居間のテレビ画面に、眉目秀麗(びもくしゅうれい)ないかにもな華をもった男が映っている。
 道場からの稽古(けいこ)帰りで疲れた体のまま、それを眺めていた。

 画面内では幾分テンションの高い女性リポーターが、件の男性に〈密着取材〉と称して必要以上に絡んでいる。
 目鼻立ちが整っていて、物腰にも色香が残るような、有り(てい)に言ってもかなりの色男だろう。同性である自身から見てもその魅力は損なわれない。
 さっきから喰い気味に迫る女性リポーターにも、不快さを全く感じさせない柔らな対応だ。
 慣れているというだけでなく、自分がどう振舞えばよいかを(わきま)えているクレバーさが(うかが)えた。

 しかし、画面下側に〈A&IS(エーアンドアイエス) 取締代表 苑宮(そのみや)賢一郎(けんいちろう)〉という字幕(テロップ)が貼り付けられている事に、少なくない驚きを覚えた。

 てっきりどこかのイケメン俳優の類だと思っていたので、字幕の通りであるならば芸能人ですらないらしい。
 同時に、その〈A&IS〉という会社の名前自体に対しても強い関心を惹かれた。

『――と、言うわけなんですねぇ。えー、今日(こんにち)まで革新的な技術によって様々なソリューションを手掛けてきた、今や世界規模のブランドともなったA&IS! そんな苑宮社長率いる新時代の担い手であるA&ISが、新たに参入しようとしている分野、それが何とゲーム業界であると! えー、ゲーム――つまりテレビゲームの世界に、また新たな風を吹かせる。というわけなんですね、苑宮社長』
『ははは、テレビゲームって言い方はもう古いなあ。年齢がバレちゃいますよ?』
『えぇ?! ちょっとやめてくださいよぉ! そういう事言うのは』
『いや、失敬。もちろん冗談です』
『ほんとですかぁ?』

 そんな風なバラエティ調で、テレビの中では取材という名目の緩い掛け合いが続いている。

『まあ、テレビゲーム――つまりコンシューマー向けのゲームではなく、ソーシャルネットワークを基としたコミュニティ主体の、詰まる所のオンラインゲームですね。今回、我々はその分野に新しくお邪魔させて貰ったというべきで』
『これまで、A&ISの研究部門で(つちか)われた様々な新技術を提携によって世に送り出してきたわけですが、今回もモチロン! 世界が注目して止まないような新時代の技術がお披露目(ひろめ)となるわけですね?』
『先に言っちゃいますかそれ』
『えーはい、こちら、クリップボードの方にも書かれているんですが、ズバリ! 〈仮想現実の世界 ヴァーチャルリアリティの究極系〉と題されてまして』
『ええ。(おおむ)ねこれらの言葉の通りですね』
『何だか仰々(ぎょうぎょう)しくもありますが、つまりこれと今回A&ISが参入を果たすゲームとに一体どういう関係が?』
『そうですね。VRゲームの進化というのが近年凄まじい成長を果たし、度々その事が話題に上ることも尽きないわけですが、それでも結局の所、それは画面内で完結しているに過ぎない事象なわけです』
『は、はあ……』
『ですが、我々が今回開発に成功した新機軸のシステムを用いれば、まるで現実の世界で体感するかのように、視覚や聴覚のみに留まらず、嗅覚や味覚、触覚などの五感全てに作用し、果ては痛覚などの神経にまで影響を及ぼす事が可能となるギミックが現実の物となったわけです』
『えぇっと、つまり……?』
『まさに〝仮想〟の現実。こうして、私があなたと顔を合わせて喋っている今のこの現実を100%の再現度でゲーム内においてトレースさせられるという事です。つまり、虚構である(はず)のゲームに極限のリアリティという説得力を持たせる事ができるようになったのです』
『なっるほどぉ! まさに仮想現実――ヴァーチャルリアリティというわけなんですねぇ!』
『ははは、本当にわかってます?』

 テレビ内は(なご)やかな雰囲気ではあるが、途轍もないレベルの話をしているという事ぐらいは判別できた。

『具体的にですね、どういった新技術を今回A&ISは誕生させたのでしょうか?』
『人間の意識を(つかさど)る脳の伝達機能が、ごく微細な電気信号によって形成されてるというのはもはや周知の事実でしょう。盲目の人間の脳組織――シナプスですね、そこに人工的なパルスを発生させて視覚情報を取り戻させるという治療方法がありますが、根本的にはこれらの技術と同系統です』
『はい』
詳述(しょうじゅつ)するとまた違う話なのですが、端的に言えば錯覚という現象でしょうか。(にせ)の信号を用いて、脳をその気にさせてしまうという具合です。我々はこれらの技術を〈ACストラクチャー〉と呼んでいます』
『ACとは何かの略称でしょうか?』
Air(エアー) Castle(キャッスル)――空中楼閣(ろうかく)、白昼夢の事ですよ。覚醒した意識のまま夢を見せる装置と言えばお分かり頂けますかね』
『夢? なるほどぉ、まさに夢のような技術。何と言うか、SFの世界のようなお話ですねぇ』
『ええ、本当に。ずばりサイエンスフィクションの設定を実現可能としたわけです。時代が――というより技術が、それに追いついてしまった稀有(けう)な例と言えるでしょうか』
『またしても! 世界を震撼(しんかん)させるような事をA&ISはやってしまったというわけですか』
『んー、ははっ、どうなんでしょうね。ともかく、今回世界的知名度を有するアメリカの大手ゲームメーカーであるロックビルソフトワークスとの提携により、これらの革新技術を活かせる大規模なオンラインゲームシステムの形成が可能となり……』

 その時、買い物から帰ってきたであろう母親が慌ただしい足取りで居間へと姿を見せた。
 そして稽古で汗をかいたままの状態である自分を見つけるや、非難がましくシャワーを浴びてくようせっつくので、結局そこまでしかテレビの画面を見ている事ができなかった。

 先程から出ずっぱりある「A&IS社」という単語がひどく気に掛かるが、母親の小言の方が鬱陶(うっとう)しいというのも事実だ。
 不満を覚えつつも、しかし熱いシャワーでも浴びてしまえばそんな事はすぐに忘れてしまうだろうと。

 あるいは、一時的にそうやって意識の外に追い出そうとしていた。













 奥崎(おくざき)志緒(しお)は都内の高校に通うごく普通の17歳だ。
 少なくとも彼は自身をそのように捉えている。

 人から言わせれば、普遍的な高校生という部類から逸脱(いつだつ)している。
 だが当人がその自覚を持ち合わせていないというだけの話。

 丸刈りの頭部、険のある鋭い一重まぶたの眼元、眉間にはいつも(しわ)が寄っている。
 本人は凛々(りり)しい顔立ちであると思っているらしいが、言ってしまえば単に人相が悪い。

 勉強は得意でもなければ不得手でもなく、成績も平均を行ったり来たり。
 運動能力にだけはそれなりの自信を持っているが、かと言って進んで人前で立ち振る舞えるような器量でも性格でもない。

 部活動には所属していないが、近場の道場にて古武術を習っている。
 小学校高学年の折、興味本位で戸を叩いた近所の道場の扉――「古武術」という単語に惹かれ、どんな(いわ)く気な白髪の仙人が出てくるかと期待してみれば、道場主はプロレスラーかと見紛(みまが)筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)とした中年男性だ。
 稽古の内容も胡散(うさん)臭い修行法などではなく、実に合理的で近代的な肉体の基礎作りが主であった。
 お陰さまでか、志緒は良い筋肉の()き方をしている。生地の厚い学生服の上からもでも判る程、彼の肉体は鍛え込まれていた。

 今日も高校までの片道6キロを自転車で10分切って難なく走破してきた。
 ちょっとした記録だ。

 そんな彼に、校内の駐輪場にて気安く声を掛ける輩が一人。

「おはよう、志緒」
「おう」

 はっきりと整った顔立ち、それが豊かな表情と相成って、爽やかな好印象を自然と周りに与える。
 志緒とは小学校以来の昔馴染みである藤堂(とうどう)恭弥(きょうや)だった。

 恭弥は大きく掲げた右掌を突き出すも、そのままの状態で放置される。
 ハイタッチでもして貰いたかったのだろうが、あえて志緒は無視を決め込んでその場を後にする。
 そんな態度の志緒に、恭弥は後ろから強引に肩を組んでべったりと添う。

「なんだよーもう! つれないなぁ!」

 生まれつきの猫っ毛を長く伸ばし、風にふわりと(なび)く様が似合うという類稀なるイケメンだ。
 そんな恭弥と凄みのある強面の志緒とのコンビは、やたらとちぐはぐに映る。
 だがこういう振る舞いが厭味(いやみ)にならない程、気心が知れた仲というわけだ。

 毎度のように他愛ない話を取り留めなく広げながら、同じ教室へ。
 始業時間にはまだ猶予(ゆうよ)はあったが、それでも彼らの教室には既に過半数の生徒が見受けられた。
 その上、喧騒ともとれる程に興奮した様相がクラス内を塗り固めていた。

 だが周囲の事にあまり頓着(とんちゃく)しない志緒は何事もなく自分の席へと向かう。
 そんな彼に、右隣で数人と大声で談義していた一人が、さも気さくに声を掛けてきた。

「お、奥崎ちゃーん! ブレドンの話、もう聞いた!?」
「ブレドン?」

 飛び出てきたその単語に、開口一番で怪訝(けげん)に返す。

「うっそ、マジ知らねーの?」

 不躾(ぶしつけ)とも取れる体で話題を振ってきたのは、隣の席の香坂(こうさか)優太(ゆうた)という男子生徒。
 肩に達するほどの染めた長髪を垂らしてオラついた感をだしているが、人柄はまるで穏やかだ。
 そして相当にお気楽なタイプの性格で、恐らくクラスで一番成績というか頭が悪い。――明るさと気立ての良さが売りのお馬鹿キャラとして皆からは通ってる。

「聞いたこと有るような、無ぇような」
「うっは、マジに知らなかったん」
「おいおい奥崎、かなりメジャーなシリーズだぜ? ブレドン、もしくはBoDCシリーズって呼ばれるゲームの総称でさあ」

 話に無理()りに加入させられた志緒へ、輪のもう一人が説明役を買って出た。
 黒縁メガネが印象的なのは後ろ隣の席の増山(ますやま)幸輝(こうき)だ。
 恰好や言動から、妙にオタク風を吹かせてくる相手という認識が強い。

Blade(ブレイド) of(オブ) Dawn(ドーン) Chronicle(クロニクル)――略してブレドン。累計6作品がシリーズ物として発売されて、全世界での総売り上げ本数は億を上回るっていう超メガヒットシリーズ!」
「そう言われれば、耳にした事ぐらいはあるか」
「――なぁにぃ! 『耳にした事がある』ぅ?! 世界最高峰のゲーム作品であると俺が強く推すBoDCシリーズも、未だこの程度の知名度なのかっ! ちくしょう、泣けてくるぜ」
「あ、まっすんって、チョーがつくほどのブレドンオタクなんよ」

 胡散(うさん)臭い泣き真似までしている増山を親指で示して、尋ねてもいない補足を香坂が付け加えた。

「はっはー。そりゃあ増山、志緒に()いたのが間違いってもんさ」

 鞄を自分の机に置いてきたらしい恭弥も、この輪へと加わる。

「なんたって志緒は、山ん中で熊と素手で格闘するような生活してんだもんな」
「んな訳あるか」

 おどけた表情で、恭弥は親友の私生活をしれっと捏造(ねつぞう)する。

「で、それがどうした? 新作でも出るのか」
「そう――それよそれ! 新作が出るっつー話なんだけどぉ、それがスんゲー事になっちゃってるのよ!」

 話についていけない志緒は一人、香坂の言に眉間の縦皺をさらに深くする。
 そんな彼に向けて暑苦しい剣幕と口調で長々と語りだすは増山だ。

「かつてはPC専用タイトルだったBoDCシリーズ。1作目は超絶ドマイナーな作品ではあったが、コアなファンに支えられて下火が付き、2作3作目とシリーズ化が進み、記念すべき4作目にて堂々と家庭用ゲーム機へとシフト。それにより一気にその知名度が飛躍……! 各部門のゲーム賞を総嘗(そうな)めするビッグタイトルへとっ……!! 過去作のリメイクなども行われ、BoDCは名実共にゲーム業界の王者へと昇り詰めた!! そしてなんと、満を持して送り出される7作目にて、あろう事かBoDCシリーズは空前絶後の大革命を起こしに来た!!」

 最終的には拳を振り上げ、その芝居がかった声を締め括る。

「何なんだ」
「――これだよ」

 辟易(へきえき)としている志緒に、恭弥はスマホの画面を差し出す。
 そこにはニュース系列のウェブサイトが映し出されていた。

「……意識投入型完全体感デバイスの誕生? 時代の最先端へと、またしても日本企業が躍進……他の追随を許さぬA&IS」

 記事をスクロールしていた志緒の手がそこで止まる。
 画面には一人の人物の画像が小さくではあるが映し出されていた。その顔に覚えがある。

「こいつ確か……」
「――苑宮賢一郎な! 〝時代のチョウジ〟苑宮賢一郎!」

 こちらもまた高いテンションで香坂が声を張り上げた。

「なんか最近、よくネットとかテレビとかにも出てるよな」
「よく出てるどころの話じゃねーよ――奥崎ちゃーん?! 今やもう、世界で一番有名な日本人ってワケよこれ!」
「ふうん」
「いや、なにその反応? 俺と奥崎ちゃんの温度差ひどくない?」
「この意識なんたらデバイスってのは?」

 志緒はスマホから顔を上げ、増山へ説明を求めた。

「全く新しいタイプのゲーミングデバイスらしいぜ。ヘッドセットで映像を見せる既存のVRをさらに超越したって話。ネットの一部じゃ、既にダイブ型なんて俗称されてる。俺らの意識そのものに作用して、完全な仮想空間を造りだすとかいう。……ぶっちゃけ、途轍もないレベルの話だよな」
「やっべーよな! 未来だよな? 未来が来たよな? フューチャーカムバックってヤツだよな!?」
「香坂お前、言語が不自由過ぎ」

 恭弥のツッコミで輪内にどっと笑いが起こる。
 志緒も幾分砕けた表情で、再びスマホの記事に目を落とす。

「その新しいゲーム装置でBoDCシリーズの最新作が発売されるって話か」
「そうだ! ゲーム界の王者として君臨し続けるBoDCシリーズを輩出した超大手ゲームメーカー『ロックビル社』と、様々な新技術を研究投資によって世に広めてきた『A&IS社』との強烈過ぎるタイアップ! 確かに、広報戦略としてこれ程に有効な手立てはないぜ」
「A&IS……」
「くぅぅ! まさかのまさかで、待ちに待ったBoDCシリーズの最新作がこんなとんでもないオマケを引き連れてやってくるとは! 感無量だ!」
「夢の最新技術も、ブレドンオタクである増山にとっちゃオマケか」
「無論、とんでもない副産物だってのは解ってる。ただそれでも、俺的にはBoDCが絶対的メインであるというのは譲れん!」
「筋金入りだなー」

 人懐っこい特有の笑みを広げる恭弥。
 と、この場で一人、消沈したかのように静まり返っている志緒に気が付いた。

「どうかしたのか、志緒?」
「いや、何でも……」

 無理矢理に話を切り上げるよう、借りていたそのスマホを相手に渡す。
 何か含むところがありそうな様子に首を(かし)げる恭弥だが、結局その事について触れなかった。

 その後、教室内に予鈴は鳴り響き、がやがやと(うるさ)かったその空気も次第に鳴りを(ひそ)めていった。
 ただ愛想が良いとは言えない志緒の仏頂面がいつにも増して難儀そうであるのは、教壇に立った担任教師ぐらいにしか分からなかったろう。











「さあさあさあ。そんなわけで、早速話題のゲームを予約しに行こう」
「なんでだよ」

 学校での一日を終えての放課後、帰り支度をしている志緒にべったりと絡んでくる恭弥。

「なんでもなにも、こんな世界的一大イベントを見過ごすの?」
「夢のような技術を形にしたってのはすごいとは思うがな。だからって見境もなく飛びつくか」
「そういう事言ってるから、志緒は山篭りしてるなんて思われるんだよ!」
「それを言い(まわ)ってんのはお前だ」
「いいのかよ!? 話題に付いていけなくなっちゃうんだぞ?!」
「興味ねぇな」
「志ぃ緒ぉぉ!!」

 構って欲しいという風に制服の襟を掴んでがくんがくんと揺らしてくる。
 その腕を容易に引き剥がして、志緒はさっさと教室を後にした。
 後ろからは諦め悪く恭弥がまだ追い(すが)ってきた。

 そうして廊下を渡っていた時、隣の教室からちょうど出て来た女子生徒と鉢合わせする形となる。

「あ――恭弥くん達、今帰り?」
「よっ、瑞貴」

 今は隣のクラスで、去年までは志緒や恭弥とも同じクラスだった篠宮(ささみや)瑞貴(みずき)だ。
 広がりのあるショートボブの髪型と、ほんわかとした独特の雰囲気が様になっている。

「瑞貴も言ってやってくれよ。志緒ったら、友達甲斐がない奴でさー」
「二人とも、ほんとに仲良しさんだね」

 瑞貴はさも可笑しそうに口元を緩めた。
 柔らかい声と笑顔、眉が太めで少し野暮ったくもあるが、容姿そのものもかなり優れている。
 また純粋そうなその幼さに反して大胆でふくよかなその胸など、異性を惹きつけるポイントに事欠かない。学校中にも隠れファンが多いらしい。

 だが、志緒は少しこの少女に苦手意識があった。

「瑞貴はゲームとかしないかもだけど、今すっごい話題になってるブレドンの最新作がさ――」
「うん。今は学校中、みんなその話で持ち切り。ていうか、私もけっこうゲームとかやる方だよ」
「そうだっけ?」
「昔から、お兄ちゃんがやってるゲームとかずっと隣で見てたもん」
「いやいや、人のプレイを見てただけでゲーマーを称されましても。なあ、志緒?」
「こっちに振るな」
「まあ、いいか。俺達、件のそのゲーム手に入れるつもりなんだ」
「えっと、新しいネットゲームって話だよね?」
「まあ、間違っちゃいないけど、その『新しさ』が度を越したレベルなんだよ。瑞貴も興味あったらやってみて損はないと思うぞ」
「うーん、そうかなぁ」
「まあ、もしやるようなら瑞貴も一緒に冒険しような」

 毎度ながら素でこのような爽やか極まりなく、輝くような笑顔を見せる恭弥。こちらもまた自覚なく学校中の女子を(とりこ)にしている罪な奴だ。

「じゃあ、もしやるとしたら誘ってね」
「ところで瑞貴はこれからサッカー部の?」
「えっと、うん……」
「大変だな、マネージャーも」
「あはは……。好きで始めた事だから」
「そっか。じゃあ、頑張ってな」
「――あ! その、恭弥くんも……たまにでいいから、顔見せて欲しいかな。みんなも寂しがってるから」
「おっけー、その内に」
「うん。じゃあ」

 恥ずかしがっているというよりはどこか遠慮している素振りで、瑞貴が手を振ってこちらを見送る。
 それに相対する恭弥の笑顔がまるで似つかわしくなく嘘臭いものだった。

 その理由も把握している志緒は、()えてそこには触れなかった。

 校内の駐輪場にて、恭弥はまだ志緒に絡んでくる。
 電車通学である恭弥にとっては、わざわざ校舎から離れたこの駐輪場まで来る理由はない。

「なあ、本当にやんないの? ブレドン最新作」
「一人でやれって」
「志ぃぃ緒ぉ――!!」 

 再びがくんがくんと人の首を遠慮なく揺さぶってくる。

「やめろ鬱陶(うっとう)しい。そもそも、その何たらデバイスっての、相当な値段するんじゃないのか?」
「いや、それがさ、今ちょうどα(アルファ)版のテスターを募集してるって話で」
「α版?」
「まあ言うなら、試験運用のためのテストプレイヤーの事らしい」

 謂わば先行開発版というもの。
 近年に多く見られる公開テストプレイという仕組みだ。

「そのテスターに応募しさえすりゃ、モニターとして諸々(もろもろ)のデバイス込みでゲームが試供されるんだって! 無料、タダで!」
「そりゃ随分な話だ。なんか条件とかは?」
「うーん、どうだろう。取り敢えず15歳から25歳までっていう年齢制限があるぐらしか」
「でも結局、抽選だろう」
「いや、それが希望者全員だってさ」
「……本当かそれ?」
「ネットの話じゃ、A&IS社ってこれまでも相当に(もう)けてるらしくて、新しい市場を開拓するための投資っていう考え方なんだって」
「俺らみたいな庶民から金を巻き上げる気はさらさらないってか」
「というわけで、早速申し込みに行こう!」
「やだよ」
「時代に乗り遅れちゃうって!」
「別にいい。それで」
「親友として、そんなお前を見過ごすわけにはいかない!」
「大きなお世話だ」
「いや、結構マジメな話。お前のそういう部分、俺はちょっと良くないと思うんだけどな」

 そこで少しだけ声のトーンを抑えて、恭弥は前を歩く志緒へと投げ掛ける。

「志緒ってさ、ほら、結構クラスでは悪い意味で目立ってるだろ」

 確かに恭弥の言は(もっと)もで、その容姿を含めぶっきらぼうであまり他人に気を配らない性格故か、志緒は人から誤解を受け易い。

「正直、クラスで志緒に積極的に話しかけてくれる奴、俺以外じゃ香坂ぐらいだろ。香坂はほら、こう言ったら悪いけど、まあ良い意味でバカな奴だからさ。そういう事に頓着(とんちゃく)しないだけで」

 らしからぬ(よど)むような口調で、恭弥は慎重に言葉を探していた。

「俺としては志緒の小難しいその性格は理解してるし、それ以上にそういう部分が志緒の持ち味なんだとも思うんだけど……。でもやっぱ他の人間にとって、そこが倦厭(けんえん)される一番の点であるのは事実っていうか」

 明瞭とは程遠いものの、それでも真摯さのある口調で恭弥は続ける。

「だから、皆にもっと志緒の良さをわかって欲しいんだよ! 愛想がないっていうか、朴訥(ぼくとつ)っていうか。単にそうなだけで、みんな誤解してると思う。もっと付き合いさえしっかりあれば、頼りになる部分とか、機転が利く部分とか、いっぱい良い所が目に付くようになると思う。――ってなわけで、みんなとの距離を縮めるためにも、ここは一つ共通な話題を」
「長々と喋りだしたと思ったらそんな事か。別に今更だし、俺はどうって事ねぇよ」
「それじゃ俺の気が済まないの! 昔馴染みのお前がさ、陰で悪く言われてるの耐えらんないよ!」
「んなもん、陰口しか叩けない人間の品性のが問題だろ」
「そうは言うけどさ……」

 どこか子供の様に面をむくれさせる恭弥。

 何となくではあるが、志緒には理解できていた。
 それは他ならぬ恭弥という人間の性質に根ざしている。

 この昔馴染みは人から好意を持たれる事に関しては天性の分がある。いつだって、彼は多くの人間達の中心にいるような存在だ。
 そういう星の下に生まれたのだろうと思える資質を幼い頃より備えていた。
 純真さとでも言うべき、そういう人を惹きつけ心を許してしまう何かを。
 それは結局のところ、恭弥自身もまた人の良い部分ばかりを見てしまうような典型的ロマンチストであるという事だ。
 そんな彼にとって、一番の親友が悪評にさらされているという現状――きっとこれが我慢ならないのだ。

「気心知れた人間とプレイした方が何かと楽しいってば!」
「……ったく、お前の方がよっぽど難儀な性格だろ」

 そんな勝手な感慨は実際志緒には関係ない。
 それでもそれを理解してしまったなら最後、その勝手な傷心に付き合う事を余儀なくされる。

「これ以上ぐだぐだと付きまとわれるのも厄介だし、わかったよ」
「お? ホントに?」
「一人で遊ぶのが寂しいお前に、仕方ねぇから付き合ってやるよ」
「やふー!! さっすが志緒! 話がわかる!」

 とどのつまり、志緒もまたこの恭弥という人たらしに(ほだ)されている一員に過ぎなかった。

「そんじゃあさ、早速今週末だな」
「今週末?」
「それがさ、なんかテスターへの申し込み自体はネットで簡単に登録できるらしいけど、その審査っていうのかな? 適正検査? ――そういうのをA&IS社の出張ラボで受けないとダメなんだって」
「面倒なのか?」
「どうだろう。ただ、全くの新しいゲームデバイスだからかな。脳へ直接作用する装置だって聞くし、一応、人体への影響とか考慮してるんだって」
「なんか危なくねぇか、それ?」
「そんな深刻に捉える事もないって」

 お気楽にそう言って、恭弥は志緒の分厚い背中をべしっと叩くのだった。



















 自宅に戻った志緒は、居間のテレビにここ最近やたらと目にするようになった人物を再びその視界に収めた。

『僕らのようなね、やはり古い人間と言いますか、そういう手合いにとっては、本当にそんな事が可能なのかという猜疑心(さいぎしん)がですね、えー、晴れないわけですが。苑宮さん、先ほど説明なされたような事ってこれ、現実的な尺度から見ても果たしてどうなんでしょうかね?』
『仰りたい事は分かります。これらの装置はまるで夢物語のようだと。確かに客観的に見ればそのように映るのかもしれません。しかし、現実的な尺度でどうという以前に、すでにこれらのシステムは現実にあるという揺るがない事実を理解して頂きたいのです』
『んー、えー、もう一度おさらいをしますとですね、今回A&IS社が開発に成功したというこのACSというデバイス、所謂、人間の意識の中に完全な仮想空間を作り上げるという事で、しかもそのスペース――意識の中では現実世界で起こるようなあらゆる感覚、刺激等を再現できると。しかもそれらの意識をネットワークで他者と繋げる事もできるという話で。えー、大変、驚異的な発明であるわけですね』

 今回はワイドショー仕立てで、件の苑宮という男、そしてそれに相対するように複数の著名人が議論を飛び交わせていた。

『そのー、ですね、やはり人体への影響という観点からも、ここは深く立ち入ってお話を伺いたいと思うのですが。本当に、このー、人間の意識にダイレクトに作用するような装置を使用する事による、えー、つまり、害というものは、本当に無いのでしょうか?』
(わず)かな害すらもが完全に無いとは言い切れないでしょう。優れた技術であっても万能ではありませんからね。ただ元々これらの技術は医療行為の一環として生まれ、研究が進められてきたものです。その点からしても、使用者に重大な障害が残るというような事態は末梢(まっしょう)的です。何より、それらの問題はここに至るまで重点して検証されてきました。無論の事ですが、これらACSが実用段階に入った折に、多くの被験者を雇い数年に亘る安全証明がなされています』
『そうですか。えー、こちらが件のACSデバイスの正規品、の見本ですかね? 市販されるまでには、まだ改修などされるそうですね』

 画面の中、そう言った司会進行を務めている人間が、カメラに向けて銀色のヘッドセットや青白い蛍光を放つ複数の設置型の機器を指し示す。

 その後もまだ幾つかの質問は繰り返され、苑宮という男は流れる様にその問い掛けに答えていく。
 毅然としていて魅力的な、カリスマという言葉がぴったりな風情だ。

『んー、やっぱり、(にわ)かには信じられないというのが正直な感想ですねぇ』
『ええ。そういうものだと理解しています。これまでの概念を塗り替えるような全くの新しい技術――そういう物は得てして、理論や言葉で定着するものではないと思っています。悲しいかな、始まりはいつだってそのように疑念や嫌悪を伴って槍玉に挙げられるものなのでしょう。しかし私は、いずれはこれらの技術がごく当たり前に人々の(かたわら)に存在する日が来ると信じています』

 時代を動かす人間――あるいは単純に天才といわれる部類は、往々にして人から理解されないものだろうと、そう少しだけ志緒も察していた。


 と、その時、廊下の奥、2階へと続く階段から足音を聞いた。

 ゆらりとした人影が、次第に居間の曇りガラスの戸の向こうに映る。
 そして戸を開け、幽鬼か何かのようにまるで覇気のない足取りで居間へと姿を見せた人間が一人。
 ぼさぼさの髪と痩せ細った四肢、幽鬼と称したのも(あなが)ち的外れではない様態だ。

「兄貴……」

 その人物に、志緒は上擦った不自然な声を掛けていた。

「……」

 けれどもそんな志緒へと、相手は陰鬱(いんうつ)な目で一瞥(いちべつ)をくれるだけで口を開こうともしない。
 そうしてまるで無気力に冷蔵庫を漁り、飲料水など引っ掴んで来た道を戻っていく。
 動作全てが吹き溜まりの泥水のようだ。

 志緒はそんな縹渺(ひょうびょう)たる背中をただ黙って見送る。
 彼の七つ違いの兄である克司(かつし)のその後姿を。

 天才――と、かつてそう呼ばれる人間が志緒の間近にも居た。
 それが克司であった。

 工業高に進学した克司は、15歳にして国家資格である情報技術検定の一級特別表彰――顕彰制度による経済産業大臣賞を取得した事で、地方の新聞にも取り上げられ、町内を賑わした事もある。
 その後も電子工学の分野に進み、東工大を主席卒業など話題に尽きる事はなかった。
 そして克司は研究員として民間企業に就職した。

 果たしてそのせいであったのか、少なくとも彼という天才の凋落(ちょうらく)はそこから始まった。

 詳しくは分からないが、会社にて何か大きなトラブルがあったらしい。
 志緒が憶えているだけでも、幾日も家に帰らなかったり、たとえ戻ったとしても、ひどく頭を悩ましたり、イラついていたり――ともかく尋常の様子ではなかった。
 その(あお)りを受けたのか、体調を崩し、次第に精神までもが削り取られていった。
 統合失調と診断され、向精神薬()けの日々を一年ほど過ごし、その合間で会社も都合退職している。

 以来、こうして引き篭もりの状態だ。

 両親も克司に対して、どう接していいか分からないという有様。
 天才と呼ばれ持て(はや)された分、挫折に慣れていないのだろうと人事のように父親が話していた。

 その発言に志緒は内心穏やかではいられなかった。
 自分達なんかとは比べ物にならないほど頭が良い兄の事を志緒は誰よりも尊敬しているし、誇りだと思っている。
 だからそんな兄が抱える問題は、世間一般で済まされるような程度の低い物ではない筈なのだ。もっと重大で、自分達には想像も及ばない領域の有事であると今でも固く信じている。

 けれど、両親はそんな克司の精神的な支えとなる事を早々に放棄している。安易な一般論に当て()め、よくある事柄だと放任している。
 それは志緒にとっては許せないものだ。

 そこには、あの兄を打ちのめす程の常人には理解できない問題が(そび)えている筈なのだから。

 だが、その部分を克司に問い(ただ)しても答えが得られる事はなく、結局、志緒もどういう風に接すればよいのか分かっていない。
 それが、この兄弟を取り巻く(わだかま)りとなっていた。

 そして奇妙な偶然と言うべきか、克司がかつて所属していた会社――民間による技術開発の包括的総合支援を目的とした事業団体、それがA&IS社だ。

 大きな企業であるため、克司とこの苑宮という男に直接面識があるのかどうかは定かではない。
 だが今世間を賑わしているこの企業、そして苑宮賢一郎という人物。それらは全く関り合いのない存在でもなかった。

 それ故この一連の話題に際して、志緒は何とも言えない不明瞭な感情を覚えるのだ。



















 日を追うごとに、A&IS社と彼らが発表した夢のようなデバイスの話題は加速していった。
 ネットで不特定のサイトを遊覧していても、最終的にはこの話題へと行き着いてしまう。場所もジャンルもあらゆる垣根を越えて、それらの話題で偏重(へんちょう)だ。
 
 A&ISという会社の名前が一躍(いちやく)と話題になったのは、6ヶ国語を自動翻訳してくれるAI(人工知能)ソフトの開発によって。
 既存のものとは一線を画すその精度と、それぞれの俗語(スラング)までをカヴァーできる範囲の広さによってベストセラーとなった。そして独自のそのAI技術の学習能力の高さを活かし、(のち)も様々な分野を席巻した。
 それによって、ここまでの世界的な知名度を誇る企業へと発展した訳だ。

 そんな彼らが仕掛けたこの企み、話題に昇らない方がおかしかったろう。


 そうこうしている内に、恭弥と約束をしていた日がやって来た。
 学校での授業を終えた後、その足で都心の方へと向かうという段取りを決めていた。

「いっちょ、新世界へと旅立ってみますか!」
「恥ずかしいから大声出すな」

 滅多に足を運ぶ事のない都心部へと降り立つ。
 環状線を乗り継いで向かった先は、「適性検査」とやらを行うその為だけに区画を開放したという大型商業施設の一角。
 A&IS社の出張ラボと呼ばれるこれらの施設は、国内だけでも十数箇所も用意されているという話だ。
 随分な出資力だと、舌を巻く。

 館内は相応の賑わいを見せていた。

 恭弥と二人、列に並んでくだらない会話を交わしながら順番を待つ。
 店頭に置かれたディスプレイ、またはポップや(のぼり)にまで、提携したというBoDCの新作の映像がふんだんに使われていた。

 最新技術どうのこうのとは関係なく、PV映像を見る限り、その新作ゲームは志緒にとって歳相応に興味を惹かれるレベルのものだ。
 王道と呼べるダークファンタジー物。
 それなりの知名度という事で、確かに何度か覚えがあるような気がした。

 広告看板にもでかでかと書かれている宣伝文句に〈完全なるもう一つの世界(ブランニューワールド)、未知なる領域へと躍進(ダイブ)せよ〉とある。
 確かにこれらの世界を肌で匂いで感じる事ができるようになれば、さぞ革命的だ。

 小一時間ほどして志緒達の順番がまわってくる。
 内部は思った以上に質素なもので、病室のような無機質さがあった。

 身分証明となる保険証と学生証を提示して受付を済ませると、そこで二人は別々に誘導される。
 「適性検査」という触れ込みに少し気後れしていたが、内容は何て事のない。これまでに(わずら)った事のある病気や手術歴の有無、そういう類の確認だ。
 その他に二三質問をされ、数分ほど脳波のチェックとMRIのような装置にかけられただけ。
 後はアカウントのID認証の際に必須となるという網膜のデータを取られ、一枚の用紙にサインすれば、それでもうその検査とやらは終了らしい。

 なんとも気前が良い事に、たったそれだけの手間を要するだけで一般市場に並ぶ前の正規品が自宅に届けられるという。

 入りは同じだったが、恭弥が出てきたのはそれからさらに一時間は経った頃合いだった。
 どうも個人によって、検査とやらの時間は左右したらしい。












 数日が経った水曜日、ゴールデンウィークが始まって学校が休みのため、志緒は朝から道場の方へと顔を出す。

 志緒の身長は173cmと平均的ではあるものの、その体重は80kgを軽く超す。
 無論、太っているのではなくよく絞られた筋肉によるものだ。その体の厚みや骨格は未成年としては破格の部類だろう。
 この道場で唯一、大人達に混じって稽古している様にまるで違和感がない。
 実力の方も事実、少年部では相手にならず成年部の方へと今年から移させて貰っているわけだから遜色(そんしょく)ない訳だ。

 道場では打撃や組み付きなど、かなり実戦的な指導がなされている。
 古武術と銘を打ってる割に、畳張りの道場の隣にはサンドバックやベンチプレス等の近代的設備が整っている。
 やっぱりこの道場の主は元プロレスラーで、リングこそないもののここはその養成所か何かだったのではと疑って止まない。

 志緒はさっそく、朝早くから来ている熱心な先輩方に挨拶を済ませてから更衣室で着替える。
 柔軟に体を(ほぐ)した後、近くの大人達に明け()けに頼み込んで組み手の相手をしてもらう。

 町の不良達相手に喧嘩などをしてきたわけでもないが、それでも志緒は胆力というか――そういうものが歳不相応に身についていた。他人に無頓着で何事にも動じない自らの性格も、これらに起因してるとさえ考えている。

 やがて朝方の冷たい大気が(ぬく)まる頃、志緒とは別の意味で明け透けな人間が姿を見せた。

「おーい、志緒ぉ」
「恭弥?」

 吹き出る汗をタオルで拭って、眉間に(しわ)を寄せる。

「昼までには稽古上がりそう?」
「たぶんな」
「おっし。そんじゃ見学しながら待ってるよ」
「お前……」

 ここに所属しているわけでもなく昔から冷やかしにくる恭弥だが、その特性は如何(いかん)ともなく発揮されていて、正直礼儀は(わきま)えているものの無愛想な志緒よりもずっとここに溶け込んでいる。
 故にほぼ顔パスでこの道場へと上がりこみ、道場生達と気ままにお喋りなどを楽しんでいく。
 つくづく生まれの性質というものに差分を感じる。

 そうして、太陽は真上近くへと差し掛かった。

「で、何か用か」

 着替えを済まして出てきた志緒は、待たせていた恭弥にそう興味薄く話を振った。

「――いやいや! メッセでも送ったろ!? 『ACS』だよ『ACS』!! そっちだってもう届いてるはずだろ?!」

 なんだか普段より興奮している(てい)の恭弥だ。

「ああ。昨日来た」
「じゃあ、何で起動しないんだよ……。先行版とは言え、もうサービス開始してるんだぞ! (ちまた)じゃとんでもない大騒ぎ!」
「なんか、セットアップの手順とかややこしくて挫折した」
「えぇー……」
「神経適合プロセスとかデータ取得とかやらで二時間近く装置を起動したまんまじっとしてなきゃなんねぇとか、どんな拷問だよ」
「それを超えた先に、物凄い世界が待ってるんだってば!」

 暑苦しい目の輝きと声で、力強く恭弥は両拳を握りしめる。
 どうやら恭弥は未知の領域とやらへ既に体感(ダイブ)したらしい。

「そんなに凄いもんなのか?」
「んんんっ……!! いや! あえて俺の口からは何も言葉にはしない! ともかくゲームを起動してみてくれ! それで全てが伝わる!」
「増山みたいになってんぞ、お前」
「ともかく! ゲーム始まったら、まず初めに地域とか職業とか色々を選べるんだけど、ただ地域選択の時だけは『ファザーランド』っていう大陸の『エクトリア』っていう土地を選んどいて」
「何だって? ファザーランド? エクトリア?」
「いいからいいから。それだけは間違えないようにしてくれりゃ後は志緒の好きに設定してくれていいからさ!」
「まぁ、わかったけど」
「そんじゃあ、村に入ってすぐの藍鴨(あいがも)亭っていう酒場で!」

 そう言って恭弥は駆け出していった。

「……なんじゃそりゃ?」















 シャワーを浴びて昼飯を済ませた後、宅配で届いた大きなダンボール箱をもう一度広げていた。

「確か音声案内があったよな」

 一人でぶつくさ呟きながら、志緒は一度挫折したそれらのセットアップ手順を再び踏む。

 未来の装置ACSデバイスは6つの機器によって構成されている。
 ヘッドセットというよりはヘルメットな形状のメイン装置と、色付きのガラスで出来たような青い半透明のブレスレット、そして4つの設置型のサブ装置からなる。

 ヘッドセットとコードで繋がった4つのサブ装置は、自身の四方を囲むように安置する。
 そうすればまるで方陣か何かのように、青い蛍光を発してこちらを覆う。
 部屋のカーテンを閉め、明かりも消してしまえば、さながら別次元への入り口といったところ。
 ゲーム中にて機能するらしい幾何学模様の溝が刻まれた腕輪を付けると、何やら一瞬だけ静電気にやられたような不快感が走った。
 特にそれだけだったので、そのままメインのメットも被る。

 すると音声による案内が始まった。

『ID認証を開始します。ヘッドセット内部モニタのマーカーを見つめてください』

 初めは、登録しておいたアカウントにログインするための網膜認証だった。
 それが済むと、再びアナウンスが流れる。

『IDを確認しました。これよりデバイスの神経接続を開始します。長時間、過ごしていても負担にならない姿勢にてプレイしてください。装置には安全対策として、少量の刺激や体調の変化であっても、緊急的に停止をする場合がございます。本製品は試験運用状態のものです。ゲームプレイに際しての事故、損害等は定められた契約に沿って保障が履行されます。またA&ISにて登録がなされていない個人での使用は禁止されています』

 そのような少しおどろおどろしい文面が、機械質な女性の声で二度ほど繰り返される。

 その後『神経回路への適合と身体データの取得中、急激に体を動かすのを控えてください』という旨のアナウンスが流れ、志緒はそのままゆっくりとベッドに横になった。
 前回はあまりに退屈すぎるこの段階でリタイアしてしまったが、今日は午前中の稽古で蓄えた疲労感が相まって、すっと意識が溶け行くのだ。

 (がい)して、事の始まりはこのように意識の端にも残らないものだ。

 そして彼は夢を見る。
 長く、あまりに果てのない、胡蝶(こちょう)の夢々を。