街の下を通る地下水道を経由して、志緒達は中心部から離れた。

 再び囲いの外に(おもむ)こうとする彼らを衛兵は(いさ)めたが、連れ帰った負傷兵達が二人のその驚異的な戦闘力を証言した。
 ならばと、西部方面に向かったまま連絡の取れないバーグの隊を確認してきて欲しいと要請され、あまり知られていない地下水道の入り口を教えられた。

 お陰で障害もなく彼らは西の境界まで来れた。
 用水路と一体となったそこから地上に出れば、凄惨(せいさん)な光景がまた彼らの前に広がる。

 広い街路ではコボルトの群れが屍骸(しがい)を喰い漁っていた。
 何も抗戦していたのは衛兵達だけでない、その残影が所々に切り取られて横たわっている。
 意地汚いその犬共を蹴散らし、志緒達はさらに突き進んだ。

 天辺まで炎に巻かれ、納屋は(きし)む音を出して崩れる。
 黒々とした煙が炎の(だいだい)に照らされ、闇の夜空に吸い込まれていく。
 腹から血を(したた)らせた農夫が、どこに向かおうとしていたのか、覚束無い足取りで迷い出て、そして彼らの目の前で倒れ伏す。
 急いで駆けつけるも既に事切れている。

 心苦しいも、それに(かま)けている暇はなかった。

 再び走り出した彼らの前に、今度は奇妙に折り重なる屍骸の群れが現れた。
 大量のゴブリン共が円を描くようにして群がって伏していた。
 そして、その中心には一人の人間の遺体。

 どれも焼け焦げているが、炎で焼かれた風ではない。
 まるで内部から熱を通したように、その焼死体の様は異様であった。――感電死した遺体がこのような風になると、何かで見た覚えのある志緒。

「こいつ……」

 志緒はそれを見て取って、図らずも驚きの声を上げる。
 中心に座するその人間に見覚えがあった。

「もしかして、知ってる人?」
「ああ。多分な」
「そっか……」

 不摂生な肥満体とその面相、増山が持つそれと同じ長杖を地面に突きつけた状態で固まっている。
 前にクリスタルの聖堂で話をしたあのプレイヤーだ。

「そうかよ……。最後はお前も、立ち向かって見せたんだな」

 ぽつりと、志緒はその亡骸(なきがら)(いた)わりの声を掛けた。
 円陣を描いた地面のその内側だけが何かで焼き焦がされている。
 その状況を(かんが)みれば、攻性結界魔法を用いて魔物共々自らを焼いたのだ。
 丘上の聖堂から逃げる途中で魔物共に巻かれたか、あれだけ根腐りしたようだったそのプレイヤーは――しかし、最後は一矢を報いるべく相討ちを果たした。
 志緒の言葉が響いたか、そんな事に関りなくか。
 最後の最後、彼は全てを放り出すでなく無様で無為(むい)にでも抗って見せた。
 それは、勇敢と言って差し(さわ)りないものだ。

「先を急ぐぞ」 

 誰もが戦っている。
 衛兵も住人も、残されたプレイヤー達もだ。
 この世界で生きるべくしかない彼らには否が応もない。
 その事が少しだけ彼らの心を支えた。
 自分達だけではない、皆が守ろうと――生きようとしている。

 そして、氷川が香坂を見失ったという風車小屋の前まで辿(たど)りつく。

 先程から大物、トロールの姿が見当たらない。
 西側から相当数が攻め入ってきたという話だが、もうその全てが街の中心へと手を伸ばしているのか。
 だとしたらかなり危うい状況だ。

 荒れ果てて見(まが)う近辺をそれでも必死に捜索した。
 けれども、生きてる人間などもうそこには居なかった。

 うつ伏せに横たわる長髪の若い男の遺骸(いがい)、背格好に面影があるそれを志緒は恐る恐ると抱き起こし、だが全くの別人であった事に安堵を覚える。
 同時に、直接的でないにしろ、その人の死に対して安堵の息を吐く自らを業深いとも思うのだ。

「きっと、もう離れたんだ。上手く逃げ(おお)せてるといいけど……」 
「…………」
「ここから離れたとして、一体どっちに向かったんだろ?」

 その独り言のような恭弥の問いかけに、しかし志緒は答えられなかった。
 答えが分からないのではない。
 見当が付いているからこそ、言葉にし(にく)かった。

 普通なら、外から攻め入ってきた相手に対して街側の方へと逃げる。
 だが香坂は氷川を逃がそうと(おとり)になった。
 向かったのはおそらく外の方角だ。
 生き延びる可能性が大きい方向へと逃げたのではない。氷川を生かす為、敢《あ》えて最も危険な場所に飛び込んでいった。
 それを言葉にすれば、言外に香坂の生存は絶望的だとそう話す事につながる。

 それ故、志緒は沈黙を選んだ。

 二人がそうしてその場で留まっている折――
 半壊した風車小屋、その煉瓦(れんが)に埋もれた中から重苦しい雄叫びがあがった。
 次いで、その瓦礫(がれき)の中から身を揺すって巨体が姿を見せる。

 風車小屋の崩壊に巻き込まれていたらしいが、雪崩のように煉瓦を浴びてもまだくたばらないその生命力は驚嘆の一言だ。

「生き残りがまだ――」
「行き掛けの駄賃だ。相手も虫の息だが、油断するな」

 近場には、恭弥が足場と出来るものがない。
 その4mは上空にある顔面――急所に剣を届かせるには、体勢を崩させる他なかった。

 志緒は前面(フォワード)へと進み出る。
 これまで何体も仕留め、お陰で相手のその骨格の弱点を把握できていた。
 二足歩行で動き回るにはあまりに規格外なその体躯(たいく)、何より自重を支える為のその太すぎる骨は可動域がひどく制限されている。
 特に歪に発達したその首は顕著で、背面側へは(ほと)んど回らない。
 故に少しでも背後を取れれば、相手はこちらを見失うのだ。

 直撃すれば(こな)微塵(みじん)とは言え、緩慢(かんまん)な動きの攻撃は志緒とて見切るは容易い。
 フェイントを織り混ぜながら飛び込み、手早く相手の背後へと回る。
 その(ひざ)裏へと暗示の呪術で渾身の斧を叩き込んだ。

 肉を(えぐ)って突き刺さった刃にさらに力を込めて(ひね)ると、ぱきゅりと膝蓋(しつがい)の軟骨を割る感触が手に伝う。

 姿勢を崩したその巨体を恭弥が駆け上る。
 膝下から前腕を縫うように、そして鋭い剣先が狙い定めたのは胸鎖乳突筋の隙間――喉仏(のどぼとけ)だ。
 その甲状軟骨を突き破って刃は神経と動脈が集中する頚椎(けいつい)の隙間に入り込み、それらを損傷させていた。

 だがそれを以ってしても行動不能とならないのが、この化け物等の恐ろしい所以《ゆえん》。

 刃を喉から生やしたまま、濁った唸り声を上げて両手で恭弥に掴みかかる。
 瞬時に危機を察知し、その胸板を蹴り飛ばして離脱しようとする恭弥だが、サイズが――そしてリーチが違い過ぎた。
 上半身を伸ばすように巨体を前傾に、その腕がしっかりと恭弥の身を捉えてしまう。
 掴み取ると同時にトロールは倒れこむ。
 胴体をまるごと包み込むような掌、そこに加えられる圧力に恭弥は声にならない悲鳴を上げた。

 だが、既に志緒は行動に入っている。
 伏したその背中を伝って巨木のような首に張り付いた。
 後ろから手を回し、刺さったままの恭弥のその剣を両手で掴み、自身目掛けて力一杯に曳き込む。
 硬い感触を抉って、さらに刀身が喉元深くへと挿入される。
 同時に金属が割れる甲高い音を響かせ、その感触が外れた。力任せのそれに剣が耐え切れず、中程から折れたのだ。

 それにて(ようや)くトロールは生命活動を停止した。

「おい、無事か!?」
「だいじょうぶ……」

 急いでその許へ()せ、人の腕ほどもあるその指を外す。

「肋骨をやられたか」
「わかん、ない。でもまだ動ける……!」

 痛みを(こら)えつつ、気丈に恭弥はそう言って見せた。

「それより剣が」
「力を込め過ぎた、悪い」
「他に武器になるものを探さなきゃ」

 立ち上がろうとするその身に肩を貸して、辺りを見回した。
 志緒は目敏(めざと)く、先程のトロールが埋もれていた瓦礫の中に形状を止めたままの一振りのナイフを発見する。

「あれはどうだ? ちょっと待ってろ」

 恭弥を残し、その瓦礫へと向かい、膝をついて目当ての物を検分した。
 それはナイフとしてはかなり刃渡りも大きく、重みも相当にある。

「使えそう?」
「ああ、問題ねぇな」

 店にも並んでいた市販品で特別なものでもないが、それでも刃こぼれもしていない上かなり新品に近い状態だ。

 それを確かめるよう、今一度、(つか)の部分に眼を遣った時――
 覚えのある奇妙な刻印が目に焼きつく。

 木目の柄頭に、なんとも場違いな記号が彫られている。
 この世界では凡そ目にしないようなお気楽でバカげた記号。別々のものが連なった意味を成し得ない記号。――現代では顔文字だのと表現するそれ。
 そのにっこりと笑った顔のように見えるそれは、この状況下、あまりにも異質なものだった。

 志緒の体感時間は、凍りついたが如く止まっていた。

 そしてひどく恐ろしげに、その積み重なった瓦礫の山に心拍の高鳴りを意識さぜるを得ずと視線を向ける。
 その破砕した煉瓦で形成された山からは、未だに血が滴っていた。
 あのトロールだけのものではない、その瓦礫の端から垣間見せているものがある。
 折れて原形を失くした狩猟弓を――それでも必死に握り締めた人間の腕。
 その中にはまだ、誰かの屍骸が埋まっている。

 見覚えがあるようなその壊れた弓と、そして見紛う筈のないこの大振りのハンティングナイフ。

 その恐ろしい想像を(まにま)に、張り詰めた(かお)()っとそこを見つめる。

「……志緒?」

 反応が無くなった事で(いぶか)しんだ恭弥が、ゆっくりと近付いてきた。
 はっと自我を取り戻した志緒が急いで立ち上がる。

「来るなっ!!」
「……え?」

 その激しい剣幕に、びくり恭弥は足を止めた。

「どうしたんだよ? 一体、何をそんな」
「いや、何でもねぇ。……何でもねぇんだ」

 志緒は素早く近場の泥を(すく)いとって、その柄頭に擦り付けるよう塗り込んだ。
 そして急いでその場か離れる。

「さっきの話だがな」
「さっきの?」
「ああ。おそらく香坂が向かったのは街の方だ」
「でもさ、志緒……?」
「ここらに居ねぇって事は、隠れてやり過ごして、それで安全を確かめつつ街の方へ逃げたんだろう。俺達も戻るぞ」

 有無を言わさぬ体で先を促し、志緒はそのナイフを恭弥に預けた。

「ここの様子じゃ、もうトロールの本隊が街の中心を襲撃していると見て間違いない。地下の用水路は使わず、奴等を背後から強襲する。上手くいけばバーグの旦那達と連携が取れるかもだ」
「けど香坂は?」
「心配ねぇさ。きっともう街の中心部へと避難してる頃合いだろうよ」
「でも、氷川がどれだけ時間が経っても戻ってこないって」
「いや、きっと魔物共をやり過ごすのに時間を()いてたんだ。だから遅れちまった」
「……そう、なのかな」
「行くぞ恭弥。街に入り込んだ魔物共、俺らで殲滅するんだろう」
「それは……」
「きっと大丈夫だ。信じろ、お前ならやって()けるさ。あいつらも、この街も、皆を無事に守り通せる」

 まるでらしくなく、志緒は理を説かずに感情論でそう言い含めた。
 逡巡(しゅんじゅん)を匂わすも、まるで揺るがない志緒のその眼光を前に、恭弥はやおらに頷いた。
 それに力強く頷き返し、肩を押し出すよう叩いてみせた。

 その場から離れる際、志緒は瞳に崩れた風車小屋のその瓦礫を映す。
 バカで能天気でおっちょこちょいで、それでも友達甲斐のある陽気な級友の顔が脳裏を離れない。

 そしてそれに囚われつつ、けれども足が速やかに動く事に――
 本当に自身は悪魔的であるのだと確信した。


















 予想した通り、そこは最大規模の苛酷(かこく)な戦場となっていた。

 一体ごとに行動していたこれまでと違い、あの大鬼どもが群れを形成している。
 大盾(タワーシールド)で列を成した歩兵をいとも容易く吹き飛ばし、高台から矢を射掛ける弓兵をその土台ごと引き()り倒す。
 吹き飛ばされ、叩き潰され、肉塊と化したそれらが宙を舞う。

 衛兵達も必死で反撃し、仕留めるには至るものの、やはり被害が大きすぎる。
 それでもここが正念場と心得てか、彼らの士気は保たれている。

 そんな混戦の最中に、志緒達も構わず身を投じた。

 地形を読み取り、味方の兵士達の動きも考慮しながら、最大効率で彼らは動く。
 そして(わず)かずつでも数を減らしていく。

 そんな中、一際(ひときわ)に猛威を振っている一体が目についた。
 他よりもサイズが一回りは大きく、大樹の(みき)そのものを両手で振り回し、辺りの兵士を民家ごと破壊していく。
 今また、その巨木を足元に向けて垂直に叩き付けると、地面が爆砕し、その余波だけで軽く数名の兵士が戦闘不能に(おちい)る。
 奴はこの戦場で間違いなく最大級の脅威だ。
 放置しておく訳にはいかない。

 志緒はまず他の衛兵の被害を察して、奴をこの場から引き()がすべく動いた。
 今尚、生き残りの手近な兵士にその巨木を振り下ろそうとしている。
 その後頭部に炎を射掛けて、注意をこちらに向けさせる。
 (まと)わりつく炎を鬱陶(うっとう)しげに手で払い、その元凶を眼に捉えるや、(すさ)まじい咆哮(ほうこう)を放つ。――音圧すらもがその他とは別格だ。

 傍目(はため)には緩慢ともとれるが、その歩幅により予想以上の速さで志緒目掛けて突っ込んできた。

 その際、眼前にある民家を構わず押し倒していく。
 木造の家屋程度ならばこいつにとっては衝立(ついたて)に等しい。
 足場そのものを吹き飛ばす相手に、恭弥を無策で飛ばせる訳にはいかない。

 相手を誘き出したまま路地を巡って逃げる。
 それに猛然と追って迫る直線的な化け物と、無事な屋根を使って迂回しながらも機《しお》を計りつつ追尾する恭弥。

 途中、奴はその脇に抱えた巨木をこちら目掛けて放り投げた。
 中空を舞って飛来するその質量に背筋が凍りつくものの、素早くを身を低くして(かわ)した。
 前方で、巨木が地面と一緒くたにその他諸々を削り散らして止まる。

 苛立たしげに奴は吠え(たぎ)り、その都度に手近な物を投げて飛ばす。
 だが巧みに障害物を駆使してその直撃を避ける。
 それでも二度三度、こちらの姿を見失わせぬよう立ち止まって見せて、そんな死の追いかけっこを続ける。

 そして折り良く、志緒は目ぼしい石造りの倉を捉えた。
 石垣の頑丈なその壁、酒樽の保管場所であろうか。

 後ろに迫った大怪獣もあわやという存在に対して、志緒は足を止めて真っ向から対峙した。

 一歩ごとに地を揺らし、盛大な雄叫びを曳きつれて、その巨躯(きょく)が圧倒的な質量で以って志緒を押し潰さんとする。
 その恐怖を持ちうる限りの集中力で掻き消して、志緒は自身の諸手で炎を操作する。
 あの炎の渦を奴の首から上に形成するのだ。

 射掛けた炎が蜷局(とぐろ)を巻いて、相手の頭部を覆い隠す。
 化け物はまるで意思を持つかのようなその炎に泡を食った。
 同時に視界も奪われ、目標どころか自分の位置までをも見う。
 だが慣性の法則は消せず、奴は足を止める事が出来ない。

 その無体に隙を見つけ、志緒は斧を手に、奴が踏み出した左足へと飛び掛かる。
 狙いを絞った箇所はその足の先、()き出しの小指だ。

 暗示の呪術を唱え、獣の唸りに似た鋭い呼気で頭から飛び込むその自重を加えて斧を振り下ろす。
 人間とは規格が合わな過ぎるそんなもの――しかし、見事叩き斬るに至る。
 叩き付けた斧を支点に、斬撃と同時に身を屈めては前転し、その場からは既に離脱している。

 右も左も判らない中、突如走ったその激痛に奴は身悶(みもだ)えして絶叫する。
 足の小指一本とは言え、構造上それを失くす事で踏ん張りが利かなくなり、容易に体勢は崩れてしまう。
 そして志緒が描いた通りに、左側へとバランスを失った奴の巨体は石造倉へと吸い込まれていく。

 重苦しい音を立てて奴の体躯が倉へと激突した。
 ただ計算外だったのは、奴の体重とパワーが相当に上回っていた事。
 奴は倉の石垣をぶち破って内部まで至った。

「――待て恭弥!」

 素早く制止の声を張り上げる。
 打ち合わせなどしていなくとも志緒のその行動から意図を察し、屋根から飛びかかろうとしていた恭弥。だがその鋭い一喝に急減速をする。

 次の瞬間、倉自体が傾く。
 奴をその腹に収めたまま壁がばらばらと崩壊し、挙句、それによって支えられていた屋根が崩落した。

 志緒の目論見では、壁にぶち当たって身動きを停めた奴に恭弥による致命の一撃を喰らわせる筈だった。
 しかし図らずも、奴を重たい石壁と屋根の下敷きに出来た。

「仕留めた……のかな?」

 屋根の上からその崩落現場を覗き込むようにして、恭弥が呟く。
 志緒は警戒を(げん)にしたまま、慎重にそこに近付いた。
 瓦礫の合間にあの紫のぶよぶよとした肌が見て取れる。

 数秒ほど待ったが、そこに動きはない。

 しかし確実に止めを刺しておかなければならない。
 志緒は一歩ずつ瓦礫のその山に足を運んで、頭部はどっちだと模索する。

 その時、まるでタイミングを図ったように、志緒が足を掛けたその場の瓦礫が突如として盛り上がった。
 反転する重力に体勢を保てず、受身は取れたものの志緒は背中で地面を叩いた。
 眼前で、瓦礫を(ふる)いにかけて持ち上がってくる巨躯。

 耳を(つんざ)くその咆哮――
 びりびりとした空気の震えを間近で喰らった。

 あの風車小屋でもそうだったが、こいつ等の肉体の頑強さと生命力は本当に想像を絶している。

 けれども警戒していた志緒の行動は迅速だ。
 転がった状態から両足で地面を蹴って背を反らし、一回転で立ち上がる。
 そうして素早く構えを取るや、相手の顔面へと炎を浴びせつけた。

 だが、致命打にならなくともトロールは必ず炎を嫌がる。
 ――そのが思い込みが仇となった。

 奴は顔面に炎を浴びたまま、まるで構わず近場の瓦礫を(てのひら)(すく)い上げた。
 志緒がその行動に息を詰まらせるも、時既に遅い。
 視界を炎で(さえぎ)られているにも(かかわ)らず、奴は目測でこちらの方へとその一掴みの瓦礫を叩き付けてきた。

「――ダメだ!!」

 恭弥のその逼迫(ひっぱく)した声が耳に届くと同時に、その身に破砕した壁の欠片《かけら》が降り注ぐ。
 いくら志緒の運動神経であっても、散弾のようにばら()かれたその石飛礫(いしつぶて)(かわ)し切る術などなかった。
 その上、飛礫(つぶて)の一つ一つのサイズとそこに加えられた力は人間が行うそれとは比べ物にならない。
 咄嗟(とっさ)に頭を守るよう防御していただけでも賞賛に値する。

 だが無論、その瓦礫はガードした腕を()し折り、腹を穿(うが)ったもう一つは内臓と肋骨をひどく(きし)ませた。
 志緒の身が後方に吹き飛び、その中空で肺の中の空気と胃液が合わさって喉や器官を痛めながら排出される。
 無防備に地面に向かって身を投げ出していた。

 遠のく意識。

 揺らぐ視界に化け物がその特大の拳を振り上げている様が(かす)かに映った。
 息すら吸い込めず、それでも本能の警告に従い身を起こそうと試みる。
 しかし粒の浮いた視界に映る自らの右手が、肘の先から折れてあらぬ方を向いていた。

 天高く掲げられたその拳が、今まさに志緒の頭上へと振り落とされんとした刹那(せつな)――

「――はあああああっ!!」

 雷光を纏った影が瞬きの内に志緒の横を通り過ぎて、化け物の身体を駆けずり上がる。

 恭弥だった。
 その残滓(ざんし)は腹から顔面へと一直線の軌跡を辿る。――そう、その軌跡は青白い光で描かれた一本の傷として。
 恭弥の持つあのナイフが眩いばかりに発光して火花を散らしている。
 その雷光の宿った刃で奴を垂直に斬り上げていた。

 悲鳴を漏らし、化け物が痛みに身を(よじ)った。
 上空に投げ出されたその身を足の振り子運動で整え、今度は自重で落下するその身に任せて刃を斬り下げる。
 もう一本、奴の顔面から腹にかけて切創と熱傷が合わさった傷が描かれた。

 〈軽装騎士〉の唯一無二の攻撃系統にして、高クラスのスキル――〈雷光剣(バーンズエッジ)〉。
 ゲーム時代でも、そのレベルの上位スキルを扱える人間は見た事もない。

 まるでスローモーションに姿勢を(かたむ)かせる巨躯を背に、切羽詰まった顔の恭弥がこちらへと駆けて来る。

「志緒?!」

 トロールが地鳴りを響かせて倒れ伏した時、既に恭弥は膝を付いたまま身動きの取れない志緒の身を支えていた。

「……ぐ……がっ!」

 血と(たん)が絡んだような苦しげな咳が続いた。
 だが、ようやく呼吸を再開する志緒。

「しっかりしろ、志緒!」
「大丈夫……だ……」

 途切れ途切れの息の合間に辛うじてそれだけを絞り出した。

「どこがだよ……⁉」

 右手は見るに耐えない様相だが指は動くから神経は繋がっている。
 腹腔も分厚い筋肉がクッションとなって致命傷にならず済んだ。
 それでも、一人で立つ事もできない状態だ。

「……お前、あんな高度なスキルを……いつ……?」
「わかんないよ。ただ俺、志緒を守ろうと必死で駆けつけて、そしたらナイフが……」

 まだその刃には薄く雷糸の破片が残っている。
 恭弥の性格上、今までそのスキルを出し惜しみしていたとは考えられない。
 となると今この瞬間に覚醒したという事なのか。
 危機的状況であればある程、その能力を急速に成長させる。やはりそういう特質を備えているのだろう。

「はっ……。やっぱりお前は〝特別〟なんだな」
「どういう意味だよ」
「何でもねぇ」

 (とぼ)けた顔で(まばた)きをする恭弥に薄く笑みを漏らしつつ、何気なく視線をその先に向けた時――
 志緒の全身の筋肉が再び臨戦態勢へと移行する。
 獣の唸りのような声にもならない叫喚(きょうかん)が喉から()れる。
 その発せられた気迫に恭弥もばっと身を反転させナイフを構えた。

 そして三度(みたび)、その爆音のような咆哮が彼らへと(ほとばし)った。
 奴はどうやらこれでもくたばってくれない様子だ。

「――なんてタフなんだ?!」

 さすがの恭弥もそう吐き捨てるように叫んだ。
 奴はまた手近な瓦礫の山をその大きな掌で鷲掴(わしづか)みにする。
 それを察した恭弥が一人で立てない志緒に肩を貸そうと動く。
 だがそんな状態ではまともに逃げ回れず、的に成り下がるは目に見えていた。

「俺の事はいい! お前一人で動け!」

 だから志緒は無事な左腕で恭弥の身を突き放した。

「出来るわけないだろ――そんな事!」
見縊(みくび)るな! 行け!」

 やせ我慢と自覚していて、それでも志緒は一人で立ち上がった。
 背骨が歪んでいるのではという激痛が身体を縦に貫く。

 凄絶に顔を(しか)めつつそれでも(かたく)なに徹するその様に、内心の葛藤はもっと大きかったろうが恭弥の逡巡は一秒と満たなかった。
 攻撃させる前に奴を仕留めて見せる――
 この状況で、彼は親友の安全を図る最もな策を抱いて駆け出していた。

 自身が持つスキルを駆使して一筋の稲妻となった恭弥が、相手目掛けて一息の合間で肉薄する。
 滑り込むような低空姿勢で、まず奴の(ふく)(はぎ)太腿(ふともも)の裏側に真新しい焦げ跡を描く。
 化け物がそのスピードについていけずただ遅れてやってきた激痛にその濁音を荒げる中、後背から駆け上ってきた恭弥は、肩口から瓦礫の散弾がセットされているその掌までまた光り輝く刃で(あと)を描く。

 完全に目標を恭弥にの見据(みす)えたトロールが、それでも握り落とさなかったその石飛礫を振り上げた。
 しかし、恭弥の神速の動きにまるで追い付かず、狙いを絞れずにあらぬ方向へと飛礫を撒き散らしていた。

 スピードに物を言わせた得意の撹乱戦法――
 しかしいくらスキルで強化された刃とて、分厚い肉をただ抉っているだけでは完全に仕留め切れない。
 そうこうしてる内に身動きのとれない志緒へとまた攻撃対象が移れば、それを防ぐ手立てがない。
 その焦りが恭弥の判断を(くも)らせていた。
 一秒でも、一瞬でも早く、相手を絶命させる事に意識が傾き過ぎて、自らの身の置き方が雑になってきている。

 志緒は鋭くその事を見抜いていた。

「よせ! ――無理に攻め入ろうとするな!」

 だが志緒の言葉は恭弥に届かない。
 彼は()じ開けた隙を最大の好機と踏んで、一直線に踊り出ていた。

 目指すは遥か頂上の部位、その腫れぼった目蓋(まぶた)に隠れた眼球まで、相手の膝と腹を踏み抜いて上昇した。
 眩い光で雷糸を吐き散らす刃が(ひるがえ)り、目標を違わずに刺し貫く。
 刀身が水晶体と硝子(がらす)体を割って貫き、視神経を断ち、さらに撒き散らす電荷の火花がそれらを焼き焦がす。

 ――だが、そこまでだった。

 刃は脳幹部へと到達しない。
 動きを読まれていた恭弥のその身が、化け物の巨大な腕で(かす)り取られていたからだ。

 大気を震わす絶叫を棚引かせながら恭弥の身体を引き剥がすと、埋もれていた刃が(あらわ)となり電光が再び辺りを照らした。
 そして化け物は、天高く手に持つそれを掲げ上げた。
 奴の狙いは脇にある瓦解した壁の残った一部。
 地面から棘が生えたように切り尖ったその箇所に、恭弥の身を叩き付ける腹だ。
 あの高さから奴の力で以ってすれば、そんな物はなくとも細切れ(ミンチ)と化す。

 その掌中で必死に刃を突き立て、その極悪なまでに太い指から逃れようとする恭弥。
 だが、彼の腕力ではそれに(あた)わず、(もが)けども意味を成さない。

「――恭弥!!」
 
 志緒の絶叫が、空虚にその場に木霊(こだま)する。

 手立てがなかった。
 少なくとも、もう志緒に打てる手段などない。

 自身の身体は(まま)に動かない。
 渾身の炎を射掛けたとて、相手はもうそんな物に揺らぎもしないだろう。
 最早、痛みや熱程度では奴は怯みもしなくなっている。
 ここで二人を確実に殺さなければ自分が殺されると、化け物の本能がそう思考を向けている――その恐怖が奴を無痛の狂戦士(バサーカー)へと変えている。
 どんな事があろうと先ず手にした恭弥を確実に殺し、そして残った志緒も圧し潰す。
 今すぐ腕を切り落とすか、意識を断つか、そのどちらかでなければ恭弥を救えない。
 そして、そのどちらも行う術がない。

 だから志緒の頭の中――理性の部分では、もうどうしようもない事とそう結論がなされていた。

 結局、自分はこの程度なのだと、心の何処(いづこ)からか声がする。
 人という()、自身という底を弁えてはいるつもりだった。
 ここはもうゲームの世界ではない。プレイヤーの意に沿って物語が展開してくれる事はない。
 この世界で数ある内の一人として、世界を突き動かすその趨勢(すうせい)に流されるだけの存在。
 〝神〟のシナリオに沿って一喜一憂し、時に幸せを感じ、時に深い絶望を味わう。
 そういう群衆の一部であるべきだった。
 だと言うのに、多くを望みすぎた。
 得られるものとは、(うしな)ったものとの差分でしかない。
 馬鹿な夢を見てしまった――あるいは本当に、自分達ならこの状況を救えるのではと思い始めてしまっていた。
 はじめから背負える分だけを持って逃げ出しておくべきだった。
 掛け替えのない親友の命が、この不相応に描いた理想の対価なのだろう。

 そんな思考が、ひどく冷徹に頭の中を過ぎる。

 それでも左掌を構え、奴に炎を射掛けていたのは、きっともう一つの頭の働き――即ち感情であったろうか。
 無為と知っていて(なお)、激情は洩れ出たわめき声と一緒にその渦巻く炎となって顕現する。

 その間際――

 志緒は自分の内側で脈打つ力強いものを感じ取った。
 心の臓から宿った(ほむら)が全身に波及(はきゅう)するかの如く、細胞の一つ一つが強い熱を帯びた。
 そしてそれは、掌から放出されたその炎にも伝播(でんぱ)する。

 紅蓮の光が『カタチ』を(うつ)ろわせる。
 熱量しか持たない筈のその燃え盛る焔が、まるで質量を有したかのように形成を得る。
 闇夜の空に、一匹の龍であろうか――炎を凝縮して造られたそんな『モノ』が浮かび上がっていた。

 その爆炎の精は志緒の意の(まま)に、今まさに恭弥の身を叩き付けんとしていたトロールの腕へと瞬時に巻き付く。
 その腕を長い胴体で締め上げ、まるで関節を極めるように捕らえる。もしくはそれは熱せられた空気圧による気流の動き、それが見せた錯覚であったのか。
 どうあれ奴はそれにより動作を封じられた。

 突如の事に相手は大口で吠え猛って、それでも力任せにそれを解こうとする。
 志緒はそれを瞬時に好機だと判断する。
 奴を表面からどれだけ焼き焦がしても意味がない。
 であるならば、奴を内部から焼夷(しょうい)させればいい。

 絡みついた炎龍がその身を(すべ)らせて奴の空けた大口に吸い込まれる。
 食道を押し広げ、括約筋によって閉じられた胃弁までをも()じ開けて、その内部深くへと侵入を果たす。
 さしもの奴とてその攻撃は予想だにしていない。

 それは凄まじい光景だった。

 紅蓮の光を撒き散らした一匹の龍が、焔の残滓を(かす)めながら、大鬼の腹腔(ふっこう)へと潜り込んでいく。
 声すら上げられず、その高温の(かたまり)を呑み干さざるを得ない相手。

 数瞬の後、そこに花開いたのは爆轟であった。
 眼や耳、口に鼻、さらには肛門――
 行き場を失った瞬間的なそのエネルギーが奴の体内で暴れ回り、それらから噴出した。

 そして盛大な黒煙を上げて、トロールは大の字に倒れ堕ちた。
 いくらの化け物も、身体の内部を消し炭に変えられては一たまりもなかった。

 伏したその手から恭弥の身が投げ出される。
 志緒は這いずるような無様な体でその許へと向かう。
 放り出された恭弥は、まるで反応しない。

「おい……! 恭弥!」

 しかし、まさかと蒼褪(あおざ)める志緒の呼びかけに、次第と身動(みじろ)ぎをした。

「生きて……る……って……」

 弱々しくも恭弥が返事をする。
 そして痛みに顔を引き攣らせつつ笑う。

 志緒は眉尻を下げて、息を吐いた。

「志緒、一体……今のなんだよ……? あの物凄い術は……?」
「知らねぇ。俺も、必死だった」

 こちらも痛みを堪えつつ、そう笑みを含んだ。
 二人してそんな無様な格好で短く笑い合った。

 だが、志緒は自身のあのスキルについて思い当たる節が一つあった。
 あの術はこの世界で唯一ゲームシステム的な役割を持つもの――
 自分を含めたクリスタリアン、元ゲームプレイヤーにのみ付与された〝神〟の祝福と言って差し支えないもの。

 即ち〈気魂剥離(アウラティア)〉のシステムが継続されているのだ。

 これまで志緒達で大量のトロール共を仕留め、その莫大な生命力が世界に還るべく霧散した。
 それを彼らが知らず吸収していた。

 こんな事態になって、すっかりと忘れていたシステム。
 けれどもそれは機能していた。
 それにより〈炎術師〉の〈自在の炎(フレイムワークス)〉という下位スキルが、〈爆轟の炎龍(エンハンスドファイアリィ)〉という上位スキルに書き換えられた。
 もはや腕輪が機能しなくなった現在、コンソール画面にて自らのスキルを確認する事は出来ないが、それでも無自覚にそれらを引き出していた。

 恐らく恭弥もそれと同じだ。
 スキルの習熟に必要なのはコンソール画面での操作ではない。
 その術への理解度、そして「経験」であると初期に増山が話していたのを思いだす。

 互いに満身創痍(そうい)な身で助け合って起き上がる。

「危機一髪ってやつかな」
暢気(のんき)に言うな。(はや)りやがってよ」
「志緒だって、無茶の連続じゃないか」
「俺のはきっちりと見込みを付けて行動してんだ」
「嘘ばっか。さっきなんて、俺が助けなきゃどうなってたか」
「お前だって――いや、どうやらお喋りの時間はねぇな」
 
 足音が近づいてくる。
 それも人間とは比べ物にならない、地を揺らすそれらが複数。

「まだ、戦えそう?」
「余裕だ」
「言い切る所が志緒だなー」

 背中合わせで支え合って立ち上がった二人の前に、左右の路地から大きな影達が進み出てくる。
 あのトロールは群れのボス格であったか。
 残った奴等が頭目を捜しにきたのだろう。
 先程の戦闘の明かりに釣られた数体の新たなトロールが、志緒達の前に立ち(はだ)かった。
 正直、複数を同時に相手とするのは先程の奴を相手どるよりも厳しい。
 その上、もう大して動き回れない。
 ――それでも彼らの顔に諦観(ていかん)も絶望もない。

 一呼吸の(いとま)もなく、くぐもった雄叫びを長く伸ばし、巨大な棍棒を振り上げた怪物どもが群れ成して襲い来た。

 恭弥の手にした白刃が雷光の如く輝き、志緒の左掌から実体を伴った炎の化身が姿を見せる。
 戦力差は圧倒的であり、数秒先の自分達がどうなっているか――そんなものは火を見るより明らかだ。
 それでも彼らは一閃の気合を胸に、構えを取った。

 まさにその瞬間――

 地面から生え出てきた大量の(つた)のような植物が、魔物共の足に何重にも絡みついて動きを縫いとめた。
 そして、中空に色鮮やかな魔法陣が幾つも浮かびあがるや、その中心から光の剣が降り注ぐ。
 何事かと眼を見張る二人を余所に、連続して降り注ぐ光の剣が縫いつけられた魔物を刺し貫いた。
 一撃で仕留められなくとも、絶命するまで幾重にもなって注がれる。

 その内一体が、蔦の束縛を力任せに引き千切って、志緒達の眼前へと迫った。
 大きな影が二人を覆い隠したその直後、裂帛(れっぱく)の掛け声と共にそのトロールの胸から分厚い鋼鉄の刃が生えた。
 刃渡りにして60cm以上の巨大な刀身、柄の部分まで鋼鉄で仕上げられた特大の剛槍だ。
 次いで、轟音と共に倒れ伏したトロールの向こうから見えた人影。
 その熊のような髭面に強烈な覚えがある。

「シオにフジドー、やはり生きとったなあ!」

 うつ伏せに()した屍骸に足を掛け、豪快に笑んだその顔が志緒達を捉える。

「バーグの旦那……?!」

 トロールの身体――脂肪と筋肉で固められた分厚い胸をその剛槍の一突きで背中から貫いて見せた。
 化け物どもに匹敵する規格外の怪力だった。

「それに、とりぞうさん達?」

 屋根の上では白と黄の軍服姿をした複数人が杖を構えていた。
 魔法職同士による複合詠唱術、協力して円陣を成すことで術の威力や範囲を何倍にも高める技法だ。
 その中で、これまた覚えのある細い面の青年が片手を上げた。

 気付けば、志緒達の周りには血埃で汚れたバーグの部隊と〈暁天の騎士団(オーダーオブブライト)〉のメンバーが集結している。
 残ったトロール共も彼らにより仕留められていく。

「二人とも無事で何より。とは言え、ひどい有様だ」

 団員達と共に下に降りてきた酉谷。彼は脇の法術師に指示して志緒達に治癒の光を当てさせた。

「街は? 魔物達は……?」

 そんな彼らを振り仰ぎながら、反応の鈍い恭弥が問う。

「心配はいらんぞ。入り込んできた奴等は粗方、始末をつけれたろう」
「そ、それじゃ……つまり……」

 宵闇(よいやみ)の空が(かす)かに白んでいる。
 そして、あれだけ恐ろしげだった魔物共の声がまるでしない。
 未だ(おき)となって(くす)ぶる火はあるものの、街からは激しい戦闘の音も、誰かの悲痛な声も響いて来ない。

 (つい)に、長い夜が明けた。

「街を……守り切ったのか……」

 志緒は恭弥の言葉を引き継いだ。
 その言葉を放った途端、全身の力がすとんと抜ける。
 恭弥も同じく、緊張が一気に(ほぐ)れたように腰を落とす。

「驚きだ……」
「何がだ――シオ?」
「想定した以上に、迅速だったじゃねぇかよ」
「おお、何せこの傭兵団の面々が予想以上の戦果を上げてくれてな。流石は冒険者揃いといった所か」
「いえいえ。僕ら程度、バーグ隊長の一騎当千の活躍には遠く及びません」
「ぬわははっ! 隊の長であるこの俺が、エクトリアで一等強いのは当たり前の話よ」

 豪快に、しかし勝ち誇るでもなく、いつもの剽軽(ひょうきん)さでバーグは哄笑(こうしょう)する。
 そんな彼は心底頼もしかった。

「だがな――」

 途端、野太いその笑いを引っ込めて、バーグは志緒と恭弥の二人に視線を落とす。

「やはり一番の功労者は、街に入り込んできた最大脅威のトロール共をその機動力で討って(まわ)った『二人の英雄』よなあ」

 多くを含意(がんい)したその言い回しに、当てられた志緒達は揃って瞬きを返した。
 見れば、大柄なその隊長だけでなく、そこに集った幾人もが、彼ら二人に特別な眼差しを向けている。
 賞賛や感嘆――
 そういう期待と好意に満ちた目だ。

 次第、志緒達もその言葉の意味に表情を(ほころ)ばせる。

「なんだなんだ、だらしのない。満足に立って歩けんのかお前達? 仕様のない奴等だまったく」

 お得意の軽妙さでバーグは志緒と恭弥――その二人の身を無造作に担ぎ上げた。

「おい……!」

 二人は犬猫のようにその身を担ぎ上げられ、非難の声を上げる。
 恭弥は左脇に抱えられ、志緒は右肩に干された。

「なんのつもりだよ旦那、降ろせって」
「ぬははっ! 満足に動けんお前らを運んでやろうというのだ」
「いや、別に動けねぇ訳じゃ……」
「街の英雄が無様に()って戻る訳にもいくまい」

 二人を軽々と持ち運び、そのごつい声でまたかっかと笑う。

「ではバーグ隊長、我々もこれにて」
「うむ。お前達の活躍も帝国本土にもしっかりと申し立てておくぞ」
「何よりです」

 酉谷は「じゃあまた後で」と、担ぎ上げられた志緒達にも短く声を掛け、団員を引きつれて離れていった。

「そうら、このまま街の広場まで凱旋(がいせん)だ!」
「――バーグさん! 逆にこれ、相当カッコ悪いってば」
贅沢(ぜいたく)を言いおるわ!」

 まるでお構いなしにその巨漢は大きな歩幅でのっしのっしと、それこそ熊のように志緒達を乗せて歩いていく。
 そんな一同を次第と集まってきた生き残りの衛兵達が囲んで見送り、そしてわあっと拳を振り上げては歓声を明るみ始めた天に高く飛ばす。
 それはまさに勝ち(どき)というものだった。

 彼らは――そう、勝利したのだ。

 絶望的な戦況下、それでもその無茶を押し通し、今この瞬間の未来に繋げる事ができた。
 盛大な賛辞やらが送られる中、そんな空気に触れて、ようやくとその事を実感する二人。
 傷の痛みもどこへやら、恭弥の顔が見る見る生気を取り戻す。
 あの天真でお得意の笑みが、またその際立った容姿を何倍にも輝やかせる。

 それこそが彼の真たる由縁であった。
 そう、真たる主人公の。

 同時に――
 志緒の中に暗澹(あんたん)たる空気が立ちこめ始めた。
 皆から掛けられる歓声に調子づいて手を振る恭弥を盗み見て、志緒はさらにその陰りを強くする。

 香坂の事を何と言って切り出すべきか。

 それが必要な事であったから、志緒はあの場でそう演じて見せた。――そう嘘を塗り固めた。
 その事に後悔している自分はいない。

 だと言うのに、いざ事が済んでみれば、遣る瀬ない(まど)いと陰惨(いんさん)な感情しか湧いて来ず、胸が鉛のように重たくなる。
 そんな自身に呆れ果てる。
 一人前に繊細ぶっている自らの心を握り潰したい程に。

 だからか、志緒はその時、拳を突き上げる兵士達の間に香坂の亡霊を見ていた。
 彼は(うら)むでも(そね)むでもまるでなく、いつも通りのあの馬鹿みたいに能天気な顔でこちらに手を振っている。
 脇の兵士達の大声に掻き消されながらも、何事かを叫びながら嬉しそうに駆け込んでくる。

 そんな質量のある幻影を志緒はさめざめと眺めていた。

「うぇーい!! 藤堂! 奥崎ちゃーん!」

 そうだった。
 きっとお祭り好きなあの香坂ならば、そのようにして状況もよく分かってないのにテンションを最大値に振り上げている所だ。

「――香坂!」
「…………は?」

 驚きと喜びの混じって裏返った恭弥の高い声が上がる。
 志緒はと言えば、ここ一番の間抜け(づら)を惜し気もなく晒していた。

「香坂、なんでここに……」
「へ? なんでってどゆ意味?」
「おお、そうだった。傭兵団の連中がお前らの仲間を助けてな。ただ状況が状況だったもんで、少しばかり俺の隊で連れ回しとったんだ」
「マジで、うん、ガチ危ないとこをとりぞうさん達に助けて貰ったんよ。そんで俺、衛兵達んとこで斥候(せっこう)役に大抜擢(だいばってき)
「西の境界で氷川を(かば)うためにトロールに向かっていったって聞いて、俺と志緒で探しに来たんだ」
「お、マジそうなん? やー正直、こっちもヤバかったみたいな? 危険なかくれんぼ状態ってやつ? ぶっちゃけ荷物も弓も、なんもかんも投げ捨てトロールをまいたはいいけど、街中が魔物だらけで身動きとれなかったんよ。てか、氷川はちゃんと無事なん?」
「アハハ……香坂、お前ってばもう――」
「んで、何なんこの騒ぎ? 何で二人は抱え上げられてるん?」
「凱旋パレードだってさ!」
「パレード! お祭りなんか!」

 (はばか)りもなく、陽気に香坂もそのパレードの中心に加わった。
 本当に何の心配も必要なかったといういつものノリで、亡霊でも何でもない香坂がそこに居た。

「……はっ……はは――あははは!」

 途端、志緒は大きな声で馬鹿笑いをする。
 それまで唖然と凍りついていた分、恭弥やバーグも不思議そうにそれを見遣っていた。

 ひとしきり笑い立てた後、志緒はバーグの肩に布団のように干されたその状態で盛大な息を吐く。

「やっぱり……恭弥、お前はすげぇな」
「え、何の話?」
「……何でもねぇさ」

 自分は信じてなどいなかった。
 だからあの瓦礫の中身を確認する気さえ起きなかった。
 あの場面ではそうする事が当たり前だとさえ、未だに思っている。

 けれど幼馴染が立てたその涙の誓いは、無事守り通された。
 それは他でもなく恭弥がそう望んだからなのだろう。

 きょとんとしている恭弥と、同じような間抜け面の香坂を交互に見て、志緒は心底そう観念するのだ。















 兵士達と共に広場に戻った志緒達を、心配で耐えられなかったという面持ちの瑞貴と氷川の二人が出迎えた。

「――香坂!!」

 走り込んできた氷川が香坂の顔面に拳を叩き込む。
 ふべらっという鳴き声を発し、尻餅をつく香坂。

「ちょっ!? ――グーパン!? いきなしグーパンってどゆ事ぉ?!」
「この……カッコつけ! 二度と、二度とあんな真似……――しないでよ!」
「恭弥くんも志緒くんも、香坂くんも……皆無事で良かったよぉ……! ほんどに……よがっだよぉ……!!」

 怒っているようで、泣いているようで――いやきっと、その喜びをどう表現していいか分からないのだろう。

「何だ、コイツら……」

 そんな彼女らに若干引き気味な志緒だった。


 救護所で治療を受けてる合間に、ハインツに連れられた増山達もようやく姿を見せる。
 治まりかけていた瑞貴の泣き声が、また一際に大きくなった。

「ミヤちゃぁん! 響子ちゃああん!!」
「瑞貴! 良かった……良かったっ……」
「アハハ。二人して、なにもう鼻水垂らして?」
「だっでぇぇ……!!」
「――ホントに全員無事か? 一応、点呼しとくか?」
「そんなの見りゃ判るだろー」
「そ、それもそうか……。いやすまん、藤堂」
「まっすーん、マジ聞いてよ? グーパンって有り得なくね?」

 瑞貴や木ノ下などは泣き腫らし、橋本や増山、あの氷川も目尻に涙を(たた)えて、全員の無事を祝福し合った。

 本当に奇跡的と言っていい。
 今ここに、誰一人として欠ける事なく志緒達は集っている。
 大勢が命を落とし、そしてその魔の手は彼らの直ぐ足元まで迫っていた事だろう。

 だが今ここにいる全員――
 これが、彼らが宿命から捥《も》ぎ取った結果なのだ。