闇の(とばり)は過ぎ往き、空が次第と白みはじめた。
 この時間帯に至ってようやく帝都は静けさを取り戻す。

 宿の一室では、静けさというにはあまりに重く苦しい沈黙が支配していた。

「……ないじゃない!」

 その静寂を木ノ下が破る。

「警告文だって来ないじゃない! もう夜が明けたのよ! あたし達、どれだけこうしてればいいの!?」
「み、ミヤちゃん……!」
「落ち着きなって、あんた」
「落ち着いてなんかいらんない! いつもならうるさいぐらいに警告文が表示されて、それでも従わなかったらシャットダウンされてたじゃない?! ――なのに、いつまで経ってもあたし達はここに居る!? 一体どうなってんの!?」

 ヒステリックな声で喚き散らす木ノ下。
 その場の全員が気まずそうに顔を伏せていた。――その問いに答えられる人間がいないのだ。

「……いや、宮歩、もしかしたら昨日のアップデートで強制終了の時間が緩和されたのかもしれんぞ? もうちょっと待ってみようぜ」
「アンタが『メニューからログアウトできなくても、時間が経てば強制的に終了される』なんて無責任な事言ったんでしょ!?」
「だ、だからそれは……」
「何よ――言い訳する気?! アンタいつもそうやって知ったような口叩くクセに、いつだって本当は何も分かってないじゃない!? この役立たず!」
「ミヤ!」

 橋本がその大きな身を揺すって、木ノ下の前に立ちはだかった。

「あんた、いい加減にしなよ。今の状況はゲームのバグであって、増山には何の落ち度もないでしょうが。――八つ当たりはやめなって」
「そ、そんなの……分かってるし……!」
「なら増山に謝りな」
「別に構いやしないって橋本。宮歩のヒスは昔っからだ。もう全然、慣れっこってやつだから」
「何よ、偉そうに……」
「ちょいちょーい。ケンカとかマジ疲れるだけっしょ? なあなあで済ませりゃいいじゃん」

 ベッドに半分寝そべったままの香坂が手をそよがせる。
 しかし、発言の割に当人も余裕が無いというか、落ち着きがない。――投げ出した片足を揺すっているのだ。

「香坂の言も(もっと)もだ。これ以上、無駄に労力を使うのも情けない。修正が来るか、システムが強制終了に入るまで、ぼーっとしとこうぜ」

 増山が空気を取り繕おうとするが、皆の反応は等しく鈍い。
 その場の全員が、何か、喉に小骨でも刺さっているかのような表情で、そして不用意に発言する事を拒んでさえいる節がある。

「それよりさ、まっすん、俺今スッゲー困ってる事あんだけど?」
「なんだ、言ってみろ」
「俺さ、今……ガチにトイレ行きたいんだけど?」

 香坂のその変わらずの軽薄な調子。
 しかし、その発言にこの場の多くがびくりとするように身を固くする。

 この場で志緒は一人、険しい表情で何かを探るようそんな彼らを窺っていた。

「なに言ってんだか、香坂は……」
「いや、マジによ? ガチめでマジに緊急事態なんよ?」
「だから、それが何だって?」
「や、だってさ、実際には俺、今自分の部屋に居るわけじゃん? トイレ行けないわけじゃん? ――ちょー困るんですけど」
「お前な、ACSは錯覚を促す装置だって言ってるだろう。お前が今感じてる全部、所詮は偽物であるんだよ」
「でも俺、ションベンしたくて仕方がないんよ? さっきから貧乏揺すりで誤魔化してんだけど、そろそろ限界よこれ?」
「お前って奴は本当に……」
「ちょっ――違うんよ! マジによ? マジに漏れそうなんよ?」
「……なあ、おい」

 志緒が図るようなタイミングで二人の会話に割り込んだ。

「何だよ、奥崎……?」
「香坂が口火を切ってくれたんだ、そろそろはっきりさせとこう」

 その迫力のある低い声に、皆の視線が志緒へと移る。

「香坂だけじゃない。俺も――いやお前らも、ずっと不可解な事があるだろう」
「何、言ってんのさ?」
「志緒?」

 立ち上がったままの橋本や、隣にいる恭弥も、その発言の意味を問い(ただ)そうと声を上げる。
 それに構わず、志緒は続けた。

「間違いなく今俺達は、喉の渇きに空腹感、疲労感や眠気、そして尿意なんかの生理的欲求を感じてる」

 当たり前の事を言うような口調で――そして事実、その内容は至極当たり前のもの。
 だが違う――
 その場の(ほとん)どの人間が顔を青くして身構えたのからも判る通り、その発言はこの状況下では余りにも異質だ。
 何故ならここは造られた仮想(ゲーム)の世界であり、彼らはACSというVR装置によって夢を見せられてるに過ぎないのだから。

 皆がこぞって緊張の面持ちを見せた。

「何をバカな事を言ってんだよ」
「増山、もうそこは認めろ。俺達はかれこれ八時間以上は〝ここ〟にいるんだ。それが揺るぎない理由でもある」

 人間が半日近くの時間を過ごして、何の生理的欲求も催さないなどと言う事はない。
 それを言外に志緒は示した。

「でも、そんな感覚……一度だってなかったよな? それはほら、俺たちがそういうのを感じる前にログアウトしてたからでもあるが……」
「そうよねえ。だっていつもは一、二時間が限界じゃないのさ。ほら、システムの概要にも、血糖値が下がって脳に栄養が少しでも行かなくなったらデバイスが強制措置を取る場合があるって書いてあったぐらいだし。別に、おかしくはないわよ」
「ちょっと待ってよ、じゃあ今感じてる空腹感や疲労感は実際にあたし達が感じてるもの……? ACSじゃなくて、実際の体が感じてるものなの……!?」
「じゃあやっぱり俺がトイレ行きたいんは本当じゃんよ!」
「え? ああ、そうなるのか。――ええっ!? いや、でも……? あれ……どういう事だ……」
「ちょっとちょっと! 奥崎が変な事言うから、こんがらがって来ちゃったじゃないのさ!」

 しかし、志緒はその凄みの宿った眼を変えない。

「仮にだぞ、もし今ここで香坂が小便を漏らしたとする」
「ちょっ――何言ってくれちゃってるの奥崎ちゃーん!?」
「仮にだ。そうなったら、香坂は実際に自室で小便を漏らした事になるのか?」
「だから奥崎、全部錯覚だってさっき言ったろ」
「俺たちが今感じているものが、本当に全部ACSが作り出した錯覚って言い切れるか? それともACSってのは現実の俺たちの生理現象までをも再現してくれるってのか」

 誰も志緒のその問いには答えない。――答えられない。
 場は再び、重く息苦しいものとなった。

「ま、待て待て待て! ……ちょっと落ち着こう」

 増山が(かぶり)を振って、髪を掻き(むし)った。

「一旦、合理的に順を追って考えようぜ」

 増山はメガネを外し、眉間を揉むように(ほぐ)してから掛け直す。

「まず現実の俺たちの体の話だ。もう朝になってんだから、親たちが俺たちを見つけてるだろう。ACSに繋がりっぱなしの俺らをさ。今日は月曜だし、学校に登校する時間になってもゲーム装置を取り付けてる俺らに、きっと親はカンカンだろうぜ。だから直ぐにも装置を引っぺがして叩き起こそうとするよな」
「もう朝の七時近くになるってんだから、親はうち等を叩き起こすわよね? ――そうしたら装置が外れて、意識は戻るじゃないの。だってこの前、うちの猫が部屋に入ってきて、設置型の装置を一個倒しちゃっただけで強制終了になったわよ」

 橋本がようやく希望を見つけたという風に顔を綻ばせた。

「それを含め、俺達は今まで待っていたんだろ。そして、未だその気配すらない」

 今ここでは辛辣過ぎる言葉を――それでも志緒は敢えて口にする。

「ええー、ちょと、どうなってんのさ……」
「これだけ注目を集めてる装置だ。もうゲームのバグの事は世間にも広く知れ渡っているだろう。そうなると、俺たちがゲームの世界から戻ってこれていないという事は容易く把握できるだろうし……もしかしたら装置を外せない理由でも出来たのか? 例えば……」
「――例えば、なにさ?」

 思考を段階的に言葉にまとめている増山に対して、橋本が控えめに合いの手を入れた。

「例えば、そう、装置に重大な欠陥が見つかって、無理に外すと脳に障害が残る事が判明したとか」
「あ! それ――あるかもだわ!」
「だから親たちは装置を外す事ができないんだろう。そんで、多分病院なりにそのまま担ぎ込まれてるんだ。多分きっと、外の世界でも俺たちが戻れなくなっている事で相当の混乱が起きてるんだろう」
「じゃあ、やっぱりまだ、私達はこの世界に居ないとダメなのかなぁ」

 瑞貴はしゅんとした面持ちで、結局は打つ手なしの現状を再確認したのを嘆いている。
 椅子に座り直して腕を組んでは押し黙った志緒。
 あの恭弥までもが、その隣で顎を引いて硬い表情をしている。

「ああっ――もうマジ無理! マジでションベン漏れる!? トイレ――トイレ言ってくる!」

 さっきからばたばたと貧乏揺すりが激しかった香坂が、遂に我慢し切れない様子で部屋を飛び出した。

「香坂のバカたれ、錯覚だって言ってるだろうに。そもそもこのゲームでそんな行為自体ができないっての」
「……直に、わかる」
 
 志緒のその短い言葉に、幾重もの意味が込められてる事を容易に量り知る一同。
 
 少しの間を空けて、香坂が部屋へと戻ってきた。

「ふぃー……」
「ど、どうだった? ――香坂?」
「あい?」
「バカ! ……その、本当にしてきたのか?!」
「ちょ!? まっすん――いきなり何よー? マジそんな趣味あったん? ドン引きだわー俺」
「ちがう! 排尿行為が可能だったかって訊いてんだ!?」
「はえ? マジ何それ? 普通に俺、そこでションベンしてきただけよ?」

 何気ない風で語ったその内容に、増山達は言葉に出来ない衝撃を受ける。

「――ええっ!?」
「――うっそでしょ!?」
「――おいおいおいおい!!」

 みな一様に取り乱し、青()めた顔や引き()る表情を見せる。

「何? なんで皆、俺のションベンに興味津々なん?」
「だってお前……!? ――ここはゲームの世界なんだぞ?!」
「あー、マジそういやそうだったっけ。……あれ? でもさ、俺さっき普通に……」
「――やだ! 嘘でしょ? 何それ――気持ち悪い!」
「え、演出だろうぜ! これもゲームの演出の一部ってやつで……」
「どっちにしろ気持ち悪いじゃない――そんなの!!」

 木ノ下が青ざめた顔で、また声を荒げ出す。

「増山、今重要なのはそこじゃねぇ」

 しかしやはり、唯一冷静な志緒がその場を制した。

「今重要なのは、その行為によって香坂が感じていた生理的な欲求を解消させたっていうその事実だろ」
「行為? 欲求? 何それ、エロい話なん?」
「香坂、お前今はもう尿意を感じてないんだよな」
「うん。マジすっきりよ」
「繰り返すが、さっきまで感じていた香坂の尿意は現実の物なのかそうじゃないのか。そして、それを満たした今の香坂の肉体は、実際には排尿に及んでいないのにACSがそう錯覚させてる? それとも、普通に漏らしてんのか?」
「ああああっ! そうじゃん――やっべーじゃん! 夢の中でションベンしたら現実でオネショしちゃうじゃんよ!? マジその事忘れてた!」

 各々が言葉を紡げないでいる中、志緒は大きく溜め息を吐き、その場の全員の顔を見渡していく。

「もう、覚悟決める(ほか)ねぇな。四の五の言ってられない状況になる前によ――」
















 志緒が言外に示唆(しさ)した通り、喉の渇きや空腹感は食事を()れば治まり、疲労感は仮眠を取れば除かれた。
 当たり前の事を言っているが、その当たり前が機能するという事実が恐ろしい事この上ないのだ。

 これまでだって食べ物の味は確かにした。
 味覚も嗅覚も機能するACSなのだから当たり前だ。
 だが、あくまでそんな物はゲームにとっての風味(フレーバー)でしか無かった筈なのだ。

 おぞましい事に、そこからさらに半日が経過した。

 あらゆる生理機能が現実と混同されていた。
 まるで、現実と虚構――その境界が侵食されるかの如く。

 瑞貴と木ノ下の二人が、どうしても物を口にする事を拒み、結果二人は軽い脱水症状によって昏倒した。
 それすらも驚きだ。
 橋本の懸命な看病と説得にて、二人は今し方ようやく白湯(さゆ)を口にする。

 その場は橋本に任せ、志緒達は帝都の広場――リスポーンクリスタルがあったその場所へと赴く。

 確かにクリスタルは粉々に砕かれ、その残骸が未だ広場の中央にて瓦礫のように積まれている。
 人はカウントダウンの時ほど居ないものの、それでも呆けたようにその場に座りこんでいるプレイヤーが何人も見受けられた。 

 誰もが状況は同じである。

 ログアウトする事ができず、このゲームの世界に自身の現実が喰らい尽くされている。
 皆して同じ様に、ただただ無気力に救助――この場合はシステムの復旧であろうか――が来るのを心待ちにしていた。

 そんな彼等を帝都の衛兵や市民達が気味悪そうに見遣っている。
 アルドラン達にとって、何故彼等がこのような状況に陥っているか――クリスタルが壊れたという事実は認識できても、それが真にどういう意味であるのか知る由もないだろう。
 それ故に、こちらを気味悪がった目でただ遠くから眺めてくる。

 まだ辛うじて気概を見せるプレイヤーから、恭弥が話を聞き出して戻ってきた。

「帝都の外に設置されてたワープクリスタルの石碑も、全部が倒れたんだって」
「使用できねぇって事だな」
「移動手段が絶たれたか。この先、難儀だぜ」
「それだけじゃない。マーカークリスタルも……」
「マーカークリスタルも? いや、ちょっと待てよ――藤堂、中のログインしてなかったプレイヤー達は?」
「勿論、放り出されたってさ……」
「放り出された? 意識の無い状態でか?」
「うん……。心臓も動いてるけど、中身っていうのかな、そういうモノが入ってないんだって」
「道理に当て嵌めれば、そうなっても別におかしくはねぇか」
「そういう人達は帝国兵が回収してったらしい」
「まっすーん、俺らこれからどうなってまうん?」
「俺だってそいつを知りたいぜ……」

 結局、これ以上のアテも見出せず、志緒達までもがその場に腰を付ける。
 数ある無気力な抜け殻達と時を同じくする。

 そんな折だった。

 志緒達のすぐ近くに5人ほどのプレイヤー集団――少年達が(たむろ)していた。
 歳の頃は志緒達よりも幾つか下だろう。
 周りよりは幾分も生気があるものの、それは状況が見えていない軽薄さと紙一重のものだ。
 その彼等の浅はかな会話が聞こえてきた。

「いつになったら帰れんだよぉ、これぇ」
「バグの復旧に一日かけるとか、ほんま無能すぎやろ」
「はぁー……」
「どうする? 暇だし狩り場でモンスター殺しに行こっか?」
「ワープできないから、狩り場まで面倒じゃん」
「そうだった。ああっ――くっそ!」
「あれ? っていうかさぁ、ワープクリスタルが壊れてワープできないって事は、リスポーンクリスタルが壊れた今、俺ら死んだらどーなんの?」
「お? マジだ! ――それマジでそうだわ! 今、死んだらさ、どうなっちゃうワケ?」
「他の地区のリスクリに飛ばされるだけやろ? ちゃうん?」
「え? 他のはクリスタル無事なの?」
「ブレスレットが使えんから判らん。チャットで連絡取れへんくなってもうたしなぁ」 
「おい、ちょっとマサキ!」
「え? なに?」
「お前一回、ちょっと死んでみろって」
「ええっ!? やだよ、何で俺が……」
「ははははっ! それいーな! マサキ、お前が死んで試せってぇ!」
「や、やだよ……! なんで俺なの?」
「だってお前の職業〈武芸者(ローニン・ウォリアー)〉じゃん」
「……それが何?」
「何じゃねーよ。サムライの仕事はハラキリじゃねーか」
「――はぁ!?」
「ぶっはは! せやせや! お侍さんのメインの仕事は、責任取って切腹する事やんけぇ!」
「マジ草だ! そのとーりじゃねーか!」
「ほらな? だからマサキ、お前が試せって」
「え、ええ……!?」
「ほらぁ! さっさとしろって? ――ほれ! ハーラッキリ! ハーラッキリ!」
「うひゃひゃひゃ! ハラキリコール来ましたこれ!」
「はい! せぇーっぷく! せぇーっぷくっ!」
「ちょ……やめろよぉ……」

 手拍子を叩きながら、文面だけ見ればひどく恐ろしい事を(はや)し立てる。
 その中心にいる気の弱そうなプレイヤーは、立ち上がって騒ぎたてる仲間達を困ったように見比べている。

 そんな馬鹿騒ぎは、消沈したこの場では目に付いて仕方がなかった。
 次第と他のプレイヤー達も興味本位でそこに寄り(つど)った。

「なになに?」
「リスクリが機能してるかどうか、自殺して確かめるってよ」
「なにやってんだか……」
「まあでも、試してみる価値はあるんじゃね?」
「ジャパニーズワビサビ――ってか」
「いやぁ、彼からは大和魂を感じます。これはやりますねぇ!」

 集った他のプレイヤーも好き勝手な事を言いながら、その場のノリに加わっていく。

「ほら! ギャラリーの皆様も期待してらっしゃるぞ!?」
「マサ坊、覚悟決めてやってまえって!」
「えぇ……なんでいつもこういう事は俺なんだよぉ」
「今までだって何回も死んできたろ? 前衛のクセに、お前マジ使えないしよ。今更もう一回死ぬことが何だよ?」
「もしかしたら、死んだら装置外れるんじゃね」
「そうなの……?」
「いや、知んねーけど。だから試すんだってば」
「うーん……」

 元々そういう性格なのだろう――他の4人の言葉や雰囲気に押され、彼はその気を持ち始めた。

「おっ、マサ坊、ホンマにやる気やんけ!」
「いよ! 勇者マサキ!」

 彼は背中の刀を抜き放ち、装束の前を肌蹴させて、その貧相な腹に刃を立てるようにして押し当てた。
 同時に周囲のギャラリーからどよめきが飛ぶ。

 しかし、そのまま硬直してしまう。

「やっぱり、なんか怖いってぇ……」
「はぁっ?! ――何お前? ここまで来たらやれよぉ!?」
「そもそも、切腹ってどうやんの?」
「そのまま腹にブッ刺しゃいいだろーが! お前ヘタレだから、痛覚のフィードバック最小値だろ? 大して痛くもねーってば!」
「で、でもさ……」
「あー、わかったわかった。ほならこうしろや。そこの段差に(くぼ)みがあるやろ? そこに刃先をこっち向けて固定して、俺らがそれ押さえてるから、マサ坊そこに飛び込めや」
「やっさん、ナイスアイデア!」
「な? それなら始めだけ思い切れば、後は自重でブッスリいくやろしな」
「えっと、うん、それならやれそう……」

 段差の窪みに(つか)を置いて固定し、刀が斜めに立つように二人掛かりで押さえつける。
 その切っ先に向かって、彼はその身を晒した。

 再び、ギャラリーが沸き立つ。

「おら、マサキ! ここまでやってやったんだぞ、根性見せろ!」
「わ、わかってるよ、タカハシ」
「なら早くしろよ! ここでやんねーと、お前一生仲間ハズレだぞ!!」

 タカハシと呼ばれた格上のその脅し文句が効いたか、彼は一呼吸の後、鋭い切っ先が待ち構えているその箇所へ――
 思い切ってその身を投げ出した。

 瞬間、周囲から歓声とも悲鳴とも取れる声が発せられた。

 刀の先端はその無防備に(さら)け出された腹へと確実に突き刺さる。
 体重が片寄っていたのも加わり、刃の方向――左脇腹の方へと肉を切り裂きながら抜ける。
 どっと音を立てて、彼のその身は石畳の上にうつ伏せに横たわる。

「……あれ? 死んだ?」
「いや、粒子化してないじゃん」

 静まり返ったギャラリーから、ぼそりぼそりと声が漏れる。

「……おい? マサキ?」

 そのリーダーの呼びかけに、横たわった当人がぴくりと反応を示す。
 ゆっくりと彼は肘をついて起き上がろうとした。

 ――その時、ずるりと、その脇腹から垂れ出る物があった。

「きゃあああっ!!」

 鋭い悲鳴が響き亘った。

「なんだ、ありゃ……?!」
「え? ウソ、あれって……――え?!」
「マジか――おい!? あいつ〝腸〟がはみ出てるぞ!?」

 悲鳴がその場でさらに連鎖していく。
 彼がその左の脇腹から垂らしているモノ――
 それは血と粘液に(まみ)れた、小腸の一部であった。

「……あ……あっ……」

 全身を小刻みに震わせるようにして、不規則な呼吸を繰り返す。
 彼は掌で自身からはみ出ているその内臓の一部を(すく)いあげた。

「あ……アあッ……――アアアアアアアッッ!!」

 か細い震えであった彼の喉は、そのまま絶叫を押し放つ。

「ま、マサキ……?」

 ギャラリー達は身を(よじ)ってその場から半歩退く。
 刀を押さえていたメンバー達も腰を抜かして、石畳の上に血で濡れた刀を放り出す。
 甲高い音を伴って、白色の石畳の上、それはさらに紅を塗りたくった。

 リーダー格だけが、見開いたその瞳で――助けを求めるように手を伸ばす相手を正面に捉えている。

「何あれ――ウソでしょっ?!」
「このゲーム……あんなゴア表現なかっただろう!? 一体なんだよアレ!?」
「敵だって何だって、倒したら一瞬で光に変わってたじゃん?! なんで腸なんかはみ出させてんのよ!?」
「……そりゃ確かに、体から心音は聞こえてくるし……いやでも、あんな所まで作り込むかよフツー!?」

 パニックの体を見せて、騒ぎ立てる無責任な観客達。

「マサキ……? 冗談やめろよ、お前いつだって痛覚のフィードバック最低設定だろ? そんな痛いワケねーよな?」
「イタイ……! いたいよぉっ……!」

 助けを請うては膝で擦り寄る少年。
 タカハシというその相手の眼前へと――腸を長く引き()り、血を撒き散らしながら辿(たど)り着いた。

 だがその茫然自失とした彼の前で力尽きるよう、少年はうつ伏せに倒れ込んだ。
 伏した状態でごろりと体勢を変え、横ばいのまま、それでも手を伸ばす。

 はっとした相手がようやくその間近に突き出された血塗れの腕を取る。

「おい! マサキしっかりしろ!?」
「……いたい……よぉ……タカハシぃ……」
「マサキ! バカお前、こんなのただのゲームだぞ!? 思い込みで痛がってんなよ!」

 膝を付いて相手の手を握り、その少年の顔を覗き込む。

「……たか…………ぃ……」
「ま、マサキ? ――おい、誰か! ヒーラー! 回復使える奴!」

 顔を上げて周囲のギャラリーへと、その切羽詰まった表情を向けた。

「――誰かいねぇのかよぉ!? 回復持ち! ヒーラー!!」
「ああ、オレ専門職だ」

 周囲を取り巻いていた人間の中から、白の法衣の男が手を挙げる。

「マサキに早く回復かけてやってくれよ!!」
「よ、よし!」

 その二人の傍らに急いで近付いたヒーラーが、十字架の杖をかざしてスキルを発動させる。
 緑の暖かい色合いの光が、倒れ伏している彼のその身を膜のように覆い尽くした。

「……あぁ……ぁ……」
「マサキ! お前いい加減その演技やめろよ!!」
「……いたく……なくなっ……て……」
「おい? マサキ……?」

 少年が言葉を口にできたのは、そこまでだった。
 ぐったりと力なく崩れゆくその身体。
 瞳孔が開き切ったその瞳にも、光が戻ることはもうなかった。

 治癒魔法を申し出ていた男がかざしていた杖をゆっくりと収める。

「おい! なんでやめるんだよ――てめっ!」
「だって、もう彼……」
「――ああ!? いいから続けろよ!!」
「無理だって。そもそもこのゲームのスキルに、瀕死の重傷から(たちま)ちに快復できる呪文なんて存在しないし……」

 見開いた目で再び視線を戻して、その膝元の亡骸(なきがら)()っと捉える。
 (しば)らく沈黙を保っていたギャラリー達がひそひそと話し始めた。

「……死んだの?」
「ああ。どう見ても事切れてる……」
「だって、死体が粒子化してないじゃない。どういう事よ」
「……そういう事だろ」
「ええっ?」
「クリスタルが壊れたら、もう俺たち復活できないってか」
「嘘……何それ……」
「あの子、どうなったの?」
「死んで……どうなるんだ? 俺たち、今この世界で死んだらどうなるんだよ……?」
「現実に戻れるのかな」
「――そうなの?」
「こっちの肉体が亡くなったら、向こうに戻れるんじゃ……」
「こっちの肉体って何だよ? そもそも全部が錯覚の筈だろ」
「じゃあ、その錯覚で死んだら……?」
「そ、そんなのっ……」

 それは、あまりに静かな狂気だった。
 平静を保っている風に見えて、今この場の全員が少なからず歯車の狂った考えを(らち)もなく堂々巡りさせている。
 結論が出ない――その事象が、ともすれば狂ってしまえた方が楽だとすら思わせる。

「志緒――」

 そう縋るように呟いた恭弥の顔を覗くと、青白く強張っている。
 増山も、あの香坂でさえも、今にも卒倒しそうな顔色だ。

「冗談じゃねぇぞ、こんなの……」

 志緒も、行き場のない感情をそう吐き捨てるしかなかった。

「――貴様らッ! 何をやっている!?」

 その時、年季の篭った凄みのある声が広場に飛んだ。
 その場の全員がぎょっとして見遣れば、広場の端から衛兵の集団が足並みを揃えて向かってきていた。
 その中心には、一人だけ兜を脱いでいる兵士がいる。
 鎧の細部のデザインが周りとは違う。――おそらく警備部隊の主任か何かであろう。

「衛兵隊だ」
「あの真ん中のって帝都の警備隊長だっけ?」
「確かバシウスとか言った、めっちゃ強い奴」

 囲んでいたその人垣の輪が一部だけ割れる。
 そこから鎧の集団は重厚な足音を響かせて侵入する。

「何事だ――これは!?」

 禿げ上がった前頭部に筋を浮かせて、その太い首を動かし、ざっと周囲を睥睨(へいげい)する警備部隊の長らしき中年の男。
 まず輪の中央――血塗れの仲間を抱く少年を険しい目で捉えてから、順を追うようにその外郭で腰を抜かしている3人の少年と血塗れの刀に一瞥(いちべつ)をくれた。
 そこからさらに周りを取り囲む群集へとその剣幕は続いた。

「我ら帝国の市民を手にかけたのか!?」
「ちげーよ……じ、自殺だよ……」

 ぼそりと人垣のどこからか、そんな声が響いた。

「……何?」
「そもそも、死んだのも俺達の仲間だしな」
「そ、そうだよ……。衛兵隊の出る幕じゃないだろ」
「――どういう事だ、それは!?」

 その目付き、風格、声の張り、それら全てが周りのプレイヤー達を真っ向から圧倒している。
 それ故、プレイヤー達は前には進み出ずに、人垣に紛れながら野次だけを飛ばす情けない姿となっていた。

「この死体がクリスタリアンであると、そう言うのか――貴様ら」
「そうだって言ってるだろ」
「馬鹿な……!? 貴様らクリスタリアンは不死であろうに!」 

 その質問に答えられる人間は流石に居なかった。
 警備隊長はまた一同を舐めるように見渡した後、ふと倒壊したクリスタルに目をやって、その眉を(しか)めながら何事か思案する。

「この者が自ら死んだという話は? ――(まこと)なのか?」
「自らっていうか、まあ……その……」
「でもさっきのって一応自殺でしょ?」
「だよなあ」

 周りの者たちは、揃って歯切れが悪い。

「おい貴様、その者の関係者か?」

 輪の中心で亡骸を抱えて膝を付いているその相手に向かって声を掛ける。
 だが彼は茫然自失とし、返事をしない。
 次いでその鋭い眼光が、少年達の隣に未だ寄り添っていたヒーラーの男へと当てられる。

「貴様は? どうなんだ?」
「い、いや、俺はあの、この子達とは関係ないです。ただ、回復呪文で治療しようとしただけで」
「何があったか、見ていたのか?」
「まあ、一部始終は……」
「貴様らは?」

 血で汚れた石畳の上で腰を抜かしてる3人も睨みつける。
 だが少年達は、先程からガタガタと打ち震えているだけだ。

「この場の5人を全員を連行しろ」
「――オレもですか!? だからオレは全く関係ないんですってば!」

 とばっちりを受ける男だったが、その決定に異を唱えようとするプレイヤーはこの場にいない。

「貴様らもさっさと解散しろ。いつまで広場を占拠するつもりだ」

 その鋭い一喝を受けて、徐々に人垣からは人数が抜けていく。

「なんだよ――あいつ、偉そうに……」
「NPCのクセしてよ」
「でも凄く強いって噂だよ? 面白半分で斬りかかった連中、全員が返り討ちだったってさ」

 それでも未だ、この状況を最後まで見届けようとそれなりの数のプレイヤー達が残った。 
 志緒達もその内の一人だった。

「てめぇら! 何しやがんだよ!?」

 と、衛兵達がその亡骸を回収しようとした所、あのリーダー格の少年が食ってかかる。

「マサキをどうする気だ!? 触んじゃねぇ!」

 攻撃的な素振りを見せて、立ち上がった。

「なんだと――」
「大人しくその遺体を渡せ!」

 それに触発されたように、衛兵たち側も色めきたっては声を荒げた。

「マサキは俺達のダチだぞ!? てめぇらが好き勝手していいと思ってんのかよ! ――おらぁ!」
「こいつめ……!」

 だが、剣呑な雰囲気を際立たせる衛兵を制すように、先程の隊長が静かな迫力を滲ませて少年に歩み寄る。

「どのような事情があるか知らんが、陛下の膝元であるこのシルヴィカッツを血で(けが)しておく訳にはいかん。小僧、遺体をこちらに渡せ」
「――あァ!? てめっ――さっきから偉そうなんだよこのハゲ!! NPCが調子こいてんなよ?!」

 逆上した少年は、遂に腰に挿した二本の小剣(ショートソード)を抜き放った。

「おい、何のつもりだ!?」

 それを受け、後方の衛兵達も腰の剣に手を掛けて臨戦体制を取る。

「やなっ! こばっ! ひがしぃ! コイツらぶっ殺すぞ!!」
「ちょっ――タカハシ」
「NPCとケンカしてどーすんだよ?」
「はあぁ!? ビビってんのかよ、てめぇら!?」
「別にビビってねーし……」
「タカハシ、お前何やっとんのや?」
「マサキを守るんだろうが!? いいから援護しろよぉ!!」

 その凶暴ながなり声に、少年達はびくりとして立ち上がった。
 マサキという少年の遺骸を勝手に持っていかれる――ともかく、その事実に対して不満を抱いているのだけは一緒のようだ。

 剣を引き抜いた衛兵達が一斉に構えを取る。
 一時期は収まり掛けていたその状況の急転に、未だ多く残っていたギャラリー達も緊張の糸を引き絞らせた。
 だがあろう事か、少年はここに来てさらに問題を大事にする呼びかけを行った。

「――おい!! 周りのおめぇらもよぉ! こんなNPCに偉そうに命令されて、なに素直に従ってんだよ!?」

 少年は周りで遠巻きに見ているプレイヤー達へ、そのがなり声を飛ばす。

「俺達がNPC相手に下手に出る必要なんてどこにあるよ!? ――あぁ?!」

 どうも衛兵隊の数が数なだけに4人では分が悪いと判断したようだ。
 この場のプレイヤー達を味方につけようとする。

「何言ってんのアイツ……?」
「でもまあ、衛兵達っていつも偉そうだし、正直ウザイよな」
「そういうプログラムだろ」
「……ならいいんじゃね?」
「え? どういう……?」
「こいつらぶっ殺して、俺らで帝都奪う?」
「はは、何それ」
「でも何か、俺らってナメられてるよな。特にこいつら、帝国兵とかいうNPCにはさぁ」

 空気が僅かずつつ、変化していく。
 隊長格のその迫力に押され、反射的に従順さを見せていたギャラリー達だが、この場では衛兵隊よりも自分達のが多いという事に気がつく。
 ましてや相手はNPCというモブであって、自分達はプレイヤーという主人公であるという認識が根強くあった。

 次第とその人垣から離れ、剣呑さを(かも)しながら前へと進み出てくるプレイヤーが現れ始めた。

「貴様ら! 我々と真っ向から対立しようとでも言うのか!」
「放浪者共、どういうつもりだ!?」
「隊長――こ奴ら、我らに歯向かう気です!」

 広場ではあろう事か、群衆が衛兵達を取り囲む勢を見せ始めていた。

 その中心でどこか怯えの色が強かった少年達が意気を芽吹かせる。
 単純な心理ながら、多数というその精神的作用は強力なものだ。

 険しい顔付きで――それでも冷静に事に臨んでいた警備隊長までもが、そこに来てとうとう剣を抜き放ってしまう。

「我が帝国と戦争でも起こすつもりかッ!? ――このうつけ共が!!」

 肉厚な広剣(ブロードソード)を上段に構えた隊長が、先程までとは違った重く冷たい殺気のようなものを漂わす。

「や、ヤバくないか――これ……」

 増山が左右を(せわ)しなく振り向きながら、逼迫(ひっぱく)した声で囁く。
 志緒達はその流れの中に取り残されていた。
 無論、志緒達以外にも状況を見定めようと動きを取っていない人間はいる。
 だが今この場の状況が、それをすら飲み込んでしまっている。

「……増山、ウルフレイド帝国の総人口って幾つだ?」
「こ、こんな時に何言ってんだ」
「幾つだ?」
「えっと、帝国は全土を支配してるから、この大陸そのものの人口だぜ? 5億は下らないっていう設定だけど……」
「そうか」

 状況は今にも限りなく危うい方へと転びそうだ。
 まるで無益だというに、群集心理というものか――特に現代日本で育った彼等にはその習慣が根深く染み付いていた。

 だがそんな中――
 他人から誤解を受けようとも、安易に人に沿うという事が根本的に出来ない志緒という人間だけが、足取りを確乎とし自らの意思で動く。
 にじり寄るかのように衛兵隊との距離を徐々に詰める群衆を追い抜き、志緒は一触即発とすら形容できる少年と隊長の許へと泰然とした動きで迫った。

 対立する二方向の流れしか無かったその内より現れた志緒という異物に、その場の全員が虚を衝かれた。
 そして志緒は、この現状を引き起こした張本人たる少年の腕を掴み上げた。

「なんだ! てめっ――何すんだよ?!」

 その凄まじい握力で有無を言わせず、睨み合う両者の距離を引き剥がす。

「やめろ、この馬鹿が」
「――あァッ!?」
「状況が一つも見えてねぇのか」
「んだよ――おい!?」
「今お前が喧嘩を吹っ掛けてんのは帝都の警備隊じゃねぇ、帝国そのものだ。この大陸を支配してるウルフレイドっていう存在の規模、それ本当に頭に入れた上で喧嘩しようとでも」
「は、はぁっ?! 何をごちゃごちゃ……!」
「総勢5億人からなる帝国全土――そこと戦争する気かって訊いてんだ? 仮にこの場の衛兵全て倒せたとして、城や付近の砦から増援は幾らだってやって来る。事が大きくなりゃ、その他の都市や街からだって派遣される。対して、俺らプレイヤーの総数はどうだ?」

 強い意志に基づいた淀みない口調が、静まり返ったその場に響く。

「お前等もだ! 帝都を奪う? ――寝言を言ってんじゃねぇ。数に()されて、蜘蛛の子を散らすように逃げ回るのがオチだろうが。帝国が支配しているこの大陸中を」

 顎を上げ、周りを取り囲む群衆もその鋭利な視線で切りつける。

「そもそも、俺達の状況はもうこれまでとは違う。俺達はもう、何回だってコンティニューできる無敵の存在じゃねぇ」

 敢えて皆が触れないでいたその核心を構う事なく衝いた。
 揺らぎが、まるで波紋のように拡がっていく。

 今一度、腕を掴みあげている眼前の少年へと視線を戻す。

「今ここでその身に刃を受ければ、俺達がどうなるかぐらい……きっちり見てたろう? てめぇがさっき、面白半分でそう仕向けたあの子がどうなったかを」
「……!?」

 その言葉が何よりの止めとなった。
 少年は二刀の剣を取り落とし、また茫然自失とその場に膝を付いた。
 そして群衆からも、刺々しさはとうに抜かれている。

 それを以って、衛兵隊の面々も顔を見合わせながらも次第と剣を収めていく。
 そもそもこの場で武器を抜き放っていたプレイヤーはこの少年ただ一人だ。その彼の害意が消えた事で、事態は容易に収束する様を見せた。

 遺体は回収され、少年達は衛兵に連行されていく。

「おい、貴様」

 未だ凄みを宿したあの警備隊長が、志緒の肩に手を掛けて振り向かせる。

「まるで解らんクリスタリアン共にも、ちゃんと考えが巡る人間はいるようだ。この場は賞賛しておく」

 志緒は舌打ちし、強引に肩を動かしてその手を外させた。

 人垣は既に無くなっていた。
 恭弥達の許へと戻る。

「志緒、無茶するよ、ほんと……」
「は、はは……。でも奥崎のお陰で最悪の事態は(まぬが)れたな。今の俺達のこんな状況下で、帝国と対立しちまうなんて馬鹿過ぎるぜ」
「ふぃー! 俺マジ緊張したわ」

「――香坂! 藤堂!!」

 その間際、広場の端から志緒達に向かって走り込んでくる人間がいた。

「お? ――って、あれ氷川じゃん!?」
「ホントか? 氷川?」

 相変わらずに人目をひく服装の氷川が、手を振りながら走ってきた。

「広場で騒ぎが起こってるって聞いて見に来たら、奥崎の姿があったから……! 良かった、藤堂達も取り残されてたんだ……」

 呼吸を整えながら、氷川は両膝を手で押さえるように身を屈めた。

「ねえ? 一体、どうなってるのコレ? ログアウトできなくなって、もう一日……それに何より、わたし達のこの身体――何か変なの……」

 不安を湛えた瞳で、氷川は言葉を矢継ぎ早に飛ばす。

「分かってる。ただ一体全体どうしてそうなっちゃったかは、俺たちにだって……」

 恭弥が力無く呟くように返答した。

「……そっか。うん、そうだよね。皆も状況は同じだもんね。ごめん、なんか取り乱しちゃった」
「まあ、こんな状況じゃ仕方がないぜ」

 増山が、努めて明るくそう声を掛ける。

「ねえ、私も藤堂達と一緒に居ていい……? こんな状況だし、同じ学校でリアルに知ってる人間と一緒の方が……ほら、あれでしょう? だから……」
「うん、その方が良い。みんなも異存ないよな」
「モチよモチ! つーか氷川、一人でここに来てたん?」
「ううん。今まで、ゲーム始めて直ぐに声掛けてくれたグループとずっと一緒に遊んでたのよ。でもあいつ等、今まで散々格好付けてたくせに、この状況になった途端、まるで情けないのよ? 八つ当たり紛いから仲違いまでしちゃってさ。それに何だか……――ともかく、そんな感じだったから、独りで抜けてきたの」
「まあ、俺達もちょっと前までは結構そんな感じだったけどな。特に宮歩のやつとか」
「そっか。えっと、篠宮達も一緒に居るのよね」
「今は宿にいるよ」
「オッケーオッケー!! これで人数がちょうどになったじゃーん!」

 そんな折だ――
 またして志緒達に近付く人間がいた。

「失礼を。――『シオ』様でございますね?」

 いきなり他人に下の名前を呼ばれて、志緒は眉間に皺を寄せた。
 見遣れば、給仕服のような格好をした若い女性が、行儀よく一礼を示してその場に佇んでいる。

「我が主がお話をしたい申されまして。お手数ですが、こちらまでご足労を願えますでしょうか」

 そう言って女が広場から続く脇道を指し示した。
 そこに一台の馬車が停めてある。
 仕切りのようなもので、その窓から中は窺えないが、相当に豪奢な造りだ。

「志緒の知り合い? ……訳ないよな」

 女はどう見てもアルドランだ。――そもそも、志緒はこのゲーム内で知り合いなど恭弥達以外にいない。

「申し訳ございませんが、『シオ』様お一人にて」

 そう念を押すようにして女はまた深々と頭を下げた。

 少しの警戒の後、志緒は恭弥達を振り返った。

「悪い、先に宿に戻っててくれ」













「お久しぶりですね――」
「あんたは……」

 馬車の中には、(きら)びやかな軍服を着た麗人が待ち構えていた。
 ウェーブの掛かった長い金髪と女性と見紛う程に整った面立ち。
 一度会っただけととは言え、確かに知った人物だ。

「確か、オルクトルとかいったか」
「名前まで憶えておいででしたか。嬉しい限りですよ、シオ様」
「あんたも、よく俺の名前なんかを」
「記憶力には自信がありましてね。それにこの世界に来訪する放浪者(ワンダラー)達を把握するのが私の仕事ですので」

 その男はこのゲームで初めてまともな会話をしたNPCであり、ギルドへの登録を担当したあの書記官であった。

「あんたが、どうして?」
「いえ、御礼をと思いましてね」
「……何?」
「先程の広場での一件、拝見しておりました。危うい状況を見事に収めて頂き、帝国人を代表して御礼を申し上げたく」
「別にあれは、自分達の今後の為にやった事だ。あんたに礼を言われる筋合いはねぇよ」
「しかし、結果的に貴方は我々アルドランとクリスタリアンとの(いさか)いを取り払ってくれました。無闇な争いや混乱は、市民の生活にも悪影響を及ぼしかねますので、その事に対してはきっちりとした御礼を」
「真面目なんだな」
「ええ、よくそう言われます」

 貴人はそこで、場の空気を変えるようにその長い足を組み替えた。

「それで良ければ一つ、お話を伺いたいのですか……宜しいでしょうか?」
「改まって何だよ」
「先ほど広場にて、貴方は、自分達がもう不死ではないという旨の発言をしていらしゃった。……真でありましょうか?」
「あの倒れたクリスタルが見えるだろ。その所為で、もう俺達は復活する事ができねぇようだ」
「俄かには信じられませんが……しかし、確かに貴方達はクリスタルによって記憶と人格を宿したまま生まれ変わっていた。そのクリスタルが無くなってしまえば……成る程、そのような道理も頷ける訳ですか」

 相手に向かってというよりは、自分の中の思考を口に出すという素振りで言葉を連ねている。

「創世紀よりも前から存在したという、決して壊れる事のない『青水晶(クリスタル)』。それが僅か一日で、この大陸に存在していた全てが共々に砕かれた。一体どういう現象なのか」
「大陸全ての? クリスタルはやっぱり、全部が壊れてるのか?」
「ええ。この大陸――いえ、おそらくこのアルドヘイムに存在する全てのクリスタルが破壊されているのでしょう。各街からの早馬や、術式を用いた念話にて、その報告は届いて来ています」
「そうかい」
「そう言えば、不死で無くなった事と果たして関係があるのか、街ではクリスタリアン達が食料や水を買い込んでいるそうですね」
「……まあな」
「貴方達は(ろく)な食事も睡眠も取らず、ただ定期的にクリスタルで出来た(まゆ)へと篭っていた。……成る程、確かその繭すらも今は壊れてしまったのですね。その繭に篭れなくなった貴方達は現在、我々と同じ基準の生活を送らざるを得ない訳ですか……」
「はっ」
「何かおかしな事を言いましたでしょうか?」
「いや、あんた等NPCからはそういう風に見えてたのかと思ってな。確かに立場を変えてみりゃ、その通りに映るか」
「……『えぬぴーしー』ですか。クリスタリアンの貴方達は、よく我々をそう呼び表しますね」
「まあ、こっちの話だ」
「そうですか。ではもう一つだけ。老婆心(ろうばしん)ながら、シオ様――今後はどうかお気をつけを」
「どういう意味だ」
「おそらくこの先、然して間もなく、我々とクリスタリアンとの関係は一新される事でしょう。我々にとって不死でなくなったクリスタリアンは、最早〝利益〟の対象ではないと言う事です」
「利益の対象?」
「そうです。そして同時に、貴方達はもう〝恐怖〟の対象でも無くなったという事です」
「…………」
「お解かり頂けませんか? けれど聡明な貴方様なら、きっと直ぐにも気が付かれる筈ですよ」

 そう言ったオルクトルは、馬車のドアを開け放って(うやうや)しく掌を(ひるがえ)す。

「もう行けってか? 相変わらず、こっちの質問にはまるで答えねぇんだな」

 苛立たしげにその鋭い険を垣間見せるも、麗人は薄く微笑むだけだ。
 放り出されるようその馬車の外に出ると、御者は鞭を操り、馬達を走らせた。

 どこか不穏さを乗せて、遠ざかっていくその馬車。
 そこから志緒は目を離した。
 そして、自身の内面と迎え合わせるかのように、次第と暗雲が立ち込めつつあるこの空を仰いでいた。

 虚像(ニセモノ)である筈のその光景を。