『話は三週間ほど前に遡る――』
『狩りの途中で道に迷ったヤハギ王子は、どこからともなく聞こえてくる美しい歌声に馬を止めた』

 満員御礼、立見席まで設けられた二年C組の劇『白雪姫』、午後の部である。
 脚本家兼監督である遠藤の『白雪姫エピソード0作戦』が遂行される中、とりあえずは『親友』よりもワンランク上、『恋人』ポジションに王手をかけた状態との自覚はあるヤハギ王子は、己の内にある勇気の欠片を片っ端からかき集めていた。

 夜宵はさっき「しても良いよ」って言ってた。
 親友以上だとも言ったし、ずっと一番でいてくれるとも言ってた。
 
 そう何度も言い聞かせ、ダンボール製の棺の縁をぎゅっと握る。

 本人からのOKが出ている以上、「やっぱヤダ」なんて展開にはならないはずだ。頭ではわかっている。したい気持ちもある。だから、いま躊躇っているのは、もう純粋に恥ずかしいだけなのである。

 と。

 やはり動いたのは夜宵からだった。
 午前の部と同じように、そっと王子衣装の襟を掴んで、引き寄せる。目をうっすらと開け、まっすぐに矢萩を見つめた。

 いいよ

 唇の動きだけでそう言う。
 
 声を出しても聞こえないはずだ。
 何せいまは遠藤(DJポリス)のリサイタル真っただ中である。

 けれども、声は出さずに、微かな口の動きだけでそう告げる。それを受けた矢萩は、ぐっと下唇を噛んで小さく頷いた。縁にかけていた手を棺の中に入れ、上半身を全部突っ込むような姿勢になる。客席からはどよめきが起こった。明らかにスマホのものではないシャッター音が鳴り響き、記者会見のようなフラッシュが浴びせられる。さすがの遠藤も歌っている場合ではない。

 これはさすがにやったな。

 客席の誰もが思った。
 遠藤もそう思いかけた。
 けれど、これまでの二人を思い返し、「まぁやったとしてもせいぜい頬か額だろうな」と、期待しそうになる自分を落ち着かせた。

 せいぜい頬か額、という遠藤の読みは一応当たってはいた。

 矢萩がしたのは、額へのキスだったのである。
 やはり最後の最後で日和ったか、というと――、そういうわけではない。

「……萩ちゃん?」

 嬉しさも当然あるけれど、それでも少しだけ残念な気持ちで、夜宵はそっとその名を呼んだ。顔が熱い。心臓の音がうるさい。目覚めのキスが終わったのなら、息を吹き返したことにして起き上がらなくてはならないのに、目の前の王子様はまだ、真っ赤な顔のまま、何やら言いたげな表情で自分を見下ろしている。

「好き」

 その二文字を吐き出すと、矢萩は大きく息を吐いて、夜宵の肩の辺りに頭を乗せた。

「夜宵は?」

 その状態で、ぽつり、と言う。ふわふわと柔らかい猫っ毛を優しく撫で、夜宵もまた「僕も、萩ちゃんが好き」、と震える声でそう返した。

 くぅぅ、だか、きゅぅぅ、だか、とにかく喉の奥からそんな声を絞り出して、矢萩は顔を上げた。喜びに緩む頬をぐっと引き締めつつ、夜宵の背中に手を回し、ゆっくりと起き上がらせながら耳元で「あとでちゃんとキスさせて」と囁く。言った矢萩も、頷いた夜宵も、救急車が必要になるほどの赤面である。さすがにこの密やかなやりとりまでは伝わっていないものの、まるで初夜でも済ませたかのように照れている王子と姫を、観客達は割れんばかりの歓声と拍手で祝福した。

 ハッピーエンド請負人・遠藤が「まぁどうせほっぺかデコチューだろうな。でもこの二人にしては――」などと高を括っていたその裏で、彼が思っている以上の駒を進めていた矢萩と夜宵であった。この二人だってやる時はやるのだ。

 その初々しい二人が誓いのキスを交わしたのは、南城・神田家合同夕食会の時である。両家の家族がやんやと盛り上がる中、その場をこっそり抜け出した主役達は、その喧騒をBGMにひっそりと唇を重ね合わせた。場所は夜宵の部屋だった。


 文化祭初日が終わり、「白雪姫(この劇)でも駄目なら、あとはもうクリスマスに賭けるしかない」、そんな決意を胸に文化祭二日目を迎えた遠藤は、カップル成立した二人のラブラブな空気を察知して感涙に噎び、過呼吸を起こして保健室に運ばれることとなるのだが、それはまた別の話である。