あの人は言った。
「これからは好きなようにして良いから」

 言われなくても好きにするよ。僕らは他人になったのだから。
 あの人が僕のTシャツの裾を掴んだ。“行かないで”と縋るように。
 どうした?清夏?僕はどこにも行かないのに。ずっと側にいるのに。
 美桜に僕たちの会話を聞かれてしまった。美桜の言葉を止めなくてはいけないのに。どうすることも出来ない、あの人を守りたいのに。
 あの人は「ごめんなさい。」と呟いて外に飛び出した。

 夏夜(かや)のスコールの中へ。

「待って!」
《待って!清夏!》
あの人を追いかけようとした時、部屋の中に美桜の泣き声が響く。
 「どうしよう、お姉ちゃんが居なくなっちゃったら。…どうして、あんなこと言っちゃったんだろう。」
「大丈夫だ。あの人は居なくならないよ。お兄ちゃんもずっとここにいるし、美桜の家族であることは変わらないから。大丈夫だよ。」
そう言って美桜を慰める。
冬馬も起きて来ていた。
「僕が姉ちゃんを探してくる!」
そう言って駆け出そうとする冬馬を止める。
「お兄ちゃんが絶対、見つけてくるから冬馬は美桜のこと、しっかり見てて。」
「うん!」
そう言う冬馬の頭を撫で、あの人を追いかける。

 家の外に出ると風が強く吹いていた。漆黒の空を砕くように稲光が複数の線を描く。激しい向かい風と土砂降りの雨の中、僕はあの場所へと走り出す。

 きっとあの人はそこにいる。早く伝えなきゃ、僕の想いを。

 これからもあの人の側を離れないと。ずっと側に居たいと。

 清夏のことが好きだと。

 本当はあの人の誕生日に伝えるつもりだった。でも、そんなことはもうどうだって良い。僕は充分、待ったのだから。

 “成人(おとな)になるまで。”

 いつもの場所は暗闇と降り頻る雨のせいで全く別の場所のように見えた。暗闇に目を凝らす。

「…見つけた。」

 いつもの階段にしゃがみ込み、今にも消えてしまいそうなあの人を。

「清夏!」
大声であの人の名を叫び、駆け寄る。
「来ないで!」
「…姉ちゃん。早く帰ろう。」
そう言ってあの人の腕を掴む。
「離して!」
 あの人の両肩に手を置き、しっかりと見つめながら言う。
「大丈夫だから、美桜も本心で言ったわけじゃない。姉ちゃんのこと大好きだから、不安になってあんなこと言っちゃったんだよ。美桜も早く帰ってきて欲しいって思ってる。」

 あの人は泣きじゃくりながら言う。
「夏空は私のことを家族だと思ってずっと側に居てくれたのに、私が全然ダメだから本当のお父さんのところへ行っちゃう。」
「そんなことないよ。姉ちゃんに無理させたくないから。」
「無理なんかしてない、してないよ。夏空の為だったら、家族の為だったら私、なんだってするよ。夏空が側にいてくれるなら。
 美桜も冬馬ももう私のことを家族だと思ってくれない。どうしたらいいの?私はどうすれば…。

 ねえ、夏空は私の元を離れても家族だって、お姉ちゃんだって思ってくれる?」
縋るように見つめる目に僕はもう嘘が吐けない。

「…ごめん。俺、姉ちゃんのこと一度も家族だって思ったことない。一度も姉ちゃんだって思ったことない。」
そう言って真っ直ぐ目を見つめると、あの人の微かな希望を含んだ目は絶望へと変わり、大粒の涙が溢れる。

 もう気持ちが抑えられない。

 「好きだよ、清夏。初めてここで出逢った日からずっと。本当は姉ちゃんなんて呼びたくなかった。あの約束を叶える為に俺は清夏と他人になったんだ。
 清夏、結婚しよう。」
そう言って抱きしめる。

 あの日と同じように答えてくれるはずだ。だって、まだ僕のことを好きでいてくれている。あの約束を大切に覚えてくれている。

 でも、あの人の身体は震えている。

 「…駄目だよ。壊れちゃう、家族が。私の居場所が…無くなっちゃう。嫌、独りぼっちはもう嫌。」
あの人は消え入りそうな声で言った。

「大丈夫だよ。俺がずっと側にいるから。」
そう言い、頭を優しく撫でる。

「駄目なの。この家族じゃないと。ずっと私は独りぼっちだった。だから、初めて出来たこの家族が良い。この家族が無くなったら私は…。」

 僕はその時、初めて気がついた。あの人が一番大切なのはこの家族なんだと。ずっと暗闇の中にいたあの人の心に初めて灯った家族という灯火を僕が容易く吹き消してしまった。

 あの人と結婚できますように。と願いを込めて。

 あの人が求めていたのは恋人としての僕じゃない、
弟としての僕だ。

 ずっとあの人を見つめていた、一番近くで。

 あの人の心の傷を誰よりも知っていた、分かっていたのは僕なのに。目を逸らして、気づかないフリをした。
その度に傷ついて、苛立って、冷たくして、傷つけた。

 こんな僕を許してくれるだろうか。あの人の一番大切なものを壊してしまった僕を。笑顔になれる居場所を奪ってしまった僕を。こんな僕の側に居てくれるだろうか。

 “弟としてなら”

「ごめん…。ごめん、姉ちゃん。
 俺、これからはさ。ちゃんと姉ちゃんの弟になるから。戸籍上では他人でもこれからも姉ちゃんの弟として今までと同じように過ごすから。だから、俺まだ姉ちゃんの側にいていい?俺のこと許してくれる?」
縋るようにあの人を見つめる。
「…側にいて。ずっと、私の側にいて。夏空だけはいなくならないで。」
あの人が僕を見つめる。僕を必要としてくれる目で。
「分かったよ、姉ちゃん。俺はずっと側にいるから。
絶対いなくなったりしないから。“弟として”」
僕は精一杯の笑顔であの人を見つめる。

 お願いだから僕を嫌いにならないで。側から離れないで。そう祈りながら。

 夏夜のスコールが洗い流していく、僕の涙を。初めて出逢った日の想い出も、あの約束も、あの人を好きだという気持ちも、想い描いたあの人との未来も、全部、全部。無かったかのように洗い流していく。

 涙も枯れ果て、唯一、残ったのは、僕があの人の弟でなければ側には居られないという現実(こと)だけ。