放課後の美術部室で向かい合う二人。
『入賞、おめでとう』
『絵の描き方、教えてくれたおかげ』
 主人公がヒロインに手を差し出す。
『これからもずっと、お前と絵を描いていきたい』
 その言葉に大きく頷いてから、ヒロインは差し出された手を取る――

「なんか、違うんだよなあ……」

 海の近く、幅広い川を渡す橋の下、白い護岸のブロックに腰を掛けて脚本を捲ると自然と独り言が零れ落ちた。静かに川が流れる音だけが響く護岸。ここなら集中できると思って愛用のクロスバイクを飛ばして来たのだけど。
 なんか違う。それを上手いこと言語化できなくて、代わりにため息だけが溢れだしてくる。
 文化祭まであと一ヶ月、悩んでいる場合ではないのだけど、アイデアは全く浮かんできそうにない。

「なーに悩んでるの!」

 後ろから聞こえてきた声に慌てて振り返る。制服姿の女子が腰をかがめるようにして僕を覗き込んでいる。集中していたせいで近寄られていたことに全然気づかなかった。

「双葉、なんでここに?」

 今は演劇部の稽古中だろ、と尋ねると女子――双葉華純は腰に手を当ててちょっとムッとしたように身を起こす。肩越しまで伸びた仄かに明るい髪が川に沿うように吹き抜けた風に揺れる。
 夏休みが明けたばかりで放課後もまだ熱気が残っているけど、日陰になっている橋の下は風が吹くと一時の間涼しさに包まれる。

「我らが脚本家様が部室にも稽古場にもいないから、探しに来たんじゃん」
「いや、僕がいなくても稽古できるけど、双葉がいなかったら困るでしょ」

 演劇部は来月の文化祭で披露する演劇の稽古の真っ最中だ。脚本は一応一通り仕上がっているから、僕の最低限の役割は終わっている。それに対して目の前にいる双葉はうちの演劇部の主演女優で、今度の演劇でもヒロインを演じる。当然、出番も多いから稽古の最中にフラッと抜けられるような立場ではない。

「拓真がいないと私が困るの。相談したいところも色々あるし」
「演技なら僕より雄太に聞いた方がいいんじゃない?」
「でも、脚本の意図は拓真が一番わかってるでしょ」

 うちの演劇部で中心となる演出を担う雄太の名前を出してみても、双葉は動こうとしない。
 その為だけにわざわざ自転車を漕いでこんなところまで来るとは思えなかったけど――双葉の自転車ってけっこう年季の入ったママチャリだし――それ以外に双葉がここに来る理由も思い浮かばなかった。

「聞きたいところ、どこ?」

 高校の演劇部に入ってから一年半ほどの付き合いだけど、こういう時の双葉はテコでも動かないから素直に言うことを聞くのが一番早い。
 それに、双葉が間違っていることを言っているわけでもなく、稽古中の部を抜け出したのは僕の方だという負い目もある。
 手に持っていた脚本を渡すと、双葉は僕の隣に腰掛けてパラパラと捲る。ざわざわと再び吹き出した夏の風が再び双葉の髪を揺らし、僕の首元をくすぐった。

「ここ、ヒロインが主人公とケンカするところだけど。確かに主人公がデリカシーないこと言うけど、ヒロインがそんなに怒る理由ってなんなのかなって」
「直接的な言葉じゃないけど、主人公の言葉がヒロインのトラウマを抉ってるんだ。ここで関係をガタンと落とすんだけど、その後に主人公の行動で少しずつトラウマを乗り越えていって、ヒロインが主人公に惹かれていく伏線でもあるんだけど」

 双葉が演じるヒロインは幼い頃から絵を描くことが好きで、将来も絵と関わる仕事をしたいと思っていた。だけど、親はその夢を否定し、また、ヒロインが描いた絵も殆ど評価されないまま過ごすこととなる。中学生の頃、親に押し通されるように絵を描くことを捨てたヒロインが、入学したばかりの高校でとある美術部員と出会うところから舞台は幕を開ける。

「なるほど、そっちと繋がってるんだね。流石は拓真センセー」
「センセーはやめてよ」

 双葉は脚本をパラパラとめくりながらふんふんと頷いている。ざっとした説明で理解してしまうあたりははさすがなのだけど、その呼び方はどうしようもない居心地の悪さが付きまとう。

「いいじゃん。うちの演劇部が久しぶりに優秀賞をとった脚本書いてるんだし、センセーでしょ」

 そんな言葉とともに双葉の手が僕の背中をぽんっと押す。確かに、この前の高校演劇の県大会でうちの演劇部は全国大会進出こそ逃したものの、十何年かぶりの優秀賞を獲得した。だけど、双葉の言葉に素直に受けるわけにはいかない。

「あれは、双葉の演技が凄かったり、雄太が上手く演出してくれただけだから……」

 その時も主演としてヒロインを演じた双葉と、舞台全体をまとめ上げた雄太。この二人がうちの演劇部のエースで、劇の出来栄えを何倍にも引き上げている。二人にかかれば、並の脚本でも魅惑の舞台を創り出す。
 逆に言えば、僕の脚本のクオリティがもっと高ければ、全国大会に進めていた可能性だってあったはずなのだ。

「もしかして、そのことで悩んでるの?」

 双葉がどこか不服そうに口をとがらせる。双葉は僕の脚本を僕の実力以上に評価していると思う。だからこそ僕らの間にはギャップが生じるのだけど、少なくとも今の問題はそこじゃない。

「……悩んでないと言ったらウソになるけど、今は違うかな」
「じゃあ、なに?」

 元々すぐ隣に座っているのに、更に双葉が顔を寄せてくる。
 間近からじっと見つめてくる瞳がなんだか居心地が悪くてソワソワする。悩みの中身を適当に誤魔化しでもしたら、すぐに見抜かれる感じがした。別に隠すようなものでもないからいいんだけど。

「恋愛って難しいなあって」
「れ、恋愛!?」

 双葉が調子の外れた声をあげる。そんなに驚くことでもないと思うのだけど、ぱっちりと見開かれた目が先ほどまでとは違う感じで僕を凝視していた。そんな変なことを言ったつもりはないのだけど。

「た、拓真、好きな人ができたの!?」
「あー。そうじゃなくて」

 どうやら双葉は斜め上の誤解をしているようだった。てか、仮にそうだったとしても、そんなに驚くことないでしょ。
 双葉が手に持つ脚本をそっと取り上げてパラパラとめくる。どちらかといえば身内向けな文化祭用の脚本ではあるけど、今の僕に書ける一番の脚本を書いたつもりだ。だけど、内容に満足しているとはとても言えなかった。

「恋愛物ってこれまでちゃんと書いたことなかったし。特に、ラストの告白シーンなんてテンプレそのままみたいな感じで。あまり二人の心情を組めてない気がするんだよね」

 元々、僕が得意とするのはヒューマンドラマとか青春系で、この前の県予選も友情を軸とした青春物だった。恋愛要素を入れた脚本を書いたことはあったけど、恋愛メインで書くのはこれが初めてだった。
 演出の雄太から「これを機に恋愛物にもチャレンジしてみよう」と強く言われて書いてみたものの、辛うじて人前で披露してもいいのかなってレベルが限界だった。何か違うと思うのだけど、どうすれば良くなるかがわからない。
 これが今の僕の限界ということなのだと言われれば、それまでだけど。

「うーん。例えば……恋愛物が苦手なのは、拓真の恋愛経験値が低いから、とか?」

 双葉は無邪気な顔のまま容赦のないことをズケズケと言ってきた。確かに、僕にはこれまで彼女なんて存在がいたことはない。
 恋愛物を書くのに恋愛経験が必須ではないはずだけど、色々な経験がある方が書ける幅が広がるのは間違いないだろう。そんなことは僕だってわかってるけれど。

「今更そんなこと言われたって、どうすりゃいいのさ」

 恋愛物の脚本を書きたいから恋愛しますってわけにもいかない。彼女を作るのはもちろん、片思いだってしようと思ってできるわけではない。
 というか、双葉はどうなんだろう。稽古の方は順調みたいだけど、実際の経験が恋愛物のヒロインを演じるのに役立ってたりするんだろうか。流石に僕の方からそれを聞くのはマナー違反な気がするから、小さく息をついて双葉の返事を待つ。

「ね、ね。実際に付き合うっていうのは難しいかもしれないけどさ」

 そんな言葉とともにニッと笑った双葉が肩で小突いてくる。その弾みで肩越しに漂ってきたふわりと甘い香りに、言いようもない罪悪感みたいなものが湧き上がってきて双葉から視線を逸らす。
 海に向かって静かに流れている川は一定ではなく、所々ざわざわと波立ったり小さな泡を作りながら下っていく。

「今週末の花火大会さ、デートしようよ」
「……え」
「もちろん、本気のデートってわけじゃなくて、演技みたいな。それっぽい経験したら、もしかしたらいいアイデア浮かぶかもしれないでしょ?」

 視線を逸らしたばかりなのに思わず双葉の方を振り向いてしまう。双葉は楽しそうにコロコロ笑っているけど、本当のところ何を考えているのか。僕には女優の表情を見破ることはできなかった。
 断る理由をいくつか探してみたけど、どれもピンとこない。それに、脚本が行き詰っている現状、できることはなんでもしたかった。双葉の言う通り花火大会でアイデアが浮かべば御の字だし、ダメでも気分転換くらいにはなるかもしれない。
 どうせこれは演技、なのだし。

「まあ、いいけど」
「じゃあ、決まりねっ!」

 ちょっと拗ねたようになった僕の声など気にすることなく、もともと笑っていた双葉の顔がぱあっと更に明るくなった。