その男は、前触れもなく進み出てきた。
帝都にある〈暁天の騎士団〉の本部施設、その中央棟に設けられた聖堂に集まる難民に混じっていたのだろう。
慰撫のために訪れた軍服姿の騎士団員達は、すぐさまそのフードの男に気がついた。
異様な空気を漂わせていた。
数名の団員が訝しげな視線と共に声を掛けるべく動いた。
しかし、遅い。
男は既にその団員達の頭――部隊長であるその人物の目前へと至っていたのだから。
男は、擦り切れた苔色のフード付きマントで身体をすっかりと覆っている。
その下に武器でも隠しているのではと懸念を覚え、団員達は俄かに意識を強張らせる。
しかし男は、そのマントを自らの両腕で押し広げるようにして隠れていたその肉体を衆目に晒す。
武器の類は所持していなかった。殆ど半裸に近いような粗末な衣服を身に着けているに過ぎない。
けれど、多くの者がその男の肉体に圧倒された。
全身が余す事なく鍛えこまれた、荒々しい獣のような肉体――幾重にもこより合わせた荒縄のような筋肉をその身に纏わせていた。
西方の地域に点在する、呪術を信仰する集団特有の赤い蛇のような刺青が、その男の見事な肉体により迫力を与えている。
そして、これもまたその呪術者集団の特徴である髑髏を模した面の数々を男は手に携えていた。
飾り紐で一つに繋がれた大量のそれらは、まるで巨大な一房の葡萄のようでもあった。
と、何でない事のように、男がその繋いである紐を両手で引き千切った。
悪趣味な白色をしたその〝果実〟も左右に飛び散り、中が空洞である事を示す間の抜けた軽い音を立て、聖堂内の床に散乱した。
静謐な堂内に響き亘ったその音に、団員達だけでなく膝を曲げて祈っていた難民達までもが呆気に取られていた。
だが、騎士団の役職持ちであるその部隊長だけは、余裕のある笑みで男のその奇怪な行動の理由を尋ねた。
部隊長がそう寛大な対応を取っているのには理由がある。
帝国内で外様である〈暁天の騎士団〉がここまでの地位に昇り詰められたのは、偏にその実力による所。
しかして、力押しだけでは政治は成り立たぬ。
故にこのように難民や貧困に喘ぐ領民を受け入れ、施しを与える事でその地位を確固たるものにしなければならなかった。
だから彼は、難民達の手前、その異様な男にも決して角を立てぬよう、親し気な振る舞いで歩み寄ったのだ。
――それが過ちであった。
紐を千切った反動のまま、両腕を胸の左右で開いていた。男のその筋肉質な右腕が、近づく部隊長の顔面に向かって瞬きの間に奔った。
気づいた時、部隊長は片手で顔を覆うようにして仰け反り、呻き声を発していた。
それに前後して堂内の柱にべちゃりと何かがぶつかり、撥ね返っては床に転がった。
その転がったモノとは、血に塗れた人の眼球である。
友好的に近づく部隊長のその右眼を、男は何の躊躇もなく人差し指と中指で抉った。
未だそうして血で濡らした二本の指を揃え、それを相手に向けたまま、男はフードから見えるその口元を凄絶に歪めさせる。
――嗤ったのだ。
突如の凶行に周りの団員達が剣幕を顕とし、腰に提げた剣や槌などを引き抜く。
だが、そんな彼らよりもいち早く行動を取っていたのは、誰あろう右眼を抉られた部隊長本人であった。
〈暁天の騎士団〉の構成員達は例外なく歳若い。
それでも彼らはこの〝変容〟してしまった世界で適性を示し、ここまで生き残ってきた。
強大な魔物の数々を討ち果たし、その力を誰の目にも明らかに示してきた。
その中でもこの部隊長の実力は折り紙つきだ。伝説的な英雄と言っても差し支えない。
そんな彼だからこそ、床に膝を突けるような事態にはならなかった。
抉られた目元を庇ったまま、それでも腰の後ろに挿した段平のような分厚いサーベルを逆手で抜き放つ。
その鞘から抜く動作のまま、眼前の男の胴を薙ぎ払いに行った。
部隊長の振るう刃は赫々とした光に包まれていた。自身の闘気を物理的な熱量に変えて刀身に宿す術だ。
その赤熱の刃によって彼は強靭な敵を数え切れぬ程に屠り去って来た。
刀身に宿ったそのエネルギーは、振るった際に光波となって飛来する。その距離を問わぬ必殺の剣撃こそが、彼の雷名を轟かせた所以だ。
だが、それこそが男の目論見であった。
その矜持故に、決して退こうとしないであろう事を読まれていた。
鋭い刃を目の前にすれば、人は慄き、身構えるか後ろに逃れようとする。――その刃に膨大な熱量が宿っていれば猶の事。
だがこの男は向かってくるその炎熱の刃を正面から迎え入れるかのように、身を滑らせて一歩と距離を詰めた。
その超然とした心構えと身のこなしによって、薙ぐ筈だった刃が逸れる。ほぼサーベルを握った手首の位置が、男の鍛え抜かれた逞しい腹を打った。
荒岩に叩きつけてしまったかのような感触と、そして微動だにしない相手の重心。
部隊長は片手で未だ右眼を覆っていた。よって、さらに身を滑り込ませてきた相手をどうする事も出来なかった。
次の瞬間、男はさらに鋭く踏み込み、同時にその勢いを殺さず部隊長のガラ空きの腹目掛けて膝を打ち上げる。
部隊長の身体がくの字に折れ、その頭部が下がる。
男は下がったその頭を素早く脇に抱え込んでいる。
周りの部下達からは、その瞬間がありありと見て取れた。
男が自身の右脇に抱えた顔面――その顎の部分を曳き掴むと、空いたもう片方で部隊長の首後ろの付け根を抑え込む。
そうして一息に、まるで何の感慨も無いかのように、掴んだ顎を回すように捻り上げた。
ぐきりとした、奇妙な音がその場に響いた。
部下達が気づいた時、彼らの部隊長の身体がうつ伏せに床へと落ちていく。
その胴体は床に胸をつけた状態で転がっていた。――だと言うのに、その〝顔面〟だけは堂内の高い天井を真っ直ぐ睨んでいる。
部下達は声も出なかった。
その場の難民達も、未だどういう事かを掴めず呆然としていた。
やがて空白の時間は取り除かれ、その事実を周りの全員が理解する。
殺されたのだ。
それも、呆気なく。
数多の人外の化け物を討ち滅ぼし、この世界に安息の日々を齎した伝説的な英雄であったその人物を――
何の苦労もないような素振りで男は殺めてみせた。
一呼吸の後、団員達の怒号とも悲鳴とも取れない絶叫が連なって反響した。
構えたままの武器を振りかざし、男の元に殺到しようとする。
だがそこで、冷静だった数名が意識する。
それはこの男が一番初めにばら撒いた、あの偽物の髑髏だ。
散らばったままのそれをよくよく見れば、その様相がとても人工物だとは思えない。
その色合い、その汚れ具合――そして気がつく。こびり付くそれらは、乾いた血であり、干乾びた肉片である事を。
それは作り物ではなかった。
本物の人骨、人間の頭部から肉と皮を削ぎ落とした頭蓋骨そのものであった。
まさにその瞬間――
仄暗いその眼窩の奥に紅蓮の光が生じた。
床に撒かれたそれら全てから強烈な炎が噴き出した。
火炎の奔流が、まるで意思を持つかのように宙を暴れ狂う。本当に生物であるかのようにその身をくねらせ、凄まじい勢いで堂内を所狭しと駆け巡った。
そして、巻き起こるは爆轟であった。
炎の化身のような蛇達が各々に狙いを定め、相手に飛び掛かった瞬間にその身は弾ける。火炎の破片が聖堂内部とそこに居た人間を一緒くたに焼き焦がした。
炎に蔽われた難民や団員らは火達磨と化し、恐ろしげな悲鳴を喚き散らして転げ回った。
紅蓮の光に照らされた堂内で、辛うじて生き残った団員がその光景から眼を逸らせないでいた。
頸椎を圧し折った隊長の身体を足で無造作にひっくり返し、その胸元を開けさせると、男はその胸襟を捥ぎ取ったサーベルで切り開く。
肉を裂き、肋骨を断ち、そうしてそのさらに奥へと刃を食い込ませ、厳重に守られたそこから目当てのものを抉り出す。
そう、未だに脈を打ちそうな程に生々しいその心臓を取り出した。
滴る血諸ともに鷲掴んだそれ。
あろう事か次の瞬間、男はその艶めかしい色合いの肉房に齧りついた。
仰向けに倒れているにも拘らず顔が床を向いている遺骸を足蹴にして、男がその場で新鮮な臓物を喰らっている。
口内で溢れた血を唇の端から垂らしながら、その肉をたっぷりと咀嚼している。
男は、獣であった。
人の皮を被った獣の類であったのだ。
その事に今更ながら気づき、生き残った団員は戦慄した。
初めから、この男を隊長に近づけてはいけなかった。
例え武器の一つも持ち得ていなかろうが、この獣はその肉体一つで人を殺せてしまえたのだ。
むしろ、それこそが奇襲としての手段か。難民に紛れていたのも、この場に隊長が慰問に訪れる事も全て、人に化けたこの獣の算段の内だったのか。
炎と煙に巻かれつつある聖堂内に、外から他の団員の一人が踏み込んできた。
脇目も振らずに飛び込んできたのは、つい最近に騎士団に加入したばかりの青年。
その端正な容姿と明朗な性格で、まだ日は浅いが多くの人間が彼を知る所となっている。
そして、まだ成人すらしていないこの彼もまた、その類稀な才能と気質によって英雄と持て囃される人物であった。
彼はこの状況を確認し、悲愴にその表情を変える。
普段、あれだけ人懐っこい穏かな笑みを浮かべるその美しい面からは、想像もできない程に張り詰めて歪んだ顔だった。
しかしそれは、炎に呑まれている難民や仲間達の無惨な姿でなく、高熱によって軋み始めたこの堂内の様子でもなく、ただ中央に佇むその怖ろしい男の存在によって引き起こされているらしい。
彼の意識はその一点にのみ集約されていた。
男が振り返る。
そしてこの場で初めて、その口から低く硬い声が放たれた。
「久しぶりだな――」
同時に、男は目深に被っていたそのフードも脱ぐ。
表れたのは武骨で強烈な印象を持つ顔。口元を得も言えぬ程に赤黒く汚した、それでもやはり、それは人間の顔であった。
見ようによってはこの男もまだ相当に年若いかもしれない。
「なんで、こんな事を……!?」
端正な顔を悲痛に歪ませている彼が、言葉を喉から絞り出すようにして問うた。
男は強い光を放つその眸を橙色に照らされた床に落とした。意想外な事に、それはまるで目を伏せるかのよう素振りであった。
「お前には判らないさ」
そう短く漏らし、また貌を持ち上げ、正面を睨み据える。
その眼光を受け、相手はかっと眼を見開いた。それは何事かの覚悟を決めた者の顔つきであったろう。
事実として、彼は腰から細身の直剣を抜き放ち、一直線に男へ向かって踊り掛かっていた。
橙色に染められたこの空間に、突如として青白い雷光が翻った。
彼のその一連の動きがまるで一筋の稲妻のようだと――そう錯覚させるほどの速度であったが故だ。
一直線に正面から向かうと見せかけ、その直前で軌道を変えて弧を描く。
彼の身は、男のその背後を易々と獲っていた。
そして鋭い角度の剣閃が煌いた。
だが男は相手を見もせずにただ上体を右に傾ける。
たったそれだけの動きで、彼の剣筋の軌道から身を避けさせた。まるで男はその動き、その戦法を熟知しているかの如く。
そして振り返ると同時に、その凶悪なまでに隆起した太い腕を轟然と突き出す。
カウンターに近い状態で男のその掌底が相手の顎を捉える。
中空で仰け反るその身をさらに片腕で掴み取り、床へと真っ逆さまに投げ落としている。
背中で床板を割った彼の身が地にのめり込みつつ、大の字で投げ出された。
「この期に及んで、まだ急所を避けて狙うか」
先程の彼のその位置からならば、確かに左の脇腹から男の心の臓を突き刺す事も可能であったろう。
しかし男も、無防備に横たわり、意識を朦朧とさせている相手に止めの一撃を加えようとはしなかった。
ただフードを目深に被り直し、建物全体に火の手が及びつつあるこの場を後にしようとする。
「……待て……よ……」
だが、瞼を痙攣させている彼は、それでも身を起こそうと足掻く。
必死に横這いになり、膝を立てていた。
「何で……こんな事を……続けるんだ……? ――何でだよ?!」
顔だけをそちらに向け、蹲る彼にフードに半分隠れたその眼をくれた。
「言っただろう、お前に判りはしない。そして、解らなくていい事だ」
「何だよ、それ……何なんだよそれ?!」
しかし、男はそれ以上の言葉を返さない。
天井や梁が燃え落ち、見る間に崩壊していくその場からただ姿を晦ましたに過ぎなかったのだ。
「一体、どうしちまったんだよ……!? なあ、シオ――!!」
残されたその場に、悲痛さと遣り切れなさを滲ませた彼の叫びが高く木霊した。