花火の観覧席は砂浜に沿って設けられているけど、双葉が向かったのは屋台で賑わう道路を挟んで反対側の山の方だった。
 獣道かと思うような細い山道に入り込む。一応歩きやすいように締め固められてはいたけど、周囲は木々が生い茂っていてどこに繋がっているか見当もつかなかった。
 ウキウキと上機嫌な双葉に続いて十分程細い山道を歩くと、急に空間が開けた。既に日が落ちているから薄ぼんやりとしか見えないけど、色あせた鳥居がそびえている。なにやら神社のようだったけど、社のような人が入れる建物はなく小さく古ぼけた祠があるだけだ。そんな不思議な場所を双葉は勝手知ったる様子で進んでいく。
 海に向かってそびえる真っ赤な鳥居――色はすっかり褪せてしまっていたけど――を抜けると、その先は山を覆う木々はなく、海を一望することができた。そのまま双葉は塗装がボロボロになったベンチに腰を掛ける。
 自分の隣をポンポンと手で叩く双葉に促されて隣に腰を掛けると、海に向けて据えられたベンチからは砂浜や花火の打ち上げを今か今かと待つ人たちがよく見えた。

「特等席みたいだ」
「でしょでしょ! ここ、私しか知らない特別な場所なんだ!」

 僕の言葉に、隣に座る双葉の顔がぱっと華やぐ。

「小学生の時にここを見つけてね、それからはずっとこの景色、独り占めしてきたの」

 双葉は足をゆっくりと前後に振りながら、得意げな顔で視線を海へと向ける。
 もうすぐ海から花火が上がる。周囲の人を気にする必要もないし、海からの風と木々に囲まれて涼しいこの場所は間違いなく特等席だ。

「独り占め、ってことは」
「うん。ここに来たのは私以外じゃ拓真が初めてだよ」

 夏の風が双葉の肩越しまで伸びた髪を柔らかく揺らす。
 その横顔にまたしても意識を奪われる。夏の夜の濃厚な匂いも、世界から忘れ去られたような祠も、双葉を引き立てるための舞台装置のようだった。
 ゆっくりと双葉がこちらを向く。普段は無邪気な笑顔を見せる双葉だけど、今の双葉は妖艶という言葉がぴったりと来る。ほんの少し、僕と双葉の距離が縮む。

「あのね、拓真。私ね、拓真の脚本を演じてると、なんだか――わわっ!?」

 ポツリと落ちてきた大粒の雫に双葉の言葉が途切れた。
 そのままポツポツと降ってきた雨は、瞬く間にザアザアと強い雨へと変わっていく。突然のゲリラ豪雨は海への視界を遮る程激しく降りしきる。
 どこか雨から身を隠せる場所を探すけど、ここには小さな祠があるだけで雨をしのげそうにない。結局、転ばないように気を付けながら登ってきた山道を駆け下りるしかなかった。
 堤防沿いの道に出ると、僕たちと同じように雨から逃れようとする人たちであふれかえっていた。雨宿りできるようなお店もないから、みんなして濡れネズミになっているんだけど。
『本日の花火大会は、雨のため中止に――』
 雨音で切れ切れになりながら放送が流れる。だけど、周囲はそれどころではなく突然の雨から逃げまどっていた。

「どうしよう……」

 僕の前を走っていた双葉がピタリと立ち止まり振り返る。さっきまでの笑顔は影も形もなく、その瞳が不安げに揺れていた。
 ここからもう少し移動すれば雨宿りできるような場所もあるかもしれないけど、みんな考えることは同じだと思う。それに、この雨がどれくらい降り続くかもわからない。
 既に濡れ切ってしまっているし、今から雨宿りをしてもかえって身体が冷えてしまうかもしれない。

「ちょっと大変だけど、このまま帰ろう」

 辺りは雨から逃げまどう人たちで入り乱れている。はぐれてしまわないように双葉の手を引いて、駐輪場へと向かう。濡れた服は重く冷たかったけど、繋いだ手だけが熱い。極力その感覚を意識しないようにしながら駐輪場までたどり着く。

「それ、預かるよ」

 双葉が身に着けていた狐のお面をカバンの中に入れ、勢いの衰えることのない雨の中、自転車を漕ぎ出す。
 顔に当たる雨が痛い。やっぱり普通に雨宿りした方がよかったかなと少し後悔したけど、ここまで来たら少しでも早く帰って体を温めた方がいい。時々振り返って双葉がついてきていることを確認しながら自転車を漕ぎ続ける。
 しばらく自転車を漕いでも、ゲリラ豪雨はいっこうに止む気配がない。容赦なく降りかかる雨に溺れてしまいそうな感じがした。

――ガタンッ!

「わわわっ!」

 雨音に紛れて後ろから鈍い音と双葉の悲鳴が聞こえてきた。
 振り返ると、双葉は転ぶ寸前で踏みとどまっている。クロスバイクを放り投げるようにして急いで駆け寄り、双葉の身体を支えるようにして自転車から降ろす。どうやら双葉の自転車はチェーンが外れているようだった。少しいじってみるけど、視界も悪いしすぐには直せそうにない。
 どこか、落ち着いた場所は。辺りを見渡すと、来る途中に話題にした例の橋が目に入った。

「あそこに一旦避難しよう!」

 チェーンが外れて動かしにくくなった双葉の自転車を僕が押して、代わりにクロスバイクの方を双葉に運んでもらう。どうにか橋の下に逃げ込み、コンクリートの護岸の上で一息つく。
 雨に直接打たれなくなったからか、川を打つ激しい雨と轟々という川の流れがより強く聞こえた。暗くてよく見えないけど、僕らの少し先では濁った川が勢いよく流れているのだろう。
 雨が降り込んでくることはないけど、あまり落ち着ける場所でもない。そもそも、僕も双葉も全身びしょ濡れだった。早く自転車を直そうとスマホのライトで自転車を照らして状態を確認する。

「うわあ、これは……」

 チェーンが外れていただけだと思っていたけど、途中で切れてしまっていた。確かに花火会場に向かうときから鈍い音はしていたけど、この雨の中を急いで漕いできたことがとどめになってしまったのかもしれない。

「どう、直せそう?」
「無理だね。参ったな……」

 通学でつかっているクロスバイクには丈夫な荷台を取り付けているけど、この雨の中を二人乗りというのはぞっとしない。ここからなら歩いて帰るということもできなくはないけど、その間雨に打たれ続けるのもよくないと思う。

「ここで雨宿りするしかないかなあ……。ごめん、こんなことなら無理して帰らなきゃよかったね」
「ううん。私の自転車がボロボロだったから……」

 雨に打たれないとはいえ、服は濡れて体は冷え始めている。最悪、僕は風邪を引いても構わないけど、演者の双葉が風邪をひくのはよろしくない。
 そういえば、こんな時に役に立つものがあるんだった。

「双葉。これ使って」

 カバンの中に入れていた大きめのタオルを双葉に渡す。射的の時にまぐれでとれたものだけど、防水のカバンに入れていたおかげでちゃんとタオルとしての機能を果たせそうだった。しょっぱい景品だと思ってたけど、まさかこんな出番が回ってくるとは。

「えっと、拓真は?」
「こう見えて、結構頑丈だから」

 笑ってみたつもりだけど、うまくできていたかはわからない。どっちみちこの暗さじゃ双葉には表情まで見えてないと思うけど。正直寒かったけど、大きめのタオルとはいえ二人でシェアしようとしたらよほど密着しないといけないし、それを提案するほどの勇気はなかった。

「……ありがと」

 少し悩んだようだったけど、双葉はタオルを受けとって肩から羽織る。ないよりまし程度だろうし、あとは早く雨が止むのを祈るしかない。
 スマホのバッテリーも念のため温存したいから、橋の下の暗がりで二人身を寄せるようにして――ギリギリ触れないくらいの距離感で膝を抱える。

「……暗いね」

 雨の音と川の音、それから双葉の息遣いだけが聞こえる。それに加えてポツリと双葉が漏らした声は不安そうだった。夜の橋の下は遠くの街灯から漏れる光が届くくらいで、手を伸ばした先もよく見えない。

「あ、そっか。蝋燭もあるかも」

 カバンの中にもう一つ入っていた花火セットをとりだしてみる。こちらも濡れる事はなかったようで、手探りで中を漁ると火種用の小さな蝋燭が入っていた。それから、スマホのライトを頼りに橋脚の下に向かう。悲しいかな、この辺りは時々堤防の上からポイ捨てされるのだけど、狙い通り落ちていた使い捨てライターを今だけはありがたく拾わせてもらう。

「ついてくれよ……」

 カチカチという機械音だけが虚しく響く。それでも祈りを込めるようにして続けると、根負けしたようにシュボッという音とともに火が灯る。急いで蝋燭に火をつけると、蝋燭から仄かな明かりが広がった。
 暖をとるにはとても足りないけど、暗がりを照らす炎の明かりにほっと息が漏れる。ちらっと隣を見ると、双葉も少し安心したような表情で蝋燭の揺れる明かりを見つめていた。

「なんだか、こうなることがわかってたみたいな景品たちだね」

 双葉の言葉に頷く。どちらもくじ引きや射的で意図せず手に入れたものだけど、まさにこの夜の為に出番を待っていたかのようだった。だけど、贅沢を言わせてもらうなら。

「どうせなら、傘かレインコートが欲しかったかな」
「拓真は風情がないなあ」

 双葉が呆れたように笑う。さっきまで不安そうだった双葉が笑えたことにほっとして、強張っていた身体から力が抜けた。

「ね、せっかくだし花火もやろうよ」

 双葉の提案に少し悩む。少しでも体力を温存した方がいいと思うし、片付けもできないのだけど――うん、明日、朝一で片付けに来よう。マナー違反に目を瞑ろうと思うくらい、今は明るさが欲しかった。
 定番のススキ花火を何本か取り出し、半分程を双葉に手渡す。二人でそっと花火の先端を蝋燭の火に近づけると、シューッという音に導かれるように、炎の華が咲いた。
 蝋燭の微かな明かりだけで照らされていた世界に激しい光が生まれる。こんな風に花火の光と熱を感じたの初めてだった。炎が爆ぜる音が今は雨の音も川の流れも覆い隠して、目の前の光だけを見つめさせてくれる。

「じゃじゃん、二本同時!」
「双葉ってさ、時々高校生っぽくなくなるよね」
「ひどーい! 私は立派な大人ですー」
「ほら、そういうとこ」

 それに、時々って言ったじゃん。ススキ花火が放つ光の向こう側に、祠の傍で笑う双葉の姿が蘇る。あの一瞬はいつまでも忘れないんだろうなって予感があった。でも、もし文化祭で雄太の演芸部の出し物を巻き込んだ告白が成功したら。
 双葉の表情につられて僕まで笑っているはずなのに、胸の奥がズキリと痛い。そう、この時間も含めて、双葉にとってはデートの演技の延長線だ。
 双葉が二本、三本と同時に火をつけるからススキ花火はあっという間になくなって、残りは線香花火だけになった。こちらはちゃんと一本ずつ火をつける。パチパチと火が弾ける音の向こう側でサアサアという雨音が聞こえてきた。

「拓真の花火、よく見えない」
「そんなこと言われても」
「ほら、こっち」

 花火を持っていない双葉の左手が僕を引き寄せる。右腕がタオルを羽織った双葉に触れると、そのタオルを持ち上げた双葉が僕の左肩まで羽織らせた。そのままもう一度引き寄せられて、濡れたブラウスの感触が右腕に伝わる。
 隣にいる双葉にまで響くんじゃないかっていうくらい、心臓の鼓動がうるさい。目の前の線香花火よりも大きな音が鳴っている気がする。双葉はそんな僕のことをお構いなしに次の線香花火に火を灯す。
 ぱちり、ぱちぱち。双葉が手に持つに火の玉が唯一の光となって世界を照らす

「人生で一番綺麗な花火かも」
「……大げさだよ」
「えー。じゃあ、拓真はこれより綺麗な花火を見たことあるの?」

 盛大な打ち上げ花火なら、小さい頃に何度も見たことがある。その一つ一つに思い出だって詰まっている。こんな濡れネズミになりながらの花火よりも楽しい記憶であるはずなのに。

「ない、かも」

 僕が経験してきたどんな花火よりも、双葉とともに寒さに震えながら見るたった一つの火の玉の方が遥かに鮮やかだった。
 僕の右腕に当たる双葉の気配が大きくなる。それから僕らは線香花火が落ちるのを無言で見つめ、ぽとりと火の玉が輝きを失った時、雨音はもう聞こえなくなっていた。
 早く止んでほしいと思っていたはずなのに、止んでしまった雨が今は少しだけ寂しくて。
 それでも、いつまでもこうしているわけにもいかないから、名残惜しさを振り切るように立ちあがる。

「双葉の自転車は明日取りに来よう。花火の片付けもしないといけないし」

 クロスバイクを押して橋の下から道へと上がる。堤防に沿って灯る街灯の機械的な明かりは、いつもは何とも思わないのに今はやたらと眩しかった。
 クロスバイクの荷台に双葉が横向きに腰を掛ける。通学用に取り付けた頑丈な荷台は双葉が乗っても問題なさそうだった。クロスバイクで二人乗りなんて、こんな状況じゃなければ絶対にやらないけど。
 双葉の手が控えめに僕の服を握り、僕は慎重にペダルを踏む。向かい風が容赦なく僕の体温を下げていく。まあ、僕はいいんだ。この風が双葉に届いていなければ。少しでも早くという想いだけで自転車をこぎ進める。

「そんなに、急がなくていいよ」

 自転車を漕ぐ間、双葉が発したのはその言葉だけだったし、僕は何も言えなかった。
 少しだけゆっくりと川沿いの道を進む間、相変わらず雨の匂いを含んだ風は重たくて冷たかったけど、僕にそっと寄りかかる双葉と触れた部分だけは蝋燭の炎のように温かかった。