すぐにでもこの場を去りたいけれど、痛む腰がなかなかそうはさせてくれない。
 なんでよりによって、雨宮とぶつかってしまったんだろう。
 きっとまた冷たい言葉を吐き捨てられる……そう、身構えるものの。

「……」
「……」

 え、なにこの空気!?
 さっきまで聞こえていた運動部の声さえも静かになって、痛いくらいの沈黙が流れる。

「……」
「……」

 こちらに向いているのは、憎たらしいほどに透明感のある金髪頭のつむじだ。
 雨宮はずっと俯いたままで、今どんな顔をしているのかすらわからない。
 一ミリたりとも動かないその姿に、徐々に心配が募り始める。

 え、い、生きてる……?

 いつもみたいに嫌味っぽいことを言うわけでもなく、こちらを睨みつけるわけでもなく、ただただ黙りこくっている雨宮。
 たまらなくなった私は、静寂を破った。

「だ、大丈夫?」
「……」

 声をかけても反応を示さない雨宮に、ハッと和佳の言葉を思い出す。

『軽く肩に触れた子がもう、目だけで殺されそうになったらしい』

 ……もしかして私、ピンチ?
 今のは、軽く触れたなんてもんじゃない。思い切り、全身で衝突してしまった。
  サーッと顔の色が青くなっていくのを感じる。
 雨宮、ブチ切れてるのかもしれない。怒りで顔を上げることすらできのかも……。

 このままだと私、殺られるかもしれない。そう思った私は、この場から逃げることを決めた。
 まだ、死にたくない……!
 しかし、立ち上がろうと地面に手を付くと──カシャン。指先が何かに触れて、軽い音を立てた。
 そこにあったのは……メガネ。落ちていたのは、細い銀縁の丸メガネだった。
 これはたしか、雨宮のやつだ。私はメガネを拾い、膝で歩いて雨宮に近付く。

「これ……」

 恐る恐るメガネを差し出すと、雨宮はようやく顔を上げた。

「……っ」

 こちらを向いた雨宮は、もちろんメガネをしていなくて。
 露わになった顔の完成度は、想像以上のものだった。
 な、何この…恐ろしく整った顔は……。
 私は思わず唾を飲み込む。

 まさに"王子"というあだ名がぴったり当てはまるような、中性的な顔立ち。
 ツンと尖った鼻先、控えめで血色のいい唇、白くて透けそうな肌。
 こちらを睨みつける、長いまつ毛に囲われたばっちり二重の大きい目。

 それぞれのパーツ全てが憎たらしいほど整っているけれど、なにより印象的なのは、瞳だ。
 少しの濁りもないその瞳は、不思議な色をしている。
 茶色?グレー?なんか、キラキラしてる?
 私は吸い込まれるかのように、雨宮の瞳を覗き見た。──すると。

「……え」

 信じがたい出来事が、目の前で起こって。
 私は言葉を失った。
 思わず目を見開いたけれど、大きくな目で見たところで、やっぱりその光景は信じられない。

 じわっ……ぽとり。

 不思議な色の瞳から透明の液体が滲み出て、それが雨宮の頬を滑り落ちていったのだ。
 あまりの衝撃に、私はメガネを差し出した状態のまま凍りつく。

 な、な……涙!?
 動けなくなった私とは裏腹に、雨宮の瞳は火がついたようにポタポタ涙を落としていく。
 ど、どういうこと……

 瞬きするのを忘れていた私が、ようやくパチパチと繰り返した時。
 バッとすごい勢いで、私の手からメガネが奪い取られた。

「……誰にも言うなよ」

 そして今にも消えてしまいそうな声が聞こえたかと思うと。
 雨宮はあっという間に走り去ってしまった。小さくなった雨宮の背中が闇の中に消えていくのを、私は静かに見届ける。
 それはそれは、本当に一瞬の出来事だった。

 一体……なんだったの…………?
 しゅるしゅる……と、穴の空いた風船のように力が抜けた私は、そのままペタンと、地面に座り込んだ。

 今雨宮、泣いてた……?