私の実母はどうしようもない人だった。
沢山の男と愛し合っては別れを繰り返し、誰の子かも分からない私を産んだ。
ママの口癖は「ずっと側にいるから。」
独りぼっちの散らかった部屋でいつもママの帰りを待っていた。たまに帰ってくると忙しそうに支度をして、すぐに出て行こうとする。
「行かないで!」と泣くとママは私を抱きしめ、あの口癖を言う。置いていかれないように必死で起きていようとした。でも、いつも私はママの腕の中でいつの間にか眠りについていた。
ある日を境にママが帰ってこなくなった。5歳の誕生日。残暑の部屋で食べ物も底を尽き、動けなくなった私は駆けつけた警察官に保護された。
たまたま配達に来た宅配便の人が私を見つけてくれた。玄関のドアは開け広げられていたそうだ。
それからは親戚の家を転々とした。ママは一向に見つからず、そのうちに顔も思い出せなくなった。どの家に行っても、居場所なんてなかった。
最初はみんな憐れんだ目で「「これから清夏ちゃんのずっと側にいるからね。」」と言った。
それから、だんだん私が邪魔になり、母に関する酷い話を聞かされるようになって、最後は「「あんな人の子だから。」」と言って私を手放した。
小学校に上がった頃、あなたは現れた。第一印象はスーツ姿の眼鏡をかけた真面目そうなお兄さん。青空というより紺碧の空という言葉が似合う人。
無口で無表情なあなたが苦手だった。でも、この人もいなくなる。そう思っていたから、平気だった。
ある日、あなたは言った。
「清夏ちゃん。僕もね、君と同じで家族がいないんだ。…だからさ、僕と家族になるのはどうかな?」
「…はい。」
家族がどんなものかを知らない私は訳も分からず、返事をした。その時、初めてあなたの笑顔を見た。安心したような、何かを決心したような今でも忘れられない笑顔だった。
私はあなたのことを「青野さん。」と呼んでいた。
それからしばらくして、あなたは私を連れてある女の人と会うようになった。
「初めまして、清夏ちゃん。素敵なお名前ね。」
微笑んだその人は私の求めていた優しい母親そのものだった。
8度目の誕生日。私は自分の誕生日が嫌いだった。家にいると息苦しくなってしまう私をあなたは外に連れ出してくれた。
「…お母さん。」
私は無意識に呟いていた。
「本当のお母さんに会いたい?」
不安そうに訊ねる青野さんに私は首を横に振る。
「ううん。最近、会ってる優しいお母さんみたいな人。」
あなたは優しく笑い、それから誰かと電話で話をしていた。
家族連れや夫婦が並び歩く休日の河川敷。その人は嬉しそうな顔で待っていた。
「清夏ちゃん。今日は息子も一緒なの!」
そう言うと、その人の後ろに隠れていた私と同い年くらいの男の子は黙って走っていってしまった。
「清夏ちゃん、これをあの子に渡して来てくれるかな。まだ暑いから、熱中症にならないように。
あの子はそらくんって名前なんだよ。」
「そらくん?わかった!」
あなたからペットボトルを受け取り、男の子の元へ走る。
男の子は河川敷の日陰で不貞腐れたように川に向かって小石を投げていた。
「そらくん。これあげる。」
男の子は恥ずかしそうに受け取った。
「ありがとう。…名前は?」
「清夏っていうの。ちょっと貸して。」
ペットボトルを手に取り、蓋を開けて水を少し垂らす。あなたが教えてくれた清夏の漢字を指を使って水で地面に書き出す。それを見た男の子は顔をパッと明るくさせて「僕と同じだね!」と言い、清夏の文字に空を書き足した。
「僕は夏空って書いてそらって読むんだ。」
それからふたりで笑い合い、すぐに仲良くなった。
私は男の子のことを夏空と呼び、男の子は私のことを清夏と呼んだ。
その日、私は恋をした。ママは沢山の男の人と一緒にいたけど、私はその男の子だけでいい。夏空がいい。君と一緒に居られればそれだけでいい。
あっという間に時間は過ぎ、遠くから私たちを呼ぶ声がする。駆け戻ろうとすると君は、私を引き止めた。
「清夏、僕たち大人になったらさ。結婚しようよ。」
「うん。」
私たちは決して叶うことのない約束をした。
家に帰ってあなたとケーキを食べた。
「来年の誕生日はみんなでお祝いするのはどうかな?」
「夏空も?うん!みんなでお祝いしよう。」
あなたは嬉しそうに笑った。
それからすぐにあなたと君のお母さんが結婚をして、私たちは家族になった。
ロウソクが増えていくにつれ、君は私のことを《姉ちゃん》と呼ぶようになった。そして、私たちはあの日のことを話さなくなった。それでも幸せだった。誕生日に家族でケーキを囲んで笑い合う。それだけで充分だった。
妹の美桜が生まれ、弟の冬馬も生まれた。私たちはゆっくりと家族になっていった。初めてこんなに温かい私の居場所が出来た。
《血の繋がらない姉弟は結婚できる》
でも、大切な居場所を、幸せな時間を壊したくなくて。この想いは閉じ込めた。誰にも知られないように。
16歳の誕生日、家族全員でケーキを囲んだ。あなたは私に微笑む。
「僕と家族になってくれてありがとう。来年も再来年もこうしてみんなでお祝いをしようね。清夏ちゃんが大人になって僕の元を離れても、父親として、家族として、ずっと側にいるからね。」
あなたならずっと側にいてくれる。優しい笑顔を見ながらそう思った。
でも、それからすぐにあなたとお母さんは天国へと旅立った。あまりに突然で、どこか他人事のように思えて、涙なんて流れなかった。
「ずっと側にいるから。」は私にとってサヨナラの言葉。
+++
葬儀の日。
あなたの友人から聞いた、あなたと私は血が繋がっていないと。親戚をたらい回しにされている私のことを知ったあなたは私を引き取ることを熱望した。そんなあなたに好奇の目を向ける人もいたそうだ。
私を引き取ったあなたは「清夏ちゃんに家族を作ってあげたい。僕が小さい頃に憧れていた様な温かい家庭で育って欲しい。」と言っていたそう。
あなたは私と同じような境遇で、幼い頃の自分と重ねていたのだろう。
あなたの遺影を見つめながら想い出していた。初めて会った日のことを。幼い私は気づけなかったけど、あなたはまだ若かった。無表情だと思っていたその顔は私とどう接したら良いか分からず、戸惑いながら必死に考えているようだった。口下手で人と関わることが苦手だったはず、恋愛なんてもっと。それでも、不器用に必死になって家族になってくれた。居場所を作ってくれた。
そんなあなたのことを私は、…最後まで「お父さん」と呼ばなかった。
蘇るのは幼い頃の記憶。手を繋いでいるあなたを見上げる。
《お父さん。》そう呼んでみたかったけどなんだか恥ずかしくて、「…青野さん。」そう呼ぶと、
あなたは「なんだい。」と少し悲しそうに笑った。
「…お父さん。」
写真の中のあなたに呼びかける。
涙は止まることなく溢れた。
「姉ちゃん。大丈夫?」
心配そうに君が歩み寄る。周りでは私たちの引き取り手の話しをしている。
その時、君に良く似た男の人が私たちの前に現れた。君の実父ということは一目で分かった。
「…夏空くんだよね?少し2人で話がしたい。」
君を引き取りに来たんだね。家族はバラバラになっちゃうんだね。
すぐに君が駆け戻ってきた。君の実父が「僕と一緒に暮らそう。」と追いかけてくる。
君は私の手を握り、言った。
「僕は姉ちゃんと一緒にいたい。姉ちゃんが良い!!」
写真の中のあなたが目に入る。あなたが私にくれた大切な居場所をこの人に壊されたくない。
「…夏空は、弟妹は私が育てます。」
高校生の私にそんなこと出来るわけないと分かっていた。でも、
「無理だろ。だって君はまだ…」
君の実父の言葉を遮るように言う。
「高校を辞めて、働きます。…あとは夏空が決めることです。」
君を見ると君は優しく笑った。まだ私より背が小さく、声変わり前の君を守りたいと強く思ったんだ。
それからすぐに高校を辞め、自宅近くにオフィスがある企業に就職をした。高校生活に未練はなかった。それよりもかけがえのないこの家族を守りたかった。
『ねえ、お父さん。あなたが大切に守ってくれたこの家族を今度は私が守るから。もう大丈夫だよ。』
今日も紺碧の空を見上げながらあなたを想い出す。紺碧の空に住む彼方へ。
沢山の男と愛し合っては別れを繰り返し、誰の子かも分からない私を産んだ。
ママの口癖は「ずっと側にいるから。」
独りぼっちの散らかった部屋でいつもママの帰りを待っていた。たまに帰ってくると忙しそうに支度をして、すぐに出て行こうとする。
「行かないで!」と泣くとママは私を抱きしめ、あの口癖を言う。置いていかれないように必死で起きていようとした。でも、いつも私はママの腕の中でいつの間にか眠りについていた。
ある日を境にママが帰ってこなくなった。5歳の誕生日。残暑の部屋で食べ物も底を尽き、動けなくなった私は駆けつけた警察官に保護された。
たまたま配達に来た宅配便の人が私を見つけてくれた。玄関のドアは開け広げられていたそうだ。
それからは親戚の家を転々とした。ママは一向に見つからず、そのうちに顔も思い出せなくなった。どの家に行っても、居場所なんてなかった。
最初はみんな憐れんだ目で「「これから清夏ちゃんのずっと側にいるからね。」」と言った。
それから、だんだん私が邪魔になり、母に関する酷い話を聞かされるようになって、最後は「「あんな人の子だから。」」と言って私を手放した。
小学校に上がった頃、あなたは現れた。第一印象はスーツ姿の眼鏡をかけた真面目そうなお兄さん。青空というより紺碧の空という言葉が似合う人。
無口で無表情なあなたが苦手だった。でも、この人もいなくなる。そう思っていたから、平気だった。
ある日、あなたは言った。
「清夏ちゃん。僕もね、君と同じで家族がいないんだ。…だからさ、僕と家族になるのはどうかな?」
「…はい。」
家族がどんなものかを知らない私は訳も分からず、返事をした。その時、初めてあなたの笑顔を見た。安心したような、何かを決心したような今でも忘れられない笑顔だった。
私はあなたのことを「青野さん。」と呼んでいた。
それからしばらくして、あなたは私を連れてある女の人と会うようになった。
「初めまして、清夏ちゃん。素敵なお名前ね。」
微笑んだその人は私の求めていた優しい母親そのものだった。
8度目の誕生日。私は自分の誕生日が嫌いだった。家にいると息苦しくなってしまう私をあなたは外に連れ出してくれた。
「…お母さん。」
私は無意識に呟いていた。
「本当のお母さんに会いたい?」
不安そうに訊ねる青野さんに私は首を横に振る。
「ううん。最近、会ってる優しいお母さんみたいな人。」
あなたは優しく笑い、それから誰かと電話で話をしていた。
家族連れや夫婦が並び歩く休日の河川敷。その人は嬉しそうな顔で待っていた。
「清夏ちゃん。今日は息子も一緒なの!」
そう言うと、その人の後ろに隠れていた私と同い年くらいの男の子は黙って走っていってしまった。
「清夏ちゃん、これをあの子に渡して来てくれるかな。まだ暑いから、熱中症にならないように。
あの子はそらくんって名前なんだよ。」
「そらくん?わかった!」
あなたからペットボトルを受け取り、男の子の元へ走る。
男の子は河川敷の日陰で不貞腐れたように川に向かって小石を投げていた。
「そらくん。これあげる。」
男の子は恥ずかしそうに受け取った。
「ありがとう。…名前は?」
「清夏っていうの。ちょっと貸して。」
ペットボトルを手に取り、蓋を開けて水を少し垂らす。あなたが教えてくれた清夏の漢字を指を使って水で地面に書き出す。それを見た男の子は顔をパッと明るくさせて「僕と同じだね!」と言い、清夏の文字に空を書き足した。
「僕は夏空って書いてそらって読むんだ。」
それからふたりで笑い合い、すぐに仲良くなった。
私は男の子のことを夏空と呼び、男の子は私のことを清夏と呼んだ。
その日、私は恋をした。ママは沢山の男の人と一緒にいたけど、私はその男の子だけでいい。夏空がいい。君と一緒に居られればそれだけでいい。
あっという間に時間は過ぎ、遠くから私たちを呼ぶ声がする。駆け戻ろうとすると君は、私を引き止めた。
「清夏、僕たち大人になったらさ。結婚しようよ。」
「うん。」
私たちは決して叶うことのない約束をした。
家に帰ってあなたとケーキを食べた。
「来年の誕生日はみんなでお祝いするのはどうかな?」
「夏空も?うん!みんなでお祝いしよう。」
あなたは嬉しそうに笑った。
それからすぐにあなたと君のお母さんが結婚をして、私たちは家族になった。
ロウソクが増えていくにつれ、君は私のことを《姉ちゃん》と呼ぶようになった。そして、私たちはあの日のことを話さなくなった。それでも幸せだった。誕生日に家族でケーキを囲んで笑い合う。それだけで充分だった。
妹の美桜が生まれ、弟の冬馬も生まれた。私たちはゆっくりと家族になっていった。初めてこんなに温かい私の居場所が出来た。
《血の繋がらない姉弟は結婚できる》
でも、大切な居場所を、幸せな時間を壊したくなくて。この想いは閉じ込めた。誰にも知られないように。
16歳の誕生日、家族全員でケーキを囲んだ。あなたは私に微笑む。
「僕と家族になってくれてありがとう。来年も再来年もこうしてみんなでお祝いをしようね。清夏ちゃんが大人になって僕の元を離れても、父親として、家族として、ずっと側にいるからね。」
あなたならずっと側にいてくれる。優しい笑顔を見ながらそう思った。
でも、それからすぐにあなたとお母さんは天国へと旅立った。あまりに突然で、どこか他人事のように思えて、涙なんて流れなかった。
「ずっと側にいるから。」は私にとってサヨナラの言葉。
+++
葬儀の日。
あなたの友人から聞いた、あなたと私は血が繋がっていないと。親戚をたらい回しにされている私のことを知ったあなたは私を引き取ることを熱望した。そんなあなたに好奇の目を向ける人もいたそうだ。
私を引き取ったあなたは「清夏ちゃんに家族を作ってあげたい。僕が小さい頃に憧れていた様な温かい家庭で育って欲しい。」と言っていたそう。
あなたは私と同じような境遇で、幼い頃の自分と重ねていたのだろう。
あなたの遺影を見つめながら想い出していた。初めて会った日のことを。幼い私は気づけなかったけど、あなたはまだ若かった。無表情だと思っていたその顔は私とどう接したら良いか分からず、戸惑いながら必死に考えているようだった。口下手で人と関わることが苦手だったはず、恋愛なんてもっと。それでも、不器用に必死になって家族になってくれた。居場所を作ってくれた。
そんなあなたのことを私は、…最後まで「お父さん」と呼ばなかった。
蘇るのは幼い頃の記憶。手を繋いでいるあなたを見上げる。
《お父さん。》そう呼んでみたかったけどなんだか恥ずかしくて、「…青野さん。」そう呼ぶと、
あなたは「なんだい。」と少し悲しそうに笑った。
「…お父さん。」
写真の中のあなたに呼びかける。
涙は止まることなく溢れた。
「姉ちゃん。大丈夫?」
心配そうに君が歩み寄る。周りでは私たちの引き取り手の話しをしている。
その時、君に良く似た男の人が私たちの前に現れた。君の実父ということは一目で分かった。
「…夏空くんだよね?少し2人で話がしたい。」
君を引き取りに来たんだね。家族はバラバラになっちゃうんだね。
すぐに君が駆け戻ってきた。君の実父が「僕と一緒に暮らそう。」と追いかけてくる。
君は私の手を握り、言った。
「僕は姉ちゃんと一緒にいたい。姉ちゃんが良い!!」
写真の中のあなたが目に入る。あなたが私にくれた大切な居場所をこの人に壊されたくない。
「…夏空は、弟妹は私が育てます。」
高校生の私にそんなこと出来るわけないと分かっていた。でも、
「無理だろ。だって君はまだ…」
君の実父の言葉を遮るように言う。
「高校を辞めて、働きます。…あとは夏空が決めることです。」
君を見ると君は優しく笑った。まだ私より背が小さく、声変わり前の君を守りたいと強く思ったんだ。
それからすぐに高校を辞め、自宅近くにオフィスがある企業に就職をした。高校生活に未練はなかった。それよりもかけがえのないこの家族を守りたかった。
『ねえ、お父さん。あなたが大切に守ってくれたこの家族を今度は私が守るから。もう大丈夫だよ。』
今日も紺碧の空を見上げながらあなたを想い出す。紺碧の空に住む彼方へ。