうなるか」

 増山の言葉に取り分けて驚きもしない志緒。
 凡そ、プレイヤー達がこの現状で志すものは分かり切っている。

「あれだな、現実世界で言う所の非営利組織(NPO)ってやつか。プレイヤー同士のネットワークをさらに強固とし、そして出来うる範囲での救済措置なども行ってるらしい」
「このゲームからの脱出って、具体的な手立てが?」
「いや、というより、それを模索する事自体が第一の目的なんだろうぜ」

 頷ける話だった。

「可能性の域を出ないが、例えば奥崎、ゲームを終わらせる手法って何が思いつく?」
「電源を切る以外でか?」
「それ以外で頼むぜ」

 しばし黙考した後、志緒は思いついた事を口にする。

「ゲームをクリアする」
「――そう。そこで話はさっきのに戻るわけだ」
「ラスボスを倒して、エンディングを見るって事か」
「エンディングが用意されていたらの話だがな。だがその為に、件の組織が動き始めているそうだ。腕の立つプレイヤーを広く募っては、軍隊のように魔物討伐を敢行してるってな」

 事がそう上手く運ぶかはともかくとして、何らかの目的を持ちえる人間の方が建設的である。
 日々を頽廃(たいはい)的に過ごす人間よりも、そういう前向きな人間の方が遥かに強い。
 そして、個人よりも組織が強いのも揺るがぬ事実だ。

「成る程。(もっと)もらしいと言えば尤もらしい」
「俺達プレイヤーは今でこそ基本的にアルドランと大差ないが、もともとダンジョンに潜り、魔物を討ち倒す目的で生まれたようなもんだ。元来のスキル適性はそこいらのアルドラン達とは雲泥の差がある。故に、俺達は冒険者って役柄なわけだぜ」
「そんな俺達がボスを倒して、めでたくエンディングを迎えようってか」
「ま、可能性があると見越して、そういう方向にな」

 増山がどこか達観した面持ちでそう言葉を濁す。
 薄くではあるが、増山のその心理は読み取れる。
 件の手法が確実であるとは、この世界の誰にだって保障できないからだろう。

「増山、もう一つだけ手立てがあるよな」
「……言いたい事は、分かってるぜ。ゲームクリアの対極に位置する意味合いながら、ゲームを終わらせるもう一つの手法だろ? つまりはゲームオーバー」

 皮肉気ながら、それでも開き直ったような芝居調で増山が肩を揺らす。

「この世界でこれまで相当数のプレイヤーが〝死んだ〟事になる。果たして、この世界での〝死〟――ゲームオーバーってのは、現実世界でどういうものに値するんだろうな」

 その淀みない志緒の口調に、増山は身動きを止めた。

「ゲームオーバーで装置が外れて、向こうで意識が戻るって信じて止まない連中も根強くいる。けどよ、それが本当なら俺達の詳しい現状が知れ渡って、何らかの形で外側からの接触の一つも来そうなもんだが」
「それが来ない今の内じゃ、この世界での〝死〟は現実の〝死〟と同義なのかもなあ。氷川じゃないが、俺達もう本当に死んでて、このゲーム世界にだけ精神が残ってたりするのかね」
「本当に、俺達の体は今どうなってやがんだか」

 志緒は自分の何ら遜色のないその掌で顔を伏せるように覆った。

 隔絶されたこの世界――ここでの体感日数が現実のそれとリンクしているならば、もう一ヶ月以上は「夢」を見ている事になる。
 ACSという装置が作り出したその幻影の楼閣を。

「こんな状態に陥った要因といい、わからねぇ事ばかりだ」

 指の合間から長い息を吐きつつ、志緒は天窓から見える当て付けのように明朗な青空を眺めるのだった。














「ただいま!」

 少なからず落ち込んでいた拠点内のその空気を瑞貴の底抜けな声が打って壊す。
 先の事を見越して、庭先の作業台にて戦闘時の装備や道具の手入れをしていた志緒は毎度ながらしかめっ面を余儀なくされる。

 戻ってきたのは瑞貴と木ノ下の二人だ。
 瑞貴は普段、エクトリアにて営業している数少ない料理店の一つにて下働きをさせて貰っている。
 二人して荷物を抱えている所を見ると、どうやら買出しに出掛けていた木ノ下と帰りが一緒になったのだろう。

「おぉ、二人一緒か。お帰り」
「ただいま。はぁ、疲れた」

 食器を準備中だった増山もその声に釣られて顔を出し、瑞貴とは打って変わって疲労色の濃い木ノ下が荷物を置いて返事をした。
 基本的に木ノ下も、増山を補うようこうして家の事を手伝っていた。

「というか篠宮、随分ご機嫌じゃないか」
「あのね、聞いて聞いて。今日ね、ようやく女将さんからフライパンを握る許可が出たんだよ」

 途端、志緒と増山の二人に電流的なものが走る。

「それで、戦果はどの程で……?」
「なんとね、十個中三個も目玉焼きを焦がさずに調理できたんだぁ」
「お、おう……」
「志緒くんも聞いて! スゴイでしょ? 三個も焦がさずに作れたんだよ」
「ああ、すげぇな。……色々」

 増山の料理の腕が意外と言えば、とても家庭的に見える瑞貴のこの壊滅的な調理手腕も意外であった。

「だから増山くん、今度からは私もゴハンの用意ちゃんと手伝うからね。どーんと任していいよ!」
「う、うむ……。いやしかし、篠宮には永遠に二軍のエースで有り続けて欲しいという皆からの総意というか(たっ)ての願いがあってだな……」

 しかし増山のオブラートに包みすぎたその諫言(かんげん)は彼女には届かなかったらしく、やる気を(みなぎ)らせてはご機嫌に家の中へ入ってしまう。

「奥崎、こりゃ次のバイオハザードも近いぞ」
「勘弁しろ……」

 健康被害こそ出なかったものの、瑞貴がその手腕を思う存分に(ふる)った結果――まあ、そう形容して差し支えない事態が起こっていた。

「あの子がご機嫌なのはそれだけが理由じゃないけどね」

 呆れ顔の木ノ下が溜め息と共ににそう吐き捨てた。

「どういうこった宮歩?」
「明日辺り、藤堂や響子達が戻ってくるそうよ。お店に来た行商さん達が、エクトリアの遠征隊の面々と途中まで一緒だったんだって。部隊にもこれと言った被害はなさそうって話」
「ほお、そいつは良い知らせだ」

 直接戦闘に向いている恭弥と橋本、それから専門スキルを有して味方や敵方への能力操作(バフ・デバフ)に特化している氷川の3人が、ここ最近繰り返されている魔物討伐の遠征に出向いていた。
 やはり確たる連絡手段が用意できないこの世界では、そういう便りがとても有り難く思える。

「まっすーん。ちょーハラ減ったんすけどぉ」

 そんな折、空腹故にか情けない顔した香坂も戻ってきた。

「お、香坂も戻ったか。待ってろ、もう直ぐ出来るから」

 そう言って彼らの専属コックはいそいそと台所に戻っていく。
 みな一様に準備を手伝いつつも、やたらと長いダイニングテーブルへと各々腰を落ち着けさせた。

 志緒達には、ここ数週間の内にある一つの習慣が身に付いた。
 それは食事の前に軽い祈りを捧げるというような、映画か何かで目にした物を見様(みよう)見真似(みまね)で再現したものだ。
 別段、これといった宗教的な意味合いがある訳でもない。
 それでも日々の食事に不足なくありつけるというその事実に、ちょっとした感謝を示すための計らいだ。
 言いだしたのは恭弥であったか、ただこれまで漫然と食事をしてきた彼らにとって、この場所――先進的な技術や設備で大量生産が可能な現代とはまるで違う食料事情のこの世界で生きるという事は、そういう感慨をより強く思い起こさせる。
 何より、自身の手で食べる為に稼ぐというサイクルを経由している現在の彼にらは、そういった通念のような物が尊く思えた。

 例えばゲーム時代、稼ぐという行為は単純に攻略に必要な手段の一つでしかなかった。
 ――あるいはゲームの幅を広げるというような。
 だが今ここでは稼ぐという行為が生存そのものに直結している。
 強力な武器やアイテムを買い揃えている余裕などないわけだ。
 そういう意味で先程志緒が増山に話していた懸念は正鵠を射ている。

 そんな所帯染みた、しかし生半(なまなか)には抗えぬ摂理に触発されての提案だったのだろう。
 今ではそれらが徐々に様になってきている気がする。

「――さて、と。そんじゃ頂くとしようぜ」

















 ――ゲーム――
 今はもう、この世界をそう呼ぶ人間は少なくなった。
 ――かつてここはゲームの世界であった――
 そう呼び習わせられる日が来るのも、そう遠い日ではない。

 志緒は拠点の裏にある峡谷内で、そんな事を取り止めも無く考えていた。

 彼は今この場所に、上方の小川から灌漑(かんがい)してきた水で小規模な自家製の畑を造ろうとしている最中だ。
 言うまでも無く、そういう土木関係の知識や経験がない為、試行錯誤しながらほぼゼロからの挑戦である。
 それでも誰に頼まれた訳でもないし、期限がある訳でもない。
 失敗してもそれを自身が学べばいいだけの話――と、そういう達観した気概で趣味的にやっていた。
 それに硬い土を手動で削って整地していくというのは相当の鍛錬になる。
 結局はまあ、志緒のそういうスタンスだ。

 その汗に濡れた屈強な肉体を日の下に照らしていると、ここ数日振りの顔がひょっこりと姿を見せた。

「うひゃあ、ここでも志緒の整地厨っぷりが発揮されちゃうかー」

 聞き慣れたそのおどけた声色に、志緒は振り返った。
 街の衛兵の紋章が入った鎧姿の恭弥が、選り分けた土嚢(どのう)の上に昇って嬉しそうに片手を挙げている。
 少しやつれたような頬に、それでもあの天心な笑みを浮かべて。

「ようやく戻ったか。橋本達も?」
「うん、みんな無事」
「何よりだ」

 そう短く漏らした志緒は、地面に食い込んだままのその(すき)の丁字の取っ手に背中を預けて汗を拭った。
 恭弥は改めて、積まれたその土嚢の上に腰を置く。

「ていうか志緒の筋肉、またちょっとパワーアップしてない?」

 恭弥がそう言い示した志緒の身体は、確かに以前よりも一回りは(たくま)しくなっていた。
 特に肩回りから後背にかけての筋肉の厚みが凄みと共に増している。

「こっちでの作業量や仕事内容のおかげか、鍛錬の質がまるで向上したって言えるぐらいだからな」
「鍛錬、鍛錬。ほんともう、志緒の精神構造は17歳とは思えないってば」
「そういうお前は少し痩せたか?」
「かもね。ここ数日、こっちも激務でさ」

 何でもないようにそう笑う恭弥だったが、魔物討伐の遠征というものが――今はどれほど危険を伴うものであるか、言葉で表すべくもなかった。
 ただ本当に、3人ともが無事戻ってくれたという一事に安堵を覚える。

「それ、衛兵の鎧だな? そういうのきっちり支給されんのか」
「剣や防具は消耗品だからなー。正直、かなり助かってる」
「だろうな」
「伝説級の武器だってポッキリ逝っちゃう仕様なのはシリーズのお約束らしいけど」

 取り止めも無く、恭弥はそう茶化して言う。
 その様子に少しだけ違和感のようなものを覚える。

「……何か、あったか?」

 性分上、志緒はにべもなくそう訊ねた。

「んー、取り立てて俺達の前で何かがあったって訳でもないんだけど」
「はっきり言えよ」
「ははっ、やっぱり志緒は志緒だなー」

 一度、いつものあのカラカラとした笑みをひけらかした後、恭弥は少しだけ声を絞るようにして語りだした。

「遠征先で、帝都の方面から派遣されてきた部隊とも一緒になったんだ。その中に、都市部のプレイヤー達も混じっててさ」
「それで?」
「うん。その彼らの間で、今とんでもない噂が広がってるんだそうだ。ここエクトリアにも、直に伝わってくると思うけど……」

 恭弥の口調はいつになく歯切れの悪いもので、またらしくなく身を屈めるようにして座っている。
 志緒は自らもその横に移って腰を降ろし、相手の言葉を待つ。

「取り残された俺達プレイヤーの中に、というよりはテスターの中にかな……実はロックビルソフトワークスの社員が数名は混じってたそうなんだ」
「そいつはまた……」

 率直にその発言の内容に驚きを示す。

「それで彼らにも、今現在起こっているこの状況の説明がまるでつかない――というよりは、そもそもロックビル社はACSという装置に対してはノータッチらしいんだ。ACSのその構造や仕組みはA&ISの専売特許で、このゲームを共同開発したというのは全部建前。その実、A&ISが開発の全てを執り仕切ってたんだって」
「ああ、それなら増山から聞いたな。資本力に物を言わせて、A&ISが強引に話を進めたそうだ」
「それでも、その人達には判別できるそうなんだ。……今起こっているこの現状が、あまりに見当違いなものらしいって事は」

 多分に緊張感を孕んだその声色に、志緒は眉根を険しく寄せて隣の顔を振り返る。

「どういう意味だ?」
「……あまりにもその、不自然なんだって。こんな致命的な問題を引き起こす程、A&ISという会社は不出来じゃないってのが彼らの見解なんだ」
「確かに、これまで各方面を席巻してきた化け物みたいな会社だ。そんな名実共のトップブランドが犯したこの大失態、ただで済む話じゃねぇな。――にしたって、その言い分じゃあまるで……」
「そう、その人達が言うには、この欠陥はA&ISにとって……もしかしたら失態(ミス)じゃないんじゃないかって……」

 数秒、その場で時が止まった。

「んな馬鹿な……!?」

 恭弥の話すその内容――言わんとするその部分を察した志緒が、柄になく取り乱した声を上げる。

「つまり……俺らの身に起きてるこのACSのバグは過失でなく故意だって――そいつらはそう言いたいのか」
「そういう話らしいんだ」

 暗色の顔付きの恭弥は俯き加減のままそう締め括った。
 志緒は自身の頬骨を挟み潰さん程に、顔を被った掌に力を込めていた。

(わざ)とだってのか? 俺達をこんな状態に、奴等は意図して陥れたと?」
「…………」
「――馬鹿げてる! いくらなんでもそりゃ無ぇだろ! そんな事してA&IS側に何の得がある!? 一体どんな利益が生まれるってんだ!?」

 賠償責任こそ発生すれど、この事態を意図して引き起こす事にどんな意義があるというのか。
 全く以って判断の付かない領域の話だった。

「俺にだって分かんないよ。でも、その話はもう残ったプレイヤー達の間で真実みたく語られてる」
「そんな根拠も何も無いでたらめな話……」
「確かにそうなんだけど、今の俺達は外の世界の状況が一切として分からない。だからそういう風に傾倒しちゃってる人間が多いんだと思う。……それに、全く根拠がないって訳でも……」
「俺達の、今のこの身体の事か?」
「……うん」

 先程の二人の掛け合いにもあったが――彼らの身体は今、そうして痩せ細りもすれば、肥え太る事だってできる。
 無論、それ以上の尺度で肉体は代謝し生育しているという事。

「あの日からなんだ。あの日から俺達の身体は、そして現実は、このアルドヘイムという世界に上塗りされてしまったんだから」

 それは全プレイヤーの共通認識だろう。
 そう考えれば、成る程、全くの無関係とはいかないのかもしれない。
 故にそのような流言飛語が浸透する事態となったか。

「……〝ゲーム時代〟でも、確かに俺達の肉体のパラメータは幾らでも変動した。でもこうまで忠実というか、恐ろしいまでのこのリアリティ……それはやっぱりあの日から付与された事実であって……みんなその事で……」

 言葉を途切れさせながら、恭弥はその言外にただただ薄気味悪さを滲ませているかのようだ。

「そうだな……。件の噂は真実そうであるかはともかく、只はっきりと、異常なんだよな。今の俺達は――」

 志緒は日に焼けたその自分の腕を見遣る。
 太く隆起した前腕屈筋群、それを覆って血管が浮き出ている。
 その中に流れているのだ、血液が――生命の根源たるその赤い血潮が。

 ――かつてこの世界は〝ゲーム〟であった――
 そう表現せざるを得ない位置に、彼らはもう立っているのかもしれない。