柚月に本を渡し終えて、しばらく高揚した気分でいた晴太の足取りは、自宅が視界に入ったところで重くなった。珍しく早めに仕事の終わった父親から「今日は晩飯作るからな」というメッセージを受け取ったからだ。
 時間があるのなら、言えないという理由も成り立たない。
 
 来週から進路相談が始まる。出席番号順だ。初日に当たる晴太は、観念して父親に進路を記入する用紙を渡した。
「おい晴太。こんな大事なもん、どうしてもっと早くに見せなかったんだ」
「ごめん」
「まあいい、俺も忙しくてずっと話を聞いてやれなかったからな。で、どうだ。行きたい大学はあるのか」
「いや……、まだ」
「特にこれと言ったところがなければ、先生と相談だな。大学へ行ってもサッカーは続けるんだろう?」

 来た。志望大学の相談よりもサッカーの話の方が、晴太の耳は痛い。離婚の際、晴太の環境を優先してくれた父親に、サッカーを辞めたいなんてやっぱり言い出しづらかった。
「う、うん。まあ」
「そうなると、絞られてくるよな。俺も会社の同僚に聞いてみるよ」
「ああ」
「どうした。浮かない顔だな」
「いや。勉強してくる」
「おう、頑張れよ」

 自分の部屋のドアを閉めると、晴太は大きく溜息を吐いた。次こそは言わなくちゃ。本当にやりたいのはサッカーじゃなくて写真だということを。
 机の上に置かれたカメラを見る。柚月に「写真を撮りたいんだ」と宣言した日から、さらに画像は増えた。柚月を真似して図書室で本を借りてみたり、久しぶりに兄へ連絡を取ってみたり、写真部に話を聞きに行ったり、自分の中で少しずつ固まりつつある夢。

 保護者の氏名を書いてもらった進路の用紙に、晴太は兄から教わった大学の名前をひとつ、書き込んだ。

「晴太」
 休み時間、ざわつく教室で晴太の名前を呼ぶ声があった。決して大きい声ではないのに、耳はその声をキャッチする。柚月センサーでもあんのか、おれ。 
 晴太は夏休みのあの日から蓄積していく微かな思いに戸惑いながら、声のした方に顔を上げた。
 教室のドアの前に立っている柚月を、近くのやつらは珍しそうに見る。柚月本人は、そんな視線など気にも留めていない様子で、いつもの不愛想な顔を晴太へ向けている。

 何となく。何となくだけれどいい気持ちはしない。柚月は、おれに用があって隣のクラスから来たんだぞ。昨日、柚月の家に本を届けたのはおれだし、柚月の書いたものを一番に読ませてもらったのも、おれだ。

「おう、学校来れてよかったな」
 晴太は柚月の元へ急ぐと、クラスのやつらの視線から隠すように柚月のそばに立った。晴太の陰に隠れてやつらからはもう見えない。
 説明の出来ない胸のざわつきに、晴太は曖昧な笑顔を浮かべた。