雄太と約束してから二日後、花火大会の約束の日になってもクライマックスシーンの改善案は思い浮かばなかった。もっとも、だからこそ花火大会に行くのだけど。
 夕方、高校の校門で自転車を傍らに双葉を待つ。花火大会の会場は川に沿って下っていけば自転車で一時間弱。高校の傍からバスでも行けるのだけど、この辺りでは唯一の花火大会ということもあってものすごく混むから、自転車で行くことにした。
 微かに日が傾いて色が変わり始めた空は一部に厚い雲が浮かんでいるものの、花火大会の開催には問題なさそうだ。天気予報では一時的に雨が降るかもしれないといってたけど、心配いらなそうでよかった。

「ごめん、お待たせー!」

 ギイギイと僅かに軋む音とともに双葉の声が響いてくる。
 白いブラウスにクロームイエローのスカートという格好の双葉が必死に立ち漕ぎしてこちらに向かって来ていた。
 ちらっと腕時計を見て見ると、まだ約束の時間の前だったけど、猛スピードで近づいてきた僕の目の前でギュギュギュと止まる。

「そんなに急ぐ必要なかったのに」

 双葉は手でパタパタと顔を仰いだ後、その手でビシっと僕を指さした。

「楽しい時間は一分一秒も待ってくれないんだよ」
「大げさだって」

 そもそも、これは本当のデートじゃない。楽しい時間というのも、一分一秒というのも大袈裟な感じがした。あるいは、双葉のことだから“デートを演じる”ことも楽しいってことなのかもしれないけど。

「でも、拓真も楽しみだから早く着たんじゃないの?」

 その言葉にすぐには返事ができなかった。なんだかそわそわして、家を早めに出てしまった。楽しみだったというかはわからないけど、じっとしているのが落ち着かなかった。双葉が調子に乗りそうだから、それをそのまま伝えたりはしないけど。

「その格好、自転車こぐの大変じゃないの?」
「いやあ、せっかくだからできるだけオシャレしたくて。本当は浴衣で来よっかなあとも思ったんだけど、流石に自転車漕ぐしね」

 露骨に話題を逸らしたのを気にせず、双葉が両手を広げてみせる。
 エネルギッシュな双葉と落ち着いた服装という正反対の組み合わせな感じもしたけど、双葉によく似合っていた。そういえば、双葉の私服をちゃんと見るのは初めてかもしれない。演劇用の衣装姿は何度も見たことあるんだけど。
 よく見るとメイクも普段と違う気がする。ターコイズ色のTシャツに黒のパンツという慣れた格好で来てしまったけど、僕ももう少し気合い入れた方がよかったかもしれない。
 いや、いやいや。これだってデートを演じるための衣装みたいなものだから。そんな風に自分に言い聞かせながらも、つい双葉をまじまじと見てしまう。

「えっと。いくら見惚れてるっていっても、そこまで見られると恥ずかしい、かな」

 そんな双葉の言葉にハッと我に返る。顔が熱いのは、その言葉が図星だったから。
 誤魔化すために小さく息をついて、双葉に背を向けて自転車のペダルを蹴る。漕ぎ慣れた白いクロスバイクはグイッと調子よく加速した。

「わわっ、待ってよ、拓真!」
「早く行かないと、いい場所なくなるよ」
「だからって、そんなに急がなくても!」

 言い訳のように答えるけど、日の光を浴びる形となった首筋が熱い。双葉の声を背中から受け流しながら風を切るように自転車を漕いでいく。
 学校を出てしばらくすると、いつもの川が見えてくる。堤防上の道に沿って川を下っていけば、目的の海辺まで行くことができる。
 初めのうちは顔を見られないように距離を開けて走っていたけど、落ち着いてきた今は双葉と並ぶようにして幅の広い道を自転車でこぎ進む。

「あ、拓真がいつも瞑想してる場所!」

 双葉が楽しそうに川を渡す橋の下を指さす。三日前、脚本のことを考えていたら双葉が乗り込んできた場所だ。

「瞑想はしてないし、そんなにしょっちゅういるわけじゃないけど……。というか、なんで僕があそこにいるって知ってたのさ」
「たまに稽古中に抜け出してるから、どこ行ってるのかなあってついていったことがあって」

 双葉がイタズラっぽく笑う。どうやらこの前が初犯ではなかったらしい。いや、どちらかといえば悪いことしてるのは稽古中に抜け出している犯人は僕の方なんだけど。

「で、いつもあそこで何してるの?」
「別に。一人で考え事したいときに、ちょうどいいというか」

 元々この辺りは僕の通学路で、堤防からあの橋の下に降りることができる細い道があるのは前々から気づいていた。去年、初めて稽古場を抜け出したときにどこか落ち着ける場所を探してるときに行ってみたら、人は滅多に来ないし、夏場も川沿いで涼しいしということで、こっそりとお気に入りの場所にしていた。

「ふうん。一人になりたいときって、どんなときなの?」

 隣に並んだ双葉が無邪気に首を傾げてくる。よもや自分が原因の一端とは思ってもいないようだった。これから花火を見に行くって時に空気を悪くする必要もないのだけど、妙に勘のいい双葉を適当に誤魔化せる気もしなかった。

「双葉とか雄太を見てると、実力の差みたいなのを明確に感じるんだよ。演劇への理解度とか、情熱とか。比べると目を背けたくなるような差を、さ」

 僕だって小さい頃から劇団で演劇に触れて来て、演劇は好きだし、知識も情熱も人並み以上にあるつもりだった。だけど、高校で出会った双葉と雄太は別格だった。
 出会ったというより、出会ってしまった、という感じだった。近くにいて圧巻されるほどの演技に、緻密かつ大胆に練り上げられた演出と部員を引っ張る手腕。

「二人が僕の脚本を演じてるのを見てるときが、一番その差を実感するんだ。僕の脚本は二人に引き上げてもらってばっかりで、もっといい素材を提供できれば、二人をもっと輝かせられるかもしれないのに。そんな時は情けなくなって、逃げ出したくなる」

 一度口に出したら、止まらなくなった。でも、うちの演劇部は大なり小なり似たような思いは抱えているはずだ。特に今年の県予選が優秀賞で終わった時、喜びと同時に自分の力不足を痛感した。
 わかってる。これは自己嫌悪に見せかけた嫉妬だ。そんなものを双葉に直接ぶつけてしまったことに今更後悔して、ペダルを漕ぐ足に力が入る。

「私は好きだよ。拓真の脚本」
「別に、そんな……」

 励ましてほしいわけじゃない。だけど、足が止まる。
 スピードを落とした僕に双葉がぐいっと自転車を寄せてくる。年季の入った自転車は双葉が漕ぐたびに小さく悲鳴を上げていた。

「初めて拓真の脚本を見たときね、今までにないくらいワクワクしたの。それは今も変わらなくて、新しい脚本を演じる度に楽しくて、ドキドキする」

 双葉の表情に嘘を言っているような気配はない。もちろん、双葉ほどの演者なら表情で僕を騙すくらいわけないのかもしれないけど、今の言葉はうわべだけじゃないという確信が不思議とあった。

「拓真が自分の脚本をどう思おうが勝手だけどさ。私が好きな脚本のこと、好き勝手に言わないでほしいな」
「それ、すごい矛盾してるじゃん……」
「女優だからね。矛盾の一つや二つ吞み込めないとやってけないの」

 双葉は凄いドヤ顔を浮かべているけど、そんな言葉初めて聞いた。言っていることは無茶苦茶だと思う。それでも、双葉の「好き」という言葉は、少しだけ自分の脚本を認めてもいいのかなと思わせてくれた。