踏み荒らされているのはもう麦畑だけではない。
 日が傾いたその街の奥深くまで魔物共は跋扈(ばっこ)し、そこかしこで火の手が上がっている。
 木杭のバリケードは粉砕され、家屋の所々も何か凄い力で引き倒されたように崩れていた。

 (ほと)んどの住人達は中心部へと避難できているようだが、魔物ではない無数の屍骸が横たわっている光景に肝を冷やす。
 路傍(ろぼう)に転がる(むくろ)の多くは、何かもの凄い力で()し潰されたように頭部や四肢が原型を留めていない。

 轢死(れきし)――あるいはそれこそ圧死という体だ。

 だが無論の事、それだけではない。
 背中を抉るように切り裂かれ、軒先の柵に引っ掛かっている年老いた男。
 家屋の崩壊に巻き込まれたか、瓦礫(がれき)の中から伸びる(すす)けた誰かの腕。
 路地裏にて膝を折る女の死体からは、首の肉が根削(ねこそ)ぎ噛み千切られている。

 兵士でない者とて容赦はない。
 このエクトリアでは珍しい幼子までも、その無残な姿を晒している。
 (よど)んだ虚ろな目、石畳に広がる酸化した黒い染み、そしてきな臭い中に混じるそんな血と臓物の臭い。

 そう、ここには死が満ちていた。
 等価値で普遍的であまりに現実感のある死が、そこには(あふ)れていた。

「恭弥――」

 その声に振り返り、荒い息を整えながら足を緩めた。

「……志緒?」

 相手はただ無言で、その張り詰めた(かお)を横に振る。

「決断すべきだ」
「……え?」
「篠宮達を見つけたら増山達の元に戻り、そのままエクトリアを脱出する」
「何、言ってんだよ?!」

 途惑いを隠しきれないという風で、その両手を広げた。

「だ、脱出って……街はどうなるんだよ? バーグさん達や街の人々を放っていくつもり?」
「ああ、そうだ」
「そうだって……志緒……」
「ここは、エクトリアはもう駄目だ。あと一日だって持ち(こた)えられやしねぇ」
「そんなっ! 衛兵隊の皆だって、今なお必死に戦ってるじゃないか!?」
「それが衛兵隊の役目だからな。そして恐らく、旦那達はその役目に(じゅん)じる気だろう。だが、俺達までそれに付き合う義理はねぇ」

 志緒はそうはっきりと言葉にした。
 それを受けて、数秒言葉が出てこなかった恭弥。――言い含む所は彼にも容易く理解できるのだ。

 だが、それでも恭弥は声を張り上げた。

「……でも、……でもっ! 短い期間とは言え、俺達はここで暮らしてきたじゃないか!? あの日から、ゲーム世界でなくなったこの場所で、色んな困難を乗り越えながらもやってこれた! それはバーグさん達や、この街の色んな人達に良くして貰ってきたからだろ?!」
「その恩に報いる為に、命を差し出せと? 俺達だけじゃない、篠宮や増山達にもそれを強要する気か?」
「そ、それは……」
「選択を誤るなよ――恭弥。お前は本当に、この街の為に自身を含めた仲間達の命、それを差し出せるってのか?」

 その鋭い双眸(そうぼう)から放たれる圧に、恭弥は激情を(たた)えた眼で、しかし二の句を次げずいる。

「お前が今、考えてる事を当ててやる。魔物共から篠宮達もこの街も守りきる――そんな都合の良い考えを抱いてるんだろう? だがな、それは夢物語ってやつだ。……俺らは、選ぶしかない。捨てる覚悟のない奴に掴み取る事はできない、守り通す事はできねぇんだよ」

 悲愴(ひそう)さに荒々しさを上塗りするかのように、敢えて志緒は言葉を吐き捨てた。

「いいか? 今この瞬間、一分一秒と過ぎ行くこの合間に、状況はやばい方向へと傾いていく。決断を遅らせるな、判断を鈍らせるな。……どちらかを迷っているその時間で、両方を失う事を理解しろ」

 死の静寂が支配するその場に、また重苦しい沈黙が降りる。

 ただ、何も言い返せず顔を伏せっている方も、そしてそれを鋭く睨みつけている方も――
 その両者共が辛そうな顔をしている。

 だが短くない逡巡(しゅんじゅん)の後、迷いと決意に濡れた瞳で恭弥は毅然(きぜん)と顔を上げた。

「そんな事ない! そんな選択肢、絶対に間違ってるよ!!」
「――恭弥!」
「どちらかしか選べないなんて……俺は嫌だよ!」
「やってみて出来ませんでしたじゃ済まねぇんだぞ!? 判るだろうが――それぐらい!」
「だって! だってそれじゃあ……」

 涙を(こら)えるかのような鼻声でそう声を絞り出す恭弥が、また下を向いてしまう。

 志緒とてこの街や人々には愛着がある。
 それでも、切り捨てる時は切り捨てねばならない。――それよりも掛け替えのない物があるならば。

 その時――
 脇の家屋がみしりみしりと木材を引き裂く音を立てながら(ゆが)んだ。

 次の瞬間、ひん曲げられた柱と屋根の隙間から巨大な影が映る。
 くぐもった低い呻き声を上げながら、醜悪な化け物がそこから姿を見せた。
 青紫に近い毒々しい色合いで、水ぶくれしたかのように分厚く(たる)んだ皮膚を持った大鬼。
 不衛生な沼地に苦もなく住み着き、人間とは比べ物にならない生命力と筋力を有する巨体の怪物。

「こいつが言っていたトロールか――」

 家屋の二階部分にすら届きそうなその体躯で、まるで道幅を広げるようにして両端の家々を粉砕しながら志緒達の前に足を着ける。
 (およ)そ人型ではあるものの、そのサイズ――そしてその骨格は人間のそれとは乖離(かいり)している。
 水牛か何かのように首から背中にかけての骨が太く発達し、手首足首も象のそれのようだ。
 そこから察し得る耐久力はこの化け物の恐ろしさをただただ物語る。

 志緒達の姿をその()れた(まぶた)の奥で捉えるや、物凄い音圧で()えた。
 そして手にした丸太その物の棍棒を振り上げる。――それには、こびり付いた血と肉片が見て取れた。

 素早く志緒は触媒を手にし、その髑髏(どくろ)の内部に宿った炎を引き抜く動作で、火炎球を高い位置にある化け物の顔面へと投げ付けた。
 (ほむら)(まと)わりつくようにして目標を穿ち、おかげで振り上げたその丸太はあらぬ方向へと打ち降ろされた。

 しかし途轍もない振動と轟音で石畳を砕いたその攻撃は、二人の背筋を凍てつかせるに容易い。
 そして皮膚が分厚すぎるが故か、志緒の炎を嫌がりこそすれどまるでダメージを受けていない。

「逃げるぞ! 恭弥!」

 既に転進していた志緒がそう叫んで促す。
 だがあろう事か、恭弥は剣を構えて志緒と真逆の方向――トロールの方へと駆け出す。
 呆気に取られた志緒の足も止まる。

「何やってんだ――馬鹿!」

 その鋭い声を背に、まるで構わず恭弥の身がトロールの眼前へと躍り出た。
 今一度くぐもった雄叫びで丸太が持ち上がる。
 だが恭弥は、素早くその股下を(くぐ)るようにして背後を取っていた。
 その攻撃で再び地面に穴が空いた時、既に恭弥の身は後方の民家の(ひさし)を蹴り登っている。
 そのまま目標を見失っている巨大なその後頭部へと飛び乗る。不安定な足場で両手で剣を振り上げて、相手の無防備な首根っこに刃を突き立てる。
 悲鳴とも怒号ともとれる低い唸りを撒き散らす大鬼。

 だが志緒は捉えていた。

 必殺を狙ったその刀身は、だが実質は半分も刺さっていない。
 分厚すぎる皮膚と脂肪と筋肉、そしてなによりその頑強な骨格に阻まれて、何ら致命打になっていない。

()せ!!」

 直感的に理解したその危機にこれまでにないがなり声を飛ばしていた。
 そして志緒の悪い予想の通り、事は推移する。

 トロールは身を震わせて自分の頭に張り付く輩をひっ捕らえようと、その規格外な両腕を振り乱す。
 慌てた恭弥がそこから離脱しようと試みるも、揺れ動く足場では踏ん張りも利かず、重力に囚われて体勢を崩した。
 まさにその直後、分厚い掌が(はえ)(はた)くよう恭弥の身を打ち払う。
 質量の違いにより、恭弥の身体が腰で曲がって吹き飛ばされ、通りを(また)いだ向かいの崩れかけ民家へと到達する。

「くそっ!」

 志緒は続けざまに炎を操り、眼前の巨大な化け物を牽制しつつ、民家に墜落した恭弥の回収に(はし)った。
 トロールは炎を極端に嫌がるようで、志緒の作った炎の(うず)を避けるように後ずさっていた。

「生きてるか――おい!?」
「うぅっ……」

 幸い崩れかけた屋根のおかげで衝撃が分散し、恭弥は重傷は負ってない。呻きつつも自分で起き上がっている。
 すぐさま志緒は肩を貸して民家の奥へと向かった。
 制御の切れた炎は瞬時に霧消しており、あのトロールがくぐもった雄叫びで押し潰さんばかりに迫ってきていた。
 裏戸を蹴破って転がるようにそこから逃れた志緒達。
 その後から崩れかけの民家を解体しながらトロールが続く。

 だが表通りとは違い、裏口から出たその先は狭く入り組んだ路地裏だ。
 塀と塀の合間を何度も折れ曲がるよう動いて、トロールの視界から外れる。
 目標を見失った怪物は、自由に動きの取れないその場で手当たり次第を丸太で()ぎ払って低く唸りを上げる。
 そうやって辛くも危機を脱していた。













 恭弥の半身を担いで隠れられる場所まで逃れた志緒は、険鋭くその声を静かに(すさ)ませる。

「何考えてんだ?!」
「守らなくちゃ……街を、みんなを……」

 身を折って脇腹を押さえつつ、そんな苦悶の表情で――しかし恭弥は激しい色をした瞳で志緒を見返した。

「あいつ等を倒さないと……これ以上、街を滅茶苦茶にさせるもんか……」
「まだそんな事を!」
「だって……」
「――だってじゃねぇ!」

 胸ぐらを引き寄せて頭突くように、その額を合わせて志緒は凄んだ。

「まだ判らねぇのか?! 半端が(まか)り通るような場面じゃねぇんだぞ!」
「――わかってるよ! 志緒の言ってる事が正しいんだって事ぐらい……俺だってわかってるよっ!」

 けれども恭弥は瞳を()らさない。

「でも……それでも俺は救いたいんだっ! 守りたいんだ――多くのものを!」

 (らち)もないようなそんな声で、恭弥が切り結ぶよう叫ぶ。

「だってさ、この街が好きなんだ。ここで触れ合った多くの人が、やっぱり俺、好きなんだよ。でも、それ以上に瑞貴たちだって大切だよ! 皆を守る事、志緒が何より一番にその事を考えてくれてるのだってわかってる……それでも俺は……嫌なんだ……」
「……お前……」
「――この街の人達が向けてくれた優しさや笑顔だって、俺は失くしてしまいたくない! 順番なんてない! どっちかを犠牲になんかできないよ!!」

 気付けば、恭弥のその紅潮した頬を涙が一筋流れ落ちている。

 あまりに子供の理屈で、あまりに理想論で、あまりに我が(まま)な願い。
 けれど志緒はその事に驚いてすらいない自分を認識していた。
 何故なら知っていたからだ。
 この藤堂恭弥という人物が、どれだけ甘ったれで、どれだけ理想主義者(ロマンチスト)で、そしてどれだけ純粋であるか――
 もう嫌という程に知っている。

 思えば――と、そう自嘲(じちょう)する。
 思えば自分という人間もそこに(ほだ)された一員に過ぎない。

「……本物だよ、お前は」
「――?」
「本物の馬鹿だって言ってんだよ」
「なんだよ、それ……」
「けどまあ、お前ぐらい本物の馬鹿じゃなきゃ――〝主人公〟なんてのはやってられねぇんだろうな」
「志緒……? 何言ってんだよ……」

 志緒は馬鹿馬鹿しくなったとでも言いたげに、掴んでいた恭弥の胸ぐらを放して空を仰ぐ。

「証明して見せろ」

 やる方なく、それでもどこか可笑しげに、志緒は口の端を歪めた。
 そして立ち上がり、未だ呆然とした体でいる恭弥を見下ろした。

「お前が描いたその理想、欲しがりのお前がその腕ん中に(かくま)っちまったもの全部、きっちりとお前自身で守り通してみせろ」

 呆れと諦めの感情に、それでも(ひた)向きさが赫然(かくぜん)と同居している。
 そんな顔で志緒はやはりどこか不敵に笑む。

「乗っかってやる、お前の馬鹿さ加減にな。俺が見届けてやるよ、お前が演じる完全無欠のその主人公って奴を」

 恭弥が見上げたその貌付きは、この上なく頼もしくあった。















撹乱(かくらん)しろ!」
「――おうさ!!」

 獲物を見失っていた手負いのトロールが、脇道から猛然と迫りくる二つの影に気付いた時――
 しかし既にその内の一方が懐近くに飛び込んでいた。

 走り込んできた勢いを一切殺さず、またしてもその低姿勢のまま股下を抜けていく。
 だが今度は、持っていた短剣を(ふく)(はぎ)の内側に突き立てられた。
 分厚い肉の鎧を(まと)ったトロールならば、その程度の刃で大動脈を傷つけられる心配もない。

 それでも痛みは感じる。
 針で刺された程度のその痛みとて、怒り狂うには充分の理由だった。

 手にした棍棒で(ねずみ)のように動き回る獲物を狙い澄まして叩く。
 だが途端にその鼠は蝙蝠(こうもり)のごとく、壁を蹴って自身の目線の高さまでの跳躍して見せる。
 かと思えばまた足元をチョロチョロと張り付くよう動く。

 そうこうしている内に炎を操る厄介な方も懐に(もぐ)り込んでくる。
 渦巻く炎が蛇のように、自身に絡み付く。

 沼地にトロールが棲息するのは、その皮膚の構造が河馬(かば)などと酷似しているためだ。
 分厚く強靭なその皮膚はしかし、日の光や乾燥には(もろ)い。
 その為、炎なども極端に嫌う傾向にある。

 何より的確にこちらの視界を炎で阻害してくる相手は厄介な事この上ない。
 よってトロールは遅れてきたもう一方に狙いを切り替えた。
 こちらの方が動きは鈍い。――それでも軽快に攻撃を避けまわる相手に業を煮やし、横手の瓦礫(がれき)の山を吹き飛ばして、その破片を目一杯に浴びせてやった。
 飛び散る木片に(あお)りを喰らって獲物が身を伏せった。

 好機と判断したトロールはそれ目掛けて棍棒を振り上げた。

 その瞬間、自身の首元に刺さっていた厄介な〝棘〟が引き抜かれる感触を覚える。

「眼だ――恭弥! 刺して掻き回せ!」

 違和感の正体は、自分の頭に再び張り付いている片割れだった。
 それを仰ぎ見て確認したトロールは、同時に自身の眼球に向けて一直線に振り下ろされる金属の煌めきをも網膜に焼き付ける。
 その棘――細剣は、眼球と眼窩(がんか)の間を(すべ)り込むようにして頭蓋の奥へと侵入を果たし、前頭葉から間脳を貫いて脳幹の一部をも(えぐ)った。
 どれだけ規格外の生命力を持っていようとも、その肉体構造の弱点を()かれれば化け物とて絶命する。

 砂煙を巻き上げて横倒しに崩れ落ちたその巨体から、既に獲物の片割れ――恭弥の身は離れている。
 悠々とすらした体で民家の柵に降り立ち、今そうやって(ほふ)り去った相手を緊張した面持ちで見定める。

 瓦礫の破片を散弾のように浴びて伏していたもう一方――志緒も起き上がり、頬肉を貫通して刺さっていた尖った木片を造作なく引き抜いた。
 どぷりと血が、口内にも(あふ)れる。

「やれるもんだ」
「はは――」

 溜まった血を唾液と共に吐き出した志緒も、柵から地面へと降り立った恭弥も、凝然(ぎょうぜん)と立ち尽くしていた。
 やがて二人は絶命した怪物の許に歩み寄り、近くからそれを見下ろす。

「こいつらも俺達と一緒で、生物としての制約はきっちりとある訳か」
「そういや、そんなシステムだったっけ」
「確実じゃねぇし、安全でもねぇが、それでもこいつ等を(たお)せる事は立証できたか。……さて、どうする――恭弥? この分の悪い賭け、まだ続けるか」
「勿論」 
「この街に入りこんだトロール共、根絶やしにするまで終われねぇんだぞ」
「最初からそのつもりだろ」
「街中を駆けずり回って、何体居るかもわからねぇこいつらを本気で駆逐(くちく)しようってか?」
「きっとやれるさ」
「……くそが。さっさとこの世界でも、火薬でも発明されて対物ライフルなんかが出てこねぇもんか」
「そんな事になったら、知能のあるモンスターも使ってくるんじゃ……?」
「前言撤回だ」

 そう軽口を叩くが、二人の顔には緊迫感こそあれど――悲愴さの類は微塵とてなかった。
 戦火が広がるその中心へと、彼らは躊躇(ためら)う事なく(おもむ)いた。















 衛兵隊の面々はゴブリン共に遅れを取ることはなかったが、相手が4メートルの化け物となれば話は別だった。

 陣形を組んで長槍で突撃しようとも、成果と被害が吊り合わない惨状。
 トロール1体を仕留めるのに、10人以上もの兵士が犠牲となる。
 その分だけ、ゴブリンやコボルトのような雑魚にすら手が回らなくなり、多勢対無勢の戦いへと落とし込まれていく。

 衛兵の数の減少は直接街の人間の被害に繋がり、地獄絵図は加速する。
 今また幾重(いくえ)にも()かれた即席のバリケードの一つが吹き飛び、同じくして鎧を着込んだ屈強な兵士が宙を舞っていた。

 膂力(りょりょく)があまりに違いすぎる。
 近付く事もできず、必死で遠くから矢を射掛けるが、針鼠(はりねずみ)のようになろうとも平然と活動し続けるトロール達。
 じりじりと後退を余儀なくされるが、もはや包囲されている現状では後退する余地すら(とぼ)しい。
 兵士達が必死で抵抗するその後ろには、逃げ延びてきた住人達が身を小さくして震えている。
 この防衛線を保つ事が唯一、彼らを鏖殺(おうさつ)の憂き目に遭わせずに済む方法。

 それ故に必死で奮闘するも戦況はまるで好転されない。

 もはや彼らの必死の抵抗は所詮(しょせん)時間稼ぎでしかなかった。
 皆がそれを理解している。
 絶望に()まれ、武器を取り落とし、膝をつきそうになるその身を――それでも気概だけが支えている。

 この街の警備部隊は立派だ。
 けれども招かれる結果はそんな事を歯牙にもかけてくれない。
 ――誰しもがそう思っていた。

 だから、民家と民家の屋根を駆け巡って飛来するその影を見た時、多くの者が呆気に取られたのだ。

 一人の若い男が、屋根から屋根を伝って化け物の頭の高さ目掛けて身を投げ出している。
 そして交差するその去り際に魔物の水ぶくれの片耳を削ぎ落とす。
 それに怒り、魔物の注意は跳び(すさ)ぶ相手へと絞られた。

 今一度、男は俊敏な跳躍で魔物の顔面に向かう。
 しかし今度は魔物の方も大振りに棍棒を打ち払わんとしている。
 あわやその丸太に叩き落とされると思えた瞬間、魔物の頭部が炎の渦に包まれた。
 視界を(さえぎ)られ、そして唐突なその高熱に魔物はひどく取り乱す。
 その直後、機を計ったように炎は消え失せ、その残滓(ざんし)を掻き割って男の身が侵入してくる。
 状況を亡失している魔物の頭部へと、瞬く間に取り付いている。

 耳朶(じだ)を切り落とされ(あらわ)となった外耳道から、男は水平に剣を刺し込んだ。
 一度びくりとその巨体が痙攣(けいれん)したかと思いきや、化け物はゆっくりと前倒しに落ちる。
 その途中で男のその身は離れ、地面に難なく着地した。

 その平衡感覚、その脚力、そしてその度胸――どれも見事としか言えないような曲芸である。

「怪我人を連れて、早く退避を!」

 若く端整なその男が満身創痍(そうい)な衛兵達にそう声を張り上げる。
 その場の衛兵達はその事態に虚を()かれている様子で、反応が鈍い。

 直後、また別のトロールが姿を見せ、街にくぐもった雄叫びを轟かせた。

「こっちだ――デカブツ!」

 街路から駆け出してきた別の男が叫びながらその眼前へと踊り出た。

 諸手(もろて)に炎を宿したその屈強な男は、その(ほむら)を生物のように自在と操る。
 炎が奔流となって魔物の顔面に(まと)いつく。
 化け物はそれを嫌がり、ひどく苛立たしげに吠える。
 そして人間には扱えない巨大なその棍棒で辺りを薙ぎ払った。

 男は辛くもそれの直撃を(かわ)し、転がる様に身を退()いた。
 その合間に、もう一人が柵を駆け上り、(ひさし)を踏んで、壁を横蹴りにしては飛来する。
 大口を空けて吠え猛っていたそこにまるで自分毎を(すべ)り込ませるよう、そしてその口蓋(こうがい)の奥深くを刺し貫いている。

 またしても、この規格外の化け物をそうやってあっさりと(ほうむ)る。

 苦も無く民家の屋根を足場に降り立った端整な男は、今一度「早く退避を」とその場の皆に向けて叫ぶと、もう屋根伝いに駆け出している。
 そこに付き従うようもう一人も地面から続いた。

 軽業師ですら及ばないようなその動きを容易く行う軽装の剣士と、まるで呼気を共にしてるかのごとくそれに合わせて術を展開する炎の術師。
 一人が撹乱している合間に、もう一人が体勢を崩させ、そして的確に止めを刺せる隙を構築していく。
 言葉で表現すれば容易いものの、それが如何(いか)に困難であるかは知れた事。
 互いが互いの思考を読み切り、自身の未来位置に必ず援護が来ると信じているからこそ出来る芸当であった。

 そうして、衛兵隊が多くの犠牲を払ってようやく討つ事ができるその化け物を――二人だけで幾体も仕留めて見せた。
 後日、そんな伝説的英雄(たん)がこのエクトリアに広まる事となる。















 既に日は暮れた。
 それでも所々であがるその火の手――その光が、エクトリアを(まばゆ)く照らしている。

 大通りを闊歩(かっぽ)するトロール目掛けて跳躍した恭弥。
 しかし踏み抜いた屋根が(もろ)くなっており、目測から大きく外れて体勢を崩す。
 その無防備な肉体目掛けて、棍棒が横()ぎに迫る。

 だが信じられないような集中力と反射神経を発揮し、中空の内に手足を振った反動で体勢を整え、迫り来るそれを足場として恭弥の身がさらに高くを昇る。
 そして優雅とすら言える(てい)で、相手のその巨体を(また)ぎ越すのだ。

 意識が上空に向いてるその瞬時、志緒は相手の背後を取り、象のようなその足首に斧を渾身(こんしん)の力で叩き込んでいた。
 いくら想像を絶する怪力を誇る化け物だろうと、骨とそれを繋ぐ筋肉によって可動しているに過ぎない。
 つまりはその後ろ足首――アキレス腱を断たれては姿勢を保つ事は出来ぬ。

 しかし、象のように分厚いその肉と皮が邪魔をして、志緒の斧は腱まで届かないかに見えた。
 瞬間、〈炎術師〉のもう一つの側面――自己暗示の呪術による瞬間的な肉体強化のスキル〈焼痍の抱擁(インヴォルブド)〉が発動される。
 志緒の皮膚(ひふ)が真っ赤に燃え上がり、分厚いその筋肉がさらに膨脹(ぼうちょう)する。血流が増大し、全身の毛細血管が破裂したのだ。
 それはまるでその身の内側を炎で焼くかのような術であった。

 ぶちりと肉を千切る音を盛大に響かせて、志緒が両手で振った斧の軌道は見事な半円を描く。
 悲鳴を上げて片膝を地に着けるトロール。
 高所からその垂らした頭目掛けて、恭弥の身は既に落下している。
 重力に引かれて宿ったその位置エネルギーは雷光の如き刺突に集約され、頭蓋と頚椎(けいつい)(わず)かな隙間を深々と貫いた。

 倒れ伏すその巨体の脇から転がるよう避難してきた志緒が、荒い息を吐き捨てる。

「これで5体目か……」

 またも中空でその姿勢を整えるという離れ業で、恭弥もその近くに降り立つ。

「流石に、キツイよ」

 こちらも膝を折り、乱れた呼吸を必死で整えていた。

 志緒も恭弥も決して無傷という訳ではない。
 致命傷こそ負っていないが、二人とも(から)くも逃れてきた攻撃の余波でボロボロだ。
 その上、戦闘に続く戦闘の連続である。
 肉体的、そして精神的疲労は計り知れなかった。

 彼らは今、街の外周を駆け巡りながら大物――トロールの討伐に心血を注いでいた。
 衛兵隊が()く防御線を(くつがえ)す破壊力、こいつ等さえ何とかできれば街は持ち(こた)えられるだろうと踏んでいた。

 そして僥倖(ぎょうこう)な事に、彼らが敢行するその無理は成果を上げている。
 志緒達が遊撃し、最大脅威を排除してくれているお陰か、街の中心部は未だ戦火に(さら)されていない。
 無論そこが戦場に様変わりする事はこの戦いの負けを意味する。
 はっきりと言って、正に背水の陣――瀬戸際にて彼らは抗い続けていた。 

「恭弥、補給の為に一旦街の広場に向かうぞ」

 刃こぼれした斧を見遣りながら、志緒は荒い息の合間でそう口にする。

「広場に? でも……」
「一分でも早く、一体でも多くを仕留めたいのは察するがよ。俺らが力尽きりゃ、それこそ意味がねぇ」
「……わかってるよ」
「それに篠宮の事、気に掛かってんだろう? あいつの無事な姿を一目見りゃ、単純なお前の事だ、疲労も吹っ飛ぶ」
「なんだよそれ」

 茶化して言う志緒に、恭弥も口を尖らせる。
 緊迫(きんぱく)した状況に変わりないが、それでも彼らの心持ちはこれまでよりも断然と前向きだ。
 後ろ向きな目標よりも、画餅(がへい)でも良い――彼らは今、最大限の希望と理想を胸に(はし)っている。
 だからこそ彼らの心は真っ直ぐであった。


 志緒達は途中で助けた大怪我を負った兵士達に肩を貸しつつ、それを(ともな)って街の中心へ至る。

 そこで、木材や瓦礫(がれき)を流用して組まれた簡易式の防壁が出迎えてくれた。
 その防壁の周りは射殺されたゴブリン達の死骸(しがい)で彩られていた。

 即席の防壁の上、弓を構えた衛兵が慎重な足取りで向かってくるその一群に気づいて声を張りあげる。
 地面に接する壁に(わず)かな隙間が開き、内部へと招かれる。
 要救護者を受け渡し、それでやっと二人は張り詰めていたものを吐き出せた。

 その境界より内側は確かにまだ被害に及んでいない。
 広場には負傷者などが集められており、無事な街の住人達も(おび)えきった表情で腰を落としている。
 確かに大して多くもない街の住人の数であったが、目にするその(まば)らさはひどく物悲しく映るのだ。

 衛兵の一人が外の状況を尋ねに来た。
 話を聞くと、西部方面へ迎撃に出たバーグ隊長がまだ戻っておらず、残存部隊も不安に駆られているそうだ。
 散発的に襲来する魔物を何とか退(しりぞ)けつつも、今後の方針を決められずいると言う。

 自分達が()の当たりにしてきた大方の状況を掻い摘んで話し終えた折、切羽詰まった(おぼ)えのある声を聞いた。

「――恭弥くん! ――志緒くん!」
「瑞貴!?」

 覚束(おぼつか)無いように駆け込んでくるその姿に、恭弥がここに来て一番の安堵の声を上げる。
 脇目もなく飛び込んできたいのだろうが、恐怖で震える足がそれを阻害しているのだろう。
 直前にて、(もつ)れて傾いた瑞貴のその身を恭弥が抱き止めた。

「無事だったんだ……良かった……良かったぁ……!!」

 その愛らしい顔を涙で濡らして瑞貴は何度も頷いていた。
 不安と恐怖からひどく憔悴(しょうすい)している様子だが、怪我などは負っていないらしい。

「瑞貴こそ、無事で良かった」
「でも……ふ、二人とも……ひどいケガしてるよぉ……!」

 志緒もその様子に緊張が(ほぐ)れる。
 当人は全く以って真剣なのだろうが――呂律(ろれつ)の回っていないその台詞と鼻水を交えて泣き腫らしているその表情は、やたらと滑稽(こっけい)だ。
 だが、ともかく無事であって良かったと相好(そうごう)を崩す。

 志緒は彼女が落ち着くまで(しば)らく待って、増山達が無事であるのを説明し、そして他のメンバーの行方について知っている事はないかと訊ねた。

「氷川さんが向こうに。途中まで、香坂くんと一緒だったそうなの」
「二人がいるのか」
「それが……と、ともかくこっちに」

 まだ動揺を(ぬぐ)えない様子で、それでも二人を手招いて小走りに広場の外れへ誘導する瑞貴。
 彼女が案内したその露店の片隅に、放心した様に膝を抱えている氷川の姿があった。

「氷川、お前も無事だったか」
「……奥崎? ……藤堂も」

 力無く顔を上げた氷川が、二人を見てぼんやりとそう口にする。

「香坂も一緒だったって聞いたが、あいつは?」
「……香坂、あいつ……あのバカ! カッコつけて……」

 常にどこか挑発的とも取れる態度だったあの氷川が、ひどく消沈している。
 自分に絶対の自信を持ち、終始他人を小馬鹿にしているような普段の彼女から掛け離れた様相だ。

「どういう事だ……?」

 力なく自らの膝頭に額をつけて、ぽつりぽつり氷川は語りだした。

「街の警鐘(けいしょう)が鳴った時、あいつと一緒だったの。ちょうど街に帰ってきた香坂とそこで会って……その時は街外れに居て、遠くで鳴ってるその音を怪しんではいたけど……どうせ大した事じゃないって……私、そう高を括ってた。でも気付いた時には、巨大な怪物が……目の前に現れて……」

 端々(はしばし)で悲痛に声を(ゆが)ませながら、氷川は顔を伏せって言葉を紡ぐ。

「それでどうなった」
「無理だったの! だって私、味方を補助するスキルしか使えないし……戦うなんて、そんなの……。そしたら香坂の奴、自分一人で魔物に向かっていったの……あいつだってろくに戦えないのに……私を逃がすために、(おとり)になろうとしたのよ!」
「そんな……」
「あいつは無事なのか? まさか、その場で……」
「――わかんない! 香坂、あいつが化け物を引き寄せて走っていく中……怖くて、その場に立ち(すく)んで……駆けつけてきた兵士に保護されたの。でも私ちゃんと言ったのよ?! 友達がまだ向こうにいるって! 化け物に向かっていったから助けてあげてって! でもあの化け物の姿を遠巻きに見て、あの兵士は首を振った……! それでも、何度も訴えた! なのに……『その友人の死を無駄にするな』ってそんな事を……。それで私……それで……」

 凍りついた表情で、志緒はそう泣き(むせ)ぶ氷川を捉えている事しかできない。

「そんなのないだろ……」

 恭弥は色を亡くし、ただ呆然とその場で膝を折った。

「香坂くん……」

 瑞貴もまたその頬が涙で渇き切る事はない。

 重苦しい沈黙が、(よど)んだ闇底の空気が、その場に降り立っては定着する。

「――〝まだ〟だ!」

 しかし次の瞬間、志緒は(ほとばし)る感情を(もろ)ともに低い声で唸っていた。

「〝まだ〟答えじゃねぇだろうが! 香坂が、あいつが死んだって――そんな容易く結論づけるな!」
「……志緒……?」
「悠長に座りこむな!」

 吹けば消えそうな顔でこちらを見つめるその胸ぐらを()き掴んで、無理矢理にでも立たせる。

「その話だけじゃ、まだあいつが死んだとは限らねぇ! 今からでも助けに向かうべきだろうがよ!」
「でも……志緒……」
「何を()抜けてやがんだ――恭弥?!」

 今一度、激しくその身を揺すって怒鳴った。
 激情を押し留めた鋭い眼光が、間近から恭弥を穿(うが)つ。

「てめぇのあの言葉はどこ行った!? あの思いは!? ――あの誓いは!? ……守るんだろうが?! 仲間を! この街を! 多くのモンをよぉ!!」
「…………」
「お前が見失っちまってどうすんだ!? 立てよ……! 簡単に諦め切れねぇからこそ、お前はその手で選び取ったんだろうが?! なら証明し続けろ! お前を! その理想を!!」

 力強い腕が自身のその放り出した(はず)の力無い身を支えている。――だからこそ立つ事が出来ていた。
 それに、恭弥自身も気が付いた。

 膝にようやくと力が戻り、恭弥はその足で(しっか)と地面を踏む。

「駄目だな、俺……。自分の我が(まま)さえ、一人で通せないんてさ」

 蒼白とし、生気などまるでなかったその顔が、徐々に力強さを取り戻していた。
 志緒もそれを確認し、手を放す。
 事の成り行きを息を(ひそ)める体で見守っていた瑞貴が、二人のその様子に困惑して視線を揺らしていた。

「恭弥くん? 志緒くんも……何、言ってるの……?」
「大丈夫さ。香坂なら俺達が助け出してくる」
「何言ってんのよ――藤堂! あれから、……どれだけの時間が経ったか! それでも香坂の奴、戻って来てないのよ!?」
「それでも、大丈夫。きっと香坂は生きてる」
「ふざけないでよ! 何でそんな事……言い切れるの?!」
「諦め切れないからだよ。誰でもない――俺自身が」

 この場にはまるで似つかわしくない爽快(そうかい)とでも言うべき声で、恭弥はそう言った。
 遠くを見つめるようなその澄んだ眼に宿ったその色()せない光――それこそが恭弥の本質だった。

「魔物達、全部ぶっ倒して香坂の奴を拾ってくるよ。だから二人はここで待っててくれ」
「そんな……そんな話っ……!」

 駄々をこねる子供のように、氷川は(かぶり)を振っている。
 志緒はさっきまでの激情を抑え、深く呼吸した。そして氷川に向き直った。

「……心配するな、氷川。香坂は隠密や逃走のスキルに長けている。あいつがいくら馬鹿でも、そういう算段があたから行動したんだ。きっとしぶとく生き延びてるだろうよ」
「だからって!」
「それに、こうなったのだって何もお前の所為なんかじゃない」

 不意に掛けられたその似つかわしくない穏かな声に、彼女は涙で汚れた顔を上げる。

「あいつが望んだ事だ。囮になってお前を逃がそうとしたのは、あいつがそう決意した事だ。お前が責任を感じて、潰れちまう必要はねぇさ」
「……奥崎……」

 その言葉をずっと誰かに言って欲しかったのだろう。
 氷川はまた俯き、泣き声を高くした。

「瑞貴、氷川の事頼んだよ」
「恭弥くん!」
「必ず無事に戻るから」
「だって……危ないよ! それに……!」

 その震える少女の肩に手を置いて、また何でもないように笑って見せる恭弥。

 志緒は、そんな恭弥を険しい(かお)のまま見遣り、あるいは自分は悪魔的ですらあるのだろうかと思う。
 正直な所、今さっき(のたま)ったような事を本心から信じていない志緒だ。
 それこそ何百分の一の可能性だろうとすら捉えている。

 それでも今ここで、恭弥というその天質――そのポテンシャルを()えさせる訳にはいかない。 
 目標から()れようとも、戦って、戦い抜いて、その先には(はる)かに多くの人間を救える未来がある筈だと、それだけは志緒も信じていた。
 たとえその中に、大事な仲間の一人が含まれていなかろうと。

 そういう割り切りをにべもなく出来る自分は、やはり恭弥とは違う部類の人間であるのだろう。

 だがそれで構わなかった。
 恭弥という存在が光であるならば、自身は影であってもいい。
 ()き付けた親友のその思いが(よど)みない程に、自身の魂は(くら)く濁っていく。

 それでも、結果として多くが救えるならば――