今日もこの場所に来た。僕にとっては特別な場所。この場所は約束のいらない魔法の待ち合わせ場所。
 あの人が誕生日プレゼントでくれたトートバッグの中を覗くとミルクティーのペットボトルが目に入った。
(喜んでくれたら良いな)
 バックの中から参考書を取り出し、いつもの階段に腰掛ける。
 夏期講習をサボるのには理由がふたつある。
 ひとつめは、あの人の前では優等生を演じてしまう僕の小さな反抗だ。
「夏期講習が良かったら、大学受験までずっと通って良いからね」
 塾に行かなくても大丈夫だよ。と言った僕に、あの人はそう言いながら笑った。そんなことになったら、あの人にもっと無理をさせてしまう。
 あの日、あの人の手を握り「僕は姉ちゃんと一緒にいたい。姉ちゃんが良い!!」
 そう言ったせいで、あの人は入学したばかりの高校を辞めた。それ以来、無理して笑うようになった。僕があの人から青春を奪ってしまったんだ。
「夏空!」
 不意に声が響く。声の先を辿ると遠くからあの人が手を振っていた。
 突風が芝生を揺らし、サワサワと音を立てた。セミロングの髪が透明な風に揺れる。夏空(なつぞら)を背にしたあの人は、太陽に照らされて輝いているみたいだ。
 ふたつめの理由は。あの人と2人きりで過ごせる、特別な時間を作るため。
「姉ちゃん!」
 今日もあの人をこう呼ぶ。一番近くにいる為に。
 あの人がゆっくりと近づいて来る。僕が精一杯の勇気を振り絞って「かわいいね」と褒めたロングスカートを風に揺らして。
 楽しそうに「暑いね」と顔を右手で(あお)ぎながら、ゆっくりと右隣に腰掛ける。
 吐息が聞こえそうな、少し動けば触れてしまいそうな距離で。
 平静を装って参考書に目を落とす。風が運ぶ、甘いムスクの香り。緊張で、呼吸の仕方さえ忘れそうになる。
「はい。これ」
顔を上げると目の前にペットボトルが差し出されている。
「夏空の好きなやつ」
「ありがとう」
 水滴のついたペットボトル。キャップを開けて、口に含むと生暖かい。それでも僕にとっては宝物。
 日向に置くとペットボトルはキラキラと光り、地面に影を伸ばす。
「夏期講習、なんでサボるの?」
僕は誤魔化すように参考書にまた目を落とす。
「ごめん。今日はちょっと気が乗らなかっただけ」
 掠れた声でそう呟く。
「じゃあさ」
 俯いた視界の隅であの人の髪がはらりと動く。
「これから夏期講習、サボらず全部行ったらさ。お姉ちゃんとデートしない?」
ハッと顔を上げるとあの人は右手に頰を乗せ、覗き込むように微笑んでいた。
 体温が上がる。顔が赤くなっていることが分かるくらいに。
本気(ほんき)で言ってる?」
 期待を隠して訊ねる。
「フフフッ。冗談だよ。やっぱり、夏空は可愛いね」
 揶揄うように笑った。
 あの人にとって僕は弟。今の僕は弟でいることでしか隣にいることができない。
「じゃあ、頑張ってね! 夏期講習」
 そう言いながら走り去ろうとするのを慌てて呼び止める。
「待って! 姉ちゃん。これ!」
 隠しておいたミルクティーのペットボトルを手渡す。「ありがとう」そう言ってあの人は、笑顔で僕に手を振る。「またね」って。
 遠ざかるあの人に聞こえない声で呟く。
「またね。……|清夏」
 あの人の誕生日に伝えるつもりだ。好きだ。って。弟としてではなく、恋人として隣を歩いていくために。あの日、交わした約束を守るために。
 ペットボトルの天然水を一気に飲み干す。それは初恋の味がする僕の好きな天然水。