パァン、とピストルが鳴る。
それを聞いて、選手が一斉に走り出す。俺は当然のようにトップだ。はっはっは。耳をすませば、萩ちゃぁん、頑張って! なんて夜宵の応援が聞こえてくる。幻聴か? とも思ったが、声の方を見れば、同じA組の紺野那由多と一緒に両手を口元に当てて、声の限りに叫んでいる夜宵が見えた。おう任せろ、俺はお前の応援さえあればここからフルマラソンだって行けるんだ。まぁ、敵チームなんだけど。
ていうか、アイツ、そんな大声で敵を応援して大丈夫か?!
なんていまはそこまで心配している場合ではない。遠藤のやつ、一体どんな札を用意しやがった。
飛ばされないよう養生テープで机に貼り付けられていた札をべりりと剥がし、どれ、とひっくり返す。そこに書かれていたのは――、
「んなぁっ?!」
『大切な人』
た、たたた大切な人、って……?!
ちら、と応援席を見る。そこにいるのは、俺を一生懸命応援してくれている夜宵だ。
ウチの学校の体育祭は『祭』と銘打っているものの、授業の一環であるため、特に保護者を招待したりはしていない。まぁ、見に来る分には自由なんだけど、そもそもド平日だし、余程のもの好きしか来ない。ウチの両親も夜宵のトコも来ていない。はずだ。だから、『大切な人』なんてお題なら、まぁ、友人、ということになるだろう。いや、恩師とかでも良いんだろうけど。
俺の大切な人なんて、どう考えたって一人しかいない。例えこの場に両親がいたとしても、だ。
うだうだと悩んでいる間に村井が追い付いて、札を見、「はあぁ?!」と声を上げている。おい、お前の方はなんて書いてあるんだ。
なんて確認している場合ではない。ちらっと視界に『愛』という文字が飛び込んできたが、そこは一旦見ないふりだ。そんな場合じゃない。
だって、一位取るって約束したもんな。
俺はピンクのはちまきを引っ掴んで駆け出した。
そこまで離れてるわけではないが、それはそれはもう全速力で走った。もうもうと土埃を上げて自分の方へ向かってくる俺の姿を見て、夜宵は目を丸くしている。ざぁ、っと急ブレーキをかけて、ぽかんとしている夜宵に向かって手を伸ばす。呼吸が乱れる。心臓が苦しい。
「萩ちゃんどうしたの? 何? 僕、何か貸せば良いの? やっぱり眼鏡?!」
などと言って、あわあわと眼鏡を外そうとするその手を取る。
「ちょ、来て」
「は?」
よく考えたら、この反応は間違いではないのだ。何せ、借り物が『人』というのはさっき走者にだけ知らされた情報なのである。昨年は普通に『物』だった。だってこれ『借り物競争』だしな?
「はぁ、あ、足」
「あ、足?」
呼吸が乱れて、短い言葉しか発せない。けれど、右足を出してピンクのはちまきを見せると、賢い夜宵はすぐに俺の言わんとしていることを理解してくれたらしい。わかった、と言って左足を出してきた。それをはちまきでキュッと結ぶ。うわ、二人三脚ってこんなに密着するもんなのか。
「よし、行くか」
やっと呼吸が整い始め、ふぅ、と大きく息を吐く。
「だけど、僕、萩ちゃんの速さにはついていけないと思うよ」
「全力で走らねぇから大丈夫! ちゃんと合わせるから。せーの!」
と、大きく一歩踏み出した。その時である。
「どわぁっ!?」
「わ、わわわ!」
ものの見事にかみ合わなかった。
嘘だろ、俺達、大親友じゃん?! ベストコンビじゃん!? こんなに息合わないことある?!
バランスを崩して、同時に前方に倒れる。俺は両手をついて顔面直撃は免れたが――、
「痛たた……。ごめん、萩ちゃん」
「大丈夫か、やよ……夜宵! お前! 顔、顔!」
「え? 顔がどうかした? ちょっと打ったけど大丈夫だよ?」
どうやら夜宵の方は一歩間に合わなかったらしい。夜宵のきれいな頬は汚れ、軽くすりむいてしまっている。うっすらと血がにじんでいた。それを大丈夫大丈夫とごしごしと擦る。あああ、バイ菌が入るからやめろやめろ。
「あああ……ごめん、俺が焦ったから」
「大丈夫だよこれくらい。僕も出す足を確認するの忘れてたし」
それじゃ、こっちの足からにしようか、と夜宵は俺の左足――はちまきで括っていない方を指差した。わかった、と頷いて、仕切り直し、と立ち上がる。
と。
夜宵が括っている方の左足をぴくりと強張らせた。さりげなく顔を見ると、眉間にしわを寄せ、軽く下唇を噛んでいる。おい、もしかして捻ったとかじゃねぇだろうな。
「夜宵、何か足変じゃねぇか?」
「え? そんなことないよ。大丈夫。ほら、早くしないと出遅れちゃうよ」
急ご? と微笑みかけて来るが、それもどう見たって痛みを堪えている顔だ。俺にはわかる。夜宵はこういう時、絶対に俺を優先する。それも知ってる。
ええい、くそ。
腰を落として、足首に結んだはちまきを手早く解く。
どうしたの? と不安気に俺を見下ろす夜宵をギッと睨んで、一言「ごめん!」と謝ってから、了承も得ずに横抱きにした。つまりは、お姫様抱っこだ。遠藤は言ったのだ。相手が走れない場合はお姫様抱っこでも可、と。
「え? ちょ、萩ちゃん?!」
「揺れるからしゃべんな! 舌噛むぞ!」
「そ、それは萩ちゃんもおな、同じなん、じゃ……!」
「スピード上げるから、マジでしゃべんな!」
いくら夜宵が軽いと言っても、それはあくまでも男子高生としては、というだけであって、身長もあるし、筋肉だってそれなりにある。六十キロくらいはあ……いや、ねぇな、確実に。細っそ。
かなり時間もロスしたと思うし、さすがに約六十キロを抱えて全力疾走出来るわけもないので、一位は無理かもと思ったが、意外なことに俺以外の走者は皆、借り物札のところで何やら悩んでいる。おいおいおい、一体何が書かれてたんだよ。あとで村井の見せてもらお。あいつの『愛』だけ見えたんだよな。何だろ、『愛している人』? それくらいしか浮かばないが、だとしたら厳しいよな。ここ男子校だし。友情的な意味の『愛』でも良いんだろうか。ていうか、それ引かなくて本当に良かった。『大切な人』よりも説明に困る。
「行けぇぇぇぇ、南城ぉぉぉぉぉっ!」
「ヒューッ、カッコいいぜー! 矢萩ー!」
野郎の野太い応援が聞こえる。
うるせぇうるせぇ仕方ねぇだろ、夜宵怪我してんだよ! これ終わったら保健室直行するからな!
「萩ちゃん、ごめ、ごめん! なんか、僕のせいでっ」
「良いから! 夜宵は気にすんな!」
「重いでしょ? 僕、走れるし」
「重くねぇ! 何のために鍛えてると思ってんだっ!」
「な、何のため……?」
「っこ、こういう時にっ、お前抱えて走るために決まってんだろっ!」
うおおおお、と約二百メートルを走り切り、ぶっちぎりの一位でゴールした俺は、近くにいた先生に事情を話してそのまま保健室へと向かった。
「あ、あの、萩ちゃん。もう下ろしても良くない……?」
「いーや、駄目だ。ここまで来たら、これで保健室まで行く」
「そんなぁ……」
「だいたいな、何で我慢しようとすんだよ。あのまま走ってたら、悪化してたんだぞ」
「だって、萩ちゃんの足手まといになると思ったし。一位取るって言ってたから」
「そんなの、どうだって良いんだって。夜宵の足の方が大事に決まってんだろ」
「……ありがと」
あの、でもせめておんぶにしてくれないかな、と泣きそうな顔で懇願され、玄関で靴を履き替えるタイミングで、しぶしぶおんぶに切り替えた。まぁ、こっちの方が楽ではあるんだけど。あるんだけど。
それを聞いて、選手が一斉に走り出す。俺は当然のようにトップだ。はっはっは。耳をすませば、萩ちゃぁん、頑張って! なんて夜宵の応援が聞こえてくる。幻聴か? とも思ったが、声の方を見れば、同じA組の紺野那由多と一緒に両手を口元に当てて、声の限りに叫んでいる夜宵が見えた。おう任せろ、俺はお前の応援さえあればここからフルマラソンだって行けるんだ。まぁ、敵チームなんだけど。
ていうか、アイツ、そんな大声で敵を応援して大丈夫か?!
なんていまはそこまで心配している場合ではない。遠藤のやつ、一体どんな札を用意しやがった。
飛ばされないよう養生テープで机に貼り付けられていた札をべりりと剥がし、どれ、とひっくり返す。そこに書かれていたのは――、
「んなぁっ?!」
『大切な人』
た、たたた大切な人、って……?!
ちら、と応援席を見る。そこにいるのは、俺を一生懸命応援してくれている夜宵だ。
ウチの学校の体育祭は『祭』と銘打っているものの、授業の一環であるため、特に保護者を招待したりはしていない。まぁ、見に来る分には自由なんだけど、そもそもド平日だし、余程のもの好きしか来ない。ウチの両親も夜宵のトコも来ていない。はずだ。だから、『大切な人』なんてお題なら、まぁ、友人、ということになるだろう。いや、恩師とかでも良いんだろうけど。
俺の大切な人なんて、どう考えたって一人しかいない。例えこの場に両親がいたとしても、だ。
うだうだと悩んでいる間に村井が追い付いて、札を見、「はあぁ?!」と声を上げている。おい、お前の方はなんて書いてあるんだ。
なんて確認している場合ではない。ちらっと視界に『愛』という文字が飛び込んできたが、そこは一旦見ないふりだ。そんな場合じゃない。
だって、一位取るって約束したもんな。
俺はピンクのはちまきを引っ掴んで駆け出した。
そこまで離れてるわけではないが、それはそれはもう全速力で走った。もうもうと土埃を上げて自分の方へ向かってくる俺の姿を見て、夜宵は目を丸くしている。ざぁ、っと急ブレーキをかけて、ぽかんとしている夜宵に向かって手を伸ばす。呼吸が乱れる。心臓が苦しい。
「萩ちゃんどうしたの? 何? 僕、何か貸せば良いの? やっぱり眼鏡?!」
などと言って、あわあわと眼鏡を外そうとするその手を取る。
「ちょ、来て」
「は?」
よく考えたら、この反応は間違いではないのだ。何せ、借り物が『人』というのはさっき走者にだけ知らされた情報なのである。昨年は普通に『物』だった。だってこれ『借り物競争』だしな?
「はぁ、あ、足」
「あ、足?」
呼吸が乱れて、短い言葉しか発せない。けれど、右足を出してピンクのはちまきを見せると、賢い夜宵はすぐに俺の言わんとしていることを理解してくれたらしい。わかった、と言って左足を出してきた。それをはちまきでキュッと結ぶ。うわ、二人三脚ってこんなに密着するもんなのか。
「よし、行くか」
やっと呼吸が整い始め、ふぅ、と大きく息を吐く。
「だけど、僕、萩ちゃんの速さにはついていけないと思うよ」
「全力で走らねぇから大丈夫! ちゃんと合わせるから。せーの!」
と、大きく一歩踏み出した。その時である。
「どわぁっ!?」
「わ、わわわ!」
ものの見事にかみ合わなかった。
嘘だろ、俺達、大親友じゃん?! ベストコンビじゃん!? こんなに息合わないことある?!
バランスを崩して、同時に前方に倒れる。俺は両手をついて顔面直撃は免れたが――、
「痛たた……。ごめん、萩ちゃん」
「大丈夫か、やよ……夜宵! お前! 顔、顔!」
「え? 顔がどうかした? ちょっと打ったけど大丈夫だよ?」
どうやら夜宵の方は一歩間に合わなかったらしい。夜宵のきれいな頬は汚れ、軽くすりむいてしまっている。うっすらと血がにじんでいた。それを大丈夫大丈夫とごしごしと擦る。あああ、バイ菌が入るからやめろやめろ。
「あああ……ごめん、俺が焦ったから」
「大丈夫だよこれくらい。僕も出す足を確認するの忘れてたし」
それじゃ、こっちの足からにしようか、と夜宵は俺の左足――はちまきで括っていない方を指差した。わかった、と頷いて、仕切り直し、と立ち上がる。
と。
夜宵が括っている方の左足をぴくりと強張らせた。さりげなく顔を見ると、眉間にしわを寄せ、軽く下唇を噛んでいる。おい、もしかして捻ったとかじゃねぇだろうな。
「夜宵、何か足変じゃねぇか?」
「え? そんなことないよ。大丈夫。ほら、早くしないと出遅れちゃうよ」
急ご? と微笑みかけて来るが、それもどう見たって痛みを堪えている顔だ。俺にはわかる。夜宵はこういう時、絶対に俺を優先する。それも知ってる。
ええい、くそ。
腰を落として、足首に結んだはちまきを手早く解く。
どうしたの? と不安気に俺を見下ろす夜宵をギッと睨んで、一言「ごめん!」と謝ってから、了承も得ずに横抱きにした。つまりは、お姫様抱っこだ。遠藤は言ったのだ。相手が走れない場合はお姫様抱っこでも可、と。
「え? ちょ、萩ちゃん?!」
「揺れるからしゃべんな! 舌噛むぞ!」
「そ、それは萩ちゃんもおな、同じなん、じゃ……!」
「スピード上げるから、マジでしゃべんな!」
いくら夜宵が軽いと言っても、それはあくまでも男子高生としては、というだけであって、身長もあるし、筋肉だってそれなりにある。六十キロくらいはあ……いや、ねぇな、確実に。細っそ。
かなり時間もロスしたと思うし、さすがに約六十キロを抱えて全力疾走出来るわけもないので、一位は無理かもと思ったが、意外なことに俺以外の走者は皆、借り物札のところで何やら悩んでいる。おいおいおい、一体何が書かれてたんだよ。あとで村井の見せてもらお。あいつの『愛』だけ見えたんだよな。何だろ、『愛している人』? それくらいしか浮かばないが、だとしたら厳しいよな。ここ男子校だし。友情的な意味の『愛』でも良いんだろうか。ていうか、それ引かなくて本当に良かった。『大切な人』よりも説明に困る。
「行けぇぇぇぇ、南城ぉぉぉぉぉっ!」
「ヒューッ、カッコいいぜー! 矢萩ー!」
野郎の野太い応援が聞こえる。
うるせぇうるせぇ仕方ねぇだろ、夜宵怪我してんだよ! これ終わったら保健室直行するからな!
「萩ちゃん、ごめ、ごめん! なんか、僕のせいでっ」
「良いから! 夜宵は気にすんな!」
「重いでしょ? 僕、走れるし」
「重くねぇ! 何のために鍛えてると思ってんだっ!」
「な、何のため……?」
「っこ、こういう時にっ、お前抱えて走るために決まってんだろっ!」
うおおおお、と約二百メートルを走り切り、ぶっちぎりの一位でゴールした俺は、近くにいた先生に事情を話してそのまま保健室へと向かった。
「あ、あの、萩ちゃん。もう下ろしても良くない……?」
「いーや、駄目だ。ここまで来たら、これで保健室まで行く」
「そんなぁ……」
「だいたいな、何で我慢しようとすんだよ。あのまま走ってたら、悪化してたんだぞ」
「だって、萩ちゃんの足手まといになると思ったし。一位取るって言ってたから」
「そんなの、どうだって良いんだって。夜宵の足の方が大事に決まってんだろ」
「……ありがと」
あの、でもせめておんぶにしてくれないかな、と泣きそうな顔で懇願され、玄関で靴を履き替えるタイミングで、しぶしぶおんぶに切り替えた。まぁ、こっちの方が楽ではあるんだけど。あるんだけど。