夕里は冷蔵庫から上等な模造紙で包まれた贈答用のゼリーを、紙袋に入れて茅野に手渡す。

「かやのやの惣菜もらったから。これでお返し。母さんこういうのはしっかりしてるし……」

2人では消費しきれないほどの惣菜は、千里と母親のお弁当のおかずになった。

もらいものだと話すと、律儀にお返しの品を用意していたのだ。

「夕里のお母さんっていつも家を空けてるの?」

「大体、日付が変わる頃に帰ってくる。あの人、今は仕事が恋人らしいから」

玄関へと続く短い廊下を歩きながら、茅野の問いに答える。

「……大変だな」

「母さんが? でも全然疲れた顔なんてしてなくて、むしろ生き生きしてて……」

「夕里と弟くんがだよ」

「えっ?」

家庭の事情を話すと、いつも返ってくるのは「お母さん、大変そうだね」という台詞だったのに。

むしろ大変なのは茅野のほうだと思う。実家のお弁当屋の手伝いにくわえて、兄弟達の面倒を見ているのだ。

つくり置きの夕食すら1人で温められず、自分自身の世話もしきれていない夕里には遠い存在だ。

大変だな、というのは千里だけに向けられるべき言葉で、自分なんかがかけられていい言葉じゃない。

「夕里が偏食していることと関係あったりする?」

「あー……うん。多分、そうだよ」

夕里は歯切れ悪く、曖昧に肯定する。

まだ小学生にもなっていないときの記憶なので、つぶさには覚えていないのだ。

一度緩んだ蝶々結びのように、するすると綻びが解けて言葉になる。

「小さい頃……1週間くらい? かな。どうしても休めない仕事がある、って言って母さんが出ていって。父さんもそれなりに上の立場だったし、急には休めなくて」

昔から気の強い彼女に振り回されて折れてきたから、そのときも当たり前のように父のほうが育児休暇やら有給休暇やらを使って、夕里の面倒を見てくれると思ったのだろう。

千里は風邪を引いて熱があるとかで、保育園には預けられず、祖母の家で過ごしていた。

夜になっても明日の朝になってもまた夕方がきても、家族は帰って来なかった。

寂しさと空腹が膨らんで、夕里はそれを満たすためにコップに水道水を汲んで飲み干した。

空腹であることには変わりなく、お腹は勝手にきゅるきゅると鳴いて何か口に入れろ、と命令されているみたいだ。

おやつに取り置きしておいたクッキーやポテトチップスは、もうとっくにストックを切らしていて食べられそうなものは何もない。

次に試してみようと思い立ったのは、そこそこの量を買いだめしてある調味料だ。

どれも味は外れで、まともに空腹を癒せない。

水道水で薄めてみてようやく美味しいと思えたのは、コーヒーに加糖するために買い置きしていたスティックシュガーだった。

「俺もあんまり記憶に残ってないんだけど……親が言うには、どっちも俺が保育園か実家に預けられてるって思い込んでたみたいで。お腹が空いたら甘いもの食べてたのだけは覚えてる。その後は母さんが怒りまくってさ、父さんとは別居して俺達引き取って仕事に励んでるよ」

両親がいない間、砂糖水だけで空腹をしのいでいた夕里は栄養失調だと診断されて、しばらく固形の食べ物を受けつけなかった。

本人が食事を拒否しているため、点滴で栄養を補給する入院生活が続いた。

家で1人きりだった寂しさを紛らわせる甘い味が、どうしても忘れられずにずっと舌の上にこびりついている。

「……自分勝手な親だな」

「うん。でも俺がもっとしっかりしてたら、留守番くらい出来たと思うし、母さんか父さんに電話でもかければよかったなぁ、って」

「記憶に残ってない、ってことは、小学生にもなってないような時期だろ。1人で留守番なんて無理がありすぎる」


──こういうときは、俺の味方してくれるんだ。


オチなんてなくてすっきりもしない、笑い話として扱うのもどうかと困る微妙な思い出話を、茅野は最後まで聞いてくれた。

両親について悪くは言わなかったけれど、それでも決していい顔をしていなくて、ただただ不快感を募らせているようだった。

「茅野の家は自営業だからいいよな。時間関係なく親に会えるし、将来職には困らないし」

「自由だけどある意味不自由だよ。朝5時から仕込みが始まるし、仕事帰りのお客のために10時まで営業してるし。途中で米が足りなくなって、買いに行かされたのなんて数えきれないくらいある」

「うわ、それはきついかも」

お互いに全く似ない家庭環境で羨ましく思う部分もあるけれど、やっぱり反り合うのは親についての愚痴だ。

「何か俺、茅野みたいなイケメンは毛嫌いしてたけど……別に、友達として付き合ってやってもいいかなー……って」

「友達として? 何言ってんの。夕里、俺のこと好きでしょ?」

「え、え? そっちこそ何言ってんだよ。いくらイケメンだからって自惚れるなよ、バカ」


「だって、好きじゃなかったらもっと俺に無関心なはずでしょ。何かにつけて俺のクラスに来て睨んだり、嫌いなやつの体操着なんて借りないだろ。俺だったらしない」


──いやいや、茅野に対する俺の態度は、好きな子に対するのじゃないから!


もし好きな子がいるとしたら、じっと見つめて凄んだり、私物を軽々しく貸して、なんて言わない。

優しくしたり、好きな子の好きな話や趣味の話をして、「じゃあ、今度遊びに行こう」ってデートに誘って。

……まともにそこまで辿り着いたことなんて、1回もないけれど。

「い……嫌がらせだし!  か、勘違いすんなよ! 好きな子困らせるって。小学生じゃないんだし……」

「ふーん。じゃあ、俺も夕里に嫌がらせしていい?」

「な……何だよそれ……っ」

一気に距離を詰められて、運動神経のいい夕里も咄嗟には身体を引けなかった。

腰にするりと腕がまわされて、自由に動けない不自由さに脳内で危険信号が点滅している。

口だけは威勢のいい夕里を「煩い」と叱る代わりに、実力行使で茅野は黙らせる。

まさか。本当に。
その先のことは経験のない夕里でも容易に想像出来た。


──どんな、感触なんだろう。キスって……気持ちいい?


男同士だとか好きかどうか分からない相手だとか。そんな事情なんて飛び越して……期待してしまう。

距離を取ることも忘れて、夕里はぎゅっと目を瞑った。


──むかつく。嫌がらせに嫌がらせ被せられて、全然、どうすればいいか分かんない。


触れられたのは唇じゃなくて、頬だった。

「夕里可愛い。やっぱり俺のこと好きじゃん」

「き、嫌い! お前なんか好きじゃないから!」

これ以上何かされないように手の甲で唇を覆いながら、したり顔で余裕綽々にしている茅野を睨む。

「顔真っ赤にして、説得力ないよ?」

「う、う……うるさいっ!」

すっかりからかわれ、夕里はわんわんと騒ぎ立てた。夕里が煩くすると、茅野はもっと得意そうにする。

「すっごく意識してくれてるじゃん。嬉しい」

「俺は嬉しくない! 茅野のことなんか、何とも思ってないしっ」

地団駄を踏む夕里を笑いながら、茅野はじゃあな、と土産袋を持った手を振って出ていく。

「舜君帰ったの? というか、お兄ちゃん……床に伸びてどしたの」

「……きゅんきゅんなんか……してないからな。絶対っ」

「……はい? ふざけてないで後片付け手伝ってね、バカ兄貴」

茅野が帰ったことを確認すると、千里は被っていた健気で面倒見のいい弟の仮面を自ら剥いで、いつものツン全開の姿に戻る。

数分間のうちに起こった現実が受け入れられなくて、夕里は冷たいフローリングの上でしばらく身悶えていた。