「おい、おい大丈夫か晴太」
「だ、大丈夫っす……いや、だいじょばないっす」
「両方とも鼻血出てるじゃん、早く保健室行け」
「ふぁい」
 先輩から受け取ったティッシュくらいでは治まりそうにない。晴太はまともにサッカーボールを食らった自分の鼻を押さえながら、保健室へ向かった。夏休みだし養護教諭がいるかどうかは分からないけれど、行ってみればウェットティッシュよりもう少し役に立つものがあるだろう。

「失礼しまーす。先生すいません鼻血が」
 ガラガラと保健室の引き戸を開けるも、案の定人のいる気配はなかった。
「だ、よねぇ」
 薬棚はもちろん鍵が掛かっていて勝手には開けられないけれど、脱脂綿ぐらいなら使っても構わないだろう。
 このまま練習に合流出来ないのは時間が勿体ない、すぐに止まって欲しい。晴太は脱脂綿を両方の鼻に押し込み、少しでも早く止血しようと首を上に向けた。

「駄目だよ、上を向いても意味はない。キーゼルバッハ部位を押さえるんだ」
「へ?」
 だれもいないと思ったら、救護ベッドを囲むカーテンが小さく開いた。一人の男子生徒が、腰掛けているベッドから手を伸ばして顔を覗かせている。その顔に晴太は見覚えがあった。

「そこの椅子に座って。顎を少し引いて。小鼻のあたりを親指と人差し指で摘まんで」
「う、うん」
「先生は今職員室だ。呼んでくるからちょっと待ってて」
 図書室で見たあの横顔の持ち主、清沢柚月はそう言ってベッドから立ち上がる。
「え、だって具合が悪くて寝てたんじゃ」
 晴太は慌てて一緒に立ち上がった。「動くな」柚月に短く制され、再び慌てて腰を下ろす。

「ちょっと脳しんとうを起こしただけだ。休んだからもう平気だ」
 柚月の顔から見て取れる表情は乏しく、むしろ怒っているようで、晴太はそれ以上何も言い返せない。ぱたぱた、と廊下に響くスリッパの音を聞きながら、言われた通りに小鼻を強く摘まんで俯いた。下を向いていて、果たして血は止まるのだろうか。

 養護教諭が戻って来る頃には、確かに鼻血は止まっていた。
「一度詰め物を取り換えておこうか。君何部?」
「サッカー部です」
「そうか朝練か。完全に止まったら合流してもいいけど、激しく動くとまた出るかもしれない」
「練習メニューの様子見て決めます」
「そうだね。清沢君ありがとう。君はどうする?」
「体調良くなったんで、図書室へ戻ります」
「分かった。来室カードに記入しておいて。サッカー部の君も。名前は?」
「入江です、入江晴太」
「入江君。清沢君にお礼言っておいてね」
「はい」

 柚月が慣れた手つきで来室カードを取り出し、晴太の眼前にずいと突き付けた。戸惑う晴太に「怪我のやつ。自分で書くの」と不愛想な反応が返ってくる。

「あ、ああ。ありがとう、清沢」
 柚月とのコミュニケーションをどうしたら良いのか迷ったあげく、晴太は来室カードと先生を呼びに行ってくれたことへの二つの礼をまとめて返した。
「ん」
 不器用な言葉を気にする素振りもなく、柚月は自分の分の来室カードへ視線を落とす。その横顔は紛れもなく、晴太が昨日から忘れることの出来ないそれだ。