ちゃんとお礼言うのよ、と伯母さんから散々言われて家を出たけれど、まだ晴太に会えていない。
 妙に気恥ずかしい気持ちを抱えて、柚月は朝から自分の教室と隣の教室を行ったり来たりしていた。

 学年どころか同じクラスのやつの名前すら覚える気のない柚月の中で、入江晴太という存在が大きくなり始めている。友達は何人かいるけれど、こんな気持ちで相手の名前を呼ぶのは初めてだ。

「晴太」
 ようやく勇気を出して晴太のクラスの前で声を出してみる。しまった、二列目で机の上を片付けている晴太のところまでは聞こえないか。 
 もう一度呼ぼうとした時、晴太が柚月の声に気付いて顔を上げた。

 一瞬笑いかけたものの、何を思ったか晴太は表情をぎこちなくして、ずんずんと柚月に近寄ってくる。
 やっぱり呼び出さない方が良かったか? 違うクラスの、しかもあまり学校に来ないやつが顔を出したら物珍しがられるよな、そりゃ。柚月の気持ちは揺らいだ。

「おう、学校来れてよかったな」
 晴太の口調はいたって普通だった。なんだ思い違いか。ほっと肩の力が抜ける。晴太の動きや声の調子にいちいち反応してしまう自分を持て余しながら、柚月は目的の言葉を口にした。
「昨日、本持って来てくれてありがとな。ちゃんと言えてなかったと思ってさ」

……ぷっ。柚月の言葉を聞いて、晴太が吹き出した。
「な、何だよ。お前、人がせっかく真面目にお礼言ってんのに」
「いや、夏休みに同じようなことがあったなーと思ってさ」

 背丈のある晴太をむっとして見上げれば、晴太は「あの時はおれがお礼言い損ねてさ」と思い出し笑いをしている。

 そう言えば、保健室で鼻血が止まらなくて凹んでたよな、こいつ。同じ場面を思い出した。俺も晴太も、肝心なところで大事なことが言えないのは、似た者同士なのかも。

 教室からは少し死角になった、ドアと柱の間。二人だけの小さな空間で、柚月も尖らせた口元を緩めて笑った。

「今日、おれん家来る? 意外と近所なんだぜ、おれ達」
「あ、じゃあ行くわ。伯母さんがお礼に持ってけってドーナツあるんだよ」
「伯母さん? ああ、柚月の伯母さんだったのか」
「あ、うん。まあね」
 晴太には、まだ柚月の家庭のことは話したことがなかったけれど、何となく打ち明けてみてもいいような気がした。話せたら話してみようか。

「わざわざ作ってくれたの?」
「お菓子作りが好きらしいんだけど、披露する場がなかったんだってさ」
「おれドーナツ好きだからラッキー」
「じゃあ、後でな」
「おう。じゃな」

 次の授業の合図。放課後へのカウントダウン。自分の教室へ戻る柚月の足取りは、来た時よりも軽かった。